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 首都フリンカムより南東に二百キロ。ネルン山脈のふもとにある森と湖に抱かれた静かな村ディミオンの朝は、深い霧から始まる。
 雪に閉ざされる冬の間はそうでもないが、春から夏にかけての朝霧はディミオンの風物詩だ。雪解けの水が朝日を浴び、大量に霧を発生させる。この霧が出るようになれば、ディミオンにも春が来たということだ。
 五月の半ば、高地にあるディミオンは海岸にほど近いフリンカムよりも春は遅い。雪はあちこちに残っているし、外に出るにはまだ厚着しなければならない。だが、陽炎を立たせながら森を静かに覆っていく霧は、確実に春の訪れを示していた。
 森に立ちこめ、湖面を這い、岸辺の離宮を夢うつつのように優しく包みこむ。白濁した世界の中から、チチチ、と鳥のさえずりが聞こえるころ、アリーヤが部屋を出たときには、辰斗はすでにすべての準備を整えたあとだった。扉の前で待ちかまえ、出てきた皇太子にこうべを下げる。
「おはようございます、アリーヤさま」
「おはよう」
 アリーヤはやんわりと答えた。彼が待っていたのは当然だとばかりに。そして、実際当然なのだ。
 辰斗は護衛も兼ねているので、アリーヤの部屋の隣で寝泊まりしている。皇太子を部屋ごと幾重にも防御結界でくるみ、二十四時間途切れることなく警戒する。小刻みに睡眠を取り、寝たのは合わせて一時間程度だったが、それで彼には充分だった。短い睡眠で完全な休養を取る、それはエフタでの研修時代に覚えさせられたものだ。
 辰斗は窓を見、空は明るいもののまだ薄暗い地表を見た。
「お早いですね、まだ日は昇っていませんが」
 離宮の中も静かだ。皇族が泊まる区画は昼でも静かだが、今は照明も落ちて紫の弱い光がついているだけだし、裏手にある使用人の区画もまだ動きだしていない。
 だが、アリーヤは気にする様子もなく、
「湖へ行くわ」
 そう言うと廊下を歩きだした。辰斗もあとにつく。彼女は体調のいいときは必ず散歩をする。早朝であってもおかまいなしだ。
 ジェイクは芙蓉の宮に残った。侍従どちらかが残らなくてはならず、そして、どう考えても適任なのはジェイクの方だった。彼の年齢ではアリーヤを物理的には守れない。瑤緒は連れてきたが、いないよりまし、といった程度だ。
「冗談ではない、エルシアで一番安全な場所は芙蓉の宮だ。なぜそこから出なければならないのだ」
 そうジェイクは憤慨したが、統一議会の決定を皇帝が、そしてアリーヤ自身が了承した以上、逆らうことはできない。泣く泣く留守を引き受けたが、あの調子ではアリーヤになにかあったら辰斗は殺されかねないだろう。
(ディミオンは、アリーヤさまにとって鬼門だからな……)
 アリーヤが幼いころ暮らしていた場所ではあるが、だからこそ、ここが憩いの隠れ家などではないことは分かっている。辰斗にしてみれば、中枢委員会の催促からしばし逃れることができて、人心地ついた思いだが。
 二階の正面玄関から外に出る。冷気に身震いし、辰斗は無意識に第三の力で自分の体温を調整し、同時にアリーヤの周囲も温めた。
 玄関に立っていた警護員たちが、二人を見て慌てて敬礼した。アリーヤは見向きもせずに通り過ぎ、辰斗が四人に頷きかける。
 スロープを下って庭に立つ。小石を敷き詰めた道から森の中に入る。
 森はひたひたと霧に包まれていた。川のように霧が足下を流れていく。湖へ通じる小道も第三の力で防御されており、不審者は近づけない。ここだけでなく離宮の敷地すべてが、リュシによってシールドされている。猫の子一匹通さぬ結界は、正面門と裏門以外からの侵入をまったく許さず、その二つも正面門は皇族以外は不通、裏門も証明書がないかぎり入ることも出ることもできない。
 いつもなら離宮の建物だけに緩く施されている結界が、今はアリーヤを守る為に、固く、揺るぎなく施されている。
 アリーヤは湖にたどりつくまで無言だった。辰斗もなにも言わず、あとをついていく。
 湖に着くころ、すでに霧は湖面を覆い尽くし、岸辺の水が寄せて返すのがわずかに見えるだけだった。
「すごい霧ですね……」
 目を細め、辰斗は呟いた。隣のアリーヤを見る。細い肩が目に入った。月光で染めた髪がこぼれている。
 霧のせいだろうか、すぐそばにいるのに肉質感がない。もともと細い、繊細な体の線がさらに希薄になり、端整な横顔に透明感が満ちてくる。
 そのまま霧に溶けていきそうになる。
 辰斗はとっさに皇太子の手を掴んだ。思いがけずはっきりした肌の感触が伝わってきて、辰斗は驚き、そしてひるんだ。
(冷たい)
 アリーヤが彼を仰いだ。ほんの少し不思議そうに唇を開き、彼を見つめる。
 辰斗は自分への戸惑いをなんとか隠しながら、小さな声で、
「お手が、冷たいです……」
 皇女の手はひんやりとしていた。彼女の周囲の温度は調節してあるが、それでも氷のように冷たい。
「なにか、はおるものをお持ちします」
「要らないわ」
 第三の力でショールを引き寄せようとした辰斗の手を、アリーヤの手が止めた。そのまま彼を引き寄せ、その上着の中に自分の身を収める。二十センチの身長差で、皇女の体はすっぽり収まってしまった。
 ぴたりと体をくっつけられ、辰斗は当惑したが、以前にもこうして皇女を温めたことがあると思いだした。
(あのときも、ここだった)
 もう九年も昔になるだろうか。あのとき初めて彼女に会った。
(あのときはまだアリーヤさまも六つで、私も子供だった。アリーヤさまが皇太子になるなどと、夢にも思わなかった)
 自分を信頼し、身を預けてくれる。今も昔も。
(こんなところをジェイクにみられたら、どんな目に会わされるか分からないな)
 辰斗は苦笑したが、今はもう皇女は十五で、華奢とはいえ立派に女の体をしていることを意識してしまい、心臓の鼓動が速まった。不敬と己を叱責するが、腕の中の少女は触れようと思えばすぐそこにいるのだ。
 艶やかな銀の髪からほのかに香りがする。薄く甘い、かすかに鼻孔をくすぐる匂い。花のような、果実のような、心地よい香りが――
「辰斗」
 アリーヤの声で辰斗は我に返った。皇女を抱きしめそうになっていた自分に驚き、おびえ、怒りを覚え、一瞬あとにはそれらの感情をすべて覆い隠して、平然と答えた。
「はい」
「ベネットおじいさまとザヴィアおばさまはお変わりないかしら」
「お変わりない……と思いますが」
「午前中に挨拶に行くわ」
「そのように手配いたします」
 腕の中でくすくすとアリーヤは笑う。
「アリーヤさま。なにか」
「ここはなにも変わらないわ」
「……」
「世界が滅びても、ここだけは変わらないのかしら」
 辰斗は身を緊張させた。よもやアリーヤがそんな話をするとは想像だにしなかった。単なる偶然の世間話だろうか。それとも、彼が中枢委員会から命じられたことをどこからか聞きつけたのだろうか。それとも。
(いや、考えすぎだ)
 辰斗はすかさず否定した。もしかしたらジェイクが皇太子に耳打ちしたのかもしれない。「辰斗め、最近中枢委員会に何度も呼びだされておるようですぞ。なにを吹きこまれておるのやら」。そうだ、瑤緒の中央島(ラクワナ)での話もある。彼女には他言無用と口止めしておいたが、彼の知らぬところでアリーヤに話を洩らした可能性もある。それだけで皇太子は察するだろう。
「ディミオンは変わりました」
 アリーヤが少し顔を上げる。辰斗は伏し目がちに、
「アリーヤさまがおられません」
「そうね」
 わずかに低い声でアリーヤは同意した。
「世界は変わるわ。私がいてもいなくても」
「アリーヤさまのおられない世界に意味などありません」
 即座に、辰斗は強い口調で断言した。いてもいなくても同じ。そのように自分を認識していてほしくなかった。
 アリーヤがほほえみ、不意に辰斗の胸にしがみついた。辰斗は動揺したが、すぐに皇女は身を離した。あまりに軽やかだったので、今まで腕の中にいたものの存在感をまるで思いだせず辰斗は戸惑う。
 今、一瞬、アリーヤが怒ったように感じたのは、気のせいだろうか。
(怒った? いや、違う。あれは――あれは、前にも感じた気が)
「帰るわ。果物を用意してちょうだい」
「お任せください」
 すべての不安を押しやり、辰斗は即答した。そんなことぐらいしかできないのだから。

       ※

 アリーヤ皇太子が父方の祖父、蘇芳院(すおういん)ベネットを訪ねるというので、瑤緒は部屋に戻ってきたときの茶の準備を始めたが、
「瑤緒、おまえも来なさい」
 と辰斗に連れだされてしまった。ディミオンはスタッフの数が限られているので、あれもこれもしなければならないのだが、侍従の代理もさせられるとは思っていなかった。ただでさえジェイクに散々言いつけられて頭がパニックを起こしているのに、胃まで痛くなってきそうだ。
 しかし、役目は果たさなければならない。先頭を歩く皇太子、それにぴったりと寄り添う辰斗の二歩あとを、緊張しながらついていく。
 長く薄暗い、ひっそりした廊下だ。だが、潔癖なまでに白さを基調とした芙蓉の宮と比べ、赤と金で飾られた豪奢な内装はいかにも「宮殿」らしく、人臭さを感じられる。この離宮に〈柱〉は訪れない。
 歩きながら、研修で頭に詰めこんだ知識を引っ張りだして確認する。
 ベネットはエフタ王朋己の父に当たる皇子だ。アリーヤと同じく柱力(ユマ)なしで、エフタ王女沙夜(さよ)の元に婿入りした。沙夜王女が亡くなったのちに体調を崩し、エルシア世界に戻ってこのディミオンで療養中だった。元より表舞台には出ていなかったので、その存在を知っているエルシア人はほとんどいない。
 そして、もう一人訪ねるのが大見院(おおみいん)ザヴィアだ。現皇帝の長女で、マリア元皇太子の姉に当たる。彼女もまた柱力(ユマ)なしの皇女で、エフタに嫁いだのちに体調を崩してエルシアに帰還した。
 即ちこのディミオンは、単なる離宮ではなく、「お役目ご免になった柱力(ユマ)なし皇族を放りこむ」空間なのだ。
 初めて聞いたときは、そんな場所も必要だろうと安易に考えていた。柱力(ユマ)なしの皇族は体が弱いとも聞いていた。柱力(ユマ)がないゆえにその血に負けてしまうのだ。かまびすしいフリンカムにいるよりは静かな場所で休養すべきだと、当然のように考えていた。
 だが、アリーヤのスタッフとなった今は、そのような場所があることに憤慨している。まるでそれでは墓場ではないかと。
 いずれアリーヤもここに放りこまれるのかと思うと、いたたまれない。たとえここが皇太子の育った場所だとしても、だ。
 不意に、アリーヤの小さな笑い声がしたので顔を上げると、辰斗が呆れ顔で彼女を見ていた。
「瑤緒、顔を」
「は?」
 一瞬、なんのことを指摘されたか分からず、間が抜けた返事をしてしまった。慌てて表情を引き締めるが、恥ずかしさで耳朶まで紅潮する。知らぬうちに感情が表に出てしまったらしい。しかも、アリーヤに笑われるということは、よっぽどおかしな表情になっていたのだろう。
「も、申しわけございません」
「緊張しすぎないように」
 辰斗に窘められ、瑤緒はますます恐縮した。こんな失敗ばかりだ。今すぐにも「スタッフを交替する」と言われるのではないかとびくびくもするが、それはそれで大役から解放されて安堵できるのでないかと、相反する気持ちでまた頭がのぼせてくる。なにをやっても居心地が悪くて足が地に着かない心地だった。それでもどうにかついていく。
 ベネット皇子の部屋は、アリーヤの部屋がある区画とはつながらない、別の区画にあった。部屋の前で警護に当たっていた二人のリュシが、皇太子の姿を見てすかさずひざまずく。辰斗が扉を叩くと、中からやはりリュシが現れ、瑤緒は少し驚いた。リュシが目につくところにこれほど多くいることなど、芙蓉の宮ではないことだ。だが、同族がいることで少し落ちつく。
「アリーヤ皇太子殿下がお見えになられました」
 アリーヤが中に入る。辰斗があとに続き、さらにそのあとを瑤緒は緊張しながら入る。
 部屋は眩しい光で満ち溢れていた。東南に面した、天頂に届く前の太陽を浴びる部屋だ。
 清々しい朝日が飽和する中で、ベッドに小さな老人が横たわっていた。骨と皮だけで、銀髪はほとんど抜け落ち、顔から血の気は失われている。若いころは相当の美丈夫だったと聞くが、頬はこけ、目は落ちくぼみ、その面影はまったくない。アリーヤと同じ青い瞳は光を失い、虚ろなまなざしで天井を仰いだきり、微動だにしない。ときおりゆっくりと瞼が下りるので、それでまだ生きているのだと分かる。
 瑤緒は息を呑んだ。これがベネット皇子なのか。療養中とは聞いていたが、こんな状況とまでは知らされていなかった。
「おじいさま、アリーヤです」
 アリーヤが声をかける。反応はない。皇太子は用意された椅子に座り、しばらく無言で祖父を見つめた。それをじっと待つ。
 十分ほどでアリーヤが立ち上がった。
「行きましょう」
「はい」
 辰斗が応える。踵を返す二人に瑤緒も慌ててついていく。
 彼女が部屋を出ると、監視のリュシが内側から扉を閉めた。カチン、と鍵が閉まる。
 牢の鍵を閉めたのだ。
 辰斗が問う。
「アリーヤさま、少しお休みになられますか」
「大丈夫よ」
 そのままアリーヤは、同じ階の右翼にあるザヴィア皇女の部屋へと向かう。瑤緒は口を開きかけたが、自分に発言権はないことを思いだし、押し黙った。なにも疑問に思ってはいけない、現実を受け止めるのだ。それが皇太子スタッフとしての立場だ。
 ザヴィア皇女の部屋の前でも、やはりリュシが警護に当たっていた。同じ手続きを踏み、部屋の中に入る。
 齢四十八になるザヴィア皇女は部屋の真ん中でソファに座っていた。そばに古風な服を着た娘が三人はべっている。これも皆リュシだ。
 皇女は上品そうな、見るからに貴婦人といった風体だった。ふっくらした体つきで、銀の髪を二つに編んで下ろし、華やかな服に身を包んでいる。そのまなざしは夢みる少女のように優しく、愛らしかった。表情はおだやかで、春の日だまりのような暖かさを感じさせる。ベネット皇子と同じ状況を予想していた瑤緒は、安堵すると同時に拍子抜けした。こちらも体調を崩したと聞いていたが。
 鮮やかなマリンブルーの瞳がアリーヤを捉えると、ザヴィアは立ち上がった。
「まあ、アリーヤ。よく来てくれたわね」
 そばに来たアリーヤを抱き締める。アリーヤもほほえんで、
「こんにちは、ザヴィア」
「本当によく来てくれたわ。嬉しいわ。来てくれて。久しぶりね。ああ、本当に来てくれたのね」
 何度も同じ言葉をくり返す。アリーヤは慣れた様子で彼女の言葉に頷く。瑤緒は先ほどの安堵が潮のように引いていくのを感じた。やはりこの方もなのか。
 辰斗を横目で見る。彼こそは表情を変えず、凝然と皇太子の一挙一動を見つめている。なにを考えているかは窺い知れない。
「ベネットおじいさまに会ったわ」
 アリーヤが言葉を挟んだ。ベネットの名を聞くと、ザヴィアは露骨に顔をしかめた。
「だめよ、会っては。アリーヤはお気に入りだけど、あの方はもうおかしいんですもの」
「ええ」
「あの方に誘われても、決して墓所にだけは行っちゃだめよ。怖いんだから。本当よ」
「分かったわ」
「ああ、でも、私のところに来てくれて嬉しいわ。よく来てくれたわね」
 再び同じ言葉をくり返し始める。一瞬だけ正気に戻ったように見えたのも、気の迷いだったと言わんばかりに。
「そろそろ帰るわ」
「また遊びにきてちょうだい。私は行けないから、あなたが来てね。絶対来てよ」
 念に念を押すザヴィア。アリーヤが退室するのを追いながら、瑤緒はしてはいけないと分かりつつも横目でザヴィアを見た。
 皇女はすでにソファに腰掛け、あらぬ方角を見つめてなにかを呟いていた。あれほど名残惜しんでいたはずなのに、すでに意識からアリーヤのことは抜け落ちているかのように。
 瑤緒は言いようのない不安を押し殺し、急いで皇太子のあとを追った。アリーヤの小さな後ろ姿からはまったく動じた気配はない。彼女が生まれたときからの状況なのだから、今さら動揺はしないだろうが。
 ジェイクがディミオン行きにあれほど立腹していた理由を、彼女はようやく理解できた。
(アリーヤさまはああはならない。ならないわ……!)

 侍従室に戻り、昼食の準備に取りかかったところで、ちょっとした問題が起きた。
「桃がない?」
 辰斗が片眉を上げたので、瑤緒は身を縮めた。急に厨房にいるスタッフから「桃が届いていない」と連絡が入ったのだ。
「ダグズの果樹園が先月からの大雨で、桃が腐ってしまったそうです」
「それは知っている。次の手は取ったのか」
「ナヤパヤの果樹園にも手配したのですが、届いたものはまだ熟れていないんです。なんでも日照時間が足りなくて、来週にならないと無理だとか」
「エカルファストはどうだ」
「エカルファストは水不足で、やっぱり献上する出来ではないそうです」
「ふむ」
 辰斗が隣の皇太子の部屋を見る。アリーヤは横になって休んでいる。
 昼食に桃を用意しろと指示したのは彼だ。皇家は世界中に農園を持っているので、どんな時期でもさまざまな果物が手に入るが、やはりうまくいかないこともある。
「あの、葡萄ならありますが。桃でなければなりませんか」
「桃は、アリーヤさまがお好きだから」
 苦笑気味に辰斗は答えた。好き嫌いのない――食べ物にほとんど興味を示さないアリーヤが、桃は唯一「出されるとちゃんと口をつける」ものらしい。今日はまだ午後から会見があるので、少しでも食の進むものを揃えたいのだろう。
「しかたない、来週まで待つか。葡萄で進めなさい」
「はいっ」
 急いで厨房に連絡する。これでなんとかなりそうだ。
「ダグスの大雨はまだ続きそうかな」
「あと二、三日は続くそうです。沙漠地帯なのに、あちこちで洪水が起きてて大変らしいですよ。果樹園は高台にあるので水に浸かっていないですけど」
「ナヤパヤもか。今年は気候に恵まれないな……うん、まあ、よくあることだけどね」
 瑤緒は辰斗を振り返った。彼にしては珍しく歯切れの悪いせりふだった。まるで言いわけのような――誰に対して?
「異常気象、ですか」
「正常な気象というものがあればね。エカルファストは今度様子を見にいった方がいいな、ジェイクが悲しむ」
「ジェイク侍従が?」
「彼は以前はエカルファスト農園を管理していたんだよ」
 初めて聞く話だった。それが今は皇太子侍従とは、人の運命とは分からないものだ。
 食事担当のスタッフがワゴンを運んできた。食前の薬とスタッフ用の昼食だ。
 もたもたと煎じ薬を用意する瑤緒の横で、辰斗が立ったまま昼食を取る。ほんのわずかに時間があったので、瑤緒は先ほどからずっと聞きたかった質問をしてみることにした。
「あの、お聞きしたいことがあるんですけど」
 おずおずと問うと、辰斗が視線で先を促した。
「前のエフタ王太子は、ザヴィア殿下のご夫君の篤(あつ)見(み)王子であられましたよね」
「名義上は今もだけどね」
「エフタの王太子位は空白のままでもいいのですか」
「いいわけはないけど、妹の璃生さまか霊峰さまかでエフタ議会が揉めているうちにウィレンさまが亡くなったから、宙ぶらりんになっているだけだよ。璃生さまは残念だけど柱力(ユマ)が弱すぎる」
「王太子を議会が決めるんですか」
 予想外の返事に瑤緒は驚いた。
「〈柱〉の一族がお決めになられるんじゃないんですか」
「それはそうだけど、霊峰さまは特別な(・・・)存在だから。下手に王太子になられて余計な雑務にかかずらわすなら、世界を支えることに専念していただきたいからね」
「ああ」
 瑤緒は深く納得した。瑤緒が中央島(ラクワナ)に滞在したのはわずかな時間だが、それでも面倒ごとが多そうだと辟易した。〈柱〉という貴重な存在をそんなことに使うのは確かに愚かだ。
 そういえば、あのときパテ世界の巫女が言っていたことはどうなったのだろう。辰斗に報告はしたが、「よくあることだよ」とあっさり片づけられてしまった。皇太子の元に届く嘆願書を見ると、確かに「よくある世迷い言」だが、なにか気になる。あの巫女は璃生王女のところへは行けたのだろうか。
「璃生さまは王太子になられないのですか」
「実質的に璃生さまが王太子の務めを果たされているけど、今さらどうかな。こちらもお子さま待ちだろう」
 瑤緒は顔を上げた。辰斗はあっという間に食事を終えていた。彼は自分自身に費やす時間を最小限にしている。こうしている間も皇太子に結界を展開して守り続けている。
「篤見王子とザヴィア殿下の間には、お子さまはおられないんですよね」
「エフタの科学院で八体造られたけど、どれも最後は人の形にはならなかったからね。もう卵子が尽きている」
「……」
「璃生さまとマリアさまの卵子はまだ数があるようだけど、うまくはいっていない。あとはアリーヤさまだが、こちらは月経が不安定だから、卵の採取はまだ難しいな」
 淡々と、事務的に辰斗は説明する。瑤緒は瞼を伏せた。分かっていたことだ。これが現実だ。十六歳で皇太子を結婚させても、次の〈柱〉が自然に生まれるのを待っているほど世間は呑気ではない。結果をすぐに欲しがる。
「あの、音(おと)和(わ)王子は――璃生さまのご夫君は、ご存命であられますよね」
「なにを失礼なことを。音和王子はエフタの宰相として現在も王国の運営を担っておられる。柱力(ユマ)なしの皇族が誰も彼もご病気というわけじゃない」
 呆れ返る辰斗に、邪推をずばり言い当てられて瑤緒は紅潮した。音和王子はアリーヤの実母ジェーン皇女の弟に当たるが、姉と異なり生まれたときからエフタで育てられた。
(そうだ、柱力(ユマ)なしでもエフタで育てられるお方もおられる)
 一体その振り分けの基準はなんであろう。
「……一体」
 瑤緒が思わず言葉を洩らす。辰斗は訝しげに、だがなにも言わず先を促すように右肩を上げた。
「あの、一体、そういったことを、誰が決定しておられるんですか。〈柱〉の一族の総意、なんですか。それとも、朋己陛下か皇帝陛下なのですか」
「〈柱〉がもっと欲しいと望んでいるのは我々だよ。〈柱〉はそれを了承して実現されているだけだ」
 辰斗は即答した。言葉足らずの瑤緒の問いを、彼は完全に理解しているようだった。
「我々さえ望まなければ、彼らは人工受胎プロジェクトなんかすぐにでも放棄するよ。一族の消えるがままに」
「なぜですか」
 辰斗の言葉にかぶせて瑤緒は問うた。得体の知れない焦燥感に突き動かされる。聞かなければ。これを聞けばなにかが分かる気がする。アリーヤのことをもっと理解できる気がする。
「彼らはなぜ、そこまでされるのですか。〈柱〉の方々の力をもってすれば、我々の言いなりになる必要はないじゃないですか。こんな扱い、〈柱〉に対して不敬――冒涜ではないですか」
「力を持っているからこそ、だよ。未来を視るあの力があるからこそ」
 瑤緒には分からなかった。畳みかけて問おうとしたが、不意に辰斗が右手を広げて制した。アリーヤが目を覚ましたのだと気づき、瑤緒も口をつぐむ。
 隣の部屋に戻る辰斗を、瑤緒は凝然と見つめた。
(未来を視る力を持っているからこそ)
 では、力を持っていないアリーヤは?

       ※

 午後、正面門が開かれ、二重三重の厳重なチェックを受けてマスコミ関係者が離宮に入ってきた。アリーヤ皇太子の姿が本当に離宮にあるか、確かめる為に。
 彼らは湖の対岸にある避暑村からやってきていた。離宮右翼の一階にある大広間に集められ、主役が現れるのを静かに待たされている。
 定刻になり、宮内庁職員の呼びだしを受けてアリーヤは広間へと向かった。辰斗は彼女の背後にぴったりとつく。皇太子を守る為に第三の力はすでに展開している。特に強い力を使っているのでポテンシャルチェックをしている者は気の毒だが、しかたない。
 広間に入ると、静まり返っていた広間に緊張が広がった。皆息を呑み、久々にメディアの前に現れた皇太子を、食い入るように見つめている。
 皇太子がこんなにきれいな少女だったと今初めて知ったような、当惑と感嘆が入り交ざったまなざしで見つめている。
 透けるような柔らかい頬も、引きこまれそうな深遠な双眸も、月の光で染め上げた髪も、彼らは知っていたはずだ。滅多に表に出ないとはいえ、彼女の映像は津々浦々まで出回っている。
 なのに、この反応。映像はアリーヤの魅力を一割も伝えることはできない。彼女と直接会った人間だけが、彼女の本来の姿を理解できる。そして、彼女の眷族となった者だけが、あの笑みを見ることができる。
「アリーヤ皇太子殿下です」
 宮内庁のスタッフがマイクで伝える。記者たちは頭を下げた。
 アリーヤが壇上に登る。壇の下には護衛が四人いる。辰斗も気を引きしめ、あとに続こうとした。
 そのとき。
 視界の隅に、広間に入ってくるコート姿の女が見えた。辰斗が皇太子の前に立ちはだかり、身構える。唐突に会見を邪魔した侍従に、記者たちの呆気にとられた顔。女のコートがひるがえり、内側から無骨な小銃が出てくるのを、スローモーションのようにはっきりと見てとれた。
 銃口が壇上に向けられる。ようやく気づいた記者たちの悲鳴。護衛の怒号も混ざる。だが遅い!
 激しい音とともに銃弾が連射される。いっせいに記者たちが床に伏せる。
 銃弾は辰斗が展開した第三の力の盾によって、全弾跳ね飛ばされた。跳弾はすべてスポンジ状素材で覆われた天井にめりこむ。
「テロリストだ!」
 弾が撃ち尽くされたと見るや否や、わっと警備員が犯人に押し寄せた。いっせいに飛びかかったので、犯人の姿が人山に埋もれて見えなくなる。
 記者たちもすかさず犯人に詰めかけようとした。その中で一人だけ、壇上に向かってくる者がいた。その腕の中から、銀色に光る刃が覗く。
(こいつもか!)
 緊張を緩めていなかった辰斗は、右の掌を男に向かって突きだした。短い旋律を紡ぎ、意識を掌に集中させる。生じた攻撃の力を向かってくる男に撃ち放つ。
 白い光が男に食らいつき、そして、コンクリートに叩きつけられた水のように弾かれた。
(なに?)
 辰斗は驚愕した。彼の力を弾けるヌニェスは滅多にいない。世界の五指に入る最強のヌニェスの一人と謳われるだけの実力はある。こんな、見も知らぬ男に弾かれるわけは――
 男が刃渡りの長いナイフを持ち替える。刃を振りかざす凶暴性とは裏腹な冷たいまなざしに、辰斗は瞬間的に悟った。第三の力で弾かれたのではない。
(パズスパ!)
 男がナイフを振り下ろした。辰斗はそれをよけざま腕を取ったが、蹴飛ばされ、あっさり吹き飛んだ。あまりにも強烈な蹴りに、辰斗は壁に叩きつけられた。肉体を駆使する力もスピードも違いすぎる。
 アリーヤを身を挺して守ろうとした護衛たちも、次々と投げ飛ばされる。アリーヤに向かって、凶刃が振り下ろされる。
「アリーヤさま!」
 叫んだ次の瞬間、辰斗は自分の腕の中にはっきりした重みを受け、そのまま転倒した。腕の中に転移させた皇太子に怪我をさせないよう己の身を犠牲にし、背中をしたたか打つ。
 男が消えた皇太子を探して振り向く。アリーヤを固く抱きしめる辰斗と男の間に、人影が割りこんだ。
 長い脚が旋風のように振り回される。暴漢が呆気なく吹き飛ばされた。
 倒れた男を警備員たちが取り囲む。銃声が轟いた。何度も何度も。血しぶきが上がる。男は体中に銃弾を受けてもなかなか抵抗をやめなかった。
 辰斗は男が倒れるまで微動だにしなかった。少しでも襲ってくる気配があれば、すぐに別の場所に転移するつもりだった。
 鼓動が速い。
 男は三十八弾受け、ようやく白目を剥いて倒れた。よく見ればまだ若い男だった。
 誰もが呆然としていた。小銃の女に気を取られた記者たちは、前方でなにが起きたのか、まだ把握していないようだ。
「……死んだ?」
「死んだのか?」
「なに? 仲間?」
「皇太子は?」
 皇太子。その言葉で辰斗は我に返り、腕の中のアリーヤを見た。
 彼女はぐったりとしていた。元々血の気のない顔が今は青ざめている。
「アリーヤさま?」
 焦燥に駆られて全身を見るが、外傷はない。彼が力の加減をせずに引き寄せたので、貧血状態に陥ったようだ。
 アリーヤが口をわずかに動かした。耳を寄せると、「大丈夫」という細い声が返ってきた。意識はある。
 辰斗は皇太子を抱き上げ、記者たちに向かって声を張り上げた。
「今日の会見は中止する! 後のことは宮内庁にお任せする!」

       ※

 山狩りから帰ってきたワヒード・バシャルと、情報部から抜けだしてきたル・トンミョンが、ニュースの録画を見て口を揃えて言った。
「こいつ、バカだ」
 もちろん「こいつ」とは、皇太子を暴漢から守ったリュシ、星辰斗だ。一緒にモニターを見ていたダイ・ウォーレンは苦笑した。
 彼らは今、マチェスター市郊外に設置された基地の中で、司令部に接収された彼らの情報車に忍びこんでいる真っ最中だった。忍びこむといっても、結局車両を運用しているオペレーターはスクランブル部隊の身内なので、入り口から堂々と入ったのだが。
 対ゲリラ戦に組みこまれて以来、スクランブル部隊は司令部の命令を受けて、各隊員バラバラの任務に就かされていた。ダイはさすがに本来の任務を続行しているが、手足をもがれた蝶のごとく一人では情報を集めるのも一苦労だった。司令部は密入者などまったく興味ないらしく、しかたなく兵士たちの噂に聞き耳を立てたり、従軍記者に近づいて話をもらったりもした。その中に、「昨日のディミオンでの騒ぎを知っているかい?」と言われてもらった録画カードがあった。それが今見ているニュースだ。
「こんな勢いで転移させたら、皇太子殿下じゃなくても失神しちゃいますよ」
「あー、すっげえ第三の力放出したぜ。こりゃ監視してた奴、ぶっ倒れたんじゃないか」
「世界の五指に入るってのは伊達じゃあないんですねえ」
 ほうほう、と相槌を打って頷く二人。もちろん褒めているのではなく、嫌みである。ダイは呆れて、
「おまえら、記録映像で相手の程度が分かるのか?」
「こんだけやれば、まあ、ニュアンスは分かりますよ。勢いとか光とか、表に出るものもありますし」
「ほら、画面がぶれるだろ、こいつの力で電波障害が起きたんだ。たった五メートル転移させるのにこんなに力放出したら、自分に反動が来るぜ。だからバカだって言ったんだ」
 言いたい放題である。ダイは視線をモニターに戻した。皇太子を抱えた星辰斗が映しだされたままになっている。思い詰めた表情だ。整った顔は硬直し、おぞましいものを見ているように目を大きく開いている。皇太子の細く小さい体をきつく抱きしめて、自分が死んでもこの手は離さないという気迫がこちらまで伝わってきた。
(必死だったんだな……)
 ダイは画面の中の青年に同情した。ニュースによれば、皇女にナイフで襲いかかった男はパズスパだったという。小銃の乱射は防げても、パズスパの攻撃はヌニェスである彼にはどうにもならなかったわけだ。パズスパはヌニェスの天敵、敵うはずもない。
「それで、こっちは殺しちまったんだろ。女の方は何者か分かったのかい」
「今朝の時点では、北セファーン革命共同戦線、元ユグラヘカタの闘士と発表されたそうだ。男の方は所属不明、マスコミの間じゃあマヨルカと一緒に行動している革命闘士の一人じゃないかって言われてるらしい」
「ははあ、革命屋ですか。戦いとみりゃ世界中どこでも首を突っこんできますねえ。こういうのも野次馬根性っていうんですかねえ」
「そいつが革命屋のさがってもんだぜ。あいつらは革命やってないと生きてけないんだからよ」
 いつもは仲のよくないワヒードとトンミョンも、このときばかりは論調を合わせてこき下ろす。それとも、ここ数日バラバラに行動していたせいで、仲が悪かったことを一時的に忘れているのか。
「まあ、革命屋の狙いが本当にアリーヤ皇太子だって、これで証明できたわけか。一人死んで一人捕まって、なかなかゲリラにゃ高価な証明書だったな」
「でも、芙蓉の宮の方が優秀かなあ。二週間経っても一人も捕まえられないよりは、全然いいね」
 ダイが感心したそばから、トンミョンが何気なさを装い皮肉った。ぎろりとワヒードの白目が光る。
「そいつはどういう意味さ、後衛さん」
「そのままの通りだよ。芙蓉の宮はもう二人も押さえたのに、ぼくたちはまだカマラ人一人も捕まえてやしない。なにをいきり立ってるんだい、前衛さん。なにも君一人のことを言ったんじゃない、ぼくを含めた部隊全体のことを言ってるのにさ」
 簡単に挑発に引っかかったと、したり顔でトンミョンは言い返す。ワヒードは噛みつこうとしたが、その前にダイが憮然と制止した。
「おまえらを喧嘩させる為に呼び戻したんじゃない。ワヒード、山狩りはどうだった」
「どうもこうも、ゲリラはいるんだが、本命はさっぱりだな」
 苦虫を噛み潰した表情でワヒードは説明する。
 ワヒードは五人の仲間とともに山狩り作戦に駆りだされていた。ガランシア山地に潜伏しているゲリラを発見するのが目的だが、マチェスターほどではないにしろ、ガランシアにも歪みは広がっている。第三の力が思うように使えず、航空機関連がいっさい使用不可能なので、四苦八苦しているのだ。
「あーあ、やっぱりだめですねえ。これでは未捕獲記録がどんどん更新されちゃいますねえ」
「へっ、人のことばっか言ってらんねえだろ。おまえが索敵してるマチェスターはどうなったよ。ゲリラに陥落されたって話は俺の空耳か?」
「あれはぼくが悪いんじゃないっ。空挺作戦が取れないのにスタイルを変えようとしなかった司令部が悪いんだ!」
 ワヒードの揶揄に、今度はあっさりトンミョンが食いかかった。やはり二人の仲が改善されることはないらしい。ダイは頭を痛めながら、
「緒戦で統一軍が負けたのは事実だ。地の利は向こうにあるし、なにより市民は共同戦線に味方している」
「まったく、目的の為なら手段を選ばない極悪人なのに、どうして市民は奴らに味方するんでしょうね。軍に正義はあるっていうのに。彼らの目は曇りガラスなのかな」
「正義があるなら、戦争なんかしてないで救援活動しろということだろう」
 ダイが冷然と言い渡すと、口を尖らせていたトンミョンはばつの悪そうな表情をした。
「昨日の市街戦でマチェスター市民は戸惑っている。なにしろ革命戦線は彼らの救世主だからな。戸惑っているうちはまだいい。そのうち怒りに変わる。そのときなにが起こるか分かったもんじゃないぞ」
「お偉いさんはフリンカム出が多いからよ。地方都市よりもフリンカム市民の感情を優先させるのさ。それこそ奴らの思う壺だってわけよ」
「そんなこと言うなら自分で上層部に談判してみろっ。統一議会から連日せっつかれて、市民から苦情つけられて、だから情報部なんて行きたくなかったんだ」
 顔を赤らめてトンミョンが反論する。索敵能力では軍で一、二を争う優秀な彼がスクランブル隊にいる理由は、この議会への忠誠心と協調性のなさだ。ワヒードとはまた違った意味で、上に対する反発が大きいのである。
 ワヒードは権力というものを信用していないが、トンミョンはプライドが高すぎるので、自分に上がいることが我慢ならないのだ。「自分はその気になればどこまでも登り詰めることができるが、面倒だから敢えて下にいるのだ」、その証としてスクランブル部隊にいる。
 トンミョンはダイを睨むと、
「隊長、もうぼくは部隊に帰りたいです。大体、ぼくらがゲリラ掃討に組みこまれるなんて、コックにベッドメイクしろっていうぐらい無茶です」
「そりゃ、コックは散らかす専門だからなあ」
「君は黙っていたまえっ。外務省に状況を説明して口添えしてもらいましょう。ぼくたちにはもっと適材適所が」
 言葉の途中でトンミョンが丸い顔を緊張させ、薄暗い車の天井を仰いだ。遅れてワヒードが目を細め、両腕を広げて身構える。
「? どうした――」
 ダイの言葉を遮るように、目の前の景色が歪んだかと思うと、その中から一人の男が出現した。空間転移だ。ダイはのけぞり、ほかの二人もあとずさる。
 白く長い上着に身を包んだ青年に見覚えがあり、ダイは緊張を解いた。この間会ったリュシの青年だ。
 警戒する二人の部下に手を挙げて制する。
「えっと……君は……」
「氾科学研究所の晩大林です。驚かせて申しわけありません」
 柔らかそうな茶色の髪の青年は、慇懃に自分の失礼を詫びた。頭を下げると、両耳から下がる赤い石がカタカタとかすかな音を立てた。
 よく見ると、彼は同じ色の石をいたるところにつけていた。腕輪やカフス、服の留め金、靴の先にまでつけている。それらすべてが、やはりカタカタと震えて音を鳴らしていた。大林の動きには無関係に。マジックアイテムだ。
「リュシがなんでこんなところに来たんだ。ぼくたちの査定調査にでも来たのか」
 機嫌の悪いトンミョンが噛みつく。ダイはワヒードに目で合図して、トンミョンの口を塞いでもらった。大林をまっすぐ見据えて、
「晩大林、基地内での空間転移は禁止されているはずだ」
「私は軍人ではありませんので」
 うそぶく大林。ダイは苦い顔をした。確かにそうだが、大林はこの間の会議にも顔を出した、こちらの規律に従うのは暗黙の了解のはずだ。そんな彼の思いを見透かしたように、
「ご心配なく。ポテンシャルチェッカーには断ってありますから、査定調査には引っかかりませんよ」
 大林が笑う。少年っぽさの残る容貌には似つかわしくない、狡い笑みだった。どうせ断ったというのも、本人に内緒で断ったのだろう。リュシは第三の力を実に巧妙に使うという。よくまあ軍の最前線基地で、そういう大胆なことができるものだ。
 もっとも、最前線だからこそ混乱もあり、隙も多いからできる芸当かもしれない。
 あまり突っこむと、自分たちこそコソコソなにをしているのかと勘ぐられそうだったので、やめておいた。
「それで、俺たちになんの用だ」
「上司の言葉を伝えにきました」
 ダイは自分の頬が引きつるのを感じた。噂をすれば影が差すとはよく言ったものだ。
 大林は淡々と、
「カマラ人はマチェスターにいる。以上です」
「……なんだって?」
「カマラ人はマチェスターにいる」
 律儀に大林は復唱した。虚を突かれた発言に、ダイは幾度かしばたたき、
「それは、本当か? どこからその情報を……」
 言いかけてから、今まで見ていたニュースを思いだした。テロリストを逮捕したのだから、そこから得たに決まっている。
 革命闘士がそう簡単に口を割るとは思えない。強硬な手段を取ったのだろうと察しはついたが、それを言及する気にはなれなかった。言及して、どうする。道徳を説くか? 第三の力で精神探査を行うのは人権侵害だと。そんなことだからヌニェスへの差別は消えないのだと。それをいちばん分かっているだろう、ヌニェスに対して? ダイ自身はヌニェスでないというのに。
 星辰斗は皇太子を殺そうとした女闘士を許しはしないだろう。手加減せずに、その精神を破壊し尽くすまで掻き回し、隅々まで読みとっただろう。あれはそういう男だ。そういう思い詰めた、狂信的な目をしていた。
「あの女が知ってたのか? 皇太子を襲った女だ!」
 ワヒードの手の隙間からトンミョンが詰問する。マチェスターを索敵していた彼としては、リュシなどに手柄を横取りされるのが悔しいだろう。女闘士からの情報と聞いた方がましに違いない。
 だが、大林は頭を振って否定した。
「あの女は陽動です。大した情報は持っていませんでした」
 大林の言葉に動揺したのは、トンミョンだけでなくダイも同じだった。彼は狼狽を隠しながら、
「じゃあ、一体どこから……」
 大林は答えなかった。視線がダイから逸れたので、それを追うと、さっきまで彼らが見ていたモニターにたどりついた。
 皇太子を抱きしめるリュシの姿。
「え……」
「本来なら上司自ら説明に来るべきなんですが、昨日からぶっ倒れていまして。そちらのヌニェスのお二人も、あまり人の道に外れることはしない方がいいですよ」
 大林は同情的に、やけに親しみをこめて言った。
「まさか……」
 ワヒードが呆然とした声色で呟く。トンミョンは「うぷっ」とくぐもった声を洩らすと、ワヒードを突き飛ばし、口を押さえて車を飛びだした。
 それを見て、大林は優しいとすら言える嘲笑を浮かべると、音もなく掻き消えた。ダイがなんのことやら分からないでいると、傍らのワヒードがひどく顔色を悪くして、
「信じらんねえ……そんなことやる奴がいるのかよ……」
「なんだ、どうしたんだ。どういう意味だ?」
 ダイは心配になって、ワヒードの腕を掴んだ。ワヒードは頭を振ったものの、未だ呆然としたまま、
「奴は、死体の精神探査をしたんだよ。死んだ頭ん中に入ったってことだ」
 つまり、撃ち殺されたパズスパから情報を引きだしたということか。
「大変なことか?」
「大変なんて、そんなもんじゃない」
 ワヒードは泣き笑いのような、自嘲のような、曖昧な笑みを浮かべた。
「俺は、感応が得意じゃないが……死んでく奴の意識に触れたことはある……引きずりこまれそうになって……意識が腐っていくんだ」
「……」
「今まで固体だったものが、固い意識が、腐って、軟らかくなってくんだ。ずぶずぶって、腐ったキャベツに手を突っこんだみたいに、一気に腐って……」
「おい、しっかりしろ」
 ダイは声が虚ろになっていくワヒードの頬を軽く叩いた。ワヒードはぼんやりしたまなざしのまま、
「ああ、俺はしっかりしてるよ……こいつは、完全に腐ったキャベツの中に、飛びこんだんだ……どろどろの、腐った……なんて、気色悪い……気色悪いなあ、もう……」
 ワヒードは額に脂汗すらにじませていた。車を飛びだしていったトンミョンが、体を二つに折って吐いているのが見える。
 ダイは自分には到底理解できないヌニェスの感覚に、どうすることもできず、ただ待つしかなかった。

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