FAO日本事務所の6年

 

FAO日本事務所が1997年に開設されてから既に6年が経過した。6年という年月はそれまでの経過を振り返り、点検・評価をしてみるのに十分な区切りであろう。従って、この際、FAO日本事務所が開設されてから現在に至るまでどのような問題に直面し、どのような経過をたどってきたかまとめてみたいと思う。FAOの枠組みの中であり、また、さらに日本事務所という限定された機関のことではあるが、国連組織がどのような考え方と仕組みで貧困と飢餓からの解放に取り組んでいるか実際の経験を通してご理解いただけると思う。また、将来、国連機関で働いてみたいと思う人にとっても興味ある内容になるよう、取りまとめてみたい。

                                 2004年

高橋 梯ニ

                                前FAO日本事務所長    

FAO日本事務所の開設(その1)

1 日本事務所開設の背景

日本事務所の開設に関して、まず、FAOの地方組織について説明しなければならない。FAOはローマの本部のほか、世界を アフリカ、近東、ヨーロッパ、アジア・太平洋及びラテンアメリカ・カリブの5つに区分し、それぞれの地域に地域事務所を設けるほか、主要な開発途上国には国別事務所を配置して、開発途上国の農業開発に対する支援を行っている。さらに、国連本部があるニューヨークとILOWHOなど多くの国連機関があるジュネーブにそれぞれ事務所を設置して国連機関との連絡・調整事務を行わせている。

このほか、先進国(ドナー国)との連携を保つ唯一の地方組織としてワシントンに事務所を設け、アメリカ及びカナダとの連携強化を図ってきた。FAOは1945年にカナダのケベックの会議で設立されたが、当初本部は、ワシントンにあった。1951年にローマに移転することになったが、移転に際し、ワシントンに北米担当事務所を設置し、アメリカ及びカナダとの緊密な連携・連絡機能を残しておくこととしたものである。当時は、アメリカの国力と国際問題に対する影響力は絶大であり、アメリカに事務所を設置する必要性は大きかったと思われる。

3期18年事務局長を務めたサウマ氏の後を受け、ディウフ事務局長が就任した1994年は51年当時とは事情が大きく変わっており、また、18年前とも様相を異にしていた。日本は、当時バブルがはじけたとはいえ、1994年ではODAの額は130億ドルを超え、アメリカのほぼ90億ドルを大きく引き離していた。さらに国連分担金の分担割合はアメリカの20%に近づきつつあった。

また、当時、先進国からFAOは従来開発途上国に傾斜しすぎているとの批判もあり、アメリカは、FAOに対し多少距離を置く兆しも見せていた。ディウフ事務局長の新体制のFAOは、先進国に対する配慮を強めなければならない事情にもあった。

また、ディウフ事務局長は、就任早々、事務局長選挙の公約でもあったFAOの事務体制の合理化と効率化を推進し、特に、より現場に近い業務が行えるよう地方組織への権限の委譲と人員の配置換えを進めた。遠く離れ、文化も異なる日本に事務所を設置するのも現場に密接した業務の遂行という方針と一致するものであった。

以上が、ディウフ事務局長が就任してから比較的早い段階で、日本とEC対応の事務所を新たに設置することを決断した背景であろう。

しかし、二つの事務所を新たに設置するのは、予算に関係することなので、FAOの決定機関(Governing bodiesといわれる。)である理事会及び総会にかけ、加盟国の承認を得る必要があった。アメリカなどの加盟国の一部は、国連のスリム化が要請されているのに、新たに2つの事務所を設けることに必ずしも賛成でなかったと聞いている。

日本事務所の新設は1996/1997年度予算・事業計画案(FAOは2年単位の予算制度を採っている。)に盛り込まれ、1995年の理事会及び総会に諮られ了承された。予算事・業計画では、日本事務所の組織は、所長、連絡・調整官及び秘書の3人であった。

                 主要国のODAの推移

      資料: 外務省ODA白書1998

2 日本事務所の性格と任務

 日本事務所は、FAO事務局長を代表して、日本政府、在日国際機関及びその他の日本の機関との連絡・調整に当たることである。従って、本部直轄であり、地域事務所の指揮下にはない機関である。所掌する地域は日本のみである。

主な任務は、日本の政府、非政府組織、民間、一般市民の世界の飢餓に対する認識とFAOの活動に対する理解を深めることであり、それをベースとしてFAOを始め国際社会の貧困と飢餓軽減の努力に対する日本からの参加と協力を促進することである。また、FAOを代表して、日本で行われる国際会議に出席し、さらに、在日国際機関との連絡・調整にあたることである。日本事務所のこれらの任務については、1997年6月のFAOと日本政府との書簡の交換によって確認されている(別紙参照)。

日本事務所の資金、財産及び職員は、国連専門機関の特権に関する条約に基づき、外交特権が与えられている。長い間この外交特権を意識してこなかったが、2002年中国での日本領事館の敷地内への北朝鮮人亡命の問題が生じたとき、外交の特権の具体的内容を確認したところ、日本事務所は大使館と同様不可侵であり、事件が起きた場合その権利を適切に行使しなければならない。また、日本事務所の書類等については、原則として、日本の税務調査やその他当局の閲覧要求に応じてはならないということであった。

3 日本事務所長の採用

1995年の暮れになって、FAO本部は、所長の候補者の推薦を日本政府に依頼してきた。所長の資格要件としては開発途上国問題など国際問題に関する経験が深いこと、英語以外にもう一ヶ国語国連公用語ができることであったという。(FAOでは2003年から日本人に対しては2ヶ国語の条件についてウエーバーが正式に認められ、一ヶ国語のみでよいことになった。)所長の職種はD2、部長クラスという提示がFAOからあった。

参考         国連職員の職種

国連では、職種は大別して専門職(Professional Staff)と一般職(General Service Staff)に区分される。専門職は、大学卒、位が高くなると修士以上が要求され、その専門に応じた国連の業務を遂行できる能力をもつ者で、国連公用語が2ヶ国語できるのが望ましいとされている。Pで表示され、P1からP5まであり、数字が高いほど位が上である。また、一般職は、主として専門職の業務をサポートする役割であり、高卒以上、国連公用語1ヶ国語が要求される。女性が多い。Gで表示され、G1からG7まである。

この他、専門職の一形態と思われるが、幹部職がありD1及びD2がある。DDirectorの略である。D1は課長、D2は部長クラスである。この上に、局長クラス及び次長クラスがあり、FAOの場合は、それぞれADGAssistant Director- General)、DDG(Deputy Director-General)と呼ばれるが、国連機関によって呼び名が異なる(主な理由は国連機関の長の名が異なること)。専門職の採用に当たっては国際的に公募する必要がある。しかし、D以上の採用については公募方式が必ずしも義務となっていない。

以上のクラスわけに応じて国連諸機関はすべて同一の給与体系となっている。従って、俸給表(勤務国の物価等に応じて調整する。)は、国連本部が作成する。

 

私は、かねてよりFAOでの勤務の希望を出していたこともあり、また、諸先輩や国会議員の推薦もあり、候補者リストに載せてもらうことができた。日本政府は1996年の早い段階で候補者リストをFAOに提出したと思われるが、その年の11月に開催される世界食料サミットの準備で忙しいこともあったと思われ、1996年中はFAOからさしたる反応はなかった。

1997年になり、日本事務所の仕事の領域や内容からして所長は日本人であるべきと考えた政府は、農林水産省の高官が私を引率してローマに行き、ディウフ事務局長と直接面会することが適当と判断し、1997年春ローマを訪問した。面会はディウフ事務局長の部屋で行われ、先方は事務局長しかいなかったが、実質上の面接であった。この面接では経歴についてはフランス語で、今までの仕事については英語で、行われた。40分程度であったと思う。

面接の後、しばらくして、ディウフ事務局長は、事務方に所長採用の手続きを早急に進めるよう指示を出した。また、6月には日本政府との書簡の交換により、日本事務所及び職員が国連専門機関特権条約に基づき外交特権が認められるべきことや日本事務所の任務などについて確認が行われた。また、かねてより、横浜市の誘致に応じて日本事務所を横浜みなとみらいに設置することとしていたので、7月に横浜市とも書簡の交換を通じて、家賃、光熱費、事務所の初期設備費は横浜市が負担することなどの確認が行われた。

かくして、所長の採用は9月6日と決められ、採用と同時に日本を発ち、ローマ本部で約一ヶ月に及ぶ研修を受けることなった。それは、所長が今までFAOを経験したことがないという理由によるものであった。研修を終え、バンコックのFAO地域事務所に2日滞在して、日本に帰ったのは10月初旬である。日本事務所の設置が決まってからほぼ2年が経過していた。

4 日本事務所の開所式

1997年10月17日に日本事務所の開所式が、矢野農林水産政務次官、高秀横浜市長、松本日本FAO協会理事長、外務省(及び農水省)担当課長、FAO本部からベルクイユ社会・経済局部長などの出席のもとに行われた。開所式についてはNHKニュースで放映された。

 開所式が終了し、早急に取りかからなければならなかったのは、事務所の体制整備である。開設の時点で職員は所長とJA全中から出向していた次長のみであった。とりあえずアルバイトを探し、事務の補助をしてもらったが、経験もあり、英語の能力も十分な一般職をすぐにも採用する必要があった。また、資金の出し入れのための会計方式の確定とローマ本部と交信するための事務所のコンピュータシステムの構築も急務であった。

5 一般職(秘書)の採用

 日本には現在約30の国際機関の日本事務所があり、そのうちの19が国連機関の日本事務所である。これらの国連機関には2003年時点で64人の一般職の人が働いている(国連機関全体では90人の日本人一般職)。労働市場としてそれほど大きくはないが、参考のために採用の経過と方式を説明しておきたい。

 1997年9月のローマ本部での研修中に日本事務所に採用すべき一般職の仕事の具体的内容と資格条件を記載したPost-descriptionと呼ばれるペーパーを作成した。公募の際に使用するものである。FAO日本事務所はG5で秘書であった。資格要件は、高卒以上、英語が最上級水準(cレベル)、英文タイプが1分間に50語以上、英文聞き取り速記が1分間で90語以上などである。

 採用は本部なのか日本事務所なのか、どのように試験を実施するのかなど皆目分からず、ローマ本部と電話やファックスのやり取りでようやく判明したのは、11月中旬で、それは次のとおりであった。

 採用は本部である。国際的な公募の必要はないが日本事務所が公募する。英語、タイプ等資格要件に関する試験問題は本部が用意したものを用い、日本事務所で実施する。採点は本部が行う。本部から通知される資格要件を満たした候補者の中から日本事務所が面接を行う。面接は3人以上の面接委員からなるパネルを構成して行うが、面接委員のうちの少なくとも一人は日本事務所以外の外部の者でなければならない。面接の結果をもとに候補者3人以上についての推薦リストを本部に送る(ショートリスト)。このリストには順位と各候補者についてのコメントとパネリスト全員の署名を付さなければならない。 本部は、このショートリストを受け、採用する者を決定する。

この採用方式は、遠く離れたFAO現地事務所の恣意的な採用を防止し、いかに優秀な人材を確保するかに配慮したものであることが分かる。しかし、煩雑で時間がかかりすぎるきらいもある。

 日本事務所は、1997年11月下旬に新聞で公募し、応募者は60人程度あった。そのうち15人程度の候補者に英語とタイプの試験を12月10日に実施した。英語の口答試験では主題3つのうちから候補者がひとつ選択して、それについて5分程度話し、テープに録音した。パーパー試験は80分であった。タイプ試験は本部が用意したコンピュータソフトで行い、結果は改ざんできない特殊な活字でプリントされるものであった。これらすべてを採点のため直ちに本部に送付し、本部からの資格試験に合格した候補者の通知を受け、面接を実施したのが1998年1月10日であった。 本部から採用すべき人の内示を受け、とりあえず、アルバイト(Temporary Service Assistant )として日本事務所で働き始めたのが2月23日、正式な採用は3月15日であった。

参考    

     1996年に日本政府と確認したFAO日本事務所の任務

FAO日本事務所は、

(a) 日本政府と在日国際機関に対してFAO事務局長を代表する。

(b) FAO本部がFAOと日本政府、日本国民及び在日国際機関との間の連絡と   協力を維持するのを支援し、また本部の政策の実施を支援する。

(c) 世界の食料問題とFAOの活動の一般的な情報を日本政府及び市民社会組織に提供する。

(d) FAOの目的と事業に関連した日本における政策、制度、計画、事件及び
世論の発展について、確認し、分析し、本部に報告する。

(e) 日本人の採用活動、調達、契約締結を含む広範な管理業務に対する支援 機能を実行する。

(f)  FAOを代表して、FAOの目的と事業に関連した会合に参加するとともに、 特に、飢餓との戦いとすべての人に対する食料の確保に従事している市民社会組織と連携する。

(g) FAO本部、地域事務所、サブ地域事務所、国別事務所の職員の日本への公式訪問及び協議を調整する。

(h)日本FAO協会との密接な関係を維持する。

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