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 彼は急いでいた。
 暗闇の中を必死に走っていた。目指すのは暗闇に灯る一つの光だ。白い光が彼をいざなうように瞬いている。そこへ行こうと必死に走っているのに、なかなかたどりつかない。彼と同じ速度で光も走っているかのように、たどりつかない。
(急がなくては)
 必死に脚を動かし、徐々に光が大きくなっていく。大きな光の球体がはっきりと見えるようになる。
 とうとう、彼は光に追いついた。
 光はまるで電球だった。ガラスの表面は触れると温かかった。生温かい硬い球面。
(急がなくては)
 彼は両腕を広げ、光に抱きついた。そして、我に返る。
 なにを、急ぐ?
 そう考えた途端、ガラスの中に手がずぶりと沈んだ。硬い表面がいきなり抗力を失う。
(うわ……)
 声を上げそうになるのを懸命にこらえた。手を引き抜こうとすると、ねっとりと、白いねばねばしたものが絡みついてきた。鳥もちのような、溶けたチーズのようなもの。
 体を離そうとして、離れないことに気づく。半身が鳥もちに絡め取られている。
(この)
 彼は掌に力を込めた。この気持ち悪いべたべたしたものを、力の炎で焼き尽くそうとする。
 だが。
(だめだ)
 自分で自分を制する。
(この中だ。この中に行かなければ)
(急げ。急ぐんだ!)
 叱咤に似た言葉に突き動かされ、彼は引き抜きかけた手をもう一度、球体の中に突き入れた。ぐちゃり。なにかが潰れる。嫌な感触。ねっとりと腐った果実のような。
 彼は虫酸が走る感触に堪えながら、それを掘り返した。ぐちゃぐちゃと、内臓を掻き回すような、嫌な音が立つ。だが、彼は掘るのをやめなかった。やめられなかった。
 腐った中身は糸を引いて彼に絡みつく。手を動かすたび、腕を振るたび、足を進めるたび、糸がねっとりと引き、彼の体を束縛する。
(急がなければ)
 彼はとり憑かれたように、腐ったそれを掘り続ける――

       ※

 扉を叩く音で、彼は目を覚ました。扉の向こうから感じるのはよく見知った波動。晩大林だ。
「ちょっと待て」
 声をかけてから辰斗はベッドから起き、長い髪を乱暴に掻き上げた。いつもなら扉が叩かれるまで寝ていることなどない。五十メートルも近づけば、自分に向けられた気配を感じて、体が勝手に起きてしまう。相手が親しい相手だったせいか、こんなふところまで近づかせてしまった。
(疲れてるな)
 体が重いのを感じる。一日寝てどうにか起きられるようになったが、本調子ではない。
 隣の皇太子の部屋に異常がないことを確認し、扉を開ける。果たして、そこには晩大林の姿があった。
 大林は笑って、
「やあ、寝てたみたいだね。色男が台なしだ、目の下に隈ができている」
「寝ることは寝るんだけどね、夢見が悪くて」
 大林を部屋に招き入れながら、辰斗は苦笑した。
「それはそうだろうよ。自分のやったことを考えたら当然だね」
「少しは病人を労ってはくれないのかい?」
「スクランブル隊の奴らも、君のことバカだバカだって連呼してたよ。ぼくもそう思う、死人に感応なんて」
 笑顔で大林は言うが、言葉は辛辣で同情の欠片もない。
「でも、やらなかったら君はバカどころか、腰抜け呼ばわりされてただろうな。皇太子侍従として君は立派に任務を遂行したよ。いや、名誉を回復することができたと言うのかな?」
 大林は部屋に入ると、まず隣の皇太子の部屋に向かってひざまずき、叩頭した。そして、低く甘い声で二重旋律を紡ぐ。防御結界の布陣だ。
 結界への負担が軽くなったので、辰斗は息を入れた。なんのかんの言いながら、大林はきちんとフォローしてくれる。
 布陣が終わると大林は立ち上がり、辰斗の胸元を両手で掴んだ。そして、顔を埋める。
「ここに、殿下がおられたんだ」
「……」
「少しでも残り香があればいいのに、君の匂いしかしない。残念だよ」
「昨日の話じゃないか」
「大体、君はいいよね。いつだって殿下のおそばにいられるし、あまつさえ昨日のように、殿下をその手で抱かせていただけるんだから。もういつ死んでもいいよね?」
「また、そんな言いがかりをつける」
 大林を押しのけ、呆れ返って辰斗は窘めた。だが、大林の痛烈な皮肉を咎める権利は彼にはなかった。アリーヤを危険な目に会わせた。それは彼の失態だ。たとえ、今回のディミオン入りが中枢委員会と皇帝の間で仕組まれた罠で、アリーヤ自身が囮になることを了承したとしても、彼女が傷つくことなどあってはならなかった。しかも、己の力の加減ができなかったせいでなどと!
 だから、必死だった。死者の中に潜っていくのをためらわなかった。第三の力の効かないパズスパを探査するには、死んだあと、意識が解体するまでのわずかな間しかない。それを実行した。結果、いくつかの有益な情報を得ることができた。
 だが、辰斗は自分の挙動を許せなかった。
 警備に穴を空かせ、離宮に潜入したテロリストを一網打尽にする。中枢委員会の杜撰な計画は、一網打尽というにはほど遠い人数だが、一応うまくいった。敵はのこのこと現れた。
 パズスパが来ることも想定していた。ダイ・ウォーレン少佐の話を考慮して、対パズスパ用の警備を辰斗は整えておいた。だが、自分の力が通用しないことに焦り、それをうまく使いこなせなかった。
 今回のことは、第三の力に慢心していた自分の驕りが原因だ。
「新しい護衛を補充したよ」
「ふうん」
 辰斗の言葉に、大林は気のなさそうに相槌を打った。
「海より深く反省したわけ? 画期的と言っていいのかな。ぼくにはひどく古典的に聞こえるけど」
「画期的だよ」
 大林の皮肉を辰斗は軽く受け流した。
「パズスパを採った」
「……毒には毒を、ってことかな」
 素っ気なく大林は言い返した。だが、わずかな沈黙が彼の動揺を表していた。辰斗は頷いた。
「身元は」
「とりあえずはっきりしている。精神探査できないのがネックだけど、しかたないさ。あと、私の補佐に例の堝家の娘を昇進させることにしたよ」
「ああ」
 気のなさそうに大林は相槌を打った。
「まあ、いいんじゃない、女手を増やすのは。君と宮内庁のじいさん二人でお世話しきれるお年ではないのだし」
「別に、今までだって私たちだけでお世話していたわけじゃないんだけどな」
 辰斗はぼやいた。どうにも一部で、自分たちが皇太子の下着を洗っている間違ったイメージが定着しているらしい。 
「でも、これで殿下の回りをリュシで固めても、どこからも文句は来ないだろうね。非常事態なんだから。非常事態と言えば、ぼくは手紙を預かってきたんだ」
 大林はふところから封書を取りだし、辰斗に手渡した。真っ赤なハートマークが一面にあしらわれた封筒だ。差出人の名はなかったが、すぐに誰からの手紙か分かった。
「サライから?」
「うん。ディミオンは民間から連絡が取れないって文句言ってたよ」
「芙蓉の宮だって氾科研を通さなければならないのは一緒なのに」
 辰斗は苦笑して封を開けた。サライの文句は、「拗ねているのよ」というメッセージだ。そういう露骨なアピールがサライは可愛い。
 封書には一枚のカードが入っていた。黒地に金で曲線を組みあわせた模様が描かれている。辰斗はとっさに部屋にシールドを張った。その気配に大林が顔を曇らせると同時に、カードが軽い爆発音を立て、一筋の煙が上る。
「やれやれ、マジックアイテムを持ちこませるなんて、サライも困ったものだ」
「チェッカーに感知されたかな?」
「大丈夫だろう、シールド張ったから」
 カードから黒い光が放たれ、その中にサライの幻像が浮かび上がる。
「はあい、辰斗ちゃーん、元気い? 欲求不満になってなあい?」
 彼女は黒の下着姿で悩ましいポーズを取っていた。相変わらずの分かりやすさだ。
「サライはねえ、すっごく寂しいのお。辰斗ちゃん、なかなか来てくれないじゃない。それなのにディミオンに行っちゃうなんて、ひっどーい」
 幻像のサライはくねくねと体を振って、大袈裟に拗ねまくる。大林が噴きだした。
「でもいいの、サライは辰斗ちゃんの愛人だもの。あなたの気まぐれを待つしかないの。それでもめげないわ」
「彼女は相変わらずおもしろいねえ。彼女は好きだな、女でも」
 サライがずいっと真剣な顔を近づける。
「ところで辰斗ちゃん。サライね、例の新興宗教について調べてみたのよ。偉いでしょ、愛人の鑑だわよね」
「新興宗教?」
「最近フリンカムで流行っているらしいよ。霊能庁がマークしているんだ」
 大林の問いに辰斗は答える。
「あのねえ、やっぱり〈干渉〉の影響かな、最近どっと信者が増えたのよ。教祖サマはガッチガチの皇党派、辰斗ちゃんとどっちがすごいかってくらい。まあ、当人は皇帝陛下にも皇太子殿下にもお会いしたことないんだけどね。皇帝陛下万歳、〈柱〉万歳、ってわけ。
 そうよ、辰斗ちゃん気を付けて。彼女は皇党派だけど、〈柱〉絶対主義者よ。〈柱〉でないアリーヤさまにあまりいい感情は持ってないわ。母体要員ぐらいにしか考えてないの」
「ふうん、どこかの誰かさんのようだねえ」
 大林が呟いたが、辰斗はそれは無視した。
 サライは鼻の頭にしわを寄せて、
「辰斗ちゃん前に言ってたでしょ。滅びの予言は大体が〈干渉〉で世界が崩壊して終わるって。でも、ここの教義はちょっと違うのよね。滅びは確かに来るんだけど、『約束の地』だけが厄災を免れ、新たな世界の創造が始まるって余分な言葉がくっついてるの。
『約束の地』って分かる? つまり、〈柱〉がいるエルシアのこと指してるのよ。〈柱〉は世界を支えられるから、エルシアは滅びないっていうの。 でもそれが本当なら、エフタもそうじゃんね。
 どう、これって民族主義団体と戦うのにいい教義じゃない? あたしはエルシア皇家もアリーヤ皇太子も好きよ。きれいな子って大好きなんだわあ。それに、本当に厄災が来ても、エルシアだけは助かりそうだしい。バカな民族主義者はとっとと捕まえて洗脳した方がいいよ。
 これでサライの報告は終わり! もっと調べてみるから、続報が欲しかったらサライの部屋に遊びにきてねん。愛してるよーん」
 サライの手紙は彼女の投げキッスで終わっていた。黒い光とともに幻像が消える。辰斗はカードを封筒に戻した。
「なかなか興味深い話だね」
 大林が感心した口調で言う。
「民族主義者が騒ぎだしたと思ったら、それとまったく反対の勢力が現れる。反動の均衡とでも言うのかな」
「あまりいい話じゃないさ」
 辰斗は封書ごとカードに火をつけ、燃やした。
「新興宗教って言っただろう。彼ら――教祖は女のようだけどね、皇家を神格化しようとしている」
「それはよくないねえ。ぼくたちが懸命に我慢してるというのにねえ」
 大林は笑って答えたが、目が笑っていなかった。
 神格化すると、反体制派がここぞとばかりに攻撃してくるのは目に見えている。異世界の手前もある。だからこそ新興宗教の件は、そう単純に味方が増えたと喜べない。
「でも、おもしろいよ。異世界でも滅びの予言が流行ってて、〈柱〉の一族にすがろうと嘆願書を送りつけてくる。彼らにとっては〈柱〉の一族はすでに神同然だというのに、こんなにおそばにいるぼくたちが神として崇めることを禁じられているなんてね」
「神を独り占めはできないからな」
「そんな形ばかりの言いわけがいつまで通用するかなあ。今回の〈干渉〉が滅びの予兆だって騒がれたら、こぞって〈柱〉を奪いにくるとは思わないかい。カマラ人がエルシアに潜入してきたのだって、その為かもしれないよ」
 辰斗は眉宇をひそめた。瀬淳はカマラでも滅びの予言は流行していると言っていた。しかも、クーデター政府の首謀者も信奉者らしい。
 もし大林の推測が当たっていたとしたら?
「反政府主義者どもと手を組んだのも?」
「そうそう。連中のせいで、〈柱〉の一族はエルシアを見限る。そこで、『では我が世界に』ってね」
「エルシア皇家がエルシアを見限ったとしても、エフタ世界に入るだけだな」
「そこまでカマラ人が〈柱〉の一族を理解しているとは思えないなあ」
「でも、北セファーンの歪みはどう説明つける?」
「それはまた別の話だよ。〈干渉〉以前からカマラ人は北セファーンに潜入してたんだから。偶然にいい隠れ蓑ができたから、利用しているだけさ」
「……」
 そうだろうか。一抹の不安が辰斗の胸中に渦巻く。カマラ人に歪みが造れるわけはないし、〈干渉〉も起こせるわけではない。カマラ人が潜入作戦を行っている最中、偶然にカマラ世界とエルシア世界は〈干渉〉を起こした。
 本当にそうだろうか。偶然の一言で片づけていいのだろうか。
 逆に、カマラ人が特別でなく、ほかの異世界人たちも同じように作戦を決行中と考えるのはどうだろう。カマラと〈干渉〉が起きたからこそカマラ人が焙りだされただけで、今もなお各異世界人が潜入中で、虎視眈々とチャンスを窺っているとしたら。その方があり得そうだ。
「ああ、ぼくはアリーヤさまの御為になら、どんな目に会っても悔いはない」
 辰斗を尻目に、夢見るように大林は呟いた。
「彼女の御為になら、この身が八つ裂きになろうとかまわない。ぼくが彼女のいちばんの奉仕者である証になるなら。これが神への崇拝というものだよ、辰斗」
「残念だけど、私は狂信者になることは許されていないのでね」
「可哀相に。この手で彼女に触れる栄誉に預かる代償は高いな」
 そう言って大林は辰斗の右手を掴み、掌を舐めた。
 いつからだろう。幼いころから知っている少年が、狂信の闇に呑みこまれたのは。いつの間にかこの瞳には皇太子の姿しか映っていなくなっていた。神扱いを禁じられてはいるものの、心を縛りつけることはできない。多かれ少なかれ、リュシは皆〈柱〉の信奉者で、彼らを神だと心の奥では信じているのだ。瀬一族もそうだろう。
 どんな目に会っても悔いはない――だからこそ辰斗は大林を使っている。言葉どおりアリーヤの為に八つ裂きになってもらう。彼女の残り香を求められることなど、造作ない。
 狂信に落ちてしまえば、どんなに楽か。生きることにも死ぬことにも迷いはなくなる。
 だが、辰斗にそれは許されていない。
「じゃあ、ぼくは北セファーンに戻るね。結界は補強したから、しばらく休んでるといいよ」
「ああ。すまないね」
「なに言ってるんだよ」
 大林は笑った。
「アリーヤさまにもしものことがあったら、君を殺したって意味がないだろ」
 撫でるような優しい声色で言い、大林は部屋を出ていった。辰斗はため息をつくと、髪を掻き上げ、寝台に腰をかけた。

       ※

 夢の中で、彼女はもがいていた。
 夢の奥へと落ちてきた。そこには息苦しいまでに重い、濃密な青空が広がっていた。
 なにもない。彼女の視点からはなにも見えない。広大無辺で虚ろな世界があるきりだ。青空に潰されるように、彼女は世界の底を這い回っていた。
 空を自由に飛んでいた。だが、この空は彼女の知っている空とは違う。体が重すぎて飛べず、這い回ることしかできないのだ。
(早くしなければ。早くしないと間にあわない)
 彼女は忙しく手足を動かした。飛翔への憧憬とは裏腹に、蜘蛛のように這い回るしかなかった。
(早くしないと、世界が落ちてしまう)
(世界が落ちる?)
 彼女は空を仰いだ。彼女を押し潰す空の向こうに、人影がある。人影が落ちてくる。いや、彼女が落ちているのか。
 手を伸ばせば触れそうになるほど近づいたとき、相手が彼女を仰いだ。
(月の光)
 なんてきれいな少女なのだろう。
 月の淡く儚い光をまとい、この世からそこだけ隔絶されたような、浮き世離れした美しさを持つ少女。
 曇り一つない澄んだ肌も、月夜の雪原のように輝く銀白の髪も、朱を引いたように赤い唇も、白魚の指も、なにもかもが現実的でなく、夢のように美しかった。
 夢の中でしか生きられない、透きとおる存在感。月の化身が、彼女をまっすぐ見つめている。
 その目。深遠な、果てなく深い海原の彩り。その双眸の中に引きこまれそうな色。
 その瞳の奥に、無限に濃い青空が――
(アリーヤさま)
 声をかけたはずだが、声にならない。少女が首を傾げ、色鮮やかな唇が動く。
「あ、や?」
(アリーヤさま。このままでは世界が落ちてしまいます)
(早くしないと、世界が)
「大丈夫よ」
 涼やかな、音楽のような笑い声。
「彼が来るわ。私たちがいれば、世界は滅びない」
(アリーヤさま?)
「私たちが世界を救うわ」
 高らかな笑い声。彼女は目眩に襲われた。体がぐるぐると回転し、再び空の底へと叩きつけられる。
(今のは、アリーヤさま……?)
 意識が遠くなる。


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