立ち読み4: スカラ座時代1


国際舞台へのデビュー

 50年代イタリア・オペラ界のトップ・スターになったカラスが本拠にしたのは、ミラノ・スカラ座だった。この歌劇場をマイ・ホームと呼んで愛し、そのステージでの成功を何より重視した。しかしスカラ座は、イタリアでこそもっとも格式の高いオペラハウスだが、50年代当時もいまも世界一のオペラハウスというわけではない。国際的な成功をめざす歌手の檜舞台はロンドンのコヴェント・ガーデンであり、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(メット)である。とりわけ、オペラ・ファンの人口がもっとも多くレコード市場の規模がもっとも大きいアメリカで人気を獲得するには、メットでの成功が欠かせない。カラスと同時代のウィーンのソプラノ、セーナ・ユリナッチは、名ソプラノがひしめいた50年代でも屈指の美しい声と洗練された音楽性に恵まれながら、メット出演が一度もなかったためについに国際的なスターになることができなかった。

 カラスがスカラ座をメット以上に重視したのは、ヴェルディやベッリーニ、ドニゼッティを知り尽くしたオーケストラとコーラスと裏方が、そして何よりも聴衆が、この歌劇場にはいたからである。スカラは観光客よりは、通がかようオペラハウスなのだ。天井桟敷から歌手に飛ぶ野次は、厳しいが的確だった。

 スカラ座の支配人アントニオ・ギリンゲッリは、カラスにつねに好意的だったわけではない。それどころか、我が強く自分の思いどおりにならない彼女を毛嫌いした。彼は音楽に対する関心も鑑識眼も、ほとんどなかったといわれる。しかしその代わりに、冷徹なビジネスマンとしてソロバンをはじくことはできた。若いころ馬に股間を蹴られて性的不能になり、生涯独身をとおしたそうだ。それと関係あるのかどうか知らないが、支配人が信じたのは人間ではなく数字だった。スカラ座の名声と財政を健全に保つためなら、自身の感情も殺して顧みなかった。だから在任中、犬猿の仲の指揮者セラフィンは一度もピットに入れなかったギリンゲッリも、確実に客を呼べるカラスにはシーズン開幕の主役を任せた。カラスも非情なギリンゲッリに反感を抱きながら、声の衰えを隠せなくなる61年まで出演を続けた。カラスの歌手としての全盛期は、こうしてスカラ座のステージ上で展開されることになった……