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 コオーン……
 そこは青の空間だった。なにもない、青い波長の散乱に埋め尽くされ、ほかのなにもが消されてしまう。ときおり空間がたゆたい、歪んだ虹が生まれるが、それもすぐに消えていく。
 そこに今、少年と少女が座っている。
 右も左も上も下もない茫漠たる無の空間に、あたかもそこに床があり、手触りのいい絨毯が敷かれているかのように、二人は座っている。
 少年は切り揃えられた漆黒の髪に、すべての光を閉じこめる深海の色の瞳を持っている。片や少女は、振れば光をこぼしそうな銀の髪に、なにものをも見透かす深遠な青の瞳だ。二人は対照的な彩りを持ちながら、造作はよく似ていた。まるで双子のように対になっている――そう、実の双子よりも。
 少年の名は霊峰。少女の名はアリーヤ。住む世界は違えども、ともに〈柱〉の一族に属し、将来を約束された相手である。
 アリーヤは唇に薄く笑みを掃き、霊峰の手元を見つめていた。
 コオーン……
 世界の裏側、〈真空の海〉独特の、純然たるエネルギーの偏りが波打つ反響音が聞こえる。
 霊峰が水面に触れるように、空間に掌を広げる。その下に光の軌跡が生まれ、一つの地図を描いていく。完成すると、二人はしばらく地図を見つめていたが、ふと霊峰が顔を上げ、
「ああ。口にするのだったな」
「練習にならないわ」
 くすくす笑うアリーヤ。
 霊峰が地図に描かれた東の大陸を指す。
「次はここだ」
「……」
「その次はこれだな」
「もう前兆が?」
「出ている。カマラほどではないが」
 そう答え、霊峰も薄い笑みを浮かべた。アリーヤが地図にたおやかな指を伸ばす。
「その次は、これね」
「そうだ」
「そろそろね」
「そろそろだ」
 くすくすと笑い続ける二人。
 声は〈海〉を震わせる。
 干渉しあう波として、さざ波が広がっていく。

       ※

 酒を飲めば人は気が大きくなるが、同時に気が大きくなった自分を他人に認めてもらわずにはいられないものである。だから、酒場はおだを上げる酔っぱらいで満ち、騒々しいことこの上ない。安っぽい樹脂塗装のカウンターに突っ伏している男も、そのうちの一人だった。
「ちくしょう……なんだってんだ。いい感じだったのに……いっつも、いっつも、どうしてうまくいかないんだ……」
 両手で神経質そうにグラスを握り、ぶつぶつと呟き続ける。彼もまた誰かに聞いてほしくて管を巻いているのだが、酔っぱらいはまた自分の話にしか興味がないものである。だから、「どうしたんだい」と興味を持ってくれる者はいなかったが、
「ようよう、なあに暗い顔して呑んでんのさ。たかが女にふられたくらいでくよくよすんなよ。俺なんかなあ、女房に逃げられ、娘にゃあ愛想尽かされ、人間の屑街道を驀進中なんだぞお」
 彼に興味あるふりをして、強引に自分の話を聞かせようと絡んでくる者はいた。
 カウンターに額を押しつけていた彼はのろのろと顔を上げ、絡んできた男を仰いだ。服装が若いので四十前後と思ったが、刈りこんだ金髪はよく見ると白いものが多く混じっていて、五十過ぎかもしれない。白目と歯は揃って黄色くなり、日に焼けた顔は無精髭が生えて、お世辞にも身ぎれいな男ではなかった。だが、押しつけがましい好奇心に満ちた笑顔は、妙に人を引きつけるものがあった。
 彼は警戒しながら、自分の不運をぶちまける相手を逃がすつもりもなく、
「あんた誰だ?」
「俺さまを知らねえのかい、新顔だな。俺さまはラズーだ。墓守のラズーってのは、俺さまのことだよ」
 子供のように胸を張って名乗るラズー。顔にはあまり出ていないが、かなり酔っぱらっているのかもしれない。手にした酒瓶の中身はなくなりかけている。
 彼は目をすがめて、
「墓守……? 気分のいい通り名じゃないな」
「なんだ、おまえ山師じゃねえのか」
 拍子抜けしてラズーは言った。どうやらこの男は山師らしい。この近くに小さな金鉱脈があるという噂を彼は思いだした。
「こんなド田舎に来る奴あ、山師と山師相手の汚ねえ化粧ばばあか、いかれたバーテンダーくらいさ。なあ、マスターよ」
「そのいかれたバーテンの出す酒を飲むあんたらは、もう脳味噌が腐ってるんだろうよ」
 カウンターの中のマスターがバケツのようなグラスに地酒を注ぎながら、彼らを見もせずに言い返した。ラズーは「違いねえ」と、げたげた下品な笑いを上げる。
「で、この通り名の謂われは、俺さまが入った山は必ず事故が起きるからなのさ」
「不吉な奴なんだな」
「違う違う、俺さまはスペシャルウルトラ大幸運の持ち主ってことよ。隣、座るぜ? つまり、どんな事故が起きても、俺さまだけは助かるってことさ。俺さまと一緒にいりゃあ、九死に一生を得るどこか、十生でも二十生でもぼろ儲けってもんよ」
「なのに、嫁さんには逃げられる」
 マスターが片づけものをしながら呟くと、勝ち誇っていたラズーが顔面をしわくちゃにした。自分で言うのはいいが、他人に指摘されるのは傷つくらしい。それも酔っぱらいの特徴だ。
「そうなんだよお、なんであいつめ逃げやがるんだよお。チャナもチャナだ、あんな言い方しなくてもいいじゃねえか、ダディに向かってよお」
 酒瓶を抱えておいおいと――多少わざとらしいが――泣くラズー。実は泣き上戸なのかもしれない。
 しばらく眺めていると、急にラズーが体を起こし、据わった目つきで彼を指した。
「おい、俺さまがこんなに話を盛り上げてやってんのに、なんで無視してやがんだ? なにか言ってみろよ、おい」
「……俺は、女にふられたわけじゃ、ない」
「んあ?」
「俺は、一つの偉大な挑戦を試みて、そして挫折してきたばかりなんだ。女なんかにかまってられん」
 ぶっきらぼうに反論すると、ラズーはようやく彼自身に興味を持ったようで、身を乗りだした。
「偉大な挑戦だって? いいねえ、若い奴は。まだ時間はたっぷりあるってとこか? 俺さまなんか老い先短えから、つい子孫繁栄、生めよ増やせよ、俺さまの染色体よすべての出会う女に満ちよって焦っちまってねえ」
「時間はない。俺も年を取りすぎた。革命をやるにはもうあと一、二年が限度だ」
 彼はグラスから手を離し、拳を握った。
 彼は年を取りすぎた。今回の作戦でそう自覚した。なにも作戦が失敗したからだけではない。実際、新しく集めた若者たちとともに幾日か過ごし、体がついていかなかった。昔は何日でも徹夜できたのに、緊張漲る作戦前夜でも疲労には勝てなかった。走っても置いていかれる。息切れする。
 いつだって先陣を切って走っていたのに、足手まといになりつつある自分におののいた。
 こんなはずではなかった。こんなに年を取るつもりではなかった。
 本当ならもっと早くに革命闘士の華と散るはずだった。でなければ、革命は終わり、彼は新たな指導者の一人として国家を運営しているはずだった。机の前で、うずたかい書類に「少しは休ませてくれよ」と秘書に愚痴っているはずだった。
 こんな三十八にもなって、猿のように山に潜み、ネズミのようにこそこそと逃げなくてはならないと、あの若いとき誰が想像しただろうか。誰もがこんなことを二十年も続けるなんて思わなかった。そして、誰も続けていない。皆、夢破れ引退し、あるいは華々しく散って歴史に名を刻んだ。
 それなのに、自分だけが続けている。
(あと二年……いや、一年か? 四十にもなって革命なんて青い理想を追えるだろうか。いや、青い理想に体がついていかない……)
 気持ちはいつだって闘う戦士だ。だが、確実に体は衰えていく。もう人生の半分を革命闘争に費やし、ほかの生き方を知らない。
 今回は成功するはずだった。作戦は完璧だった。この不安から――いつか足がもつれ、逃げ延びることができなくなる――抜けだすはずだった。
 なのに、
「どうしてうまくいかなかったんだ……完璧だった……理論は完璧だったのに……!」
 爪を皮膚に食いこませる。
 ラズーはカウンターに寄りかかっただらしない姿勢で、憮然と彼を眺めていたが、
「よく分かんねえけどよ。その革命とやら、おまえさんが音頭取ってたんかい?」
「……」
 彼はラズーを睨んだ。迂闊なことを言えば警察に連絡されかねない。こんなド田舎の山師が、彼の名を知っているとも思えないが、どこでどんなニュースをやっていて、彼が見ていないとも分からないのだ。
 ラズーは酔っぱらいのあるべき態度として、彼の沈黙は気にせず言葉を続けた。
「もしそうなら、そらあ失敗すると俺さまは思うぜ」
「……どうしてそう思う?」
「理論は完璧だったんだろ? おまえさんにあるのは理論だからよ」
 回りくどいラズーに彼は顔をしかめた。ラズーは喉を上下させて笑い、彼の鼻先に人差し指を突きつけた。
「おまえさんにゃあカリスマ、人の上に立つ資質ってもんがねえ。理論が破綻しちまうと、どうしていいか分かんねえだろ? カリスマがある奴あ、考えどおりにいかなくてもなんとかしちまえるんだ。そういう才能があるんだ。だから周りの奴も、失敗しても失敗してもついてこうって気になる。いつかどうにかなるって思えるからよ。おまえさん、失敗したらそこでおしまいだろ? また一から新しく始めなきゃなんねえだろ?」
「……」
 彼はなにも言い返せなかった。まさにそのとおりだった。
「おまえさんはよ、革命屋なんだよ。革命家になるにゃあ、ちっと頭が良すぎるのさ。頭が回って、野生の本能ってのが利かねえんだ。残念だな、パズスパなのによ」
「!」
 彼は――マルキオは椅子を蹴倒して立ち上がった。一瞬店中が静まり、椅子が倒れただけと知れると、再び喧噪が始まる。
 顔を蒼白にして立ち尽くすマルキオに、ラズーはゲラゲラ腹を抱えて笑った。ただの酔っぱらいではない。ただ者ではないが、しかしながら酔っぱらいであることは間違いないようだ。
「まあ座れ、革命闘士くんや。そんな顔色変えるなら、今時分に革命がどうのこうの吹聴するもんじゃあねえよ」
「……」
 これ以上周りの視線を集めたくないので、彼は用心深く腰を下ろした。ラズーはしまりのない笑顔のまま、
「あれだろ、やっぱマチェスターの騒ぎに参加して逃げてきたってパターンだろ。ルボルドは昔っから負け犬が流れてくるとこだからな」
「……じゃあ、あんたも負け犬なんだな」
「おうとも。俺さまは人生の負け犬だとも!」
 あくまでも威張り散らすラズーだが、一瞬あとにはテーブルに突っ伏し、「チャナよおお」とさめざめ泣く。感情の起伏が激しい男だ。周りにも「やれやれ」と呆れた空気が流れているので、この騒ぎは毎度のことなのだろう。
 マルキオは自分のグラスを手にした。ほんの少し力を入れただけでガラスのコップは粉々になってしまう。パズスパの力だ。マチェスターでも三発の銃弾を受けた。すでに傷口は塞いでいる。
 それでも、革命には役に立たなかった。肉体は確実に、そして急速に衰え始めている。
「……どうすれば」
「うあ?」
「どうすれば、負け犬にならずにすむ?」
「そりゃ、革命なんてやめちまえばいいのさ。そうすりゃ負けるこたあなくなる。勝つこともねえけどな」
 片目をつむってみせるラズー。マルキオはため息をついた。抜本的解決というわけか。
「それがイヤなら、おまえさんは一線を退け」
 顔を上げる。ラズーは酒焼けした顔をにやにやと緩ませ、彼の反応を眺めていた。
「おまえは革命屋だ。革命家を支える裏方だ。それを取り違えるから失敗するんだ。だから、おまえさんがやるべきことは、革命家を探すこった」
「革命家……」
 マルキオは譫言のように呟いた。その言葉が彼の欠けていた理論の隙間に、すっぽりとはまる気がした。やはりそうか、そう結論づけた。
 グラスの中身を一気にあおり、立ち上がる。足下がふらついたが、このくらいのアルコールはすぐに分解する。
「参考になった。あんたも早く奥さんと娘さんが帰ってくるといいな」
 そう言い渡し、金を払って店を出ていく。
 ラズーは重たい瞼でマルキオが去った跳ね扉を眺めていたが、ふいに「へへっ」とにやけると、
「あんなもんでいいんかい、スーツさんよ」
「いやあ、助かります」
 すぐ後ろのテーブルに座っていた男が立ち上がる。目の細い男だった。容貌は若いが、背を丸め気味なのでどことなく年寄りくさい。ぼさぼさの黒髪によれたスーツの、いかにも売れない営業マンといった風体は、うらぶれた鉱山町の安っぽいバーにはよく合っていた。
 彼は自分の酒瓶を持って、ラズーの隣に座った。
「あれだけ落ちこんでると、私が言っても効果ないでしょうからねえ。見知らぬ人間の頼みを聞いてくれて、本当にありがとうございます」
「なあに、見知らぬ人間に酒を奢る奇特な奴にゃあ、親切にせんと罰が当たるからな」
 ラズーはそう言って、差しだされた酒を早速自分のグラスに注いだ。
「それにしても、あれが今をときめくマルキオ・マヨルカとはねえ」
 一気に飲み干し、二杯目を注ぎながら、感慨深くラズーは呟いた。目がうっとりと潤んでいる。
「奴も老けたな。ニュースの写真が十年前から変わんねえのが悪いんだけどよ」
「気弱になりますね。人は年齢の話をすると」
「かっかっか、人間はあ五十過ぎてからよ。って自分で言って自分慰められるのも五十からさ。奴あまだまだだね、あんな話でやる気取り戻せりゃ、まだまだ若造よ」
「彼のようなタイプはインテリであることにコンプレックスを持ってるんですよ。絶対なんてあり得ないって分かっているから、迷いが生じてしまう。でも、迷いがあるから失敗するともちゃんと分かっている。そこら辺がコンプレックスなんでしょうねえ。だから、野生の勘に憧れちゃうというわけで」
「はん、頭を無駄に使ってやがる」
 ラズーは二杯目も喉に流しこんだ。舌で味わわず、喉ごしと胃の焼けつきだけを楽しむ飲み方だ。ますますとろんとしてきた目で男を眺め、
「それにしても兄ちゃんはマヨルカのなんなんだい? やっぱり革命闘士のお仲間かい。今どきの闘士はよれたスーツで戦うもんなのか」
「それは教えられませんねえ。これから氾科研に入ろうってヌニェスには」
 胡散臭い爽やかな笑顔で男は断った。ラズーも笑顔を崩さない。
「あなたこそ、どうして助言役を引き受けてくれたんです? 敵を活気づかせては、これからの仕事に差し障るでしょうに」
「俺さまは誰の味方もしねえよ」
 手を振るラズー。
「俺さまは騙されたんだ。あいつに貸し作ったつもりなのに、俺さまに押しつけやがって。契約が切れたらとっととおん出てくるさ、氾科研なんか」
「でも、パズスパはヌニェスの天敵だって聞いてたんですけどねえ」
「酔っぱらいに敵も味方もあるか。そうさな」
 ラズーは少し考え、にやりと口端を吊り上げた。
「俺さまは酔っぱらいの味方よ。昨日の敵は今日の酔っぱらいさ」

       ※

 数日前、カマラ世界――

 その日も空はいつもと同じように青く輝いていたが、あまりにも眩しくて、グッディ・スループは窓に背を向け、縮こまっていた。
 彼女を乗せた車は未舗装の悪路を進んでいく。車体が弾むたびにあちこち体をぶつけたが、彼女は身動きする余裕もなく、シートにしがみついて時が過ぎるのをひたすら待っていた。
 どこへ連れていかれるか分からない不安を、懸命に臓腑の奥に押しこめる。不安を口にしても意味はない。彼女は連れていかれるしかないのだ。
 車には彼女と運転手、そして一人の兵士とヒラ・ラル少将が乗っている。
 ヒラ・ラル――半月前、クーデターによって王権を倒し、軍事政権を打ち立てた人物だ。グッディの兄ウスマーン・スループの上司であり、父スループ・ウッディンの教え子でもあった。
 その彼がグッディを王宮から連れだしたのは昨日の夜のことだ。監禁されていた彼女に「あなたに見せたいものがある」と、有無を言わさずヘリに押しこんだ。有無もなにも、彼女に逆らう権利はなかったのだが。
 初めて乗るヘリは怖くてたまらなかった。体が宙に――機中とはいえ浮いているなどと考えただけで、次の瞬間には真っ逆さまに墜落しそうで、乗っている間は聖句を唱えているしかなかった。闇夜を飛んでいるので、景色を楽しむということも思いつかなかった。
 タンガーガ湖岸の基地で小型飛行機に乗り換え、そして今朝、辺境の基地でさらに車に乗り換えて南に向かってひた走っている。
 ヒラ・ラルはときおり無線で王宮と連絡を取りあっていたが、それ以外は沈黙していた。ほかの二人もそうだ。グッディに話しかけてもこない。ただの小娘にはひどく場違いだと分かっていたが、それでも王宮にいるよりは随分ましだと、彼女は自分を慰めた。
 王宮を脱走しようとした彼女に、いちばん厳しかったのは兄だった。何度も殴打された。いつも彼女に下品な言葉をかけてくる監視兵が青ざめて、ウスマーンを止めるほどだった。実の妹に対してやめろと。
「実の妹だからこそ! 恥ずかしくてヒラ・ラルさまに会わす顔がない! ここまでおまえの為にしてやったのに、スパイと逃げようとするとは、その性根を叩き直してくれる!」
 グッディは顔が腫れ上がり、それが引くまで三日かかった。今でも顔中の青痣は消えていない。ショールをさらに深くかぶり、誰にも顔を見せられない。
 もはや逃げようなんて気も起きなかった。前よりもさらに監視の厳しくなった部屋に、一日中閉じこもり、ベッドの隅で膝を抱えて過ごした。逃亡なんて自分には大それたことは無理だったのだと、女はこうして縮まって生きるべきなのだと、言い聞かせて。
(ジュン……)
 唇を噛みしめる。
 彼女に外へ出ようと誘った少年は、異世界のスパイだった。そんな予感はあった。伊達や酔狂で王宮に忍びこんでくるはずがないと。だが、会えた喜びが大きくて、喜びを失いたくなくて、気がつかないふりをしていた。
 そして、彼女は彼が逃げる楯にされた。
(騙された)
 仲良くなれる気がしたのに。違う自分になれる気がしたのに。
 永遠に走り続けると思われた車が大きく揺れ、停止した。舌こそ噛まなかったが、不意打ちを食らったグッディはバランスを崩し、隣の兵士の上に倒れこんでしまった。
 慌てて身を起こしてショールをかぶり直す。どうやら崖に行く手を阻まれたらしい。ドアが開き、先に外に出たヒラ・ラルが彼女に手を差しだした。
「この先は歩きだ。来たまえ」
「……」
 のろのろとその手を掴み、外に出る。日差しの強さに目がくらみ、彼女は貧血を起こしそうになったが、我慢した。これ以上誰かに迷惑をかけて、殴られるのは嫌だ。
 それにしても、なんという暑さだろう。グッディは天を仰いだ。目が痛いほどに空は青い。都市の薄汚れた大気の下から見る空は白んでいるのに、ここの空はあまりにも原色に近く、濃密だ。人の汚れがまるでない。
 振り返っても赤茶けた荒野が広がるきりで、町や村らしき影はどこにも見当たらない。湖や茂みすらない。そして、目の前には丸裸の崖が立ちはだかっている。
 一体どこまで来たのだろう。王都――今や王は追われ、単なる首都となったジョイワールから、どのくらい離れているのだろう。少なくとも雨林地帯である北部ではなく、南部の乾燥地帯に来たぐらいは分かるが、それ以上はグッディには判断できなかった。
 ヒラ・ラルを見ると目が合ってしまった。急いで視線を逸らし、うつむく。サンダルから覗く自分の爪先が見えた。クーデターの前に塗ったペディキュアが剥げて、ひどく見すぼらしくなっていた。
 できるかぎり誰かと口をきいてはいけない。失礼なことをしてはいけない。
 女は男のやることに口を挟んではいけない。
 ヴェールに顔を隠す彼女を、恥ずかしがり屋、或いは貞淑な娘とでも勘違いしてくれたか、ヒラ・ラルはほほえむと、
「長い間座っていたから疲れたかな」
「……」
 小さく頷く。ヒラ・ラルも頷き、彼女の手を握ったまま崖に向かって歩きだした。兵士が同行し、運転手は車で待つ。
 崖は世界を断つように、左右に延々と伸びていた。緩い弧を描き、果てがない。まるで盆の縁のようだ。
(いいえ、ここはまさか)
 その予感にグッディは怯えた。まさか、と自分の直感を強固に否定する。そんなはずはない。あそこは何人も立ち入りできない。政府と軍の管理下にあって、一般人が近寄ることは不可能なはずだ。
 ああ、でも、自分の手を引く青年は、今やクーデター政府を動かす主導者ではないか。
 崖の谷間を登り始めてすぐ、軍の名で立ち入りを禁じるゲートが現れた。それを越えると、道はいよいよ細く、完全な山道になる。
 ヒラ・ラルは通い慣れているらしく、躊躇することなく進む。踏みしめられた痕跡もあり、傾斜がきつい場所には縄ばしごが垂れていて、もうここには何人も足を運んでいることが分かった。
 山登りなどしたこともないグッディは四苦八苦しながら、なんとか一人で崖を登った。手を煩わせてはいけないと思ったのだが、途中の休憩で、兵士に、
「なんとも勇ましい娘だ」
 と皮肉混じりに感嘆されてしまい、羞恥でグッディは顔を上げられなくなった。どうしていいか分からずうつむいていると、ヒラ・ラルが、
「これからの女性は一人でなんでもできるようになるべきだ。女性は力の面では男性に劣るが、知能の面では変わらない。逆に女性の方が勝る場合もある」
「そうでしょうか。俺は、やはり女は愚鈍で、男が導き守らなければならないものだと思いますけどね」
 部下は不満そうだ。グッディは不思議な心地でヒラ・ラルの言葉を聞いた。そんな風に男と女が同等だと言われたことは今までなかった。
「今まで女性は男性にその能力を抑圧されてきたんだ。彼女たち自身も、自分たちは男に劣るものと思いこまされて、自ら抑圧していた。その力を解放してやれば、我々の大きな助けとなる」
「女の力なんか借りなくても、私たちだけでできます、少将」
「その考え方こそが抑圧の素だ。私たちは貴族の横暴から国民を救った。なら、男性の抑圧から女性を救うのも同じだ。いいかね、人間の半分は女性だ、我々を生み育む女性に、男はもともと敵うはずないんだ。だから、私は彼女たちを味方にしたい」
 言い切るヒラ・ラルに部下はまだ釈然としない様子だったが、反論は引っ込めた。
(不思議な人……)
 グッディはヒラ・ラルの若々しい横顔を見つめた。彼の喋り方には兄のような高圧的なところはない。相手に説明する様子は政治家というよりは、教師のように丁寧で優しく、辛抱強い。この口調で彼は仲間を説得し、多くの協力を得、クーデターを起こしたのだろうか。
「私たち男はか弱き女性を助け、そして、彼女たちの支えを必要とする。性差に限ったことじゃない、どんな立場の者も助け助けられ、互いに進歩することこそ、これからの私たちの社会に必要なことだ」
「そ、それは勿論ですっ」
 頬を紅潮させて兵士は答えた。ヒラ・ラルはそんな部下を優しいまなざしで眺め、それから、ぼんやりと彼を見つめていたグッディにほほえみかけた。初めて会ったときと同じ、自分の主張に確信を持った、だが相手をねじ伏せるのではなく、静かな自信に満ちた笑み。
 どうやったらこんな風に自信を持つことができるだろう。グッディは視線を逸らすことがためらわれ、ヒラ・ラルと見つめあった。
 彼の言うとおり女も男も能力は同じなら、自分も彼のように自信を持てる言葉が見つかるだろうか。言葉でなくてもいい、なにか、そうだと信じて疑うことのないなにかが。
「行こう、もう少しだ」
 差しだされた彼の手を握るのに、なにを戸惑うこともなかった。



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