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初期荘園と中世(平安末期以降)の荘園

メールでの質問への応答です(1999.2.3,少し手を加えてあります)。

≪質問の内容≫
>1)「延喜の荘園整理令」と、「延久の荘園整理令」について、教科書や用語集の説
>明では今一つよく分からないのですが、その説明と、先生の「テーマ」の中の記述を
>見てますます頭の中のまとまりがなくなりました。そこで、ある程度詳しいその「目
>的」「内容」「結果」について教えてください。
>
>
>2)初期荘園の定義が今一つ曖昧なんですが、初期荘園=墾田地系荘園(これ自体の
>明確な定義も分かっていないが・・・)という認識だけでは甘いと自分では思うので
>すが、どうでしょうか。また、ある程度はっきりした定義を教えてください。その中
>で、「専属の住民をもたない」ということはどういうことかもふれていただけると助
>かります。
>
>3)延喜・延久の荘園整理令と、初期荘園の関連がつかめません。なぜ延喜の荘園整
>理令のあと初期荘園は衰退するのか、また延久のほうで「土地・住人の帰属が明確に
>な」って(これ自体については2)でせつめいをいただけるのでしょうか)どうなる
>のか、といったこと、またその他の両者の関連もあったら教えてください。
>
>4)荘園公領制といいますが、この場合「その土地に住人が住んでいるところが公
>領」で、「所有者は有力者で、耕作者が田堵(←正しい字が出ない)であるのが荘
>園」ということなのですか?

≪コメント≫
>2)初期荘園の定義が今一つ曖昧なんですが、初期荘園=墾田地系荘園(これ自体の
>明確な定義も分かっていないが・・・)という認識だけでは甘いと自分では思うので
>すが、どうでしょうか。また、ある程度はっきりした定義を教えてください。その中
>で、「専属の住民をもたない」ということはどういうことかもふれていただけると助
>かります。

まず,荘園とは「中央の皇族・貴族(五位以上)や大寺社が領有する地域」のことで,地方豪族のもつ私有地を荘園とは呼ばないという点についてはいいですか?

そのうえで,初期荘園(8世紀後半〜9世紀)と平安末期以降の荘園(11世紀後半〜)との違いを見ておきます。
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(1) 初期荘園は単なる私有地だが、平安末期以降の荘園は行政区画(行政単位)の1つ。

初期荘園は,私有(売買や相続の自由)を認められた墾田を集積する形で成立したもの(墾田地系荘園=墾田集積型荘園)。8世紀後半〜9世紀は,まだ律令制下の<国−郡−郷>が地方行政システムとして機能し,<郷>のなかの1地域として荘園が存在した。

しかし,平安末期以降は,新たに<国−郡・郷・保・荘>という地方行政システムが出現する。律令制下の<郡>から<郷>や<荘園>などが独立し,<郡>と並立する行政区画(行政単位)となるにいたる−−このうち<郡・郷・保>を“公領”とよぶ−−。平安末期以降の荘園(中世の荘園)は,天皇家・有力貴族や大寺社の私有地でありながら,同時に行政区画(行政単位)の1つでもあった。

(2) 成立経緯の違い。

墾田集積型である初期荘園は,荘園領主が国司・郡司の協力のもとで開墾したり(自墾地系荘園−いちおうこう説明しておくが,開墾・経営については国司・郡司に全面的に依存している),地方豪族・有力農民の開墾地を買得したり,地方豪族・有力農民から寄進をうけて(既墾地系荘園),成立した。

それに対して平安末期以降の荘園は,開発領主(郡司・郷司・保司)から寄進された<郡・郷・保>といった行政単位に付随する職−−職務を遂行して収益を得る権利−−を基礎とするもの(寄進地系荘園)が多いが,その地域における田租収取権・支配権を朝廷から認可されること(不輸・不入権の獲得)−−その地域の田租収取権・支配権を朝廷から移譲されたということ−−によって成立している。

(3) 土地を単位に“年ごとに”課税される租税を収取する機関の違い。

初期荘園は墾田を集積することで成立していたが,墾田は輸租であり,初期荘園に賦課される租は国司・国衙が収取した。

しかし,10世紀以降,名に賦課された官物(年貢)は,<郡・郷・保>については国司・国衙が収取したものの,<荘>については,朝廷から不輸の権を与えられた本所(荘園領主)が収取した−<郡・郷・保>や<荘>を問わず“臨時に”課税された租税(一国平均役)は朝廷が収取したが−。

(4) 適用される法体系の違い。

初期荘園は,律令制下の地方行政システムのなかに編成されているのだから(不入の権はない),紛争は<国司−郡司>のもとで解決される。

それに対して平安末期以降の荘園は,国司・国衙の支配権の介入を排除し(不入の権をもつ),荘園内部では,紛争は本所(荘園領主)の裁定により解決される−−本所法という独自の法体系がある−−。(荘園・公領間や荘園どうしの境界争いなどの紛争については朝廷で裁決される)

朝廷
↓ 本所(荘園領主)
+--国司-----------------↑|---+
| 国衙 || |
| ↑↓ |↓ |
|+------------------+ +------+ |
||<郡><郷><保>| |<荘>| |
|+-----公領---------+ +-荘園-+ |
+------------------------------+

-------------------------------------------

なお,「専属の荘民」についてですが,
初期荘園は,国司や郡司の協力のもとで周辺農民の賃租により経営が成り立っている。
そうした荘園の耕作を請負う農民たちは,自分の口分田を持っていてそれも耕作しているわけで,皇族・貴族や寺社の荘園だけを“専属で”耕作しているわけではない。

>4)荘園公領制といいますが、この場合「その土地に住人が住んでいるところが公
>領」で、「所有者は有力者で、耕作者が田堵(←正しい字が出ない)であるのが荘
>園」ということなのですか?

荘園公領制(12世紀に確立)とは,国衙の支配下にある<郡・郷・保>(これらを公領とよぶ)と本所の支配下にある<荘(荘園)>とが行政区画(行政単位)として相互に並立してある土地制度のあり方で,それぞれの行政区画のなかの田地は名(名田)に編成され,かつての田堵などに割り当てられた。そして,彼ら有力農民はしだいに名(名田)に対する権利を強めて“名主”と呼ばれ,さらに村落を形成するようになる。つまり,<郡・郷・保>であれ,<荘(荘園)>であれ,名主が“専属で”耕作に従事している。

>1)「延喜の荘園整理令」と、「延久の荘園整理令」について、教科書や用語集の説
>明では今一つよく分からないのですが、その説明と、先生の「テーマ」の中の記述を
>見てますます頭の中のまとまりがなくなりました。そこで、ある程度詳しいその「目
>的」「内容」「結果」について教えてください。

>3)延喜・延久の荘園整理令と、初期荘園の関連がつかめません。なぜ延喜の荘園整
>理令のあと初期荘園は衰退するのか、また延久のほうで「土地・住人の帰属が明確に
>な」って(これ自体については2)でせつめいをいただけるのでしょうか)どうなる
>のか、といったこと、またその他の両者の関連もあったら教えてください。

(1) 延喜の荘園整理令は,皇族・貴族が勅旨田という名目で地方における土地開発を行うことや,地方豪族・有力農民が田地の寄進という行為を通じて皇族・貴族と結びつくことなどを禁止したもの。朝廷−国司による地方支配の徹底・強化がめざされたわけだ。

これ以降,朝廷は律令制的な公地制−−口分田と墾田により構成される土地制度(口分田は一代限りの保有・用益権を認められたが売買を認められなかった田地で,墾田は保有・用益権の売買や相続が認められた田地だとの違いはあるが,いずれも国家の管理下におかれた公地だった)−−にかえて,公田制(負名制度)とでもよべる土地制度へと転換する。つまり,口分田・墾田の区別を問わず公田として把握し,それらを名に編成しなおすようになる(名は課税の単位であり,耕作・納税を田堵に主に1年契約で請け負わせる)。
こうなれば,皇族・貴族や寺社の荘園−墾田集積型荘園−の開墾・経営に国司や郡司が積極的に協力することがなくなってしまう。国司・郡司に経営を依存していた初期荘園が存立する基礎が崩れてしまったわけだ。結局,皇族・貴族や寺社なりが,自ら荘園を経営する機構と技術力を確立・確保しない限り,初期荘園は衰退せざるをえず,現実に初期荘園の多くは衰退してしまった(もちろん,のちに荘園経営の機構と技術力を確立して,荘園を復活させるケースもでてくるが)。

(2) 延久の荘園整理令は,朝廷の許可なく<不輸の権>を主張する荘園が増えるなか,朝廷−究極的には天皇−が土地支配の最終的な権限を持つこと,つまり<不輸の権をもつ荘園>であるか否かは朝廷の判定によって決定することを宣言したもの(なお,延久の荘園整理令が対象としたのは「初期荘園」ではなく,また,平安末期以降の,いわゆる「中世の荘園」でもない)。

つまり,当時は,(a)<不輸の権>を朝廷から認可された荘園,(b)公領(<郡・郷・保>),(c)本来は公領(<郡・郷・保>)の一部を構成する土地でありながら,不法に<不輸の権>を主張する地域(不法に荘園に編入された地域),という3つのタイプが存在していたのだが,このうち(c)のタイプを抹殺したのだ(それ以外に,(a)のタイプであっても“寛徳の荘園整理令”以降に認可を受けたものも,<不輸の権をもつ荘園>としての認可を取り消された)。
この結果,公領と荘園との領域的区別がつくことになる−−もっとも,朝廷の判定・裁定が現地において効力を発揮するか否かは,現地における力関係に左右されるので,厳密な意味での領域的区別がつくわけではなく,荘園・公領間や荘園どうしの境界などをめぐる紛争は頻発する−−。

なお,(c)タイプの不法な荘園が発生した背景の一つは,10世紀〜11世紀ころの農民(田堵)たちは1か所専属ではなく,公領内の名を耕作しつつも,同時に荘園の名をも耕作するというケースが普通だったことがある(「諸方兼作」)。「諸方兼作」とは,言ってみれば,予備校講師が複数の予備校を掛け持ちしているようなものだ。
(c)タイプの不法な荘園が多かったということは,そのような農民の状態を利用して,自らの荘園内を耕作している農民(荘民)が他で耕作している田地をも,自らの荘園の一部を構成すると主張,荘園を不法に拡大するという動きが多かったということだ。

さて,延久の荘園整理令が,そうした農民の状態を前提とした不法は荘園を禁止したことは,ひるがえせば,そうした農民の状態の解消を促すことになる。実際,延久の荘園整理令ののちに成立した荘園公領制のもとでは,名主クラスの農民は,<郡>・<郷>・<保>・<荘(荘園)>のいずれかの行政区画に居住し,その行政区画内の名田を保有・耕作する住人として定着していく(→村落を形成)。つまり,延久の荘園整理令は,「土地・住人の帰属が明確になる」過程の出発点となっているわけだ。