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第2次大戦の終結から国際的名声を確立する53年までの数年間、カラスは下積み時代を過ごす。どんな名歌手も、初期の苦労は避けられない。本格的なプロ・デビューになるはずだったシカゴの《トゥーランドット》上演は流れ、メトロポリタン歌劇場のオーディションには落ち(カラス自身は、同歌劇場からのオファーを芸術的理由で断ったと称していた)、レナータ・テバルディの代役として《アイーダ》でスカラ座に初登場したときは聴衆の不評と将来の仇敵となるスカラ座支配人ギリンゲッリの冷遇に遭う。やがて名指揮者のトゥッリオ・セラフィンに才能を認められて彼のプロテジェになり、超ドラマティックな《ヴァルキューレ》と技巧性の高い《清教徒》を交互にうたうという類例の少ない芸当(49年)で話題を呼びはしたものの、アーティストとしての評価は安定していなかった。
しかし若いカラスには、不運に挑戦する強い意志があった。異様にテンションの高い当時の歌が、彼女の果敢な上昇志向を物語っている。芸術的な成熟には、まだ遠い。だが、熱い気迫で爆発しそうな1950年前後の歌が、希有なカリスマの疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)時代のきわめてスリリングな記録であることは間違いない。
11歳のカラスがニーナ・フォレスティ名義でラジオののど自慢番組に出演したときの歌とされる《蝶々夫人》のアリア〈ある晴れた日に〉の録音が、CDとしてEMIなど、さまざまなレーベルから発売されている。しかし、真偽のほどは疑わしい。カラス自身はニーナ某と名乗ったことはないと明言していたし、さらに歌の前のアナウンサーとの対話で、少女歌手はデパートのおもちゃ売り場で働いていると語っている。いかに第2次大戦前のこととはいえ、児童労働にうるさいアメリカで11歳のカラスがデパートでアルバイトできただろうか。また、1938年にアテネでうたった〈私のお父さん〉(《ジャンニ・スキッキ》)の録音があるとも伝えられるが、やはり本物かどうか定かではない。
これらを別にすれば、カラスのもっとも若い声を伝える録音は1949年6月17日、ブエノスアイレスのコロン劇場における《ノルマ》のライヴである。イタリアのチェトラ・レーベルにおけるスタジオ初録音より半年早い……
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