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知覚と世界

1. 伝統的世界観の問題

今、私の前にある机の上には1つのサイコロが置かれている。その上の面には白地に4つの黒い目が彫られ、私の方を向いた側面には2つの黒い目が見える。これまでの古典的な、しかし極めて根強い考え方によれば、まず物体としてのサイコロがあり、それに当たって反射した光が私の目に届き、その光学的刺激が私の視覚器官で電気的信号に変わり、その信号が神経を伝わって脳の一定の部位に達してサイコロの像が生ずるということになる。したがって、私が今現に見ているのは実際のサイコロではなく、その像だということになる。それがサイコロの像であるから、例えば私が両目を寄せれば、そのサイコロはぼやけて見えたり、あるいは2つに分かれて見えたりするわけであり、また私が色覚異常になれば、サイコロは今とは別な色に見えるわけである。こうしたことはサイコロだけに言えることではない。私の前にある机も、机の後ろにあるベッドも、その後ろにある棚も、棚が接している壁も、壁に掛かっているカーテンも、そして私の体も、すなわち私が体験している世界全体が、上記のサイコロと同様にして生じた像だということになる。それが像であるから、私が両目を寄せれば、そのすべてがぼやけて見えたり、あるいはそれぞれ2つに分かれて見えたりするのである。

しかしこうした世界観は、私の現実の体験からして、明らかに変なのである。そもそも、自分の目の前に最愛の恋人がいて、その恋人をうっとりと見つめている時、誰がそれを現実の恋人ではなく、ただの「像」だと思うだろうか。戦場で敵を目前にしている兵士の誰が、自分を殺そうと迫って来る敵兵をただの「像」だと思うだろうか。大半の人は実際には、大変健全にも、古典的で間違った世界観などには惑わされずに、自らが体験している世界を、通常の場合には、「像」などではない本物の世界であると思って生きているのである。ただ、その実際の体験をうまく整合的かつ包括的に説明することができないだけなのである。

2. 実際の体験

私が時々刻々体験している世界を注意深く観察すると、そこには1つの特徴がある。その世界を見ているのは私であるはずなのだが、「私の体」そのものがその世界の中にすっぽり入ってしまっているということである。通常の状態でも、私は「私の体」の大半の部分を自分の目で見ることができる。またもしやろうと思えば、私は私の右の眼球を少し引き抜いて私の左の眼球を見ることもできるし、その反対も可能である。また同様にして私自身の脳を直接見ることも不可能ではない。結論的に言えば、次のようになる。まず、「私の体」もその中にすっぽり入っている世界が存在するのである。その世界は、私の体をいわば視点ないし知覚点として見られ、知覚されているのである。つまり、その世界は「私の目」の位置から見られ、「私の耳」の位置から音が聞かれ、「私の鼻」のところでその臭いがかがれ、主として「私の皮膚」のところで熱い冷たいが感じられるようにして存在しているのである。

3. 「クオリア」と伝統的世界観の間違い

「クオリア」という言葉が流行っている。外部からの刺激を人体の感覚器官が捉え、それを脳に伝達する。すると即座に何らかの感じが生まれる。例えば一定の波長の光が目に到達すれば、赤や青や緑の色が見える。体のある箇所を棒で殴れば、痛みを感じる。その色や痛みそのものをクオリアと呼ぶ。それだけではなく、こうした色や痛みと同時に感ずる快感や不快感のような感情、思考、意志や意欲といったものもすべてクオリアと呼ぶのである。そしてこのクオリアをどのようなものだと考えるのかということが問題になっているのであるが、この問題でもまた、伝統的な世界観に囚われたまま全く見当違いな議論が繰り返されている。

1人の観察者と共に、1つのサイコロと1人の被験者を用意し、明るい電灯の下で被験者の前にサイコロを置く。観察者は、電灯の光がサイコロに反射して被験者の目に達することも、その刺激が被験者の視覚器官で電気的な信号に変わることも、そしてそれが神経を伝わって被験者の脳の特定部位に達することも、大きな問題なく確かめることができるはずである。この時伝統的な世界観に囚われている大半の人は、被験者の脳のどこかに被験者のクオリア、つまり被験者が見ているサイコロの姿・知覚像が生ずるのだと考える。しかしそもそも観察者は、被験者のクオリア、つまり被験者が見ているサイコロの姿など永久に見ることができない。それは、観察者が被験者ではないからである。御殿場側から富士山を見ている時には、河口湖側から直に見た富士山の姿は絶対に見えないのである。結論的に言えば、まず観察者を中心点・知覚点とした世界がある。つまり観察者は、自分の体を視点として被験者とサイコロを見ている。そして独我論の立場を取るのでなければ、それと同時に、被験者を中心点・知覚点とする世界があると考えなければならないのであり、被験者が体験しているクオリアというのは、結局この被験者を中心点・知覚点とする世界あるいはその一部のことに他ならない。

1つのサイコロと1人の被験者を用意し、明るい電灯の下で被験者の前にサイコロを置いて観察すれば、電灯の光がサイコロに反射して被験者の目に届くこと、その刺激が被験者の視覚器官で電気的な信号に変わること、そしてそれが神経を伝わって被験者の脳の特定部位に達することは確認されるであろう。しかし「電灯の光がサイコロに反射して被験者の目に達し、その刺激が被験者の視覚器官で電気的な信号に変り、それが神経を伝わって被験者の脳の特定部位に達すること」によって存在する、あるいはこうした一連のプロセスと同時に存在しているのは、「サイコロの像」ではなく、「被験者を中心点・知覚点とする世界」なのである。すなわち、まずこの光景を観察している「観察者を中心点・知覚点とする世界」がある。これも大きな世界の一面ないし一部分である。そして同時に「被験者を中心点・知覚点とする世界」があり、それもまた同じ世界の一面ないし一部分を成しているのである。伝統的世界観・知覚観の間違いは、この「被験者を中心点・知覚点とする世界(の中のサイコロ)」を、「観察者を中心点・知覚点とする世界」の中に見出そうとすることから生ずるのである。それは、御殿場側から富士山を直に見ていながら、河口湖側から直に見た富士山の姿を探しているようなものである。

すべての議論の根底にあって、子供にも分かるほど明らかな目前の事実から目を背けさせているのは、従来の伝統的な世界観なのである。すなわち、まず大きな世界ないし空間が存在し、その中のごく小さな一部として、脳を持った人間がいる。それぞれの人間は、感覚器官を通して周囲から刺激を受け、脳の中に様々なクオリア、すなわち色彩や音や痛み、そして同時に感情や意志や思考といった意識を持つようになると考えるのである。こうした考えを持つのは、確かにごく自然なことだと言える。私たちが野外で目を開けば、周囲にはどこまでも果てしの無い空間が広がり、その中に自分と同じような身体を持った沢山の人間が見える。そして同時に私たちは、自分自身が様々な感情や意欲やイメージを懐いていることを自覚し、自分と似た他の人たちもまた同様な感情や意欲やイメージを持っているはずだと思い込むのである。さらに近年、このような感情や意欲やイメージあるいは様々な感覚には、人間の脳の特定部位が密接に関係していることが分かって来た結果、あらゆる感覚的および意識的事象が人間の脳の中で起こっているのだと考えるようになったのである。こうした世界観は一見もっともらしいのであるが、注意深く自らの体験に照らし合わせて考えて見ると、明らかにおかしいのである。まずこの世界観によると、自らが見ている人や物がすべて実際の人や物ではなく、実際の人や物から反射してきた光が電気的刺激となって脳の特定部位に達した結果として生ずる実物の似姿になってしまうのである。実際にはそんな風に思っている者などほとんどいないのに、目の前にいる恋人も友人も、すべてが像だと言うことになってしまう。さらに生まれてから常に見聞きしあるいは触れているすべてのものが実物ではなくて実物の似姿なのであれば、一体どうしてその似姿の他にまた別のものがあることが分かるのであろうか。また別のもの、すなわち実物があることが分かったとしても、その似姿を見ているだけで、実物と似姿が似ていることをどのようにして確かめることができるのであろうか。従来の世界観にしたがえば自らのクオリアないし意識は自らの頭の中にあると言わざるを得ないが、その自らの頭というのは一体どこにあるのか。もし私の胴体の上に付いていて、私の手で触れることができる塊が「私の頭」だと言うのであれば、「私の頭」は私の手で触れることができる世界全体の一部なのであるから「部分の中に全体がある」ことになってしまう。もし私の目を少し引き抜いて逆向きにした時に見える丸い形のものが「私の頭」だと言うのであれば、「私の頭」は私が見ることができる世界全体の一部なのであるから、やはり「部分の中に全体がある」ことになってしまう。

こうした矛盾を解決するためには、従来とは違う世界観が必要なのである。すなわち、まず大きな世界が存在する。個々の人間ないし生物は、自らの体を視点ないし知覚点としてこの世界を部分的に共有しているのである。個々の人間ないし生物は、それぞれの体を視点ないし中心点とする小さな世界を成し、それがそれぞれ大きな世界の一部ないし一面をつくっていると考えるのである。個々の人間ないし生物が自らの体を視点・中心点として形成する小さい世界は、その体、特にその感覚器官や脳の状態によって容易に変わる不安定な世界なのであり、個々の人間ないし生物の私的な世界だと言えるが、同時にそれは大きな世界の一部ないし一面を成し、個々の人間ないし生物の意のままにはならない世界でもあるのである。

(世界観のイメージ図)

世界観のイメージ図

4. 新しい世界観に関するまとめ

1つの比喩を述べたい。ある1つの巨大な物体が真っ暗な闇の中に立っている。その物体の表面には無数の光が当たり、それぞれごく小さな範囲で物体の表面を照らしている。巨大な物体の表面にある光の斑点の各々を良く見ると、巨大な物体の一部と思われる特定の小物体が常に、それぞれの光の斑点に伴って動いており、その小物体を中心にしてそれぞれの光が広がっている。そしてその小物体の状態が変化すると、何故か分からないが、その小物体の周りに広がる光の状態が変わり、照らし出される物体の様子が変化する。照らされる範囲が小さくなったり、大きくなったりするかと思うと、明るさの度合いや色も様々に変わり、時として光が消え、全くの暗闇に戻る。光が当たっている部分は無数にあるが、光が当たっていない真っ暗な部分はそれ以上広い範囲に及んでいる。この巨大な物体は、光が当たったことで始めて存在するようになったわけではない。光が当たることで、物体の表面の一部が視覚的に姿を現すのである。光が当たっていない部分は、間違いなく存在しているのであるが、視覚的な属性が顕在化していないのである。

私たちが生きている世界というのは、暗闇に包まれたこの巨大な物体のように存在し、私たち生物の知覚とは、この巨大な物体のごく一部を照らす光のようなものではないのかというのが私の推測である。従来、知覚というのを何かしら受動的な働きとして捉えることが普通だった。対象から届いた光や音波が感覚器官や神経を経由して、私たちの身体の内部に様々な似姿ないし像をつくりだすのが知覚であるかのように考えて来た。イギリスの思想家ジョン・ロックは明確にこうした考えを述べているが、しかしそれでは像の他に何かしら別のものを私たちが捉えることができるのか、もし捉えているとしたらそれは一体私たちの体験のどこにあるのか、そもそも感覚的な属性を持たないものを私たちが本当に考えることができるのかと突き詰めて問われると全く反論できないことから、ジョージ・バークリーは「存在するとは知覚されることだ」つまり「知覚されて存在する以外、存在しようがない」と言ったのである。ところがこのバークリーも、知覚という働きが何かしら受動的なものであるという先入観から抜けきれていないため、その世界全体を片時も休むことなく知覚し続け、世界全体の恒常的存在を保証する神を設定しなければならなかった。しかし私たちの身体を含む世界というのは、私たち生物の存在や知覚とは関係なく存在すると考えるほうがはるかに自然である。「私の体」を含む世界は、私が寝て起きても、以前と同様に、極めて自然に連続した形で存在している。こうしたことを考えれば、この世界は確かに「私の体」との相関関係によって様々に変化するものであるが、「私の体」が消滅したとたんに同時に消え去るものとはとても思えない。さらに一般的に言うならば、すべての生物がいなくなっても世界は存在し続けると考える方が、そうでないと考えるよりはるかに適切だと思われる。ただしその世界は、感覚器官を持つ生物がそこに出現し、その感覚器官を働かせた時、始めてその生物の体を中心点・知覚点として特定の姿で現れるというようにごく消極的にしか描写し得ない。要約して繰り返すならば、「持続的に存在しているが、その姿を特定することができない世界があり、感覚器官を持つ生物がそれぞれの身体という形でその世界の一部を成しつつ自らの感覚器官を働かせる時、それぞれの体を中心点・知覚点として色や音や匂いに溢れた姿で世界(の様々な面)が現れる」と言うのが最も妥当な表現だと思われる。私たち生物は、その感覚器官によって、世界を存在せしめるわけではない。暗闇に包まれた物体の一部を光が照らし出すように、既にそれ自体として存在する世界に働きかけ、その世界の感覚的属性を顕在化し、世界の一部を感覚的に浮かび上がらせるのであり、そうした能動的な働きが知覚であると考えるべきだと思う。

私が目を開くと、私の前に例えば1人の友人が見える。この時、この友人が本物の友人ではなく、本物の友人の像なのだと考える必要はない。私が目を開いた時に私の前に広がる世界は、私の視覚が顕在化し、照らし出した本物の世界なのであり、それ以外ではあり得ないのである。私の視覚の作用が加わっている世界であるから、他に何の変化が無くとも、私の視覚に係わる部分の状態に応じて、ぼやけたり、二重になったり、あるいは消えたりするのである。私が懐中電灯で真っ暗な道を照らす時、道そのものに変化が無くとも、道を照らす光の具合によって、道がはっきり見えたり、ぼんやり見えたり、あるいは消えたりするのと同様である。逆に道を照らす光に何の変化が無くとも、道そのものが変わることもあるように、私に見える世界の全体は、私の目の位置を中心に広がっていて、私の目や脳の状態に応じて変化し、私にしか体験できないという意味で私の私的な世界だと言えるが、同時に大きな世界の一部ないし一面でもあって、私の意のままになるわけではない。また私が目を開いた時に私の前に広がる世界は決して、私の目の奥からホムンクルスが覗いて見える光景ではない。つまり私の中に私の核のようなものがあって、その核が知覚し、その知覚像を持っているといった想像は、従来の知覚観・世界観を捨てきれないことから来る妄想であり、私の前には本物の世界が、私の身体を含めて、ただそのまま広がっているとしか言いようがないのである。

私と私の友人が横に並んで1つのサイコロを見ている時、私が私の感覚器官によって照らし出した世界の一部と、私の友人が自らの感覚器官によって照らし出した世界の一部とが、そのサイコロとサイコロの周囲で部分的に重なり合い交差するが、私と私の友人が顕在化する世界が互いに混じり合うことはない。私の身体を中心点・知覚点とする世界と、私の友人の身体を中心点・知覚点とする世界が部分的にも混じり合うということは、視覚だけに限って言うならば、1人の人が同じものを複数の視点から同時に直接見ることができるということであり、私たちの常識と矛盾してしまう。この同じ状況で、私が私の友人の脳の中に友人のクオリア、すなわち友人に見えているサイコロの姿を見つけたとすると、私は、私の目と友人の目という2つの異なる視点から同時に直接1つのサイコロを見られることになってしまい、私たちの常識と矛盾してしまうのであるが、そのことに大半の人は気が付いていない。私たちの日常生活でも、例えば暗闇に包まれた1本の道路の2方向からそれぞれ赤と青のヘッドライトを付けた2台の車が近づいて来るという状況を想像することは難しくない。中間地点の道路脇に立つ標識板には、入射した光が再び入射方向に帰る特殊な再帰反射シートが貼られている。2台の車のヘッドライトが同時にそれぞれ別方向から標識板を照らした時、一方の車からは赤い標識板が見え、他方の車からは青の標識板が見える。一方の車のヘッドライトが消えれば、他方の車から赤あるいは青の標識板が見えるのに、一方の車からは標識板が全く見えなくなる。これと同じようなことが、私たちが生きている世界にも見られるのである。

私たちそれぞれが現に見、聞き、感じている世界が、像などではない本物の世界なのであって、それ以外に本物の世界などないのだという認識は、様々な形で徐々に広がりつつあるように思う。しかし、私たちが見、聞き、感じている世界が像などではない本物の世界なのだとすると、そうした世界がなぜ、時としてぼやけ、時として二重になり、時として消えうせてしまうのかが多くの場合説明されていない。私が体験している世界は、私の脳や感覚器官とのかね合いで、容易にぼやけたり、二重になったり、消失してしまうものなのであるが、その時本物の世界自体もまたぼやけたり、二重になったり、あるいは消えてしまうと言わなければならないのか。私が体験している世界は、基本的に私の存在とは独立に存在していながら、しかしまた、私の個人的な作用が同時に及んでいる世界でもあると考えなければ、上記の疑問に答えることができないように思えるが、多くの説ではその点の説明が不十分なのである。また私が現に見、聞き、感じている世界が本物の世界だとすると、(独我論の立場を取るのでなければ)横にいる私の友人が現に見、聞き、感じている世界もまた本物の世界だと言わなければならないのだが、これらがそれぞれ同時に本物の世界であって、かつ同じ1つの大きな世界の一部だと言うためには、それらの間の関係をどう考えたら良いのかについても大半の場合説明されていないのである。

世界観の変更と共に、自然科学の意味も従来とは異なって考えなければならない。物体の世界には音も色も臭いもなく、これらの属性は感覚器官を通して始めて生ずるのであり、この物体の世界に関する学問が自然科学だというのは全くの見当違いである。というのも、ガリレオであろうとニュートンであろうと、あるいはアインシュタインであろうと、彼らが神でないのであれば、結局私たちと同様に、自らの身体を中心点・知覚点とし、青や緑や赤の色彩に溢れ、様々な音や寒暖の感じや触感に囲まれた世界の中で生まれ、育ち、実験し、思考し、著作したのであって、それ以外の特別の世界を体験したわけではないからである。落体の法則を発見したガリレオは、様々な色や様々な大きさや様々な重さの物を様々な条件で落下させたのであって、色や音や寒暖の感じの無い別世界で実験をやったわけではない。知覚の世界を様々に視点を変えて見ることで、他者の身体を中心点・知覚点とする世界を擬似的に体験し、そうした視点・知覚点の相違にもかかわらず成り立つ規則性を見出そうとしたのであり、その結果として、物体と落下の関係について、「空気の影響を無視できる時、重力の作用で落下するすべての物体は質量に関係なく、時間に比例する速度で落下する」と予想したのである。

5. 「他者」と「世界」の存在

これまで私は、私が時々刻々体験している世界で出会う別の人もまた、私と同様に「その人の体を中心点・知覚点とする世界を体験している」ものだと仮定して話を進めて来た。しかし本当にそう考えても良いのだろうか。すなわち本当に「他者」は存在するのか。

「私の体」と「別の人の体」が根本的に違っていないことを考えれば、その「別の人」が私と同様の、しかしその人を視点・知覚点とする世界を、私と同様に時々刻々体験していると推測する方が、そうでないと推測するより妥当であろうと思われる。さらに言うならば、世界の中には無数の生物がおり、それぞれの生物は「自らの体」を視点・知覚点とする世界を時々刻々体験していると推測する方が、そうでないと推測するより妥当であろうと思われる。しかし、そう断定する証拠は無い。私が時々刻々体験している世界だけを頼りにして、その世界にいる他者が、私と同様な世界を体験しつつあるのかどうかを判断しようとすれば、私が私である限り、私は決してその他者の世界を体験することができないのであるから、直に確認することができない。そもそも私を含む無数の生物が、それぞれの体を視点・知覚点として、ただ1つの同じ世界を部分的に共有しているというのは、私たちがほとんど自覚無しに持っている共通の大前提なのであり、「他者の存在」はその前提の一部なのである。

私が時々刻々体験している世界は常に変化している。すなわち、目の前の世界は次々と同じものではなくなる。この時、次々と変化する世界がそれぞれ違う世界だと考えたならば、「時間」という概念は生まれなかったに違いない。すなわち根本的に違う無数の世界が目の前に現れては消えるという風に考えるのではなく、1つの世界が、根本的には同じ世界でありながら次々に同じでなくなると考えた上で、同じ世界の無数の違う姿をつなぐ1本の長い糸のような存在として想定されたのが時間の概念なのである。

要するに私たちが時々刻々体験する世界は、根本的には1つの同じ世界でありながら、無数の違う面ないし部分を持ちつつ、次々と違う姿になるのだと考えることから統一的な世界と時間の概念が生まれたのだと思う。こうした概念は、本来私たちが世界を捉える時に前提として考えられた大きな仮定に基づくものなのである。この仮定が妥当であるのかどうか、すなわち私たちが時々刻々体験する世界が、私たち自身でも気付かないうちに根本的に違うものに次々と移り変わっているのでなく、私たちが様々に異なった視点から見るものが根本的に違う世界でないのかどうかは良く分からない。私たちがほとんど自覚無しにつくり上げた仮定が妥当であるかどうかは、私たちがこの仮定の下で行動しながらこれまで生存し続けることができ、今後とも生存できることでしか確かめることができないと思われる。

6. 心

私は、私が長年可愛がっていた亡き愛犬の姿や鳴き声、あるいは抱き心地を今でもはっきり思い出すことができる。と言うより、忘れようとしても未だに忘れることができない。そうして思い出した愛犬の姿を、私は絵や彫刻によって、不完全ながらも知覚の世界に再現することもできる。こうした愛犬の思い出の姿は、はっきりどのようなものだと説明することはできないが、しかしやはり存在しないというわけにはいかないものであるように思われる。また私は、知覚の世界に生きていながら、同時に様々な想像を巡らせ、うきうきとしたり、悲しんだり、恐れたり、怒ったり、あるいは論理的に思考したりしている。時として、精神分析学が示すように、自分自身でも明確に掴めないような隠れた複雑な感情があって、それが顕在化することもあるように思われる。また時として私は、内から湧き上がって来るような意欲を感じる。そしてそれは、いかにも知覚の世界の中にある私の体と連動し、私の体を一定の行動へと駆り立てるかのようにも思える。様々な想像やイメージが現れる場、様々な感情や意欲や衝動がわき上がって来る場、その奥底は深遠で、自分でも分からないような思いが潜んでいるような場、あるいはそうした想像や感情や意欲や衝動や思いの総体。ごく大雑把に言えば、私たちが日常生活で「心」と呼ぶのはこういったものである。

こうした心については、古くから様々な小説の題材となり、あるいは20世紀の前半ではフロイトがその構造や特徴を緻密に調べて精神分析学という新たな学問分野を開拓し、さらに最近は脳科学が心の働きと脳の特定部位との関連を微に入り細に渡って研究している。観察者と被験者が同一である場合、つまり私たちが私たち自身をふり返って見る場合には、こうした想像や感情や意欲や衝動や様々な思いが自らの内にあることを否定する者など、よほどの変わり者でない限りほとんどいないに違いない。しかし観察者が被験者ではない場合、つまり私たちが他の人を観察する場合には、心に関する知見が山のようにありながら、果たして「心」といったものが存在するのかとか、存在するにしても、他の人の「心」というのは一体どこにあると言ったら良いのかとか、あるいは存在するのにも係わらず、一体なぜ他の人の「心」というのは直に見たり触ったりすることができないのかといった問いに大半の専門家も答えることができないという奇妙な状況にある。また心というもののそうした捉え難さを背景として、そもそも心など無いと主張する者もいる。あるいは私が懐く想像や感情や意欲や衝動や思いは、私の身体の上部に付いている私の頭部を切り開いた時に見える脳や細胞などとは明らかに全く異質であるにも係わらず、心と脳とは同一であるといった説を大真面目に唱える者などもいるのであるが、大半の場合それは、個別科学での成果を笠に着て火を水と言いくるめようとしているとしか思えない。

こうした混乱や戸惑いが生まれる原因は、やはり従来の伝統的な世界観・知覚観で無理やりすべての現象を見ようとしていることなのである。従来の世界観・知覚観で考えれば、被験者の心は被験者の身体、特に頭のどこかにあるはずなのだが、被験者の頭を切り開いていくら探し回っても、被験者が懐くイメージや喜びや痛みや、あるいは被験者が見ているはずの人や物などを見つけることはできない。そこにあるのは被験者の脳であり細胞だけなのである。だから、そもそも「心」などという特別なものなど元から無かったのだと言うか、あるいはせいぜい、現に見える脳が心に他ならないのだと言い張ることになってしまうのである。

新しい世界観・知覚観で見れば、私たち生物の心は、最も広義には、それぞれの身体・知覚点を中心に広がる世界を指し、より狭義には、それぞれの世界の中で、それぞれの知覚と分かちがたく結びついている様々な働きの総称であると言えるように思う。また私たちが他の人の心を直に体験することができないのは、世界の構造がそうなっているからだとしか言うことができない。つまり御殿場側から富士山を直に見ている時には、河口湖側から直に富士山を見ることはできないように世界がなっているからだとしか言いようがないのである。それぞれの身体を中心点・知覚点として広がる世界は、1つの大きな世界のそれぞれ別の面・部分なのである。私たちの日常生活でも、1つのものを2つ以上の異なった視点から同時に直接見ることができないのと全く同様に、同じ1つの大きな世界の複数の面・部分を直接同時に体験することはできないのである。

7. 世界の更なる特徴

私が時々刻々体験している世界を一層注意深く観察してみると、さらに幾つかの特徴があることに気付く。その1つは、知覚の世界であっても、そこに「私の判断」と呼べるような働きが既に加えられていることである。例えば、今私の前には小さな丸テーブルがあり、その上に本や手帳や携帯電話やコーヒーカップがのっている。私の左には同じような丸テーブルが1つ、私の右には同じような丸テーブルが3つあり、さらに前方のやや離れた場所にはカウンター形のテーブルと4つの籐の椅子が置かれている。私は、この目の前の光景を様々な色が平面的に入り混じったものと見ているのではない。視界にある全体を、上下左右の広がりと前後の奥行きがある空間として見、目の前の茶色の丸形を、ただの模様ではなく「物をのせる台」すなわちテーブルとして見ているのである。

知覚の世界にこうした判断が加えられていることは、心理学でよく使われる反転図形を例に取るとはっきりする。同じ図形でありながら、それが2人の人の顔に見えたり花瓶に見えたりするものや、兎に見えたりアヒルに見えたりするもの、あるいは底面が手前にあるように見えたり奥にあるように見えたりする直方体などの図形である。こうした反転図形では、それを単なる色の広がりとか意味の無い模様として見ることが逆に難しく、何かしら既知のものとして見ることが自然なのである。これらの反転図形が意味するのは、私が物を見ている時、私に見える知覚の世界には私の判断とでも呼ぶべき働きが既に加えられているということである。知覚の世界の特定部分を例えば「人の顔」、あるいは「花瓶」、あるいは「兎」、あるいは「アヒル」、あるいは「手前にあるもの」、あるいは「奥にあるもの」と見なしているのである。

一般的に言えば、私は、私の体の回りに広がる世界を無数の部分に分け、その内の幾つかの部分を同じものとして見ているのである。さらにその区分は、時として二重三重に重なりあっていることもある。つまり目の前を横切る小さな黒い塊は「生物」であり、「動物」であり、同時に「猫」なのである。知覚の世界をすべて一緒にひっくるめて見るのではなく、幾つもの部分に分けること、そしてその内の複数のものを「同じもの」として見ることは私の能動的な働きであり、これまで「抽象」と呼ばれて来たものである。複数の対象を「同じもの」として見、その特徴を把握して他のグループと区別し、それに「男」、「女」、「人間」、「犬」、「生物」、「机」、「椅子」、「本」、「茶碗」といった名前を付けることが、すなわち従来「一般概念の形成」といった言葉で言われて来たことである。

8. 想起

私が時々刻々体験している世界は、常に変化している。しかし、私はどうしてこうした変化を知ることができるのであろうか。「変化」というのは、簡単に言えば「あるものが違うものになる」ことである。一般に「同じ」あるいは「違う」と言う場合には、少なくとも2つのものがなければならず、そしてそれらを比較しなければ、それらが同じなのか、違うのかを判断することができない。つまり私の体を含む知覚の世界が変化していることが分かるためには、今現在知覚している世界と少し前に知覚していた世界とを比較しなければ、今現在知覚している世界が変化したと分からないはずなのである。とは言っても、少し前に知覚していた世界というのはもはや存在しない。したがって、比較しているのは直接「知覚の世界」と「知覚の世界」ではないのである。

私が時々刻々体験している知覚の世界というのは、透明な細長い形のものを、私の体から少し離れたところにあるコップと見なし、そのコップの周りにある薄茶色の正方形をテーブル(の天板)と見なし、それに接するように広がっている大き目の長方形を、テーブルより遠くにあるベットと見なし、ベットの端につながる縦長の形を部屋のドアと見なすようにして存在する知覚の世界、すなわち私の様々な判断が加えられた知覚の世界である。特定の時点における知覚の世界に対しては、その世界に加えられた無数の見なしの働きがあり、知覚の世界がやがて変わっても、その見なしの働き方が何らかの形で残るのではないかと思われる。そして私は、少し前の過去(の知覚の世界)に伴う見なし方の全体と今現在の知覚の世界に加えられている見なし方の全体を比較して、知覚の世界が変化していることを知るのではないかと思う。ちなみに、知覚の世界に加えられた様々な見なし方が何らかの形で残るというのは決しておかしいことではない。私たちの日常的な経験でも、一度覚えた泳ぎ方やラケットの振り方が何年ものブランクを経ても体に記憶されていることがあるからである。

過去を思い出すというのは、過去のある時点の知覚世界に付随していたこうした見なし方が、知覚世界を伴わずに再び働くことであり、その時に生まれるのが、あの映像のような想起体験なのではないだろうか。一方例えば「あるものをコップと見なす」という判断ないし働きを言語で表現すると、「これはコップである」とか「あれはコップである」といった命題となるのであり、したがって過去の知覚の世界を想起するとは、その知覚の世界に関する無数の言語命題を保持していることであると言うこともできるのである。

上手な漫画家が描いた似顔絵が、描かれた本人よりも本人らしかったり、上手な物まね芸人の表情が、まねされた本人よりも本人らしかったりすることがしばしばある。私たちが人の顔を見る時には、その人の顔の各部分を様々に見なして捉える。言い換えれば、顔の各部分を類型化ないしパターン化して捉え、それを保持するのである。すなわち、その人の眉毛を、写真機で撮るようにではなく、「げじげじ眉毛」とか「三日月眉毛」として、その人の目を「どんぐり眼」とか「たれ目」とか「きつね目」として、その人の鼻を「わし鼻」とか「座っている鼻」とか「鼻筋が通っている(鼻)」として、その人の顔全体を「丸顔」とか「細面」としてパターン化して大雑把に捉え、そのパターンを保持するのである。そして私たちが似顔絵や物まねを見る時には、私たちがほとんど自覚無しにパターン化した顔のイメージとその似顔絵や物まねを比較するため、似顔絵や物まねのパターン化が的確であれば、互いにぴったりと一致してしまうことが起こり得るのである。

9. 「想起」に関する補足

「想起」ということを、知覚された世界あるいはその似姿が再び現れることだと単純に言うことはできない。かつて体験したのは本物の知覚の世界であり、それが再びどこにどう現れると考えれば良いのか分からないからである。それは、「想起」と言っても、かつて体験した本物の痛みや痒み、あるいは本物の怒鳴り声がよみがえるわけではないことを考えればより明瞭になる。また実際の知覚の世界ではなく、それを描いたスケッチや写真のような像が再現するのが「想起」だと言うこともできない。それは、スケッチや写真にしても知覚の世界の一部なのであるから、やはり知覚的なものがどうして知覚の世界ではないところに再現するのかが良く分からないからである。

一方「想起」というのは、かつて体験した知覚の世界あるいはその類似物の再現だとは考えられないが故に、かつての知覚体験とは直接関係が無いという極端な考え方もある。「想起」というのは、主として様々な言語命題の集まりであって、そうした命題は、言明自体の矛盾の無さとか、現在の知覚体験との自然なつながりとか、あるいは人々の証言の一致といったことから導かれるのだとする考え方である。

こうした考え方は、宇宙の開闢論とか、歴史の編纂作業といった、直接その場に立ち会った人がいないような問題についての説明では当てはまるかもしれないが、上記の第8項で挙げたようなごく身近な例では明らかに当てはまらない。例えば、ついたてを置いて互いを見ることができないようにした100人の誠実な聴衆を前にして私がテーブルを挟んで座っているとする。私がまず大きいな声で「OK」と言いながら私の携帯電話を右手の上に載せ、しばらくしてその携帯電話を左手の上に載せ変える。そして私が「OK」と言った時点の携帯電話と現在見ている携帯電話の位置について、目の前にいる100人の聴衆に挙手を求めて尋ねたならば、これらの人々は間違いなく、この携帯電話の位置が変わっていると答えるであろう。それだけではなくこれらの人々はすべて、私が「OK」と言った時には、その携帯電話が私の右手の上にあったと証言するに違いない。「私(著者)がOKと言った時、その携帯電話は私(著者)の右手の上にあった」という言語命題は、言明自体の矛盾の無さや現在の知覚との自然なつながりや多くの人々の証言の一致から必然的に導かれるものではない。言明自体の矛盾の無さや現在の知覚との自然なつながりを考えれば、「その携帯電話は私(著者)の右手の脇にあった」という言語命題でも良いのである。しかも「その携帯電話は私(著者)の右手の上にあった」という言語命題が真であることを、100人の聴衆は互いの証言の一致を根拠にして答えたわけではない。私が仮定した状況では、これら100人の聴衆全員が恐らく推測というより、明らかな確信を持って「その携帯電話が私(著者)の右手の上にあった」と答えるに違いない。これはやはり、私が「OK」と大声を張り上げた時に聴衆のそれぞれが体験した知覚の世界に付随する何かが、私の質問の時点でもそれぞれの人に残っていることを示すのだと思われる。

10. 近代の哲学と新しい世界観

近代の多くの哲学者たちも、これまでに述べた世界観・知覚観とほとんど同じような図式で世界を捉えている。まず一方に、実際の世界である客体・客観がそれ自体として存在する。他方に、知覚し、想像し、思考する主体・主観がある。主体・主観は、見たり、聞いたり、感じたりという知覚の働きを通して客体・客観からの刺激を受け、客体・客観の像をつくるというような思い込みである。したがって、私たちが現に目の前に見ている世界は、実際の世界そのものではなく、それぞれの主体・主観に対して現れた個別的な現象であり像だということになる。

フランスの哲学者であるデカルトは、自らの著書「方法序説」の中で「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」という有名な言葉を書いており、これを最も根本的で重要な認識であるとしているが、この回りくどい言葉は、上記のような図式を前提にしなければ、その意味が良く分からない。主体・主観である私たちは日常的に色や音や臭いに溢れた世界を見、聞き、感ずるが、それは、客観的な世界が存在することの十分な証拠とはならない。というのも、私たちが見る世界は客観的な世界自体ではなく、あくまでも現象なのであり、ひょっとすると極めて良くできた夢や想像のようなものかもしれないからである。しかし例え夢や想像の中で何が絶対確実に存在するのかと考えているのだとしても、考えているということそのものは否定し得ないのであり、それ故考えるという働きの担い手である主体・主観の存在を疑うことはできないとデカルトは言うのである。

ドイツの哲学者カントも、やはり同様な図式で世界を捉えている。彼は実際の世界を「物自体」と呼び、この物自体については、それが存在すると言わざるを得ないものではあるが、どのようなものであるかはほとんど知り得ないと考えている。主観である私たちは、自らの知覚を通して、客観である物自体から刺激を受けて色や音や臭いを生み出し、現象の世界をつくるのであり、この現象の世界こそ、私たちが現に目の当たりにする世界なのである。現象の世界をつくっている色や音や臭いという素材そのものは、物自体からの刺激を受けて生ずるのであるが、その素材を組み合わせ、個別的な現象につくり上げるのは主観の働きであり、その構成の仕方には一定の規則性がある。そしてこうした規則性はすべての主観に共通だと考えるのである。だからこそ、私たち主観は、私たちが目にする世界に関して、場合によっては経験を全く介することなく、絶対確実な知識を得ることができるし、その知識が他のすべての主観についても妥当する普遍的なものであり得るのである。例えば万有引力の法則は、ニュートンという1人の特定の人によって発見されたのであるが、ニュートンだけではなく、すべての人が体験する世界に妥当する。それは現象の世界が、主観自体によって一定の規則性の下で構成されているからだとカントは言うのである。

この図式は、現象学を創始したドイツの哲学者フッサールにも濃厚に残っている。フッサールはもちろん、客観的な世界がそれ自体として存在するという思い込みをはっきり自覚し、その思い込みをやめなければいけないと考えている。その上で、私たち主観に個別的に現れる現象に探求の対象を絞り、無前提で事象そのものの解明に努めるべきだと言うのである。しかし私たちが目の前の世界を見て言えることは、目の前に世界があるということだけである。その世界が、現象であり、意識の体験だと言うのは、客観と主観の作用によって客観とは別のものである現象が生ずるという図式を前提にしなければ理解できない。つまり、何物かが主観の作用する場である意識に現れるのであるが、元の物は不可知であり、それについて議論するのは不毛であるので、現れたものの方を専ら調べようというのである。

それ自体として存在する客観と知覚する主観があり、客観からの刺激を受けて、客観とは別のものである現象が主観に対して現れるという図式を、私は受け入れない。その理由は論理的なものではないが、十分に健全なものだと信じている。この図式によれば、私が目にしている世界は実際の世界ではなく、その現象だと言うことになるが、毎日通る公園で様々な色の花や枝を張る木々を見かける時、いつも散歩する土手に沿ってゆったりと流れる川や、見上げた空に浮かぶ白い雲や、近所の道を歩いている多くの人を目の当たりにする時、それが全体として個別的な主観に現れただけの像であり、同時に多数の主観にも同様なものが生じているなどということをまじめに考えることなどできないからである。また上記の図式がどのような帰結を生むかを突き詰めて考えると、私たちはそれぞれ、窓の無い映画館の中で、たった1人で「世界」という映画を見ているといった異様な状況にあると言わなければならなくなってしまうからである。何人もの高名な哲学者がこうした図式で世界を捉えるのは、容易に変化する目の前の世界のあり方を整合的に説明するという動機に引きずられて、目の前の世界の現実味から眼をそらせてしまった結果だとしか思えない。こうした哲学者の教説は、あまりに難解な用語や表現によって具体的内容とその帰結が一般の人々にはっきり理解されないまま、あるいは理解されないことによって評判だけが高いという状態にあるように思う。

上記の言葉を用いて新しい世界観を説明すると次のようになる。まず、見たり、聞いたり、感じたりという知覚を、何物かから刺激を受けて像ないし現象をつくるような受動的な働きであるという従来からの思い込みをやめ、暗闇で光がものを照らし出すように、何物かに働きかけて、それを顕在化するような能動的な働きだと考えなければならない。主観は元々客観の一部であり、それが知覚を働かせて、自らを含む客観を部分的に顕在化し、照らし出すのである。したがって私たちが目の前に見、その中で生きている世界は、主観の知覚によって顕在化された客観そのものに他ならない。ただ1つの客観があり、多数の主観が同様にその一部を成しているのであるから、現象学などで問題となる間主観性、つまり複数の主観に共通して妥当するのは何故かといった問題が改めて問われることはない。後期のフッサールや、彼の後継者と見なされているハイデッガーやサルトルやメルロ・ポンティの実存主義でも、私たちが目の前に見、その中で生きている世界を、すべての主観にとって共通の一種客観的なものだと考えるという姿勢がある。しかし、それまで個別的な現象だとしてきたものが実は客観的な世界だったということについての納得の行く説明は無い。それぞれの人が窓の無い映画館の中で、「生活世界」という互いに他と共通点のある同様な映画をたった1人で見ているのではなく、本当に映画館を出て、野外で他の人と一緒に1つの同じ世界を見ているのだということは、間主観性があることだけから断定することはできない。多数の主観が同一の客観そのものを体験しているという基本的な考えには共感できる。しかし、事実としてそうなっており、現象学ではそれを詳細に記述することが唯一絶対の目標だと言われても、それがどのようにして可能なのかという、より広い視野からの説明が無いことには不満であり、間違いではないけれども不十分だという気持ちが私には残ってしまう。

11. 心身問題

人間というのは心と体が合体したものであるという信念が古くからある。「心」というのは、思考や感情や意志といった形で現れ、身体の動きを制御するものと思われてきた。ただの物体である身体が、このような心と合体することによって、世界の中で能動的に動き回る人間が誕生するのであり、人間の死とは、こうした心が身体から離れて、身体がただの物体に戻ることだとされるのが常だった。例えばある人が目の前にある新聞に手を伸ばす時、新聞を読みたいという欲求と目の前にあるものが新聞であるという判断から手を伸ばしたと考え、欲求と判断という心的な原因によって、手を伸ばすという身体ないし物体の運動が生じたと説明されることが多かった。しかし同時に、脳の特定部位の興奮状態が神経を通って腕の筋肉の収縮を引き起こし、結果として目の前にある新聞に手を伸ばすという身体運動が生じたという説明も成り立つ。手を伸ばすという身体運動の本当の原因は、欲求や判断のような心的なものなのか、あるいは脳の状態といった物的なものなのか。心と身体は一体どのような関係にあるのかという問いが心身問題と呼ばれてきたものである。

心身問題の議論をする場合には、まず何が「心」で何が「身体」であるのかを特定しなければならない。もちろん「心」と「身体」の詳しい属性を始めから言う必要はない。しかし何を「心」と呼び何を「身体」と呼ぶのかを、ともかくも議論に係わる人たちが誤解しない程度にはっきりとさせなければならない。そうでなければ、結局それぞれの人が持っているこれらの言葉のイメージとそのイメージから導かれる結論をただ互いに言い合うだけのことになってしまうからである。例えばここに、観察者と被験者がそれぞれ1名ずついるとする。この時被験者の身体については、観察者は特に大きな問題も無く特定することができるであろう。場合によって観察者は、様々な機器を使って被験者の身長や体重や血圧や心拍数を測定することもできる。ところが従来の知覚観・世界観に囚われている限り、そもそもどこにどのようにしてあるものを被験者の心と呼ぶべきなのかを観察者ははっきり特定することができない。観察者がどう努力しようとも、被験者の心を被験者の身体の内外に見出すことができないからである。しかし大半の人たちは、自分自身を省みる時、そこに自らの心と呼べるようなものがあることを感じており、心が無いなどと言うことができない。そこで従来は、物体のあり方と心のあり方がそもそも違っているのであって、そのために物体である被験者の身体については観察者が見たり触ったりできるのであるが、被験者の心についてはそれができないのだと説明されるのが常だった。しかしこうした都合の良い口実を設けて「心」の特定を怠って来たことが、心身問題の議論を不毛なものとし、少しでも有意義な議論を望む者から「機械の中の幽霊」などという言葉で揶揄を受ける結果を招いたのである。

新しい世界観で考えれば、被験者の心は、最も広義には、被験者の感覚器官が照らし出し、被験者の身体を中心点・知覚点として広がる世界だと言える。被験者の思考や感情や意志といったものは、ともかくもこの世界で生ずると考えられるからである。もちろんこの世界を観察者が直に見たり、触ったりすることはできない。しかし新しい世界観では、その理由をはっきり説明することができる。つまり観察者は自らの身体を視点として被験者とその周辺を観察するのであるが、独我論の立場を取らなければ、同時に被験者が被験者の身体を中心点・知覚点として体験している世界が共にあると考えなければならない。そして観察者の身体を中心点・知覚点とする世界と被験者の身体を中心点・知覚点とする世界とは同じ大きな世界のそれぞれ別の面・部分であるので、それらを同時に体験するわけには行かないのである。とは言っても例えば被験者が見ている世界の範囲だけであれば、被験者の目の位置から広がる視界全体であるから、観察者ははっきり特定することができるし、被験者の触覚の範囲であれば、被験者の身体全体だと考えることができる。つまり新しい世界観では、心の所在を全く特定できない従来の世界観に比べて、はるかにはっきり「心」を考えることができるのである。

そして新しい世界観で心身問題を考えれば、ともかくも次のように言うことができる。まず、被験者の心というのは、最も広義には被験者の身体を中心点・知覚点として広がる世界であるから、被験者の身体は被験者の心の一部ということになり、互いに緊密な対応関係が見られる。特に被験者の感覚器官や脳の状態が変化すれば、目の前の世界全体がぼやけたり二重になったりするであろうし、場合によっては突然目の前の世界全体が悲しみや喜びの様相を帯びるかもしれない。逆に目の前のものを新聞だと判断した時と毒蛇だと判断した時には、それぞれ互いに異なる脳の部位に興奮が起こるであろう。フランスの哲学者であるメルロ・ポンティは自らの著書「知覚の現象学」で、身体とその身体を取り巻く世界を、1つの心臓とその心臓を持つ人体全体との関係に喩えているし、日本の哲学者である大森荘蔵は自らの著書「物と心」で、身体とその身体の周りに立ち現れる世界について、互いに対応して変化する「共変」の関係にあると書いている。そして大雑把に言えば、被験者の欲求や判断は被験者の心の特定の状態だと考えられるから、被験者が目の前にある新聞に手を伸ばす時、その直前の心の状態を描写して、新聞を読みたいという欲求と目の前にあるものが新聞であるという判断の結果として、手を伸ばすという身体運動が生じたという説明がなされる。もちろん実際には、観察者は被験者の心の状態を直接観察することはできないから、結局被験者の態度や言葉からの推測と観察者自身の心との比較類推によってこうした説明をするしかない。一方観察者は、専ら自らが直に見たり触れたりしている世界で被験者の脳や神経や腕の筋肉といったものを機器を使って観察し、被験者の脳の特定部位の興奮が神経を通って腕の筋肉に伝わった結果として目の前の新聞に手を伸ばすという被験者の身体運動が生じたと説明することもできる。特に近代において、脳や神経や筋肉、つまり人体に関する知見が増え、また様々な機器が作られたために、後者のような説明が可能となったが、それまではこうしたことができなかったために、否応なく前者のような説明をせざるを得なかった。これらの説明は、それぞれ、被験者の心、つまり被験者の身体を中心点・知覚点として広がる世界の状態に力点を置くか、観察者から直に見える被験者の身体の状態、つまり観察者の身体を中心点・知覚点として広がる世界の中の被験者の身体の状態に力点を置くかという点で異なっているが、目の前の新聞に手を伸ばすという被験者の身体運動の説明として、どちらも基本的に間違っているわけではない。

心身問題

しかしそれでは、一体何が被験者の身体運動を根本的に引き起こしたと言うべきなのであろうか。脳の特定部位に興奮が生じ、その刺激が神経を通って腕の筋肉の収縮を引き起こすことは科学的に説明できるかもしれないが、そもそも被験者が新聞を読みたいと思ったちょうどその時に、腕の筋肉の収縮を引き起こすはずの脳の特定部位の興奮がなぜ旨い具合に起こるのかが良く分からない。私が思うに、新聞を読みたいという欲求を持ち、目の前にあるものが新聞であるという判断を下し、同時に脳の特定部位に一定の興奮を生ぜしめ、その刺激を神経から腕の筋肉に伝えて手を伸ばすという身体運動を引き起こすのは、結局、被験者が生物として持っている力だと考えるべきではないだろうか。力という言葉を使わなければ、被験者が生物として本来的に持っている生きようとする傾向と言うこともできる。私たち生物は、私たちの思惑とは全く関係なく存在する世界の中に身を置いている。私たち生物の身体は、本来極めて不安定な状態のものであり、常に安定した状態に向かおうとする世界に対抗し、必死になって自らの存在を維持しようする。私たち生物は、自らの能力や自らの思惑の及ばない要因に応じてそれぞれ一定期間その存在を維持した後、やがて例外なく強大な世界の流れに飲み込まれ、ついには安定した状態である死に至り無生物に戻る。永遠とも言える長い時間の間にほんの僅かの期間生物として存在し、やがてまた存在しなくなるのが一体何故なのか。最初から生物などというものが全く存在しないほうが自然なのに、そうなっていないのは何故なのかということはもちろん分からないが、現に私たちは生物としてこの世界に存在している。そして生物である限りは、少しでも長く存在し続けようとするのであり、その力を持っている。この生物としての力によって、あるいは生物が本来的に持っている生きようする傾向の1つの相として、身体の代謝が維持されると同時に、知覚を働かせて自らの周囲の世界を顕在化し、より旨く食料を手に入れ、危険な障害や敵から身を守り、最新の知識を得るために目の前にある新聞に手を伸ばすのである。

12. 意志

「意志」という言葉はこれまでどのように使われて来たのであろうか。「意志」は生物に特有のものであって、無生物には無い。例えば落下する1つの石について、それが落下の意志を持っているとは通常言わないし、渓谷を流れる川の水にも意志は無い。太陽の周りを回る地球や地球の周りを回る月も、回転の意志を持って回っているとは言わない。つまり1つの個体の動きが外的な力あるいは要因によって完全に決まってしまうような場合、その個体に意志があるとは言わないのである。一方人間は心と体が合体したものであって、心は体の動きを制御する力があるという信念が古くからあり、そうした信念に基づいて、一定の目的に向かって体を動かす心の働きを意志という言葉で呼んで来た。しかし身体そのものは物体であり、物体であれば、その動きは外的な力あるいは要因によって完全に決まってしまうはずである。したがってその身体を動かす別の要因である意志のような心の働きを想定するのは、そもそも余分であり矛盾している。つまり心と体が合体したものが人間であり、心には体を動かす力があると考えること自体に曖昧さと無理があるのである。

再び前述の例に戻って、観察者と被験者がそれぞれ1名ずついるとする。そして観察者の前で、被験者は新聞を読みたいと思い、目の前にある新聞に手を伸ばしたとする。新しい世界観で考え、被験者の身体を中心点・知覚点にして広がる世界に力点を置いてごく大雑把に描写すれば、被験者は新聞を読みたいという欲求と、目の前のものが新聞であるという判断をして、その新聞に手を伸ばしたということになる。しかし被験者が、目の前のものを新聞ではなく、毒蛇だと本気で判断したならば、被験者は決してそれに手を伸ばしたりはしないに違いない。あるいは目の前のものが新聞だと判断しても、隣に座っている人が読んでいる新聞だと思えば、やはり通常は手を伸ばすことを控えるはずである。また目の前のものが別の人の新聞であったとしても、その人が既に立ち去っていて、他にその新聞を読もうとするような人がいないと思えば、被験者はおずおずと手を伸ばすかもしれない。つまり被験者の身体の動きは、被験者の判断、大きく言えば被験者の身体を中心点・知覚点として広がる世界の状態に応じて変わってくるのである。被験者の身体の動きは、被験者の心によって変化するわけではないが、被験者の心に合うように、それと対応して共変するのである。

私の基本的な認識を繰り返して述べると次のようになる。私たち生物は、私たちの思惑と全く関係なく存在する世界の中に身を置いている。私たち生物の身体は、本来極めて不安定な状態のものであり、常に安定した状態に向かおうとする世界に対抗して自らの存在を維持しようする。そして私たち生物は、自らの能力や自らの思惑の及ばない要因に応じてそれぞれ一定期間その存在を維持した後、やがて例外なく強大な世界の流れに飲み込まれ、ついには安定した状態である死に至り無生物に戻る。無生物であれば、最初から世界の流れのままに流されて行くのに対して、私たち生物は、物体としての身体の限界を持ちながら、この世界の流れに一定の範囲で逆らうのであり、この生命力あるいは自律性が上記の被験者の身体を動かす根本的な要因である。設定された条件で考えれば、被験者はこの力によって観察者と同時期に世界に存在し、ともかくも一定の健康を保ちつつ手を動かし得る状態にある。こうした基本的な身体条件の下で、被験者は自らの知覚によって周囲の世界を照らし出し、その世界を多数の部分に分けてそれぞれに別々の地平をつくり、それに対応するように身体を動かすのであり、こうした働きこそ、これまで「意志」という言葉で言い表そうとしてきたものに近いと思われる。つまり私たち生物は、自らの生命力ないし自律性によって、世界の流れに逆らって存在を維持しつつ、その大きな前提条件の下で、自らの身体の代謝作用と同様にほとんど自覚意識を伴わないまま、知覚やそれに結びついた判断に応じて自らの身体の動き方を少しずつ調整して生きて行くのであり、こうした調整の働きを個別化して意志と呼ぶのが最も適切であるように思う。私たち生物は、喩えて言えば強い潮流のある暗黒の海原を行く動力を持った船なのである。この動力は船を動かすだけでなく、船の舵と照明をも作動させる。私たち生物は、自らの生命力を動力とし、知覚という照明で船と船の周りの海を照らし出し、海の潮流に流されながらも、少しでも生存に有利なように意志という舵を切り、できるだけ旨く食料を手に入れ、最新の情報を得て危険を避けようとするのである。

13. 自然科学と哲学

今ここに2人の観察者AとBがおり、目の前にある1つの石を観察しているとする。またこの石は、観察者Aが子供の頃から宝物にしてきたものであるが、観察者Bにとってはただの石ころにすぎないと仮定する。観察者AとBは、それぞれ自らの身体を中心点・知覚点としてこの石を観察している。観察者Aの身体を中心点・知覚点として広がる世界では、この石は他の石とは区別して分類されて特別の地平がつくられ、むやみに壊してはならないものと見なされて、通常は大切に扱われるはずである。一方観察者Bの身体を中心点・知覚点として広がる世界では、この石は、道端に転がっている他の石と同様のグループに分類され、それらと同様の地平がつくられて、叩いても壊しても構わないものと見なされ、普通の場合であればぞんざいに扱われるに違いない。この観察者AとBが物体の自由落下に興味を持つ自然科学者であれば、この石について、その色や臭いや、この石に対する思い入れなどを無視して、石の大きさや重さや、それを中空から落とした時の速度を、様々な機器を使って観察し測定するはずである。彼らは、あれこれ思い悩むことなく、この石が自らの存在とは関係なく存在するものであると単純に想定したうえで、主として、共に観察し測定し得るこの石の特性を同一ないし同種の機器を使って観察し測定するのである。こうした観察の結果として得られる知識の1つである落体の法則(「空気の影響を無視できる時、重力の作用で落下するすべての物体は質量に関係なく、時間に比例する速度で落下する」)に、観察された対象の色や臭いが記述されていないとしても、2人の観察者がその中で生きている世界ではなく、その背後にあって色や臭いが無い物理的世界という別世界の知識を、知らず知らずのうちに得ているわけではない。落体の法則は、2人の観察者が生きている世界の、2人が共に観察し測定し得る側面で成り立つ規則性の知識なのである。それは、実際に建っている建物を観察して、その骨組みに関する知識を得ようとすることに似ているのであって、これらの知識を集めて得られる像は、実際の建物の見取り図なのである。実際の建物の壁のシミや屋根瓦の傷がそこに表現されていないとしても、見取り図が示す骨組みだけの建物が、実際の建物とは別に存在しているわけではない。私たちが体験する世界の中で複数の観察者によって共に観察し測定し得る側面こそ、これまで物理的世界と呼ばれてきたものであり、この側面に主として目を向けるという自然科学者たちのやり方は、私たちが体験する世界にある様々な対象を、何世代にも渡って共同で観察し、一つ一つ着実に知識を蓄積することを可能にした。そして近代における自然科学の華々しい成果は、科学哲学者と呼ばれる一部の哲学者の驚異と尊敬を呼び、哲学固有の領域などは存在せず、哲学の役割は科学の成果を分析し、その意味を検討したり、その知識をさらに明確化することに限られるといった意見を持たせるに至ったのである。

一方これらの科学哲学者から、曖昧な言葉の使用や、無理な類推を批判された伝統的なヨーロッパの哲学者たちは、明快さと論理性を誇る科学哲学者たちに対して、自らがそこで生きていながら、目の前の世界の不可解さに気付かない者、木を見て森を見ない者という思いを懐いてきた。そもそも観察者Aが体験する赤い色を、観察者Bは共に観察し測定することができない。もちろん観察者Bは自らが体験している色を通して、観察者Aが体験している色を推測することはできる。しかしそれは、近代の自然科学者が、液体中に浮遊する微粒子が不規則に動くように見える現象であるブラウン運動から分子の存在を推測したのとは根本的に異なっている。後者の推測は、あくまで複数の観察者が共に観察し測定し得るものから、論理的な推論によって未知のものの存在を予想するものであるのに対して、前者の推測は、観察者Bが、自らと観察者Aとの身体的類似性を基にして行う類推である。こうした事情は、音や臭いや触感や痛み、喜びや悲しみや怒りについても同様である。つまり観察者Aが体験している世界には、複数の観察者によって共に観察され測定されるか、あるいはその観察や測定結果から論理的に推測される側面だけでなく、観察者A自身にしか観察され得ない側面があるということである。こうした個々の観察者にしか観察され得ない世界の側面、すなわち感覚的属性や感情や思考や意志といったものは一体どのようなものだと理解したら良いのか。これらが生起する場である心といったものはどのようなものだと理解したら良いのか。私たちがそこで生きている世界が、複数の観察者が共に観察し測定し得る側面だけでなく、個々の観察者が個別的にしか観察し得ない側面を含めて、全体的にどのようになっているのかという問題は、自然科学者が扱おうともせず、また扱うことができない問題であり、伝統的な区分で言えば哲学が扱うべき分野だと考えられる。もちろん、身体的に似ているものは感覚的および精神的にも似ているはずだという想定に基づく類推と自然科学的なやり方を組み合わせて、個々の観察者にしか観察し得ないものと、複数の観察者が共に観察し測定し得るものとの関係を調べる個別科学はある。例えば色々な化学物質を人体が摂取した場合に起こる感情的な変化や、様々な知的作業を行っている時に起こる脳内の電気的あるいは化学的反応を調べるといったことはあるが、それは主として対応関係の探求であって、感覚的なものや精神的なものを真正面の問題として捉え、そもそもそれがどのようなものだと理解すれば良いのかといったことを問題にすることはない。

14. エコロジカルなアプローチと新しい世界観

近年注目されている哲学・心理学説に「エコロジカルなアプローチ」と呼ばれるものがある。特にアメリカの心理学者であるジェームズ・ギブソンが提唱したこの学説によれば、知覚は直接に実在を捉えており、私たちが見、聞き、感じている世界は、本物の世界の像や表象のようなものではなく、本物の世界そのものであるという。実際の世界の像や表象が映じられる内的な場としての意識などというものも無い。私たち生物は、私たちが見、聞き、感じている本物の世界の中で、私たちを取り巻く環境に働きかけ、その環境により良く適合するように自らの身体のあり方や動きを絶えず調整して行く。私たちの心理的活動というのは、こうした環境と身体の循環的な相互作用の一部として成り立っているのであり、私たちの身体内あるいは脳内だけで成立しているものではない。つまり私たちの心は、私たちの身体を越えて、私たちを取り巻く環境にまで広がっていると考えるべきだということになる。知覚というのは、環境が実際にはどうなっているのかを特定するために、環境から必要な情報を抜き出す行為であり、より詳しく言えば、環境のある部分に注意を向け、変化しているものと変化していないものとの差異を見出し、何が変化していないのかという情報を得る一連の過程のことであって、この点に知覚の本質がある。さらに私たちを取り巻く環境には、私たちの行為を促して一定の出来事を生じさせる無数の特性・アフォーダンス(affordance)が遍在している。例えば私たちの目の前にある食べ物は、それを食べて栄養を摂取する可能性を生じさせ、私たちの目の前に現れたヘビは、それに近づいて噛まれる可能性を生じさせる。私たち生物は、こうした無数のアフォーダンスが内在する環境の中で、様々なアフォーダンスを知覚して自らの行動を制御し、自らの行動を制御しながらさらに様々なアフォーダンスを知覚することを繰り返しながら生きて行くのだという。

エコロジカルなアプローチという学説は新しい世界観と部分的に似ているが、やはり多くの問題がある。まず「知覚は直接に実在を捉えている」という素朴実在論ないし直接実在論と呼ばれる考えが、「私たちが目の前に見、聞き、感じている世界は、像や表象などではない本物の世界なのであって、それ以外に本物の世界など無い」ということであれば、全くその通りであるが、しかしなぜその本物の世界が、時としてぼやけ、時として二重になり、時として消えうせてしまうのかが十分に説明されているようには思われない。1冊の本を2人の人が同時に見ている時、目の良い一方の人には1冊の本が見え、目が悪い他方の人には2冊の本が見えるということがあり得るが、目の前の世界が本物の世界であるのに、どうしてこのようなことが生ずるのかがエコロジカルなアプローチでは整合的に説明されているように思われないのである。元々従来の二元論的知覚観というのは、上記2人の人が見ているのは本物の本の像ないし表象であるから互いに違っていることもあり得るのだという風に事象全体を整合的に説明するということを1つの動機として発展して来たのである。しかしそう考えると今度は、私たちが生まれてから死ぬまで見、聞き、感じるものが残らず、私たちの恋人や友人も含めてすべて像であり表象であるということになり、私たちの実感からはるかに離れてしまうということになる。さらに、私たちはそれぞれ、窓の無い映画館の中で、たった1人で「世界」という映画を見ているといった異様な状況にあると言わなければならなくなってしまう。だからと言って私たちが目の前に見、聞き、感じている世界が本物の世界だと考えても、やはり様々な疑問が湧く。特に1つの同じものが人によって同時に違って見えるということを考えると、私たちが体験している世界は、根本的に私たちの存在とは独立に存在していながら、しかしまた私たちの個人的な作用が同時に及んでいる世界でもあると考えなければならないのではないかといった疑問が自然に生ずるが、こうした疑問に対してエコロジカルなアプローチが十分に答えているようには見えないのである。

実際の世界の像や表象が映じられる内的な場としての意識などというものは無いという主張は全くその通りである。私たち生物は、私たちの身体を知覚点として世界を部分的に顕在化し照らし出しているのであって、こうした基本的な出来事以外に意識や心といったものがあるわけではない。観察者と被験者がそれぞれ1名ずついる場合を考えると、観察者は自らの身体を知覚点として被験者を含めた周囲の世界を照らし出し、一方被験者もやはり自らの身体を知覚点として周囲の世界を照らし出している。被験者の「意識」や「心」というのは多くの場合、被験者が照らし出した世界を、観察者側から見て呼んだ言葉以外の何物でもない。観察者は、自らが照らし出した世界を省みて意識や心といったものがあることを自明の理と思い、被験者にも同様のものがあるに違いないと考えるのであるが、世界の構造上被験者の意識や心などを直接見出すことができない。そこでこうした、存在するはずなのに観察者が決して直接見たり触ったりすることができない意識や心というのは、観察者が直接見たり触ったりすることができる身体とはあり方が異なる一種神秘的な存在だと考えるようになり、ついには身体が無くなっても永遠に存続するものだといった信仰すら持つに至るのである。

私たちの心というのが、私たちの身体を越えて、私たちを取り巻く環境にまで広がっているというエコロジカルなアプローチの考えも全くその通りであるが、やはり決定的な視点が欠けている。観察者と被験者がそれぞれ1名ずついる場合を考えると、観察者は自らの身体を知覚点として被験者を含めた周囲の世界を照らし出し、一方被験者もやはり自らの身体を知覚点として周囲の世界を照らし出している。被験者を取り巻く環境に心が広がっているといっても、観察者側から見た場合、被験者の周囲の世界には、被験者の喜びも悲しみも痛みも、あるいは被験者の思考も意欲も何も無い。あくまで被験者側から見た場合に限って、つまり被験者が照らし出した世界だけに、被験者の喜びや悲しみや痛みや、思考や意欲や、被験者から見た世界があるのである。私を含めて、エコロジカルなアプローチにおける「拡張した心」の学説を聞いた人が一方で共感を持ちながら、他方で違和感を持つというのは、それぞれの人が、ある場合には被験者の立場に立ち、ある場合には観察者の立場に立つというように、ほとんど意識することなしに自ら勝手に立場を変えてその学説を考えるからである。

「環境が実際にはどうなっているのかを特定するために、環境から必要な情報を抜き出す行為」より詳しく言えば「環境のある部分に注意を向け、変化しているものと変化していないものとの差異を見出し、何が変化していないのかという情報を得る一連の過程」を「知覚、特に視覚の本質である」と言うのは、多少言葉遣いがおかしいように思う。「視覚の本質」と言うのは、目の見える人と盲目の人との決定的な相違ということであり、大まかに言えば「明るさを体験すること」あるいはそうした働きないし能力である。そして聴覚の本質とは音を体験すること、あるいはそうした働きないし能力であり、触覚の本質とは接触の感じを体験すること、あるいはそうした働きないし能力である。「環境が実際にはどうなっているのかを特定するために、環境から必要な情報を抜き出す行為」より詳しく言えば「環境のある部分に注意を向け、変化しているものと変化していないものとの差異を見出し、何が変化していないのかという情報を得る一連の過程」というのは、私たちが何かを知覚しながら特に行動との関係で行っている最重要の事柄とでも言うべきものである。

アフォーダンスが環境に実在するかしないかという議論についても、エコロジカルなアプローチに欠けている視点から発生するものだと思われる。観察者と被験者がそれぞれ1名ずついる場合を考えると、観察者は自らの身体を知覚点として被験者を含めた周囲の世界を照らし出し、一方被験者もやはり自らの身体を知覚点として周囲の世界を照らし出している。被験者が書籍に興味を持ち、常に書籍から人生や行動の指針を見出そうとしているならば、被験者が照らし出した世界で目の前に置かれた書籍には、様々な特別なアフォーダンスが実在する。しかし一方この被験者を見ている観察者が書籍に対する興味を全く持ち合わせていないならば、観察者が照らし出した世界で目の前に置かれた書籍には、紙の束と同様のアフォーダンスしか実在しない。1つの対象に同様なアフォーダンスが実在すると同時に実在せず、1つの対象に互いに相反するアフォーダンスが同時に実在し得るのが私たちが時々刻々体験している世界なのであるが、なぜこうしたことがあり得るのかをエコロジカルなアプローチが十分に説明しているようには思えない。

エコロジカルなアプローチというのは、哲学的な学説として見ればやはり不十分と言わざるを得ない。しかしその元となった生態学的心理学というのは、物理的世界だけでなく、私たちの知覚や心においても幾つもの規則性があるということを主張するものであり、個別科学として十分意味を持つものだと思われる。

2012年1月20日
下川真一

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