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 国防省はフリンカム市の北、ネルン山脈からレタ海に流れるヴァナヴァラ川に面したところにある。少し下流に行けばフリンカム長距離空港があり、さらに先には河口があって、目の前にはウプタナ湾が広がっている。近くには軍港も軍空港もあり、立地としてはまずまずの場所だ。
 広い敷地の中心には他を威圧する黒色の、どっしりと堅牢な現代の城塞――三軍を総括する国防省の建物がある。周囲を城壁ならぬ高い塀と、物々しい警備が覆い、関係者以外の侵入を固く拒む。むろん、対ヌニェス妨害シールドも濃密に張られている。
 その国防省の建物の一室で、ファイス・バルト陸軍少将はうずたかく積まれた書類と情報チップの処理に追われていた。
〈干渉〉から一週間。北セファーンでの救助活動が一段落ついた今、実務指揮を執った彼の元には、報告業務が次から次へと舞いこんでいる。昨日まで現地で指揮を執り、国防長官や統一議会の議長の視察につきあい、休む暇もなく働いたと思ったら、この事務作業だ。誰だって不満の一つは言いたくなるが、彼は黙々と仕事をこなしていた。
 今年四十七歳になるファイスは、銀の髪と青い瞳を持つ、目つきの鋭い男だ。胸幅が広く、服の上からも見てとれるがっしりした体は、いかにも軍人然として威圧的である。鼻筋が母親に似ていると言われるが、全体の雰囲気は親には似ず、どちらかというと末の妹に似ていると言われる方が多かった。
 彼の両親とはマティス皇帝、夏也皇后であり、末の妹とはマリア皇女のことだ。
 皇帝夫妻の長男として生まれながら、柱力(ユマ)を持たなかった為、ファイスは二十のとき芙蓉の宮を出て民間に降りた。その後、奨学金を得て大学を卒業、軍に入隊し、現在に至っている。
 元皇子としての彼の立場は軍の中でも微妙なものだが、彼はさまざまな憶測に負けないよう努力してきたつもりだし、少将の地位も自分本来の力を認められて手に入れたと考えている。特別視されるのは当然だが、特別扱いさせたことは今まで一度もなかった。そう自負してきた。
 柱力(ユマ)がなくてもやっていける、皇族であったということが無意味であると、世間に知らしめるつもりで、四十七年間生きてきた。そして、生きている。柱力(ユマ)を持たぬ皇族としての運命を受け入れてきた、つもりだった。
 ピポッと、卓上の通信機が小さく呼びだし音を鳴らした。ファイスは手を止め、スイッチを入れる。
「どうした」
「バルト少将に面会を求める者が来ておりますが」
「予約はないはずだ。今忙しい、予約を取ってから来るように言え」
 どうせ正体を隠したマスコミだろう。北セファーンで反体制組織がなにかを企てていることを嗅ぎつけ、情報を仕入れにきたに違いない。
 彼らはこう問うだろう、今朝の爆破事件とは関連があるのか? あるとも! まさにそのものだ。北セファーンを飛び回っていた彼が知らずに誰が知るというのだ。
(どうせすぐに分かることだ。報道官の発表を待っていればいい)
 通信機の向こうの受付は、当惑した声で、
「それがバルト少将、相手はその、芙蓉の宮から来たと言っておりますが」
「宮から?」
 意外な名に、ファイスは少し戸惑った。宮内庁や外務省なら「芙蓉の宮から来た」などとは言わない。氾科学研究所やベイオード学問院の遣いが来ることはないし、やはり正殿から来たということだろう。
(今時分来るということは、アリーヤの遣いか?)
 それはあり得る。北セファーンの反体制組織がターゲットに選んだのはアリーヤだ。ファイスからなにか情報を得ようとしてもおかしくはない。
(小娘め、ようやく動きだしたな)
 ファイスは嘲笑した。あの柱力(ユマ)なしの皇太子が、同じ柱力(ユマ)なしの元皇子に協力を求めてきたのか。
(いいなずけが柱力(ユマ)を持っていたばかりに皇太子になったおまえが、俺になんの用だというんだ。いいとも、会って話を聞いてやろうではないか)
「分かった、通せ」
「はい」
 受付の男はほっとした声で答え、連絡を切った。ファイスは悠然と手を組み、シニカルな笑みを浮かべて来客を待った。
(アリーヤの遣いとなるとリュシか、宮内庁侍従のどちらかか。取り巻きも作らんで。ウィレンのときとは大違いだな)
 もっともその原因はファイスにもある。アリーヤが皇太子に冊立したときに彼が反対したせいで、便乗して反体制組織が活気づいてしまい、統一議会が神経質になってしまったのだ。アリーヤを表舞台に一切出さず、民間人との交際にも制限をかけている。取り巻きなど作れる状況にはないのだ。そのことは悪かったとファイスも反省している。
 先の皇太子ウィレンのときは違った。妹のマリアが養母を務めたせいで、なにか祝いごとがあるたびにファイスの家族は芙蓉の宮の迎賓館に呼ばれ、宴の席に着いたものだ。ウィレンの学友やその家族も大勢招かれていた。
 あのころの統一議会はどちらかというと、皇族が多くの人と接触するのを奨励していた。皇家とエルシア世界の結びつきがいかに強いかを、異世界に見せつける為に。
 ウィレンは社交的で、人への気配りを忘れなかった。そして、鮮やかだった。少年が現れると、その場は華やいだ空気に一変した。誰もが少年の一挙一動を追いかけ、幼い皇太子の無邪気で、だが聡明な発言に笑い、喜び、褒めあった。
 圧倒的な存在感、人心を掴む才能、聡明さ。わずか十二歳で、あの少年はそれを自分のものとし、自覚してそれを使っていた。太陽の皇子、その名に相応しい眩しい少年だった。エルシア皇帝という、飾りものになるのが惜しいと思わせる人材だった。
(あれが戦国の世にでも生まれていれば、世界を統一することができたかもしれん)
 だが、いかんせん、すでに世界は統一されていた。しかも皇家によってではなく、統一議会によって。
〈柱〉としての価値しかない皇家に生まれてきたのは、あの聡明な少年にとっては不幸だった――そう生前は考えていた。
(太陽の皇子、月の皇女、か。〈柱〉の一族にはアリーヤくらいの目立たない人間の方が適しているのだ。だが)
 だが、柱力(ユマ)なしの皇女が皇太子に冊立し、ゆくは皇帝になるのは納得いかない。
 ファイスは決して皇帝になりたいのではない。柱力(ユマ)のない自分がなってもしかたがないではないか。
 だからこそ、アリーヤが皇太子であるのが納得いかなかった。
(アリーヤよ。俺の柱力(ユマ)なしの皇子として生きてきた四十七年間を、おまえは納得させることができるか? 見せてみろ――見せてみろ!)
 彼は遣いが来るのを今か今かと待ちかまえ、凝然と扉を睨んでいた。だから、現れたのがアリーヤの遣いではないと分かった途端、ひどくがっかりし、憤慨もした。
「なんだ、きさまか」
 一目でアリーヤの遣いでないと分かったのは、現れた肉づきのいい男が瀬一族の者だったからだ。瀬玄詳だ。
 ファイスは緊張が解け、背もたれにもたれかかりながら、そう言えばアリーヤと最後に会ったのはいつだっただろうかと考えた。
「お久しぶりです、ファイスさま」
 慇懃な口調で玄詳は頭を下げる。その言葉にファイスは頬を引きつらせた。
(なにが「さま」だ。俺のことなど皇族とは見てないくせに!)
 柱力(ユマ)は二代続けて出なければ、その家系からは永久に失われる。だから、柱力(ユマ)なしの子供しかいないファイスは、彼らから見れば完全に皇族でなくなっているはずだ。
 だが、怒りは表面に出さず、ファイスは玄詳を見下ろした。
 二十七年前に宮を出たファイスには、自分より年下の玄詳とは皇子として接したことはなかった。その名を知ったとき、彼はすでに民間人だった。
 ウィレンの侍従だった玄詳が、今さら自分になんの用だというのか。
 ファイスは鼻で笑うと、
「久しぶりもいいところだ、ウィレンの葬式以来か。あれ以来、私も宮には行ってないからな」
「アリーヤ殿下は派手なことがお嫌いなようですから」
 淡々と玄詳は答える。アリーヤの考えなど知ったことではないという口調だ。
 やはり噂は事実だったのだと、ファイスは内心せせら笑う。瀬一族は「皇太子アリーヤ」を認めていない。今の玄詳の口調がすべて語っていた。
「毎年、七月に行われていた誕生会もなくなり、回帰祭も内輪ですませることになってしまいました。宮からは火が消えたようです」
「じゃあ、父と母は喜んでいるだろう。あの二人も派手なことがお嫌いだった。考えてみると、アリーヤはよくあの二人に似ているのだな。最初から皇太子には相応しかったのかもしれん」
 ファイスが鎌を掛けると、案の定、玄詳の顔色がさっと変わった。感情を必死に抑えているらしく、拳が握られる。
 玄詳は歪んだ微笑を浮かべて、
「それは……いかがなものでしょうか。皇家のご公務には向き不向きがあるかと」
「まあ、アリーヤは柱力(ユマ)なしという欠点があるがな。それ以外は目立たず騒がず、人畜無害でいいだろう」
「本当にそう思われていらっしゃるので? あれほどアリーヤ殿下が皇太子に就くことに反対しておられたのに」
「いや、今となってはこれでよかったと考えていたところだ。別に私も皇帝になりたかったわけじゃない、娘に余計な苦労をかけるのも不本意だ。アリーヤ以外に代わりがいるわけでもないし、どちらにしろ次の〈柱〉が生まれるまでのつなぎだ」
 玄詳の挑発には乗らず、ファイスは空々しく言い返した。
 その言葉を待っていたかのように、ぎらりと玄詳の目が光った。ゆっくりと、一言ずつ言葉を選ぶような慎重さで、
「では……もし、代わりの方がおられるとしたら?」
「哀れな妹のことか? やめておけ、自ら〈柱〉であることをやめたんだ。放っといてやれ」
「それは重々承知しております。マリア殿下ではござません」
「なに?」
 単なる冗談、或いは仮定的希望として話を聞いていたファイスは、玄詳の言い方に眉宇をひそめた。まるで具体的な人物がすでに決まっているような口調だ。
「どういう意味だ」
「もし、もしもではございますが、ウィレンさまがお戻りになられたとき、ファイスさまはアリーヤ殿下とウィレン殿下、どちらのお味方になられますか」
「……」
 ファイスはまじまじと玄詳を見つめた。ウィレンが死んでから三年、めっきり老けこんでしまった年下の男は、真正面から彼を見返している。何気ないふりを装っているが、軍人であるファイスには相手が極度に緊張しているのが見てとれた。
 伊達や酔狂ではない。思いつめた顔をしている。
 だが、玄詳の言っていることはむちゃくちゃだ。ウィレンは死んだ、三年も前に。遺体は見つからなかった。見つからなかったが、生きた当人も見つからなかった。
「玄詳よ、おまえたちの気持ちは分からんでもないが、ウィレンは死んだ。三界殿に落ちたんだ」
「でも、遺体はございませんでした」
「あそこで死体が出る方がおかしい。そのことはおまえの方が詳しいだろう、あそこは〈真空の海〉とつながっている。落ちたら情報一つ残らん」
「ですが、ウィレンさまは〈柱〉の君。柱力(ユマ)をお持ちでした」
 玄詳の声に熱が帯びた。
「柱力(ユマ)を持たれる方が〈真空の海〉に落ちて死ぬなどと、考えられない」
「では、なぜ帰ってこない。ウィレンはどこへ行った?」
「どこかにおられるはずです。なんらかの事情があって、例えば大怪我をなされたとか、記憶を失われたとかで、帰ってこられない状況にあるとか。だから、多少雰囲気なり、姿形が記憶とは変わっておられるやもしれません。それでも、ファイスさまはウィレンさまにお味方してくださりますか。アリーヤ殿下を廃位し、あの方が今一度皇太子として復立できるよう、ご協力してくださりますか」
 真摯なまなざしで玄詳は畳みかけるように問う。その燃えるような激しいまなざしにファイスは圧倒され、身じろいだ。
(なにを考えているんだ、こいつは)
 正直な感想がそれだった。ウィレンが消えてから三年、瀬一族が崇めてきた少年の死を未だに認めていないのは知っている。だが、もはや皇太子の地位はアリーヤに譲られ、ウィレンの死は確定されたものになった。ただ死体がないというだけで、生きている証はどこにもないのだ。
 それなのに、今さらなにを言いだす? 三年経った今になって、まるでウィレンが本当に生きていたような真剣さで――
「ウィレンが生きてたのか?」
 玄詳は答えなかった。たるんだ顔に浮かんだ卑屈な微笑が、なにかを企んでいることを表していた。
(替え玉でも作る気か? いや、柱力(ユマ)がなければすぐにばれる。クローンでも作るというなら分かるが……それでも三歳にしかならんぞ。一体なにを考えてやがる、こいつは)
 ファイスは玄詳を睨んだ。なにを考えているのか見当もつかない。アリーヤを陥れようとしているのは、分かる。だが、どうやって?
 ゆっくりと、言葉を選んで答える。
「私は宮から下った民間人だ。宮への発言権は、ない」
「ですが、ファイスさまの発言は世論を左右します。民間人にとって芙蓉の宮は遠い存在ですが、ファイスさまは身近に感じられる。宮と民間の橋渡し的存在と言えます。アリーヤ殿下が冊立されたときも、ファイスさまが異議を唱えなければ、民間人はなぜ柱力(ユマ)を持たぬ皇女が皇太子に就いたのか、誰も分からずにいたことでしょう。ですから、ファイスさまの発言はとても大きい力なのです」
「買いかぶるな、狸め」
 そうは言いながらも、ファイスは気分がよかった。自分がまだ宮に対して力を持っているのは、ひどく快いことだ。
 だが、そのくらいでうかうかと相手のペースに巻きこまれているようでは、少将の地位まで登り詰めることはできなかった。
「しかし、きさまがなにを言いたいか分からんな。死んだ者にいつまでもこだわるのはどうかと思うぞ。大体、皇家に忠誠を誓っているきさまらが、なぜアリーヤを認めん。あれもれっきとした皇家の娘だ。確かに柱力(ユマ)はないが、ウィレンの双子の妹でもあるのだ」
「……」
「リュシ族との因縁だけで、すでに皇太子にまでなっている者をないがしろにするというのは、忠義に反しているのではないか。現実を認め、ともにアリーヤを支えていくのが道理だろう。アリーヤとて望んで就いた地位ではない」
 玄詳はしばらく沈黙した。それからゆっくりと、言葉を押しだすように、
「ファイスさま、私はそのようなことを申しあげているのではなく、ウィレンさまが戻られたらご協力いただけるかどうか、尋ねているのです。ご協力いただけないまでも、アリーヤ殿下には荷担しないと言っていただければ」
 同じことを繰り返す玄詳。あくまでも詳細は白状しないつもりらしい。ファイスは鼻で笑った。
「今朝起きたクシェミンスキビル爆破事件の、テロリストの目的は知っているか」
「……」
「アリーヤだ。奴らの目的はアリーヤだ。その証拠も出ている。報道規制を敷いているが、もう一部に洩れている。夜のニュースでいっせいに流れるだろう」
「……」
「計画書が出てきたのはテロリストの罠だな。アリーヤのせいでフリンカムが爆破され続ける。それを知った市民がアリーヤにどんな感情を抱くと思う?」
 ファイスは意味深長なまなざしで玄詳に問いかけたが、彼は答えなかった。じっとなにかを見極めるように、ファイスの顔を凝視している。
「奴らの目的は皇家を廃することか、アリーヤを蹴落とすことか。一体誰が仕組んだことかな」
「我々が、アリーヤ殿下を追い落とす為に仕組んだことだと?」
「私はそうは思わんさ。サッカド同盟は北セファーンの過激派だ。今朝のスクランブル隊の襲撃の件もある。だが、そう言われてもしかたあるまい。
 きさまらはこの事件を好機と捉えているようだが、諸刃の剣だということだ。アリーヤを蹴落としたいなら、奴らと歩調を合わせるな。動くならテロリストの件を片づけてから動け。私は」
 そこでニヤリとファイスは笑った。
「私は世論の味方さ。なにせ税金で食っている身だ、世論と統一議会の決議に従う、それだけだ」

       ※

 国防省から空間転移して、内宮の中庭に戻ってきた瀬玄詳は、ゆっくりと転移台を降りた。
 転移台を囲う東屋の白亜の柱に拳を叩きつける。
「負け犬が、知ったような口をききおって……!」
 乾いた唇から洩れるのは、苦渋に満ちた声。玄詳は唇を噛みしめた。
(元皇子でなければ、ウィレンさまの為でなければ、あのような男に頭を下げになど行かぬものを!)
 だが、当人に言ったとおり、ファイスには世論を動かす発言力がある。あの男を味方に引き入れるのは損なことではない。
 すべてはウィレンの為。太陽の皇子の為。
 玄詳はがくりと膝をついた。冷たい石床に手をつく。
 太陽の皇子を愛していた。すべてを捧げていた。星辰斗やテフ・ジェイク・サレハがアリーヤに忠誠を誓い、愛しているように、彼はウィレンを愛し、慕っていた。すべてをかけて。
 ウィレンが死ぬはずがない。三界殿に誤って落ちるなど、ありえない。
 あるとすれば、落とされた――殺された、だ。絶大な力を持っていた皇子に対してそんなことができるのは、彼を油断させることができた身内以外にありえない。
 双子の妹のアリーヤ以外にありない。
「皇子、なぜ、こんなことに……! 我々を置いて、なぜ……!」
 ぼろぼろと溢れる涙を拭いもせず、玄詳はむせび泣いた。

       ※

〈真空の海〉に浮かぶ二十三本の〈回廊〉が集中する浮島中央島(ラクワナ)。
 次元機構の建物の一室で文書を整理していた瀬郁は、ふと窓の外を見て、椅子から立ち上がった。
 窓の向こうは浮島を球状に包む界面を挟んで、〈真空の海〉が広がっている。なにもない、高密の純粋なエネルギーがあるだけだ。
 そこに今、真円の虹が浮かび上がっている。徐々に大きくなって、こちらに近づいてくる。
「!」
 郁はすぐさま部屋を飛びだした。机に積まれたチップが数枚落ちたが、かまわず、そのまま建物の外へと出る。コの字型の建物の中庭に立ち、それを仰ぐ。
 虹はぐんぐんこの浮島に向かって近づいていた。外に出てみれば分かる、〈真空の海〉のエネルギーが揺らめき、屈折して虹色を放っているのだ。
〈真空の海〉を揺らしているものの姿は見えない。だが、なにか大きなものが飛来してくるのが分かる。それを中心に、スカイブルーに濃淡の渦が生じ、より濃くなった部分は空色から青、濃紺、紫へ、より薄くなった部分は空色から緑、若草、黄色を経て、桃色、ヴァーミリオン、紅へと変色する。それがものすごい勢いで後方へ流れ去っている。
 郁は全身が総毛立つのを感じた。
 プリズムの向こうから、なにかが来る。なにか、ひどく大きなものが。
 空間が凸面になっているのが分かる。びりびりと肌が振動を感じる。近い!
 吹きつけるエネルギーの怒濤に浮島が揺れた。立っていられないほどの震えに郁は倒れ、地面に叩きつけられる。
 顔を上げる。虹は真正面まで迫っていた。だが、郁には為すすべがない。ぶつかる!
 そのとき、郁の上に降り立った者がいた。彼は足下に郁がいることに気づいていないようで、彼女も不思議と重さを感じなかった。
 瞠目する郁の上で、少年は迫りくる悪夢に対峙した。その口元に不敵な微笑が浮かぶ。
 少年の体から虹色の光がほとばしる! 眩しさに郁は腕で目をかばった。
「!!!!」
 声でない声、悲鳴でない悲鳴が〈海〉を揺さぶる。少年の放出した力が相手を弾き飛ばしたのだ。虹の輪が飛び去っていく。
 少年はそれを追いかけ、〈真空の海〉の中へ飛びだした。空を飛ぶように、飛んでいく。その軌跡が光となって残る。
 ここではすべての現象が高エネルギーと反応して、光が放出される。そしてすぐに〈真空の海〉のうねりに呑みこまれる。現象そのものも情報が解かれ、純然たるエネルギーに還元されて〈海〉に分散されるのだ。
 浮島や世界は、〈海〉の中に出現した気まぐれなエネルギーと情報の偏りであり、堅固で呑まれることはない。だが、ちっぽけな人間や物はすぐに還元されてしまう。
「……」
 郁は自分を踏みつけた少年が小さくなっていくのを、凝然と見つめた。〈海〉の中を自在に飛ぶことができる者、彼女の知識が正しければ、あの少年は――
「乱暴な奴だ、女性を踏みつけるとは」
 第三者の声がして、郁は振り返った。相手の男を見つけて目を細める。
「朋己さま」
 彼女は体を起こし、ひざまずいて恭しく頭を下げた。
 怜悧な容貌となにごとをも見透かすぬばたまの双眸を持つ、白皙の美丈夫。白夜院(はくやいん)朋己――エフタ世界の王であり、アリーヤの父である。
 彼の従姉でエフタの外務担当、天花院璃生は「夜の白百合」と称されるが、朋己もまた月夜の銀雪のように気高い輝きを放つ男だ。今年で三十九歳になる。アリーヤは母親似と言われているが、雰囲気は父親によく似ていた。
 一世界の王であるにもかかわらず従者の一人も伴っていない。だが、いつものことだ。郁は叩頭したまま尋ねた。
「珍しいところに。お一人でございますか」
「ああ。いや、あれがいたか」
 朋己は優雅な仕草で、〈海〉の彼方に飛んでいった少年を仰いだ。郁は自分の推測が当たったと知った。
 あれは霊峰王子だ。アリーヤ皇太子の婚約者。
 朋己によく似ていた。そう思う。見るのは初めてだが、綺麗な少年だった。黒い髪と黒い瞳は、アリーヤと並べば一対の人形のようによく映えるだろう。
「お二人であれを追っていたのですか」
「柱力(ユマ)を持つ者の役目だからな」
 素っ気なく朋己は答えた。
「あれは優秀な〈柱〉だ。ただ欠点は、出ていくと戻ってこない。だから私は鷹匠のごとく、こうして見張っていなければならん」
「お戯れを。エフタ王ともあろうお方が……」
「それもそうだ」
 あっさりと朋己は認め、小さく笑った。笑顔になるとやはりアリーヤに似ている。郁は彼の亡き妻ジェーンをよく知っていたが、春のように優しい彼女の笑顔は、娘ではなく息子のウィレンに引き継がれた。なにかを含む、神秘的な笑みを浮かべるのはアリーヤであり、この朋己だ。
「おまえも一人か」
「先だっての次元機構の事後処理を行っていましたので」
 結局臨時会議はカマラ世界が欠席のまま行われた。エルシア外務長官パルク・ヒックスが現状を報告し、一部地域で歪みが発生していることも、控え目に付け足した。むろん、それについては色々と追及されたが、答えるのは長官ではなく、エフタ代表として出席した天花院璃生王女だった。彼女もまた〈柱〉だ。
 彼女の答えは相当意外なものだった。
「現在も〈干渉〉は続行中です」
 つまり、エルシア世界とカマラ世界が衝突し、なんらかの不具合で一部分がくっついてしまった状況なのだという。今までにない事態に代表たちはどよめいたが、王女は、「いずれ分離します。そうすれば歪みも消えます」と答え、その場は収まった。彼女の口調では一両日中にでも分離しそうだったが、実際どのくらいかかるかは不明だ。
 なんにせよ、〈干渉〉が続いている間は〈柱〉は補整を続けるという言質を取って、代表たちはそれぞれの世界へと帰っていった。パルク長官は慌てふためいていたが。慌てたところでどうとなるものでもなかった。
 朋己は再び空を仰いだ。
「舜耶が動いている」
「……」
 郁の鉄の表情がわずかに引きつった。それを見て朋己は笑った。
「奴の目的はあれだ」
 朋己の視線は動いていない。郁は少し考えた。
「霊峰さまであると?」
「アリーヤとの結婚が気にくわないらしい」
 喉を震わせて笑い続ける。よほどおかしいようだ。
「だが、霊峰に手を出すほど愚かではない。奴が狙うのはアリーヤというわけだ。せいぜい気をつけろ」
「はい」
「アリーヤとは久しく会っていないな」
 ふと思いだしたように朋己は呟いた。
「結婚も間近だ、近いうちに会いにいこう……アリーヤは元気か」
「お変わりありません。夜には熱を出されることもよくおありです。詳しいことは星辰斗に聞かないと……私は今、殿下と離されておりますので」
 郁の声がわずかに沈み、顔が曇る。朋己は「ああ」と答えた。
「そうだったな。では、久しぶりに辰斗を呼ぶかな」
「辰斗はアリーヤさまをお守りしておりますゆえ、そばを離れるのは」
「ふむ」
 朋己は分かったような分からないような相槌を打った。
「まあ、いい。では郁、また会おう」
「はい」
 朋己は自分の世界に伸びる〈回廊〉へと向かおうとした。だが、足を止め、
「郁。おまえの息子は息災か」
 郁は顔を上げた。わずかな沈黙のあと、再び叩頭して、
「はい。すべては仰せのとおりに」
「そうか」
 朋己は満足そうに言うと、もう振り向かず、歩いていってしまった。途中でその姿が消える。柱力(ユマ)を持つ彼は、〈真空の海〉の中でも転移することが可能だ。
「……」
 郁は小さく息をつくと、空を仰いだ。
 真っ青な虚空が広がっている。霊峰はあのエネルギーの塊を追ってさらに深部へ行ってしまったらしく、痕跡は見えなかった。
 広い海が続いている。

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