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安重根は犯罪者であり、「英雄」ではない

2013.12.29

 

<目次>

はじめに

1.韓国による安重根の石碑建立の動き

2.伊藤博文と安重根

3.伊藤は当初韓国統合に反対だった

4.伊藤は安らに暗殺された

5.安の伊藤殺害の動機
6.安の日本観と東洋平和論

7.伊藤をたたえる韓国人・外国人の言葉

8.伊藤暗殺でむしろ日韓併合は加速された

9.日韓併合条約は合法的である

10. 日本の朝鮮開発政策は高く評価されている

11. 伊藤・安の息子たちの和解

12.真犯人は別にいる

 

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はじめに


 韓国人の歴史観には、こうありたいという願望や史実を無視した思い込みが多い。伊藤博文を暗殺したとされる安重根を「抗日闘争の英雄」とするのは、その典型の一つである。本稿は、安重根は犯罪者であり、「英雄」ではないことを記すものである。

1.韓国による安重根の石碑建立の動き


 韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は、安重根(アン・ジュングン)をたたえる石碑を、中国のハルビンに建て、中韓連携による反日の象徴としようとしている。安重根は、初代韓国統監を務めた伊藤博文を暗殺した犯罪者である。韓国では「抗日闘争の英雄」とされるが、わが国にとっては「維新の元勲」にして初代・総理大臣を務めた国家指導者を殺害したテロリストである。安重根は、1909年(明治42年)10月26日伊藤暗殺事件を起こし、殺人罪で、事件直後に処刑されている。
 だが、第2次大戦後、韓国では、安重根を英雄視するようになり、勲章が追叙された。1970年(昭和45年)には首都ソウルの南山公園に安重根義士記念館が作られて、顕彰されている。2009年(平成21年)には、同年10月26日を「安重根が国権剥奪の元凶・伊藤博文をハルビンで狙撃した義挙から100周年に当たる」と位置付け、これに合わせて翌年記念館が拡張された。
 朴槿恵氏は本年2月大統領職に就くと、反日的な姿勢を露骨に示す一方、中国への傾斜を強めている。朴氏は本年6月に訪中し、習近平国家主席と首脳会談を行った際、習氏に安重根の石碑を建てたいとして協力を要請した。朴氏は、伊藤殺害現場のハルビン駅に石碑を建立する計画である。11月18日、韓国を訪問した中国の楊潔チ国務委員(外交担当)と青瓦台(チョンワデ、大統領府)で会談し、計画は中韓間で「うまく進んでいる」として謝意を示した。
 これに対し、菅義偉官房長官は19日、「わが国は、安重根は犯罪者であると韓国政府にこれまでも伝えてきた。このような動きは日韓関係のためにはならないのではないか」と述べ、韓国政府を批判した。韓国外務省は「犯罪者」との指摘に反発したが、菅氏は「随分と過剰反応だなと思う。私は従来のわが国の立場を淡々と述べただけだ」と述べた。韓国の尹炳世(ユン・ビョンセ)外相は20日の国会答弁で、菅氏の発言に対し、「日本政府の立場を代弁する高官の、歴史を無視した発言」との認識を示し、「韓国政府としても、国民としても容認できない」と反発した。尹氏は「日本の責任ある政治家は、日本帝国主義の侵略の歴史を徹底的に反省し、被害を受けた国家に心から謝罪する姿勢を持たなければならない」と強調した。中国の洪磊外交部報道官は定例会見で、安重根について「歴史上の有名な抗日烈士であり、中国でも尊敬されている」と述べて、韓国を援護した。
 これまでは、中国政府は、安重根の評価は反日勢力を刺激し、国内の社会不安を増大させるとして、積極的な評価は行っていなかった。2006年に、韓国人によってハルビンに安重根の銅像が建設されたが、「外国人の銅像建設は認めない」として中国当局により撤去された。伊藤暗殺100年にあたる2009年10月26日に同市で記念式典が開かれた時は、ハルビン駅近くの中央大街公園広場での開催を許可せず、朝鮮民族民芸博物館での開催となった。また旅順の戦争陳列博物館で安重根の特別展が開かれたが、安重根の名前を出させず、慰霊や記念式典は認めなかった。
 だが、過去の政権以上に反日的な姿勢を強めている習近平政権は、態度を変えたようである。中韓の連携によって安重根の石碑を建てるという計画は、日韓関係・日中関係を損ない、韓国・中国にとっても重大な不利益を生じるだろう。ページの頭へ

 

2.伊藤博文と安重根


 李朝末期の朝鮮は、政治と社会が腐敗しきっており、国全体が疲弊していた。支配階級は外からの脅威をよそに、党派抗争に明け暮れ、貪官汚吏がはびこり、民衆は悲惨な生活を強いられていた。19世紀末の東アジアで、朝鮮はシナ(清国)、ロシア、日本のはざまにあって、国家を維持する力が消失していた。
 朝鮮は日清戦争後、シナ(清)への従属を脱し、1897年(明治30年)に大韓帝国と号して、高宗が皇帝を称した。日本と韓国は1904年(明治37年)に第1次日韓協約を結び、日本は韓国政府に顧問を置いた。1905年には第2次協約で、日本は韓国を保護国とした。日本としては、日露戦争後も朝鮮半島にはロシアの脅威が残っていたため、韓国を保護国とせざるをえなかった。
 韓国統監府が設置されると、伊藤博文が初代統監に就任した。吉田松陰の弟子、維新の元勲として尊敬され、初代総理大臣、アジア初の憲法の実現者、天皇を支える枢密院議長等として知られる当時日本最高の指導者が、朝鮮の開発・発展に尽くした。

 

 

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伊藤の考えは、欧米諸国が行うように朝鮮を植民地とすることではなかった。1905年(明治38年)11月の伊藤のメモには、「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述がある。伊藤博文研究の第一人者とされる伊藤之雄京都大学教授は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている。
 高宗は、第2次協約に反して、1907年(明治40年)6月、オランダのハーグで開催された万国平和会議へ密使を送り、「独立回復」を訴えた。全権委員の会議参加は、韓国には外交権がないとの理由で拒否された。この事件をきっかけに、伊藤は高宗皇帝を退位させ、皇太子を即位(純宗)させた。また韓国の軍隊を解散させた。これによって韓国人による義兵運動が起こった。

 

 

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 こうした時、抗日運動に身を投じたのが、安重根だった。安は、1879年に朝鮮黄海道の海州で両班の子として誕生した。両班は李朝の特権身分である官僚階級である。成長してからキリスト教カトリックに改宗し、生涯その信仰を持ち続けた。洗礼名をトマスという。韓国の状態に危機感を持った安はウラジオストクに亡命し、大韓義軍を組織して、抗日闘争を行った。ページの頭へ

 

3.伊藤は当初韓国併合に反対だった


 ハーグ密使事件をきっかけに、日本では一気に併合を進めるべきだとする声が高まった。だが、日本は第3次協約を締結し、統監権限を強化する取り決めのみとした。韓国併合について、陸奥宗光、曾禰荒助等は反対派、桂太郎、山縣有朋等は推進派だった。伊藤博文は、韓国を保護国化し実質的に統治することで充分と考え、当初は韓国併合に反対の立場を取っていた。理由は、わが国は日露戦争で莫大な戦費を費やし、貧困国の合併にかかる出費をする余裕のないこと。韓国を併合すれば、韓国の対外債務を引き受けねばならないこと。また台湾の開発の経験から見て、一視同仁の思想による民生の向上には莫大な費用がかかること等である。
 これらの理由に加えて、伊藤は韓国人の資質を高く評価していた。韓国を訪れた新渡戸稲造は伊藤と面会した際、新渡戸が「朝鮮人だけでこの国を開くことが、果してできましょうか」と問うと、伊藤はこう答えたという。
 「君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本よりはるか以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ。しかるに今日の有様になったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ。国さえ治まれば、人民は量においても質においても不足はない」(新渡戸稲造『偉人群像』)
 すなわち伊藤は、将来韓国人自身が韓国を統治することを期待しつつ、韓国の政治改革に努めていたのである。日韓の共存共栄を理想としていたのだろう。
 しかし、伊藤は義兵闘争が盛んになると考え方を変えた。1909年(明治42年)4月、時の首相・桂太郎と外相・小村壽太郎が併合の方針を提示すると、その大網を是認した。伊藤の意思を確認した桂内閣は同年7月、「韓国併合の基本方針」を閣議決定した。伊藤は、同年5月に統監を辞任した後、4度目となる枢密院議長に就任した。そして、訪韓して残務を行った。
 伊藤は積極的な韓国併合論者ではなく、韓国の自立を願いながら、韓国の発展に努めたのである。
 伊藤は1907年(明治40年)5月28日、総督府の日本人幹部に対する訓示で次のように述べた。
 「荀くも数千年の歴史と文明を有する国民は、決して獣畜の如く支配すべきものではなく、また支配できるものでもない。日本の識者は決してこのような暴論に賛成せず、またわが陛下の御思召も決してそうではない」
このように説いていた伊藤は、政府の韓国併合の方針を容認するに至っても、併合及びその後の政治は、韓国人の資質を評価し、その自立心を尊重する進め方を求めたことだろう。
 深谷博治著『明治日本の対韓政策』(友邦協会)は、次のような伊藤の言葉を伝えている。
 「日本は非文明的、非人道的な働きをしてまでも韓国を滅ぼさんと欲するものではない。韓国の進歩は多いに日本の望むところであって、韓国はその国力を発展しむため、自由の行動をしてよろしいけれども、ただ、ここにただ一つの条件がある。すなわち、韓国は日本と提携すべしということ、これである。日章旗と巴字旗(韓国旗)とが並び立てば日本は満足である。日本は何を苦しんで韓国を亡ぼすであろうか。自分は実に日韓の親睦を厚くするについては、自分の赤誠を貢献しようとしている。しかも、日清・日露の両大戦役の間、韓国は一体何をしたか。陰謀の外に何をしたか。戦争中は傍観しただけではないか。諸君は、日本が、にわかに来たって、韓国を亡ぼすならんと思うのは、果たして何に基づくのか聞きたいものである。
 日本は韓国の陰謀を杜絶するため、韓国の外交権を日本に譲れという。だが、日本は韓国を合併する必要はない。合併は甚だ厄介である。韓国は自治を要する。しかも、日本の指導監督がなければ、健全な自治を遂げ難い。これが今回の新協約を結んだ所以なのである」
 また、大韓帝国朝廷の官吏に対して、次のように語った。
 「韓国人の何びとが自らその独立を主張したであろうか。かつまた、韓国人の何びとが自ら韓国の独立を承認したであろうか。あるならば聞きたい。韓国人は、三、四千年来、固有の独立を有するように言っているが、自分はこれを承認できない」
 しかし、安重根は、伊藤こそが日韓併合を進めている元凶と考え、伊藤の暗殺を計画した。ページの頭へ

 

4.伊藤は安らに暗殺された

 

 伊藤は、1909年10月26日、帝政ロシアの蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うために、ハルピンを訪れた。安は共謀者たちとともに、列車から降りて駅ホームでロシア兵の閲兵を受けている伊藤に、群衆を装って近づき、銃弾を3発、発射した。被弾した伊藤は約30分後に絶命した。
 安重根は直ちに逮捕され、共犯者の朝鮮人3名もロシア官憲に拘禁された。日本政府は安らを旅順の関東都督府地方法院に移送した。ロシアの治外法権の地から、わが国の司法権管轄の地に移すためである。裁判の結果、翌年2月14日安を死刑、他の者を懲役刑に処する判決が下された。安は同年3月26日に絞首刑に処された。
 伊藤暗殺という大事件は、韓国に衝撃をもたらした。わが国による国葬には、韓国の王室だけでなく、韓国の勅使はじめ政府代表者らが多数参列した。国葬の日、ソウルでは、李完用首相の主催で、官民1万人が参列して追悼会が催された。追悼会は全国各地に及んだ。伊藤を「東洋の英雄」「朝鮮の大活仏」等とたたえる賛辞が続いた。一方、旅順監獄に繋がれていた安重根に面会者はなかったという。
 安重根らは、韓国併合を阻止するために、伊藤の暗殺を謀った。だが、伊藤暗殺は、韓国併合を阻止するものとはならなかった。むしろ、伊藤を殺害したことにより、日韓併合は促進された。
 安の処刑から約5か月後となる1910年8月、寺内正毅統監と李完用首相が日韓併合条約に調印し、併合は完了した。韓国人が日韓併合を非難するのであれば、伊藤を暗殺し、日韓併合を加速することになった安重根を英雄視するのは、誤りである。
 また安重根は、敬虔なカトリック信者にして、深い知識も兼ね備えた人物だったという見方がある。逮捕後は潔く罪を認め、その態度は日本人の検察官や判事にまで深い感銘を与えている。だが、そうした一面をもって、安の行為が免罪されるものではまったくない。 ページの頭へ

 

5.安の伊藤殺害の動機

 

 安重根は、伊藤博文をどのように見ていたのか。関東州都府督裁判所で、清渕孝雄検察官から「なぜ伊藤博文公を敵視するようになったか」と尋問され、射殺の動機を問われた。安重根は15項目の理由を主張した。
 名越二荒之助氏は、名著『日韓共鳴二千年史』(明成社)に、安の主張とそれへの評言を大意、次のように書いている。
 
(1)10年ほど前に、伊藤が指揮して大韓帝国王妃を殺害した。
 14年前の明治28年の閔妃殺害事件のこと。当時、公使だった三浦悟楼以下多くの日本人が処罰された。もちろん朝鮮人もだった。李周會が全責任を負い、「自分が閔妃を殺害した」と供述し、他の二人(伊錫禹、朴鉄)とともに処刑された。しかし、伊藤博文及び我国政府が直接関与したという資料は無い。

(2)5年前に伊藤は、大韓帝国に不利な三ヶ条を締結させた。
 4年前(1905年)の日韓保護条約(第2次日韓協約)のこと。日露戦争のロシアとの講和条約であるポーツマス条約の「日本は朝鮮を指導、保護、監督する権利を有する」という条項に基づいて結ばれたもの。
 朝鮮は1895年に日清戦争により結ばれた下関条約にて初めて「大韓帝国」として独立を果たすことができた。しかし、その後も事大主義を捨てきれず、ロシアに擦り寄り、高宗はロシア大使館に逃げ込み(俄館播遷 1895〜1896年)、そこで政務を行った。
 日露戦争に勝利した日本は特命全権大使として伊藤博文を朝鮮に派遣し、日韓保護条約が結ばれた。当時としては東洋の治安と朝鮮の保全のために、この保護条約はやむを得ぬものだった。

(3)3年前に伊藤は一二ヶ条条約の締結で我が国を不利にした。
 2年前に結ばれた七ヶ条の第3次日韓協約のことと思われる。高宗は保護条約を無視し、明治40年6月、オランダのハーグにて開かれた万国平和会議に3名の密使を送り、日韓保護条約の無効を訴えた。
 これに対して、伊藤統監は、高宗に謁見し電報の写しを見せながら「かくの如き陰険な手段を以て日本保護権を拒否せんとするよりは、むしろ日本に対し堂々と宣戦を布告せらるるには捷径なるにしかず」と迫った。
 高宗と安重根は、国家間で結んだ条約の意味も知らない。
 
(4)伊藤は大韓帝国皇帝の廃立を計った。
 優柔不断、虚言多用、責任転嫁という高宗に対し、面罵してまで退陣を最も強く迫ったのは、朝鮮の農商工部大臣、宋秉oだった。

(5)伊藤は大韓帝国軍隊を解散した。
 解散の詔書を出したのは、高宗より譲位された純宗だった。そもそも、軍隊内に両班制度がそのまま生きているような志願制の朝鮮兵8000人は役に立たず、朝鮮の財政を圧迫するだけだった。そのため徴兵制を他日実施するためにいったん解散を決めたものだった。

(6)決起した義兵たちを、伊藤が殺した。
 正規の条約に基づいた朝鮮駐留の日本軍を、「義兵」と自称して襲う者に対して、自衛権を発動するのは当然のこと。そもそも、「義兵」と称する輩には強盗としか言えない輩が多く、朝鮮民衆、日本人、シナ人を襲うために、それを討伐したにすぎない。

(7)伊藤は大韓帝国の政治と権利を奪った。
 せっかく独立しても、宮廷内部は紊乱し機能しなくなったことを知っていれば、このような恥ずかしいことは言えないだろう。

(8)良好なる教科書を焼却した。
 安重根にとり良好なる教科書とは「反日的排他的教科書」である。

(9)朝鮮人民に新聞の購読の自由を禁じた。
 同じく反日煽動新聞を取り締まるのは当然である。

(10)不良の大韓帝国朝鮮人官吏に食を与え、第一銀行券を発行している。
 李朝の官僚すべてを辞めさせることなどできるはずはない。ましてや、第一銀行券は伊藤統監の来朝以前に発行している。
安重根は国債の意味を理解していない。朝鮮官吏のために、日本でも緊急に国債を発行して支援していた。

(11)国債2300万円を募り、官吏の間で分配したと聞いた。土地も奪ったと聞いた。
 どちらもいい加減な反日煽動新聞の受け売りでしかない。

(12)東洋平和と称しながら、大韓帝国皇帝を廃立するなど当初の宣言と異なる。
 大韓帝国皇帝の高宗は、日露戦争中はロシアに通じ、外国人記者を買収し、日本軍の鉄道・電信の破壊を内密に命じた。明確な日本に対しての背信行為であり、当時のイギリス、フランスなど列強による支配国国王に対する処置を知っていればこのようなことは言えまい。

(13)大韓帝国保護に名を借りて大韓帝国政府の一部と意見を通じ、大韓帝国にとって不利な施策を行っている。
 大韓帝国内閣に親日派といわれる者が入閣したことを指すものと思われる。

(14)伊藤は現天皇(明治天皇)の御父君に当たられるお方(孝明天皇)を殺した。
 考明天皇の崩御は1866年12月25日で、その頃は、伊藤博文は長州の三田尻にいて、宮中に入れる身分ではなかった。

(15)世界各国に対し、「大韓帝国は無事なり」と宣伝し、事実を欺いている。
 世界最貧国で、シナの属国だった朝鮮。李朝末期においては悪政による両班の横暴、賄賂、人身売り買い、盗賊の横行など国とは言えなかった。我が国が保護国とすることにより、治安が確立し、朝鮮人の生活は見違えるように改善された。

 以上である。全体に不正確な知識と思い込みが目立つ。安重根は、こうしたひどく歪んだ伊藤像をもって、伊藤を敵視し、殺害に及んだ。ページの頭へ


 

6.安の日本観と東洋平和論


 安重根は取り調べに当たった検察官に、先のように語ったうえで、「私の思っていることをすぐに日本の天皇に上奏してください。伊藤のよからぬ政略を改めて東洋危急の大勢を救ってくださることを切望します」と述べたという。
 日韓関係については、韓国を兄、日本を弟とし、「弟の一族がみな悪いのではなく、その家の伊藤というものが悪い」と語った。日本が韓国を保護国としたことについては、「天皇の趣旨ではないと思った。伊藤は天皇を欺き、韓国人をも欺いたので、韓国の独立を期すには、伊藤を亡き者にしなければならぬと思った」と述べている。そして「私は日本4千万、韓国2千万同胞のため、かつ天皇陛下と韓国皇帝陛下に忠義を尽くさんがために今回の挙に出た」と決意を語っている。韓国人でありながら日本の天皇に対して敬意を抱いている点は、注目に値する。そして伊藤という「君側の奸」を除きさえすれば、政道は正されるという思い込みが、安を暗殺に駆り立てている。
 安重根は処刑される前に、自伝や自分の日本観、歴史観、政治思想等を書き残した。未完の書『東洋平和論』で、安は日本について、次のように書いている。
 「欧州の列国は全て道徳心を忘れ、中でもロシアは甚だしく、暴行残害は西欧と東亜の至る所に及び、悪に満ち罪にあふれ、神人ともに怒るに至った。そのため、天は機会を与えて東海の小さな島に過ぎない日本に強大なロシアを打倒させた」と。
 日露戦争についてであることは言うまでもない。安は、当時の韓国人やシナ人は「日本軍を歓迎し、運輸、道路建設、偵察、探索などに労苦をいとわず力を尽くした」と述べ、日本の勝利に「自分たちが勝ったように喜んだ」と書いている。
 その一方、シナについては、日清戦争での敗北に関して「清国人は自ら中華の大国と称し、外邦を夷狄と呼び、おごり高ぶること甚だしく、上下が和することがなかったので、このような恥辱に遭った」と書いている。
 ここで重要なのは、安が上下の和に触れていることで、これはわが国において五箇条の御誓文に表わされた君民一体の国家の姿である。御誓文には、「上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし」とある。
 安は本書で「現在、西洋の勢力が東洋に来る禍患に対して、東洋の人種は一致団結して極力防御するのが最上の策であることは、一尺の童子であっても、はっきりと知っている」と説く。その上で「なぜ日本はこの順然の勢いを顧みることなく、同種の隣邦を分割し、友誼を断絶して自ら鷸蚌(ぼういつ)の争いをして漁人を待つようなことを仕出かすのだろうか。韓清両国民の望んでいるのは、日本の現在の政略を大いに断絶することだ」と主張した。
 ロシアを含む西欧列強の進出に対し、日本・韓国・シナは「一致団結」して対抗すべきだという主張である。ここで安は、反日を説いているのではない。むしろ「同種」の隣邦として「友誼」を厚くすべきことを説いている。こういう政治思想の傍ら、その東洋諸民族の団結を妨げている者こそ伊藤博文だという思い込みがあり、これらが結びついて、安を凶行に走らせた。
 韓国では今日、安重根の『東洋平和論』は高く評価されている。だが、そこに渦巻いている複雑な思想や思い込みが見据えられることなく、安は反日の象徴に祀り上げられている。安自身は天皇への敬意や日本への期待、東洋諸民族の「一致団結」等を書き記している。そういう部分は捨象して、「民族の英雄」という虚像を作り上げているのである。
 安重根は、敬虔なカトリック信者にして、深い知識も兼ね備えた人物だったという見方がある。逮捕後は潔く罪を認め、その態度は日本人の検察官や判事にまで深い感銘を与えている。だが、そうした一面をもって、安の凶行が免罪されるものではない。真のカトリック信者は、愛の教えを実践しようとし、凶弾で人を殺めようとはしない。また真に深い知識があれば、伊藤を斃そうとするほどのひどい思い込みには陥らない。一時的・部分的に人を見て、総合的な評価を誤ってはならない。ページの頭へ

 

7.伊藤をたたえる韓国人・外国人の言葉


 安重根は、伊藤博文を韓国支配の元凶と思い込んで、殺害に及んだ。だが、伊藤は、今日も多くの人から誤解されているのとは正反対に、朝鮮半島の発展に最大の貢献をした政治家である。それを証すのは、伊藤が同時代の韓国人や欧米人から高く評価されていることである。

 大韓帝国の外交顧問ド−ハム・スチーブンス:1908年3月帰米した時、サンフランシスコでの記者会見で〜「韓国の王室と政府は、腐敗堕落しきっており、頑固党は人民の財産を略奪している。そして人民は愚味すぎる。これでは独立の資格はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地にされたであろう。伊藤統監の施策は、朝鮮人民にとって有益で、人民は反対していない」。
 (スチーブンスは、この発言に激高した韓国人に射殺された)

 大韓帝国太皇帝(高宗):伊藤の死を惜しんで〜「伊藤を失ったことで、東洋の人傑がいなくなった。公はわが国に忠実正義をもって臨み、骨を長白山(ほそかわ註 白頭山)に埋めて、韓国の文明発達に尽くすと揚言していた。日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。実に伊藤はわが国の慈父である。その慈父に危害を加える者があるとすれば、物事の理事を解さないこと甚だしく、おそらく海外流浪人であろう」
 同上:明治天皇が、伊藤の後任として韓国皇太子の輔育役に、岩倉具視侯爵を命ずる勅語を発した報に接して〜「伊藤を失ったことは、わが国といわず、日本のみならず、東洋の不幸である。その凶漢が韓国人とあっては、赤面のほかない。日本天皇は唯一の重臣にして大師の伊藤をなくされた。それなのに伊藤を害した凶徒を出した国の皇太子を、あくまでも輔育する誠意をみせた。山よりも高く海より深い恩義ある日本皇室にどう感謝の意を表すべきだろうか」
(ハーグ密使事件で伊藤に廃立された高宗は、太皇帝となった。その太皇帝が伊藤を評価し、皇室に感謝している)

 エルヴィン・フォン・ベルツ博士:ドイツの新聞への「伊藤公の追懐」より〜「韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで 起こった。その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが 公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は徹頭徹尾、腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、60歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである」
(明治時代に来日し東京医学校、現在の東京大学医学部で教えた。同時代の日本を伝える証言者。「ベルツの日記」で知られる)

 東清鉄道長官・ホルワット少将:ロシアの新聞 「ハルピン・ウェストニツク紙」より〜「思えば思うほど情けない限りである。最後の大戦争(日露戦争)以前に伊藤公爵が言われたことを、もし、ロシアが聞いていたら、あの悲惨な戦争 も、ロシアの敗戦という不名誉もなかったのである。伊藤公爵のハルピン来訪目的は、わが大蔵大臣との外交上の空しい儀礼的なものでなかったことは、 誰もが知っていた。伊藤公は『ロシアは満州から去れ』などという、一点張りの主張をする人ではない。尊敬すべき老大偉人の逝去は、日本の損失であるばかりで なく、わがロシアの損失であり、韓国が大損失をこうむることは必至である」

 フランシス・ブリンクリー:英字新聞「ジャパン・ウィークリー・メイル」の「伊藤公の性格」より〜「公を泰西の政治家と比較するに、公はビスマークの如く武断的でなく、平和的であったことはむしろグラッドストーンに類するところである。 財政の知識が豊富であったことはビールにも比すべく、策略を行うに機敏かつ大胆であったことは、ビーコンスフィールドに似ている。公はすべての 大政治家の特徴を抜萃して一身に集めた観がある。殊に公は驚くべき先見の 明を有し・・・要するに四十余年の永きにわたって終始一貫、国家の指導者たる 地位を占めたのは、実に千古の偉観というべきである」
(明治時代に来日し、熱心な日本研究家として、日本の姿を海外に紹介し続けた英国人ジャーナリスト)

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8.伊藤暗殺でむしろ日韓併合は加速された


 韓国人・安重根が日本の最高実力者、伊藤博文を殺した。事件の衝撃は大きかった。韓国の指導層は、武力による報復を恐れた。韓国は、シナやロシアなど周辺の大国に従属しようとする事大主義的な傾向が強い。この際、日本に合併した方がよいという運動が起こった。李完用首相や日韓同祖論を説く韓国人・日本人等が日韓併合論を作り上げ、日本の天皇と韓国の皇帝の両帝合意の形の併合案が浮上した。
 李氏朝鮮時代、全権大使としてアメリカに渡った李成玉は、朝鮮人は米国人に軽蔑されているインディアンやメキシコ、インドなどの民族より劣っていることを知り、衝撃を受けた。そして、「李完用侯の心事と日韓和合」に、次のように書いている。
 「現在の朝鮮民族の力量をもってすれば、とても独立国家としての体面をもつことはできない。亡国は必死である。亡国を救う道は併合しかない。そして併合相手は日本しかない。欧米人は朝鮮人を犬か豚のように思っているが、日本は違う。日本は日本流の道徳を振り回して小言を言うのは気に入らないが、これは朝鮮人を同類視しているからである。そして、日本人は朝鮮人を導き、世界人類の文明に参加させてくれる唯一の適任者である。それ以外に我が朝鮮民族が豚の境涯から脱して、人間としての幸福が受けられる道はない。日韓併合が問題になるのは、変な話だ。我輩の併合観は欧米人の朝鮮人観を基に考察したのだ」と。
 当時、韓国では一進会という政治団体が活動していた。指導者の李容九は、民衆宗教・東学の信徒で、一進会は東学組織を再建したものだった。李容九は日露戦争を「ロシアによって代表される西洋勢力が、全アジアを侵略する重大な戦争」とみなした。「ロシアの東漸を、韓日同盟をもって防ぎ、アジアの復興のなかに、韓国が発展する道がある」と信じ、日本への積極的協力を行った。そして、韓日合邦を求める百万人の署名運動を展開した。一進会は、上奏文と請願書を、李完用総理、皇帝純宗、曾禰荒助統監に提出した。李容九は今日の韓国では売国奴とされているが、当時の韓国にはその主張に賛同する者が多くいた。併合を求める世論があったのである。
 日本政府は、武力で併合を進めたのではない。極めて慎重な姿勢を取り、列国の意見を十分聴取した。アメリカ、イギリスは東アジアの安定のために日韓併合は必要と賛成した。米英のジャーナリズムも大部分が支持を表した。シナ(清)、ロシア、フランス、ドイツ、イタリア等の意見も聴き、一国も反対が無いことを確認したうえで、併合に踏み切った。併合は、武力による侵略ではなく、両国の政府の合意により、諸外国の賛同を得て、合法的な条約の締結をもって成立した。比較されるべきものは、イギリスにおけるイングランドとスコットランドの合併である。
 併合によって韓国は、朝鮮となった。1910年、韓国併合と同時に発せられた明治天皇の詔書は、李王家の王族を日本の皇族と同等に処遇するとした。戦前日本皇室と韓国王室は友好的な関係を結んでいた。純宗の息子・李垠には、梨本宮方子女王殿下が嫁いだ。方子妃は、日本と朝鮮が一体となる日鮮融和の象徴と敬われた。方子妃は、日韓の懸け橋に努めた。平成元年(1989)に逝去した際、葬儀は韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、わが国から三笠宮崇仁親王殿下夫妻が参列した。今になって、歴史を何もかも否定しようとするのは、無理がある。ページの頭へ

 

9.日韓併合は合法的である

 

今日韓国では、日韓併合条約は合法的でなかったという主張がある。合法的でない理由として、皇帝の署名がなかったという指摘がある。だが、署名したのは全権大使の李完用首相であり、条約は合法的である。条約は事前に日韓両国の天皇と皇帝によって裁可されていたので、第8条に「本条約は日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下の裁可を経たるものにして、公布の日より之を施行す。と明記されている。批准条項はなく、批准は行なわれなかった。

また、平等な条約ではなかったという主張もある。だが、国力の違う国の間で結ばれる条約は多い。双方が合意したから条約が締結されるのである。合意できなければ、結ばなければよいのである。日本は幕末にアメリカに黒船で脅かされ、安政の条約を結んだ。治外法権を認め、関税自主権のない不平等条約だった。しかし、日本はその条約を誠実に守り、国家の建設を進めて、改正を実現した。

 日本と韓国は、1965年に日韓基本条約を結び、戦後処理や賠償金問題について、国家間の正式な約束を取り決めたが、当時の佐藤栄作内閣と韓国の朴正煕政権は、1910年の日韓併合条約を正式な条約と認め、これに代わるものとして日韓基本条約を締結した。日韓基本条約は、日韓併合条約を合法的なものと確認した上で、結ばれたのである。

日韓基本条約には、過去のことはこれをもって一切解決した、という主旨が明文化されている。朴大統領は、日本に倍賞は求めない、ということで合意した。同条約に付随する「財産及び請求権に関する問題の解決ならびに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」は、両「国民の間の請求権に関する問題」が、「完全かつ最終的に解決された」とうたっている。この協定に付随する議事録には、韓国の「すべての請求が含まれており」、韓国が対日請求について「いかなる主張もなしえないことになることが確認された」と記されている。

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10.日本の朝鮮開発政策は高く評価されている

 

日本の朝鮮開発政策は、戦前の朝鮮事情を知る外国人から高く評価されていた。

 当時上海で「ザ・ファー・イースタン・レビュー」を発行し、社主兼主筆として活躍したG・ブロンソン・レーは、1935年刊の『満州国出現の合理性』に、次のように書いている。

 「日本が1909年に朝鮮を併合して以来、善政が施かれ、法と秩序と平和が保たれ、通貨は安定し、比較的繁栄を見た。日本人の手によって鉄道が敷かれ、道路が作られ、学校や病院が建てられ、水道と下水道工事が行われた。また、日本人は治水事業を行い、広大な荒れ地を開拓し、種痘を実施した。もはや内乱もなければ、匪賊も姿を消し、飢饉もなければ、洪水もなく、疫病もなくなった。そして、何が起こったか。1909年には、9百万人だった朝鮮人は、21年後の1930年には2千万人に達したのである」

 アメリカの歴史学者、ヘレン・ミアーズは、1949年マッカーサーから日本では発禁とされた名著『アメリカの鏡・日本』に、次のように書いている。

 「1894年7月29日、韓国駐在のシル・アメリカ代表は次のように書いている。『日本は思いやりの態度で韓国に接していると思う。こんどこそ、韓国をシナ(清国)の束縛から解放しようとしているようだ。韓国国民に平和と繁栄と文明開化をもたらすことによって、力の弱い隣国を安定した独立国にしようと考えている。こうした日本の動機は韓国の知識層である官僚の多くが歓迎している』と」

 「今日、私達が日本の韓国『奴隷化』政策を非難するのは、要するに日本の植民地経営が著しく拙劣だったからである。しかし、一般に『進歩』の基準とされている病院、学校、官庁(とくに現地行政機関)に占める韓国人の割合、通信施設の整備、産業化、資源開発でみると、日本の経営は他の植民地主義国に比べて、劣っていなかったばかりか、むしろ勝っていたといえる。今日、日本の韓国経営を否定する人は、日本の主な目的が韓国国民の安寧福祉より自国の安全保障と経済的利益であったことを指摘する。しかし、そうした状況はヨーロッパの植民地では当たり前のことだった」。

日本は事実、朝鮮で鉄道、道路、学校、病院を作り、水道工事、治水事業、荒れ地開拓等を行った。そのため、韓国の併合は日本にとって、実は経済的に大きな持ち出しとなっていた。併合前の韓国は、日本政府が援助しないとやっていけない赤貧の地だった。日本は日韓併合にいたるまで、崩壊寸前だった韓国財政に絶えず援助を続け、1億円までも送った。その後も毎年2千万円程度の補助金を出し続けて、韓国の経済、財政を支えた。それゆえ、日本が一方的に略奪したというのは、全く事実に反している。逆に、日本が韓国のインフラを整え、そのうえ、教育にも力を入れたことが、戦後の韓国の大発展の基礎になったのである。

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11.伊藤・安の息子たちの和解

 

伊藤の死後、伊藤を弔うために、京城(現ソウル)に博文寺が建立された。安重根の息子・安俊生は、伊藤の死後30年となる年、1939年10月15日に博文寺を参拝し、博文に対して焼香した。翌10月16日には、朝鮮ホテルで伊藤博文の息子である伊藤文吉と面会した。

10月16日付の京城日報は、「亡父の贖罪は報国の誠意で」という題名の下に、「伊藤公の霊前に頭を下げる」「 運命の息子俊生(重根の遺子)君」という副題で、俊生が前日博文寺を訪れて伊藤の霊前に焼香して、 準備した安重根の位牌を奉って追善法要を挙行した という行跡を伝えた。

面会の席で安俊生は「死んだ父の罪を私が贖罪して全力で報国の最善をつくしたい」という意志を表明した。こうして、伊藤博文と安重根の息子たちは、和解した。

 

 

写真: 中日新聞がおかしな事をまた記事にしているけど・・・
前にも書いたけど安重根の息子安俊生氏は伊藤博文の息子伊藤文吉氏に会って謝罪していると言うのに(`・ω・´メ)


京城日報の10月16日付には
《亡父の贖罪は報国の誠意で》という題名の下に
《伊藤公の霊前に頭を下げる》
《運命の息子俊生(重根の遺子)君》という副題で、
俊生が前日博文寺を訪れて伊藤の霊前に焼香して、
準備した安重根の位牌を奉って追善法要を挙行した
という行跡を伝えた。

この席で俊生は
「死んだ父の罪を私が贖罪して
 全力で報国の最善をつくしたい」
という意志を表明する。 



安重根の息子安俊生氏>>>>>>>>>>>>>>>
>>越えられない壁>>>>>>>>>>中日新聞

 

戦後、安俊生は韓国でひっそり暮らした。その息子つまり安重根の孫となる安雄浩は米国に移民し中国系女性と結婚した。さらにその息子つまり安重根のひ孫が今年(平成25年)、伊藤博文暗殺事件104周年記念で韓国を訪れた。ひ孫は50歳で、トニー・アン・ジュニアといい、韓国語もしゃべれない米国人となっていたという。これが韓国の「民族の英雄」の子孫の系譜である。ページの頭へ

 

12.真犯人は別にいる

 

伊藤博文暗殺事件は、謎の多い事件である。安重根が暗殺の実行犯の一人だったことは間違いない。だが、実際に伊藤を射殺したのは、別の人間と考えられる。安重根が使ったのはブローニング拳銃だが、伊藤が被弾したのはフランス騎馬隊のカービン銃のものだったという証言がある。伊藤に命中した弾丸は、安重根の拳銃から発射されたものではないとすれば、安重根は暗殺の実行犯の一人ではあるが、真犯人は別におり、安が罪を負う形とした可能性がある。

 事件から11日後の1909年(明治42年)11月7日、韓国統監・曾禰荒助(そね・あらすけ)は桂太郎首相に、次のような機密電文を送った。

 「真の凶行担当者は、安重根の成功とともに逃亡したのではないか。今、ウラジオストク方面の消息に通ずる者の言うところにし、凶行首謀者及び凶行の任に当たった疑のある者を挙げると、左の数人となるだろう」

曾禰は朝鮮人25人を挙げる。安重根の名前もその中にある。だが曾禰は「真の凶行担当者」は逃亡したのではないかとみている。ウラジオストクはロシア領である。安はその地で抗日闘争を行っていた。当然、帝政ロシアの官憲の容認なり保護なりがなければ、テロ活動はできない。伊藤が襲撃されたハルピンは、当時帝政ロシアの租借地だった。まずこのことが重要である。

事件から30年ほどたってから、真犯人は別にいるという説が現れた。ノンフィクション作家・大野芳氏は、著書『伊藤博文暗殺事件〜闇に葬られた真犯人』(新潮社)が、その説をもとに考察を行っている。

外交官上がりの貴族院議員・室田義文は、伊藤暗殺事件の現場にいた。伊藤の随行員として伊藤から約3メートルという至近距離で事件を目撃した。自分も被弾した。その室田が言う。

「伊藤公の傷あとを調べると、弾丸はいずれも右肩から左下へ向っている。もし、安重根が撃った弾ならば、下から上へ走ってゆかねばならない」「上から下に向っている弾道を見ると、これはどうしてもプラットホームの上の食堂あたりから撃ったものと想像される」と。

 安重根は、地上で伊藤に近づいて拳銃を撃った。室田は、銃声を聞いた直後、ロシア兵の股ぐらから銃を突き出している者を見た。狙撃者(スナイパー)は、しばしば全体が見渡せる高い位置に陣取って、身を隠す。当時、ハルピン駅の駅舎には2階があった。室田によると、その建物は部屋数が多く、いずれの部屋にも大形の窓があるので、兇徒が紛れ込んで潜伏するには都合がよい作りだった。伊藤射殺の真犯人は、そこから伊藤を狙撃し、テロの混乱に乗じて逃亡したのではないか。

室田は言う。「弾丸を調べてみるとすべて13連発の騎馬銃のものだった。蔵相ココツェフが後で、その前夜騎馬銃をもった韓国人を認めたと言っていることも思い合わせると、安重根のほか意外なところに別の犯人がいるのではないだろうか」と。

室田は、事件直後の特別列車と移送先で、医師の処置に立ち会った。伊藤には3発の銃弾が命中した。1発は肉を削いで体外に出た。体内に残っていた2発の銃弾はフランス騎馬隊のカービン銃のものだった。安重根が用いたのは、ブローニング拳銃である。銃弾が異なる。これは決定的な証拠となりうる。室田は右肩を砕いて右乳下に止まった弾丸と右腕関節を貫通して臍下(へそした)に止まった弾丸を現認している。盲管銃創の2発は、遺体を傷つけないよう体内に残したという。だが、医師の診断書には銃弾の種類は記載されていない。検事の調書には室田が騎兵銃について述べた記録はなく、安重根を裁いた公判記録のどこにも騎兵銃の文字はない。遺体の処置に当たった医師の談話にも騎兵銃は出てこない。室田の思い込みか、創作か。

事件において、伊藤が浴びた3発の他に、室田ら随行員5人が計10ヵ所を被弾していた。安重根が握っていたブローニング拳銃は装弾数が7発で、残弾が1発あった。6発しか撃っていないのに、13ヵ所の銃痕は説明がつかない。一人の衣服を貫通した弾が別の人間に当たった可能性を含めて考えても、被害が多すぎる。安重根以外に、凶弾を密かに放った者がいたに違いない。そして、室田が証言するように、伊藤に命中したのは、騎兵銃だったとすれば、別に狙撃者がいたのである。

伊藤博文暗殺事件は、日露戦争終結の約4年後に起こった。わが国は、大国ロシアに勝利したものの、東アジアにおけるロシアの勢力を一掃しえたわけではなかった。大敗したロシアは依然として満州北部で権益を握っていた。事件が発生したハルピンは、ロシアの租借地であり、そこに伊藤は外交のために出かけて行ったのである。

 伊藤を迎えたハルピン駅のホームには、ロシアの儀仗兵が並んでいた。事件後、安重根を現行犯逮捕し、共犯の容疑者8人を拘束したのはロシア官憲だった。ロシア官憲は、うち5人は無関係として放免し、安とともに朝鮮人3名のみが拘留された。その取り調べを担当した検察官もロシア人だった。ロシア側が事件に関与したり、事件を利用したりすることは、容易な環境だった。

安重根の背後に、ロシアが浮かび上がってくる。安が抗日活動を行っていたウラジオストクは、ロシアが1860年に清から獲得した沿海州の要所である。ロシア海軍の軍港となったこの街は満州人のほか、出稼ぎの朝鮮人が殺到していた。安はこの街の朝鮮人町で暮らしていた。朝鮮人は外国で必ず徒党を組む。彼らはここでも「韓民会」という組織を作り、安も加入していた。「韓民会」は、ロシア特務機関の強い影響下にあった。

大野氏は、ミハイロフというロシア人に注目する。ミハイロフは自称・退役軍人で、現地で新聞を発行していた。ミハイロフは「韓民会」と密接な関係にあり、武器の横流しを行なっていた。安ら逮捕された朝鮮人は、シリアルアンバーの近いベルギー製のブローニング拳銃を持っていた。大野氏は、ミハイロフが暗殺計画をセットした人物と見る。さらに事件後に謀殺された楊成春という朝鮮人を、駅舎の2階から伊藤を狙撃し、致命傷を与えた真犯人として推理している。

伊藤暗殺事件の直後、韓国統監・曾禰荒助は、桂太郎首相への電文で、安重根ら25人の韓国人の名を伝えたが、彼らは、ロシア特務機関の影響下にある「韓民会」の連中だった。

ロシア特務機関がなぜ伊藤を狙ったか。元九州大学大学院客員教授の若狭和朋氏は、大意次のように説いている。日露戦争の前、伊藤はロシアと協商を結ぼうとしていた。だが、その後、日英同盟が結ばれ、日露開戦が予想より早くなった。そのためロシアは敗北した。ロシア側は、伊藤が対露謀略の中心人物だと判断し、裏切り者として復讐したのだ、と。

この説を受けて推察すると、ロシア側が伊藤を謀殺するには、ハルピンはまたとない場所だった。直接殺害すれば、日露間の大問題となるが、ロシア特務機関の下にある韓国人の組織を使えば、韓国人の犯行となる。ロシア側は、韓国人テロ集団の行動を指導または容認し、伊藤殺害の実行後は、ロシアの関与が知られないように、重要人物は逃亡させるなり、この世から消せばよい。伊藤暗殺は、韓国人による日本の韓国併合への反発という動機だけでなく、ロシアによる対日工作という背景があったと考えられるのである。

ただし、ロシア側が伊藤暗殺を謀る動機は、裏切り者への復讐という単純なものではないだろう。政治的・戦略的な動機があるはずである。伊藤を暗殺すれば、日本の指導層で日韓併合の動きが止まるだろうとか、韓国人による伊藤の殺害で日韓に対立が生じてロシアが朝鮮半島に介入する機会が生まれるだろうとか、伊藤を除くことで韓国内の反日親露勢力を強化できるだろうとか、何かそれなりの目算に立った目的があったのではないか。

事件当時、わが国の指導層は、伊藤暗殺へのロシアの関与をどの程度、考察し調査したのか。曾禰統監の報告を受けて「真の凶行担当者」を追及するには、ロシアに協力を求めねばならない。だが、もし安重根らの背後にロシアがおり、安らはロシアの関与のもとに伊藤を暗殺したという疑惑を追求すれば、日露関係は再び緊張を高める。わが国には、当時再度ロシアと矛を交えるだけの余力はなかった。そこで、安重根を犯人ということにし、外交的にも内政的にも幕引きを図ったのではないか。日本はここでロシアとも韓国とも武力で争うことなく、日韓の合意による韓国併合の道を進んだ。それは、韓国の指導層も民衆も望む道だった。ロシア側は、伊藤暗殺の狙いが外れたということではないか。

 伊藤博文暗殺事件の発生時 ロシア側は一部始終すべてを撮影していた。だが、フィルムは、事件の直前までしか公開されてない。フィルムはロシアにある。それが公開されれば 事件の真相を解くカギとなるだろう。

安重根は、伊藤博文暗殺事件の実行犯の一人ではあるが、真犯人は別にいる。安が撃った弾は伊藤に当たっていない。その可能性があることを考えても、韓国政府が安重根を韓民族の英雄に祀り上げることは、思慮が浅く、また稚拙な演出によるものと言わざるを得ない。いずれ安重根という英雄像は崩落するだろう。ページの頭へ

 

参考資料

・名越二荒之助編著『日韓共鳴二千年史』(明成社)

・黄文雄著『韓国は日本人がつくった』(徳間書店)

・大野芳著『伊藤博文暗殺事件』(新潮社)

・若狭和朋著『続・日本人が知ってはならない歴史』(朱鳥社)

・若狭和朋著「安重根は犯人ではない」(『歴史通』20107月号)

・伊藤博文に関する外国人の評価をまとめているビデオ

http://www.youtube.com/watch?v=Wm6tWv8G8JQ

 

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