2


 岩に手をかけた途端、グッディは指先に小さな雷撃を食らったような、強い痺れを覚えた。その驚きは前を行くヒラ・ラルに伝わったらしく、
「どうしたんだね」
「あ……その、なにか、刺さったような痛みが……」
 言葉を選びきれず、たどたどしくグッディは説明する。だが、ヒラ・ラルは「ああ」と軽く呟いた。
「やはり君はヌニェスだったか」
「ぬ……ねす?」
 聞き慣れない言葉におっかなびっくり聞き返す。よくない病気かなにかだろうか。
 警戒する彼女に気づき、ヒラ・ラルは笑ってみせた。
「少し変わった力――超能力を持つ者のことだよ」
「超能力?」
「例えば、風の流れを読めたり、手で持たずに物を動かしたり、念じるだけで火をつけられたり、或いは龍脈を読めたり、空間の変動を感じとれたりね。そういった力を持つ者をヌニェスと呼ぶんだ」
「呪い師のような……?」
「彼らにもその力を持つ者は多いだろうね。カマラでは滅多に生まれないが、そう、パテ世界やグアダ・チャラは住民の半数がなんらかの超能力を持っているそうだよ。君も貴重な人材の一人なんだ」
 貴重。ヌニェスがなんたるかまだよく理解できなかったが、その言葉が気恥ずかしくて、グッディは耳朶まで紅潮して視線を手元に落とした。
 自分も彼を支える人間になれるだろうか。
 ヒラ・ラルに助けられ、崖の上に身を乗せる。全身にピリピリと静電気がまとわりつくような、小さな、だが不快な刺激。大気そのものが電気を孕んでいる。まるで山の神が怒気を噴き、彼女たちを拒絶しているようだ。
 崖の上は強い風が吹いていた。グッディはショールが飛ばないよう手で押さえ、そして。
(ああ、ここは)
 そこは山頂で、数メートルもいかないうちに再び崖となって落ちこんでいた。山というよりは壁に等しい。
 その向こうに見えるのは、はるかな雲海。白銀の、一面に塩を敷き詰めたような、きらきらと輝く雲の海だった。
 ここは世界の果てだ。予感が当たった。間違いない、ここが話に聞く果てでなくて、なんであろう。
 濃密な銀の雲海は果てしなく広がり、その下になにがあるか、その向こうになにがあるか、決して見せなかった。青空は地平まで広がっているが、遠ざかるにつれその青さは異常なまでに濃く強くなっている。
「ここがどこか分かるかい」
「……世界の果て(リウ・カウラワ)」
 ヒラ・ラルの問いに、グッディは雲海から視線を逸らさずに答えた。リウ・カウラワ。今や忘れられた古い伝説に出てくる名称だ。それが世界の果てにある壁のことを指すのだと教えてくれたのは、父だ。
「やはりスループ博士のご息女だ。よくその名を知っている」
 そう言って、ヒラ・ラルは両手で筒を作った。
「世界は閉じられた円柱の中にある」
「……」
「我々の世界は有限に閉ざされ、経線は極地を中心として、渦巻き状に境界に収斂される。緯線は極地に対して常に円を描き、閉ざされている。これがどういうことか分かるかな」
「……『世界の果ては、正攻法では、決してたどり着くことができない』」
「上出来だ」
 満足げにヒラ・ラルは頷いた。そのフレーズを彼女に教えたのも父だ。いや、教えられたのではなく、若き日の父が念仏のように延々と唱えていたので、自然と覚えてしまった。口にしたのは久しぶりだった。母親が嫌がり兄が殴ったので、彼女はそのフレーズを口にするのを自分に禁じていた。
「世界の果てを目指しても、低緯度ではほぼ垂直に緯線と交わっていた経線は、高緯度になるにつれ歪み、ついには緯線と重なってしまう。そこから垂直に向かっても、再び歪みに取りこまれ、果てには決してたどり着かず、方向を見失って世界の辺縁を永遠に回り続けるだけだ。だから、政府と軍は三百キロ辺縁を封鎖し、近寄れないようにしてきた」
 そう、世界は円形なのだ。円形に世界の果てに囲まれている。それは、世界の果てに向かって直進すると、最終的に円環を堂々巡りすることになることから明らかだ。世界は閉ざされている。
 それを自分たちは越えてきたというのか。グッディは崖の反対側を振り返った。無人の乾いた荒野は、一見はなんのことはないありふれた沙漠だ。だが、自然の迷宮は古来から人を拒み、世界の果てを隠す神秘のヴェールの役目を果たしてきた。
 そんなところを、どうやって彼らは走破してきたのだろう。そしてどうやって帰るつもりなのだろう。
 グッディの不安を察したらしく、ヒラ・ラルが宥める口調で、
「世界の果てにたどり着く方法を編みだしたのは、スループ博士なんだよ」
「え……」
 驚いてグッディは青年将校を仰いだ。彼は今来た荒野を指した。
「博士は総合科学研究所時代に、平面座標の球座標による変換補整公式を発見し、単独で世界の果てにたどり着いたんだ。学会はもっと彼の功績を大きく取り上げ、賞讃するべきだった。そうは思わないかい」
 同意を求められても、そんな父の業績など聞いたこともなかった。世界が滅びると公言して学会を、そして王都を追放されたという悪しき業績しか知らなかったグッディは、当惑の表情で黙りこむほかはなかった。
 ヒラ・ラルはそれをどう受け取ったのか、「ああ」と呟くと、
「補整公式は次元代数を学んだ者でも理解しにくいからね。私も概念しか分からない」
「……」
「博士は偶然に頼ることなく、ここにたどり着く方法を編みだした。だから私たちは迷わずここに来られたんだ。だからちゃんと帰ることもできるよ」
 彼は相当彼女を気遣ってくれているようだった。やはり優しい人なのだと改めて思い知る。優しくて親切。人の不安を拭い去ろうとしてくれる。
「世界の果てにたどり着いた博士は、何度もここに足を運び、調査を重ねた。そして八年前、ある結論に達したのだ。世界は滅びると」
 ヒラ・ラルの言葉にグッディは身を固くした。長いことその言葉は彼女の家ではタブーだった。軽々しく口にしてはいけなかったし、聞いても耳に届かなかったふりをしなければならなかった。
 なのにこの人は、こんなにもあっさりと、当然のように言う。なんのためらいもなく。
 あまりにも疑いのない響きに、今まで嘘だ嘘だと信じてきた自分たちの愚かさを信じてしまいそうになる。
 だが、それでは自分たちの八年間の苦しみはなんだったのだろう。母の嘆きは、兄の怒りは、彼女の憂いは。ヒラ・ラルの言葉を信じることは、この八年間を無に帰すことだ。そんな簡単にはできない。
(ウスマーン兄さんはどうして彼を信じることにしたんだろう。あんなにも父さんを恨んでいたのに……)
 それはすなわち、父への確執を越えられるほどウスマーンはこの青年将校に心酔しているということだ。理屈は分かるが、感情が伴っていかない。
「……どうして」
 グッディは呟いた。兄の翻意の真相を知りたかった。ヒラ・ラルが彼女の言葉を促すように目を細める。
 彼女は小さな小さな勇気を振り絞り、背後の兵士になるべく聞かれないよう、言葉を続けた。ヒラ・ラルはなにを尋ねても彼女をいきなり殴ったりはしまい。
「どうして、そんなこと言うんですか……世界が滅びるなんて、そんなこと、あるはずありません……」
「どうしてそう思うんだね」
 逆に問い返されてグッディは戸惑ったが、言葉はすぐに口から溢れた。
「だって、世界が滅ぶなら、いつ滅ぶんですか。今ですか。明日ですか。どうやって滅ぶんですか。私たちはなにも感じない。滅ぶなんて言われてもピンとこない。それとも百年後なんですか、千年後ですか」
 その問いはすべて彼女と彼女の家族に向けられてきたものだった。王都を追放されてから揶揄として、叱咤として、憤りとして、見知らぬ者たちから投げつけられた。
 だが、彼女こそが父親に聞きたかった。いつ世界は滅ぶのだ。どうやって滅ぶのだ。どうして自分たちをこんな不幸な目に会わせるのだ!
 溜めてきた思いを一気に吐きだし、うつむくグッディを、ヒラ・ラルはしばらく見つめていた。そして、ゆっくりと、
「世界は明日滅ぶわけではない。でも、百年後なんて悠長なことは言ってられない」
 グッディが顔を上げる。ヒラ・ラルは雲海の彼方を指した。
「今はなにも変化がないように見えるかもしれない。だが、二、三日ここにいれば、確実に世界が崩れていくさまを見ることができるはずだ」
「世界が……崩れる……?」
「世界の果てにあるのは〈真空の海〉、途方もないエネルギーの塊だ。〈海〉はすべてを呑みこみ、単なるエネルギーへと還元してしまう。その脅威から世界を守っているのが、このリウ・カウワラだが」
 ヒラ・ラルの言葉が途切れた。彼の視線が雲海から崖へと移る。グッディもつられて、少し離れた岸壁に目を向けた。
 見通しがいいのでかろうじて見分けがつくが、明らかな崩落の痕跡がある。あれがそうだというのか。あれが、世界が崩れる前兆だと?
 ヒラ・ラルは低い押さえた声で続けた。
「リウ・カウワラは、その力を失いつつある」
「……」
「原因はまだ解明されていないが、博士の仮説では〈真空の海〉の磁場に変動があったか、リウ・カウワラが薄くなったか、複合的な作用の結果か、或いはまったく考えも及ばない原因があるのか、世界を〈真空の海〉から守る力は年々薄れている。その為にこのカマラは〈真空の海〉に潰されつつあるのだ」
 彼が一息ついたとき、タイミングを合わせたようにすぐそばの崖が音を立てて崩落した。小さな崖崩れだったが、グッディは驚いて飛び上がった。
 瓦礫ががらがらと音を立てて斜面を転げ落ち、そのまま雲海へと埋没していく。そこから下はなにも見えない。
「……」
 グッディはショールの端を握りしめ、怯えたまなざしで崩れた岸を凝視した。ああやって世界は徐々に崩れていくのか。今自分が立つ足下もそのうち崩れるのか。崩れた世界の欠片は、世界と世界の狭間にあるという〈真空の海〉に呑みこまれ、消えてしまうのか。
 そうやって世界は滅びるのか。父の予言どおりに?
 グッディは喘いだ。
「世界は……世界は、滅びる……んですか……? ああやって……跡形もなく……?」
 ヒラ・ラルが頷く。彼に「スループ博士の娘なのにそんなことも知らなかったのか」と蔑まれるのが怖くて、グッディは視線を逸らした。彼はそんな風に他人を見たりしない――内心はどうあれ、そんな態度を表に出さない人間だろうが、それでも怯えた。
 淳が彼女に問うた言葉を思いだす。「どうやって世界は滅びると思う?」。彼女は答えられなかった。いや、戦争や飢饉によってかと自信なく答えたはずだ。
 そうだ、こんな直截な方法で――まさに物理的に世界が滅ぶなんて、誰が想像しただろうか。父親の仕事が次元物理学者であると知っていたグッディさえ。
(違う)
 息苦しさにグッディは胸元を押さえた。違う。父は、スループはずっと言い続けてきた。世界は滅ぶ。世界は崩れ、〈真空の海〉に呑まれて消えると。彼はなんの比喩でもなく、事実を伝えていたのだ。
 その言葉を本気で聞かなかったのは自分だ。父を哀れみ、力になりたいと願い、だが決して理解しようとしなかったのだ。
(私は……私は……)
 いつまで経っても数学が苦手だったのはなぜだ?
(私は、父さんの言葉を、本当は聞こうとしなかったんだ……)
「世界が崩れるたびに、リウ・カウワラの壁は内側に後退している。科学的なデータも揃っている。この二年でリウ・カウワラの壁は一キロ近く後退した。今は小さな崩落だけど、いずれは両手で握りしめた固パンのように、全体にヒビが入って、粉々に砕け散ってしまうだろう。そう、とても近いうちに」
 グッディはすがる思いでヒラ・ラルを仰いだ。いくつかの思いが交錯して、頭の中が混乱していた。信じなかった父親へのすまなさ、世界が滅ぶことへの怯え、そして、それでも「騙されない、世界が滅ぶなんてあり得るはずない」と頑なに否定するアイデンティティ。その三者が鬩ぎあい、どうしていいか分からず、さらなる判断の決め手をヒラ・ラルに求めた。
 そして、そんな彼女を彼は受け止めた。
「とても信じられないかもしれない。私も杞憂であればいいと心から願っているよ。でも、実際のデータがそれを許さない。だから私たちは、それを食い止める為、クーデターを起こしたんだ」
「……」
「旧政府は博士の説を無視した。私たちが何度進言しても無駄だった。臭いものには蓋をして、目の前の享楽しか考えない、悪しき貴族の楽観主義だね」
「……あなたたちには、世界を救う方法がある、そういう意味ですか」
 世界を救う。その言葉がひどく舌触りの悪いものに感じられた。口の中に砂が混じったような、苦く、陳腐な言葉。
 気をつけるのだ。政治は宗教を利用する。クーデターを正当化したがっているこの人の詭弁でないと、どうして言える? 世界が滅ぶ、世界を救った。口だけならなんとでも言える。
(世界が滅ぶなんて本当にあり得るの? 彼がそう言っているだけじゃない。データだって適当に作れるわ。さっきの崖崩れだって偶然で、ごく普通のことじゃないの……?)
 グッディの強ばった表情を見て、ヒラ・ラルは微苦笑を浮かべた。
「そうでなければ意味がない……君は、〈柱〉の一族を知っているだろうか」
「〈柱〉の一族?」
 聞いたことのない言葉だった。ヒラ・ラルは再び世界の果てに視線を戻した。
「彼らは世界と世界を支える〈回廊〉を創造している一族だ。〈回廊〉は世界間が衝突するのを防ぎ、被害を最小限に食い止めている」
「世界を支える……」
 グッディは呟いた。世界が滅ぶ。世界を支える。まるでおとぎ話だ。いつからこんなに世界は軽いものになってしまったのだろう。大体、なんだ、世界を支える一族とは。「世界が滅ぶのは崖崩れの延長」は、まだ実体のある言葉に聞こえる。だが、世界を支える? しかも人間が?
 世界はいつから人間よりも軽いものになってしまったのだ。
「それは……人間ですか?」
 口から本音がこぼれた。ヒラ・ラルはその問いは当然だとばかりに、
「彼らは神だ。人にそんなことはできない」
「……」
 グッディは答えなかった。ああ、そうか、と妙に納得しただけだった。ではこれは神話の再来なのだ。現実ではない。
 現実でないものの中に、自分は取りこまれそうになっているだけか。
「彼らなら世界を滅びから救うことができる。その証拠に、世界の崩壊はほかの世界でも起きているのに、〈柱〉の一族がおわすエルシア世界とエフタ世界だけはその兆しがない。その力の作用が強く働いているということだ。
〈柱〉は二世界だけでなく、『二十三世界あまねくすべての世界のもの』と交わされた協定は、すでに無意味なものとなり果てた。〈柱〉をすべての世界に置くべきだという意見も、人数問題を盾に聞き入れない。エルシアは滅びの予言からおのれだけが助かろうとして、〈柱〉を監禁しているのだ。だから、私たちは――」
「少将!」
 ヒラ・ラルの言葉が遮られる。振り返ると、車で待機していた運転手が崖を登ってきた。彼は切迫した様子で、
「少将、ジョイワールから緊急連絡です! すぐにお戻りください!」
「なにがあった」
 相手の焦燥を静める悠然とした声色で、ヒラ・ラルは問い返した。運転手はグッディを気にしながら、
「ジョイワールでなにか大変なことが起きている模様です。無線では詳しく分かりませんでしたが、ゾルガヴァ作戦に問題が生じたようですっ」
「分かった、すぐ戻る」
 平然とヒラ・ラルは答えたが、やはり心中穏やかでないらしく、わずかに口元が歪んだ。ゾルガヴァ、北部の神話に出てくる鏡の扉の名前だ。
 ヒラ・ラルがグッディにすまなそうに、
「申しわけないが」
「大丈夫です」
 小声で、だが自分でも意外なほどはっきりとグッディは答えた。もう帰りたかった。現実に帰るのだ。神話を語る時間は終わりだ。ここを離れれば現実が戻ってくる。世界が滅ぶなんて夢想を忘れるのだ――
「?」
 ぱちん、とかすかな破裂音を聞いて、山を下りようとしたグッディは足を止めた。先をゆくヒラ・ラルと兵士はなにも聞こえなかったようだ。
 気のせいかと足を動かそうとして、再び、ぱちん、と聞こえる。とても近い。そして痛い。まるで剥きだしの腕に小石でも投げつけられたような。それとも、栗が炉ではぜている?
「グッディ?」
 彼女の戸惑いに気づいたヒラ・ラルが尋ねる。グッディは腕をさすって、
「今、なにかが……」
 彼女は空を仰いだ。直感が彼女を捕らえ、ジョイワールがあるとおぼしき内陸へ視線を走らせる。
 そして。
 空に花が咲いた、そう思った。
「うわっ!」
「なんだ、あれは!」
 兵士たちが驚愕する。ヒラ・ラルも瞠目したが、さすがに声は上げなかった。
(ああ……)
 グッディは心の中で唸った。
 ジョイワールがあるとおぼしき地平の向こう、目の覚める蒼穹に今、巨大な禍々しくもあでやかな紅の花が咲いている。それは噴き上がる泉のように広がり続け、空を覆い尽くそうとしていた。
「ジョイワールの方角です!」
「少将、あれは一体!?」
「落ちつけ」
 パニック状態に陥った兵士たちをヒラ・ラルが鋭い声で諫めた。
「火事かなにかだろう。ジョイワールの火事がここまで見えるわけがない」
「そ、そうですね」
「すぐにジョイワールに帰ろう。道すがら火事の様子も見ればいい」
「はいっ」
 慌てて兵士たちは崖を下っていく。
 行ってはいけない。グッディはしゃがみたい衝動を必死にこらえた。
 誰も気づかないのだろうか。あれは火事などではない。
 あの花の奥に潜む、異様な口が見えないのだろうか。
 世界があの口めがけ、吸いこまれ、分解されていく。その為に歪んだ空間が赤の濃淡として現れ、屈折した光は偏光して赤から紫にかけたグラデーションとなって、見る見るうちに蒼穹を侵食しているのだ。
(あれは……あの口は……)
 世界が滅びる。
 その言葉が現実のものとなる一瞬だった。神話が現実に変換した。
 世界は滅びる。あれはその前兆だ!
「おい!」
 思わずしゃがみそうになった彼女の腕を、兵士が掴んだ。どうしたのだと問う不審顔。
「気を抜くのは車に戻ってからにしろ。置いてくぞ」
「あ……」
 兵士の肩越しに見える空は、やはり赤い染みに浸食されつつあったが、あの不気味な唇は目を凝らしてもどこにも見えなかった。
(錯覚?)
 色の濃淡が偶然そう見えたのかもしれない。グッディは兵士に追い立てられ、よろめきつつ崖を降りた。
 錯覚だ。唇の化け物なんて、そんなものがいるはずがない。いないものは見えない。そう自分に言い聞かせ、グッディは覚束ない足下へ注意を集中させ、忘れようとした。だが、胸中にべったりと塗りつけられた不安はどうしても拭いきれなかった。
 そしてその不安は、車に乗っても薄れず、長い沈黙の道中でさらに掻き立てられていった。ジョイワールに帰れることを考えれば気分も楽になると思ったが、次第に胸が圧迫され、息苦しさが加わってきた。
(なにかしら……うまく呼吸ができない)
 息を吸うより吐く回数の方が多い。空気がいつもより濃いように感じられる。赤く染められた大気はいつもの空気と違うのだろうか。これが不安の表れなのか、だからこそ不安になるのか、グッディには分からなかった。分かるのは、ジョイワールには帰りたくないということだ。
(帰りたくない。帰ったらいけない)
 車が故障でもしてくれないか。そう祈ったが、なにごともなく基地に着き、飛行機も手間取ることなく首都に向かって飛び立った。行かないでくれ、そう口にするのは容易いが、彼女の言葉を男たちが聞き入れてくれるとは到底思えなかった。
 空はますます色を濃くし、日が落ちたあとの闇と夕焼けが混ざりあった、不吉な赤黒い彩りへとなっていく。窓から差しこむ光も赤く、日に照らされたショールも真っ赤に染まって、グッディは両手を組んで懸命に不安をこらえた。
 もはや火事などではないと、同乗する誰もが分かっていた。だが、口にしなかった。ジョイワールでなにか恐ろしいことが起きているのだ。
 飛行機はジョイワールのはるか手前で降下した。コクピットから戻ってきたヒラ・ラルが、怯えるグッディに、
「天候不順でジョイワールに着陸できない。ドスガに降りてヘリに乗り換えるが、君はどうする。ドスガで待っているかい」
「……」
 グッディは首を振って否定した。ジョイワールに行きたくない。だが、こんな知らないところに一人だけ置いていかれる方が、よっぽど怖かった。ヒラ・ラルは頷いた。
 混乱極める基地から、速やかにヘリに乗り換えて飛び立つ。ヒラ・ラルの動きには無駄がなかった。それでもなお、引き返してくれないかと祈った。
 沙漠を過ぎ、河を渡り、山を越える。まばゆい光が瞼を照らし、グッディは顔を上げた。
 眼下に水面が広がっている。タンガーガ湖だ。
「すげえ……」
 傍らの兵士が呆然と呟いた。フロントガラスの向こう、はるかな湖岸に、ジョイワールの赤茶けた街並みが見えた。その中の、もっとも湖に迫りだしたひときわ大きな建物、ジョイワール王宮の上に今、逆円錐形の竜巻が生まれている。竜巻といっても、回転している様子はない。渦を巻いた紅の空気が王宮上空に滞っているのだ。まるで写真のようにそれは動かないが、しばらく見つめていれば微妙に変化し続けているのは分かる。
 そして、その渦に引きずられて周囲の空間がひずんでいる。視界が蜃気楼のように揺らめいている。
(ああ……あのときと一緒だ)
 淳に連れられて執政殿を見にいったときも、同じものが見えた。見えざる炎に執政殿は包まれ、不安定に揺れていた。
 あの炎がついに空に向かって吐きだされたのだ。
 ヒラ・ラルを見る。彼の視線も窓に釘づけだった。さすがに表情は険しいが、取り乱したりはしていない。
 彼はあれがなんなのか、分かっているのだろうか。
 ヘリが大きく左に傾いた。
「左から大きなポテンシャル! 駄目です、直進できません!」
「迂回しろ! 右から進入、ハブドラに向かえ!」
 ヘリの爆音に掻き消されぬよう、怒号が飛び交う。グッディは必死にシートベルトにしがみつき、窓の外をなんとか見ようとした。
 その視界に、走る男の影。
(えっ……!?)
 慌てて目を凝らすと、幻影は消え、冷たい炎を噴き上げるジョイワールを映す窓が見えるきりだ。
 二度目の大きな揺れがきて、グッディはシートベルトに激しく引き戻された。焦点がぶれた途端、再び走る男の影がヘリの光景に交じって映りこむ。
 その男の後ろ姿には見覚えがあった。
「父さん!」
 悲鳴を上げる。やはり振動をこらえていたヒラ・ラルが、驚いた面もちで彼女を見た。だが、それにかまっている余裕はなかった。
 グッディの視界に紛れこんできた景色、それは走る父の姿だった。まるで投影機で映しだされた映像のように、焦点を虚空に合わせた彼女の視界に重なって見える。彼だけではない、周囲の景色も見えた。意識して焦点をずらしていないと、また見失ってしまう。
 スループ・ウッディンは走っていた。兵士か学者か知らないが、何人かが彼のあとを追っている。場所は王宮のどこかだ。
「グッディ、どうした。博士がどうしたんだ」
 ヒラ・ラルが彼女の手首を掴んだ。だが、それを振りほどく。注意を削がれたら見えなくなってしまう。なぜこんなものが自分に見えるかは分からない。だが、父親の姿を見失ってはいけない。
 スループが走る。長い廊下を。揺れる廊下。違う、揺れているのはヘリだ。スループが座席にぶつかる。いや、すり抜ける。追いかける彼女の視界。現実と幻が混在する。
 大きな扉が迫る。不吉に歪んでいる。直線が波打っている。ヘリではない。あの扉は歪んでいる。それに駆け寄るスループも藻のように揺らめいている。
(だめ。その扉を開けてはだめ)
 彼らは気づかないのだろうか、あの扉の不吉な色に。だが、グッディの祈りも虚しく、スループたちの手によって扉が開かれる。
 その扉の奥に。
「大きな……水槽……?」
 我知らず呟いたグッディの言葉が聞こえたのか、ヒラ・ラルの頬がぴくりと引きつった。それにグッディは気づかない。
 大きな水槽だった。奥行きはほんの十数センチしかないのも見てとれた。薄く平べったい、壁のような水槽。仕切り代わりのインテリアかも知れない。王宮にはそういった実用的でないものが多くある。
 だが、なみなみと注がれた水はなんだろう。水というにはあまりにも青い。湖の青は空を映しているもので、本来の水は無色透明なのだと聞いたことがある。なのに、あの水槽は室内にあるのに、まばゆいばかりに青い光を放っているではないか。波打ち、暴れる光の水。そう、まるで空そのものを封じこめたように。
 水槽の前で立ち尽くすスループ。一緒に来た者たちが手を振り、大慌てで水槽の支柱へと駆け寄る。なにかをいじっている。
 水槽が、ぶくりと膨らんだ。内側から強く重い力がかけられている。
 破裂する。
 グッディは破壊の予感に絶叫した。
「だめ! 父さん逃げて! 破れるわ!」
「グッディ、なにを視ている!?」
 ヒラ・ラルが怒鳴るのと、水槽が突き破られるのと同時だった。
 質量のない水が一気に噴きだし、飛び散る。スループが怒濤に呑みこまれ、そして、その奥から、巨大な、透明で巨大なものが――
「!」
 二重の視界が凸状に膨れた。見えない力が吹きつけ、彼女の意識もそれに激しく叩きつけられ、悲鳴を上げる。わずかに遅れ、冷たい炎を上げていた王宮が爆発、その衝撃波が街を、湖を、空を、そしてヘリを襲った!
「きゃっ……!」
 ヘリが物理的に潰される。迫る天井を見えなくなった目で感じ、グッディは恐怖に悲鳴を上げ続けた。プロペラが動かなくなるのを音で知る。機体が失速する。いや、飛ばされている。爆風に煽られ、飛ばされていく。
 世界が暗転する。



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