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荘園公領制の成立過程や武士の発生過程をどう教えるのか、をめぐる話題をピックアップしました。NIFTY-Serve FKYOIKUS(教育実践フォーラム専門館) MES(6) 【社会科】会議室での私の発言です。

NIFTY-Serve   FKYOIKUS(教育実践フォーラム専門館)   MES(6)
00257/00262 GED01324  つかはら         荘園制度について(長文)
( 6)    23:21  00226へのコメント


------> #226  スズメ男さん

「化け物」のような荘園制度に関してですが、私はだいたい 次のような感じで授
業しています。まぁ ちょっといい加減なところ、曖昧なところがあるんですが、
現段階の解釈です(相当な長文です(^^;)。
おかしい所があれば指摘してくださいm(..)m>ALL

**************************ここから***************************************
まず、律令制のもとでの公民の支配のあり方から始めます。

基本原則は
 (1)戸籍・計帳に登録する→(2)口分田を支給することで最低限の生活を保障する
 →(3)人頭税・軍隊の負担を負わせる
というものです。
(1)戸籍に登録することで、人々を戸(郷戸)に編成し、そうすることで公民とし
て把握した(基本的に本籍地でのみ登録する->決められたクラスで授業を受けるの
を強制されている高校生と一緒)
(2)口分田の支給は土地税を徴収するためではなく、中央政府の財源になる租税(
調や庸)、そして軍隊の負担に耐えることのできる最低限度の生活を保障するため
の、いわば社会福祉政策のようなものだった
(3)公民たちは口分田の支給を受ける代わりに租税・軍隊の負担を担ったわけです
が、中央政府の財源になる租税(調と庸)はともに人頭税だった。つまり、○○歳
で性別×の公民である、という理由だけで課税される租税だった(いまはこういう
租税はない。いわばクラスの名簿に登録されている・性別が男だというだけの理由
で、租税をはらわされる様なもの)

こういう律令に基づいた公民支配は奈良時代の半ばにはすでに崩壊の危機にひんし
ていますが、その原動力となったのは公民たちの浮浪(・逃亡)や偽籍という行為
です。
 浮浪と逃亡は戸籍に登録されている本籍地を離れるという点では共通しています
  が、逃亡がどこにいるのかわからないのに対し、浮浪の場合はどこにいるか判明
  しています(この違いまで把握する必要はないでしょうが、ここで余談として浪
 人の由来・平安中期から鎌倉〜室町時代は浪人がいなかったという話をたいてい
 してます)。偽籍は戸籍・計帳の記載内容を偽るものです。まぁいえば、授業に
 でるのがいやだからといって教室をふけているのが浮浪・逃亡で、男だったら無
 茶されるけど女だったらえこひいきしてもらえるからといって女として登録して
 もらい女装してくるやつが偽籍ってわけでしょうか。
 なお、律令制度のもとでは人々の移動というのを前提にしていません。いまのよ
 うに本籍地と現住所(住民票があるところ)がそれぞれ別個に把握されるという
 ような、そういう意味で柔軟なシステムになっていません。ですから、浮浪とか
 が増えてくると扱いに困るわけです。

さて、浮浪・逃亡や偽籍が増えるとどうなるかといえば、一つには調庸を負担する
義務のある公民が減りますし、他方では浮浪により放棄された口分田は荒廃してし
まいます。後者に関して言えば、そもそも田がすぐに荒廃しやすい時代です。結
局、口分田不足を招いて(人口の増加もありますが)班田収授法がうまく機能しな
くなってしまいます。

それに対して、浮浪人は浮浪先で台帳に登録して徴税していこうという話になるの
ですが、口分田不足に対しては開墾を奨励することでなんとか対処しようとしま
す。ところが、結局、743年の墾田永年私財法でその政策も放棄されます。墾田の
永久私有が認められます。もっともこのときは位階別に開墾面積に制限がありまし
たし,開墾には国司の許可が必要でした。この開墾の許可制というのはさすがに廃
止されることはないですが、位階別の開墾面積の制限は奈良時代の末、光仁天皇の
ときに撤廃されたようです。

こうして口分田を支給することで最低限の生活を保障するという政策がうまく機能
していかなくなるとともに、皇族や有力貴族が私有地の獲得を目指して地方進出を
さかんに行う時代がやってきます。つまり、初期荘園が形成される時代です。

他方、地方豪族や有力農民もさかんに墾田開発を行いますし、国司のなかには在任
中に培ったコネをいかして国司の任期が終了しても現地に残留しつづけるもの(土
着国司)が出てきます。そして彼等は地方進出を試みる皇族・有力貴族と結びつい
て<国司・郡司>の支配に対抗していきます(皇族・有力貴族の家人と称したり、
皇族・有力貴族に開墾地を売却あるいは寄進したりする)。またこうした土着国司
や地方豪族・有力農民は有利な環境をもとめて浮浪していたりしますし、また偽籍
を行ったり、位階や前官職などをタテにとって徴税逃れをはかろうとします。さら
には、さまざまな浪人が横行するなかで、馬を使った機動力をもった盗賊集団(特
に東国)や海賊(瀬戸内海など)も各地でさかんに活動するようになります。

このように平安初期、特に9世紀後半は地方支配がひどく混乱し、調庸を負担する
公民の減少によって中央政府の財政も悪化していきます。すでに律令に基づく地方
支配が機能しなくなってしまっているわけです。902年醍醐天皇・藤原時平によっ
て実施された荘園整理令(皇族・有力貴族の地方進出を抑制するとともに彼等と地
方豪族・有力農民との結び付きを禁止した)と班田の励行は、機能停止に陥ってし
まっている律令支配を再び立てなおそうとする試みだったわけですが、結局のとこ
ろ、国司による土地支配の強化にはつながったようですが、902年で班田が廃絶し
てしまうように、律令に基づく地方支配は崩壊してしまいます。

こうして10世紀のなかばには地方政治の転換が行われるようになります。

まず、(1)国司の権限を強化し、国内支配を一任した上で(国司はその国々の慣例
−国例−にしたがって統治を行うようになります)、中央政府に対しては一定額の
租税納入だけを請負わせます。

そこで国司は国衙機構(いまで言えば都道府県庁の各部局)を整えていきます。こ
のころから次第に国司(あるいは受領)といえば国司の長官(国守)だけをさすよ
うになりますが、彼等は都から有能な人材を連れて現地に赴任し、彼等に国衙の各
部局を指揮させるとともに、土着した前国司(以下土着国司と略)や地方豪族たち
を役人(在庁官人)として組織していきます(それまでは郡司が文書の作成や租税
の徴収などの実務を処理していたこともあって、国司が国内を単独で支配するため
には国衙機構・在庁官人をしっかりと編成していくことが不可欠だったわけです)。

とともに、盗賊やら海賊やらを組織化し、武装している土着国司・地方豪族たち
を、国衙軍に編成し、軍事という職能を世襲的に担当する身分=武士として確定し
ていきます。つまり、国内の治安を維持するために、治安の混乱の元凶を国衙に組
織化していきます。なかでも有力な連中を押領使・追捕使という国衙軍の軍事指揮
官に任命していきます(藤原秀郷なんかがその典型。藤原北家出身の彼は下野国で
なんどか取り締まりの対象となっていますが、平将門が反乱を起こす頃には下野国
の押領使に任命されている)。とはいえ、国衙軍には編成されずに、中央の皇族・
貴族との結び付きをもって国衙からの独立性を保持している武士たちも存在してい
ます。そういう連中は、たとえば平将門などのように、国司と地方豪族等が対立し
たときに地方豪族を庇護する立場からその紛争に介入し、結果的に反乱を起こした
と認定されてしまうケースがあります)。

***************************つづく*****************************************

NIFTY-Serve   FKYOIKUS(教育実践フォーラム専門館)   MES(6)
00258/00262 GED01324  つかはら         荘園制度について No.2
( 6)   95/07/04 23:25  00257へのコメント

****************************つづき**************************************
さて、このようにして国衙機構を整えた国司は、
(2)徴税を確保するために課税の方式を人頭税から土地税へと変更します。逃げな
いものに課税するというわけです。その際、国司はかつての口分田やら墾田やらの
国司が支配している田地を名とよばれる単位に区分し、名を単位に官物・臨時雑物
を課税します。そして、その名の耕作と納税を地方豪族や有力農民に一定期間を限
って請負わせます(その請負人が田堵で、地方豪族などは大規模な名の耕作・納税
を請負ったので大名田堵とよばれた)。

そうして国司は、強化された権限をフルにいかしながら、田地の摘発・徴税の強化
に努めていきますが、当然、そのような国司の行為は、地方豪族(大名田堵)な
り、有力農民(田堵)なりの反発をうけることになります。

その場合の反発のあり方はさまざまあったことでしょう。尾張国の連中のように中
央政府に訴えるという形もあれば、地域の有力な武士−土着国司なりその子孫−の
庇護を求めるという形(藤原玄明や武蔵武芝が平将門の庇護をもとめた例)もあり
ます。

他方では、国司の徴税強化に対抗しながらも在庁官人として国衙を担う土着国司や
地方豪族(大名田堵)たちもいます。基本的によそモノの国司に対し、一致団結し
てその国の慣例を主張したりしながら、その地位を次第に強化していきます。胡桃
酒を飲まされて寸白(さなだ虫)なってしまった国司の逸話−これは杉本苑子の小
説『散華』で読んだのですが、本当の説話なんでしょうかねぇ?)なんかもそれを
暗示するものでしょう。

そうした土着国司や地方豪族(大名田堵)たちは、国衙の権限に依拠し、それを利
用しながら荒れ地の開墾に積極的に乗り出し、その開墾地に対する占有権を確保し
ていきます(国司にしてみれば、開墾により田地が増えることは徴税の対象が増え
ることですから、少しぐらいの免税の特権は認めても、開墾を奨励する方が得策な
わけです)。さらに、11世紀半ばには彼ら開発領主の勢力範囲にしたがって国内の
行政区画を再編成され(郡・郷・保などが並列的に存在する行政区画)、開発領主
たちが郡司・郷司・保司などに任命されてそれぞれの行政区画の管理・徴税を請負
うようになっていきます。その結果、開発領主たちは、役職に基づいて(つまり国
衙による地方支配の末端にぶら下がることによって)その行政区画内の土地・住人
に対する支配者の地位を獲得することになり(在地領主)、その役職の世襲がすす
めば、彼らが管轄するそれぞれの行政区画全体はまるで彼ら開発領主の私領のよう
になっていきます。

ところが、その開発領主の地位は役職に基づくものであるためにきわめて不安定な
ものです。国司・国衙(要するに他の開発領主)と対立から役職を奪われる可能性
があるわけです。その危機に対処するためには(つまり開発領主相互の競合に対処
するためには)、
(a)国衙での地位を上昇させるという方策もあれば、
(b)自分が管轄している行政区画全体の支配権を中央の皇族・貴族や有力寺社にゆ
だねてしまい(寄進)、その保護を受けるという方策もあります。
さらに、(これは(a)(b)に対立するものではなく両立しうるのですが)(c)武名の
高い有力な武士の庇護を受けるというのもひとつの方策です。

 武士についてひとこと補足すれば、10世紀に国衙軍に編成された武士(土着国司
 や地方豪族)は、開発領主に成長するなかで地方に生活拠点をかまえる一方で、
 都へも出ていきます。彼らは武芸を職能として天皇家や摂関家などの貴族に仕え
 てその身辺警護を担うとともに、そのコネを活用して官職を得ようと頑張ります
 (平将門も都へ行き、藤原忠平につかえますが、結局官職をえられず、そのまま
 下総へ帰ります)。そして、なかには国司(受領)に任命され、その地位を利用
 して蓄財をはかる貴族的な武士も登場し、地方で反乱がおこった際などは彼ら貴
 族的な武士たちがその鎮定を命じられます(もっとも、藤原純友の鎮定にあたっ
 た小野好古のように、武士の家柄とはいえない人物が派遣されたりすることもあ
 るが)。彼ら貴族的な武士がしだいに武家の棟梁と呼ばれるようになり、反乱に
 際しての軍事指揮権を利用しながら各地の武士を組織化していきます。


さて、地方政治が転換して国司の権限が強化され、開発領主が成長していった10世
紀から11世紀半ばの荘園についてです。

それ以前から存在した初期荘園は専属の住人をもたず、その経営を地方豪族や有力
農民に依存していたため、延喜の荘園整理令でその結び付きを禁止され、さらに地
方豪族・有力農民が国司・国衙に編成されるなかで、次第に衰退していくものが多
かったようです。とはいえ、存続しつづけた荘園もあり、また、荘園を経営するた
めの機構を整えてから荘園を復活させたようなケースもあったようです(記憶でか
いています。工藤敬一氏の「荘園の人々」教育社歴史新書などで確認してください
ね(^^;)。また、摂関家などの有力貴族には、任官をもとめて群がる国司(受領)
たちから荘園をプレゼントしてもらうこともあったようです。ただし、これらの荘
園は基本的に田地を集積した形の荘園であり、専属の住人は存在しません。その荘
園内の田地の耕作は、その周辺の公領(国司・国衙が支配する地域)の田地をも耕
作している田堵たちによって行われていました。

ですから逆に、そういう住人のあり方を利用して荘園を拡大しようとする動きもみ
られます。自らの荘園を耕作している田堵を自らの荘民と称し、その荘民が耕作し
ている公領の田地をも不法に荘園内に編入しようとする動き−出作や加納−です。

それに対して、領域と住人の帰属・区別がはっきりしており、田地だけではなく山
野や河川まで含んだ形の荘園が形成されるようになるのは、開発領主が成長する11
世紀半ば以降のことです。つまり、開発領主が自らが管轄している行政区画をそっ
くり荘園(皇族・貴族や有力寺社の所有地)として寄進するようになってからの話
ですし、土地・住人の帰属が明確になって、荘園と公領との領域的な区別が確立す
るのも1069年の延久の荘園整理令以降の話です(もちろんそれ以降も、土地の帰属
などをめぐる紛争は絶間なく各地で起こっていたことでしょうし、その紛争が荘園
の寄進を促すとともに、地方における紛争が中央の皇族・貴族や有力寺社どおしの
紛争に発展していき、その裁決をはかることのできる専制権力とその裁決を執行す
る機関の必要性が高まっていったと言えます)。さらに、荘園の寄進が全国的に盛
んになるのは12世紀半ば以降の鳥羽・後白河院政期のことです。

こうして12世紀後半、院政期に各地で寄進地系荘園が成立していきますが、それら
は免税の特権である不輸の権だけではなく、国衙の派遣する役人の介入を拒否でき
る不入の権をも獲得し、次第に国衙の支配から独立していきます(要するに、公領
を構成する郡・郷・保とならぶ行政区画として荘が確立したということなのだと私
は理解しています)。その結果、荘園と国衙の支配する公領(国衙領)が並びたつ
荘園公領制が成立するわけです。
荘園にせよ、公領の郡・郷・保にせよ、現地を管理するのは開発領主であり、領域
内の田地を耕作し、納税を担うのは名主(その行政区画内に帰属し、田地を占有す
る人々で、下人と呼ばれる隷属民を駆使しながら名田を耕作している)です。基本
的に同じ構造をもった行政区画なわけです。

こんなところでしょうか。

つかはら@新幹線 with HP200LX

NIFTY-Serve   FKYOIKUS(教育実践フォーラム専門館)   MES(6)
00721/00722 GED01324  つかはら         荘園・公領と開発領主
( 6)   95/10/10 13:26  00714へのコメント


------> #714  スズメ男さん

どうも(^^;。この「やりとり」も もう7月のことでしたか。それほど経ってないような

気がしてたんですけど......(^^;

#403 の スズメ男さんのコメントで 私がしっくりこなかったのはどこかと言いますと、


>>(1) 「存立意義が薄れ」ても、それが即崩壊とはなりますまい。律令制という制度
は、
>> 極端に言えば明治初まで続きますし…。

と

>>(2) 10世紀に土地制度は変りますが、中央と地方の関係はあまり変ってないように
>> 思います。租税は一応、都へ納められるわけですし。荘園制でも、平安朝段階では
>> 同様だと思います。
>>  崩れたのは「公地公民制」です。中央集権的な中央と地方の関係が崩れたのは、
>> 武士という地方勢力が政権を掌握してからだと、私は考えています。

だったんです。

(1) に ついては それを言っちゃ お終いよぉ(^^; という感じでコメントできませ
んでした(ただ、8世紀末から9世紀初頭にかけては 蝦夷との間での軍事的な緊
張がつづきますから、もうちょっと丁寧な立論が必要になってくるとは思うのです
が)。

それから (2) の方は 租税が都に納められるというのを基準にしたら、鎌倉時代で
も 将軍家という荘園領主をのぞけば 荘園領主が京都・奈良に集住してますから、
鎌倉でも、そして室町でも下手したら中央集権だと言えてしまうような気がするの
で、ちょっと........あくまでも、「中央集権」という場合は中央政府が地方統治
の内容にどの程度まで介入していたのかというところを基準にして考えておいた方
がよいように思います。そういう意味で10世紀にはすでに律令制的な意味での中央
集権制はくずれているし、12世紀に成立する荘園公領制の段階になると(武家政権
が登場せずとも−というか鎌倉幕府という武家政権は、東国の独立政権ですけれど
も、やはりその初期においては院政下の朝廷をささえる権門のひとつですよね)、
中央集権的という表現では説明できないような体制になっていると思います(中央
と地方は強く結び付いているけれども、その結び付きが複数存在していて相互に独
立的ですよね)。そういう意味で 荘園公領制から中世を始めている実教の教科書は
ある説得力をもっていると思います。

さて、それはともかく荘園公領制、とくに荘園をどう簡単に説明するかなんですが、
寄進地系荘園という概念を完全に排除するというのが一つの方法じゃないかなと
考えています。近年は領域型荘園という表現がよく使われていますし、荘園領主の
荘園に対する支配権は朝廷から分与されたものと言われますよね。不輸・不入の権
はあくまでも朝廷から認められるものだし、それが認められることによって荘園に
対する支配権を確立するわけですから、開発領主の寄進を強調するのではなく、そ
ちらから迫ってみても 問題ないんではないでしょうか。

つまり、「開発領主が現地を管理し、荘園領主・国司に租税を納付」という側面を
強調し、さらに、開発領主がなぜ「開発領主」なのかと言えば......
 
 現地では国司や荘園領主の指示のもと、農業などの諸産業をさかんにして、租税
 の中央への納付を確保するための努力が進められる。荒れ地や未開墾地を開発し
 て課税対象を増やすことがもっとも必要だし、耕作者(農民)をしっかりと確保
 しつつ、治安を維持して、生産のための環境を整えることも必要。そういった作
 業を担ったのが開発領主といわれる人々だ。つまり、国衙領の郡・郷・保や荘園
 の開発をまかされていたから「開発領主」と呼ばれるんだ。このなかには、朝廷
 や国衙のもとで 軍隊の仕事を世襲でまかされている身分である武士たちもけっ
 こう含まれていた(こう考えると、武士って シマ守っているヤクザのようなも
 んだな(^^;)。

こんな感じで考えるのはどうでしょう? 

 武士についても 開発領主が自衛のために武装したという風に考えるのではなく、
 最近の研究のように(元木泰雄氏の『武士の発生』吉川弘文館など)、“軍事と
 いう職能を世襲的にになう身分としてとらえ、10世紀初に 朝廷や国衙が、武装
 して盗賊活動などの国司行政への敵対行動を行っていた連中(土着貴族やら地方
 豪族・有力農民ら)を侍身分に編制することによって成立した。そして、彼らは
 軍隊(武士団)を養うために、開発領主として、その経済基盤を整えていった。
 そして中央の中流貴族である武家の棟梁が、そうした各地の武士団を統率する体
 制が院政期に整った(河内源氏と伊勢平氏がその筆頭)”
 という風に考えてはどうかと思っています。

そのうえで、鎌倉時代へは、

 軍事力による朝廷の守護をになう将軍家が 荘園・国衙領の治安を確保し、荘園
 領主や国司が安定して年貢を確保できるよう、(東国を中心として)その従者で
 ある御家人を地頭として任命・派遣した。しかし、もともとは地頭(=荘官なり
 郡司・郷司・保司)は荘園領主や国司が任命していたわけだけれども、その任命
 ・罷免権が幕府に移ったことによって、地頭に任命される開発領主(=御家人)
 の地位が上昇、将軍家の権威を背景に荘園領主や国司に対抗することができるよ
 うになった(ただし、相手が興福寺とか東大寺のような寺社だと、ちょっと勝負
 にならなかったりするけど(^^;)。

というような感じでつないでいけます。

ここまで粗っぽく流れをおっかけてみましたが、ひっかかるのは、

(1) ある一定の領域の土地を荘園として朝廷が皇族・貴族・寺社へ徴税権などを移
譲したきっかけはなんだろうか、ということです。
荘園がぼつぼつ増えはじめるのが摂関政治の全盛期で、日本列島内で爆発的に成立
するのが院政期ということを考えると、末法思想が流行するなかでの造寺造仏なん
かがそのひとつのきっかけになるんでしょうか。

(2) 荘園整理令というのは、それぞれの田地の帰属(荘園領主か国司か)を明確に
するための作業だと考えておけばよいに思っているのですが、
国家的事業の費用を徴収するために臨時に課税される一国平均役は荘園・公領の区
別なく行われますよね? じゃぁ、国衙領から国司を通じて納付される租税はいった
いどこへいくんでしょうか? それは院やら摂関家やらの私的権門のもとへ成功を通
じて吸収されてしまうのでしょうか。

こんなところでしょうか。

さて、
>> (1)平安中期には律令制は崩壊しました。それは良いとして、何がどのように
>>   変ったのか、できるだけ平易にまとめるとどうなるか、にこだわりました。

についてなんですが、浮浪・逃亡や偽籍で朝廷財政が悪化したという議論につい
て、FREKI で 小口さんから 間違っていると指摘されたわけですが(浮浪人帳とか
を作成して努力しているわけだから、確かに小口さんの指摘のとおりですね(^
^;)、となると、奈良時代以来のあいつぐ遷都事業と鎮護国家思想にもとづく国分
寺や大仏などの造営事業、そして奈良末から平安初にかけての約30年におよぶ蝦夷
との軍事衝突が律令政府の財政を悪化させたという議論を持ってくる方が適切なの
かなと今は考えています。もうひとつは #403 で指摘していた“有力農民の台頭”
だと思うのですが、経済的な台頭という側面よりも地方における治安の混乱という
側面から攻めるのはどうでしょう?

>> (2)いわゆる摂関政治時代をどうとらえるか?律令政治との違い、院政期との
>>   違いはどうか。
>> (3)それらと、文化の違いとを結び付けられないか。

については、10世紀になると 朝廷の皇族・有力貴族たちは、治安の確保を武士身
分(侍身分)にまかせてしまい、経済収入の確保を国司(中流貴族)にまかせてし
まったわけですが、その結果、皇族・有力貴族は有閑階級として、限られた世間の
なかでのサロン文化を形成することができた、それがいわゆる「国風」文化だと言
ってよいんじゃないでしょうか。“鄙”に対立する“雅”の文化ですものね(そう
いう意味では「国風」は言葉本来の意味(=地方風)からいえば、完全に正反対だ
と言われますしね)。とすると、院政期は荘園公領制のもとで、“雅”と“鄙”と
の交流が活発になりだした時代ってことになるわけでしょうか(淀川河口の江口と
か神崎の遊女の話から攻めるという手もあると思いますけれども、やれる自信はな
い(^^;)。

つかはら@忙しいわりに長文をアップしてしまった(^^;