千種アルパインクラブヘッダー
千種アルパインクラブ会員募集中
千種アルパインクラブ会の紹介
千種アルパインクラブ入会案内
千種アルパインクラブ山行記録
千種アルパインクラブCACブログ
千種アルパインクラブ年間行事
千種アルパインクラブ写真集
千種アルパインクラブリンク集

    

2011・ANNAPURNA I EXPの終結にあたって

 瀧根正幹

以下に記すものは、アンナ隊の記録というよりBCマネージャー・西野の高山病発病に関わる部分のブログ(ラテルネ瀧根の登山塾)をまとめたものです。報告書については別途作成しますが、報告書では分からない部分について少しでも理解いただけたら、と思います

アンナプルナ I 峰・EXPの終了

今回のアンナプルナの登山活動を中止し、帰国しました。
結果的に豊穣の女神は私に触らせてもくれず、
仲間も5400mまでのルート工作とタッチだけに終わりました。

キャラバン開始と同時に始まったアクシデント。
それは最後にはとうとう命に関わる事態を生み出し、
仲間の命を守る取り組みの結果、断念せざるを得なかった登山でした。

しかし我々は、逆に命を守ってもらったのかもしれません。
19日に発生したネパールの73年ぶりの大地震は
アンナプルナ山郡でも当然大雪崩を誘発しました。
我々が順調に進んでいたら、丁度アバランチラインを通過するあたりでした。

それに、仲間の命を守る事ができた喜びはこれまでにないものでした。
問われ続けた2週間。それは、少しは自分を鍛えてくれたことでしょう。
豊穣の女神は我々に、というか
ヘボ隊長に見合った試練を課してくれたのだと思います。

そんな話を、少しずつ紹介していきたいと思っています。

BCマネージャー意識不明に (その1)

プジャー(安全祈願祭)を5日に終えた私たちは、いよいよ7日から
登山活動に入る事を決定。
それに向けて食料、装備の仕分け・荷上げ準備を始めましたが、
BCマネージャー・西野はその中心となって頑張っていました。

ただしきりに眠いと言っていてゴロゴロするのが目立ったようです。
6日は「もっと積極的に動かなきゃだめだ」と散歩に連れ出しました。
当初BCを置くはずだった4200mまでゆっくり回ってきましたが
時に膝に手を置くなど、しんどそうな面もありました。
思えばこの時3400mまで下りていたら良かったのでしょう。

夜のミーティングで、明日のABCまでの荷上げに西野は参加せず
具合悪いようなら一人で3400mに下るよう指示。

7日の朝は6時出発の予定でしたが、5時にコックのダワが
「サーダーが歯痛で一睡もしていない、おまけに心臓が痛いらしい」
そんな事を言ってきました。
何だ何だ〜と本人の所へ行くと「ベニまで行って治療したい」との事。

スタート点でのアクシデント。そんなもん遠征前に何とかしとけよ、
そう言いたいところですが痛いものは仕方ない。
それより内心心臓の方が心配でした。これで6〜7日は
仕事になりません。

この日我々は、2004年のアンナプルナに眠った
佐藤・名塚のレリーフを探し、まず慰霊をする計画でした。
このためサーダーのツルとシェルパのチェパに先行してもらい
ABCまでのルート工作をしてもらうつもりでした。

仕方なく、普段はシェルパもやっているハイポーターのダワを
チェパと組ませ、とりあえず出発する事に。
ツルはハイポーターのチョンベとベニへ向かいました。

BCマネージャー意識不明に (その2)

佐藤・名塚のレリーフは、氷河が削り取ってできた
サイドモレーンの末端近く、約50mほど上の岩盤にありました。
もう探し諦めた頃、たまたま岩盤に光るものを見つけたのです。

高い青空にアンナプルナが見えるとてもいい場所で、
ここなら氷河の動きに関わらず静かに眠れる事でしょう。
二人にそっと手を合わせ、ウイスキーを手向けて献杯しました。
2004年の事故の当事者でもある西村は、肩を震わせていたようです。

ここを選んでくれた田辺・山本は、去年ダウラに眠りました。
そこから一旦氷河に降りてABCに向かう尾根を登り返すのですが、
その尾根に至るスラブに取り付くのが大変でした。
10年前は氷河を進めばすぐそのままスラブになっていたのに、
今年は20mほど氷河が低いのです。きっと温暖化の影響なのでしょう。

ツルとチョンベの離脱を気にしてか、
コックのダワまで荷上げに参加してくれていましたが、
そこで諦めて帰って行きました。

《登場人物紹介》
サーダー       
 ・ツル(信頼できる寡黙なシェルパ頭47歳・技術のツルと言われる)
シェルパ        
 ・チェパ(この春、あの尾崎さんの遺体を降ろし、その後エベレストをピストン   
  したつわもの。とにかく強い。)
コック          
 ・ダワ(自分の思い通り進めたがるやんちゃなコック。扱いにくいが
  それだけに何でも詳しく、またコックとしての腕は確か)
キッチンボーイ   
 ・バルク(コックもできる働き者)
ハイポーター    
 ・チョンベ(寡黙な力持ち、いい男)
 ・ディリバハドゥ(ヒゲのおじさん・働き者)
 ・ダンクマール(普段はシェルパもできる美男子・ABCまでの荷上げの
  終了をもって解雇する契約。)
 ・ダワ(シェルパもできる香取慎吾似・ダンクマールと同じ契約。)

BCマネージャー意識不明に (その3)

さて2000年の時、私はいきなりヘリで入山したためか
初めてのABC(4900m)への荷上げがとても辛く
途中、4800m地点に荷をデポして帰ったくらいでした。
(と言っても一緒にデポして下ったメンバーの中には
キャラバンしてきた連中もいましたが)

そんな事もあって西村・西田にも「大変だぞ」と言っておいたのですが
今回はとても楽で、全員余裕でABCに着きました。
内心「こいつら、強いな!」と思ったものです。

実質のBCとなるABCには水が豊富に流れていて
アンナプルナ北面を独り占め、といった場所です。
雪が少なく、ダッチリブには岩も出ていました。
一緒にお昼を食べて荷上げした荷物を固定したら、
チェパ・ダワ・ダンクの3人は「2時間でBCです」と言いながら
あっという間に見えなくなってしまいました。

BCに戻った時、西野はマイテントの外にいました。
膝を抱えるようないつもの姿でした。
その前にしゃがみこんで2〜3話をすると、すごく反応が遅い
のに気付きました。どう考えてもおかしい!これはもう意識障害だ。

当初3400m地点まで降ろす事を検討したものの
本人がまともに歩けないし、もし行ったとしてもヘリが着陸できない。
そこでBCでヘリを待つ事にし、
衛星携帯電話でコスモトレックに手配を要請しました。
再度状況を聞いたところ、ピックアップは明朝になるとの事。

BCもガスにすっぽり包まれました。何とか明日は晴れますように!

BCマネージャー意識不明に (その4)

西野に救助のヘリを頼んだ事を伝えに行くと、彼女はテントを出て
プジャーの張り綱に引っかかるようにしてしゃがんでいました。
こんな時だからおしっこはテントの横でいいと言ってあったので、
そのつもりで出てきたのでしょう。
「おしっこか?」しかし頷くもののちっともする気配がありません。
何回か促したものの、雨も降ってきたので一旦テントに入れました。

(以下隊長日記から)
雨間に何とかテントの横でおしっこをさせ、テントに入れて
「今朝C1に行かずに一緒にいてやれば良かったな、ごめんな」
と言うと、彼女は首を横に振った。
それが多分彼女との最後の意思疎通だったと思う。

「今夜はずっと一緒にいてやるから頑張れよ!」
「頑張れるよな、約束しろよ」

しかし西野のテントは狭く、大変な苦痛だった。(中略)
途中、皆に声を掛けてメステントに移動。10時過ぎ、
西村・西田の二人に寝るように言う。明日も仕事なのだ。
西村は11時近くまでいてくれて、名残惜しそうに出て行った。


0時過ぎ、呼吸からゼロゼロと音が聞こえて来た。
明らかに肺水腫を併発したのだ。
膝を入れて上半身を高くしていたのだが
後ろから抱きかかえてもっと高くし、呼吸を楽にしてやる。
その状態で朝を迎えた。

西野には常々こう言ってあった。
「ビバークする時、辛いとか思うな虫になれ。
虫になればあっという間に朝が来る」
それを腰が痛い自分自身にも言い聞かせる。

BCマネージャー意識不明に (その5)

「虫だ、虫だ」とうつらうつらしながら、
静かな西野にビックリして飛び起きるのを何度繰り返しただろう。
静かだと呼吸が止まったのではないかと恐怖に襲われるのだ。
幸い、その都度西野からは白い息が出ていて、
かすかに胸元が動いていた。

「アンナの神様、オレをどう試そうと言うんだ」
「松宮、お前連れて行くなよバカヤロー!」
(注;松宮は去年北岳でビバーク中、落石により死亡。西野に好意を
寄せていた。松宮にしてみればとんでもない言いがかりかもしれない)

ビックリして虫から覚醒するといろんな事を思う。
この娘に言ってきた一つひとつの事に申し訳なくて涙が出る。
全てオレが創ってきた。オレの信念、生き方が揺らぐ。
そんなにチンケなものだったのか!そんなオレって何なんだ!

虫になれない時はたあいも無い事を話しかける。
きっと脳には聞こえているはず。
そして手当てとは手を当て念ずる事。
オレのそれが効くかどうか分からぬが「楽になれ」「絶対良くなる」
と手をかざして祈る。

アンナの神様の膝元で「オレの命と引き換えに」
「いやそんなひどい状態ではないだろうからオレの数年の命と…」
なんて値踏みしたりしているうちに徐々に明るくなるのを感じていた。

5時、キッチンスタッフが起き始めた。
6時には西田が来たもののどこかへ行ってしまい、
少し後に現れた西村に代わってもらって小便をする。
我慢できて良かった。

7時過ぎ、ヘリの音がオレだけには聞こえた。
西田に見に行かせ、その数分後には機上の人となった。 

入院、そして…

助手席から降りてきた欧米人は周りの景色しか
眼中に無い様子で、しきりに写真を撮っていました。
「おいおい、お前観光に来たのかよ!」

ヘリに乗ると鼻から酸素を吸わせるようチューブを渡されました。
途中、口で息をしてるようなのでそのチューブを口に向けていると
その男がゼスチャーで鼻にしろと言っている。

ヘリはポカラに着陸する様子。
確か高山病の病院はカトマンドゥにしかないはず、
下手な病院に入れられたら生死に関わってしまう。

断固としてカトマンドゥへ行くよう英語で何と言うのか考えていたら
パイロットが僕の顔色に察したのか
「この後カトマンドゥに向かうから」そして
ついでにこの人は医者だ、と隣の男を紹介してくれました
どうやら、ただ給油に降りるだけのようです。

医者だという男は降りる際、もっともらしく西野の首に脈を診て
どこかへ行ってしまいました。「いい仕事やなぁ〜」
今度は給油の兄ちゃんだと思っていたのが何と操縦席に座り
パイロットが助手席に座りました。

「おいおい練習ならこんな時にしてくれるなよ!」
助手席からはしきりに方向を示したり計器を覗き込んだり。
それでも何とかトリブヴァン空港に着陸しました。
救急車がすぐ来てくれて医師、そして看護師さんもいるようです。

入院したのは「CIWEK」(シビック)という病院でした。
もともと細菌性の下痢の病院で、その筋では世界有数の病院だとか。
高山病ではカトマンドゥで2番目の病院だという話でした。

入院、そして… いざBCへ

  この病院は完全看護なので付き添う必要もありません。
ひとまずエージェントのコスモトレックへ行き、
ヘリの手配のお礼や今後の相談をさせてもらって、
ホテルにチェックインしました。

このホテル「ツシタ」はキャラバンの出発までお世話になった、
朝食付き30ドルの一つ星ホテルで、チョロチョロシャワーも出ます。
自分が潰れたら話にならんからしっかり食べよう、
そう腹をくくったもののあまり食欲も湧かず、
ビールで流し込んでそのまま寝てしまいました。

入院で安心したはずなのに、それからBCに向かうまでの3日間、
決まって3時間程で目が覚めてしまって眠れませんでした。
カトマンドゥにも秋が来たようで、
ベッドに倒れこんで毛布も被らず寝てしまうのが少々寒い、
というのもあったようです。

コスモの大津さんには病院からの連絡も全て受けていただき、
また見舞いにも付き添ってもらいました。
ネパール語も英語も良く分からないので本当に助かりました。

診断は、命に別状はなく3〜4日で回復するだろう、との事。
入院3日目の10日には、もう何の心配もないからと
BCに向かうよう進言され、
11日のポカラ行きの航空券を取ってもらいました。
ご家族からも「西野のためにもBCに向かって欲しい」
との要望を留守本部に戴いていました。

退院したらポカラでも行って静養して、
のんびりトレッキングでもしながら俺たちの帰りを待てばいい…。
そんな事を思いながら心は既にアンナに向かっていました。

入院、そして… 大どんでんがえし・再びKTMへ

ポカラに着くと、サーダーのツルが待っていてくれました。
ツルは歯の治療で8日にベニに着き、即抜歯したとか。
9日に僕がカトマンドゥから電話して、「どうなるか分からないから
あと2日、チョンベと待機してくれ」と頼んであったのです。

早速雇ってあったタクシーでベニへ行き、チョンベと合流しました。
そこからタトパニまでバスに乗るはずだったけど、
日本へ電話を、とネット電話を探している内に出てしまったようで
歩く事に。でもチョンベが荷物を持ってくれたので楽なもんです。

タトパニとガーサの間にあるナマステホテルに着いたのは夕方でした。
ホテルと言っても勿論シャワーも無く、かび臭いベッドで寝るだけです。
手伝っている女性が隣の小学校の先生だというので
暇つぶしに日本語を教えてあげました。

翌日、朝早くから歩いて最後の集落・レテに着いたところ、
大津さんからツルの携帯に電話が。何でも西野が回復せず、
「場合によってはジェット機をチャーターして日本に行く必要がある。
それを判断・決定できる人が必要だ」との事。
え〜、もう大丈夫だと思っていたのに!

北のジョムソンまで歩いて飛行機で戻るのが一番早いようだけど、
調べてもらうとどうしてもそこで一泊になってしまうとの事。
どうせ2日掛かるなら、とベニからバスで戻る事にしました。
交通費が全然違うのです。

13日、チョンベにベニまで付き合ってもらって一泊し
14日にマイクロバスでカトマンドゥに向かいました。
ぬかるみにはまって立ち往生したりパンクしたり、
サイドドアーが閉まらなくなったりの珍道中でした。

ツルは13日、ポーターを雇ってレテからBCに向かい、
チョンベは14日、僕と別れて一人BCに向かいました。

入院、そして… 再会


カトマンドゥに再度戻るにあたって、
12日の夜は隊長としての決断が問われていました。

7日の対策会議でメンバーは「Team TはTeam瀧根。
瀧根さんが抜けるなら止めた方がいいのではないかと思う」
と言っていましたから、西野の心配が無くなった時点では
何としても戻って一緒にピークを目指すつもりでした。

しかし仮に自分以外の誰かが西野に付き添って日本に向かうにしても、
BCに戻るのが17日過ぎになると自分の登頂は日程的に困難になる。
14日にKTMに着く事はそれを前提としなければならない。

後方支援に回った時、残った2人は登頂を目指してくれるだろうか?
カトマンドゥに戻るにあたって、
EXPそのものを二人に委ねるしか選択肢はありませんでした。

13日、留守本部から聞いた話では西野は日に日に良くなっているとの事。
随分12日の話とは違う話でした。
しかしKTMからの情報を元に動くしかありませんし、
既に戻ると決めていましたから、もう迷いはありませんでした。

9時間バスに揺られてカトマンドゥに着くと、
ありがたい事に大津さんが迎えの車を手配してくれていて
ツルの弟、サン・タマンもいました。

早速大渋滞の中をCIWEXへ駆けつけると、
笑顔で迎えてくれる西野がそこにいました。

その日になって、初めて声が出て自分の名前や年齢が言えたそうです。
(妹さん曰く「2歳サバを読んでいる」には大笑いでした。)
それに入院後初めてスプーンで流動食を食べさせてもらったそうで、
勿論胃袋に流し込むための鼻からのチューブは外されていました。

良かったよかった!
「お母さんが安心するな」と言ったらそれは嬉しそうでした。
「女はやっぱ笑顔やなぁ〜」

入院、そして… トラブル発生

14日、再びホテル「ツシタ」にチェックインしたところへ女房から電話。
西野の様子を話したらため息混じりに、そして搾り出すような
「良かった〜」の一言。心配で何も喉を通らなくなっていたそうです。

「会としてやれる事はやる、10年来の夢を叶えて欲しい」
そんな飛騨山岳会・舩坂会長からの伝言にはただ感謝するばかりでした。
女房には安心してゆっくり休むよう伝え、電話を切りました。

15日からは極力長い時間、病院で話をするようにしました。
西野は「瀧根さんの呼びかけに応えよう、応えなくては…
と思っていて目が覚めた」と言い、覚醒してからも
「飛行機事故から瀧根さんが助けてくれた」とばかり思っていたそうです。

翌日病院に行くと、医師や看護師が西野を取り囲んでいました。
どうやら一人で勝手に動くなという言いつけを破って困っている様子。
西野にしてみれば病院代が高いから少しでも早く退院したい、
そんな気持ちで動く練習をしたかったのです。

病院に呼び出された大津さんも厳しく叱っていましたが、
「何を根拠に私を拘束するのか」と本人もなかなか強情です。
結局「瀧根の言う事なら聞く」という事で僕が説得役に回りました。
しかし病院側の手先になっていると思ったのか、
なかなか口もきいてくれません。

翌17日もゆっくり話をしましたが、
本人はバトルのショックもあり絶食状態でした。
「食べなきゃまた管を突っ込まれるし、点滴も止むを得んぞ」
そんな事を一生懸命話してるのに、衰弱からか寝てしまう有様でした。

それが18日、病院に行くと何と中庭で食事をしているではありませんか。
良かった!ただただ安堵の涙が溢れました。
おじさんがお茶を勧めてくれただけでまた涙がこぼれ、
先生が来てくれたのにも「アイム、ベリーハッピー」と涙が。
いや本当に嬉しかったです。

退院、そして登山の中止

19日もまた中庭で朝食を食べていました。
のんびりとそれに付き合いながら引き算をさせてみたところ
何と100引く7ができません。足し算も120円+120円なら
かろうじて出来ても、120ルピー+120ルピーだとできないのです。

「赤とんぼがいっぱいいるね、高山も朝晩寒いだろうな」と言うと、
「もう11月やから寒いやろね」と応えます。
「まだ9月やぞ」と言うと「すぐ11月や」と。

やっぱり表面は普通でも脳の状態はまだまだなんだと
改めて認識させられました。
下手な事を言うと入院が長引くかもしれないと思い、
算数のことは内緒にする事に。
そして精神科医の簡単な問診を経て20日の退院が決まったのです。
21日のタイ航空も予約できました。

ホテルへ戻って西村からの電話を待っていると、
約束どおりABCから掛かってきました。
前日73年ぶりの大地震があったばかりなので状況を聞いたところ、
すごい雪崩が発生し、それもあって登山の中止を決めたとの事。

西村に「お疲れ様、気をつけて撤収してくれよ」と電話を切り、
「あ〜これで全て終わったのだ…。」
頼んだビールの泡をしばらく見つめていました。


20日、僕のカードで精算を済ませたのですが
何と12泊の入院費用は日本円で100万円。おまけにこれが、
遠征にあたって入った海外総合保険で保障されないのです。

僕の部屋がツインだったので、西野はそこに転がり込む事になりました。
「目を離さないよう」くれぐれも言われていて、半分監視役です。
コスモに預けてあった西野の荷物を持って来て、パッキング。
帰国の準備をしました。

ゆっくり観光もできない西野が可哀そうですが、
退院したらすぐ日本で検査を受けるよう言われているので、
こればかりはどうしようもありません。

仲間が帰国しました

何とフライトを1日間違えていたたそうで、
急遽、昨日の夕方にセントレアに出迎えに行き、今帰ってきたところです。
勿論、心配掛けた西野も同行し、その元気な姿を披露しました。

2人は5日の22:00、元気に帰ってきました。
合流した4人の笑顔は晴れやかで、
一つの困難を乗り越えた仲間の友情に溢れていました。

そしてこれをもって、
我々Team Triangle 2011 ANNAPURNA?EXPは終了し、
「他のアンナプルナ」を探す旅がまた始まります。
応援ありがとうございました。

と書くと全て終わってしまったようですが、
これはとりあえずのご報告という事で
昨日のブログの続きは、もう少し書きたいと思います。
お付き合い下さい。

もう朝の3時ですが、
僕は今から、応援して下さった皆さん一人ひとりを思い浮かべつつ
ビールを飲みたいと思います。

西野との帰国

21日、いよいよ出国です。

トリブヴァン空港では車椅子を10mばかり押してくれた男に
チップを請求されました。20Rsで上等なんだろうけど、
出国にあたって小額紙幣を始末したばかりだったので
仕方なく残っていた最後の一枚、100Rsを渡しました。

出国検査を受けた後は空港のスタッフが車椅子を押してくれ、
出国カードを書いてくれたり、並んでいるところでも最前列に、
といった具合にとても優遇してもらいました。

生まれて初めてのビジネスクラスです。
各空港内に専用の待合室があり、食事やお酒も無料!
「う〜ん、金持ちとはこういうものなのかぁ!」

でもどっちかと言うと、
待合室のベンチで寝て待てるエコノミーの方が似合うようです。
名古屋時間6:00、地平線が真っ赤になってきたので
11450mの日の出を見せようと、西野を起こしました。
富士トレで見た御来光とはまた違う素晴らしい夜明けに、
何を言わんとしているのか、口にするのは野暮というものです。

8時少し前、セントレア着。
千種アルパインの波多野代表が迎えにきてくれていました。
彼の車で岐大病院へ直行し、入院手続きを。
ずっとそこにいても意味がないし、
翌日お母さんをお連れするため、高山に帰る事にしました。

送ってもらった岐阜駅で大ザックなど60kgの荷を担いでウロウロし、
台風の影響で高山線不通のため岐阜バスで16:00高山着。

33日ぶりの我が家では、女房がひどい風邪を引いていました。
電話の横で寝泊りし、
出られぬ事のないよう風呂には朝入っていたそうです。  

遠征を終えて 続いたアクシデント

遠征には常にアクシデントがつき物。
アクシデントを楽しむくらいの気持ちがないと、それだけで
参ってしまうものですが、今回メンバーには結構応えたようでした。

カトマンドゥを予定通り8月28日に出発した我々でしたが
?約束していたカトマンドゥポーターが7人来なかった。
これは手配をしたサーダーの責任ですが、どうにでもなるもんです。
その7人の持つ210kgの荷を振り分けてその分日当を割り増しするので、
強いポーターは大喜び。1日の日当は1000ルピー、(10年前の3倍)
それが場合によっては1800ルピーにもなる訳です。
これで3日仕事をすればネパールの平均月収程になります。

?キャラバン途中、ポーターが4回、転滑落(幸い死傷者ゼロ)
落ちたら間違いなく死に直結するようなところがたくさんあるけど、
ポーターは荷物をおでこに引っ掛けているだけなので
自分の身を守りやすい。その代わり荷物は転がって木っ端微塵となり、
谷底へ回収に行く事になる。紛失も当然なので重要な装備など、
ベテランポーターに持たせるような配慮も必要だが、
ナイケ(ポーター頭)まで落ちていたから何とも言えない。

?9月1日の夜、今回親子で手伝ってくれているポーターの自宅
(カトマンドゥ)に落雷があり、娘さんと牛が直撃を受け亡死亡。
2日早朝、二人は帰って行った。
知らない間に帰ってしまったので
お見舞いも包めなかったしお悔やみも言えなかった。

?西野が具合悪くなった7日朝、
要のサーダーが歯痛でベニまで戻る事になり、結局一週間戦線離脱。

そんなアクシデントに続く、まるでダメ押しのような高山病発症でした。

遠征を終えて  足跡

そんなふうに終わったEXP、少し足跡を振り返ってみたいと思います。
【8月】
 21日 カトマンドゥ着
 22日 準備活動開始
 24日 観光局でブリーフィング、局長が大臣に呼ばれたとかで翌日になる。
  これは登山許可をもらう儀式で、リエゾンという政府の監視役とも初めて
  対面する。このリエゾン、その担当になるだけで登山隊から装備代として
  25万円(ネパール平均年収の3年半分)が懐に入る美味しい職。
  政治体制が変わる度に観光局は利権を巡って奪い合いになるとか。
  現実的にはリエゾンは登山隊に同行しない場合が多い。
 28日 カトマンドゥを大型バスで出発、ベニ泊。
  乾季だとレテまでバスで行ける事が多いが、
  モンスーンで道路が寸断されていて、全て歩きとなった。
 29日 キャラバン開始、タトパニ泊
  温泉で世界一周旅行中の日本人のご夫婦と出会う。
 30日 ガーサ泊
 31日 レテ泊

【9月】
 1日 3250mの峠を切り開いてキャンプ
 2日 4300mの峠を越えて4200mのニルギリBCでキャンプ
 3日 3400mの谷底でキャンプ
 4日 BC(4000m)着。予定の4200m地点は崩れていて200m下部に設営。
 5日 プジャー(安全祈願祭)
 6日 隊荷の整理(荷上げ準備)西野4200mまで散歩
 7日 登山活動開始ABCへ。BCにいた西野が意識障害。ヘリを依頼。

これ以降については既にご紹介した通りですが、
日本で富士山に5回も通ってトレーニング(山頂3回泊含む)し、
9/2の行動のように4300mを経て4200mで宿泊経験を持つ西野が何故、
それもBC到着後3日目にして発症したか、という事が重要です。

要は日帰りのような短時間の滞在と、そこで生活するという事とは
全然違うという事。
動いて酸素を取り入れる、水分を摂り血液の流れを良くするといった
順化活動が当たり前にできなかったのが今回の直接的な原因。
日本において、おしっこがしたくなるから水分を我慢する
そんな登山をされている方は絶対高所へは行けないという事です。

日常を高所に持ち込むな、言い換えれば日常を変えられない人は
高所へ行けない、という事なのでしょう。

遠征を終えて 人生には他のアンナプルナがある

こんなふうにして、
私自身は山にも触らせてもらえないままの登山終了となりました。
これもしかし、隊長としての私の登山であっただろうと思っています。
メンバーの命を守り、全員無事に還る事、
それが最も重要な使命だろうと思うからです。

一時は死ぬかと思ったメンバーの笑顔が復活した事、
こんなにアクシデントに喜ばせてもらった登山は
これまでありませんでした。かけがえの無い時でした。

帰国してから、多くの仲間がそんな登山を
それぞれの思いで労わってくれました。ありがとう。

「人間の生活には、他のアンナプルナがある・・・」
これは「処女峰アンナプルナ」のエピローグですが、
「アンナプルナはきっといつも何処でも次々と現れると信じます。」
そんな言葉で慰労してくれた仲間もいました。
エルツオークが「アンナプルナこそ、生涯の残りを生きる宝なのだ」
と言っているように、僕にも今回の凝縮された時が胸に刻まれています。

ひょっとしたらこの登山で、2000年の時には掴み得なかった、
エルツオークと共有できる「思い」を持てたのかもしれません。

そんなふうに思うと、
「次のアンナプルナ」を求める自分がふつふつと湧いてきて、
そしてそれに武者震いするのです。
それこそが僕を突き動かす「渇望」の源泉なのでしょう。

奇しくも今日は10月10日。2004年、アンナに眠った二人の、
そして去年北岳に眠った松宮の命日でもあります。
今のこの生に、そして「渇望」できる生に感謝します。

   

                           ―合掌―