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 始まりは一発の音だった。
 ドオーン……
 ベッドに伏せていたグッディははっと体を起こした。全身が緊張する。
(花火?)
 そんな音だった。花火を打ち上げたような音。
 だが、こんな真夜中に?
 隣のベッドで寝ていた母親も起きだす。不安そうな表情をグッディに向けて、
「なんだい、今の音」
「花火……だったみたいだけど。水の手からだわ」
「貴族連中のバカ騒ぎかい。冗談じゃないよ、こんな夜中に」
 そう言いながらウルワーは木戸を開け、外を覗いた。グッディも母親の陰からそっと覗く。
 家の前の通りは森閑としていた。人っ子一人いない。車も通らない。ぽつぽつと立つ外灯の光が静けさをよけいに際立たせている。
 ここら辺からは建物が邪魔をして、水の手は見えない。もう少し郊外の高台に行けば見えるが、そこは貧困層が住む区画だ。
 誰か、彼女たちのように音を気にしている者はいないか、グッディは窺ったが、密集した家々の窓は閉じられていた。皆寝ていて音に気づかないのだろうか。グッディには彼らが目に蓋をし、耳に栓をして家で震えながら閉じこもっているように感じられた。
(ああ、ナトゥの話のせいだ。ナトゥがあんなことを言ったから、そういう風に見えてしまうわ)
 グッディが頭を振ったとき、二発目の、どおーん……という音がした。母娘は震え、互いに顔を見あわせる。そして、弾かれたように二階へと駆け上った。
 二階では父親がまだ仕事をしていた。二人が飛びこむと、驚いた顔を上げ、
「どうしたんだね、二人とも」
 どうやら音が聞こえなかったらしい。ウルワーは夫を無視して、窓に駆け寄った。本の山が崩れ、スループが「おお、大変だ」と本を拾う。
 グッディは気はウルワーの開けた窓の外に向かいながらも、父親を手伝った。
「父さん、今の音、聞かなかったの?」
「音? さあ、なんだろう」
「見てごらん!」
 スループの返事をウルワーの鋭い叫びが遮った。グッディはたまらず本を置き、窓に駆け寄る。
「あっ……」
 グッディは息を呑んだ。
 水の手がオレンジ色の光を発している。まるでその部分にだけ朝焼けが映り、建物自体が僧侶たちの言うところの「気」を発しているようだ。
(きれい)
 夜闇に浮かび上がった曙光の色は、ひどく幻想的だった。そこだけが現世から切り離された、極楽浄土にも見えて――
「火事だ」
 母親の低い緊迫した声で、光に見とれていたグッディは我に返った。言われてみれば、建物に隠れてよく見えないが、炎らしいものがちらちらとある。その炎が王宮の白い建物に反射されていたのだ。
「王宮が燃えてる?」
「いや、違うね。あれは……副首相のお屋敷だよ」
 水の手に詳しいウルワーが、やはり光に見入りながら呟く。副首相ジャグデーヴ、王太子にして国家特別警察司令官たる王弟だ。年長であるが故にその地位に就いた国王ガンシャムに代わって、国家のすべてを動かしていた男――その男の宮殿が燃えている?
(さっきのあの音)
 火薬が炸裂した音。燃える陰の実力者の屋敷。これがなにを意味している?
 グッディは胸で手を固く組みあわせた。すると、ウルワーが彼女を抱きしめてくれたが、それは彼女をいたわるというよりも、ウルワー自身が誰かにしがみついていたかったようだ。母親の血の気が引いているのが、遠い光に照らされて分かる。
 グッディは母親をきつく抱きしめ返した。
(花火が上がったんだわ……でも、なぜ?)
 不吉な予感と不吉な言葉が胸中に渦巻く。
(反乱)
 誰かが王太子を狙った。王太子は殺されてしまったのだろうか。
(ああ、ナトゥが言っていたのはこのことなんだわ。でも、静かだわ。静かすぎる)
 王太子は堕落しきった王族に生まれたにも関わらず、政治家としての手腕を発揮し、無能な兄王に代わってすべてを取り仕切っていた。彼がいなくては王宮は一日とて保たないと言われるくらいに。
 王太子個人に不満を持つ者の犯行だろうか。彼に恨みを持つ者は多いだろう。貴族にも平民にも。厳然たるヒエラルキー社会で、王太子はその地位を最大限に利用してきた。自分の地位を安定させる為に。名は兄に譲ったが、実を自分のものにする為に。
(ああ、副首相がいなくなったら、王宮は混乱するわ。一体どうなってしまうのだろう、この国は……)
 グッディは王太子にはなんの肩入れもなかったが、酷いこともされてなかったので、無事を願わずにはいられなかった。混乱は望まない。いつもの明日を望んでいるだけだ。
 そうやって、どのくらい二人で不安に抱きあい、火事を見続けていただろうか。
 通りの向こうからエンジン音がして、車がやってくるのが見えた。一目で分かる、軍用車だ。
 街の外へ行くのだろうかと考えていると、車は減速し、この家の前で停止した。
「か、母さん……」
「……」
 ウルワーは答えず、食い入るように車を見つめる。
 車から三人の兵士が下りてきた。暗いので記章や顔は分からない。この家の戸口に立つ。
 突然、ウルワーが身をひるがえした。猛然と階段を下りていく。
 突き飛ばされた格好になったグッディは、本の山をばたばたと崩しながら尻もちをついた。
「か、母さん?」
 よろめきつつ立ち上がり、母親のあとをのろのろと追う。背後でスループが、
「ああ、またどこに置いたか分からなくなってしまった」
 彼女が崩した本を片づけていたが、それにかまってはいられなかった。母親がなぜ態度を豹変させたか、知らなければならなかった。
 戸が叩かれる。
「スループ・ウッディン博士、ここを開けてください。博士――母さん、俺です、ウスマ……」
「ウスマーン!」
 外の声が言い終える前に、ウルワーの歓声が遮った。階段を降りていたグッディは身をすくませ、おそるおそる下へと降りた。
 玄関では一人の若い兵士を抱きしめる母親の姿があった。
「ウスマーン兄さん……?」
 囁くように声をかける。若い兵士が振り向いた。思いこみの激しさを表した、定規で引いたように直線の眉の青年――間違いない、六つ年上の兄ウスマーン・スループだ。
 都市警備隊の一員として郊外の基地に詰めている兄が、なぜ家に、しかもこんな時間に戻ってきたのだろう。後ろに立つ二人の兵士は、兄よりも若く、緊張した面もちで直立不動の姿勢でいる。
 ウスマーンは妹を見ると、口元を歪め、冷たい口調で、
「グッディ、父はどこだ」
「あ、あの、二階に……」
「連れてこい」
「えっ、でも……」
 グッディは戸惑った。十六で入隊し、それ以来滅多に家に寄りつかないウスマーンは、特に父親とは不仲だ。正確に言えば、ウスマーンが一方的にスループを嫌い、近づかないようにしているのだが、スループもスループで、自分に息子がいたことなどすっかり忘れたような無関心でいる。もっともスループの場合、本当に忘れている可能性も大きいが。
 その兄が、父を呼んでいる?
 グッディが二の足を踏んでいると、ウスマーンが苛立った表情で、
「なにをしている! 早く連れてこい!」
「はっ、はいっ」
 怒鳴られ、慌てて二階に駆け上がる。兄には逆らえない。昔からそうだった。ずっと離れていたので忘れていたが、体は覚えていた。
「まあまあ、しばらく見ないうちに立派になって……」
 母親の泣きそうな、だが誇らしげな声が聞こえる。
 二階に行くと、スループは来客など気づかず、再び本に没頭していた。
 こんな父を兄が恨むのは無理ない。そう思う。父の学説のせいで、兄は学校を追われた。カマラでは最高レベルの高等学校に入学したばかりだった。
 王都追放が解け、再びこの街に戻ってきたとき、ウスマーンは復学せずに軍隊に入った。自分の人生を狂わせた父を憎むのは当然だと思う。幼いころから、世間の常識をまるで知らない父の代わりをさせられてきた分、余計に。
 だが、それでもこの学者は父なのだ。
「父さん」
 スループが顔を上げる。グッディは顔が強ばるのを気にしながら、平静を装って、
「兄さんが帰ってきたわ。父さんに会いたいって言ってるの、下に来て」
「ウスマーンがかい? 珍しいことだ」
 腰を押さえながらウスマーンは立ち上がる。こんな夜中の帰宅には疑問を持っていないらしい。
 父親のあとについて下へ行くと、ウスマーンが直立して待っていた。感情を隠した冷たい面もちはなにを考えているのか窺えなかったが、緊張しているのか、一文字に結んだ口の端が歪んでいた。
「スループ・ウッディン博士」
 他人行儀でウスマーンは父親に話しかける。彼は淡々と、
「国立総合科学研究所の所員で、次元物理学の第一人者であるあなたに、私の上司が会いたいと申しております。ご同行おねがいします」
「兄さん?」
 グッディは驚愕して、思わず声を上げた。だが、ウスマーンがぎらりと獰猛な視線で睨んだので、口をつぐむ。だが、心は驚きに震えたままだった。
(兄さん、どうしてそんなことを)
 さすがにこれにはスループも怪訝に思ったらしく、首を傾げて、
「ウスマーン。私はもう総科研の研究員ではないよ。八年前に解任されたことはおまえも知ってるだろう」
「よく存じています、博士」
 皮肉のこもった発言。口調は変わらないが、その言葉に含まれる強烈な毒にグッディは身震いした。
(兄さんは父さんをまだ許していない)
 ウスマーンはそんな妹には見向きもせず、勝ち誇った口調で続けた。
「ですが、状況が変わったのです。あなたを追放した者たちは明日にはすべて都から去り、新しい価値が生まれるのです」
「!」
 グッディは再度息を呑んだ。興奮気味に語る兄は、今なんと言った? 新しい価値が生まれると。追放した者たちはすべて都から去ると。
 目の奥に美しい曙光がよみがえる。
(まさか、まさか……)
 スループは目をしょぼつかせて、眼鏡を押さえた。
「それはどういう意味だね、ウスマーン」
「我々憂国同志軍によるクーデターは成功したということですよ、お父さん」
 ついに本性を現し、ウスマーンは父親を睥睨しながら高慢に説明した。
「ヒラ・ラル少将のもとに集った我々憂国同志軍が、本日午前二時、政権を握りました。私利私欲に走り、長い間国民を苦しめてきた副首相ジャグデーヴは、簡易裁判によりその場で処刑、副首相の横行を野放しにしてきた国王兼首相ガンシャムは逮捕しました。明日からこの国には貴族という制度はなくなるのです。いいえ、身分差を決めるすべての制度がなくなるのです!」
 高らかに、勝者の笑顔でウスマーンは語る。
 グッディは腰から下の力が抜けていくのを感じた。
(クーデター……)
 不安はこのことだったのだ。ナトゥが外に出るなと言ったのはこのせいだったのだ。王太子は殺されてしまったのだ。
(副首相の処刑。国王陛下の逮捕……ああ、この国は一体どうなってしまうの)
「ヒラ・ラル? ああ、あの若者かね」
 意外なことをスループが言いだした。彼が他人の名を覚えていることなど滅多にない。ウスマーンの勝ち誇った顔に引きつりが走る。
「少将を知っているんですか、お父さん」
「ああ、彼は、ええと、いつ会ったのだっけな……ああ、そうだ、総科研に来たんだ。まだ学生だったな。私の話を真剣に聞いていった」
 古い記憶の網を引っ張りながら、スループは答える。
 そして、ようやく「クーデター」という言葉の意味を思いだしたらしく、きょとんとした表情で、
「彼が新しい王になるのかね?」
「王侯制度は消えるのです、お父さん」
 カタカタと爪先を踏み鳴らしてウスマーンは答えた。彼が苛立っているときの癖だ。あれが出ているときに近寄ると、十中八、九は殴られる。グッディは父が殴られやしないかとはらはらしたが、さすがに父親を殴るほどウスマーンも子供ではなかった。
「我々の目的は、この世界の愚かしいヒエラルキーを打ち砕くことにあります。それはあとでじっくりお話ししましょう。私と一緒に来てくれるんですか、くれないんですか」
「それはヒラ・ラルが呼んでるということかね? 私の話を聞きに?」
 聞き返すスループの目が輝く。
 まるで食虫植物の甘い蜜にいざなわれる虫のようだ――グッディは緊張した。父を弄する為の甘言は、「あなたの話を聞きたい」、その一言であることをウスマーンは知っている。自説の支持者にはとことん気を許してしまう――それを兄は知っている。
 打てば響く反応の父親を見て、ウスマーンが口元を吊り上げた。グッディは自分の考えが正しいことを知った。
「そうですよ、お父さん。あなたの話を聞く為に。世界が滅ぶ前に」
「おお、そうかそうか。では、さっそく出かけよう」
 案の定、スループは即決した。彼の頭の中では、相手が副首相を殺したクーデターの首謀者であることは、まったく考慮されていないに違いない。
 クーデターが成功したというのはついさっきだ。まだまだ情勢が大きく変わる可能性は高い。そんな不安定な時期に首謀者の元に行くなどと、あまりにも危険極まりない。情勢が不利になったら、彼も仲間と見られて殺されかねない。
「お父さん、だめよ! 危険だわ!」
 グッディは悲鳴のような声を上げた。だが、目の前に大きな手が迫ってきたかと思うと、彼女は平手打ちを食らい、吹き飛んでいた。
 壁にしたたか背中を打ちつける。目の奥がチカチカするほどの痛みをこらえて仰ぐと、兄が凄まじい形相で彼女を睨んでいた。
「女が知ったような口をきくな!」
 もう一度殴られそうな勢いで怒鳴られ、グッディは「ひっ」と引きつった悲鳴を上げ、頭を抱えて身を縮めた。怖かった。
 兄に逆らってはいけない。いけなかったのだ。
「ああ、私の可愛い小鳥を苛めるのはやめておくれ。私は行くから」
 スループがウスマーンを止める。震える彼女をウルワーが支え起こして、
「駄目だよグッディ、兄さんに逆らっては。兄さんはもう偉い人なんだよ」
 咎める母親に、グッディは涙を浮かべながら頷くしかなかった。
 そんな二人をウスマーンは傲然と見下ろし、異様に親しげな笑みを浮かべながら、
「では、母さんやグッディにも一緒に来てもらいましょう。その方がお互い不安はないでしょうから。グッディ、ショールをかぶれ、はしたないぞ」

       ※

 ウスマーンに連れていかれたのは水の手のもっとも奥、すなわち王宮だった。
 ここに来る前に、燃え盛る王太子宮を見た。石造の建物が燃えるには、それなりの燃料を撒かなければならなかっただろう。
 風を起こし、音を立てて燃える王太子宮には、大勢の兵士が集まっていた。市民の姿はなかった。風に混じって女の悲鳴が炎の中から聞こえたが、物がはぜる音に消えてしまった。
(ああ……王太子宮には美しい森があったのに)
 乾燥帯に属するジョイワールは、わずかな緑も無駄にはできないというのに。逆巻く炎を車から眺めながら、グッディは呆然と考えた。間近で見る火事は怖ろしく、そして美しかった。
 暖色のグラデーションを描き、天を焦がす勢いで燃える炎。飛び散る火の粉は蝶のように舞い、星々と同化する。或いは見過ごす彼女たちを咎めるように、降りかかってくる。
 これが滅びの始まりなのだ。グッディは漠然と予感を抱いた。これが始まり――終わりの始まり。
 滅びが始まる。それが父の言う「世界の滅び」なのか、「国の滅び」なのか、「彼女たちの滅び」なのか。
 王宮は外から見るほど立派でも美しくもなかった。王宮のシンボル、白亜の大理石で造られた廟は確かに美しかったが、その隣に建てられた宮殿は、廟が美しい分、みすぼらしく見えた。「ピンクの宮殿」などという、身も蓋もない愛称で呼ばれているが、それは赤土で造られた煉瓦を使用しているせいだ。
 王宮の城壁にはやはり兵士が並び、警戒していた。彼らもクーデターに参加した者たちだろう。
 前庭で車を降り、建物の中に入る。
 夜中だというのに照明が煌々とついていた。さすがは王宮、砂のごとく電力を使っている。大勢の兵士が慌ただしく行き交っているが、どれも皆、ウスマーンと同じくらいの若い兵士ばかりだった。そのことからクーデターの首謀者、ヒラ・ラル少将が若い将校であることが窺える。
 そのヒラ・ラル少将は、王宮でもいちばん手前の部屋、玄関ホールのすぐ隣にいた。
「お久しぶりです、スループ博士。こんな夜中にお呼びだてして申しわけありません」
 礼儀正しく挨拶した将校は、やはり若く、三十前後と思われた。ジョイワールでは珍しく鼻筋の通った、目元の凛々しい美男子だ。
 教養ある人間というのは顔にそっくり出るものだと、グッディは実感した。ヒラ・ラルは理知的な顔立ちをしていた。相手を傲慢に見下すまなざしも、相手に萎縮した卑屈な態度もない。相手に敬意を払いながら、かつ自分自身に確固たる自信を持った笑みを浮かべている。
 悪い人ではなさそうだ。それがグッディの第一印象だった。
「いや、いやいや。会えて嬉しいよ。君は優秀な学生だった。そうか、軍にいたとは知らなかったな」
 社交辞令という言葉を知らないスループが、ヒラ・ラル相手に親しげに話しかける。グッディは総合科学研究所時代の父親をほとんど覚えていないので、少し驚いた。父はこんなに人と喋ることができたのだと。
 その驚きはウスマーンも同様だったらしく、目をしばたたかせて、まるで新種の生き物を見ているようなまなざしで、父親を見ていた。
「君はてっきり総科研に来るものとばかり思っていたよ。あ、いや……」
 スループが口ごもる。高い天井を仰いで、少し考え、
「そうだ、違ったな。来るわけがないと思ったんだ。君は貴族だから、政治家になると思ってた」
(え?)
 父親の言葉にグッディは耳を疑った。ヒラ・ラルは貴族なのか。確かによく考えてみれば、この若さで少将の地位にあるということは、ある程度の身分がなくてはならない。
 貴族出の人間が、その生活基盤たるヒエラルキー構造を崩そうとしている?
「なにが言いたい!」
 スループの言葉を嫌みと取ったか、ウスマーンが声を荒くした。だが、彼を制したのは、ほかでもないヒラ・ラルだった。彼は紳士的な微笑を浮かべたまま、
「ええ、そうです。軍隊に入りましたが、こうして遅ればせながら、政治家の一員となることに決めたんです、博士」
「ほうほう、なるほど。自分のやりたいことをやるのはいいことだ。君はいい政治家になるだろう。君は頭のいい学生だった」
 とても深く物事を考えているとは思えない、軽い口調でスループは言う。本当に自分の研究以外のことには興味がないのだ。ヒラ・ラルに興味を示しているのは、彼が「頭がいい=自分の研究を理解できる」から、それだけに違いない。
「それで、君はこれからどうするのかね。私はなにをすればいいんだね」
 一刻も早く自説を語りたくてうずうずしているのが、声色で分かる。それはヒラ・ラルにも分かったらしく、彼は苦笑すると、
「すぐにでも博士の話をお聞きたかったのですが、たった今、出かけなければならないことができてしまったのです。残念ですが、私が帰ってくるまで休んでいてください。部屋はここに用意します」
「少将、それはエキツカリの件ですか」
 ウスマーンが口を挟んだ。エキツカリ。国防省の建物の呼称だ。
 ヒラ・ラルが頷いた。その態度からいって、ウスマーンはかなりヒラ・ラルに近い立場にあるようだ。
 おそらく軍幹部の問題が片づいていないのだろう。やはりまだクーデターは完全には達成されていないのだ。グッディは唇を噛みしめ、不安を押し殺した。そうしていないと狼狽のあまり叫びだし、また兄に殴られてしまいそうだった。
 スループは露骨にがっかりした様子で、
「それは残念だ。がんばりたまえ。ああ、そうだ、私の家から本を持ってきてくれるとありがたいんだがね」
「本ならばここの図書室を使うとよろしいでしょう。すばらしい蔵書ですよ、禁書もすべて揃っている」
「おお、そうかね。それは楽しみだ」
 そわそわと落ちつかず視線を巡らすスループ。今度はもう図書室に行きたくてたまらないのだ。
 本当に子供のような人だ。グッディはうつむいた。父は本があればそれでいい。母は兄の命令ならなんでも言うことを聞くだろう。父の代わりを務めてくれる兄がいれば、それで充分なのだ。彼の世話をすることでここに居場所を見つけるだろう。
 だが、自分は?
 自分はどうすればいい? なにをすればいい? いつまでもここにこうやって佇んでいるわけにもいかない。来たくて来たわけではないが、ほかにどこに行く?
 そんな彼女の不安を見透かしたように、ヒラ・ラルが振り向いた。視線が合い、半歩あとずさる。
「では、奥方とご息女は先にお休みいただきましょう。なにか聞きたいことはありますか」
「あのっ」
 反射的にグッディは声を上げていた。今尋ねなくては次にいつチャンスが来るか分からない、そんな焦りが彼女を突き動かした。
「あの、あなたは信じているんですか……その、あの、世界が滅びるのを」
「グッディ! 少将に失礼なことを聞くな!」
 すかさずウスマーンが手を振り上げる。グッディは身を縮めたが、再びヒラ・ラルが彼を止めた。
「やめろ、ウスマーン。私が尋ねたのだ」
「しかし!」
「おまえは黙っていなさい。これははっきりさせなければならないことだし、黙っていることでもない。ご令嬢、名は?」
「……グ、グッディ・スループ、です」
 しどろもどろに答える。自分の名のあとに付く父親の名が、これほど重荷に感じたことはなかった。
 ヒラ・ラルの冷徹なまなざしが彼女を凝視した。気後れするグッディに、彼は静かに、
「グッディ、私は滅びを信じている」
「……」
「世界は滅び、我々は潰えるだろう。私はこの目で見てきた。博士の説は正しい、世界は滅びるのだ。その為に私はクーデターを起こした」
 きっぱりと断言するヒラ・ラル。迷いやためらいはない。
(この人は本気なんだ。本気で信じているんだわ)
 グッディは返す言葉もなく、彼を見つめ返すしかなかった。

       ※

「……ちっ、まあた盛大にやってくれちまってよ」
 燃え盛る王太子宮を仰ぐ影が一つ。
 すり切れた砂塵除けをかぶり、腰に手を当てて炎を眺める。その黒曜石の輝きを放つ双眸には、赤々とした炎が映っている。
「俺がカマラにいるときに冗談じゃねえ。また帰るのが遅くなっちまう」
 ぶつぶつと文句を垂れる。その言葉はジョイワールで使われるジャイカ語でも、カマラ世界のどこの地方の言葉でもない。異世界の言葉だ。
 風にめくり上げられた砂塵除けの下から、細い体が見える。まだ育ちきっていない少年の体つき。だが、立ち方一つで彼がただ者ではないことが窺える。狂喜乱舞する炎山を前にしても、見下すように、挑むように傲然と佇む。
 少年の名はジュン――昼間、グッディが出会った少年である。
「あの野郎、絶対俺に押しつけてくるぜ。絶対そうだ。あー、こんなことならさっさと移動してりゃよかった。移動しちまおっかなー。でも、結局俺に押しつけてきやがるぜ。あいつの考えなんかお見通しなんだよ」
 不満の塊のように愚痴をこぼし続ける。夜中だから人目にはつかないが、怪しいことこの上ない。案の定、
「誰だ! そこでなにをしている!」
 鋭いジャイカ語の誰何が飛んできた。クーデター軍の一人か、兵士が銃を構えて淳の方へと走ってくる。
「何者だ! 市民か、答えなければ撃つ!」
 言いながら、すでに発砲してくる。チュイーン、チュイーンと、ひどく耳障りな跳弾音が響いた。
「ばっかでえ。市民でございって答えりゃ、逃がしてくれるってのかよ」
 少年はせせら笑った。悠然と砂塵除けをひるがえし、すらりと抜き放つ一振りの剣。
 細身の白く輝く剣を掲げる。それは煉獄の炎を浴びて、オレンジの光を放った。
「なんと」
 相手が驚愕して足を止める。その隙を突いて、彼は駆けた。常人とは思えぬ速さでふところに飛びこみ、呆然とする相手を袈裟懸けに斬る。
 血が飛び散る。
「……」
 兵士が口を開き、なにか言いたげな表情で、だがなにも言わず、そのまま倒れた。
 少年は剣を振ると、鞘に戻した。人一人斬ったことなど大したことではないと言いたげに、肩をすくめ、
「おかげで、やらなくていい人殺しもしなきゃなんないし。シェシリー、もう一仕事増えたぞ。今のうちちゃんと食っとけよ」
 そう声をかける。いらえはない。だが、これは独り言ではなかった。彼は愛剣に向かって言ったのだ。
「さて、と……スループ博士はさらわれちまったし、くそったれからの連絡が来るまで、どっかに雲隠れするか」
 彼は一人ごちると、死体には見向きもせず、歩きだした。

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