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 彼女は夢を見ていた。
 夢の中で彼女は誰かを捜していた。
 意識が空を飛ぶ。醒めるような濃淡のない青空の中を、風のように、鳥のように、弾丸のように。
 大きなガラス玉が見えてくる。その中へまっしぐらに突き進む。
 剥きたての茹で卵を突き破るように、意識を尖らせ、勢いよく中に侵入する。
 軟らかいガラス玉を突き抜けると、再び青空が広がる。違うのは、眩しい光を頭上に感じること。日の光が世界に満ちる。
 彼女は大空を滑空し、眼下に広がる赤茶けた大地へと近づいた。湖が見えてくる。そして、湖岸に広がる街。埃っぽく、雑然とした、きれいで汚い街。
 湖の近くに白い大きな建物が見える。美しい流線の建物。その近くに薄赤い、さらに大きな建物がある。
(宮殿)
 彼女の意識はうす汚れたピンクの宮殿に滑りこんだ。
 中庭の回廊に大勢が行き交っている。中庭と中庭をつなぐ廊下にも。
 忙しない彼らの間を彼女はすり抜け、駆け巡る。石の廊下を、天井を、縦横無尽に飛んで。
(近い)
 木の扉が見えてくる。
(さあ、彼はそこよ!)
 扉を押し開く。

       ※

 扉を開けたグッディ・スループは、誰もいないはずの部屋に少年を見いだし、もう少しで悲鳴を上げるところだった。
「あ、あなた……!」
 慌てて自分の口を手で塞ぐ。彼女に気づいた少年は、ニイッと不敵な笑みを浮かべて手を挙げた。
「よう、久しぶりだな」
 グッディは急いで廊下を見、誰も近くにいないことを確認すると、扉を閉めた。少年に駆け寄り、小声で、
「こんなところでなにをしているの? それより、どうやって入ってきたの?」
 グッディは彼が自分の前にいることが信じられなかった。このピンクの宮殿に連れてこられた日、街でほんのわずか言葉を交わした少年だった。その彼が、厳重な警戒を敷かれた宮殿の中に、ひょっこり湧いたように現れるなんて!
 だが、心のどこかで、彼がこうして突然彼女の前に再び現れることは分かっていた。それは漠然とした予感だったけれども。
(本当に会えるなんて……)
 はっきり分かっているのは、彼とまた会えて嬉しがっている自分がいることだ。
(嬉しい……軍人じゃない人に会ったの、久しぶり……)
 今の境遇に置かれる前の自分を知っている人に会えたのが、嬉しい。たとえ一瞬袖を触れあわせただけの相手だとしても。
 少年――淳は肩をすくめた。
「いいだろ、そんなことどうでも。俺はグッディに会いにきたんだ」
「えっ」
 どきりと鼓動が高ぶる。年下だが、若い男にそんな言い方をされたのは初めてだったので、グッディは首筋まで一気に赤くなった。そんな顔を見られるのが恥ずかしくて、うつむく。
 淳はグッディの乙女心など知る由もないらしく、部屋を見回して、
「いい部屋だな。ここで一人暮らし? いい待遇じゃねえか。軟禁っていうから、俺はまた牢獄みたいなとこを想像してたぜ」
「私のこと知ってるの?」
 グッディは驚き、恥ずかしがっていたことも忘れて淳を見た。彼はにやにや笑っているだけで、答えようとしない。グッディは初めて、彼が得体の知れない異世界人であることを思いだし、警戒した。
 彼女が軟禁されていることも知っているし、クーデターが起きることも知っていた。単なる異世界人とは思えない。
「……あなた、何者?」
「大した人間じゃねえよ」
 淳はそううそぶいた。
「グッディに会いにきたって言っただろ。せっかく茶でも飲ませてもらおうと思ったのに、家に誰もいねえんだもん」
「あなた、お茶を飲みに、ここに忍びこんできたの?」
 グッディは呆れ返った。まさかそれだけとは思わないが、図々しく言ってのける根性に感心してしまう。
「早く帰った方がいいわ。ここは今、危ないのよ。分かっていると思うけど、ここはクーデター政府が陣取っているの。見つかったら殺されてしまうわ」
「グッディは帰らないのか」
 壁にかけられたタペストリーを裏返しながら、淳が尋ねる。グッディは身を固くした。
「わ、私は……だめよ……」
 弱々しい声で呟く。淳が怪訝そうに振り向いた。
「なんで?」
「だって……ウスマーン兄さんが怒るわ……逃げるなんて、私、閉じこめられてるんじゃなくて、保護されているんだもの……」
 グッディはうつむいた。このことはすでにウスマーンとやりあったことだ。やりあうといっても、グッディが「いつまで閉じこめられてなくちゃならないの?」と兄に聞いたところ、殴られ、「おまえたちは俺が保護してやっているんだ!」と怒鳴られたのだ。それ以来、兄が恐ろしくて、ここから逃げるなんて考えられない。
 ウスマーンに連れられて宮殿に来てから、もう半月以上経つ。グッディは「ヒラ・ラル将校の特別な計らい」で、貴族が使っていた一室を与えられていた。食事もいつもと変わらないものが出てくるし、学ぶこともできたが、建物の中から出ることは禁じられていた。広い宮殿には幾つも建物があったが、別の建物に移ることも禁じられている。
 グッディはもともと出歩くよりは家で大人しくしている方が性に合っていたし、好奇心も強い方ではなかったので、それは苦にならなかった。だが、孤独は寂しかった。
 母親はウスマーンの世話をしに厨房へ行ったきりだし、父親は将校たちを集めて勉強会をやるか、あとは図書室に閉じこもっている。ウスマーンはクーデターの幹部として忙しく、妹をかまわないし、たまに顔を見せれば叱るか殴るかのどちらかだ。
 周りは見知らぬ軍人ばかり、まったく知りあいもいない中に一人ぽつんと置かれ、グッディは居場所のない戸惑いと不安にずっと堪えていた。
(ここは、私には場違いだわ……)
 家にいたときはよかった。給料は安かったが仕事もあり、商店街の人々と言葉を交わし、小言ばかりだが母親にかまってもらえた。
 だが、ここでは一人だ。
(母さんはウスマーン兄さんがいればいいのだから……)
 母親の気持ちは分かる。頼りない父の代わりをしてきたウルワーは、ウスマーンに父の代わりをしてもらいたいのだ。そして、ウスマーンもその気で帰ってきた。
 父親はグッディを愛していたが、彼の貪欲な知識欲には敵わなかった。スループは娘の存在など忘れたように、夢中で勉強をしている。
(なにもかもが変わってしまった。水祭りも中止されてしまったし……ああ、私はもう工房をクビになってるわね)
 自分はここにいても居場所がない。だが、外に出ても居場所があるだろうか。ここにいれば家族がいる。たとえ会うことはなくても。
 それでも、一人は寂しい。ここは息苦しい。
 グッディは上目遣いで異世界の少年を見た。おずおずと、
「……あなたは、ここを出たら、どうするの?」
「俺のことなんかどうでもいいじゃん。グッディはどうするんだって俺が聞いてるんだ」
 淳は苛立ちを隠さず言った。グッディは身を縮める。年下とはいえど、男の発言には逆らえない。そうしつけられている。
「わ……私は……」
「ここから出たいっていうなら、俺が連れてってやるよ」
「……」
 グッディはなんとも言えない複雑な面もちで淳を見た。そうだ。自分は外に出たい。こんな息苦しいところは嫌だ。
 だが、外に出てどうなる? あの家に戻ったら、ウスマーンが再び連れ戻しにくるだろう。自分のような教養も取り柄もない小娘が一人でなにができる? 庇護してくれる者もなく。
 ためらうグッディを、淳は不機嫌そうに口を歪めて眺めていたが、不意に、
「もしかして、あいつが気になってるとか?」
「あいつ?」
「クーデターの首謀者。ヒラ・ラル将校」
 意地の悪い笑みを浮かべる淳。グッディは一瞬で頬が熱くなるのを覚えた。それを見た淳が、意外そうに目を円くする。
「おっ。的中?」
「そ、そんなんじゃないわ」
 グッディはむきになって反論した。
「そりゃ、ヒラ・ラルさまはすばらしい方だわ。ハンサムだし、教養もあるし、優しいし、勇気もあるし。私なんか、一度迷子になって、警備兵に乱暴されそうになったのを助けてもらったし……私なんかが思いを寄せることもできない立派な方よ。第一、そんなことがウスマーン兄さんに知られたら、怒られるに決まってるわ」
(それよりも、私は)
 思わずそう言葉を続けそうになって、慌ててうつむく。顔がさらに火照るが、幸い淳は怪訝そうな顔をしただけで気づかなかったようだ。
(どうしてかしら)
 どうして、こんなに異世界の少年が気になるのだろう。年下なのに。異世界人だから? そうかもしれない。だからこんなに気になるのだ。彼がどこから来たのか、これからどうするのか、そして、自分をどう見ているのか――
「なんかよく分かんねえ理屈だけど」
 淳は肩をすくめて言った。
「つまり、グッディはそのウスマーン兄さんとやらが怖いだけなんだな。いいよ、ウスマーン兄さんが来たら、俺が追い返してやるよ」
「ほ、本当?」
「任せとけって」
 片目をつむり、淳は不敵に笑ってみせる。その過剰なまでに自信に満ちあふれた笑顔が、ひどく眩しかった。彼の中ではやんちゃな子供と狡猾な大人と無謀な若者が、一緒くたになっている。
 グッディはこんな少年を見たことがなかった。なんて生き生きとしているのだろう。
(本当に私を守ってくれるの? 私を導いてくれるの?)
「ほら」
 淳が手を差しだす。グッディは唾を呑みこみ、その手をおずおずと取った。

 出ていく前に家族に別れを告げてこいと提案したのは、淳の方だった。
「急にいなくなったら心配かけるだろ」
 それもそうだと、グッディは父親のところに行くことにした。本当は母親に会いたかったが、ウルワーはウスマーンのあとを追いかけているので、兄に見つかったら面倒だと諦めた。
(父さんに言っても、ちゃんと母さんに伝えてくれるかどうか)
 グッディは屋根にしがみついて歩きながら、ため息をついた。真っ先に気づいて騒ぐのはウスマーンかも知れない。厳重な警備を敷いた宮殿の中から妹が消えてしまったら、彼の面目は丸潰れだ。
(そう……ちゃんと逃げられたら、だけど……)
 グッディは目の前を行く淳を見た。
 不思議と、「逃げられない」という不安はなかった。淳は誰にも見つからず、部屋まで忍びこんできた。ならば、外に出るのも簡単だろう。
(私、彼をこんなにも信用している……どうしてかしら……)
 早鐘のように鳴る鼓動を聞かれるのではないかと、グッディはどぎまぎしながら、彼のあとを追った。
 二人はスループ博士のいる図書室を目指し、宮殿の中心へと向かった。淳の手を借りると、建物と建物の隙間も、猫のように軽やかに飛び渡ることができた。
 まるで泥棒みたいだとグッディは考えたが、罪悪感はなかった。女は大人しく、家で裁縫や料理をするのが正しいことと言われ育ってきた彼女は、味わったことのないスリルに興奮していた。
 高さへの恐怖はあったが、それは淳がいれば大丈夫だったし、逆に高さからくる開放感に、胸を躍らせていた。
(空がなんて広い)
 宮殿は塔を抜かせば街でいちばん高い建物だ。空がいつもより広く、大きく、近くに見える。
「グッディ、見てみろよ」
 建物の先端まで来て、淳が前方を指した。彼のそばに這い寄り、その先を見る。
 眼前に湖が広がる。太陽を反射し、きらきらと白く光るみなも。湖岸を縁取る山並み。そして、その上の広大な蒼穹。
 グッディは空を仰ぎ、吹きわたる湖からの風を全身で浴びた。青空が落ちてくるような、遠近感の喪失。空がとても近い。
(なんてきれいなの。なんて気持ちいい!)
 こんな風に世界がきれいだと認識したことがあっただろうか。世界はそこにあって、自分もその一つだった。だが、それがどういう意味か考えたことも、感じたこともなかった。
(私もこの世界の一部なんだわ……この美しい世界の……)
 心の中の嫉妬や情けなさや悔やみが、風に洗われ、透明になって消えていく気がする。自分の悩みが、この美しい世界の前ではなんの意味も持たないことなのだと分かる。自分に比べたら、この世界は大きくて、美しすぎる――
「世界は滅びる」
 世界の美しさを全身で喜び、感動していたグッディの心を凍りつかすように、淳の一言が刃となって突き刺さった。グッディは硬直し、あらんかぎりに目を瞠って淳を見た。顔の筋肉が強ばるのが分かる。
 相当緊張した顔をしてしまったのだろう、振り返った淳が笑って、
「なんて顔してんだよ。おまえの親父が言ってることだろ」
「あ……」
 一気に緊張が解け、グッディは大きく息をついて肩の力を抜いた。そして、恨めしげに淳を仰ぎ見て、
「父のことを知っているの……?」
「世界は滅びるんだろ。ヒラ・ラル将校が盲信して、毎日講義を開いてるって噂だぜ。で、世界は滅びるのか?」
 興味津々に淳は尋ねる。グッディはうつむいた。
「……父さんがなんでそんなこと言いだしたのか、知らないわ……父さんは八年前まで総合科学研究所で、次元物理を研究していたけど……八年前、突然世界は滅びるって騒ぎだして……」
 だが政府は彼を、研究費欲しさに虚言を吐くインチキ科学者だと断定した。マスコミに叩かれ、ついには国家騒乱罪で王都から追放された。
 彼女は当時九つで、なぜ自分たちがジョイワールを離れなければならないのか、まだ理解できなかった。母親が「父さんの仕事の都合」と説明したので、そのまま鵜呑みにしていた。
 だが、兄のウスマーンは難関高等学校に入学したばかりだった。元々気の荒い兄は、父親としての務めを果たそうとしない父に反発していたが、追放に伴う退学で深く傷つき、スループを憎んだ。
 一年後、追放が解けてジョイワールに戻ってきた。成績優秀だったウスマーンには復学の誘いがあったが――母親の実家が手を回したらしい――彼はそれを蹴飛ばし、入隊してしまった。
 自分の人生を狂わせた父親を、そして、滅びの研究をあれほど憎悪していた兄。その兄が父をここに連れてきた。彼の敬愛するヒラ・ラルが望むからと。
「グッディは世界が滅びるって信じてるのか?」
 淳の問いにグッディは首を振った。
「私も、もう子供じゃない……小さいころは、信じていたけど……だって、世界がどうやったら滅びるというの?」
「どうやってだと思う?」
 おもしろそうに淳は聞き返す。まるで彼は答えを知っているようだ――そんな思いに捕らわれながら、グッディは考えてみた。改めて問われてみると、やはり答えは出てこない。
「戦争……飢饉……とか?」
「おまえ、親父の職業がなにか分かってんのか?」
「え……学者よ?」
 グッディは困惑して答えたが、淳はバカにしたように鼻で笑った。それでようやく、父親の言うところの「滅び」が、「次元物理」に関係していなければならないと理解する。
 だが、それ以上の追及はできなかった。なぜなら、彼女は次元物理学がなにか、みじんも知らなかったのだ。難しい数学を操るという以外には。
(恥ずかしい)
 彼女は再度うつむいた。父の娘として、もっと詳しく言えたらよかった。自分は今までなにをしていたのだろう。数字は苦手と逃げずに、もっと勉強していたら、この少年に笑われることもなかったのに。
「グッディ、〈特異点〉のことは?」
「え? な、なに?」
 なにを言われたか分からず、グッディは聞き返した。だが、淳は間違いだったと言うように手を振った。
「ヒラ・ラルは本当に世界の滅びなんて信じてるのかな」
 その口調が実にばかばかしそうだったので、グッディは彼も滅びなんて信じていないと分かり、安心した。それから、ためらいがちに、
「私には信じているって言ってたけど……」
「だからクーデターを起こしたってわけか」
 グッディは顔を上げた。少年と目が合う。
(この子はなにを言っているの……)
 世界が滅びるから、ヒラ・ラル将校はクーデターを起こした? つまりヒラ・ラルは、この世界を滅びから救おうとしている?
(彼は本気で信じているの?)
「世界の終末論ってのは、どの世界にもあって」
 淳が湖を眺めて話し始めた。
「大抵の宗教は世界の終末を前提に成り立ってて、その災厄を免れたいなら自分たちの神を信じろって脅すわけさ。そうして信者を獲得してく。でも、宗教はいつだって政治に利用されるんだ。宗教が政治を始めるってのもあるけどよ。俺の言ってること、分かるか?」
「……」
「つまり、ヒラ・ラルは、自分たちのクーデターを滅びの予言とくっつけて、正当化したがってるだけじゃないか、ってことさ」
「う……嘘」
 グッディは掠れた声で、ようやくそれだけ呟いた。自分はなにをこんなに驚いているのだろう。ヒラ・ラルが滅びの予言を信じていないかもしれないことが、そんなにショックなのか? 自分だって信じていないくせに。
 違う。
(父さんは利用されているだけ)
 父が利用されている、結局誰にも信じてもらえていないということが、嫌なのだ。
 大好きな父。尊敬する父。自分を可愛がってくれる父。ヒラ・ラルに自説を信じてもらえ、あんなにも喜び、顔を輝かせていた父が、再び失意のどん底に突き落とされるのを、見たくないのだ。
「そんなこと、ないわ……ヒラ・ラルさまは、信じているって……」
「でも、グッディは滅びなんか信じてないんだろ?」
「わ、私は信じてなくても、彼は、本気で信じているのかも知れないわ」
「だとしたら、為政者としちゃ失格だぜ。終末論に傾倒した政治家がどういう国を作るか、歴史が証明してるだろ」
 肩をすくめてみせる淳。グッディはキッと彼を睨むと、屋根の上を奥の宮に向かって進みだした。
(そんなことない)
 ヒラ・ラルにもう一度確かめなければ。
 なぜ彼が父の説を信じたのか、問いたださなければ。でなければ、ここを出ていくことなんかできない。
 あの純粋な、子供のような父を置いて、出ていくことはできない。兄も母も頼りにはならない、自分が彼を守らなくては。
 それは、グッディが初めて感じる義務感だった。彼女は今までずっと保護される側で、導かれる側だった。だが、今は違う。
(私が――)
 建物と建物の間に来て、少し距離があったのでグッディは戸惑った。だが、能動的な立場への義務感が、彼女を突き動かした。飛び越えようと肩に力を入れると、
「おい」
 淳がそばにやってきて、彼女の手を取った。怒って一人で帰ってしまうと思っていたグッディは驚き、だが、素直に彼とともに隙間を飛び越えた。
 軽やかに着地し、屋根を越える。
「あれか……」
 淳が呟く。屋根を越えると、庭を挟み、王の執政殿がそそり立っていた。執政殿は、宮殿の隣に建てられた美しい白亜の廟と同じ形をしていた。色こそほかの建物と同じピンクだが、円柱型の、金銀瑪瑙で象眼された美しい建物だ。
 執政殿を見るのはグッディも初めてだった。その美しさとは裏腹に、どこか歪んだ、禍々しい気を放っているようで、彼女は目眩を覚えた。
 半月前、ここに来る前に見た、燃え盛る王太子宮の映像が重なる。天を焦がす炎に熱せられ、大気は揺らめき、陽炎が立ち上っていた。あの歪んだ世界に似ている。執政殿が見えざる炎に包まれているようだ。
(これは……なにかしら)
 照りつける太陽のせいだろうか。炎天下、外にいることすら厳しいジョイワールの昼。だからこそ、見張りの数もぐっと少なくなるから、彼女たちは逃亡を企てたのだ。それなのに自分が暑さにやられてどうする。グッディは頭を振った。
 だが、淳は、
「やっぱりな。あそこだ」
 にやりと笑う。グッディは彼を見た。
「ジュン?」
 彼女の言葉を遮るようにして、チュインッ、と金属を研磨するような音がしたと思うと、彼女の腕を痛みが走った。
「あっ?」
 彼女はひどく驚き、とっさにその場から飛びすさった。ぐらりとバランスが崩れる。
「グッディ!」
 淳が彼女に手を伸ばす。だが、その手を掴むことはできなかった。彼女はそのまま屋根から転落し、中庭の林の梢に突っ込んだ。なにがなんだか分からないまま、枝であちこちぶつけ、最後には茂みの中へと埋没する。
「落ちたぞ!」
「もう一人逃げる!」
 わあわあと怒号が聞こえる。見張りに見つかったのだと思い至ったときには、彼女の意識は暗闇に落ちていくところだった。
 それにしても、とぼんやりと考える。淳のあの目が夢の中で待っている。自分に手を差しだしたときの、淳のあの目。
(ジュン。あなた、私を助けようとしてくれたの……?)

       ※

 宮殿をなんとか脱出し、第三の力が使える場所まで出ると、瀬淳は空間を転移した。ヌニェス出生率の低いカマラ人たちは、彼が突然消えたので度肝を抜かれたに違いない。魔法使いか悪魔の手先とでも騒ぎ立て、ともに行動していたグッディを詰問するだろう。
 グッディには可哀相なことをしたと思うが、しかたない。スループ博士の娘だ、手荒な真似はされないだろう。今まで以上に監視はきつくなるだろうが。
 淳は追っ手の目につかない、例の山の上に転移した。空間転移はあまりうまくないので、街の外に出るのがやっとだった。
 転移してすかさず身構えたが、追っ手が来る様子もないので、淳は大きく息をついた。そして、ニイッと嘲笑を浮かべる。
 ヌニェスのいない国家の諜報ほど簡単なものはない。ジョイワール宮殿は今歪みに包まれているので、難しいところもあるが、外に出てしまえば追っ手を撒くことなど造作もない。
「へっ、ちょろいもんだぜ」
 淳は汗を拭ったが、背の窪みにチリッと電流が走ったような刺激があり、反射的に身構えた。転移が来る!
 果たして、彼からわずかに離れた空間が歪んだと思うと、中から小柄な姿がゴムマリのように飛びだしてきた。その相手を見て、淳は顔をしかめた。
「淳さま!」
 飛びだしてきた相手は淳の姿を認めると、顔をバラの花のように輝かせ、抱きついた。
「お久しぶりですわ! 覚えていらっしゃいますわよね、あなたの婚約者、瀬梨花です!」
「あー、うるさい」
 抱きついてくる黒髪の少女を邪険に突き飛ばし、淳は睨んだ。
「なにしに来やがった、梨花。連絡係はおまえじゃないだろ」
「知ってますわ、あの変態リュシがやっているのでしょう?」
 ずばり言い当てられ、淳の方がひるんだ。リュシと馴れあっていることは、母親で族長の瀬郁しか知らないはずだった。
 梨花は彼の動揺を見透かしたように、ぬめるように黒い円らな瞳を向け、勝ち誇った笑みを見せた。
「安心してくださいませ、淳さま。このことはわたくししか知りませんわ」
「どこで知りやがった?」
「わたくし今では、光栄にも郁さまの片腕と呼ばれているんですのよ。そんなことくらい自力で突き止められますわ」
 自慢げに梨花は言う。「片腕と呼ばれている」ということにあまり信憑性はないが、自力で調べ止めたのは事実だろう。淳は唸った。だからこそ梨花は彼の婚約者なのだ、その怜悧さを買われた。ただ、子供っぽいその振る舞いが問題だ――いちばんの問題だ。
「でも、淳さまがお元気でなによりでしたわ。淳さまとお会いできないこの半年、わたくしは幾度涙で枕を濡らしたことか。淳さまがご病気でいらっしゃらないか、お怪我などされていないか、そればかりが心配でしたの。でも、杞憂でした――と言いたいところですが、まあ、この服装のみすぼらしいこと! 時代が時代なら一国の王太子であられた方が、こんな薄汚れた服でいらっしゃるなんて! わたくし、淳さまの為にいろいろ持ってきたんです。衣服や食料、衣料品、わたくしの愛の手作りお菓子、靴、カメラ、ペアカップ……」
「梨花。おまえ、なにしに来たんだよ」
 どこから取りだしたか、大きな鞄から次々とものを取りだして見せる梨花を、淳は仏頂面で遮った。よく喋る小娘だ。
 梨花はわざとらしく手を叩き、
「そうでしたわ! わたくし、このことは淳さまにもお伝えしなければと思って、郁さまに内緒で渡ってきましたのよ。もう、わたくしったら肝心なことを忘れて」
「で、なんだよ」
 淳は冷たく言い返した。彼が自分の苦労話にまったく興味を持たないと分かったか、渋々梨花は話を切りだす。毎度のことだが、彼女も懲りない。
「わたくし郁さまのご命令で、玄詳を監視しておりましたの」
「!」
 梨花の出した名前に淳の顔が歪む。低い、感情を押し殺した声色で、
「あのくそばばあ、なんであいつを監視させてた?」
 彼が打てば響く反応を示したので、梨花は切れ上がった目を炯々と光らせた。
「あの男、妙な動きをしているんです」
「……」
「マリア殿下に接近していますわ。マリアさまは玄詳を嫌っておられたでしょう? でも最近、ちょろちょろと玄詳が周りにうろついているんですの。それに、どうやらファイス元皇子とも接触しているようですし。怪しすぎますわ」
 口を尖らせて梨花は話す。淳は考えこんだ。
 瀬玄詳。郁の夫だ。すなわち淳の父親であるのだが、あの男が自分の遺伝子の半分を担っているとは、みじんも信じていなかった。
 淳は玄詳が大嫌いだった。生理的にも道徳的にも、理論的にも大嫌いだった。父親に対する思春期の嫌悪などという問題ではない。父親でない男が父親づらしているのが許せなかった。あの男を見ているだけで神経が逆撫でされる。
 梨花はそんな淳に迎合しているが、ほかの一族の者は留守がちな郁に代わり、玄詳を一族をまとめる者として認めていた。どちらかというと、厳格で融通がきかない郁より、真っ向からアリーヤ派と衝突する玄詳になびいている。だから、淳は眷族も嫌っていた。
(アリーヤ。あのバカがまたおまえになにかしようとしてるのか)
 玄詳がなにか企んでいるとすれば、アリーヤ絡みに決まっている。そう、あのときも。玄詳の仕業であるはずなのに、証拠が取れなかった。
(今度こそは奴の尻尾を突き詰めてやる、二度とアリーヤに手出しできないように。今度こそは、ぶっ殺してやる)
 ギリッと淳は唇を噛みしめた。
「あの野郎、元皇子に近づいてなにする気だ。アリーヤになにかするつもりじゃねえだろうな」
「まだ目的は分かりませんわ。でも、ご安心なさって、淳さま。皇太子殿下はもうじきご結婚なされますから」
 痛烈なしっぺ返しを食らい、淳はがっくりこうべを垂れた。梨花はすました表情で、
「淳さまは皇太子殿下にご同情申しあげていらっしゃるようですけど、でも、三カ月もすれば皇太子殿下はめでたくご結婚なされ、エフタの〈柱〉の君がいらっしゃいます。そうすればあの男ももう悪さはできませんわ。あと三カ月なにごともなければ、すべてがうまく行きますわよ」
 口先だけでめでたがる梨花を、淳は情けない表情で睨んだ。
 梨花とてアリーヤにいい感情を持っているわけではない。幼心にウィレン皇子を敬愛し憧憬していた彼女は、アリーヤが皇太子に冊立した当初はやはり恨み憎んでいた。だが、年を重ね、さまざまな事情が理解できるようになって、ようやく現実を受け入れたのだ。あくまでアリーヤに忠義を貫こうとする郁の影響も大きいだろう。
 それでも、ことあれば「ウィレンさまが生きておられれば……」と愚痴をこぼすし、なにより、いいなずけである淳がアリーヤに対してよこしまな――梨花曰く――想いを抱いているかぎりは、全面的に受け入れることはないだろう。
「……アリーヤ、本当に結婚しちまうのか?」
「当たり前ですわ。アリーヤ殿下には次の〈柱〉の君をお生みいただかなければならないんですから。まさか淳さま、ご結婚を妨害しようだなんて考えていらっしゃるんじゃないでしょうね?」
 心を見透かされ、淳は内心ぎくりとしながら、まなじりを上げ、
「ば、ばかっ、そんなこと考えねえよっ」
「だったらよろしいんですけど! そうでなくても今は風当たりが悪いんですから、自重してくださいませねっ」
 突っ慳貪に梨花は言い渡す。どうやら嫉妬とは違う意味で怒っているらしい。
「なんだよ、なに怒ってるんだよ」
「これが怒らずにいられないんです!」
 淳の誘い水を待ってましたとばかりに、梨花は頬を紅潮させて声を荒くした。
「今朝、次元機構の定例会議があったんですけど、そこで皇太子殿下が民族主義者に狙われていることが議題に上ったんですっ。言いだしたのはストゥオラヴァイラ世界なんですけど、そうしたらほかの世界も待ってましたとばかりにエルシアを責めまくるんですのよ! 〈柱〉の君にもしものことがあったらどうするんだ、〈柱〉の君はエルシアだけのものじゃない、二十三世界すべてのものだと!」
 激しい剣幕で梨花は捲し立てる。淳はその勢いに面食らいながらも、すぐさま彼女の言葉を分析した。
 ストゥオラヴァイラ世界は二十三世界の中では取り立てて目立つ世界ではない。議題を提案する役は決してストゥオラヴァイラでなくてもよかったはずだ。
 つまり、ほかの世界が手を組み、エルシアを糾弾することにした可能性が高い。
「エルシアは昔っから嫌われもんだからなあ。土地が余ってるくせに移民認めねえし、〈柱〉はいるし」
「そんな悠長に分析している場合ですかっ。彼らは、この状況が続くのならエルシアは〈柱〉の君を預かる世界として不適任だと言ったんですのよ。つまり、〈柱〉の君をほかの世界に移せって言っているんです!」
「なあにい?」
 梨花に気圧されていた淳も、その話には黙ってはいられなかった。
「あの能なし長官はなんて言ったよ? 断固反対しただろうな!」
「当然ですわ、エルシア皇家はいにしえからエルシアとともにあられたのですもの。〈柱〉の君をお育てお守りするのはわたくしたちの神聖な役目、それを横から取り上げようなどと――」
 言葉の途中で、ハッと梨花が空を仰いだ。ヌニェスがそういった動作をするときは、他者の第三の力を感じたときだ。淳も身を緊張させ、彼女が仰いだ方角を見るが、なにも感じられない。
「どうした?」
「誰かの視線を感じたのですけど……気のせいだったみたいです」
 少しも気のせいなどと思っていない疑わしそうな声色で、梨花は答えた。梨花は世界と世界を渡ることができる界渡り能力者だ、淳には感知できないものも感じとれたかもしれない。
「ともかく淳さまも、〈柱〉の一族のお方に不埒な行いだけは、絶対、ぜーったいに、なさらないでくださいませっ。そうでなくても、自分の一族のことは悪く言いたくありませんけど、大局が見えないバカが多いんですから。淳さまがしっかりしてくださらないと! 淳さまはいずれ皇帝侍従になられるんですから!」
「あー、分かった分かった」
 耳に指を突っこみたい気分で、淳はおざなりに答えた。そして、ふと気がつく。
 そんな大変な時期に、辰斗がわざわざ自分のところに来たのはおかしなことだ。彼の監視役として定期的に顔を見にきてはいるが、日にちが決まっているわけではない。カマラの状況を見たかったというのもあるだろうが、アリーヤ大事の辰斗の振る舞いとしては違和感がある。
 となると。
「おい、皇太子のスタッフを増やすとかなんとか話はねえか」
「あら、ご存じでしたの。殿下をお守りする為に幾人か増強するそうですわ。なんでも、一人はわたくしたちにはあまり馴染みない者を採用するとかで」
 梨花の後半の言葉は聞いていなかった。それだ。辰斗は皇太子スタッフのメンバーを探しているのだ。
 当然、第一の候補はこの瀬淳だ。瀬一族の次期族長として、次期皇帝侍従として、今スタッフに組みこまなければ世間に不審がられる。それを見極める為に、彼のところに来たのだ。
(それで査定に来たのか! あの野郎、最初からそう言いやがれ!)
「淳さま?」
 怪訝そうに梨花が淳の顔を覗きこむ。歓喜に顔が輝いたのがよほど不審だったのだろう。淳は慌てて仏頂面になってみせた。これ以上話を聞いていても藪蛇になりそうだ。
「おまえ、もう帰れ。会議があったなら忙しいんだろうが」
「えーっ」
 梨花は口を尖らせたが、やはり忙しいのは当たっていたようで、不承不承、
「じゃあ、お名残惜しいですけど……」
 後ろ髪を引かれまくっている上目遣いで、梨花は去ろうとする。そこで淳は用を思いだし、彼女の髪を引っ張った。
「梨花、あの変態に会うか?」
「残念ですけど、彼は皇太子殿下に付き添ってディミオンですわ」
「いいから会ってこいよ。俺からの伝言。奴(・)は執政殿にあり。ヒラ・ラルは滅びの予言に夢中。以上」
「滅びの予言?」
 梨花が愛らしい小さな鼻の頭にしわを寄せた。そうすると狐顔がさらにきつくなる。
「パテントズグラールシヤータの?」
「知らねえよ、パテの話なんか」
「有名ですわよ、今の巫女姫の予言ですわ。カマラでも滅びの予言があるんですの?」
「どこにでもあるだろ、そんな陳腐な予言。カマラの話だ、カマラ。分かったな」
「でも、わたくし、あの男とは会いたくありませんわ。とても礼儀知らずですもの」
「いいから行ってこい」
「でもお」
「この仕事うまくいったら、もしかしたら帰還命令が降りるかもしんねえんだよ。協力しろって」
 渋っていた梨花が、帰還の言葉であっさり態度を変えた。目を輝かせ、
「本当ですの? それならば、わたくし我慢して会ってまいりますわ。淳さまの為ですもの、これくらいなんでもありませんわ」
 喜々と梨花は言う。
「それでは淳さま、失礼いたしますわ」
「おう。梨花、玄詳のことでなにか分かったらすぐに教えにこい。気をつけろよ」
 何気なくかけた彼の一言に、梨花は最初に見たとき以上に、顔を輝かせた。その笑顔の中に、愛らしい恥じらいがわずかに見てとれた。
「もちろんですわ、お任せください!」
 意気揚々と梨花は応じ、姿を消した。淳は彼女がなぜそんなに張り切っているかなど考えもせず、滅びの予言について考えるのだった。

       ※

「!」
 彼女は叩き弾かれ、くるくると回転しながら世界の外へと飛ばされた。
 界面を貫くと、外には暗闇が広がっていた。闇わだが彼女を柔らかく受け止め、包みこむ。
 睨まれた。夢見ていた彼女を、あの黒髪の少女は察知し、睨んだ。そのとき、彼女はありえてはならない存在となり、世界から弾き飛ばされた。
 なぜなら、彼女は夢を見ているのだから。
 夢の彼女とあの黒髪の少女は重ならない。触れあうことはない。だから、触れあいそうになった途端、彼女がありえないものとなった。
(私は、誰?)
(誰?)
(誰……)
 自分の問いがエコーする。
 意識を急いでとりまとめる。早くしないと自分を見失ってしまう。
(早くしないと)
(早くしないと大変なことに)
(早くしないと、弱まる)
(世界が)
(世界が?)
 彼女は問うた。弱まるのは自分か? 世界か? 待て、これは本当に自分の想念か。
(世界が落ちる(・・・・・・))
 その言葉が閃光となって暗闇を貫いた途端。
 彼女は奈落に落ちた。
(ああああああ)
 果てしない落下感。落ちていく。どこまでも。暗闇の中を。
 夢の中の、夢の奥へと。


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