5



 それは予想外の訪問だった。
 ようやくアリーヤの体調が回復した翌日、彼女の部屋に現れたのはザヴィア皇女だった。
「アリーヤ。遊びにいきましょう」
 少女のようにあどけない満面の笑みで誘う。
 皇女に付き従ってきたリュシの娘が困惑顔で辰斗に助けを求める。ザヴィア皇女がこんな風に部屋から出歩くのは滅多にないことだ。
「庭でお茶でもしましょう。ケーキを用意させたのよ、三日前から食べているのだけど、本当においしいのよ」
「ザヴィアさま、アリーヤさまはまだ体調が万全ではおられないので」
 辰斗は体よく誘いを断ろうとした。いくらなんでも三日前はないだろう。だが、それを遮ったのは皇太子当人だった。
「少し歩きたいわ。辰斗」
「はい」
 そう言われれば辰斗は服従するのみだ。瑤緒に改めて茶の支度をさせ、ザヴィアの侍女にそれを庭園の四阿へ運ぶよう指示すると、二人のあとに付き従った。
 皇太子とザヴィア皇女は新緑の庭園へと出た。一歩下がって辰斗が、さらに五歩下がって瑤緒と新たに雇った護衛が追う。
 離宮は静けさを取り戻していた。先日のテロリストの襲撃など嘘のような静寂だ。あの一件以降、マスコミは離宮からすべて排除した。こちらには皇太子を守るという大義名分がある、マスコミは渋々ながらも了承し、定例会見もすべて中止になった。これは計画どおりだ。
 離宮は第三の力の結界で固くくくられ、猫一匹入ることはできない。外からの守りは完璧に施したが、内からの心配ごとに気を揉むことになるとは。
(どういう風の吹き回しだろうか)
 辰斗は前を歩くザヴィア皇女を見た。皇女はひらひらとスカートの裾をひるがえし、はねるように歩いている。
 ザヴィア皇女の発言に整合性を求めてはいけない。だが、集中力と持続力が欠如している彼女が、アリーヤを訪ね、さらに散歩を続けているのが気になる。いつもならもう集中が切れて、自分の世界に戻っているはずなのだ。
 それに、皇女の向かっている先が気になる。ぬらぬらと長い細道は林の奥に続いているが、この先にあるのは四阿ではなく、墓所だ。ザヴィア皇女自身が墓所には行くなと忠告していた場所だ。嫌な予感がする。
 周囲を確認する。林の中には以前以上に警備員の気配があり、彼らのピリピリした緊張が伝わってくる。北セファーンで統一軍とゲリラが衝突した情報は届いていた。いくら結界で固めていても油断はできない。
 だから、侍従補の瑤緒とともに新たにもう一人、護衛スタッフを配置した。辰斗がジェイクと相談したうえで組み入れた護衛――カヒ・キリエラ、それが彼女の名だ。
 彼女は瑤緒の隣で、ゆっくりと、無造作に歩いていた。足音はまったくしない。まるで大きな黒猫か黒豹だ。照り光る黒い肌のせいか、そんな印象がある。彼女は猫科の動物のように、しなやかな体つきで軽やかに歩いていた。
 大きな目に厚い唇、黒い肌。丁寧に頭に巻きつけられた細かな三つ編みに、ビーズの飾りが小粋に揺れている。美人ではないが、目鼻立ちのはっきりした凛々しい容貌だ。背は辰斗と並んでも遜色ないほど高い。年は二十八。服の上からはっきりと分かる、無駄のない筋肉質の体。手足も長い。パズスパの特徴である。
 あの会見のとき、アリーヤに襲いかかったパズスパを蹴倒したのは、警備として雇われていた彼女だった。第三の力が効かないパズスパを倒すには、同じパズスパがもっとも適任だ。そうして雇われたキリエラは、きちんと己の役目を果たした。
 翌日から彼女は皇太子の護衛に昇格し、こうして辰斗とともにどこにでもアリーヤについていく。まだ任務に就いて六日しか経っていないが、いるのかいないのか分からないほど無口で、差し出がましいところもなく、護衛としての適性は充分にあるようだった。
 むろん、辰斗は彼女への警戒も怠らなかった。第三の力で精神探査ができない以上、勘と目視だけで判断するしかない。それでも、身元も経歴もはっきりしている彼女は、臨時の護衛としては充分だった。
(このままスタッフとして落ちついてくれると便利なんだが)
 瑤緒にキリエラを監視させたいところだが、年若い彼女はまったく当てにならない。辰斗がいろいろと頭を悩ませているうちに、墓所へとたどりついてしまった。
 墓所は林に溶けこむようにあった。地表に現れている部分はさほど大きくなく、およそ三メートル四方の小さな立方体の建物だ。黄みがかった石で組み立てられ、窓は一つもなく、正面の金属ドアが唯一の出入り口だった。
「さあ、ついたわ」
 ザヴィア皇女がはしゃいだ声を上げた。彼女は子供のように手を叩き、墓所の無骨なドアを指して、
「アリーヤ、この中に入るのは初めて? 私はもう何度も来たわ。とても怖くて、おもしろいところよ」
 悪ふざけに誘っているかのように、茶目っ気たっぷりにザヴィアは言った。その目がくるくるといたずらっぽく光を放ち、小悪魔の笑みを浮かべている。まさに少女の表情だ。虚ろを背中に張りつかせた年老いた容貌さえなければ。
 やはり目的は墓所らしい。辰斗は警戒を強めた。なぜこんなところに。
 ザヴィアがドアを押し開く。ドアは赤銅色の外観からは予想もつかないほど、滑らかに、音もなく動いた。手入れは完璧だ。
 暗闇が口を開いて待っていた。すぐ向こうは階段になっている。
 墓所は地下に広がっている。辰斗もこの中に入ったことはなかった。皇家には墓参りの習慣――祖霊を崇め尊ぶ習慣がない。ここは単なる保管場所だ。
 肝試しでもしたいのだろうか。そんなものをアリーヤが怖がるとは思えないが。
 ザヴィアが暗闇に踏み入る。そして、手を差しだす。
「アリーヤ、いらっしゃい」
 促されるままアリーヤが墓所の中に一歩入る。辰斗もあとに続こうとしたが、
「だめです!」
 瑤緒が彼のわきをすり抜け、墓所に飛びこんだ。とっさに辰斗も走りだそうとしたが、急にアリーヤを包んでいた第三の力の触手が対象を失ったことに動揺した。
(ばかな!)
 そんなことはありえない。辰斗は再度アリーヤを防護シールドで包みこもうとした。だが、彼女を掴めない。まるで透明になってしまったように、目の前にいるのに、彼女の存在を捉えることができない!
 焦る辰斗をザヴィアが一瞥した。その口元が可愛らしく吊り上がり、無防備なアリーヤの背を突き飛ばした。皇太子の体が大きく傾ぐ。すぐさま瑤緒が皇太子の腕を掴んだが、ザヴィアは彼女もろとももう一度突き飛ばした。二人の姿が暗闇の中に落ちる。
「アリーヤさま!」
 辰斗は血相を変えて走り寄ろうとした。第三の力が使えないのなら手で掴むまでだ。
 墓所に飛びこむ。すぐに目に見えないなにかに衝突し、彼は大きく弾き返された。
「な……?」
 驚愕する辰斗の横を黒い影が走り抜けた。キリエラだ。彼女もまた墓所に飛びこもうとして、見えない壁に阻まれて弾き返された。同じ力だけ反作用を食らい、地面に叩きつけられる。
 キリエラは軽業師のごとく瞬発的に飛び起き、再度墓所に突っこもうとした。
「やめろ、キリエラ!」
 辰斗は怒鳴った。キリエラが振り返る。無愛想な顔にわずかに焦りと驚きが浮かんでいた。それはそうだろう。見えない障壁とくれば、第三の力と考えるのが普通だ。そして、彼女はパズスパ、ヌニェスの力は通用しない。
 それなのに、彼女も辰斗と同様、弾き飛ばされた。彼女にとっては初めての体験だっただろう。
 辰斗もまた驚いていた。だが、彼の方がやはり知識も経験も豊富だった。
「キリエラ、それは柱力(ユマ)だ!」
 キリエラの大きな目がこぼれ落ちんばかりに開かれた。辰斗も顔を歪める。
 それ以外のなんであろう。世界の五指に入る辰斗の第三の力を遮断し、パズスパであるキリエラすら阻む力。ヌニェスの仕業ではない。ましてや科学の力でもない。
 これは柱力(ユマ)だ。第三の力とはまったく異質の力。間違いない。
 なぜなら、ザヴィア皇女が笑っている。「そうだ」と嘲笑っている。
「ザヴィア殿下! そこをお開けください!」
 辰斗は叱りつけるように怒鳴った。ザヴィアは薄ら笑いを浮かべたまま、
「お黙り。リュシのくせに、私に命令する気?」
「私はアリーヤさまの侍従です、アリーヤさまを害そうとする者は、たとえ皇族でも容赦はしません」
 辰斗は左掌をザヴィアに向けた。キリエラも両腕に力を入れ、身構える。それでもザヴィアは悠然と二人を見下している。
 むろん彼女は柱力(ユマ)を持っていない。それでも。
 ザヴィアが口端をさらに吊り上げた。三日月のような口に、辰斗は眉間にしわをきつく刻んだ。
「いやあよ。アリーヤは私たちのものだもの。おまえたちには渡さないわ」
「キリエラ!」
 辰斗の声を合図に、二人一斉に攻撃する。だが、辰斗の第三の力は易々と弾かれた。ザヴィアの体から衝撃波が一気に放出され、掴みかかろうとしたキリエラもろとも吹き飛ばされる。
 ザヴィアが声を立てて笑った。
「おかしいわ、私たちを哀れみ、蔑んできたおまえたちが、私に敵わないなんて。おまえたちは私を二度と哀れむことはできない、私に敵わない自分を哀れむといいわ」
 ヒステリックな甲高い声が耳から脳を貫く。笑い続けたまま、皇女は暗い墓所の奥へと消えた。
 辰斗はどうにかして墓所に侵入しようと試みた。だが、柱力(ユマ)は墓所全体を覆っているようで、どんなに地下深くに転移しようとしても、完全に撥ねつけられてしまう。
 悔しさと焦燥のあまり、地に爪を立てる。
 ザヴィア皇女は柱力(ユマ)なしだ。急に柱力(ユマ)が現れるはずもない。だとしたら、誰か、柱力(ユマ)を持つ人間が関与しているのだ。
(誰だ)
 エルシアで柱力(ユマ)を持っているのは皇帝皇后夫妻とマリア元皇太子だ。エフタでは朋己王と璃生王女、あとは霊峰王子。誰がアリーヤと自分を引き離して、なにをしようとしているのだ。この地下で。私たち。たち?
(アリーヤさま)
 この地面の下にいるのに、掴めない。アリーヤは階段から落とされた。怪我をしているかもしれない。なにか危険な目に会っているかもしれない。瑤緒がいち早く危機を察し、一緒に落ちたのだけが、今は唯一のすがりどころだ。
(アリーヤさま!)
 辰斗は唇を噛みしめると、キリエラを振り返った。
「キリエラ、芙蓉の宮に行ってくる! ここで待て!」
 キリエラが当惑して表情を揺らした。新参の彼女一人を置いていくのは彼とて快くは思わない。だが、急を要するのだ。
 彼は芙蓉の宮に狙いを定め、ジャンプした。禁を守るつもりはなかった。

       ※

「きゃっ!」
 アリーヤとともに落ちた瑤緒は派手に背中から落ち、悲鳴を上げた。アリーヤは羽毛が落ちたように軽やかに着地する。
「あいたたた」
 泣きそうになりながら、なんとかこらえて瑤緒は体を起こした。仰ぐと、墓所は入り口からすぐに縦穴になっていた。そこに彼女たちは落とされたのだ。穴の高さは二メートルほどと低い。
「ア、アリーヤさま、ご無事で……」
 無事かどうか確かめようとした瑤緒は、凛と佇む皇太子の姿を見て口ごもった。助けようとした方がみっともなく転び、呻いていてどうするのだ。赤面してうつむく。
(もう、私って役立たず……)
「大丈夫よ。瑤緒は」
「は、はい、大丈夫です」
 瑤緒は慌てて背を伸ばした。そして、入り口を仰ぐ。
 この墓所を見たときから強い不安に捕らわれていた。予感があった、ここに入ってはいけないと。気がついたときは走りだした。
 瑤緒は自分に自信がなかったが、皇太子侍従補に選ばれた本来の理由を知っていた。彼女には予知能力があるのだ。
 リュシにとって予知能力はさほど珍しいものではない。ヌニェスの勘の良さを予知と呼ぶこともある。問題は、どのくらい前にそれを察知、しかも的確にできるかどうかだ。ほんの数秒前の予知は予言者としてはあまり価値がない。
 だが、裏方スタッフとしての心配りには役立つし、人間の盾となるには充分だ。皇太子と年齢が近いことを加味すれば、彼女が選ばれるのは妥当だった。
 だから、不安を察知し、アリーヤの腕を掴めたのだが、そのまま一緒に落ちては意味がないではないか。
 アリーヤと彼女を突き落としたのは、間違いなくザヴィア皇女だった。皇女の遊びの一つなのだろうか。それなら、どうして辰斗が来ない。彼がアリーヤを穴に落としっぱなしにするはずがない。
(いけない)
 不安が腹の底にわだかまってくる。ここにいてはいけない気がする。
「アリーヤさま、上に……」
 戻りましょう。言いかけて、ぎくりとする。ザヴィア皇女が階段の上に姿を現したのだ。
 瑤緒はアリーヤをかばうように立ちはだかって、緊張に卒倒しそうになりながらも、
「ザヴィア皇女殿下! い、一体どういうおつもりですか、アリーヤさまを突き落とされるなんて!」
「ちょっと刺激をあげただけよ」
 瑤緒の怒りをザヴィアは受け流すと、階段を跳ねるように降りてきた。瑤緒は慄然とするのを抑えられなかった。部屋で見た皇女とはまるで別人だ。あれは演技だったのだろうか。それとも、時間によって変化するのだろうか。
 ザヴィアは笑いながら、
「おまけが入っちゃったわね。アリーヤ、ついていらっしゃい」
 そのまま階下に降りていく。アリーヤは瑤緒に「大丈夫よ」という一瞥を与え、階段を降りだした。瑤緒も慌ててあとを追う。
 階段は壁沿いに地下へ地下へと延びていた。中央にはリフト用の縦穴が深く地を貫き、底まではかなりある。落ちたら一貫の終わりなのに、手すりなどはまるきりなかった。踏み外したら真っ逆さまだ。照明は天井についているだけなので、底へ行けば行くほど暗くなっていく。
 ザヴィアは弾むゴム鞠のように、階段を降りていった。楽しげで、だが虚ろな笑い声がさざ波のように大きくなったり小さくなったりして響いてくる。それが暗い縦穴にいつまでも残り、陰々滅々とした空気を震わせる。肌に何度も打ち寄せてくる。
(怖い……)
 アリーヤにぴったりとくっついていた瑤緒は身震いした。ソファに横たわっていたときよりもこちらの方が正気に見えるが、得体の知れない恐怖を感じる。皇家の一員に対して不敬とは分かっているが、それでもアリーヤの凛とした様子から比べると、醜悪すぎる。
 やはりだめだ。ついていってはいけない。
「あ、あの、アリーヤさま」
 アリーヤが振り向く。視線が合うと言葉が出てこなくなるので、瑤緒はうつむきながら、必死に、
「あの、お待ちください。辰斗侍従……と、キリエラが、来ておりません……」
「あのリュシなら、私に失礼なことを言ったから、お仕置きに置いてきたわ」
 ちょうど反対側の壁にいるザヴィアが答えた。目を円くする瑤緒を見て、喉を震わせて笑う。
(辰斗さんが外に?)
 そんなことがありえるだろうか。辰斗はザヴィア皇女を警戒していた。皇女になにか言われたくらいでアリーヤのそばを離れるなんて、そんなにおとなしい人だっただろうか。
 ぞくりと、腰の少し上の窪んだところに痺れが走った。
 なにかおかしい。
「アリーヤさま、やっぱり戻りましょう!」
「だめよ。もう扉は閉じてしまったもの。外に出ることなんか許さないわ」
 アリーヤが答える前にザヴィアが言った。その歪んだ笑みを見て、瑤緒は血の気が失せるのを感じた。
 これはただの遊びではない。
「ザヴィア殿下! アリーヤさまになにをされるおつもりですか!」
「あら、気が弱そうに見えて、意外とうるさいわね。アリーヤ、いらっしゃい」
 瑤緒の抗議を無視して、ザヴィアはアリーヤに怪しく手をくねらせて招いた。
 アリーヤが歩を進める。
「アリーヤさま!」
「大丈夫よ」
 泣きそうになる瑤緒にアリーヤがほほえんだ。その笑み一つでなにも言えなくなる。
(どうしよう。どうしよう……!)
 答えは分かっている。彼女が皇太子を守るしかないのだ。
(アリーヤさまのお考えに逆らわないように)
 ディミオンに来る前、辰斗に言い含められた言葉だ。だが言われるまでもなく、あの笑みの前に逆らえるはずがない。ならば自分の役目は、身を挺して皇太子を守ることだ。
 アリーヤについて暗い階段を一段ずつ、ゆっくりと降りる。光が遠くなる。薄暗さが増し、自分の足下もはっきりしなくなる。気をつけなければ踏み外してしまう。
 靴音が地上に向かって響く。反対に彼女たちは暗闇の中に一歩、また一歩と沈んでいく。
 空気そのものが褐色に染まり、彼女たちを同化させようと絡みついてくるようだ。
 ここは墓所。死んだ人間を納めた、巨大な棺。
(怖い)
 どくん。自分の鼓動が耳元で大きく響く。
(怖い。いや。行きたくない。怖い。怖い)
 階段を降りる太股に、必要以上に力が入る。表情が強ばり、緊張する。
 予感が腹の底から突き上げてくる。
 ここは、危険だ。
(アリーヤさま……)
 瑤緒はアリーヤの横顔を見た。彼女は落ちついた様子で、怖いことなど一つもないようだ。
(ああ、この方をお守りしなければ。お守り――ああでも、怖い! ここは、危険だ!)
 最後のステップを降りる。
 そこは広い部屋だった。奥行きはどのくらいあるだろうか。かなり広いとは思うが、明かりが乏しいせいで視界の隅は闇に溶け、判然としない。
 それに比べ、天井はさほど高くなかった。三メートルは確実にあるが、剥きだしの石材がやけに重そうで、圧迫感を覚える。ここが地中であることをまざまざと感じる。
 平たく薄い、なにもない空間。一体ここはなんだ。墓所のはずだが、棺や骨壺があるわけでもない。
「これは……」
 瑤緒は呟き、自分の声が予想以上に大きく響いたのにびっくりして身をすくませた。その視界の隅に、白い、ぼうっと浮かび上がるものが飛びこむ。
「!」
 口から飛びだしそうな鼓動を押さえて見ると、亡霊のごとく浮かび上がる白いものは人影だった。
 闇の中で彼は笑っていた。
(ベネットさま?)
 瑤緒は目を疑った。間違いない。アリーヤの祖父、ベネットだ。檻の中で死を待っていた老人が、どうしてここにいるのだろう。
 彼はまじろぎもせずアリーヤを見つめていた。アリーヤも祖父を見る。二人の視線が絡む。
 息苦しいまでの沈黙のあと、ベネットが口を開いた。
「アリーヤ。よく来た」
 ゆらりと一歩こちらに踏みだす。瑤緒はそれに圧され、一歩あとずさった。喋れるのか。
 薄暗い照明の下で、ベネットの肌に青白い血管が浮かんで見える。張りついた笑顔。「笑顔」という記号化された表情を顔面に貼りつけた、偽物の笑顔だ。
 また一歩近づいてくる。アリーヤは動かない。凝然と祖父を見つめている。
「アリーヤ。待っていたよ。おまえが来るのを。ずっと」
 ベネットが腕を広げた。「優しいほほえみ」が空々しく浮かんでいる。
(だめだ)
 瑤緒の予感がさらに高まっていく。怖い。この人たちはおかしい。
(ここにいてはいけない)
 逃げるのだ。突然、強いその衝動に駆られ、瑤緒はアリーヤの腕を掴み、階段へと走ろうとした。
 だが、そうする前に彼女の体はふわりと浮き上がった。吹き飛ばされ、壁にしたたか叩きつけられる。
「うあ……」
 痛みをこらえながら顔を上げると、ザヴィアが不敵な笑みを浮かべ、彼女を見下ろしていた。今のは彼女の力か。
(違う。ザヴィアさまは柱力(ユマ)なしだ)
 だが、ベネットもそれは変わりない。
 一体誰が――そんなことを考えている余裕はなかった。ベネットがアリーヤに手を伸ばそうとしていた。血の気のない長い指が、アリーヤの頬に触れる。
 その口元が。
 瑤緒は全身を得体の知れない戦慄が走るのを感じ、目を逸らした。
 なにか、とても嫌な感じがする。
 なにか、とても禍々しい、見ているのが堪えられない。
 彼女の中の潔癖な部分が、その笑みを見るのを拒否している。
(アリーヤさま、お逃げください……!)
 アリーヤは動かなかった。瑤緒は怒鳴ろうとしたが、背中の激痛に力が入らなかった。
「アリーヤ、舜耶が帰ってくる」
 ぴくりと、それまでまったく動じずにいた皇太子の口元が、わずかに震えた。
(しゅんや……?)
 その名に瑤緒は聞き覚えがなかった。語感からしてエフタの名だろう。ベネットの言い方からして、〈柱〉の一族に近しい人物か。
「おまえはどうするのだね。このまま〈柱〉に隷属するか。それとも舜耶とともにゆくか」
「……」
「舜耶は世界を救う。新しい世界、新しい時代、新しい秩序。それを欲するならば舜耶の手を取るがいい」
「このままなら、哀れな〈柱〉に貪り尽くされ、終わりを待つだけ」
 ザヴィアがアリーヤに近寄り、背後からその腰に手を回した。彼女の頬に自分の頬をつける。
「アリーヤ、おまえはよく分かっているわね……哀れな〈柱〉は私たちにすがるしか、この世にしがみつくすべがない。ウィレンも霊峰も、この体を貪るしかないのよ」
 ザヴィアの手がアリーヤの胸を鷲掴みにした。皇太子が顔をしかめて小さく呻く。
「舜耶もそう。企画を覆そうともがいて、滑稽じゃなくて?」
 憐れみとも嘲りともつかない声でザヴィアは呟き、アリーヤの髪に顔を埋めた。白く透きとおる首筋に、自分の唇を押しつける。
 ベネットがアリーヤの頬を乱暴に撫でた。
「新しい企画を望むのなら、私たちとともに行こう。可愛いアリーヤ、〈柱〉におまえを渡すのは忍びない」
 しわ深い唇がアリーヤの果実のように潤う唇を覆った。舐め回す不快な音が異様に響きわたる。
(なっ……)
 羞恥と怒りに突き動かされ、瑤緒はベネットに飛びかかろうとした。だが、体が動かない。痛みなどどうということもないのに、まるで体がコンクリートで固められてしまったように、動かない。
(アリーヤさまになにをするの。なにをしているの、この人たちは)
 体の動かない瑤緒は恐慌に陥った。ベネットはアリーヤの祖父で、ザヴィアは伯母だ。なぜその人たちがアリーヤを貪ろうとしているのだ。〈柱〉に貪らせたくないと言いつつ、自分たちはなにをしているのだ。
(お守りしなければ、お守りしないと!)
 腰を抱えていたザヴィアの手が動き、服の中へと侵入する。その指の動きが、布を通してはっきりと見えた。
 愛おしむように、嘲るようにザヴィアが笑った。
「相変わらずここはだめなのね……まだ子供なのね……あの男はなにもしてくれなかったの? あなたをあんなに愛しているのに、愚かな男……ああ、すてきよ。なんて可愛いの……なんて、柔らかくて、温かい……」
「おまえは私たちのものだよ。アリーヤ、可愛いアリーヤ、よく帰ってきた。あのころのように、また愛してやろう。私とザヴィアであんなにおまえを愛してやったじゃないか」
 上擦った言葉がベネットの口から洩れる。瑤緒は体の芯が熱く昂ぶるのを感じた。今までに感じたことのない強い衝動――怒りが腹の底からふつふつと湧き、爆発する。
(動け。動くんだ!)
 衝動に突き動かされるまま、瑤緒は体を縛る見えない鎖を引きちぎって走りだした。怒りを力にし、ベネットに体当たりする。それまで瑤緒のことなど視界にも入っていなかったのだろう、不意打ちを食らったベネットはあっさりと拭き飛ばされた。ザヴィアもアリーヤを抱えたまま転倒する。
「アリーヤさま!」
 倒れたアリーヤを助け起こし、瑤緒は顔を強ばらせた。
 乱れた服の隙間から眩しいほど白い乳房が、そして、滑らかな下腹部が覗いていた。赤い指の痕がくっきり残っている。
 慌てて乱れを直し、かばうように抱える。
(細い)
 なんて華奢な少女だろう。手荒に扱えばすぐに砕けてしまいそうだ。
「大丈夫よ」
 アリーヤの手が瑤緒の手に触れた。その冷たさに心臓が震える。
(お守りしなければ。私が――私が!)
 これ以上は皇太子に手を触れさせない。
 激昂すると同時に、瑤緒は異様な興奮を覚えていた。今まで十八年の人生で味わったことのない高揚に、全身が目覚め、指先の先まで自覚できる。自分がここに存在していることを、今、初めて知る。
 自分は皇太子を守る為に存在するのだ――それを自覚した途端、全身にスイッチが入った。自分という存在に意義を見つけた。
 それはなんという快感、なんという自信だろう。存在することに不安がなくなる。なにも怖くはない。今ならば死ぬことすら自信が持てる。アリーヤを守る為ならば。
「きさま……」
 体を起こしたベネットが憤怒に顔を染める。瑤緒は身構えたが、アリーヤの手が止めた。
「可哀相なおじいさまとザヴィア」
 冷たい水を浴びせるようなアリーヤの静かな声。怒りも羞恥も当惑も、怯えすらその声色にはない。震えもかんばせの陰りもすでにない。ベネットが鼻白んだ。
「あのまま永遠に夢見ていればよかったのに」
「アリーヤ、私たちとは来ないのか」
「彼は、どこ」
 ベネットの言葉を無視して、アリーヤは問うた。
「彼は、そこにいないの」
「……」
「舜耶」
「いるさ」
 アリーヤの呼びかけにザヴィアがうずくまったまま答えた。次に顔を上げたとき、ザヴィア皇女の顔は四十代後半の女の顔ではなくなっていた。その声を聞いたときから、ベネットも身動きしなくなる。
「おまえに会う為に来てやったのに。アリーヤ」
 ザヴィア皇女であった者がゆらりと立ち上がった。アリーヤも真っ向から彼女――彼? を見据える。
「そろそろ意地を張ってないで、こちらへ来い」
「行かないわ」
「アリーヤ、世界を滅ぼすつもりか」
「あなたは二人をどうするつもりなの」
「禍根は断つ。おまえとウィレンに瑕疵があってはならんのだよ。さあ、アリーヤ」
 ザヴィアの中にいる者が手を差しだす。瑤緒は自分がアリーヤの腕を握りしめていることに気づいた。自分の指先が白く血の気を失い、震えている。
 行かないで。行かないでくださいと、必死に祈る。
 だが、どこへ?
 アリーヤが低い、静かな声で答える。
「さようなら、舜耶」
「私は諦めないさ」
 がくりとザヴィアが膝をついた。荒い息で胸を押さえる。
「彼」はもういないのだ。
「わ、私たちを、置いていくのか」
 喘ぐようにベネットが言う。
「舜耶、なぜ、今さら我々を裏切る。おまえを迎え入れてやった我々を、なぜ」
「裏切るなんて」
 くすくすとアリーヤが笑う。言葉の続きを瑤緒ですらはっきりと理解できた。
 裏切るもなにも、「彼」は最初からこうではないか、と。
「我々を、必要としているのではなかったのか。だからこそ、私たちは、おまえを」
「可哀相なおじいさま。そんなに〈柱〉になりたかったなんて」
 ベネットが一歩あとずさった。表情が怯えに似た驚きに支配される。身もだえするほど緩慢な動作で頭を抱えて膝をつく。
「〈柱〉になんか、なりたいはずがない……あんな、哀れな生き物に、誰が……」
「舜耶は私たちを必要としないの? それなら、なぜ、私に柱力(ユマ)を貸したというの。おまえをここに連れてくる為だけに?」
 ザヴィアが呻く。アリーヤは答える代わりに右手を上げた。
「舜耶は強引だわ」
「アリーヤ」
「さようなら、おじいさま、ザヴィア」
 突如視界に差しこんだまばゆい光に、瑤緒は目を細めた。
 墓所の奥、突き当たりの壁にまばゆい光の亀裂が縦に入る。墓所の闇が払拭される。
(扉?)
 あんなところに扉があるとは気づかなかった。壁の向こうに光に満ちた部屋があるのだろうか。二人はそこに向かっている。
 亀裂が広がって、光の正体がなにか見えるようになって、瑤緒は目を大きく開いた。
 壁の向こうにあるのは、空だ。
 光に満ちた青空が、見える。
(違う。だって、ここは地面の下だ。違う、あれは空なんかじゃない。だって、そんな)
 目が痛くなるほど濃いスカイブルーが、果てしない彼方まで広がっていて――
「ああ……」
 ザヴィアの長い吐息が耳元で聞こえた。それを合図に、部屋の向こうに閉じこめられていた空が、波を打って墓所に雪崩れこんできた。
 空と墓所の闇が衝突し、七色の光が散乱される。めくるめく色の乱舞。それらをすべて呑みこむように、空が噴きだしてくる。
 これを見たことがある。
 これは、そう、
(〈真空の海〉)
 突然、床に座りこんでいたベネットが、発作を起こしたように笑いだした。
「舜耶め、ディミオンとともに自分の罪を消すつもりか」
「……」
「アリーヤ、こんなことをしてもおまえの傷は癒えぬぞ。ウィレンの死とともに永遠に背負うがいい!」
 空の泉が彼を襲う。青空のしぶきがかかった部分から、老人の体がほつれ始める。ばらばらと体が溶け、そして、水をかぶった砂の像のごとく、消えてしまう。
「いやあああ……」
 傍らのザヴィアの体も紺青の怒濤に呑みこまれ、さらわれた。一瞬のことだった。瞬きをしたあとには、もう彼女の姿はなかった。
 そこに落ちればなにもかもが解け、〈海〉と同化してしまう。それは完全なる消滅。無への還元。端的に言えば、死。
(死んでしまう)
 逃げなければ。ここにいたら死んでしまう。
 だが、なんときれいなのだろう。
 オーロラをまとい、うねる鮮やかな紺青。しぶきを上げ、世界を呑み込む波濤。瑤緒は思わず見入った。死の恐怖が湧き上がる前に、その美しい光景に心を奪われてしまう。
 自分もその中に呑みこまれるのだ。
「瑤緒」
 自分の腕に触れる手に、瑤緒は我に返った。
 アリーヤ皇太子。
 いつもと変わらぬ表情で、彼女を見ている。
「アリーヤ……」
 さま。そう続けようとしたところで。
 大波が二人に襲いかかり、そして、呑みこまれた。
「!」
 一気に波にさらわれ、墓所から〈真空の海〉へと引きずりだされる。
 そこは上下左右、果てのない場所だった。どこまでも均一な青い〈海〉で満たされている。今までいた墓所への入り口すらない。
 まるで水に浮かんでいるようだ――そう思ったのは一瞬だった。全身を激しい張力が襲った。体のすべての細胞に、内側から外側へと力が働く。四肢をいっせいに引っ張られるような、膨張する力。
(あああああ)
 体が、ちぎれていく。
 瑤緒はそのことを、はっきりと自覚した。
 今、自分の体はちぎれつつある。指先から、爪先から、髪の毛から、唇から、乳首から、体の先端からボロボロと崩れ、〈海〉に溶けていく。
 膨張感は痛みとは切り離されていた。
 体がほどけていく。
 自分を形成していた情報も、存在も、なにもかもがほどけて、〈海〉に還元していく。この思考も、記憶も、なにもかも、そう、なにもかも。
 眼球で受けとる情報を処理することができなくなる。脳裏に焼きつく、銀の髪の乙女。月の女神。
(ありー……)
 消えてゆく。

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