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〈干渉〉の翌日、堝瑤緒は星辰斗に使いを頼まれた。
「中央島(ラクワナ)に行って、皇帝代理として次元機構の臨時会議に出席する瀬郁さんに、資料を渡してきてください」
「わ、私がですか!」
 瑤緒は目を白黒させた。昨日スタッフに就任したばかりだというのに、いきなりの特別任務である。もちろん皇太子スタッフとして公式に行くのだから、難しいことはなにもないが、場所が問題だった。
「中央島(ラクワナ)、中央島(ラクワナ)ってことは、〈真空の海〉ですか。中央島(ラクワナ)は」
「何度連呼したってそうだよ。スタッフとなった以上、いずれは行く羽目になるのだから、早いうちに経験しておきなさい」
「はあ……」
 中央島(ラクワナ)は〈真空の海〉に浮かぶ浮島だ。そこを中心に各二十三世界が〈回廊〉によってつながってる。そして、世界間調停機関、次元機構の本拠地もある。
 界渡り能力のない瑤緒が中央島(ラクワナ)に赴くには、外務省にある〈扉〉をくぐり、〈回廊〉を歩いていくしかない。そう、〈真空の海〉にかかる柱力(ユマ)によって創造された橋を。〈柱〉の力を疑うわけではないが、本能的な不安を覚える。世界の裏側にある〈海〉を、瑤緒はまだ見たことがない。
「あの、〈回廊〉から〈真空の海〉に落ちたら、消滅してしまうんですよね」
「それはそうだけど、別に吊り橋じゃないんだから、普通に歩いていけばいいんだよ」
「はあ」
「欄干はないけどね」
 余計な辰斗の一言で、瑤緒はますます不安になった。
 瀬郁といえばリュシ族の仇敵瀬一族の当主で、星日鐘と同じく皇帝侍従だ。あの玄詳の妻でもある。
「でも、瀬郁侍従宛ならば、瀬一族の者が持っていくのが筋じゃないんですか」
「瀬一族には見られたくないものもあるんだよ」
 そう言われては、これ以上反論できない。瑤緒は気が進まないが了承した。
 すぐにお仕着せから装束を改め、外務省にある〈扉〉へと向かう。外務省は芙蓉の宮外宮にある、馬蹄形(ウダイヴィガ)の建物だ。その中庭に〈真空の海〉へと通じる巨大な〈扉〉は鎮座している。
 厳重に入出を管理された中庭の入り口で、星辰斗が発行した通行証を提示し、〈扉〉に隙間を開けてもらう。彼女が予想していたのとは異なり、重厚な石の〈扉〉はたった一人のノーマルの手によって、音もなく滑らかに開いた。柱力(ユマ)でくくられているせいだ。
〈扉〉の中におそるおそる踏み入れ、息を呑む。
 想像はしていたが、なんという場所だろう。どこまでも青い世界が広がっている。天地は定かでなく、果てがあるのかも分からない。その中を、細く頼りない橋が長く延びているきりだ。ほかにはなにもない。
〈回廊〉の幅は五メートル強。よほどのことがないかぎり落ちはしないだろうが、太いわけではない。物流が盛んにならないのも頷ける。見るかぎり、〈回廊〉には彼女一人だ。
 遠近感を失って目眩がしそうだったが、〈扉〉の管理員が不審げに彼女を見たので、意を決して歩きだした。皇太子スタッフがこんなことでまごついていたなんて知られたら、恥ずかしいかぎりだ。
〈回廊〉は意外としっかりとした質感があった。踏みしめる感触は普通の橋と変わりない。瑤緒は安堵して歩を速めた。空間転移は不可能だと肌で感じる。転移先を絞るのが難しく、〈海〉の中に落ちるのが関の山である。
 ここから落ちたら消滅してしまうのだ。
 強い還元作用によって、すべてのエネルギーは情報を失い、〈真空の海〉に戻る。誰の助けも得られない。そんなことをしたら、助けた人間もろとも還元されてしまう。
 ただ、柱力(ユマ)を持つ者だけが〈真空の海〉を自在に動くことができる。
(こんなものを創造できるのだ、〈柱〉の方々は)
 第三の力とは異質の力。神に等しき力。そんな人々に仕えられる自分たちはなんて幸運なのだろう。瑤緒は胸が熱くなり、高揚するのを感じた。
(でも、アリーヤさまは柱力(ユマ)をお持ちでない)
 不意に心が陰る。特権意識がしぼみ、瑤緒は冷静になった。なにをのぼせているのだ、今は仕事をこなさなくては。もうなにも考えず、先を急ぐ。
 しばらくして〈回廊〉の先に球体が見えてきた。青の中に浮かぶ半透明の膜。その中に小さな浮島があり、箱状の建物が見える。中央島(ラクワナ)だ。近づくとほかの世界から延びる〈回廊〉も視認でき、人がちらほら行き交う姿も見えてきた。エルシア世界は〈回廊〉を通ることを厳しく制限、管理しているが、世界によってはほぼ開放しているところもある。〈柱〉は自分たちが創造している〈回廊〉と〈扉〉の使い方を、完全に各世界にゆだねているのだ。
 境界を越え、浮島の中に入る。そして、島全体の半分を占める次元機構の建物へと赴いた。
 玄関の警備兵に通行証を提示、ぶしつけな興味の視線を浴びながらもすんなりと中に入れる。あとは瀬郁を見つけて封書を渡すだけだ。
 スタッフに皇帝侍従の控え室を尋ね、探し歩く。多種多様な世界をまとめる機関だけあって、建物は没個性の四角四面な箱だ。歩いても歩いても同じような廊下とドアが連なり、窓はあっても〈真空の海〉の青しか見えず、単純な造りなのに迷子になりそうだ。
〈干渉〉の臨時召集の直前だけあって、大勢が忙しく行き交っていた。スーツ姿もいたが、色とりどりの民族衣装をまとった者、明らかに軍服を着けた者もいる。男女比は七対三くらいか、目の色も肌の色もさまざまである。
 ようやく「エルシア皇帝侍従」と書かれたドアプレートを見つけ、瑤緒は安堵よりも疲労感にため息をついた。次元機構での公共語はエルシア語だ。
 さらに奥にも部屋はあり、そこが建物の最奥らしかった。ほかとは別格らしく広さが倍近くある。好奇心にかられてそちらに近寄ってみると、扉には「エフタ世界代表」とあった。
 別格なのも道理、エフタ世界はもう一つの〈柱〉の一族がしろしめす王国だ。現在の代表は王族、しかも〈柱〉だ。
〈柱〉は二十三世界に公平であらねばならない――エルシア世界もこれに準じる。だが、エフタ世界だけは本当に例外だ。エフタは古来より〈柱〉の一族が支配しているのだから。
 瑤緒は慌てて戻った。〈柱〉の部屋を窺うなど畏れ多いことだ。
 呼吸を整えてから、皇帝侍従の控え室をノックする。
 ドアを開けたのは彼女より年下の、十三、四の小娘だった。鋭いまなざしで瑤緒を睨み、挨拶もなく突っ慳貪に、
「リュシが何用ですの?」
「あ、あの、私、アリーヤ殿下のスタッフで、堝瑤緒と申します。瀬郁侍従に資料をお持ちしました」
「資料ですって」
 娘は目を細め、乱暴にドアを閉めた。瑤緒は呆気に取られ、それからようやく不快になる。瀬一族の娘だと思うが、敵意丸出しのあの態度はなんだ。リュシと瀬一族は犬猿の仲だが、公私混同とはスタッフとして不適格ではないか。
 芙蓉の宮に来るまで瀬一族の者と接触したことはなかったが、昨日の瀬玄詳といい、今の娘といい、やはり噂どおりろくでもない連中ばかりだ。あまつさえ彼らはアリーヤを皇太子として認めていないというし、まったく腹立たしい。
 ドアが再び開いた。先ほどの娘が手を差しだす。
「渡しなさいよ。ほら」
「えっ……いえ、郁侍従にじかに渡すよう言いつかっていますので」
「どうせあの変態の差し金でしょう。もう、郁さま、郁さま! あの変態が生意気なこと言ってきてます!」
 少女は喚きながら奥へと引っ込んだ。代わりに現れたのは、鳥羽色の髪を寸分の乱れなく結いあげた女性だった。見るからに有能そうな、怜悧な美貌の持ち主――瀬郁だ。この顔は知っていた。研修中に見かけたことがある。
 瀬一族の装束に身を包んだ郁は、素早く瑤緒の頭から爪先まで観察した。さすがに娘のような敵意は感じられない。瑤緒は緊張しながら、封書を差しだした。
「星辰斗侍従から郁侍従にお渡しするよう、託かってきました」
「ご苦労でしたね」
 ためらいなく郁は封書を受けとり、その場で中を確かめた。書類が数枚、あと情報チップが一枚入っているようだったが、郁は書類にざっと目を通すと、
「分かりましたと辰斗侍従に伝えなさい。堝瑤緒」
「は、はい」
「アリーヤさまはお元気ですか」
 にこりと郁がほほえむ。瑤緒はどぎまぎした。心の中で瀬一族の悪口を吐いていたのがばれた気がして、ひどく居心地が悪い。
「え、えっと、今日はお元気です。お食事は半分残されましたが」
「アリーヤさまによろしくお伝えください。近いうちにご挨拶にまいりますと」
「は、はいっ」
 瑤緒は背筋を伸ばした。瀬一族のほかの者はいざ知らず、この瀬郁は好感の持てる人物のようだ。さすがは巨大一族の族長だ。
 そこへ、
「郁、おい、郁」
 廊下の向こうから初老の男が駆けてきた。胸の徽章の形から世界代表だと分かる。近づくと、なんてことはない、エルシア世界の代表、外務省長官パルク・ヒックスだった。瀬一族の娘が露骨に顔をしかめる。
 長官は息を切らしながら、苛立ちも露わに、
「大変だぞ、カマラの代表が来ない」
「カマラはクーデターが起きたばかりです。以来、〈扉〉を封鎖していますから」
「それは知っておるが、次元機構にも来ないとはどういうことだ」
「〈干渉〉でカマラにも被害が相当出ているはずです、混乱が起きているのでしょう。政府もまだ仮の状態だったはずですし」
「しかしな、次元機構からの召集要請も受けとっていないらしいぞ」
 郁は答えなかった。彼女の職務の範疇には入っていないのだろう。瑤緒も長官がなぜ郁侍従にそんなことを尋ねるのか分からなかった。同じ世界人として気安いのだろうが、立場を考えたらおかしな話だ。彼こそが調査し、説明すべき事柄だ。
 瀬一族の娘も同じ考えだったらしく、自分の祖父くらいの相手に憤然と、
「そんなこと郁さまがご存じであるわけないでしょう。議長にでも相談したらよろしいですわ」
「しかしだな、梨花(リーファ)。今回の〈干渉〉はカマラ世界とエルシアのものだ。事前に報告の打ちあわせもしたかったし、それに、例の問題のことも一応釘を刺しておかんと思っていたのだ」
 長官は口を曲げて反論する。瀬梨花。その名に瑤緒は聞き覚えがあった。研修中にひととおり芙蓉の宮関係者の名前は覚えさせられたのだ。
(この子が瀬梨花……希有な次元渡り能力者という?)
 下層を含めて何万人といる瀬一族の中で、唯一人一、〈回廊〉を通ることなく世界間を行き来できる次元渡り能力者がいると聞いていた。まだ子供だが、家柄もいいので瀬郁の秘書――というのは褒め言葉で、実際は小間使いとして働いている、と。
 そう考えると、家柄だけで選ばれた自分とは実力が違うのかと、瑤緒は落胆した。少女の横柄な態度も実力に裏打ちされたものだろう。貴重な能力者なのだ。
「カマラの密入者がなんだというのですの。郁さまとは関係ありませんわ」
「梨花、おまえカマラに行って様子を見てこんか」
「えっ」
 なぜか一瞬梨花の顔が輝き、すぐに瑤緒がいることに気づいたのだろう、しかつめ顔になった。
「私は郁さまのお手伝いをする為にここにいるんです。長官の御用聞きではありませんわ。大体、こんなところをほかの代表に見られたらどうなさるんです。ヘーレン将軍がまた鬼の首を取ったように癒着だなんだと騒ぎますわよ」
「それくらい分かっておる。しかし、おまえだって情報部の――」
 言い募ろうとした長官も、そこに瑤緒がいることに改めて気づいた様子で、彼女をまじまじと見た。
「なんだ、この娘は。この格好は、郁、おまえの眷属じゃないのか」
「リュシの者です。星日鐘侍従からの資料を持ってきたのです」
「リュシか……むむ」
 長官は唸った。エルシア人ならばいいかという安心と、瀬一族のライバル相手をどう扱っていいのか分からないらしい。瑤緒は急いで頭を下げた。
「あの、私、帰ります」
 長官になにか言われる前に瑤緒は踵を返した。長い廊下を急ぐ。
 どうやら梨花は外務省情報局に手を貸しているらしい。それはそうだろう、貴重な次元渡り能力者だ、異世界諜報に使わない手はない。
 だが、〈柱〉は二十三世界に公平であるべきと次元機構で定めているのに、そのスタッフが外務省と馴れあっているなどと、由々しき問題ではないのか。それなのにのこのこと控え室を訪れるとは、あの長官は問題意識が低すぎるのではないか。
(ヘーレン将軍というのはオードリ世界の代表のことだ。エルシアはあまり立場がよくないのかしら……)
 今まで自世界のことしか考えていなかった。この〈真空の海〉の向こうに別の世界があって、そこにも大勢の人がいて、社会があって、国があるということを、強く意識したことはなかった。もちろん知識では知っていたが、彼女の人生とは無縁のものだった。
 それが、急に身近なことに感じられる。廊下を歩いている人々も、ほとんどが異世界の人間なのだ。
 一体ほかの世界はどんなところなのだろう。浮島はともかく、有人世界は中に入ってしまえばエルシアと変わらないという。地面があって山があって川があって空があって、人が住んでいる。そうとは聞くが、実際はどうなのだろう。機会があればこの目で見てみたいものだが。
「エルシアの」
 曲がり角で声をかけられ、瑤緒は足を止めた。なにか入ってはいけないところに行きそうになったのだろうかと、不安になる。
 近づいてきたのは瑤緒と変わりない背格好の娘だった。薄桃色のヴェールのような長い服をまとい、黒く長い髪を同じ色の布で首筋から毛先まで巻き束ねている。額にある龍を象った赤い刻印が印象的だった。
 彼女は思いつめたまなざしで、両手を握り締めながら、
「今、よろしいですか」
「え? わ、私ですか」
「ええ。皇帝侍従どのにお取り次ぎをお願いしたいのです」
 それを聞いてピンと来た。相手は自分をエルシア皇帝のスタッフだと誤解しているらしい。梨花辺りと間違えているのだろう。民族的に二つの一族はとても近い。
「あの、私は違います」
「一刻も早くエルシア皇帝陛下にお目どおりを許していただきたいのです」
 瑤緒の言葉が聞き取れなかったか、娘は訴えを続けた。胸の徽章を見ると、パテ世界代表のスタッフであることが分かった。パテ世界――正式名称パテントズグラールシヤータ世界は、二十三ある有人世界の中でエフタ世界に次いで小さい世界である。ヌニェスが人口に占める割合は八割と、抜群に高い。それを象徴するかのように、パテは一人の神たる少女、強力なヌニェスである巫女姫を頭に戴く宗教国家だ。この格好からして彼女も神職だろう。
「私はエルシア人ですが、皇帝侍従スタッフではないんです」
「そう仰らずに。私はパテの巫女姫の従者でアナンディラと申します。今までも何度もお願いしているのです。このままでは巫女姫さまが危ないんです」
 瑤緒は必死に両手を振って否定するが、相手も必死に食いついてくる。なにがいけないのか、自分の首から提げている身分証明カードがいけないのか。皇太子スタッフという、微妙な立場を混同しているのか。
 うろたえ、どうにか逃げようとしている瑤緒に危機感を持ったか、パテの娘は彼女の手首を掴んだ。
「分かりました、はっきり申し上げます。パテ世界はオードリを操ろうとしています。ですが、オードリの臈長けた軍人どもに駆け引きで叶うわけがありません。逆に浸食されてしまいます。〈柱〉の君のお言葉があれば、滅びの予言を撤回できれば、巫女姫さまは――」
「オードリがなんだね」
 横合いから声をかけられ、パテの娘と瑤緒は同時に飛び上がった。思わず二人で互いに相手の手を掴んでしまう。
 声をかけてきたのは、一目でそれと分かる軍服姿の壮年の男だった。暗い灰色の瞳で頭一つ上から二人を見下ろしている。瑤緒は息を呑んだ。徽章には「オードリ世界代表」の文字がある。そう、オードリの実質支配者、ヘーレン・ウェグ将軍だ。噂をすれば影が差すといったところか。
 近くに立っているだけで威圧を感じる将軍は、二人をじろじろと観察し、
「近ごろの次元機構は、こんな小娘どもがうろうろするようになったのか。よほどどの世界も人手不足と見える」
「パテは小さな世界ですので――失礼いたします」
 パテの娘は怯えながらもそう答えると、一目散に逃げていった。瑤緒はずるい、と声を上げたかったが、実行する勇気もなかった。
「わ、私も、失礼……」
 なにか言われる前に踵を返し、こちらも脱兎のごとく逃げる。
 びっくりしたが、助かった、というのが正直な感想だった。あのままパテの娘に訴え続けられてもどうにもできなかった。皇帝に会いたいのなら使節局に頼んだ方がマシだろう。
(巫女姫が危ない?)
 カマラではクーデターが起きて王政が倒れたばかりだし、パテでも問題があるようだ。
しかし、オードリとパテという組みあわせは勉強した中になかった。
(滅びの予言……巫女姫の予言の一つかしら。ろくでもない響きだけど)
 宗教国家ならではのありがちな予言だ。滅びからの救済を謳い、人々の心を惹きつけるのが宗教とも言える。それを撤回したいとは、どういう事態なのだろう。
(どうしよう……)
 今聞いたことを瀬郁に伝えるべきか。だが、正直気が進まない。
 辰斗には報告しておけばいいだろう。そう判断し、瑤緒は中央島(ラクワナ)を飛び出た。そして、懐かしき我が世界へとひた走った。

       ※

 光の飽和した、美しく白い清潔な正殿の廊下をアリーヤとともに歩いていると、前から規則正しい靴音を響かせてやってくる者がいた。
 多少白いものが混じっている黒髪に、濃い青にも見える黒の瞳。シャープなおとがいを上げ、何者にも屈しない威圧的なまなざしをまっすぐ向けている。
 それが誰か知って、辰斗は全身の神経を緊張させた。隣のジェイクも顔を強ばらせる。
(マリア皇女殿下)
 マリア皇女――柱力(ユマ)を持つ元皇太子だ。現皇帝マティスと皇后夏也(かや)の末子で、アリーヤにとっては伯母に当たる。流産とともに柱力(ユマ)を操ることができなくなり、その地位を甥のウィレンに明け渡した。
 彼女は黒のスーツに身を包んでいた。夫と子供を失って以来十六年、彼女は黒以外の服を着たことがない。三年前からはウィレンの死も背負っている。
 芙蓉の宮で暮らしていたウィレン皇子は、マリアの手で育てられた。子を失った母と母を失った子は、固い絆で結ばれ、実の親子のように愛しあっていた。
 彼女は一人だった。すでに皇太子の座を退いて十六年、専属の侍従はなく、〈柱〉としての務めは皇帝皇后によって力を使用されているにすぎない。
 アリーヤが立ち止まり、伯母に向かって優雅に一礼する。辰斗も臣下の礼を、ジェイクも一礼した。
 その脇をマリアは昂然と顔を上げたまま、無言で通り過ぎた。礼を返すことも、姪を一瞥することすらしなかった。表情すら変えず、完全に無視している。
 アリーヤも伯母が通り過ぎるまで待ち、それからなにごともなかったように歩きだした。そのあとを辰斗たちが追う。
 ジェイクが苦々しげに顔を歪め、マリアを振り返った。だが、今さらなにも口にはしない。あの態度はいつものことだ。皇女の視界にアリーヤは映らない。アリーヤも伯母への敬意は払うものの、それ以上はなにも言わない。
 彼女もまた、ウィレンが死んだのはアリーヤのせいだと思いこんでいる。それがまったく根拠のないことであっても。
 廊下は白い静寂に支配されている。




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