義士名 : 大石内蔵助良雄 (おおいしくらのすけよしたか) その1
ページの説明 赤穂義士のトップページに戻るこのページ(その1)では生い立ちや容貌、性格、剣術の腕前や思想、好物などの私的な情報と家系図で家系を示し浅野家恩顧の家系であること及び個々人の経歴を記しています。
ページ「その2」で山科での隠棲生活を経て切腹までを「その3」で夫婦のこと、子供のこと、 切腹後の遺族のことを記しています。
生年月日 万治二年(1659年) ・ 幼名 松太郎 大石家の家紋です
家紋 右二つ巴
大石内蔵助の詩です
大石内蔵助の詩
没年月日 元禄十六年二月四日(1703年)
享年 四十五歳
戒名 忠誠院刃空浄剣居士
役職名と禄高 国家老上席 ・ 千五百石(譜代 )
家系

内蔵助
親族の脱盟を嘆く



大石内蔵助自筆署名
内蔵助自筆署名

大石内蔵助花押
内蔵助花押
大石家の家系図です
○本姓 藤原氏:藤原秀郷から出ていると云われる。秀郷が関東に赴き平将門を討ったとき、一子を近江の国栗太郡大石庄に留めたが、その名をとって氏としたとされる

○大石家と浅野家との関係は浅野長政に始まり、浅野長政の三男長重に仕えた大石内蔵助良勝が大坂の役で敵の首級を二つ挙げ、その後次第に重用され千五百石の家老に抜擢される

○大石内蔵助良勝の後は嫡男、大石内蔵助良欽(よしたか)が嗣ぎ、その子大石権内良昭は早逝したのでその子、大石内蔵助良雄(よしたか)が祖父良欽の養子となった

○大石内蔵助良欽の弟で大石頼母助良重は別に一家を興し、長恒・長武の二子を挙げる。浅野長直は長恒を養子とし赤穂郡若狭野三千石を分与し旗本の士に列し元禄十三年従五位下に叙して美濃守と称し、次子長武は加東郡三千五百石の浅野家の分家長賢の養子となった

○大石内蔵助良勝の弟で大石八郎兵衛信云(のぶこと)も父兄の縁故により浅野長重に仕え大坂の役で功を立て長男を大石五左衛門良総、次男を八郎兵衛信澄という。
兄の良総は浅野家に仕えたあと浪人し江戸に住んで吉良討ち入りを支援した大石無人となる。
その子郷右衛門良麿が津軽家に仕えることになる

○弟の信澄は浅野家に仕えて四百五十石を食み長男を大石孫四郎信豊といい三百石受領し、次子が赤穂義士の一人、大石瀬左衛門信清(のぶきよ)で百五十石を食み一家を成した
大石権内良昭 三十四歳で早逝した為良雄は祖父内蔵助良欽の養子となり家督を継ぐ(父子相伝)
クマ : 備前池田家家老池田出羽由成の長女で元禄四年三月四日に京滞在中に病没。浅野家出入りの商人、綿屋善右衛門の世話で京都寺町仏光寺上ル聖光院に葬られる「松樹院殿鶴山栄亀大姉」良昭と死別した後「鶴」 ・ 「松寿院」と称した
兄弟 弟 : 専貞(大西坊)
弟 : 良房 (喜内) 早逝
御崎公園の大石内蔵助像
赤穂を去る内蔵助
赤穂御崎公園の銅像
親戚 奥野将監 ・ 進藤源四郎 ・ 小山源五右衛門 ・ 大石孫四郎
容姿
意外でした!
○傍系大石家の記録や「半日閑話」には一体のつくりが痩せ形で梅干しを見るようだとある
○収監先の細川家世話役の堀内伝右衛門覚書には「手甲や小袖が常人に使用にならぬほど小さい」とあって相当に小柄で案外貧相な人であったようである
好物 ○花 ・ 牡丹
○食べ物 ・ 蕎麦とにらがゆ(韮入りのお粥)

刃 こぼれあり
○則長 二尺八寸金拵え ・ 脇差 則長 二尺在之。(異説 備前清光・康光などの相当な業物)
○堀内伝右衛門覚書によると
「相州物の大乱れ刃で脇差は松葉先一尺ほと血糊の跡があって、刃こぼれがあり定めて上野介殿のとどめを刺されたるものと察し申し候」とあり、脇差は『万山不重君恩重一髪不軽臣命軽』と大石家伝統の古語を彫りつけた木柄の刀」とある
剣術
免許皆伝
○三十四歳で東軍流免許皆伝を得る(異説あり)
東軍流の奥村権左衛門重旧は無我と号して美作、備前、備中、播磨、四国と歴遊して池田・浅野・松平ら名候の許に足を留めて志しのある者に剣を授ける。
万治二年(1659年)の生まれで内蔵助とは同年
○権左衛門宛の手紙元禄四年(1691年)五月十三日付では「東軍流剣術再度御教道願い上げ度き存念に付き」とし、殿様へのお暇乞いを得て先生の許へ推参仕り度いがと伺いを立てている
○同年八月に高松へ渡り翌年、免許皆伝一巻を授かる
門弟は五百余人で内蔵助の叔父大石平内が松平讃岐守に仕えた関係と海上交通の地理的な関係もあったと考えられ、赤穂藩からは大石瀬左衛門や潮田又之丞も修業している
人柄
温寛にして度あり

あだ名は
昼行灯
○温厚沈着。寛容で物事にあくせくしない性格。昼行灯とあだ名される
○小野寺十内から京都小野寺十兵衛宛の手紙
「内蔵助儀家中一統に感心せしめ候て進退をまかせ候と相見え申候。 年若に候えども少しもあぐみ申す色も見え申さず、毎日終日城にて 万事を引き受けたじろぎ申さず滞りなくさばき申候」とある
○井上団右衛門の言葉(団右衛門は広島浅野から開城を見届けに来た用人)「如何にも常人の人と相見え申さず、内蔵助などと片名を呼び申す仁体に相見え申さず候、是非内蔵助殿と唱え申さず候ては成り申さざる様に相見候」とある
○栗山潜峰(史家学者) 「忠義碑」の中で「人なり温寛にして度あり、齷齪(あくせく)と自らを用いることを為さず」とある
○三宅観欄 「烈士報讐録」のなかで「人なり和易簡樸、衿飾を喜ばず、国老に任ずと雖も事に預かること鮮(すくな)し、而も内実剛潔にして忠概を存し、最も族人に厚し」とある
思想
主君を不調法至極
「討入り趣意書」の中で内蔵助は主君である浅野内匠頭長矩の殿中刃傷事件に対し「時節場所をも弁へざる働き、不調法至極」と書き入れさせているのは私情にとらわれぬ彼らしい考え方。
「人々心得之覚」(討入り訓令)や「起請文前書之事」(連判状前文)にも一端がうかがえる
山鹿素行の影響 山鹿素行が反朱子学の罪に問われて赤穂に配流されたのは寛文六年から延宝三年までの八年九ヶ月(45〜54歳)に及ぶ
○大石内蔵助は八歳から十七歳で多感な時期であったこと
○山鹿素行の配居に十年間内弟子として学んだ二歳年長の磯谷平介が学友に選ばれていることなどから、山鹿素行の感化を受けたことは容易に想像できる
○教えに「金の計算のできない侍は何をさせても駄目」というのがある
金銀請払帳の写真です

金銀受払帳
「金銀請払帳」
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経済感覚

とても優れた人
瑤泉院(内匠頭の正室阿久利)付家老、落合与左衛門に奥方御化粧料なる預かり金の使途明細を誌した「金銀請払帳」を元禄十五年十一月二十九日に差し出している
○受け取りや証拠が添えてあった
○収支不足分の七両一分を自弁している
○「毛頭自分用事には仕候儀御座なく候」と添えてあった
○大石家内蔵助は自分の藩札の交換もしなかった
以上の事柄をみても実直で、些事に拘泥しないように見えて実は経済の念に大変、優れた人であったことが窺える
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