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千種アルパインクラブ2001年度海外登山報告(海外担当・瀧根正幹)

2001年度の海外登山は瀧根会員のローツェ南壁への挑戦のみである。この遠征は日本山岳会東海支部の40周年記念事業の一つとして取り組まれたもので、瀧根会員は副隊長として参加した。以下は岳連ニュースに掲載した報告である。

冬季ローツェ南壁を目指して


日本山岳会東海支部
冬季ロ一ツェ南壁登山隊2001副隊長
瀧根正幹

冬季ローツェ南壁(8546m)の初登を目指した我々は、まず最初にチョーオユー(8201m)に向った。冬季という事で登山期間は12月1日から始まるのだが、ここ数回の偵察でクリスマス前後からジェット気流が吹き始める事がわかっている。この風が吹き始めたらまず登頂は不可能となり、命の保障も無い。そのため、遅くとも第一次アタックは20日までに、という計画であった。普通、8000m峰を包囲法で目指す場合 1ヶ月半ほど掛かるのだが、それを20日で済ますため我々はプレ登山をチョーオユーに求めたのである。事前に8000mに体を慣らし、スピードアップを図るためだ。

チョーオユー

9月10日
、カトマンドゥ発。モンスーンで道路が寸断されているためあちこちで車を乗り換えるのだが、その度にポーターを雇って荷も乗せ換えねばならない。行く手を遮られたトラックは商魂逞しく、寸断されているその間の荷の運搬で稼いでいる。約6時間半で着いた中国国境のネパール側の街、コダリで泊った宿では、チョーオユーで亡くなった韓国人が安置されていた。中国側に入ると、チベット登山協会が手配してくれたランクルでチベット高原をひたすら走り、やがてエベレストが見えるティンリに到着。別料金を払って露天風呂
に入りに行ったが、藻がびっしり生えている。何日ぶりの客だったのだろう。

9月16日、いよいよ大本営と呼ばれるロードヘッド(4800m)に到着した。チョーオユーの北面が間近に見える素晴らしいところだ。そこより先は歩きとなる。

18日、隊荷62個をヤク29頭に積み出発。

21日にBC(ベースキャンプ・5600m)着。しかし私は悪くなったゆで卵を食べて食中毒になっていたため、もう一人体調を崩していた飛田隊員と再びロードヘッドまで戻る事になってしまった。些細な油断がこんな結果を生むのだ。回復しBCに戻るのと入れ替えに一番若い花谷隊員が酸素を吸いながら下って来た。脳浮腫の症状が出たとか。これくらいの高度に順応する事がヒマラヤ高峰登山の最も大切な事なので大事をとらねばならない。一般ルート(チベット側・北面)のBCには28隊が集結していて、さながらバザールのよう。どのテントにも夢は売るほどあるようだ。我々のキャンプはプロレーサー・片山右京氏の隣である。結局全メンバーが揃ったのは27日の事だった。

29日、今度は飛田隊員が「月が2つ見える」と言い始めた。酸素を吸っても症状は変わらない。片山チームのインマルサット(衛星通信)を借りて目本の医師に連絡すると、脳幹に血腫ができている可能性がある、日本なら即入院だとの事。結局彼はそのままリタイアとなった。日記には「神よ何をお望みか?」とある。BCからC1(キャンプ1・6400m)までは氷河を2時間ばかり歩き、ザレ場の取り付きから急登になるがトレッキングシューズで問題はない。C1からは全く雪と氷の世界になる。C2(7000m)までは急雪壁から懸垂氷河状の一番弱点をアイスクライミングで越し、雪崩れそうな大斜面の急登が続く。C2には外国隊のテントが7〜8張り程あった。彼らは下って登り返す労力を惜しんで、悪天をここでやり過ごしていた。高所衰退する高度で沈殿していた彼らは結局登頂できない事になる。C3は7600mに建設・我々のパーティ(瀧根・鈴木・花谷)は10月10日にアタックを開始した。途中の垂直のロックバンドは3級ほどなのだが、酸素マスクをつけているので少し登りにくい。シェルパは風が強いので断念し、下って行った。だだっ広い山頂はエベレストの見える所がピークとなり、タルチョ(お経の書いてある旗)が立ててある。とんでもない風で相手の声も聞こえない中、花谷・瀧根・鈴木の順に登頂。私の両頬は軽い凍傷になっていた。

ローツェ

カトマンドゥに戻った我々を待っていたのは、10日にダウラギリに登頂した名塚隊員の凍傷の報であった。
8000m峰14座の全ての登頂を目指す彼は、既にチョーオユーには登っていたため未登のダウラギリを目指し、別行動を取っていたのである。指3本をやられた彼は日本に帰国。ローツェ隊にとって大打撃となった。続いて同じダウラギリの東壁に挑んだ群馬の精鋭3人が遭難。自然は常に人の想像を超越していて、登山の本質が厳しさである事を改めて思い知らされた。飛田隊員も精密検査のため帰国。これで、冬のヒマラヤを知っているのは隊長一人となってしまった。残った6人で隊員会議を開き、登山を続行するかどうか話し合ったところ
総意でやろうという事になり、本格的に準備を開始した。幸い精密検査でシロと出て復活した飛田隊員とともに11月9日、カトマンドゥをヘリで出発。シャンボチェに降り立つ。すぐ下が有名なナムチェバザールで、そこに二泊する間に肉などを買い込み、11日キャラバンをスタートした。エベレスト街道は素晴らしいトレッキングコースだ。タンボチェからは圧倒的なアマダブラム(6856m)が右手に、正面にローツェ南壁、その奥にエベレストが聳えている。そこここのバッティ(茶屋)でお茶を飲んだり、マニ石(お経が彫ってある石や岩)の左側を通り(宗教上のしきたり)ながらキヤラバンしていると本当に楽しいものだ。

14日BC(5200m)着。ローツェ南壁のすぐ南に建設されたBCはローツェ氷河のサイドモレーンと西側に緩やかに広がる草原状の谷との間で、爆風雪崩からは支尾根とサイドモレーンによって守られている。水は少し下の池から汲み上げるのだが、よく見ると赤い虫がウジャウジャ動いていてびっくりした。

19日、下部のルート整備を開始。26日には飛田隊員が再度不調となり、無念の帰国となった。

12月1日、C1建設。(5900m)ラッキーなことに、シェルパの中にとんでもなく強いメンバーがいた。これは名塚、飛田の抜けた穴を埋めてくれるかもしれない。そんな思いでルート工作は続けられた。おまけにその一人、ダワチリは韓国隊でこの南壁を7000m位までルートエ作している。C2への出だしは部分的にオーバーハングした150mの大岩壁である。そこを突破し当初のC1予定地(6400m)の雪稜を詰め、つきあたった岩壁を右にトラバースした雪壁が落石・落氷の集中する危険地帯、その上部の岩壁帯を越して雪壁を詰めたルンゼの下部で私は落氷を喰らってしまった。全く動かない左手、折れたかと思いながら右手と歯を使いC1に下降した。仲間はそんな所を突破しC2にタッチ。その帰路、三好隊員が下降中の私のすぐ上で大腿部に落石を受けた。

12月6日には雪稜を大きくカットしC2(7100m)が建設された。以降、C2までの行動は少しでも「落」を防ぐため、暗いうちからのラテを点けての登攀となった。

そして11日、「喉」と呼んだ屈曲点を突破。C3の建設に向け14日には最強のチームが満を持してC2に入った。しかし明けた15日天気は大きく崩れ、ネパール中が悪天に入ったから全員撤退したほうが良い、そんなサーダーの意見で一人残らずBCに戻った。最強のダワチリはそのとき「もう終わりだ」と言いながら全ての個装を降ろしてしまったという。.

翌16日は晴れ。気を取り直し、別のパーティが再び2日かけてC2に戻るがなかなか思うようにルートは伸びない。そんな中、かねてより腰が不調だった鈴木隊員がとうとう登山活動を断念。

15日、帰国の途についた。これでとうとうメンバーは5人になってしまった。

19日、ついに恐れていた冬の風が吹き出した。

20日、ルート工作の先頭にいた田辺隊長からBCに無線が入る。「息ができない」「人間の力では登れない」撤退の決断の時であった。

22日、全て撤収。

25日、冬の雲にすっぽり包まれるローツェを振り返りながらバックキャラバンスタート。

30日、カトマンドゥ着。

最後に

多くの方の声援をうけての挑戦でしたが、C3にリーチをかけたところでの敗退に終わりました。
しかし私は今、素晴らしい仲間とともに困難に挑めた事を光栄に思うし、全員が無事下山でき、又次の挑戦ができる喜びをかみしめています。岳連加盟団体の仲間の皆さんには応援やいろいろご心配をいただき、ありがとうございました。多くの教訓や可能性の確信を得て、我々は再び立ち上がりつつあります。