トップに戻る

赤穂義士 大石内蔵助良雄の一部始終 その1

赤穂義士のトップページに戻るページのご案内

大石家歴代を家系図で示し 浅野家との縁や生い立ち、容貌、性格、剣術の腕前や思想、好物などの私的な情報を記しています。ページ「その2」では山科での隠棲生活を、「その3」で夫婦や子供、遺族のその後を記しています。

大石家の系譜

大石家の家系図です

本姓 藤原氏

藤原秀郷から出ていると云われる。秀郷が関東に赴き平将門を討ったとき、一子を近江の国栗太郡大石庄に留めたが、その名をとって氏としたとされる。

大石内蔵助良勝と浅野家

良勝は浅野長政や浅野長政の三男長重に仕え、大坂の役で敵の首級を二つ挙げ、その後次第に重用され千五百石の家老に抜擢される。
大石家の家紋です
大石内蔵助良欽(よしたか)
孫の義士良雄が後継に 父良勝の後を嗣いだが、子の大石権内良昭が早逝した為、その子大石内蔵助良雄(よしたか)が祖父良欽の養子になる。

大石頼母助良重

大石内蔵助良欽の弟良重(妻は浅野長直の長女)は別に一家を興し、長恒、長武の二子を挙げる。浅野長直は長恒を養子とし赤穂郡若狭野三千石を分与し旗本の士に列し元禄十三年従五位下で美濃守と称し、次子長武は加東郡三千五百石の浅野家の分家長賢の養子となった。

大石八郎兵衛信云(のぶこと)

大石内蔵助良勝の弟信云は父兄の縁故により浅野長重に仕え大坂の役で功を立て長男を大石五左衛門良総、次男を八郎兵衛信澄という。兄の良総は浅野家に仕えたあと浪人し江戸に住んで吉良討ち入りを支援した大石無人となる。その子郷右衛門良麿が津軽家に仕えることになる。

大石信澄の次男が義士信清

信澄は良総の弟で浅野家に仕えて四百五十石を食み長男を大石孫四郎信豊といい三百石受領し、次子が赤穂義士の一人、大石瀬左衛門信清(のぶきよ)で百五十石を食み一家を成した。

大石内蔵助良雄

おおいしくらのすけよしたか
大石内蔵助の木像です容姿について 意外でした!

傍系大石家の記録や「半日閑話」には一体のつくりが痩せ形で梅干しを見るようだとあり、収監先の細川家世話役の「堀内伝右衛門覚書」には「手甲や小袖が常人に使用にならぬほど小さい」とあって小柄で貧相な人であったようである。 画像は赤穂市役所にある木像

人柄と好物 温厚沈着、あだ名は昼行灯

小野寺十内の手紙

京都小野寺十兵衛宛で「内蔵助儀家中一統に感心せしめ候て進退をまかせ候と相見え申候。年若に候えども少しもあぐみ申す色も見え申さず、毎日終日城にて万事を引き受けたじろぎ申さず滞りなくさばき申候」とある。

栗山潜峰(史家学者)

忠義碑の碑文に「人なり温寛にして度あり、齷齪(あくせく)と自らを用いることを為さず」とある。

井上団右衛門の言葉

団右衛門は本家広島浅野から開城を見届けに来た用人で「如何にも常人の人と相見え申さず、内蔵助などと片名を呼び申す仁体に相見え申さず候、是非内蔵助殿と唱え申さず候ては成り申さざる様に相見候」とある。

三宅観欄

烈士報讐録の中で「人なり和易簡樸、衿飾を喜ばず、国老に任ずと雖も事に預かること鮮(すくな)し、而も内実剛潔にして忠概を存し、最も族人に厚し」とある。

好物 花は牡丹、食べ物は蕎麦とにらがゆ(韮入りのお粥)と伝わる。

大石内蔵助の浪人姿です思想について 主君を不調法至極

討入り趣意書の中で内蔵助は、主君である浅野内匠頭長矩殿中刃傷事件に対し「時節場所をも弁へざる働き、不調法至極」と書き入れさせているのは私情にとらわれぬ考え方で「人々心得之覚」(討入り訓令)や「起請文前書之事」(連判状前文)にも一端がうかがえる。

刀について 刃こぼれあり

則長二尺八寸金拵え・脇差則長二尺在之。備前清光、康光の異説がある。
堀内伝右衛門覚書によると「相州物の大乱れ刃で脇差は松葉先一尺ほと血糊の跡があって、刃こぼれがあり定めて上野介殿のとどめを刺されたるものと察し申し候」、脇差は『万山不重君恩重一髪不軽臣命軽』と大石家伝統の古語を彫りつけた木柄の刀で相当の業物」とある。

剣術について 免許皆伝
  • 東軍流の奥村権左衛門重旧は無我と号して美作、備前、備中、播磨、四国と歴遊して池田・浅野・松平らの許で藩士に剣を授ける。万治二年(1659)の生まれで大石内蔵助とは同年。
  • 奥村権左衛門宛の手紙元禄四年(1691)五月十三日付で「東軍流剣術再度御教道願い上げ度き存念に付き」とし、殿様へのお暇乞いを得て先生の許へ推参仕り度いと伺いを立てる。
  • 同年八月に高松へ渡り翌年、三十四歳で東軍流免許皆伝を得る。(異説あり)
  • 門弟は五百余人で内蔵助の叔父大石平内が松平讃岐守に仕えた関係と海上交通の地理的な関係もあったと考えられ、赤穂藩からは大石瀬左衛門や潮田又之丞も修業している。
山鹿素行の影響 武士道を直に学ぶ大石内蔵助の画像です

素行が反朱子学の罪に問われて赤穂に配流されたのは寛文六年で、それから延宝三年まで八年九ヶ月(45歳〜54歳)に及びます。大石内蔵助が八歳から十七歳の多感な時期であったこと、同じ城内に住んでいたこと、山鹿素行の配居に十年間内弟子として学んだ二歳年長の磯谷平介が学友に選ばれていることなどから、山鹿素行の感化を受けたことは容易に想像できます。

「金銀請払帳」にみる経済感覚
とても優れた人 瑤泉院(内匠頭の正室阿久利)付家老、落合与左衛門に奥方御化粧料なる預かり金の使途明細を誌した「金銀請払帳」を元禄十五年十一月二十九日に差し出している。
  • 受け取りや証拠が添えてあった。
  • 収支不足分の七両一分を自弁している。
  • 毛頭自分用事には仕候儀御座なく候と添えてあった。
  • 大石内蔵助は自分の藩札の交換もしなかった
これらの事柄から実直で、些事に拘泥しないように見えて実は経済の念に大変、優れた人であったことが窺え、山鹿素行の教えに「金の計算のできない侍は何をさせても駄目」というのがあり、討ち入り資金の管理に生かされています。

内蔵助の出自と経歴など

生年 万治二年(1659) 没年 元禄十六年二月四日(1703)
享年 四十五歳 戒名 忠誠院刃空浄剣居士
権内良昭 三十四歳で早逝した為、良雄は祖父内蔵助良欽の養子となり家督を継ぐ。(父子相伝)
クマ 備前池田家家老池田出羽由成の長女で元禄四年三月四日に京滞在中に病没。浅野家出入りの商人、綿屋善右衛門の世話で京都寺町仏光寺上ル聖光院に葬られる。戒名は「松樹院殿鶴山栄亀大姉」。良昭と死別した後は「鶴」 ・ 「松寿院」と称した。
禄高 千五百石(譜代) 兄弟 弟 専貞(大西坊) ・ 弟 良房(喜内)早逝
役職名 国家老上席 親戚 奥野将監 ・ 進藤源四郎 ・ 小山源五右衛門 ・ 大石孫四郎
屋敷 赤穂城三の丸 ・ 藩士屋敷図大石邸長屋門 変名 池田久右衛門 ・ 垣見五郎兵衛 ・ 大星由良之助良兼(仮名手本)。
幼名 松太郎 仮寓所 山城国山科 ・ 京都四条道場 ・ 武蔵国川崎在平間村 ・ 江戸日本橋石町三丁目小山屋弥兵 衛店。
性格 特筆事項に記載 討入守備 表門 総隊長 吉良邸討入り時の詳細
特筆事項に記載 お預け所 肥後熊本藩 細川越中守綱利
雅号 可笑(かしょう) 切腹場所 肥後熊本藩 細川越中守綱利下屋敷 赤穂四十六士の切腹
妻子 大石内蔵助その3に記載 介錯人 安場一平(あんばいっぺい) 宝永九年(1709)四三歳で没。子孫の保和は男爵となり福岡や愛知県知事を歴任。
変名由来 垣見五郎兵衛の由来は先祖発祥の地江州神埼郡垣見からの説と母方の祖父池田玄蕃の重臣垣見丹下からの説とがあり確定に至っていない。
遺言 「別にしたためるほどのことではないが今夏参勤交代で熊本へ下られる時にでも私の従弟の 大西坊が城川八幡にいるから、 今日のこの好天に、心晴れやかに相果てたとお伝え願います。そうすれば但馬にいる次男のほうへも通ずると思います」
辞世句 大石内蔵助の銘板です「あら楽やおもひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし」
「かかる」は「翳る」(かげる)の説あり。「あら楽し」は「赤穂義士辞典」にあり出典は「江赤見聞記」とある。「あら楽や」は「介石記」「義人遺草」にある。
この詩は泉岳寺に吉良上野介の首を供えて敵討ちを報告した時とされ、ほかに 「極楽の道はひとすぢ君ともに阿弥陀をそへて四十八人」や「花の雲空も名残になりにけり」があります。
■ページの先頭に戻る ■トップページ ■赤穂義士トップページ ■次のページ(大石内蔵助その2)
元禄赤穂事件関連ページ

事件の年譜 刃傷事件・赤穂開城(その1) 山科隠棲・江戸下向(その2) 困窮生活・討ち入り(その3) 泉岳寺・切腹・遺族(その4) 事件の詳細 刃傷事件・内匠頭切腹(その1) 赤穂開城・仇討ち準備(その2) 吉良邸討入り(その3) 引き揚げ・泉岳寺(その4) 切腹・遺子の処罰(その5) 赤穂城・浅野家・吉良家 赤穂城古写真など 浅野内匠頭長矩 吉良上野介義央

赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士) 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼亮
裏門隊(24士) 赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼定 不参加 萱野重實

大石内蔵助の頁へようこそ! © 2011 tadeho All Right Reserved 忠臣蔵のふるさと赤穂においでよ