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■現代世界の支配構造とアメリカの衰退

2009.5.21/2014.9.18一部修正

 

<目次>

 はじめに

第1章 現代世界の支配構造

(1)現代社会の集団構成

(2)大英帝国永続の夢

(3)王立国際問題研究所

第2章 アメリカを動かす外交問題評議会

(1)覇権維持のための国際機関

(2)政治・経済・外交・軍事に影響力

(3)アメリカ帝国の頭脳

第3章 ビルダーバーグ・クラブ

(1)欧米主導の世界を企図

(2)西洋文明を延命させる力

第4章 アメリカ歴代政権を操る者

(1)ケネディからニクソンを貫く組織

(2)象徴的存在としてのキッシンジャー

第5章 ロックフェラーのグローバリズム

(1)日本を取り込む三極委員会

(2)ロックフェラー家の帝国

第6章 デイヴィッド・ロックフェラーの絶頂

(1)ブッシュ家を押し上げたもの

(2)スカル・アンド・ボーンズの人脈

(3)クリントン、ブッシュ子も背後は同じ

第7章 9・11とアメリカの挫折

(1)アメリカ政府が関与

(2)ネオコンの画策と失敗

(3)超大国を動かすシオニズム

第8章 21世紀アメリカの衰退

(1)オバマの危うい挑戦

(2)アメリカに寄生する勢力

結びに

 

 

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はじめに

 

本稿は、もともと拙稿「現代の眺望と人類の課題」の初版(2009年5月21日掲示)の一部として書いたものを、独立させたものである。「現代の眺望と人類の課題」は「西欧発の文明と人類の歴史」の続編に当たり、第2次世界大戦後の世界を歴史的に眺望し、今日の人類の課題を論じている。

現代の世界は、その支配構造から理解しないと、歴史の深層をとらえられない。表層だけでなく深層の側からも現代世界史を見ることで、人類の課題を明確にすることができる。本稿は、その深層を探り、「現代の眺望と人類の課題」を補助するものである。独立して掲示するに当たり編集上必要な修正を行ったが、内容は2009年5月21日掲示の時点のままである。

 

 

第1章 現代世界の支配構造

 

(1)現代社会の集団構成

 

●近代化した社会の集団構成

 最初に現代社会の集団構成について書き、現代史に重要な影響を与えている国際組織について述べる。
 近代西洋文明及び近代世界システムは、資本と国家という二つの主体の相互作用のもとに発達した。資本と国家を人格的に言えば、資本家と統治者である。
 西欧では、中世の封建社会の統治者である王族・貴族が富と権力を所有し、支配集団を構成していた。近代化の進行によって資本家が成長し、この支配集団に参入した。それによって、封建制的身分的な集団と新興の資本家が共同で国家を統治し、海外に拡大する植民地の経営を行うようになった。
 中世以来の封建階級である王族や貴族は、今日も西欧に存在する。彼らは資本制的貨幣経済に適応し、世襲的な富裕層として、莫大な資産を運用している。イギリス・オランダ等の君主国では、資本家は王族・貴族に仕え、または協力して、富と権力を維持・拡大している。近代西洋文明及び近代世界システムの二つの主体である資本と国家は、彼らによって担われている。

 19世紀に、資本家の中で圧倒的な存在となったのが、ロスチャイルド家である。西欧では、ヨーロッパにはロスチャイルド家という一つの権力しかない、といわれるほど、ロスチャイルド一族は莫大な富と権力を掌中にした。彼らを筆頭として、ベアリング、ウォーバーグ、シュローダー等の国際金融資本家たちが、中世以来のイギリスやオランダ等の王族・貴族と共に、国際社会を支配する体制が作られた。近代世界システムの中核部は、こうした王族・貴族・資本家が支配する社会となった。
 19世紀末になると、新興国家アメリカが急速に発展し、近代世界システムの中核部は、西欧から北米へと拡大した。北大西洋地域ということも出来る。そして、アメリカの資本家が西欧の支配集団に参入するようになった。それが、モルガン、ロックフェラー、デュポン、メロン等の財閥である。こうして西欧及び北米の支配集団が、近代世界システムの中核部を支配するようになった。別の言い方をすれば、近代西洋文明は、西欧・北米の王族・貴族・資本家が、富と権力を所有する体制となったのである。その支配集団を構成するのは、白人諸民族とユダヤ民族である。

●中核部での複雑化・多様化

 マルクスは、生産手段の所有・非所有によって、社会集団を分けた。マルクスは、近代市民社会においては、資本家(ブルジョワジー)と労働者(プロレタリアート)を基本的階級とし、二大階級とした。マルクスは、市民社会は資本家階級と労働者階級に二分化し、激しい階級闘争が起こると予想した。
 マルクスは、資本家と労働者の中間に中産階級があるとした。プティ・ブルジョワともいう。中小商工業者・自営農民・自由業者等を指し、社会の中間層をなす。中産階級は、小所有者階級として所有者意識を持つ反面、生活上は労働者に近いという二重の立場に立つ。マルクスは、中産階級は資本主義社会の発展とともに衰退・分解する不安定な階級とした。
 しかし、近代世界システムの中核部は、周辺部から収奪する富によって社会全体が豊かになり、労働者の生活も豊かになった。また資本主義の高度な発達によって、19世紀後半より労働者は精神的労働者と肉体的労働者に分化し、精神的労働を担うホワイトカラーが増加し、かつての中産階級を旧中間層とすれば、新中間層を形成するようになり、かつ極度に増大している。
 また株式会社の発展により、大会社の場合、資本所有者である株主の数が増加し、中小株主が増えて株式所有が分散し、大株主の持ち株が低下する傾向にある。その一方、経営管理の職能が専門化し、所有者と経営者の分離が進んだ。企業だけでなく国家においても、高度な知識・技術を持つ経営者や官僚、すなわち精神的労働者の役割が重要になった。また労働者も株式を購入することで、資本の所有に参加することができるから、小所有者が増加した。社会改良の漸進により、生命保険、年金等が普及し、労働者が集団的に金融資本の所有者となって、利潤の分配に預かる仕組みが発達した。
 このように19世紀後半以降の近代世界システム中核部の社会は、複雑化、多様化が進んだ。こうした社会の構成をどのようにとらえるべきか。

●四つの集団〜所有者、経営者、労働者、困窮者

 私は、生産手段の所有・非所有で分ける階級という概念は定義が狭く、複雑化・多様化している今日の社会では、十分有効ではないと思う。生産手段の所有・非所有で分ける場合を除いて、階級ではなく集団という概念を用いることにする。階層という概念もあるが、社会を構成する集団は、必ずしも垂直的に層を成すのでなく、部分的に包含し合ったりするので、やはりうまくないと思う。
 西欧発の近代文明では、19世紀後半から今日に至るまで、社会は、大まかに分けて、四つの集団で構成されている、と私は考える。その四つの集団とは、所有者(the owners)、経営者(the managers)、労働者(the workers)、困窮者(the distressed)である。

 所有者とは、大規模な土地や資産を所有する富裕者をいう。西欧やアラブの王侯貴族や各国の資本家等である。
 経営者とは、企業や国家の経営を行う者をいう。所有者に採用または雇用されている企業経営者、政治家、官僚、学者等である。
 労働者とは、労働によって賃金を得て生活する者をいう。マルクスは、労働者と農民を区別し、都市の工場労働者を重視したが、私は、工業・農業・商業等の各産業で働く人々の全体を労働者と呼ぶ。
 困窮者とは、貧困・窮乏・差別等にとって生活に困窮する者をいう。貧民、窮民、難民である。極めて所得が低く、または劣悪な生活環境にある。

 次にこれらの四つの集団の間の関係について。
 所有者と経営者を分けるのは、所有と経営は別の行為だからである。所有者が経営者でもある場合もあれば、経営者を雇って労働させる場合もある。経営者は、自らが所有者でない場合は、同時に労働者でもある。ただし、他の労働者を雇用・管理して労働させる雇用者の立場にあり、被雇用者である一般の労働者と区別する必要がある。所有者と経営者は、社会において支配的な集団を成す。
 労働者は、経営者のもとで働く被雇用者もあれば、小規模の土地や資産を利用して自営で働く者もある。また小規模な株式を所有する者もあれば、ほとんど資産がない者もある。労働者のうち、非常に所得の低い者や資産がほとんどない者は、困窮者に近づく。労働者と困窮者は、被支配的な集団を成す。
 四つの集団の中には、王族・貴族のように前近代的な身分として固定的な小集団があるが、自由とデモクラシーを理念とする社会では、一定の流動性がある。経営者は、富を得ることによって所有者に上昇出来る。労働者のうち、有能なものは経営者に上昇する。さらに所有者に上昇する者もある。困窮者であった難民や移民が、教育を受けて経営者、所有者に上昇する例もある。逆に集団間を下降する場合もある。
 
 所有者、経営者、労働者、困窮者の四集団は、一つの社会の中に存在する。それとともに、国際的に広がって存在する。
 近代世界システムの中核部にある国家には、極めて富裕な所有者が多く存在する。彼らが所有する土地や資産は、システムの半周辺部・周辺部にも広がっている場合が多い。またその所有者に雇用される経営者も、中核部に多く存在する。中核部では、他国を支配し、他国から収奪する政府の政治家や官僚、国際的な企業活動を行う企業の経営者が多く労働している。
 システムの中核部の労働者は、周辺部の労働者より、多くの所得を得て、豊かな生活をしている者が多い。周辺部の労働者は、中核部の困窮者に近いか、それ以下の生活をしている者が多い。困窮者は、周辺部に偏って多く存在する。
 なお、労働者・困窮者が革命やクーデタによって権力を得た場合、権力を用いて富を得ることができる。その結果、新たな支配集団が所有者集団に成り代わる。共産主義国家は、資本家階級を打倒し、労働者階級の社会を建設するはずであった。しかし、その実態は、共産党官僚が資本家階級と入れ替わり、新たな所有者集団となった。旧ソ連や東欧諸国がそうだったが、今日の共産中国もそうである。共産党幹部は、国有財産を集団的に私物化し、巨富を得ている。
 また、周辺部の国家において、軍人がクーデタを起こして権力を得、新たな王族・貴族とも言える集団になっていく例がある。これは、近代世界に限った話ではない。前近代の諸文明・諸社会において、権力の簒奪者や外部からの侵入者が新たな王族や貴族となるということが繰り返されてきたからである。

●現代の国際社会を動かす四つの組織

 現代の国際社会には、欧米を中心とした所有者集団が、国際的な政治・経済を自己の利益にかなうように方向付けるための組織が存在する。
 第2次世界大戦後、設立された国際連合=連合国、国際通貨基金(IMF)、世界銀行(IBRD)、世界貿易機関(WTO)等の国際機関がそうである。またこうした国際機関とは別に、1975年(昭和50年)から、先進国(主要国)首脳会議(サミット)が定期的に行われている。サミットは、政治・経済・安全保障・環境等、広範な議題について議論を行う。経済問題については、各国の財務大臣・中央銀行総裁による会議(G7等)も行われている。各国の中央銀行の中心には、アメリカの連邦準備制度理事会(FRB)がある。FRBは、基軸通貨ドルの発行権を持つことにより、アメリカだけでなく世界の通貨供給の中心となっており、各国の中央銀行がこれと連携している。これらについては、「現代の眺望と人類の課題」第3章に書いた。

 さらに加えて重要な組織が、四つある。王立国際問題研究所(RIIA:The Royal Institute of International Affairs)、外交問題評議会(CFR:Council on Foreign Relations)、ビルダーバーグ・クラブ(BC: Bilderberg Club, Bilderberg conference /group/society)、三極委員会(TC:Trilateral Commission)の四つである。

 RIIAは、1920年に創設され、ロンドンに本部があるイギリスの機関である。チャタム・ハウスとも呼ばれる。CFRは、1921年に開設され、ニューヨークに本部があるアメリカの組織である。ビルダーバーグ・クラブは、1954年に第1回会議が開催され、西欧を中心として欧米が連合した組織である。TCは、1973年に設立され、アメリカを中心として、西欧と日本・アジアを結ぶ組織である。
 
これらは、欧米を中心とした近代世界システム中核部の支配集団が織り成すネットワークであり、巨大国際金融資本家、王族、貴族、政治家、学者、報道人等が参加している。所有者・経営者の集団は、RIIA、CFR、BC、TCといった組織を通じて、西欧諸国やアメリカの外交政策、さらには日本やアジアの外交政策にも影響を及ぼしている。
 現代世界でこうした組織が重要な存在になったのは、かつての世界的な覇権国家イギリスの影響がある。アメリカは、後継の覇権国家として、イギリスの戦略や組織を応用・発展させたのである。イギリスでは、ユダヤ的な価値観とアングロ・サクソン文化が融合し、アングロ・サクソン=ユダヤ的な価値観が発達した。アメリカでは、それがさらに発達している。英米によるアングロ・サクソン=ユダヤ的価値観の広がりが、ユダヤ的な価値観の世界的浸透を推し進めるものとなっている。そこで、まず19世紀に遡ってイギリスでの展開から見ていきたい。

(2)大英帝国永続の夢

 

●RIIA、CFR、BC、TCの原型

 覇権国家は、軍事力と経済力と情報力を必要とする。これらを兼ね備えた国が、覇権国家に成るとも言える。17世紀に近代世界システム最初の覇権国家となったオランダは、経済力には秀でていたが、軍事力・情報力が弱かった。18世紀後半産業革命を成し遂げたイギリスに至って、軍事力・経済力・情報力の三拍子がそろった強力な覇権国家が登場した。
 19世紀末までにアジア・アフリカに植民地を広げたイギリスは、各地の地域事情を把握して植民地経営を行い、世界に冠たる大帝国の維持・拡大を行った。1895年、アフリカ北部のスエズ運河を買収すると、インドのカルカッタ、エジプトのカイロ、南アフリカのケープタウンを結ぶ三角地帯を勢力下に納めようとして、帝国主義政策を推進した。いわゆる3C政策である。
 これに呼応して南アフリカで膨張政策を強行したのが、セシル・ローズである。ローズこそ、当時の大英帝国の代表的な帝国主義者であり、ローズの思想と活動は、イギリスのみならず、欧米の所有者・経営者集団に大きな影響を与えてきている。
 先ほどの四つの組織のうち、RIIA、CFRは、直接ローズを先駆とする。英米中心のネットワークを西欧諸国に広げたのがBCであり、さらにそれを日本やアジアに広げたのがTCと考えると、ローズの思想と活動は、これらの国際組織の原型となるものと考えられる。

●セシル・ローズの野望

 セシル・ローズは、オックスフォード大学で学んだ後、1870年にアフリカ南部に移住し、ダイヤモンド採掘と金鉱経営で巨富を得た。ロスチャイルド家の融資を受けてデビアス社を設立し、競争相手を合併して、ダイヤモンド産業をほぼ独占的に支配した。また、南アフリカの鉄道・電信・新聞業をも支配下に入れ、1890年にはケープ植民地の首相となり、政治・経済の実権を握った。さらに中南部アフリカを占領し、自分の名にちなんで、ローデシアと名づけた。
 ローズは、大金脈が発見されたトランスバール共和国を略取しようとして1895年に、同国の政権を転覆する計画を仕掛けて失敗し、責任を取って植民地首相を辞任した。トランスバール共和国は、ボーア人が建てた国だった。ボーア人とは、オランダ人、フランス人系の南アフリカ移民をいう。
 ローズは、アルフレッド・ミルナー卿に自分の意思を託した。ローズの後任者J・チェンバレンは、ミルナーを1899年にケープ長官(総督)に任命した。アフリカ南部での支配の拡大を目指す彼らによって、イギリスは99年にボーア戦争を開始した。この戦争は、ナチスのユダヤ人虐待に比せられる残虐行為を行った。イギリスは1902年にこの戦争に勝利し、広大な金とダイヤの鉱区権を確保した。

 1902年にローズが死ぬと、莫大な遺産がオックスフォード大学に贈られ、ローズ奨学金制度が作られた。この制度は、ローズの遺言に従って創設されたものだが、ローズは遺産を使って秘密結社を作ること、その結社は大英帝国の維持・拡大に献身すべきことを言い残した。その秘密結社は、「円卓会議(Round Table)」として知られるようになり、またイギリスの王立国際問題研究所(RIIA)やアメリカの外交問題評議会(CFR)に発展していく。

●幻の書『悲劇と希望』が伝えるもの

 セシル・ローズの秘密結社及び円卓会議については、権威ある学者が書いた本がある。キャロル・キグリーの『悲劇と希望』である。キグリーは、ジョージタウン大学の歴史学教授だった。教え子の一人にクリントン元大統領がいる。『悲劇と希望』は、1300ページに及ぶ学術的な著作である。妄想混じりの陰謀論の類の本ではない。
 出版社は1968年に本書の販売を中止した。キグリーは「『悲劇と希望』は弾圧されたと確信している」と述べている。その後、W・クレオン・スクーセン元ブリガムヤング大学教授が、本書を紹介する『裸の資本主義者』(邦題『世界の歴史をカネで動かす男たち』成甲書房)を発行した。それによって幻の書『悲劇と希望』の要点を知ることが出来る。

 セシル・ローズの秘密結社及び円卓会議の重要性を理解するためには、まずキグリーが巨大国際金融資本について書いていることから知る必要がある。
 キグリーは、自分は世界の金融権力構造の動きを最前列で見てきたインサイダーでもあったと言う。キグリーによると、ここ2世紀で世界中の人々が王権支配から政治的自由を勝ち取ったものの、欧米の巨大銀行一族が国際金融連合を形成し、政治支配を目指す新たな王朝を築き上て、そうした潮流に棹差しているという。キグリーはこの銀行家王朝の目的について、次のように書いている。
 「各国の政治体制と世界経済全体を支配下におさめることができる民間の力によって、世界的な金融管理制度を創設することに他ならない。この制度は、頻繁な私的協議を重ねて得られる秘かな合意に基づいて世界の中央銀行が協力し合う、といった封建的な手法を支配原則としていた」と。

 19世紀末以降、大産業資本と大銀行資本が融合した金融資本が出現した。それ以後の資本主義は、巨大国際金融資本が主導する金融資本主義である。こうした経済社会において、国際金融資本家を含む各国の所有者と経営者の集団が、何らかの国際的な組織を作り、金融を通じて世界を支配し、政治・経済・軍事・文化を自己の利益の増大のために操作しようとすることは、十分ありうることである。そうした組織は、おどろおどろしい思想や秘教を奉じる陰謀団ではない。資本と国家の仕組みを理解し、合理的に富と権力の拡大を目指そうとする組織というべきだろう。
 ローズの秘密結社及び円卓会議は、こうした巨大国際金融資本家のグループと結合し、彼らの目的にかなうように行動してきたものと考えられる。

●ローズによる秘密結社とミルナー幼稚園

 キグリーによると、ローズは、オックスフォードでジョン・ラスキンに学んだ。ラスキンは美術学者として有名だが、少数のエリートが支配する統制主義の思想を説いた。彼は、オックスフォードの在学生に、イギリスにおける教育、美、法の支配、自由、品格、節度という伝統は、国内の下層階級や世界の大衆にまで広まらない限り、維持するのは困難であり、また保存に値しない。もし貴重な伝統がこの二つの大多数に広まらなければ、少数のイギリス上流階級はこの大多数の前に屈し、伝統は失われる。それを防ぐには、伝統が大衆と帝国に広まらなければならない、と説いた。
 彼の主張に衝撃を受けた学生の一人が、ローズだった。ラスキンの教授就任演説を書き留めたローズは、その後、30年間持ち歩いたという。

 ローズは、南アフリカでダイヤモンド産業をほぼ独占し、ケープ植民地の首相となったりして、南アフリカで勇名を馳せた。彼は、秘密結社を作り、アメリカ合衆国をイギリスに取り戻し、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アフリカ南部、インドなどの英語圏の植民地にイギリス支配集団の伝統を広げて、一大帝国連邦を築くという野望を持っていた。
 ローズは、1891年に秘密結社を組織し、指揮を執った。ミルナーらが幹部委員会のメンバーとなり、バルフォア卿、ロスチャイルド卿、グレイ卿等が創始者グループの幹部メンバーに名を連ねた。この結社は、単なる私的グループというのではなく、覇権国家イギリスの所有者集団による帝国経営戦略会議のようなものと考えられる。
 なお、その一員となったロスチャイルド家は、ネイサンの孫ナサニエルが1885年に、貴族に列せられた。世界一の経済力とイギリス王室への貢献が評価され、ユダヤ人でありながら貴族に成り上がったのである。ロスチャイルド家は、パレスチナにユダヤ人国家を建設するよう、イギリス政府に働きかけるが、1917年のバルフォア宣言は、結社のメンバーのバルフォアとミルナーが起草に当たった。

 ミルナーは、ローズの要望により、1897年から南アフリカの統治に携わった。彼は、オックスフォード大学を中心に若者たちを集めて、統治運営を手伝わせた。ミルナーが育てた若者たちは、ミルナー・キンダーガーデン(幼稚園)と呼ばれる。キグリーによると、ミルナーが育てた人材は、政府や国際金融機関の要職に就き、1939年ころにはイギリスの帝国主義的外交に辣腕を振るうようになっていた。

●一大帝国連邦をめざす円卓会議

 1902年のローズの死後、ミルナーは、ローズの遺産の筆頭管財人となった。ローズの遺言に基づき、遺産の一部はローズ奨学金の基金とされた。ミルナーは奨学金を活用し、大英帝国を担う人材の収集・養成を進めた。ロスチャイルド家やアスター家等からも資金提供を受けた。こうした制度・組織は、所有者集団が広く優秀な人材を集め、自分たちに仕える経営者や、次代の所有者を育てるものだった。
 ミルナーと彼の弟子たちは、1909年から、結社の支援組織として「円卓会議(Round Table)」を組織した。円卓会議とは、アーサー王伝説の「円卓の騎士」(Knights of the Round Table)に基づく。「円卓の騎士」は、国王を中心とし、王に忠誠を誓い、国を守る騎士たちである。それゆえ、円卓会議は、イギリスのナショナリズム及び帝国主義を象徴するとものと言えよう。ローズが1891年に結成した結社の段階から「円卓会議」と呼ぶ説もある。
 ミルナーらは、1910年に機関紙『円卓会議』を発刊した。円卓会議グループの支部は、15年には、イギリスの主な属領やアメリカ等、7カ国に広がった。この動きは、ラスキンの思想を受け継ぎ、英語圏に一大帝国連邦を作るというローズの構想を実現するものだった。
 キグリーによると、円卓会議グループは、ニューヨークのモルガン銀行からロンドンのラザード・ブラザーズに率いられた国際金融資本グループに及ぶ既存の金融協力体制に沿って成長した。

 第1次世界大戦の終結時、円卓会議は、組織を大々的に拡大する必要を生じた、とキグリーは言う。その仕事は、ミルナー幼稚園のリーダー格だったライオネル・カーティスに委ねられた。
 カーティスは、イギリスと全自治領にある円卓会議グループの活動拠点を構築した。それが、王立国際問題研究所(RIIA)である。RIIAは前線組織であり、その中核は、各地に隠れて存在する円卓会議グループだった。ニューヨークの支部は外交問題評議会(CFR)と名づけられた。CFRは、少数精鋭のアメリカ円卓会議グループとつながるJ・P・モルガン商会の前線組織だった、とキグリーは書いている。

(3)王立国際問題研究所

 

●イギリスの王立国際問題研究所

 王立国際問題研究所(RIIA)は、円卓会議の前線組織として作られたとキグリー教授は言う。RIIAは、1920年、ロンドンに設立された。所在地にちなんで、チャタム・ハウスともいう。諸大陸に植民地を所有する大英帝国における国際問題の調査・研究機関である。
 私見を述べると、資本は組織であり、国家も組織である。組織の維持・発展には、方針・目標・計画がいる。組織が他の組織と戦うには、戦略が要る。単に富と権力を持っているだけでは、目的を達することは出来ない。戦略の立案は、自他を知るところから始まる。そこで重要になるのが、情報である。情報の収集には調査活動が必要であり、また集めた情報を選択し、分析と総合を行わねばならない。そのように精錬して得た知識をもって、初めて戦略の策定が出来る。
 こうした調査・研究・企画には、豊富な資金と優秀な人材が必要である。セシル・ローズやアルフレッド・ミルナーが組織を作って進めてきたことは、イギリス王室の公認のもと、RIIAが設立されたことによって、国家規模で実現することになった。
 RIIAは、1923年以降、歴代の首相と植民地総督が名誉所長を務め、理事長は王族の一員であるケント公である。また、イギリス女王が後援会総裁の座にある。なお、RIIAのメンバーの多くは、大半がフリーメイソン員だといわれる。しかし、RIIAは、秘密結社でも陰謀団ではない。世界に冠たるイギリス王室の設立による権威ある組織である。イギリスでは、フリーメイソンは上流階級の社交クラブのようなものと化している。国王が代々フリーメイソンの名誉会長となっているという。
 
 RIIAは、アーノルド・トインビーの名とともに知られる。20世紀最大の歴史家トインビーは、RIIAにおける国際問題の研究者でもあり、理事を務めもした。過去の文明の研究と現在の国際問題の調査は、切り離すことが出来ない。優れた文明学者は、同時に秀でた国際政治学者でもある。
 RIIAにおけるトインビーの部下には、「007シリーズ」の作者として有名なイアン・フレミングがいた。国際的な調査には、文献の研究だけでなく、諜報活動も必要である。真に価値ある情報は、外交や軍事の前線、貿易と金融の現場から得られる。国際問題の研究機関は、政府や軍の情報機関や国際企業とつながっている。自国の世論を形成するための機関や、外国への工作活動を行う機関とも、つながりを持つ。円卓会議のもとに作られたRIIAは、こうした広がりを持つ組織の一部と考えられる。

 今日、RIIAにはイギリスの大企業が法人会員として参加し、資金を提供している。たとえば、バークリーズ銀行、ブリティッシュ・ペトロリアム、ロイズ・オブ・ロンドン、N・M・ロスチャイルド・アンド・サンズ等である。さらに西欧諸国の法人も会員に名を連ねている。ロイヤル・ダッチ・シェル、クレディ・スイス、ドイツ銀行等である。
 こうした銀行や企業がRIIAの会員となり資金を提供するのは、有効な情報や有力な人脈を得られるからだろう。世界的な規模の調査・研究機関が提供する情報や人脈は、資本の活動に多大な利益をもたらすことだろう。

●英米の連携による覇権の維持

 RIIAの設立当時の目的は、イギリスの覇権を維持・拡大することにあった。大英帝国は、凋落しつつあった。帝国の利益を守るには、急成長するアメリカを管理下に置く必要があった。アメリカがイギリスから独立して以後、イギリスの支配集団は、アメリカへの影響力を回復・増強しようとした。イギリス財閥は、アメリカの新興資本家に出資し、製鉄・鉄道・石油等の基幹産業を育て、そこから利益を吸い上げた。アメリカ経済を発展させたヴァンダービルト、ピーボディ、モルガン、デュポン、アスター、グッケンハイム、シフ、ハリマン、カーネギー、ロックフェラー、ゴールドマン等の活動は、ロスチャイルド家を初めとする西欧の所有者階層とのつながりなしに考えられない。

 アメリカは、1890年代にはイギリスに勝る世界最大の工業国となった。近代世界システムの中核部に、イギリスに並ぶ有力国家が確立したことにより、近代西洋文明は、アングロ・サクソン文化、及びそこに深く浸透したユダヤ文化を主要な文化要素とする文明として、世界各地に伝播してきた。それによって、ユダヤ的価値観を中核とするアングロ・サクソン=ユダヤ的価値観が世界に広がった。
 20世紀初頭において、イギリスの支配集団は、こうしたアメリカを管理下に置くために、様々な形で働きかけを行った。その中で私が最も重要だと考えるのは、中央銀行制度の実現である。1913年、欧米の所有者階層は、連邦準備制度(FRS)を作って、通貨発行権を獲得した。FRSについては「現代の眺望と人類の課題」第3章に書いたので、そちらを参照願いたい。
 FRSの設立後、第1次世界大戦が勃発した。大戦において、アメリカは強力な工業力と軍事力を発揮して、英仏をドイツに勝利せしめた。大戦後、戦いで疲弊した西欧諸国は、アメリカの経済力に頼らざるを得なくなった。イギリスの支配集団は、こうしたアメリカを政治的・外交的にコントロールすることで、英米の連携による覇権の維持を画策した。アングロ・サクソン=ユダヤ連合による覇権の強化と言うことができるだろう。
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第2章 アメリカを動かす外交問題評議会

 

(1)覇権維持のための国際機関

 

●アメリカの外交問題評議会

 外交問題評議会(CFR)は、キャロル・キグリーによると、イギリスの円卓会議のもと、RIIAのニューヨーク支部として、1921年に設立された。円卓会議グループの前線組織の一つであり、円卓会議グループのアメリカ支部と一体の組織として創始された。
 CFRは、外交問題・世界情勢を分析・研究する非営利の会員制組織である。公式見解によると、その目的は「アメリカの政治、経済、金融問題の国際的局面に関して継続的に協議を行うこと」にあるという。しかし、元はイギリスがアメリカを管理下に置き、一大帝国連邦を築くことに目的があった。

 設立後、CFRは、アメリカの政治、特に外交政策の決定に対し、著しい影響力を振るってきた。現在の会員は約3800人。政界、財界、官界、学界、マスコミ、法曹界、教育界等、広範な分野のトップ・クラスの人材が集まっている。外交問題に関し、全米最大のシンクタンクである。
 CFRは超党派の組織であり、共和党・民主党の違いに関わらず、歴代大統領の多くがその会員である。第31代フーヴァーに始まり第43代ブッシュ子までの13人中で、9人がそうである。すなわちフーヴァー、アイゼンハワー、ケネディ、ニクソン、フォード、カーター、クリントン、ブッシュ父、クリントン、ブッシュ子である。会員でないのは、F・D・ルーズベルト、トルーマン、ジョンソン、レーガンのみである。
 CFRは政府高官も多く輩出しており、政権が変わる度に連邦政府の要職にCFRの会員が多く就く。大統領が非会員であっても、閣僚の多数がCFR会員から指名されている。
 たとえば、わが国の外務大臣に当たる国務長官は、第47代のコーデル・ハル以来、第66代のコンドリーザ・ライスまで20人中19人がCFRの会員である。国防長官は17人中延べ14人、財務大臣に当たる財務長官は19人中15人という具合である。
 ニクソン政権に115名、カーター政権に284名、レーガン政権に257名。ブッシュ父政権に382名、CFRの会員が居たというから、政権中枢の大半がCFRから出ていると見てよい。

 設立以来、CFRは、アメリカ政府の最重要ポストに、多数の会員を送り込んできた。この組織に所属するエリートたちが、アメリカの支配集団の主要部分をなすと考えられる。
 CFRは、「議論においては特にメンバー間のコンセンサスを求めない」としている。会員には、保守・リベラル、保守・リベラル、強硬派・穏健派、親英派・孤立派等、多様な主張がある。ナチスや共産党のように一律一様ではない。そこに、リベラル・デモクラシーの伝統に基づく活力や状況適応性がある。
 今日のアメリカの外交政策に最も強い影響を与えているのは、ヘンリー・キッシンジャーとズビグニュー・ブレジンスキーである。キッシンジャーは共和党のニクソン政権で大統領補佐官を務めた。ブレジンスキーは民主党のカーター政権で補佐官だった。彼らは、ともにCFRの会員である。
 CFRは、外交誌『フォーリン・アフェアーズ』を通じて、世界中の知識人にアメリカ的価値観や米英主導の世界政策を広めている。また、外国人も含む非会員の有力な政治家・学者等を招待した講演会を度々開催している。
 こうしたCFRは、国家中枢を担う人材の交流や養成の場ともなっている。所有者集団は、CFRという組織を通じて、大統領候補となり得る逸材や、外交・内政を担い得る頭脳を集める。豊富な資金と人脈を提供することにより、優秀で忠実な経営者集団を確保する。また彼らを政権に送り出し、巨大国際金融資本の意思を政治に実現する。そのための格好の機関になっているのが、CFRだと言えるだろう。

 アメリカの学者・知識人・報道人・金融家には、ユダヤ人が多い。キッシンジャーもその一人である。伝統的には、アメリカ合衆国は、WASP(ワスプ)すなわちホワイト=アングロ・サクソン=プロテスタントが社会の主流を成してきた。上流階層の社交クラブでは、ユダヤ系アメリカ人の入会が認められない時代が続いた。しかし、CFRは、早くからユダヤ人にも門戸を開いてきた。
 現在アメリカには、ユダヤ人が約500万人いる。国民全体の中では4%程度と少数だが、知識人に占める割合は高く、アメリカの学者・研究者の半分以上がユダヤ系である。
 私は、CFR隆盛の一要因は、アングロ・サクソンとユダヤの人脈的・文化的・経済的結合にあると思われる。CFRの由来はイギリスの円卓会議にあり、円卓会議にはイギリス貴族とともに、その一員としてユダヤ人ロスチャイルドが列席した。そうした円卓会議が前線組織の支部を開いたのがCFRだとすれば、CFRがアングロ・サクソン=ユダヤ連合をアメリカに拡大する機関としても機能してきたのは、当然だろうと私は理解している。 
 CFRは、現代のアメリカ及び国際社会で非常に重要な存在である。そこで、続いて設立の過程、設立後の活動等について、見て行きたい。

●ウィルソン大統領の分身・ハウス大佐

 次に、外交問題評議会(CFR)の設立の過程について、具体的に述べたい。
 CFRの立ち上げには、アメリカ側でも動きがあった。その中心となったのが、これまでにも触れたエドワード・マンデル・ハウス大佐である。ハウスは軍歴はないのだが、大佐(コロネル)と呼ばれた。
 ハウスは、ウッドロー・ウィルソン大統領の側近として、連邦準備制度(FRS)の実現や第1次世界大戦へのアメリカの参戦を推進した。大戦後の国際秩序の考案や戦後処理にも重要な役割を担った。そうした活動の一環として、CFRの設立を推進した。
 FRSやCFRの重要性に鑑み、アメリカが現代の覇権国家へと成長し得る骨格づくりをした経営者の一人が、ハウスだと私は考えている。
 
 G・エドワード・グリフィン著『マネーを生み出す怪物』(草思社)によると、ハウスの父親トマス・ウィリアムス・ウスは、アメリカの南部諸州で、「ロンドンの匿名の銀行家の在米代理人」として、財を成した。「その匿名の銀行家とはロスチャイルドではなかったかと言われている」とグリフィンは書いている。
 イギリスにつながる資産家の息子として生まれたハウスは、数年間イギリスで教育を受けた。この時、培った思想や人脈が、後にハウスが英米の支配集団を結んで活動する基盤になっただろう。私は、ハウスをロスチャイルド家の政治的代理人と見ている。
 ハウスは、1912年に『行政官フィリップ・ドゥルー』という小説を書いた。主人公ドゥルーは、関税を撤廃し、社会保障法を制定し、北米の地域政府を設立し、国際協力体制を築き上げる。さらにハウスは、この小説で、後の国際連盟に至るような国際組織の設立を構想していた。
 1913年、ウィルソン大統領の側近となったハウスは、閣僚名簿を作成し、政権の最初の政策を立案し、経済政策・外交政策を実質的に決定するようになった。ウィルソンは、ハウスの指示や指針を頼りにしていると公言した。「ハウス氏は私の第二の人格である。彼はもう一人の私だ。彼の考えは私の考えだ」とまで、ウィルソンは書いている。
 ハウスは、まさにウィルソンの分身だった。そのハウスの最初の大仕事が、連邦準備制度の実現だった。

●欧米の財閥は連邦準備制度実現を画策

 20世紀の初頭、欧米の国際金融資本家たちは、アメリカにも中央銀行制度を作ろうと画策していた。当時、アメリカ金融界の第一位は、モルガン家だった。モルガン家は、ロスチャイルド家の融資や支援を受けて、のし上がった財閥である。その頭領ジョン・パイヤーポイント・モルガンと、ハウスは親しかった。ハウスはまたポール・ウォーバーグとも親しかった。ウォーバーグ家は、ドイツの財閥であり、フランクフルトのゲットーにいた時代からロスチャイルド家と縁の深いユダヤ家族である。
 ハウスがJ・P・モルガンやポール・ウォーバーグと親しかったということは、彼らの大元にいるロスチャイルド家とつながっていたことを示唆する。キグリーは、ハウスは、アメリカ円卓会議のメンバーと書いている。欧米各地の円卓会議のネットワークは、ロスチャイルド家、ロックフェラー家、モルガン商会、カーネギーなど、当時の財閥を結びつける役割を果たした。中でもハウスは、英米の円卓会議の連携の要となり、英米の財閥の連携の要ともなっていたと思われる。

 ポール・ウォーバーグは、1902年にドイツからアメリカに渡り、やはりユダヤ系のクーン・ローブ商会の共同経営者となった。アメリカ有数の金融資本家となったポールは、中央銀行制度実現のために全米を回った。彼はロスチャイルド家らのヨーロッパの金融資本家たちと、アメリカの新興資本家たちを結ぶ位置にあった。
 中央銀行制度の設立のため、ポール・ウォーバーグとともに活動したのが、ネルソン・オールドリッチ上院議員である。オールドリッチは、J・P・モルガン商会のワシントン代表だった。彼の娘は、ジョン・D・ロックフェラー2世と結婚し、次男のネルソン・ロックフェラーや五男のデイヴィッド・ロックフェラーらを生んだ。オールドリッチは、モルガン家とロックフェラー家を結ぶ位置にあった。
 なお、J・P・モルガン商会、クーン・ローブ商会は、オーガスト・ベルモンドとともに、アメリカにおけるロスチャイルド商会の代理人をしていた。
 
 ウォーバーグとオールドリッチは、1910年、中央銀行制度の創設をめざして、ジョージア州のジキル島で秘密裏に会合を開いた。参加したのは、モルガン、ロックフェラーの代理人たちや財務省高官である。そのうちヨーロッパの銀行制度に詳しいのは、ウォーバーグだけだった。ウォーバーグが、制度の素案を提示した。もとになるのは、イングランド銀行やドイツ銀行の例だが、ヨーロッパ各国の中央銀行は、実質的にはロスチャイルド一族の銀行だから、中央銀行制度とはロスチャイルド式の銀行制度をアメリカに導入することを意味する、
 法案はオールドリッチが上院に提出したが、彼のモルガンとのつながりが反感を買い、廃案となった。金融資本家たちは、国民の批判をかわすため、民主党に政権を取らせ、民主党の議員から提案をさせ、議会を通そうとした。その際、誰を大統領にするかがポイントとなった。白羽の矢が立ったのは、ウッドロー・ウィルソンだった。
 政治学者のウィルソンはプリンストン大学の学長から政界に転じ、ニュージャージー州知事をしていた。彼を大統領候補とし、民主党大会で指名を獲得させたのが、ハウスだった。
 1913年ウィルソンは、第28代大統領になった。「ウィルソンの資金源たちは彼の側近に自分たちの代理人を送り込んだ」、その中の「最重要人物」がハウスだったと、スクーセンは書いている。
 連邦準備制度について、ウィルソンが巨大国際金融資本家たちの意向を知ったのも、ハウスを通じてだった。

●ハウスは連邦準備制度を推進

 ハウスは、連邦準備制度の実現においても、アメリカ政府の中心となって、欧米の国際金融資本家を中継し、実現を推進した。
 イングランド銀行やドイツ銀行等、ヨーロッパの中央銀行は、民間銀行である。しかし、アメリカでは、国民の抵抗を避けるため、国家機関を思わせるような「連邦(Federal)」という言葉を使い、「連邦準備制度」という名称がひねり出された。
 ウィルソンは、新しい銀行制度について、よく理解できていなかった。「銀行問題に関する限り、ハウス大佐が合衆国大統領であり、関係者は全員それを承知していた」とグリフィンは書いている。
 『ハウス大佐の真実』の編者チャールズ・シーモア教授は、ハウスが連邦準備銀行法の「陰の守護天使」だったと言う。伝記作家ジョージ・ヴィエレックは、「シフ家、ウォーバーグ家、カーン家、ロックフェラー家、モルガン家は、ハウスに信を置いていた」と言う。
 連邦準備銀行法が最終段階に入った時、ハウスは、ホワイトハウスと巨大金融資本家たちの仲介役を務めた。彼の事務所が、ジキル島に集まったグループの司令室になっていた。特にポール・ウォーバーグとは、連絡を絶やさなかった。

 1913年12月22日、クリスマス休暇を前に、議員たちの多くが気もそぞろとなっている時、法案が提出され、下院・上院とも賛成多数で可決した。ウィルソンは、この法案に署名し、連邦準備制度が発足した。
 この新制度では、アメリカの連邦政府は、連銀から借りる紙幣の利子を支払うことになる。そこで巨大国際金融資本は、国民の税金を支払いに当てることを同時に制度化しようとした。その目的で導入されたのが、個人の連邦所得税である。当時、最高裁は、連邦所得税は合衆国憲法に違反するという判決を出していた。それにもかかわらず、連邦所得税が導入された。その徴税を担う役所が国税庁(IRS)であり、連銀と同じ1913年に設立された。以後、連邦所得税は、連銀への利子の支払いに当てられている。
 こうしてハウスは、ウィルソン大統領を動かして、連邦準備制度を発足させることに成功した。欧米の巨大国際金融資本の積年の願いがかなった。金融によってアメリカという国家を支配する体制が出来上がった。

●第1次世界大戦への参戦と戦後処理に活躍

 グリフィンは、ハウスは「第1次世界大戦の際には、アメリカ人の中で誰よりイギリス側に立ってアメリカの参戦に尽力し、それによってモルガン商会の英仏に対する巨額債権を救った」と書いている。
 ウィルソンは平和主義者として知られ、第1次大戦勃発時、「それはわれわれと何ら関係のない戦争であり、その原因もわれわれには関わりがない」と参戦しない方針を打ち出して、国民に支持されていた。そして、アメリカは中立国の立場を利用して交戦国双方と通商を行って大きな利益を上げていた。
 1915年、ドイツが無制限潜水艦作戦を宣言すると5月、ルシタニア号事件が起こった。イギリス籍の客船ルシタニア号がドイツの潜水艦Uボートに無警告で撃沈され、アメリカ人128人を含む1198人が犠牲になったのである。アメリカ国民はこれに憤り、対独世論が悪化した。後にこの事件は、英米首脳部が画策したものだったことがわかった。ルシタニア号は密かにイギリスへの火器弾薬を登載し、ドイツの警告を無視して、あえてUボートのいる海域に進入し、ドイツ潜水艦の攻撃を誘った。しかも、イギリスの駆逐艦隊は巡回を取りやめ、港に留まっていた。ルシタニア号は一種のおとりだった。しかし、アメリカは参戦しなかった。

 アメリカ参戦の大きなきっかけとなったのは、1917年1月のツインメルマン電報である。ドイツの外相ツインメルマンがメキシコ政府宛に出した秘密電報で、内容はメキシコがアメリカを背後から襲えば、その見返りとしてドイツはアメリカのテキサス、ニューメキシコ、アリゾナ州を、メキシコに割譲する、というものだった。英国海軍通信情報部がこれを傍受し、ウィルソンに伝えた。これを読んだウィルソンは憤激し、新聞にリークした。世論は沸騰した。2月、ルシタニア号事件以来、無制限潜水艦作戦を控えていたドイツが、戦局打開のため、作戦再開を宣言した。ウィルソンは、ドイツとの国交断絶を宣言し、4月ついに宣戦を布告した。
 アメリカは受動的で、やむをえず参戦したかに見える。しかし、実はそれ以前から、ウィルソン政権は参戦を計画していた。1916年、ウィルソンが2期目の当選を果たす10ヶ月前、ウィルソンの代理としてハウスが、アメリカが連合国側に味方して参戦する方向で英仏と秘密協定を結ぶ交渉を始めた。ウィルソンはその密約をもとに、参戦の機会をうかがっていたのである。
 グリフィンによると、「ハウスとウィルソンの最も強い絆は世界政府という共通の夢だった。どちらも、アメリカ人はよほどのことがない限り世界政府という考え方を受け入れるはずがないと承知していた。そこで、長期にわたる血なまぐさい戦争が起これば、そして戦争に永久的に終止符を打つためだということなら、国家主権が失われてもやむをえないとアメリカ人は納得するだろう、それしかないと考えた」と書いている。
 世界政府を実現するために、戦争を利用する。戦争が長引き、諸国民に厭戦気分が高まったところで、世界政府の構想を打ち出すという計画である。

1914年に始まった第1次大戦は、誰もの予想に反して長期化し、消耗の果てに、ようやく19年に終結した。その後、ウィルソンから国際連盟の構想が打ち出された。

 第1次大戦の戦後処理のために、パリ講和会議が行われた。ウィルソン大統領は、ハウスを中心とする代表団を連れて会議に臨んだ。ウィルソンは講和会議に議員を一人もつれず、代表団は彼の取り巻きや銀行家で占められていた。会議でウィルソンは、秘密外交の廃止や軍備縮小、民族自決、国際連盟の設立などを唱えた「14か条の平和原則」を提案した。14か条は、ハウスが中心となって策定したものだった。ハウスは、1917年から18年にかけて大戦後の国際秩序を検討するため、「大調査(Inquiry)」グループを主宰した。ニューヨークに約百人の有力者を招いて会議を行った。ウィルソンが講和会議に提出した14か条は、この会議で練られたものだった。
 講和会議でハウスは、英仏等の代表に14か条を受け入れさせるために行動した。しかし、英仏はドイツへの報復を主張し、平和原則は実現を阻まれた。採用されたのは、国際連盟の設立のみだった。

●国際連盟構想の失敗からCFRが

 ウィルソンがパリ講和会議で提案したことの一つに、国際連盟の設立があった。根本には、恒久平和のために、各国が主権の一部を委譲して世界政府を作るという構想があった。その構想は、ロスチャイルド家等の国際金融資本が望むものでもあった。講和会議にはエドモン・ド・ロスチャイルド男爵が参加し、会議の展開を方向付けようとした。もしウィルソンの構想どおり実現すれば、英米のアングロ・サクソン=ユダヤ連合が中心となって、国際秩序を管理する組織が、ここに誕生したかもしれない。
 しかし、アメリカは、国際連盟に加盟しなかった。アメリカ国民の間では、伝統的な孤立主義が根強かった。議会はウィルソンの提案を退け、ヴェルサイユ条約の批准も、国際連盟の加盟も否決した。このため、国際連盟構想は失敗した。当時、アメリカは、世界随一の存在になっていた。アメリカを欠く国際組織は、基盤が脆弱だった。
 大統領が国際会議で提案し、諸外国は賛同した。それなのに肝心の自国の議会が、加盟を認めない。原因は、議会対策が出来ていなかったのである。アメリカの政界で多数派工作をしないと、英米主導の統治機構は実現できない。そこから、外交問題評議会(CFR)の設立につながる発想が出てきたと考えられる。G・エドワード・グリフィンは「外交関係評議会は、第1次世界大戦終結時に世界の指導者が国際連盟を真の世界政府にしようとして失敗したために生まれた組織だった」と書いている。ここで活躍したのも、エドワード・マンデル・ハウスだった。

●英米の円卓会議を結ぶ

 CFRの会員だったジョゼフ・クラフトは、CFRを公式に創設した功労者は、ハウスだったと言う。ハウスは、ウィルソンに同行してパリ講和会議に参加した。その際、ハウスと「コンビを組んで活動した」のが、ジェローム・D・グリーンだったとクラフトは言う。ハウスとグリーンは、ともにアメリカ円卓会議のメンバーだった。
 キグリーによると、グリーンは、1918年からロンドンに駐在した際、「イギリスの円卓会議グループと接触する機会を得て、1919年にパリ講和会議で賠償担当責任者を務めるとさらに接触が頻繁になった。帰国するころ、彼は外交問題評議会首脳の創設期メンバーの一人となった」という。グリーンは、1910年にロックフェラー研究所の総支配人となり、その後、39年まで同研究所やロックフェラー財団等の理事を歴任した。1925年に太平洋問題調査会(IPR)が設立された際、グリーンは規約を起草し、以後、IPRの中心的存在として活動した。
 講和会議に臨む際、ハウスは、補佐役としてウォルター・リップマン、ジョン・フォスター・ダレス、アレン・ダレス、クリスチャン・ハーターを連れて行った。また講和会議の代表団には、トマス・ラモント、ジョージ・ルイス・ビアらもいた。リップマンは、アメリカ円卓会議のメンバーだった。後に名著『世論』を著す逸材である。ドイツ系のユダヤ人だった。彼とダレス兄弟はロックフェラー家との関係が深かった。後年ジョンとC・ハーターは国務長官に、アレンはCIA長官になった。ラモントとビアは、モルガン家の代理人だった。ビアは、アメリカ円卓会議のメンバーでもあった。
 このように講和会議のアメリカ代表団には、円卓会議のメンバーやモルガン家、ロックフェラー家と深い関係を持つ者がいた。そして 講和会議の期間、「ハウスは英米両国の円卓会議グループのホストを務めた」とグリフィンは書いている。

●英米両グループの合意

 1919年5月19日に、パリのマジェスティック・ホテルで、英米の代表団の一部が集まって会合が開かれた。CFRの1932年版便覧によると、アメリカ側はハウス、ホイットニー・シェパードソンら5名、イギリス側はライオネル・カーティス、セシル卿ら4名を記している。ハウスは先に書いたメンバーを連れ、カーティスは同じミルナー幼稚園のフィリップ・カー、ロバート・ブランドらを連れていたともいわれる。
 彼らは講和会議の結果に、一様に失望していた。そこで「国際問題の科学的研究を促す」ため、イギリスとアメリカに支部を持つ組織を創設することで合意した。その合意のもとに、1920年カーティスが中心となってロンドンに創られたのが王立国際問題研究所(RIIA)であり、21年ハウスが中心となってニューヨークに創られたのが、外交問題評議会(CFR)である。
 ハウスが支え、操ったウィルソンは1921年、2期8年の大統領職を勤め上げて離職した。それとともにハウスも政権を離れたが、ハウスは、その後も政界に隠然たる影響力を振るった。ウィルソンとハウスについては、ロシア革命に関し、欧米の金融資本家とともに、レーニン、トロツキーを援助し、ソ連を支援するという一見理解しがたい行動を取った。欧米所有者集団と共産主義の関係は、現代の眺望における重要な主題の一つなので、後に改めて書く。

●覇権のための英米パートナーシップ

 円卓会議の側から見れば、CFRはグループの前線組織RIIAのニューヨーク支部の開設となる。国際問題を調査・研究する機関の姉妹組織を表向きの姿として、円卓会議グループがアメリカでの活動を強化し、旧植民地アメリカをイギリスの管理下に置いて、イギリス帝国の覇権を維持・拡大しようというのが狙いだろう。
 一方、アメリカ側にも意思がある。ニューヨークには、1918年に設立された実業家、国際弁護士らによる「外交問題評議会(現在のCFRと同名)」というサロンが存在していた。CFRは、このサロンと、ハウスが主宰した「大調査」グループが合併して出来たものなのである。新生CFRは、総勢75名で発足した。初代会長には、旧CFRの会長だった元国務長官エリフ・ルートが就いた。ルートは、モルガン商会とクーン・ローブ商会の弁護士をしていた。モルガン家の実態はロスチャイルド家の代理人であり、クーン・ローブ商会もロスチャイルド家との関係が深いから、ルートはロスチャイルド=モルガン・グループの一員と考えられる。
 ただし、CFRは、RIIAの完全な支部ではなく、一定の自立性を持った組織としてスタートした。合併の際、旧CFRのメンバーから、会員は「米国市民に限るべき」という意見が出た。そのため、現在もCFRは、会員を合衆国市民と永住権獲得者に限っている。
 アメリカ人は、イギリス側の意思にただ従順に従ったのではない。英米の関係は主従的ではなく共同的である。互いの自主性を保ちながら連携するパートナーシップで結ばれている。設立時点では、イギリス円卓会議・ロスチャイルド家の意向が強かっただろうが、設立以後、アメリカ側の主体的な傾向が強くなっていったと考えられる。

(2)政治・経済・外交・軍事に影響力

 

●所有者集団はCFRを通じて政治を左右

 私は、アメリカにおける連邦準備制度の実現からCFRの設立への展開は、アメリカという国家の重要な変化であり、またそれが以後の世界に大きな影響を及ぼしてきたと考える。
 欧米の所有者集団は、アメリカで連邦準備制度を作って、通貨発行権を獲得した。この通貨発行権を用いて、莫大な富を得た。その富を用いて、主要なマスメディアを支配下に置いた。所有者集団は、当時の大新聞、ニューヨーク・タイムズ、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン、クリスチャンサイエンス・モニター、ワシントンポスト等を通じて、多大な影響力を発揮した。20世紀は、大衆の時代である。メディアを支配する者は、大衆の意識を操作することができる。所有者集団は、マスメディアを道具として、選挙や政治に自分たちの意思を反省させることが出来るようになった。
 所有者集団は、さらに政府に対して、直接強く彼らの意思を伝え、その意思を実現できるようにした。通貨政策だけでなく、外交・防衛・通商等の政策にも広く意思を及ぼし、より大きな利益を上げるためである。CFRの設立によって、政府の要職に彼らの意思を体得した優秀で忠実な経営者を送り込むことができるようになった。
 所有者集団は、次代の経営者を育成する大学をも管理下に置いていった。わが国と違って、アメリカの大学は、すべて私立である。大学の莫大な寄付金の決済には、財政専門家たちの協議が欠かせない。1930年代には、アイビーリーグ等の有名大学の経営を財閥が支配するようになった。例えば、ハーバード、コロンビア、エール大学の運営権は、モルガン商会が握った。こうした大学の学長や教授は、所有者集団の意思を理解し、学生を有能な経営者に育成する。その中から、特に優秀な者は、CFRの会員に抜擢されていく。こういう仕組みが出来上がったものと思う。

●CFRの資金提供者

 次にCFRの資金援助者を見ておきたい。
 これまで見たように、CFRは、英米の円卓会議のもとに作られた。CFRの初期の会員として知られるのは、エドワード・マンデル・ハウス、ウォルター・リップマン、ジョン・フォスター・ダレス、アレン・ダレス、トーマス・W・ラモント、ジョージ・ルイス・ビアらである。彼らのうち、ハウス、リップマン、ビアは円卓会議のメンバーでもあった。
 初期のCFRは、金融王J・P・モルガン、石油王ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー1世、その息子のジョン・D・ロックフェラー2世、ジェイコブ・シフ、ポール・ウォーバーグ、バーナード・バルーク、アヴェレル・ハリマンなどの財閥が後援していた。CFR本部ビルはロックフェラー家から寄贈された。
 当時のCFRは、モルガン商会の関係者によって仕切られていた。たとえば、1928年の時点で、会長の座にあったジョン・W・デイヴィスは、J・P・モーガンの個人弁護士であり、副会長のポール・クラヴァスもそうであった。有力会員のラモントやビアもモルガン商会の関係者だった。J・P・モルガンは1899年にローズの結社に入っている。以後、円卓会議の意思をアメリカに浸透する役目を果たしたと考えられる。モルガン家の実態は、ロスチャイルド家の代理人だったので、初期CFRは、ロスチャイルド=モルガン・グループが主導的だったと考えられる。

 しかし、その後、ロックフェラー家が影響力を増し、第2次世界大戦中からロックフェラー家が主導的立場に立った。石油王の孫で、ジョン・D・ロックフェラー2世の5男に当たるデイヴィッド・ロックフェラーは、1949年からCFRの理事となり、70年に理事長に就任。以後、85年まで理事長の座にあった。現在は、名誉理事長である。デイヴィッドは、長年、巨大銀行チェイス・マンハッタン(J・P・モルガン・チェイス銀行)の頭取を務め、シティ・グループの大株主でもある。20世紀後半から21世紀の現在まで、国際政治・国際経済におけるデイヴィッド・ロックフェラーの存在は、巨大である。アメリカ歴代政権を動かし、国際機関や国際組織を通じて、所有者としての意思を実現している。彼の活動の基盤の一つが、CFRだった。
 現在CFRの資金提供者は、ロックフェラーとモルガン連合のJ・P・モルガン・チェイス銀行、ロックフェラーのスタンダード・オイル社をはじめ、ゼロックス、GM、テキサコ、フォード財団、メロン財団等が挙げられる。大企業、有力財団などに結びつくCFRは、政界だけでなく広範な分野に影響力を持っている。

●CFRの歴史に画期をなすルーズベルト政権

 CFRの歴史は、アメリカの外交史でもあり、また歴代政権の歴史でもある。次に、CFR設立後の歴代政権との関係、及びCFRの政策提言の展開を見てみたい。
 CFRは、1921年ウィルソン政権の時代に作られた。設立の中心となったハウスは、ウィルソンの分身として、ホワイトハウスを取り仕切っていた。人事も実質的に決めていた。ウィルソンの後、共和党のハーディング、クーリッジが続き、ハーバート・フーヴァーが大統領となる。フーヴァーはCFR会員の大統領第1号となった。CFR会員のヘンリー・スティムソンを国務長官にした。フーヴァーは共和党だが、政界に入る前からハウスに協力していた。1929年、世界恐慌が起こり、フーヴァーは対応に失敗。民主党のフランクリン・D・ルーズベルトに代わった。
 1933年に大統領になったFDRは、同じ民主党のウィルソンの政策、つまりハウスが立案した政策を踏襲した。ハウスはFDRに助言し、閣僚・高官にCFRの会員を任命するように働きかけた。FDRは、国務長官にコーデル・ハルなどCFRの会員を多く起用した。ハルの後継にはエドワード・ステティニアス、陸軍参謀総長にはヘンリー・スティムソンなど、会員を重用した。ハウスとルーズベルトは家が近く、ルーズベルト家はCFR本部ビルの隣でもあった。
 アメリカ合衆国では大統領は2期8年という定めがあるが、FDRは1945年の死まで、異例にも連続4期12年間大統領を務めた。その間、FDRがCFR会員を多く要職に指名し続けたことにより、今日のCFRの隆盛の基礎ができた。

 ルーズベルトは、ロックフェラー家と親しく、ロックフェラー財団の強力な支援を受けた。ニューディール政策遂行の中心となったハリー・ホプキンズ商務長官、フランシス・パーキング労働長官の二人は、ロックフェラー財団の出身だった。そのホプキンズの後押しで、ロックフェラー家の御曹司ネルソン・ロックフェラーが国務次官補に任命された。ルーズベルト時代に、ロックフェラー家は政権への影響力を増し、CFRでも主導的になっていく。
 別稿で詳しく述べるが、ルーズベルトの先祖はユダヤ系であり、彼自身、全米のユダヤ系市民から「モーゼの再来」と仰がれた。ルーズベルトは、ブレーン・トラストと呼ばれる頭脳集団を私的に持っていた。多くは、政界・財界・学界・法曹界で活躍するユダヤ人だった。中でもユダヤ人大富豪家バーナード・バルークは、二度の大戦を通じて巨額の利益を得た「死の商人」だった。第1次大戦参戦後は戦時産業調整委員会長として権力を振るい、同時にウィルソン再選の資金調達責任者を務めた。第2次大戦では軍需工業院総裁となり、国内の軍需工場のすべてを掌握した。原爆の開発・製造の推進もした。軍産複合体の誕生は、バルークなしには考えられない。
 ルーズベルトは、閣僚にもユダヤ人を起用している。財務長官のヘンリー・モーゲンソーは、ドイツ系ユダヤ人で、戦後処理をめぐって対独強硬案を出した最もユダヤ的なユダヤ人だった。労働長官のパーキンス女史は、ロシア系ユダヤ人だった。ルーズベルト政権の12年間一貫してその職を務めたほど、大統領の信任が篤かった。
 1939年、第2次世界大戦が勃発すると、大戦への対応、戦後体制の構想等の立案を、CFRと国務省が共同で推進するようになった。それにより、CFRの会員が国務省に多く入った。1940年代以降、大統領候補のほとんどがCFRの会員であり、歴代政権の閣僚・高官の多くがCFRの会員となっている。
 なおルーズベルト政権は、政府高官にソ連のスパイやエージェントが多数いた。その背後には、欧米の巨大国際金融資本による共産主義への資金提供や武器販売があった。この点は、話が複雑になるので、ここでは省く。後に改めて書くことにする。

●第2次大戦の最中からCFRは政策提言

 CFRの設立後、共和党と民主党の2大政党は、CFRに人的資源を依存するようになっていった。一つの組織が、両方の政党に人材を送り出す。支配集団は、両党のどちらが政権をとっても、人材的・資金的にコントロールできるという仕組みが出来たわけである。さらにCFRは、さまざまな政策を提言して、アメリカ政府の政策決定に大きな影響を与えるようになった。そうした動きは、1939年9月の第2次世界大戦の勃発後に始まった。
 ルーズベルト政権の国務長官ステッティニアスは、「CFRの提案にしたがって戦後問題処理委員会が1939年末以前に設置された。委員は国務省の高級官僚から選抜された」と公式報告書で報告している。委員会が設置されたのは39年末。アメリカが大戦に参戦する2年前である。アメリカは、早くから大戦への対応や戦後の国際秩序を検討していたのである。この委員会の委員に選ばれた国務省の官僚は、一人を除いて全員がCFRの会員だった。

 続いて、CFRは国務省の依頼を受け、「戦争と平和」研究計画と題された長期研究プロジェクトを立ち上げた。戦争の展開、及び戦後秩序に関する調査・研究をし、報告・提案を行った。このプロジェクトには、ロックフェラー財団が多額の寄付を行った。
 1941年12月、ルーズベルトは、日本軍が真珠湾を攻撃することを事前に暗号解読により把握していた。前もって知っていながら日本に先制攻撃をさせ、怒った国民が報復を求めるのを参戦に利用した。イギリスはドイツの攻撃で窮地に立っており、チャーチルはアメリカの参戦を熱望していた。
 CFRに関して最も詳しい書である『権力の影〜外交評議会〔CFR〕とアメリカの衰退』(徳間書店)の著者ジェームズ・パーロフは、アメリカ国民はチャーチルとルーズベルトの共謀により戦争に引きずりこまれた。ルーズベルトが参戦に踏み切ったのは、CFRの計画に乗ったからだという。FDRは、日本に対する通商停止、日本の在米資産の凍結、パナマ運河の日本船通行禁止等を実施し、日本を開戦へと追い込んでいた。これは、CFRの提言を受けたものだった。そして、先に手を出させるように挑発し、日本が手を出したら、日本は汚いことをしたとして、アメリカの参戦を正当化した。

 これは私見だが、日米の決戦はスターリンが望むことでもあった。CFRや国務省には、ソ連のスパイやエージェントが多くいた。スターリンは背後から彼らを通じて、日米を開戦へと誘導していた。FDRは、共産主義の危険性を理解せず、むしろ共感・応援してさえいた。
 この点は、欧米の国際金融資本が、共産主義やソ連を支援していたことと共通性がある。中国についても、CFRの会員や国務省の官僚には、共産化を防止するより容認する動きをした者たちがいる。これも不可解な行動だが、先のことと関係がある。後に主題的に検討したいと思う。

●戦後の国際秩序形成にも広く関与

 CFRは、戦時中から第2次世界大戦後の日独の復興計画、国際連合の設立、国際通貨基金(IMF)や世界銀行(IBRD)の設立などを立案し、アメリカ政府に報告・提案していた。
 CFRの計画の一つの大きな成果が、国際連合の設立である。国際連合は、連合国が常設の国際機関に発展したものである。正しくは、連合国と和訳すべきものである。国際連合は、ウィルソンが構想した世界政府をめざす国際組織の新たな形態であり、CFRの研究グループが素案を練った。セシル=ローズ、ハウスらによる英米主導の世界秩序を実現する構想が、CFRに受け継がれ、第2次世界大戦の後に、国際社会に浮上したのである。

 1945年のサンフランシスコ講和会議では、アメリカ代表団の中に、少なくとも74名のCFR会員がいた。その中には、アルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト、オーウェン・ラティモア、ジョン・J・マックロイ、ネルソン・ロックフェラー、ジョン・フォスター・ダレス、ディーン・アチソンらが含まれる。スクーセンは、「彼らと他のCFRメンバーが、国連創設を目指すサンフランシスコ会議における米国代表団の意思決定権を握っていたといえよう」と書いている。
 上記のCFR会員の中には、反共反ソの者と容共親ソの者が混在している。異なった思想・立場の者が、ともにアメリカ政府の代表団員として講和会議に参加した。
 一方には戦後、反共反ソの戦士として冷戦を戦った者がいる。トルーマン政権の国務長官アチソン、同じくJ・F・ダレスらがそうである。彼らは冷戦初期の対ソ政策を方向付けた。ただし、アチソンはアジアでは、中国の共産化を容認するような不可解な行動をしている。
 他方、戦後、1950年から共産党員弾劾のマッカーシー旋風が吹き荒れた時に、弾劾された者もいる。アルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト、オーウェン・ラティモアらである。彼らはCFRの会員でありながら、共産主義やソ連を利する行動をした。その点について、次に書きたい。

●CFR会員でソ連の大物スパイ、ヒス

 1995年(平成7年)7月、アメリカ政府は、それまで非公開としてきたソ連の暗号電報を公開した。暗号の解読は、1943年(昭和18年)から陸軍の特殊部隊によって行われていた。最高機密活動で「ヴェノナ作戦」(Venona project)と呼ばれた。その資料公開によって、1940年代から50年代にかけて、アメリカ政府内部に、100人以上ものソ連のスパイが潜入していたことが確認された。彼らは、ホワイトハウス・国務省・財務省・司法省や、CIAの前進である戦略情報局(OSS)、陸軍省等で暗躍していた。CFR会員のアルジャー・ヒスこそ、そのうち最大級の大物スパイだった。
 ヒスは、国務省の高官として、ルーズベルト政権に仕えた。ヤルタ会談の際には、ルーズベルトに随行し、国務省を代表して会談に出席して、重病のルーズベルトを補佐した。ヤルタ協定の草案は、ヒスが作成したものだった。ルーズベルトは、ソ連の参戦と引き換えに、東欧と日本の領土の一部をソ連に渡すことにした。密約には、ソ連の主張は日本の降伏後、異論なく完全に達成されることで合意した、と定めている。ルーズベルトは、会談の約2ヵ月後に死亡しており、会談当時、体調が健全な判断力を持っていたとは考えにくい。スターリンの意思を受けたヒスがルーズベルトの判断に強い影響を与えたと考えられる。

 ヒスはヤルタ会談後、「国連=連合国」の機関としての立ち上げに活躍し、国連設立のためのサンフランシスコ会議の事務局長を務め、国連憲章の起草にも参加した。国連が発行していたパンフレット「国連を知ろう」の第1〜2項に、「ヤルタでスターリンが、第2次大戦での援助と引換えに平和のための国連設立をルーズベルトに求め、ルーズベルトはアルジャー・ヒスが用意していた案を受け入れた」との記述がある。
 この説明に基づけば、国連とは、スターリンがソ連の国益の追求と世界の共産化という野望の下で、ルーズベルトに設立を要求したものと考えられる。しかも、ソ連のスパイだったヒスが枠組みを考案して、ルーズベルトに受け入れさせたことになろう。
 戦後、マッカーシー上院議員の活動により、ルーズベルト政権下で暗躍したソ連のスパイや共産主義者が告発された。ヒスは、偽証の有罪判決を下され、5年の懲役が宣告された。しかし、スパイ行為に関しては、出訴期限が尽きたために訴追は受けなかった。

●ハル・ノートを起草したホワイトもCFR会員

 CFR会員で、ソ連のエージェントだった疑いがある大物が、ハリー・デクスター・ホワイトである。ホワイトはソ連の諜報組織と関係を持ち、ソ連の指示に従ってハル・ノートの原案を起草した可能性がある。
 戦前、ホワイトは財務省のエリートだった。ルーズベルト大統領に強い影響力を持つ財界の大物・財務長官モーゲンソーの右腕であり、頭脳だった。ホワイトの書いたものは、そのままモーゲンソーが署名し、モーゲンソーの文書として大統領に提案されたという。
 アメリカ連邦捜査局(FBI)は、ホワイトがソ連と通じていることをつかんでいた。しかし、政府はホワイトを要職に任命し続けた。
 戦後、ホワイトはブレトンウッズ協定を立案し、イギリス代表のケインズと渡り合い、アメリカ主導による戦後の世界通貨金融システムを構築した。その後、自らIMFの理事長となったホワイトに、1948年(昭和23年)7月、疑惑が起こった。
 共産党の女性スパイであることを告白したエリザベス・ベントレイが、下院の非米活動委員会で、「ホワイトはワシントンの共産党エリート分子の一人だ」と証言したのである。ホワイトは、自ら同委員会に出席し、委員の質問に逐一答え、自分は共産党員だったことはないし、いかなる反米活動に従事したこともないと誓った。ところが、それから2週間もたたずに、ホワイトは自分の農場で死亡した。死因は心臓発作とされている。当時、スパイの容疑をかけられた者たちが、次々に自殺したり、亡命したりしたので、ホワイトの死は謎を残した。

 彼の死後も疑惑は続き、以前に共産党員だったウイタカー・チェンバースが、ホワイトは、戦争中ソ連のスパイ網の一員であったと証言した。しかし、ベントレイやチェンバースの証言以外に、ホワイトを安全保障違反に問える証拠は何も出なかった。
 死後50年近くたって、元ソ連NKVD(内務人民委員部、KGBの前身)工作員であるビタリー・グリゴリエッチ・パブロフが、ホワイトに関する証言を行った。彼は、ホワイトに接触し、ホワイトがハル・ノートの母体となる文書を書くに当たって参考にするようメモを見せたといいう。ホワイトを利用した作戦は、彼の名にちなんで「雪(スノウ)」作戦と呼ばれたという。

●CFR会員で親中反日派のリーダー格、ラティモア

 ジョンズ・ホプキンズ大学の教授で、著名なシナ史学者だったオーウェン・ラティモアも、CFRの会員だった。彼の親中反日的な姿勢が、ルーズベルトの政策判断に大きな影響を与えた。
 戦前のアメリカで、国務省内などに対日非難の世論を形作る中心的役割を果たしたものに、「太平洋問題調査会」(IPR:Institute of Pacific Relations)がある。ラティモアは、そのIPRの有力メンバーで、機関誌『太平洋評論』の編集長をしていた。
 IPRは1925年(大正14年)、太平洋地域の政治・経済・社会問題の調査及び地域諸国民の相互理解を図ることを目的として設立された民間団体である。戦前から終戦直後の時期まで、太平洋地或に関して権威のある国際的な研究団体だった。イギリス、アメリカ、日本など、12カ国が加盟した。各国の学者・研究者・財界人・ジャーナリストらが会員となっていた。資金の約半分は、ロックフェラー財団とカーネギー財団が提供していた。

 IPRは、わが国が32年(昭和8年)に国際連盟を脱退した後、唯一の国際的な窓口となっていた。しかし、IPRは国際協調のための団体ではなく、英米を中心とした国際秩序を維持・発展させるための団体だった。イギリスの王立国際問題研究会(RIIA)の下部組織として創設され、RIIAとCFRの連携が背骨となっていた。
 IPRの中心的存在だったのが、ジェローム・D・グリーンである。先に書いたように、グリーンは円卓会議のメンバーであり、CFR創設期からの会員である。グリーンは、26年にIPRの規約を起草し、IPRのアメリカ評議会、国際評議会の要職を務めた。このことは、IPRには円卓会議の意思が反映していたことを示唆する。

 アメリカのIPRは、アジア・太平洋戦争において、積極的に政府の政策立案に協力した。その提言は、総じて親中反日的だった。メンバーの中には、シナでの共産革命に理解を示す学者が多かった。なかでも、親中反日派のリーダー的存在だったのが、ラティモアである。彼はIPR機関誌の編集長として、シナを侵略する国として日本を追及する論陣を張っていた。こうしたラティモアの立場・活動が、グリーンと対立するものであったとは考えられない。円卓会議ーCRFーグリーンーラティモアを一本の線で結ぶことができ、そこに共通した意思が存在していただろうと私は推測する。

●ソ連の対米工作、CFRの容共親ソ体質

 1930〜40年代、アメリカは東アジアの覇権をめざした。そして、日本と対峙するために柱となった政策が、中華民国の蒋介石を支援する「援蒋政策」だった。アメリカは中立国の立場でありながら、援蒋政策によって国際法に反した種々の軍事援助を進めており、事実上、対日戦争に参戦していた。そのなかで、ラティモアは、蒋介石政権の顧問として、蒋介石に中国共産党との連携を勧めていた。
 ラティモアを蒋介石政権の顧問に推薦し、ルーズベルト政権との直接のつながりを作ったのが、ロークリン・カリーである。カリーは、時代を代表するエコノミストであり、ニューディール政策を立案・推進したニューディーラーの一人だった。ニューディール第2期に、左派色の強い経済政策を企画した「ケインズ革命」の立役者が、カリーだった。
 カリーは、ルーズベルトのアジア問題担当大統領補佐官となった。中国通としてルーズベルトや蒋介石に影響力を発揮した。そのカリーがルーズベルトと蒋介石を結ぶパイプとしてラティモアを推薦した。カリーは、ソ連のスパイだったことが明らかになっている。
 近年、アメリカの公文書が公開され、アメリカは、日本が真珠湾攻撃を行う前の1941年(昭和16年)9月に、日本爆撃計画を策定していたことが判明した。真珠湾攻撃は、卑劣な「スニーク・アタック(奇襲攻撃)」と批判されているが、アメリカの方が先に先制攻撃を計画していた。この計画を推進したのが、カリーだった。ソ連のスパイとしてこの計画を推進したのは、日米を戦わせてソ連が漁夫の利を得るという構想によるものだろう。

 ラティモアは戦後、日本占領政策の実行において、非常に強硬な姿勢を示し、厳しい政策を提案した。さらに、わが国の皇室制度の廃止を主張し、天皇と皇位継承の資格のあるすべての男子をシナに流して抑留し、国連の監視下に置くべきだと主張した。反日・反皇室の急先鋒である。こういう人物がCFRの会員であり、またIPRの有力メンバーだったのである。
 そうしたラティモアが「虎の巻」(片岡鉄哉氏)としていたのが、歴史学者E・H・ノーマンの著作だった。ノーマンは、カナダ共産党の党員であり、その歴史観は、わが国の講座派の歴史理論に依拠していた。講座派は日本共産党の理論であり、日本共産党はコミンテルンの日本支部として設立された。それゆえ、ノーマンの歴史観はソ連共産党の理論に基にしたものだった。それがラティモアに影響を与えていたのである。
 アメリカのIPRは、中国共産革命に理解を示す学者が多かったため、国内で激しい批判の対象となり、1961年(昭和36年)に解散に追いこまれた。グループの中で、特に厳しく追及されたのが、ラティモアだった。IPRがコミンテルンの宣伝機関となっていたことは、アメリカ上院司法委員会の調査報告で明らかになった。ラティモアの背後にコミンテルンがいたことは確実である。しかし、結局、ラティモアがスパイだという証拠は、上がらなかった。

 アルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト、オーウェン・ラティモアーーCFRの会員であって、ソ連のスパイやエージェント、または協力者だった者ないしその可能性が高い者について書いてきた。どうして、CFRが、ソ連や共産主義に入り込まれたのか。
 ひとつの側面は、ソ連がCFRに注目し、工作を行ったからである。アメリカ外交に強い影響力を持つCFRに工作員を送り込み、同調者や協力者、さらにスパイを作り出す。直接政府部内にも工作を行って、ルーズベルトの側近や頭脳にまで、同調者や協力者、さらにスパイを作り出す。共産主義はこうした謀略に巧みであり、CFRはソ連の格好の工作対象となったのだろう。
 もうひとつの側面は、CFR自体に容共親ソの傾向・体質があったことである。CFRはイギリス円卓会議の下部組織として設立され、巨大国際金融資本が人材・資金を提供していた。いわば資本主義の牙城ともいうべき存在である。ところが、巨大国際金融資本は共産主義者を支援し、ソ連との契約で莫大な利益を上げていた。思想・イデオロギーに関係なく、利益の得られるところに入り込む。こうした巨大国際金融資本が支配しているCFRは、容共親ソの政策を多く提言した。巨大国際金融資本は、国家の利益より資本の利益、国家の論理より資本の論理を追求する。CFRの活動の多くは、資金提供者の意思を政策的に推進するものとなったのである。
 これらの二つの側面、ソ連側とCFR側の両方が合わさったところに生まれたのが、ヒスでありホワイトでありラティモアらであったと言えるだろう。

関連掲示
・拙稿「日本を操る赤い糸〜田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等
 第9章 ヤルタ会談でもソ連スパイが暗躍
 第10章 ニューディーラーが日本を改悪

 

(3)アメリカ帝国の頭脳

 

●戦後復興期トルーマン時代のCFR

 ルーズベルトは、第2次世界大戦の末期、1945年(昭和20年)4月に死亡した。任期中につき、副大統領のハリー・トルーマンが昇格した。トルーマンはCFRの会員ではなかったが、閣僚にはやはりCFR会員が数人起用された。国務長官は交代で4人務めたがうち3人、スティティニアス、マーシャル、アチソンがそうだった。ウィリアム・アヴェレル・ハリマンが商務長官、スティムソンが陸軍長官、ロバート・ラヴェットが国務次官、後に国防長官となった。ネルソン・ロックフェラーは、FDR政権では国務次官補だったが、トルーマン政権では国際開発に関する顧問として引き続き政権に関わった。

 わが国は、対米戦争で敗れた。わが国に原爆を投下したのは、トルーマンである。敗戦後、1952年(昭和27年)4月28日に独立を回復するまで、わが国は、事実上アメリカの占領下にあった。この約6年7ヶ月の期間は、トルーマン政権の時代である。その間、GHQによって、日本弱体化政策が強行された。政策の立案・推進の中心となったのは、ニューディーラーたちであり、共産主義の信奉者や同調者が多かった。たとえば、マッカーサーの秘密指令により英文憲法を起草したグループの一人に、チャールズ・ケーディスがいる。ケーディスは、FDRの周りに多く集まったユダヤ人の一人で、ニューディール政策を進めた官僚だった。彼もCFRの会員だった。
 
 トルーマンは、アジアにおける共産主義の勢力拡大を許した。1945年、トルーマンは、マーシャル将軍を中国に派遣した。マーシャルは、蒋介石に政府に共産党員を入れなければ、支援を打ち切ると強要した。休戦を取り決め、共産党を窮地から救ったうえに、国民党政府への武器禁輸を断行した。帰国後、国務長官に任命されたマーシャルは、蒋介石政権の腐敗を強調し、毛沢東は共産主義者ではなく農民の指導者というイメージを広めた。こうした容共援毛政策の結果、シナ大陸は共産化されてしまった。当然、それはスターリンのソ連のアジア進出を意味する。
 そのうえ、トルーマンは、朝鮮半島の北半分へのソ連進出を許した。1950年(昭和25年)、アチソン国務長官は、南朝鮮はアメリカの「防衛線」外にあると表明した。これを好機と見た金日成は南朝鮮に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。今度は国防長官になったマーシャルがマッカーサーの中共軍の進撃を止める攻撃命令を取り消すなどし、戦争は長期化した。結局、38度戦で南北の分断が固定し、国家としてのアメリカにとっては、ほとんど意味のない戦争に終わった。利益を得たのは、軍産複合体のみである。一方、ソ連共産主義の側は、朝鮮半島北部に勢力圏を拡大した。
 アメリカの国益を考え、また自由民主主義を守ろうとするアメリカ人は、こうしたトルーマン政権のアジア政策を大失敗と断定する。しかし、国際金融資本とその外交政策企画機関CFRは、そのような政策を推進した。

 ヨーロッパに対しては、マーシャル・プランとNATO(北太平洋条約機構)が、ヨーロッパの対米従属を確保する政策として推進された。マーシャル・プランは、CFRが1939年(昭和14年)に国務省に協力して立ち上げた「戦争と平和」研究グループが46年(21年)に提案した「ヨーロッパの再建」という報告がもとになっている。マーシャル・プランは、ヨーロッパの経済的復興を援助するもので、48年から51年(昭和23〜26年)に実行され、復興を成功させた。
 CFRは、こうた戦後の復興期においても、各種の研究プロジェクトを設置し、「フォーリン・アフェアーズ」で活発な議論を展開した。この時期の研究は、戦後体制の構築に大きな影響を与えた。代表的なものの一つが、ジョージ・ケナンによる匿名論文『ソ連の行動の源泉』(X論文)である。この論文は『フォーリン・アフェアーズ』誌(1947年7月号)に掲載され、アメリカの対ソ政策を方向付けた。それまでの容共から反共へとアメリカは転じた。
 その政策的実現のひとつがNATOである。NATOは、1949年(昭和24年)4月、ベルリン危機の最中にアメリカ、カナダとヨーロッパ10カ国が結成した。強大化したソ連・共産圏に対抗するため、西側諸国が軍事的に結束し、地域集団防衛体制を取ったものである。

●アイゼンハワー政権でもCFR会員が活躍

 トルーマンの後、1953年(昭和28年)に大統領になったのは、共和党のドワイト・アイゼンハワーである。アイクは、CFRの会員だった。彼は東部の支配集団の支持で選挙に勝った。この支配集団は「東部エスタブリッシュメント」と呼ばれる。
 アイクは、ロックフェラー家の推薦により、リチャード・ニクソンを副大統領に任命した。ニクソンはこの時点ではCFRの会員ではなく、後年入会した。
 アイクもまたスタッフの多くをCFRの会員から選んだ。ネルソン・ロックフェラーは外交問題の顧問として、引き続き政権に関与した。国務長官にはジョン・フォレスター・ダレスがなった。彼は、ハウスのグループの一員で、CFRの創立メンバーであり、ロックフェラー財団理事会議長だった。59年のダレスの死後、国務長官になったクリスチャン・ハーターも、ハウスのグループの一員で、CFRの会員である。国防長官ニール・マッケロイ、CIA長官アレン・ダレスや財務長官ロバート・アンダーソンもそうである。

 アイゼンハワー政権は「大量報復戦略」を提唱したが、これはCFRが行った核戦略に関する研究プロジェクトに基づくものだった。「大量報復戦略」は、1954年(昭和29年)1月CFRの晩餐会において、ジョン・フォスター・ダレス国務長官が発表し、テレビ中継された。
 しかし、この戦略に対し、CFRの中から異論が出た。CFRの別のグループが「大量報復戦略」を批判し、核兵器・通常兵器を柔軟に運用する「制限戦争」を提言する調査報告を出した。この調査報告の取りまとめ役をしたのが、当時ハーバード大学教授のヘンリー・キッシンジャーだった。
 キッシンジャーは『核兵器と外交政策』(1957年)という題名の著書を出し、核兵器・通常兵器の段階的な運用による制限戦争の展開を主張した。同書は全米でベストセラーになり、キッシンジャーは一躍全米に知られた。彼の理論は、ケネディ政権が採用した「柔軟反応戦略」のひな型となった。キッシンジャーは、ロックフェラー家との関係を深め、後年、政界に躍り出る。
 なお、私は、20世紀以降、ヨーロッパの財閥とアメリカの財閥の力関係は、ヨーロッパとアメリカの優劣と相関していると思う。第2次世界大戦後、イギリス、フランス、オランダ、ベルギー等は植民地を失い、国力を下げた。逆にアメリカは、戦時中の軍需生産によって、圧倒的な経済力と軍事力を獲得した。ロスチャイルド家は、大戦中、ヒトラーによってフランクフルトとウィーン、ムッソリーニによってナポリのロスチャイルド家が滅ぼされた。生き残ったのは、ロンドンとパリの二家となった。一方、ロックフェラー家は、躍進したアメリカにおいて、全米の富の半分以上を所有する巨大財閥となった。その結果、ロスチャイルド家は相対的に力を弱め、ロックフェラー家が勢力を伸ばした。
 戦後、ロックフェラー家を中心とするアメリカの財閥は、アメリカ合衆国がイギリスに替わる覇権国家となったことによって、世界の政治経済に強い影響力を振るうようになった。その際、CFRは、国際金融資本が、アメリカの政府を管理し、政治・外交・経済・軍事・報道等を方向付ける上で、重要な組織となってきたと思う。ただし、資産規模では、ロスチャイルド家がロックフェラー家他の財閥を遥かにしのいでいる。そして、ロスチャイルド家を中心としたユダヤ系金融資本は、その資金力を駆使して巻き返しを進めてきている。

●CFRを調査したリース委員会の挫折

 アイゼンハワーの時代に特筆すべきことは、議会がCFRを詳細に調査したことである。1953年議会は、免税財団を調査するためにリース委員会を発足させた。免税財団とは、財閥が多額の寄付をしても税金を納めなくともよい団体である。ロックフェラー家、カーネギー等がこうした財団を多く所有している。この調査の時、CFRの調査が行われた。
 キャロル・リースを議長とする特別委員会の答申は、免税財団とCFRがアメリカの外交政策や学校教育に強い影響を及ぼしているとし、「ある特別の意味における『国際主義』――『世界政権』への傾斜姿勢とアメリカ『国家主義』の低下――を促進してきた」と指摘する。また多くの財団が「わが国の社会政治制度への攻撃を積極的に支持し、社会主義及び共産主義思想の助長に資金を出してきた」と述べる。資本の権化である財閥系の財団が、アメリカの国家主義を低下させ、社会主義及び共産主義思想を助長させているとは、奇妙な報告だが、これは妄想めいた陰謀論ではない。さらに委員会の答申は、述べる。CFRは「本質的には合衆国政府の機関」であり、その「研究成果は客観的なものではなく、圧倒的にグローバリスティックな概念の助長を指向している」と。

 リース委員会の報告は、メディアが取り上げず、委員会の活動は挫折した。巨大国際金融資本を中心とする支配集団の意思が働いたのだろう。リース委員会以後、CFRについての公的調査は行われていない。
 リース委員会の報告にいうグローバリスティックとは、アメリカを唯一の超大国とする一極主義のことではない。アメリカをはじめ各国が自国の主権を一部譲渡して、統一的な世界政府を創る思想のことである。地球統一主義ないし地球覇権主義としてのグローバリズムである。

 なお、私は、経済や交通、情報通信、人間の移動等が地球規模に拡大する世界的な社会現象をいうときはグローバリゼイション、この世界的傾向の中で唱導・推進されている戦略的な思想・運動をいうときは、グローバリズムと分けている。
 アメリカには、グローバリズムに対する根強い反対論がある。ナショナリズムやモンロー主義の伝統に基づくもので、グローバリズムの思想から共産主義を容認・支援する、ロックフェラー家やCFRへの反発となっている。
 国境のない、平和な世界を創る。国家という枠組みを取り払って、人類が一つになる。これは、人類の理想である。世界連邦運動、世界政府運動は、その理想の実現を目指す運動である。しかし、その運動を目指す人間が持っている思想・精神によっては、地球規模の支配構造や独裁体制の実現ともなりかねない。人類の精神的な向上なくして、富と権力のみをもって世界連邦・世界政府を追及するならば、共産主義やナチスの悪夢を地球大に拡大することになるだろう。まず根本的に必要なことは、人類の道徳的・心霊的な向上である。

●資本の論理によるグローバリズム

 CFRの設立目的には、世界政府の樹立があると想定される。CFRは、国際連盟発足時の失敗に端を発している。国際連合は、国際連盟の機能不全を踏まえて、CFRが新たに構想したものだった。国連はまだ統一的な世界政府ではない。世界政府への一段階である。IMFや世界銀行もこれと同様の指向によって作られたものである。
 資本の論理によって、国家の論理を超え、単一政府、単一市場、単一銀行、単一通貨をめざす思想。それが私の理解するところのグローバリズムである。経済的には、世界資本主義の思想とも言える。資本が主体となって、合理主義を地球規模で徹底して実現しようとする思想である。既存の国家を超えた統一世界政府を目指す点において、グローバリズムは、地球統一主義または地球覇権主義と訳することができる。私は、近代西洋文明が生み出した思想の典型であり、また頂点だと考える。
 世界資本主義的グローバリズムは、共産主義を容認し、支援し、育成し、救援しさえする。資本主義と共産主義を全く対立的なものと見ると、このパラドックスは解けない。私は、共産主義は資本主義の変形であり、統制主義的資本主義と認識している。共産主義は、帝政ロシアのような前近代的国家において、強力に近代化を進める。政府による上からの近代化であり、その実態は統制主義的資本主義である。
 巨大国際金融資本は、前近代的国家における共産主義を歓迎する。徹底した合理化によって、急速に近代化を進めるからである。統制主義的資本主義も、資本主義であるから、巨大国際金融資本はその政府と契約することにより、市場と資源を獲得することができる。さらに、米ソの冷戦構造においては、無制限核戦争にならない範囲で、各地で戦争が繰り返されれば、軍需産業には大きなビジネス・チャンスとなる。

 1961年(昭和36年)1月、アイゼンハワー大統領は、軍産複合体の危険性を国民に語った。「この巨大な軍隊と軍需産業の複合体は、アメリカが経験したことのない新しいものである。(略)大変な不幸をもたらす見当違いな権力が増大していく可能性がある。軍産複合体が我々の自由と民主主義の体制を危険に陥れるのを、手をこまねいて待っていてはいけない」と。
 アイゼンハワーは、CFRの会員であり、CFRの会員をスタッフに多く抱え、巨大国際金融資本のグローバリズムに応える政策を行った。しかし、彼は、アメリカがこのまま進むことに危惧を抱いていたのだろう。アイクは、軍産複合体が政治に介入し、政府を動かそうとしていることを国民に警告した。しかし、その後も軍産複合体は強大化を続けた。その背後にある巨大国際金融資本は、より一層、アメリカの政治・外交・軍事・経済・報道等を、自らの管理下に置いてきたように見える。そして、巨大国際金融資本による政府への働きかけの要に、外交問題評議会(CFR)があると考えられる。
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第3章 ビルダーバーグ・クラブ

(1)欧米主導の世界を企図

 

●欧米主導のビルダーバーグ・クラブが設立

 ここでCFRの話から少し離れて、CFRとは別の国際組織であるビルダーバーグ・クラブ(BC)について述べたい。ビルダーバーグ・クラブは、アイゼンハワー政権の時代にヨーロッパで設立された。
 第1回の会議は、1954年(昭和29年)5月にオランダのアーヘン郊外、ビルダーバーグ・ホテルで開催された。それ以来、開催場所の名を取って、ビルダーバーグ・クラブまたはビルダーバーグ会議等と呼ばれる。
 創設の中心となったのは、オランダのベルンハルト公である。現オランダ女王ベアトリクスの父であり、創設以来、76年(51年)まで議長を務めた。オランダ王室は、世界規模で資産運用を図る金融投資顧問団を持つ。ベアトリクス女王は、イギリスのエリザベス女王を遥かに上回る資産家といわれ、ビルダーバーグ会議の主要メンバーのひとりとなっている。

 ビルダーバーグ・クラブは毎年、欧米の有力者120人ほどが年1回、5月から6月ごろ、欧米のリゾート地に集まって非公開会議を行う。会議では、政治、経済や環境問題等、多様な国際問題が討議される。出席者リストや議題は公表されるが、全面的に公開ではない。会議には、欧米のジャーナリストも招待されるが、討議内容は報道されない。基本路線は、ヨーロッパ24名、アメリカ15名で作る「統制委員会」で決定されるという。主要国首脳によるサミットに比し、「陰のサミット」と呼ばれている。

●ビルダーバーガーの顔ぶれ

 ビルダーバーグ会議の主な参加者を、ビルダーバーガーという。参加者はあくまで私人として参加する。組織団体名は公表しない。
 出席者は、サミットと違って、西欧の王族・貴族、欧米各国の現職閣僚や有力政治家、NATO等の軍事関係者、中央銀行総裁、投資銀行家、国際的大企業の経営者、マスメディアの代表者等と各界・各層に及ぶ。欧米白人種中心の世界支配体制を維持するための最高戦略会議と見ることが出来よう。
 
 これまでの参加者は、ヨーロッパ側は、イギリスのエジンバラ公フィリップ、エドモン・ド・ロスチャイルド卿、ウィルソン・ヒース・サッチャー・ブレア等の歴代首相。フランスのジスカール・デスタン、ドイツのシュミット等、カナダ・ベルギー等各国の最高指導者が並ぶ。
 アメリカ側は、アイゼンハワー以後のほとんどの歴代大統領、デイヴィッド・ロックフェラー、ネルソン・ロックフェラー、アレン・ダレス、アチソン、ケナン、ヴァンス、マックロイ、マクナマラ、キッシンジャー、ブレジンスキー、マックジョージ・バンディ、ラムズフェルド、グリーンスパン、ヒラリー・クリントン、ビル・ゲイツ、ジョージ・ソロス、ルパート・マードック等、錚々たる顔ぶれである。
 また欧州委員会委員長、NATO事務総長、フランス銀行総裁、IMF総裁、世界銀行元総裁、シティ銀行会長等、政治・経済・軍事・報道等、各分野の実力者が集まっている。まさに欧米の所有者集団・経営者集団の最高レベルが集合する。
 これに比し、非欧米諸国からの参加者は、中東、イスラエルを除きほとんど存在しない。日本人は参加を許されていない。これまで一人も招かれていないようである。
 ビルダーバーグ・クラブと、王立国際問題研究所(RIIA)、外交問題評議会(CFR)、三極委員会(TC)の組織のメンバーには、重複が認められる。重複するメンバーは、それだけ重要な位置にあることになろう。
 続いて、より詳しく見ていきたい。

●ヨーロッパ統合運動のはじまり

 ビルダーバーグ・クラブの詳細を語るには、世界政府運動とヨーロッパ統合運動から語らねばならない。
 世界政府の構想は、遅くとも1910年代に英米の支配集団に芽生えた。起源をどこまでさかのぼり得るかわからないが、共産主義の思想は、理論的にプロレタリア独裁による世界政府の樹立が導き出される。それに対抗するには、ブルジョワジーによる世界政府の樹立が構想される。むしろ、共産主義の統制主義国家群を取り込む形で、この資本主義世界政府が企画されたのだろう。企画実現を主導するのは、英米である。その構想の第一歩となったのが、国際連盟と考えられる。しかし、国際連盟はアメリカの不加盟によってつまずいた。そこから、RIIAとCFRが作られ、英米主導で世界政府を目指す新たな動きが続けられた。
 これと連動する形で、西欧にはヨーロッパ統合運動が起こった。第1次世界大戦の悲劇は、平和への願いを切実なものとした。啓蒙の時代にカントが永久平和の理想を説いたが、近代ヨーロッパの歴史は、戦争と侵攻、支配の繰り返しだった。第1次大戦を経て、ヨーロッパの平和はヨーロッパの統合によるのみという思想が、さまざまな運動となって現れた。
 欧州統合論は、大戦後、オーストリア・ハプスブルグ家のクーデンホーフ=カレルギー伯爵が提唱したのが、初めと言われる。近代の戦争は、巨大な工業力を必要とする。だからもし資源を共通の権威の下に置くことができれば、大国同士の戦争を避けることが出来ると、クーデンホーフ=カレルギーは考えた。ドイツの石炭とフランスの鉄鋼が、両国にまたがる権威の管理下にあるなら、独仏の戦争の回避が期待できると主張した。単なる理想を説くのではなく、具体策を提示したところに実現可能性があった。

 ここで注目しておきたいことがある。クーデンホーフ=カレルギーが『回想録』の中で、彼の汎ヨーロッパ同盟は、ルイス・ド・ロスチャイルド男爵とマックス・ウォーバーグから資金援助を受けたと述べていることである。マックス・ウォーバーグは、全生涯にわたって汎ヨーロッパ同盟に真剣に関心を持ち続けたという。またマックスの紹介でアメリカを訪ねたクーデンホーフ=カレルギーは、その弟のポール・ウォーバーグとバーナード・バルークからも資金を提供されたと述べている。ユダヤ系の金融資本家が、ヨーロッパ統合運動に資金を出したのである。
 アメリカでは、エドワード・マンデル・ハウスとハーバート・フーヴァーが、汎ヨーロッパ同盟のアメリカ支部を設立した。ハウスとフーヴァーは、国際連盟への加盟の批准を促すため合衆国を遊説した。ヨーロッパの統合を進めるとともに、国際連盟にアメリカが加盟するようにすることは、連携した動きだった。その動きを国際金融資本は、資金的に支援したのである。

 しかし、欧州統合運動は、ナチスの台頭によって破綻した。ドイツへの戦勝国の徹底的な報復政策は、ドイツ国民の復讐に駆り勝てた。国際連盟は、ドイツをはじめ主要国が次々と脱退した。第1次大戦が終結してわずか20年ほどしかたたずに、ヨーロッパは再び大戦に突入した。このあたりの展開は、拙稿「西欧発の文明と人類の歴史」に書いた。
 第2次大戦の最中から、国際連盟に替わる新たな国際機関の設立が進められた。軍事同盟である連合国を恒常的な国際機関、いわゆる国際連合に発展させる動きがそれである。1944年(昭和19年)8月ダンバートン・オークス会議、45年2月のヤルタ会談等を経て、同年6月サンフランシスコ会議で「国際連合憲章=連合国憲章」が採択され、10月に国際機構としての「国際連合=連合国」が改めて発足した。
 こうした展開のなか、フランスの実業家で政治家でもあるジャン・モネが、新たなヨーロッパ統合論を唱えた。クーデンホーフ=カレルギーの構想は、ハプスブルグ家の威光による統合を志向し中欧を含むものだったが、モネはフランスの国益を重視し、西欧に限定した。
 1950年(昭和35年)5月、フランスのロベール・シューマン外相が、モネの原案をもとに、ドイツとフランスの石炭及び鉄鋼の全生産を共通の管理下におき、他のヨーロッパ諸国の参加も認めるというシューマン・プランを提唱した。

 ジャン・モネについて補足すると、モネは、ヴェルサイユ講和会議・国際連盟設立の際、フランスの事務次官だった。このとき、モネは、レイモンド・フォスディックというアメリカの事務次官と一緒に「世界政府の枠組みの土台」(フォスディック)を作るために働いた。フォスディックは、ジョン・D・ロックフェラー2世の使用人で、講和会議後、ロックフェラー財団の総裁になった。その後のモネは、ロックフェラー家の支援のもとで活動したことが明らかになっている。
 先ほどクーデンホーフ=カレルギーの汎ヨーロッパ同盟に、ロスチャイルド家、ウォーバーグ兄弟、バルークが資金提供し、ハウスやフーヴァーがアメリカで運動したことを書いた。今度のモネの方には、ロックフェラー家がついている。私は、これらの巨大国際金融資本家や世界政府運動家は、同じ目標に向けて連携していたものと推測する。RIIA、CFRの組織と人脈が活用されたことだろう。

(2)西洋文明を延命させる力

 

●第2次大戦後の統合への動き

 さて、欧州統合を目指すシューマン・プランが提唱された1950年当時、ヨーロッパでは、アメリカの主導でマーシャル・プランが実行され、NATOが結成されていた。
 第2次世界大戦後、西欧諸国は戦争で疲弊していた。その一方、ソ連が強大化し、西欧はソ連・東欧の共産圏と陸続きで接することになり、各国の連帯が必要となった。これに対し、アメリカ側では、マーシャル・プランを推進した。CFRが立案に参画したヨーロッパの経済的復興援助計画である。マーシャル・プランは、1948年から51年(昭和23〜26年)にかけて実行された。これにより、西欧の復興はなった。
 また49年(24年)4月、アメリカ、カナダとヨーロッパ10カ国が北太平洋条約機構(NATO)を結成し、地域集団防衛体制が取られた。翌年ソ連はこれに対抗して、東欧7カ国との間でワルシャワ条約機構を創設した。ヨーロッパは軍事的に完全に二大陣営に分裂した。東西対立は決定的になった。

 こうした冷戦下で、欧米諸国の連携とアメリカとの結合の強化が求められた。西洋文明の二大地域である西欧と北米が共同で共産主義に対抗する体制の構築である。その課題への取り組みとして、モネは欧州統合運動を具体化した。これは、アメリカ側の動きに応じつつ、ヨーロッパ側で独自の運動を進めたものと思われる。
 モネの構想によるシューマン・プランに基づき、西欧諸国は、1951年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)を設立した。モネは、ECSC最高機関(のちの欧州委員会)の初代委員長となった。

 世界政府の構想は、国際連盟の失敗を経て、第2次大戦後、国際連合の設立によって、第2段階を迎えた。そして、第3段階は欧州統合の具体化によって新たなスタートを切った。
 ECSCの設立は、ヨーロッパ統合への第一歩であるとともに、世界的な規模で見れば、国際連盟・国際連合を超える世界政府の樹立をめざす一歩でもあったと考えられる。アメリカのグローバリスト(地球統一主義者)は、欧州統合運動に資金を提供するとともに支持を表した。
ECSCは、その後、欧州原子力共同体(ユートラム)、欧州経済共同体(EEC)へと発展し、今日の欧州連合(EU)に至る。ヨーロッパは、部分的な共同組織づくりから始め、それを経済・政治・通貨等の分野に広げ、統合を段階的に進めている。

 ビルダーバーグ・クラブが創始されるのは、ここまで書いたような1948年のマーシャル・プランの開始、49年のNATOの結成、51年のECSCの設立という流れの中でのことだった。

●ビルダーバーグ・クラブを生んだレッティンゲル

 ビルダーバーグ・クラブの設立には、ユゼフ・レッティンゲルが重要な役割を果たした。ビルダーバーグ・クラブの終身事務局長となり、欧州政界の実力者として活躍した人物である。
 レッティンゲルは、ポーランド生まれのユダヤ人で、パリのソルボンヌ大学で教育を受けた。戦前は、ポーランドの外交官で諜報員だった。戦後、イギリスに亡命し、以後は「女王陛下の秘密諜報員」として生きたといわれる。
 レッティンゲルは、1946年(昭和21年)、王立国際問題研究所(RIIA)で講演を行った。演題は「欧州連邦の樹立の必要性」。内容は、欧州各国が主権を放棄することで一つの連邦を作るべきであるというものだった。クーデンホーフ=カレルギー伯爵やジャン・モネの欧州統合論に通じる主張である。
 当時、ヨーロッパでは欧州統合を目指す団体が多数分立していた。彼は、諜報任務や政治活動を通じて得た豊富な人脈を使って、そうした欧州統合運動を取りまとめていく。そこには、単に欧州の不戦共同体を作るというだけでなく、ソ連・共産主義からヨーロッパを防衛するという目的があっただろう。

 レッティンゲルが先の講演をRIIAで行ったことは注目に値する。RIIAは、円卓会議の下部組織である。亡命した諜報員が、個人的に講演できるわけはない。当然、彼に指示命令する人間なり組織があってのことだろう。円卓会議ないしその発展形態の組織、ないしそこに所属する人間が、指示命令者だろうと私は思う。

●欧州統合を目指す英米支配集団の連携

 レッティンゲルのRIIAでの講演を、ウィリアム・アヴェレル・ハリマンが聴いていた。ハリマン家は、ロスチャイルド家の支援を受けてアメリカの鉄道王になった富豪である。父エドワード・H・ハリマンは、ユニオン・パシフィック鉄道及びサザン・パシフィック鉄道の経営者として財を成した。息子のアヴェレルは、1943年(昭和18年)から46年(21年)1月まで、ルーズベルト政権の駐ソ大使、46年4月から10月までトルーマン政権の駐英大使を務めた。その後もニューヨーク州知事、商務長官等を歴任した。彼もまたCFRの会員である。

 レッティンゲルはアヴェレル・ハリマンの支持を得て、アメリカ財界とのパイプ作りを進めた。RIIAとCFRが姉妹組織であることを思えば、この行動も組織的な動きと考えられる。
 イギリスは、大戦で深い傷を負った。イギリスの支配集団は、アメリカの支援を必要としていた。一方、アメリカの支配集団は、イギリスを含むヨーロッパへの勢力拡大を進めていた。レッティンゲルは、J・P・モルガン系でCFRの理事長ラッセル・レッフィングウェル、ネルソン・ロックフェラー、デイヴィッド・ロックフェラー、ジョン・F・ダレス等へと交流を広げていった。
 CFRは設立以来、会長が全体を統括していたが、第2次大戦後、理事職を設けた。戦後初の理事長がレッフィングウェルで、次はジョン・マックロイ。その次がデイヴィッド・ロックフェラーである。マックロイは、ロックフェラーの銀行であるチェイス・マンハッタン銀行(当時)の頭取だった。レッティンゲルは、モルガン系やロックフェラー系の所有者・経営者に人脈を拡大していったのである。
 こうしてレッティンゲルは、欧州統合を目指し、英米連携を強めながら、舞台裏で積極的に行動した。そのような中で設立されたのが、ビルダーバーグ・クラブである。

 ダニエル・エスチューリンの著書『ビルダーバーグ倶楽部』(バシリコ)によると、「上流階級のカクテルパーティでは、ビルダーバーグは英国情報機関、MI6の創造物で、RIIAの指令下にあるものとささやかれている」という。また「MI6は、ビルダーバーグを機能させるには王室の権威を借りて広範な支持を集める必要があると考え、オランダ王室のベルンハルト殿下に目をつけた。欧州の王室や産業界の重鎮と幅広い深交があり、おあつらえ向きの仲介者だったからだ」と書いている。
 MI6とは、イギリスの軍事情報部(MID)で諜報活動を担当する第6部のことである。アメリカで言えば、中央情報局(CIA)に相当する部門である。
 エスチューリンは、上記のような情報を伝える反面、レッティンゲルについてはほとんど書いていない。ビルダーバーグ・クラブを主題とする本を書いていて、レッティンゲルの存在を隠すような奇妙な記述となっている。この点は、次回補足する。

●イギリス諜報機関、英蘭王族、欧米所有者集団の連携

 エスチューリンは、レッティンゲルについてはほとんど触れず、ビルダーバーグ・クラブの構想は、二人の人物から出たものだという。
 一人はアラステア・バカンである。初代トゥイーズミュア卿ジョン・バカンの息子で、円卓会議のメンバーである。RIIAの理事や戦略研究所所長等を歴任した。もう一人は、ダンカン・サンズである。チャーチルの娘婿で、卓越した政治家だったらしい。クーデンホーフ=カレルギーはチャーチルに欧州統合運動を呼びかけ、サンズが運動団体を作り、国際会議を主宰した。レッティンゲルは、チャーチルと親しかったから、サンズとも親しかっただろう。欧州統合を目指すレッティンゲルと、欧州統合運動を進めるサンズには、協力関係があったと思われる。
 いずれにせよ、ビルダーバーグ・クラブに至る発想は、イギリスで生まれた。エスチューリンは、ビルダーバーグ・クラブはMI6の創造物で、RIIAの指令下にあるものという見方を伝えている。MI6は、「女王陛下の秘密諜報員」レッティンゲルと一体の組織である。レッティンゲルは、円卓会議ないしその発展形の組織から指令を受けて、ビルダーバーグ・クラブの実現に奔走したと思われる。
 エスチューリンは、「MI6は、ビルダーバーグを機能させるには王室の権威を借りて広範な支持を集める必要があると考え、オランダ王室のベルンハルト殿下に目をつけた。欧州の王室や産業界の重鎮と幅広い深交があり、おあつらえ向きの仲介者だったからだ」と言う。

 ここにビルダーバーグ・クラブの象徴といえるベルンハルト公が登場する。ベルンハルト公は、ロイヤル・ダッチ・シェルやソシエテ・ジェネラール・ド・ヘルジークの大株主である。ロイヤル・ダッチ・シェルは、ロスチャイルド家の石油会社シェルと合併した会社である。ベルンハルト公は、ロスチャイルド家と共同経営者の関係にある。
 イギリス王室とオランダ王室の関係には、長い歴史がある。名誉革命の際、オランダのオレンジ公ウィレムがイギリスに渡ってウィリアム3世になった。今日では、ウィリアム3世の直系の子孫が、ヨーロッパ各国の王家の多くに広がっている。
 二度の世界大戦とその後の革命によって、ヨーロッパでは、相当数の君主制国家が共和制に移行した。こうした状況で身分を維持するには、各国の王族の連携が必要となる。そこで、イギリス王室とオランダ王室が主軸となり、ヨーロッパ各国の王族が連携し、所有者集団としての地位と富を守るために作ったのが、ビルダーバーグ・クラブであると考えられる。
 イギリス王室を支える円卓会議ないしその発展形の組織が、イギリスの覇権の維持を目指し、大陸に勢力を広げるために、オランダ王室との関係を生かした。そこに、西欧の国際金融資本が集合し、欧米の所有者集団が国際的に連携したものが、ビルダーバーグ・クラブと考えられる。

●欧米志向を超える新たな展開

 ビルダーバーグ・クラブは、欧州統合を目的としつつ、当初は大戦によって分裂した大西洋地域の国々の信頼関係を回復させ、経済的な協力を深めることを目的とした。私は、そこに、西欧の連携、イギリスの覇権維持、アメリカへの支援要請、アメリカの西欧進出という四つの要素が結合したと考える。その根底には、世界連邦運動または世界政府運動がある。そして、ビルダーバーグ・クラブは、1954年(昭和29年)以来、会議の回数を重ねるうちに、欧州の財閥や大企業と、アメリカの大企業と政治家、官僚が、巨大国際金融資本が主導する、新たな世界政府運動、いわゆる「新世界秩序」(the New World Order)を形成していくための政策フォーラムに転化していった。
 ビルダーバーグ・クラブは、また欧州統合運動の中枢としても機能した。石炭・鉄鋼や原子力の共同管理から始まった動きは、欧州経済共同体(EEC)、欧州共同体(EC)、欧州連合(EU)へ発展した。今日の広域経済圏の形成の先駆となった。
 また、ビルダーバーグ・クラブから主要国首脳会議(サミット)の発想が出されたという。サミットは、第1次石油危機後、先進諸国の協力のため、75年(50年)フランスのジスカール・デスタン大統領の呼びかけで始まった。シスカール・デスタンは蔵相時代からビルダーバーグ・クラブに参加している。

 ビルダーバーグ・クラブは欧米志向が強く、参加者の多数は西欧人である。アメリカ人は15〜20%程度に過ぎない。この比率は、アメリカの国家と資本が世界経済で占める割合に比べると、アンバランスである。
 デイヴィッド・ロックフェラーは、ビルダーバーグ・クラブの創設メンバーであり、運営委員を務めている。またビルダーバーグ・クラブに対し、IBM、エクソンなどの系列企業から多額の寄付を出しているようである。デイヴィッドは、アメリカでは無名だったジミー・カーターやビル・クリントンを、彼らが大統領選挙に立候補する前に、ビルダーバーグ・クラブで紹介し、大統領に押し上げた。
 デイヴィッド・ロックフェラーは、ビルダーバーグ・クラブに日本を参加者に加えることを提案して拒否され、73年(48年)、独自に日米欧三極委員会(TC)を創設した。TCについては、後に書くが、TCの欧米側のメンバーは、ビルダーバーガーと相当部分、重複している。
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第4章 アメリカ歴代政権を操る者

(1)ケネディからニクソンを貫く組織

 

●ケネディもCFR会員に取り囲まれていた

 ビルダーバーグ・クラブから、CFR及びアメリカの歴代政権のことに、話を戻そう。
 アイゼンハワーの次は、ジョン・F・ケネディが大統領となった。政権は、共和党から民主党に移った。JFKは、アイルランド出身でカトリックだった。WASPが主流のアメリカでは、社会的に下の階層から出た大統領だった。ケネディは、国際金融資本や軍産複合体の政治への介入に立ち向かい、リベラル・デモクラシーの伝統を守ろうとした。しかし、彼が所有者集団と無関係の存在だったのではない。
 ケネディ家はロックフェラー家とつながりの深い富豪であり、WASPの社会の一員として認められていた。JFKはCFRの会員だったと自分で言っている。閣僚選考に当たり、JFKは、ロバート・ロヴェットに助言を求めた。ロヴェットの推薦は、例外なく実現されたという。
 ロヴェットはCFRの会員で、トルーマン政権の国防長官だった。もとはハリマン家の弁護士で、ブラウン・ブラザーズ・ハリマンの共同経営者となった。戦後は、CIAの創設を提案し、隠然たる影響力を持った。

 ケネディは、国務長官には、CFR会員のディーン・ラスクを任命した。ラスクは、この時、ロックフェラー財団の理事長だった。ケネディは、一度もラスクに会ったことがなかった。ラスクは、1931〜33年(昭和6〜8年)にはローズ奨学金の理事長を務め、52年(27年)にCFRに入会している。ジョンソン政権でも国務長官を務めた。ケネディは、国防長官にロバート・マクナマラを任命した。ケネディは、マクナマラは、顔も分からなかった。マクナマラもCFR会員だった。
 閣僚のうち、財務長官、国家安全保障担当補佐官、同代理、CIA長官、国防副長官、国防次官等もCFRの会員だった。またケネディが選んだ国務省のスタッフ82名のうち63名がCFR会員だった。
 ケネディ時代のキューバ危機、米ソの平和共存、ベトナム戦争等については、「現代の眺望と人類の課題」第7〜8章に書いた。これらの世界的な重要事件に際し、ケネディは、個人の意思だけでなく、CFR会員の提言やロックフェラー家等の要望に応じながら対処したわけである。

●ケネディ暗殺・ジョンソン政権でのCFR会員の働き

 ジョン・F・ケネディの暗殺は、「現代の眺望と人類の課題」第7章に書いたように、いまだ解明されていない謎の多い事件である。事件の調査をしたウォーレン委員会の委員には、CFR理事長のジョン・マックロイ、元理事長でCIA長官のアレン・ダレス、CFR会員で後に大統領となるジェラルド・フォードらがいた。
 委員会は真相を究明するどころか、解明を防止し、疑問を封印するような行動をした。そのような委員会のメンバーにCFRの有力会員が複数いたということは、CFR及びその資金提供者にとって、事件の解明は望ましくないことだったのだろう。
 JFKが暗殺されると、副大統領のリンドン・ジョンソンが大統領になった。ジョンソン政権は、ケネディ政権を引き継いだので、やはりCFRの会員が要職を占めた。
 ジョンソン政権のアメリカは、トンキン湾事件というでっち上げ事件を起こして、ベトナム戦争に参戦する。1965年(昭和40年)2月、ジョンソンはベトナム北爆を開始して、本格的にベトナム戦争に介入した。ベトナムから早期撤退を企図していたケネディとは、正反対の決断だった。
 ベトナム戦争の時、ジョンソンは毎年、「賢人たち」という顧問団に政策を相談した。顧問団14人のメンバーのうち12人が、CFRの会員だった。中心はトルーマン政権の国務長官ディーン・アチソンで、他に同政権の商務長官アヴェレル・ハリマン等がいた。顧問団はベトナム戦争を継続することを強くジョンソンに求めた。ジョンソンはそれに従った。ところが、68年(43年)3月、顧問団は突然、この戦争は誤りだったと言った。はしごを外されたジョンソンは、戦争のすべての責任を負わされた。

 ベトナム戦争では、米軍は戦闘に大きな制約を課せられていた。マクナマラの方針である。1985年(昭和60年)になってその制約を課した「交戦規則」が公開された。米軍は、勝ってはならない戦い方を強いられた。そのため、軍事専門家にすれば短期間で勝利できる戦争が、異常に長期化し、多くの米国青年が犠牲になった。ベトナム人は、さらにその60倍にもなる死者が出た。
 私は、アメリカ政府は、戦争を長引かせて軍需産業を富ませ、CIAが麻薬取引で資金を得られようにし、ソ連とは決着をつけずに冷戦構造を維持して、巨大国際金融資本に利益をもたらすようにしていたのではないかと疑う。そしてそのような政策を提案していたものこそ、CFR会員のグループだったと推測する。

●かつてないほどCFR会員を多用したニクソン

 1968年(昭和43年)の大統領選挙では、共和党のリチャード・ニクソンが当選した。ニクソンもCFRの会員だった。ニクソンは地方大学出身の田舎弁護士だった。ジョージ・W・ブッシュの祖父プレスコット・ブッシュがその才能を見出して政界に送り、アイゼンハワーの副大統領にした。
 ニクソンは、1960年(昭和35年)の選挙では、新人のケネディに敗れた。その後、ニクソンは、ネルソン・ロックフェラーに会った。ネルソンは、一族には珍しく共和党員で、当時はニューヨーク州知事だった。ニクソンは、ネルソンの個人弁護士の法律事務所に入り、ロックフェラー家との関係を深めていった。

 ネルソンは、早くから自分が大統領となることを目指していた。ルーズベルト政権以来、政府中枢に預かっていたが、大統領を目指すため、いったんニューヨーク州知事を務め、いよいよ1968年(昭和43年)の大統領選で共和党の大統領候補指名選に立候補した。しかし、共和党内の反発が強く、そのうえ再婚問題で婦人層の嫌悪を買った。ネルソンは、遂に野望を断念し、ニクソンを大統領にして、背後から指令する方針に切り替えた。
 ニクソンは、ロックフェラー家の支持を得るため、共和党綱領委員会が作った綱領を反故にし、ネルソンが出した条件をすべて了承した。68年の選挙でニクソンが大統領に当選できたのは、ロックフェラー家の力によるものだった。

 就任後、ニクソンは、それまでの政権以上に多い、115名ものCFR会員を起用した。なかでもヘンリー・キッシンジャーを国家安全保障担当補佐官に任命したことは、重要である。この任命は、ネルソンの熱心な推薦によるものだった。
 キッシンジャーは、ネルソンの外交問題首席顧問をしていた。ネルソンは、子飼いの人材をニクソンの脇につけたわけである。ニクソンは、ベトナム戦争終結への動き、米中国交の実現、米ソ貿易の拡大等、国際的に目覚しい外交を展開した。そのほとんどは、キッシンジャーの忍者外交によるものだった。
 ニクソン政権の時代、1970年(昭和45年)にデイヴィッド・ロックフェラーがCFRの理事長となった。これによって、デイヴィッドが本格的に自らの意思を実現する時代が始まる。CFR理事長は、85年(60年)まで続けた。自ら理事長となったCFRを通じて、デイヴィッドは国際政治と世界経済に強い影響力を及ぼしていく。

●ウォーターゲイト事件で、ネルソン・ロックフェラーが副大統領に

 ニクソンは、ウォーターゲイト事件によって失脚した。1972年(昭和47年)、ニクソンの選挙運動員が、ウォーターゲイト・ホテルにある民主党本部に、盗聴器を設置しようとしたことが発覚したのである。事件の全容は、なお解明されていないが、盗聴器を仕掛けた運動員の行動がなんとも間抜けだった。最初から盗聴が暴露されて、ニクソンが窮地に陥るように仕組んだ事件だと疑われている。
 ニクソンは、自分の肉声の録音テープが公開されて、窮地に陥った。テープは、ホワイトハウスに内部関係者を監視する盗聴システムで録音されたものだった。そのようなテープが、なぜ漏洩したのか。管理責任者であったアレクサンダー・ヘイグの関与が濃厚である。ヘイグはCFRの会員であり、ロックフェラー家に忠実なキッシンジャーの右腕としてニクソン政権に入り、首席補佐官から国務長官となった。ニクソンは、最後は自ら隠ぺい工作をしたことを認めて、74年(49年)に大統領を辞任した。
 それゆえ、ニクソンの失脚は、ネルソン・ロックフェラーとの関係が主たる原因と考えられる。ニクソンの副大統領アグニューは、汚職の容疑で辞任した。ニクソンは、後任にフォードを任命した。これが、ネルソンの怒りを買ったのだろう。そしてキッシンジャー、ヘイグらによるニクソン外しが画策されたと考えられる。

 ニクソンの辞任後、副大統領のジェラルド・フォードが大統領に昇格した。フォードは、ウォーターゲイト事件におけるニクソンの犯罪に関し、大統領特赦を与えた。これで事件の幕引きを行ったことが、国民の不評を買った。もし事件の真相究明を続けたならば、政府中枢での画策が明るみに出て、政権は危機に瀕しただろう。
 大統領に昇格したフォードは、ネルソン・ロックフェラーを副大統領に任命した。若き日から大統領の椅子を目指してきたネルソンは、副大統領となったことにより、政権の内部で影響力を振るった。
 フォード政権には、国務長官のキッシンジャーを始め、前政権に引き続き要職にあるCFR会員が多くいた。政府内のネルソンとCFR理事長のデイヴィッド、二人のロックフェラー兄弟が、内と外から豊富な資金とCFRの人材を使って、アメリカ政治を牛耳る体制が出来たわけである。ただし、ロックフェラー家があまりにも大きな権力を持つことへの反発も強まった。一部の議員や学者、独立系のジャーナリスト、草の根の運動家たちが、自由とデモクラシーを守るための運動を続けていった。

(2)象徴的存在としてのキッシンジャー

 

●ロックフェラー家を後ろ盾にしたキッシンジャー

 数多いCFRの会員の中でも、ヘンリー・キッシンジャーの存在は、群を抜いている。
 キッシンジャーは1923年、ドイツ生まれのユダヤ人である。ナチスが政権を掌握したため、1938年に一家でアメリカへ移住。43年に帰化した。第2次世界大戦の時は陸軍に志願し、軍曹として、アメリカ陸軍の諜報部隊で任務についた。戦後もドイツに駐留し、軍諜報学校の教官をした。帰米後、仕官予備部隊に志願した。大尉に昇進し、米陸軍諜報センターのG2参謀長補佐になった。
 その後、ハーバード大学に進学し、国際政治学を専攻。大学院時代には、各国から集まる俊才に国際情勢の講義や討論を行なうセミナーの幹事となり、講義内容を取り仕切った。この時に、将来、各国の指導者となる人材と人脈を形成した。それが、後の外交に生かされた。
 キッシンジャーは学生時代からロックフェラー財団の特別研究員だった。ハーバード大学で教職に就き、CFRに入会。1955年(昭和30年)に、CFRの核戦略に関する研究チームのリーダーとなり、アイゼンハワーが採用した「大量報復戦略」の硬直性を批判し、核兵器・通常兵器の段階的な運用による「限定戦争」の概念を打ち出す。著書『核兵器と外交政策』(1957年)は大きな反響を呼ぶ。彼の理論は、後にケネディ政権が採用する「柔軟反応戦略」へと発展した。

 若きキッシンジャーのずば抜けた優秀さに注目したのが、ネルソン・ロックフェラーだった。キッシンジャーがネルソンと関係を持つようになったのは、1955年。当時ネルソンは、アイゼンハワー政権の国際問題特別補佐官だった。ネルソンと出会って以来、キッシンジャーは、政治の世界に足を突っ込んだ。キッシンジャーは、ネルソンの外交問題首席顧問となり、ネルソンの政治的野心の追求を支えた。
 ネルソンは、大統領を目指すため、いったんニューヨーク州知事を務めた後、いよいよ1968年(昭和43年)の大統領選で共和党の大統領候補指名選に立候補した。しかし、ニクソンに敗北した。そこで、ニクソンを大統領に仕立て、キッシンジャーをニクソンに強く推薦した。国家安全保障担当大統領補佐官となったキッシンジャーは、ニクソン政権の外交全般を取り仕切った。CFRにおいても、キッシンジャーは、指導的な力を誇った。その背後には、ネルソンがおり、またデイヴィッド・ロックフェラーがいた。

●米中国交実現、ベトナム戦争終結等を実現

 キッシンジャー外交は、米中国交実現、米ソ貿易拡大、ベトナム戦争終結への道筋付け、中東戦争の解決等、驚嘆すべき成果を次々に生み出した。これまで書いたように、ベトナム戦争は奇妙な戦争だった。勝つつもりなら勝てる力があるのに、自ら軍に制約をかけて、戦争を長期化させた。軍産複合体は潤ったが、国家としてのアメリカは財政赤字が膨らんだ。
 ニクソン政権が誕生し、キッシンジャーが外交の前面に立った1969年(昭和44年)、アメリカ政府は、ベトナムへの派遣軍を削減はするが、戦争をすぐ止めるのでなく続けつつ、同時に終結の条件を整えていく。しかも、それによって、冷戦下の国際関係、米中・米ソの関係を自国の国益にかなうように組み替えていくという、非常に高度な外交を行った。
 ニクソンは、国民に向けては、ベトナム戦争の名誉ある解決を最大の使命として政権に就いた。実際、数度にわたりベトナム派遣軍を削減し、「ニクソン・ドクトリン」の名の下に、アジア各国から駐留米軍の削減も実行した。その一方、米中和解を進め、中ソ対立を固定化する外交を展開した。
 キッシンジャーは、1971年(昭和46年)に極秘で共産中国を2度訪問し、米中和解の道筋を付けた。米中は、72年(47年)2月のニクソン訪中で合意した。
 キッシンジャーは73年(48年)に補佐官と兼任する形で国務長官に就任した。ニクソンが失脚し、74年(49年)、フォード政権が成立すると、国務長官として外交政策全般を統括した。

●米中接近とわが国のアメリカ追従

 1969年(昭和44年)、中ソは、共産主義の路線対立が高じて、国境紛争に至った。ソ連は強大化する中国を押さえるため、核攻撃の共同作戦をアメリカに提案した。アメリカはこれを断り、逆に中ソの間に楔を打った。その結果、米中ソの三角関係と呼ばれる勢力均衡状態が生まれた。
 米中急接近の背景には、共産中国の核開発があった。中国は、短期間に独自の核開発に成功し、アメリカに対する最小限核抑止力を獲得した。1964年(昭和39年)に核実験に成功した中国は、70年(45年)4月、人工衛星を打ち上げ、IRBM(中距離弾道ミサイル)が完成していることを世界に示した。人工衛星打ち上げの成功により、中国は、日本とわが国にある米軍基地を攻撃することができるようになった。アメリカ本土を直接、核攻撃することはできないが、いわば日本人と在日米軍を人質に取ることによって、アメリカの核攻撃を断念させる「第二撃能力」を保有したわけである。わが国とすれば、この時から中国の核ミサイルの標的になっているのである。

 米中接近の過程で、戦後アメリカの占領が続いていた沖縄が、わが国に返還された。71年(46年)6月に返還協定が調印され、72年5月に返還が実現した。沖縄返還は、アメリカが発した共産中国への和解のシグナルだったといわれる。米軍基地があり、中国に近い沖縄を日本に返すことで、アメリカは中国と対決する意思はないというメッセージを送ったものだろう。
 米中会談は、わが国に事前協議なしに行われた。頭越し外交で出し抜かれたわが国は、72年(47年)9月、田中角栄首相が北京を訪問し、日中共同声明が調印された。これにより、わが国と中国は、戦争状態を終え、はじめて国交が開かれた。台湾は、核時代の国際政治の力学の狭間で、国連から脱退し、アメリカから断交された。旧本国であるわが国は、アメリカに続いて台湾と断交した。従属国的被保護国的地位にあるわが国は、道義を曲げて、アメリカの台湾政策に従わざるを得なかった。

 この時、田中が独自に日中国交正常化を実現したことに対し、キッシンジャーは激怒した。日本の自主的行動は、米国主導による国際関係の勢力均衡を崩すことになるという考えからしい。彼は、日本がアメリカから自立し、特に中国と連合を組むことを一貫して警戒している。
 田中は76年(51年)ロッキード事件で収賄容疑により逮捕された。実刑判決を受け、控訴中に田中は亡くなった。田中失脚の原因は、一つはこの日中国交正常化、もう一つは独自のエネルギー政策の追求にあったと思われる。つまり、日本に対し、アメリカから自立させまいとする圧力が働いた事件が、ロッキード事件と考えられる。
 
●キッシンジャー外交は利益中心の現実主義
 
 米中接近のころの共産中国では、共産党の実質的な一党独裁体制のもと、毛沢東の個人崇拝が熱病のように高揚していた。自由、デモクラシー、人権等のアメリカの理想とは、相容れない。しかし、キッシンジャーはその共産中国と国交を開き、それまで反共の友好国だった中華民国台湾との国交を断絶した。一方、ソ連との間では、米中とソ連の対決という構図に進めるのではなく、第1次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結。さらに第2次交渉を進めるなど、緊張緩和(デタント)政策を推進した。こうして米中、米ソの勢力均衡を組み直しながら、ベトナム戦争終結の条件を整えていった。
 和平交渉においてキッシンジャーは、極秘にパリに何度も飛び、そこでベトナムの共産主義者と交渉を重ねた。交渉は3年半かかり、ようやく終結の道筋がつき、1973年(昭和48年)、パリ和平協定が調印された。協定により米軍は撤退した。ベトナム戦争のベトナム化が進むと、結局75年(50年)、北ベトナムの勝利によってベトナム戦争は終結した。
 このベトナム戦争終結への貢献が評価され、キッシンジャーは、ノーベル平和賞を受賞したのだが、終戦は、もっと早く実現できた可能性がある。和平交渉妥結の時期は、1972年(昭和47年)の大統領選挙をニクソンが有利に戦うために、その時期に合わせて成果を出すようにしたものだった。キッシンジャーは、和平交渉において、北ベトナムに復興支援金を支払うという約束をした。しかし、終戦後、復興支援金は、1ドルたりとも支払われていない。

 こうしたキッシンジャーの外交理論は、現実主義(Realism)である。現実主義とは、国際関係を国益と勢力均衡(バランス・オブ・パワー)の観点から分析する立場で、国際社会における道義や倫理、国際法や国際機関を重視する理想主義(Idealism)と対比される。キッシンジャーは、核兵器が高度に発達した冷戦時代にあって、イデオロギーの対立より、共産圏の国家も含めた力のバランスを図ることで、国家と資本の実利を追求した。その外交は、19世紀ヨーロッパで複雑な同盟関係を結んで勢力均衡を築き上げたメッテルニッヒを思わせる。

 キッシンジャー外交は、国際社会における道義や倫理など無視する。キッシンジャーによる勢力均衡は、理想を目指して協調を生み出すものではなく、権謀術数によって作り出されたものだった。
 キッシンジャーは、1973年(昭和48年)、チリのサルバドール・アジェンデ政権の転覆に関与した。南米における社会主義政権の成立は、合衆国にとって脅威だった。キッシンジャーは、CIAを使って、クーデタを成功させた。その後、アウグスト・ピノチェトが親米政権を樹立した。ピノチェトは、軍事独裁によって反対派を弾圧した。キッシンジャーは、それを黙認した。1998年(平成10年)にピノチェトがヨーロッパで拘束された際、弾圧への加担者としてキッシンジャーの訴追が論じられた。
 キッシンジャーの国益のためには道義も倫理も関係ない、という徹底した利益中心の現実主義外交は、アメリカ及び巨大国際金融資本には大きな利益をもたらした。しかし、その外交が今日の国際関係に及ぼしている弊害は大きい。

●金銭と武力と情報を駆使

 現実主義外交は、相手を説得したり、譲歩を引き出したりするために、金銭と武力と情報を駆使する。キッシンジャーは、ロックフェラー家を中心とした巨大国際金融資本のカネと、覇権国家で核大国であるアメリカの武力と、CIAを始め各国の諜報機関からの情報とを併せ持っていた。
 キッシンジャーは、アメリカの議会をも無視して、秘密外交を行った。キッシンジャーは、中東やソ連・中国・東欧の共産主義をひんぱんに往復して、外交を繰り広げたが、彼の交渉の詳細は、アメリカの大衆のみならず、議会にさえも秘密にされていた。
 著名なノンフィクション作家フランク・A・カペルのキッシンジャー論が、『ソビエト代理人H・キッシンジャー』と題されて翻訳されている。ゲイリー・アレンの名著『ザ・ロックフェラー・ファイル』の翻訳版に収録されているものである。(邦題『ロックフェラー帝国の陰謀』自由国民社)
 カペルによると、ワシントンの消息筋は、「キッシンジャーがほとんどの場合、法律によって承認が必要とされているにもかかわらず、ホワイトハウスや議会の承認を得ずに、共産圏の指導者と協定を結んだり、言質を与えたりしている」と述べたという。たとえば、「キッシンジャーはソ連との小麦売却取り決めの承認に先立って、すでにソ連に言質を与えていた」という。
 こうした秘密外交がその時代のアメリカで通っていたのは、キッシンジャー個人の実力だけでは、ありえない。金銭の力で政治家やマスメディアの口を封じる、ロックフェラー家や巨大国際金融資本があってのものだろうと私は思う。

 1971年(昭和46年)、キッシンジャーは、イスラエルの諜報機関モサドから、中国においてクーデタ計画が切迫しているという情報を得た。これを知るや、キッシンジャーは、極秘に北京に飛び、中国共産党の指導者に毛沢東と周恩来の暗殺計画があることを通報した。首謀者は、共産党副主席・林彪だった。通報によって、計画は9月13日、未然に防がれた。林彪らは飛行機でソ連に逃亡を図ったが、モンゴル上空で墜落死した。共産党政府は、事件についての詳細な事後報道を一切行わなかった。このときのキッシンジャーの情報提供は、中国共産党指導者の信用を得て、米中接近が進展したと考えられる。
 一方、キッシンジャーに脅迫されたという指導者は、少なくない。1978年(昭和43年)、イタリアのアルド・モロ元首相が「赤い旅団」に誘拐・殺害された。この事件の公開裁判で、モロの側近がモロはキッシンジャーに脅迫されていたと証言した。パキスタンの大統領だった故アリ・ブットも彼に脅迫されていた。ブットは、パキスタンの核保有論を支持していた。ブットが残したメモには、キッシンジャーから「もしお前が国家再建政策を続けるというのなら、血の戒律によって裁かれるだろう」と脅されていたことが書かれていた。
 こうしたキッシンジャーの脅迫行為は、単にアメリカ政府の意思だけではなく、複数の国家や国際組織の意思を代弁していることをうかがわせる。

●大戦中はソ連のエージェントだった

 キッシンジャーの秘密外交は、単なる政治家や学者の仕業でない。私は、大戦中に諜報員として活動した経験が、「忍者外交」と呼ばれる神出鬼没の行動につながっていると思われる。戦後は、ドイツのオベラマアゴーのヨーロッパ戦線諜報学校の教官だった。わが国で言えば、陸軍中野学校の出身で、かつその教官をしていたことに比せられようか。
 国際外交で縦横無尽の活躍をするキッシンジャーの過去に、大きな疑惑が持ち上がった。キッシンジャーは、「第2次世界大戦中、ドイツに駐留していた米陸軍の軍曹時代、ODRAとして知られている特別グループに入れられていたソ連のエージェントだった」という疑惑である。カペルによると、この情報を公開したのは、ポーランドの大統領直属諜報部で各国のスパイを調査していたマイケル・ゴレニュースキー陸軍大佐である。ゴレニュースキーは、本名をアレクセイ・ニコラエビッチ・ロマノフという。ロマノフという名のとおり、帝政ロシア・ロマノフ朝の王位継承者だった。
 キッシンジャーが所属していたというODRAは、ポーランドの秘密警察に属する。ODRAの主な目的は、西側、特にイギリス、アメリカの軍諜報部組織への浸透である。第2次大戦後は、ソ連の管理下に置かれていた。ゴレニュースキーことロマノフは、キッシンジャーに関する情報を、CIA(米中央情報局)に対して、1961年、62年、73年と三度提供したが、完全に無視された。
 しかし、このキッシンジャーに関する情報は、個々の情報筋において実証され、確認された。「キッシンジャーが、ドイツでの軍務期間中、共産側諜報組織と関係を持ったことは疑いの余地はない」とカペルは言う。当時アメリカの陸軍軍曹だったキッシンジャーは、同時に暗号名“BOR”という名のODRA諜報員だったと彼は伝えている。

●容共親ソがキッシンジャーの外交姿勢

 ソ連のエージェントだったという疑惑は、単に過去の一時期を問題にするものではない。キッシンジャーの外交が、あまりにも容共親ソの姿勢だったから、こうした疑惑が上がったのである。
キッシンジャー対共産圏外交は、核全面戦争を避けるという大前提のもとで、ソ連との緊張緩和を進め、共産圏諸国とのビジネスを拡大していくものだった。
 キッシンジャーは、1974年(昭和49年)3月、モスクワでソ連の最高指導者と会談し、共同コミュニケを発表した。共同コミュニケは、両国の友好関係を強化し、共通の利益と貿易、経済、科学及び技術の分野での協力を発展させたいというもの。緊張を緩和するデタント政策の成果である。しかし、この貿易拡大で、アメリカの石油関係業者が巨額の石油製品や装備をソ連に売り込もうとしていることが暴露された。
 中東との交渉では、キッシンジャーは、米国と同時にソ連政府の立場を代表していた。ソ連の外交責任者であるグロムイコが、中東ではキッシンジャーが自分たちの代弁をしてくれているということを発言している。
 また、農業政策で失敗したソ連は、キッシンジャーを通じてアメリカの農産物を買うことで飢饉を救われた。それによって、共産党政府は、大衆の不満・暴動による政権転覆から守られていた。また非効率的な統制経済で低迷する東欧諸国は、キッシンジャーを通じて、アメリカの技術と機械類、その外の必需品の供給を受けた。また、キッシンジャーが共産圏を訪問した際に結んだ秘密協定によって、共産圏に多額のドル借款が与えられた。カペルは、「税金を使ってアメリカ政府が支払いを保障した共産主義者との取引には、多くの米国企業が殺到した。米国民の税金で保障された信じられないほどの低金利、そして長期にわたる貸付や融資が無制限に行われている。こういったコミュニストとの取引で多くの米企業はぼろ儲けした」と書いている。

●アントニー・サットン博士による指摘

 スタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員だったアントニー・サットンは、キッシンジャーについて、重要な指摘をしている。
 サットンは、長年鉄鋼業界に勤めた技術者だった。改めて大学で経済学を修めたサットンは、エンジニアとしての経験と知識を生かして、ソ連の経済と技術について研究した。それにより、サットンは、1960年代前半から、ソ連は社会基盤が整備されておらず、技術的に立ち遅れ、経済的には他国に依存しているというソ連観を明らかにしている。当時早くも「マルクス主義は既に終焉を迎えた」と主張した。
 1968年(昭和43年)には、長年の研究を集大成し、『西側の技術とソ連の経済発展』という著作を刊行した。そして、ソ連の技術はすべて西側から取り入れたものであることを、膨大な資料をもとに論証した。本書の内容をサットンは「ソ連の技術は西側の技術であり、電動トラクターなどの独自の発明は惨憺たる結果に終わっている」と一言で要約している。
 1970年代初頭、ベトナム戦争が行われていた。サットンは、ベトナム戦争でアメリカが受けている被害は、アメリカやヨーロッパがソ連に提供している技術によると見ていた。「相も変わらずソ連の工場に技術が売られ、そこで作られた兵器や物資が北ベトナムに送られていたのである」とサットンは『回顧録』に書いている。たとえば、アメリカの資本と技術でソ連国内に世界最大のトラック工場が建設され、そこで作られた軍用トラックがホーチ・ミン・ルートを走っていた。輸送船や武器も同様だった。

 さて、ここからがキッシンジャーのことだが、サットンは、次のように書いている。「このころ、ヘンリー・キッシンジャーがセンタリンBという工作機械をソ連に輸出することを承認した。ソ連がこの装置を輸入する目的はただ一つ。MIRVミサイル(註 多弾頭独立目標再突入ミサイル)の精度を格段に高めるのに必要なボールベアリング製造用の溝を作るためである。これにより、ソ連はピンポイントでアメリカの目標を攻撃できるようになる」と。サットンは、「キッシンジャーを使ってソ連をだます計画があったのならともかく、そうでなければ導き出される結論はただ一つーーあまり歓迎できない話ではあるが、キッシンジャーがソ連のエージェントだったということである」と書いている。(サットン他著『闇の超世界権力スカル&ボーンズ』徳間書店所収)
 彼の主張は、キッシンジャー個人のことを指摘するだけではない。サットンは、著書『ウォール街とヒトラーの台頭』において、1917年のロシア革命でレーニンやトロツキーに資金を提供し、1930年代初めルーズベルトのニューディール政策にも資金を提供した者と、ナチスの権力獲得に資金を出した者とは、同じ欧米の資本家たちであると主張している。キッシンジャーの不可解な行動を理解するには、巨大国際金融資本と共産主義の関係を理解しなければならない。その点は、後に改めて記したい。

●シオニストとしての一貫した姿勢

 キッシンジャーの容共親ソの外交は、アメリカ資本の経済力で共産国を変質させ、崩壊させるのが狙いだったという見方もある。1990年前後、ソ連・東欧の共産政権は崩壊し、冷戦は終結した。以後、キッシンジャー外交の影響は、共産中国の経済的・軍事的躍進に表われている。もう一つ私が、キッシンジャー外交の影響が強く続いていると思うのは、アメリカとイスラエルの関係である。
 キッシンジャーはユダヤ人であり、シオニストである。一貫してシオニズム及びイスラエルの利益のために行動した。今日、アメリカでは、イスラエル・ロビーが最大のロビー団体となり、アメリカの外交政策に強い影響を与えている。イスラエル・ロビーは政府・議会・政治家に積極的に働きかけ、アメリカの政策をイスラエルに有利なものに誘導している。合衆国政府は、アメリカの国益よりもイスラエルの国益を優先しているという批判が出ている。
 こうしたアメリカ=イスラエル関係は、キッシンジャーが強化・深化したものと私は考えている。ユダヤ人シオニストであるキッシンジャーが、アメリカ外交を取り仕切った時代があったからこそ、イスラエル・ロビーはアメリカ=イスラエル連合を絶ち難いまでに確固たるものに出来たのだろうと思う。

 キッシンジャーは、国務長官時代に、米国最大のユダヤ人団体であるユダヤ名誉毀損防止同盟(ADL)が引き起こした事件に際し、25回以上も団体の代弁者として登場した。彼はシオニスト指導者たちを多くの政府機関の役職に就けた。また、元内国歳入庁(IRS)長官シェルダン・コーエンに説いて、ADLや何百というほかのシオニスト機関が永遠に免税措置を受けられるよう、IRSの規則を書き換えさせた。
 ユースタス・マリンズ著『世界権力構造の秘密』(成甲書房)によると、ADLは英国特殊情報部(SIS)が創設した機関であり、英国の外務大臣パーマストン卿ヘンリーが創設した機関である。そもそもシオニズムという運動自体も、パーマストンが英国のスパイ活動の武器として1843年から60年にかけて作り上げたものだ、とマリンズは言う。
 シオニズムの最大の資金提供者は、いうまでもなくロスチャイルド家である。中でもエドモン・ド・ロスチャイルドは、各国のユダヤ人のパレスチナへの移住から現地での企業作りまで、資金援助に最も熱心で、彼の存在なくして現在のイスラエルという国家はない。イスラエルは、ロスチャイルド王国と言っても過言でない。
 ユダヤ人シオニストとして活動するキッシンジャーは、ロスチャイルド家とも深い関係がある。キッシンジャーは、ロスチャイルド家、それと切り離せないイギリス、及びイスラエルの利益のためにも貢献したと推測される。

●公職退任後の企業活動

 キッシンジャーは、フォード政権の終焉とともに、国務省を去った。その後もキッシンジャーは、CFRの実力者、ビルダーバーガーとして、自分の子飼いの者たちをアメリカ政府の要職に就け、暗然たる影響力を及ぼしている。
 キッシンジャーは、キッシンジャー・アソシエイツという会社を設立し、アメリカの多国籍企業の国際的な権益増進に寄与すべく、各社と顧問契約を結び、企業活動をしている。また、米中国交回復の立役者としての実績、人脈をもとに、共産中国の投資研究機関とともに、中国における大規模な商業権益にも関与している。
 キッシンジャー・アソシエイツの共同経営者の一人に、イギリスの貴族ピーター・キャリントン卿がいる。キャリントン卿は、ロスチャイルド家の親族である。イギリスの外務大臣、NATO事務総長等を歴任した大物政治家であり、またイギリス最大の核兵器・原子力・軍需企業ゼネラル・エレクトリック・カンパニー(GEC)の会長、ウラン・シンジケートの元締めである資源会社リオ・チント・ジンク社やバークレー銀行等の役員として活躍した企業家でもある。そして注目すべきことは、王立国際問題研究所(RIIA)では所長を務め、キッシンジャーもメンバーであるビルダーバーグ・クラブでは1991年(平成3年)から議長を務め、またキッシンジャー同様、後に触れる三極委員会(TC)の有力メンバーでもあることである。RIIA、BC、TCで重要な役割を果たすこうした人物とキッシンジャーは、一緒に企業活動を行っている。
 キッシンジャーこそ、現在の世界で、RIIA、CFR、ビルダーバーグ・クラブ、TCという国際機関を結ぶ、象徴的な経営者と言うことが出来よう。ページの頭へ

 

 

第5章 ロックフェラーのグローバリズム

 

(1)日本を取り込む三極委員会

 

●日米欧を結ぶ三極委員会の設立

 ここでCFRとアメリカ歴代政権の話から離れて、三極委員会(TC)について述べたい。TCは、1973年(昭和48年)ニクソン政権の時代に設立された。RIIA、CFR、ビルダーバーグ・クラブとともに、現代の国際社会で強い影響力を持つ国際組織である。とりわけわが国にとっては、重要である。

 TCは、日本・北米・ヨーロッパなどからの参加者が会談する私的組織であり、民間における非営利の政策協議グループである。目的は、先進国共通の国内・国際問題等について共同研究及び討議を行い、政府及び民間の指導者に政策提言を行うことである。当初は日本名を「日米欧三極委員会」と称したが、現在は「三極委員会」という。設立時点は、欧米以外からは日本のみが参加したが、現在はわが国以外のアジア諸国も参加しており、単に「三極委員会」と訳すことになったものである。
 TCは、アジア・太平洋、北米、ヨーロッパに設けられた三つの委員会によって、総会が運営される。参加国は委員会の規定では「先進工業民主主義国」とされている。経済問題が協議の中心を占めている。

 TCはニクソン政権時代の1973年、北米、西欧、日本の実業界、金融界、政界の指導者たちで構成された。
 TCの提唱者は、デイヴィッド・ロックフェラーである。政治家の道を歩んだネルソンとは対照的にデイヴィッド・ロックフェラーは、銀行家の道を歩み、チェイス・マンハッタン銀行(当時)の会長となった。この銀行は、1955年(昭和30年)ロックフェラー系のチェイス銀行と、クーン・ローブ商会のマンハッタン銀行が合併したものである。1970年代から80年代にかけてはデイヴィッドが会長を務めた。その後、2000年(平成12年)にJPモルガン銀行と合併し、現在はJPモルガン・チェイス銀行となっている。
 デイヴィッドは70〜80年代、チェイス・マンハッタン銀行の会長として、CFRやビルダーバーグ・クラブで影響力を振るい、またTCを設立して、世界的に活躍した。
 デイヴィッドはTC創設時の議長になった。創設に助力したブレジンスキーが北米支部の創立時委員長を務めた。北米支部のメンバーの大半はCFRメンバーでもあった。

●グローバリスト、デイヴィッド・ロックフェラーの時代へ

 デイヴィッドは、代表的なグローバリストである。すなわち、世界資本主義的な地球統一主義者である。巨大国際金融資本家の立場から、国連・IMF・世界銀行等の国際機関を高く評価しており、これらを資金的・人材的に支援してきた。また彼は1970年(昭和45年)からCFRの議長の座にあり、またビルダーバーグ・クラブは創立時からの常連である。
 1970年代に入り、国際社会で日本が台頭し、欧米だけでは世界を牛耳っていけない情勢になった。そこで、デイヴィッドは、アメリカが主導してアジアを取り込み、先進国の共同体を作って世界の支配体制を維持・拡大しようと考えた。そして、ビルダーバーグ・クラブに、経済成長を遂げた日本も加えたらどうかと提案した。しかし、欧州側の一部メンバーから猛反発を受けた。それならば、と独自に設立したのが、TCである。

 当時、デイヴィッド・ロックフェラーは、CFRの議長の座にあった。アメリカではCFRへの批判が高まった。それをかわしながらグローバリズムを推進するため、デイヴィッドは、自ら新たな国際機関を設立した。それがTCである。欧米志向の排他クラブ的な組織であるビルダーバーグ・クラブに対して、日本を含むのが、TCの特徴である。TCは、欧米の連携だけでなく、日本さらにアジアを取り込み、アメリカ主導で新たな世界秩序を形成しようとするデイヴィッドの構想の産物である。
 バリー・ゴールドウォーター上院議員は、著書“With No Apologies”のなかで、TCを「デイヴィッド・ロックフェラーの最新の国際密謀団」と呼び、「それは合衆国の政治体制を牛耳ることで、商業及び銀行業一族の多国籍合同の手段にしようとする意図である」と言った。
 次にTCの主なメンバーを挙げておきたい。デイヴィッド・ロックフェラー、ブレジンスキー以外には、エドモン・ド・ロスチャイルド、ヒース(英国元首相)、バー(フランス元首相)、キッシンジャー、カーター、ヴァンス、シュルツ、ブラウン等、米欧の有力政治家・銀行家・企業家・マスコミ人が並ぶ。国際政治学者のサミュエル・ハンチントンもTCのメンバーであり、文書編集者を務めた。日本側のメンバーについては、後に触れることにする。

●三極委員会の理論的支柱ブレジンスキー

 デイヴィッド・ロックフェラーがTCを設立する際、構想を具体化し、設立を補助したのが、国際政治学者のズビグニュー・ブレジンスキーである。
 ブレジンスキーは、政治学者としてもまた政治家としてもキッシンジャーと並び称されることが多い。もちろんCFRの会員である。カーター政権で国家安全保障担当大統領補佐官を務めた。21世紀の地球で超大国アメリカの覇権を維持し、アメリカ主導で世界秩序を構築する戦略を打ち出している屈指の戦略家である、と私は認識している。バラク・オバマの外交問題顧問としてオバマに助言している。
 ブレジンスキーは、1928年(大正3年)ポーランド生まれでユダヤ系と言われる。外交官だった父親の関係で、幼少期をドイツのベルリンで過ごし、ナチスの台頭を目撃した。同じく1936〜7年(昭和11〜12年)にはソ連のモスクワでスターリンの恐怖政治を見聞した。カナダに在住していた39年(14年)、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、一家は祖国に戻れなくなった。戦後のポーランドは共産化されたため、帰国はかなわなかった。
 こうした出身と経験をもとに、ブレジンスキーはハーバード大学で共産圏の政治・外交の研究をした。キッシンジャーやサミュエル・ハンチントンと同窓である。コロンビア大学の教授となったブレジンスキーは、ソ連・東欧の政治や歴史、アメリカのヨーロッパでの役割等について著書を発表し、確固たる評価を獲得した。70年(45年)には『テクネトロニック・エージ――21世紀の国際政治』(読売新聞社)、72年(47年)には『ひよわな花・日本――日本大国論批判』(サイマル出版会)を出版して、わが国でも注目を浴びた。
 73年(48年)にデイヴィッド・ロックフェラーが日米欧三極委員会(TC)を設立した際、ブレジンスキーは、専門のソ連・東欧だけでなく、西欧・日本も含むまさに世界的な視野をもった戦略家として、デイヴィッドに助力した。
 
●「最優先すべき中心的な政策課題」と提言

 ブレジンスキーは、1970年(昭和45年)にCFRの機関誌『フォーリン・アフェアーズ』に、次のように書いていた。
 「新しい広範な方策が必要であるーーたとえば人類が当面しているより大きな問題に効果的に取り組み得る先進国共同体の創設である。合衆国、西欧に加えて日本も含まねばならない。(略)何らかの小規模な常設機関とともに、各国政府首脳の定期的会合を織り込んだ合衆国、西欧、日本からなる委員会のようなもので出発するのがよいだろう」と。
 このブレジンスキーの「先進国共同体」という発想が、デイヴィッドの欧米に日本を取り組む日米欧三極委員会の設立に生かされている。
 TC設立の時は、デイヴィッドが議長、ブレジンスキーが北米支部委員長となった。ブレジンスキーは事務局長も務めた。ブレジンスキーの後は、キッシンジャーが継いだ。キッシンジャーの後は、ピーターソン国際経済研究所長のフレッド・バーグステン、カーター及びレーガン政権のFRB議長だったポール・ヴォルカーが事務局長を務めている。
 TCが設置されて間もない1973年(48年)7月号の『フォーリン・アフェアーズ』に、ブレジンスキーは寄稿をし、次のように書いた。
 「私は、世界が一つの共通のイデオロギー、一つの超政府を自発的に受け入れるとは考えていない。従って、この目標を実現するための唯一可能な実際的方法は、世界が生き残れるかどうかという共通の関心を掻き立て、世界にその解決策を受け入れさせることである。(略)大西洋共同体構想はたしかに冷戦時代の諸問題に対する創造的な答えであった。しかし、今日の状況下においてその枠組みは余りにも狭いものとなり、国際共同体の前に立ちはだかる数多くの挑戦を受け止め、その好機を生かすには不十分である。そこで私はかかる現実をすなおに認め、日本とアメリカ、ECの共同作業をさらに活発に進めることこそ、アメリカが現時点で最優先させなければならない中心的な政策課題であると提言したい」と。
 ここに言う「大西洋共同体構想」とは、RIIA、CFRが目指してきたものであり、ビルダーバーグ・クラブが固執しているものでもある。ブレジンスキーは、その構想では、余りにも枠組みが狭くなり、不十分だという。そして、日米欧の共同作業をさらに活発に進めることこそ、「アメリカが現時点で最優先させなければならない中心的な政策課題」だと提言する。これを具現化したものこそ、日米欧三極委員会に他ならない。

●日本を取り込み、利用する意図か

 ブレジンスキーによる日米欧先進国共同体の創設という構想は、デイヴィッド・ロックフェラーによって、日米欧三極委員会の設立に生かされた。米欧だけでなく、経済大国となった日本を取り込んで、先進国の共同作業で世界的な課題に取り組む組織として、TCは発足した。しかし、これは日本を対等な立場にある国家として処遇するということではない。
 わが国は、戦後、軍事的にアメリカに依存しながら経済発展をした。その日本の経済力は、アメリカの国家にとっても、資本にとっても目障りになってきたのだろう。日本は、安全保障だけでなく、食糧やエネルギー、各種資源もアメリカに依存している。TCの設立は、こうした日本を改めて金融・情報においてもアメリカに依存させ、日本を再度アメリカに従属化させることを狙いとしたものだろう。この日本の再従米化を推進する際のポイントは、日本の国家指導者の中に、アメリカ追随的な人間を増やし、そうした人間で政治・経済・社会の中枢を固めることにあっただろう、と私は考える。

 ゲイリー・アレンは、『ザ・ロックフェラー・ファイル』(1976年、邦題『ロックフェラー帝国の陰謀』自由国民社)に次のように書いている。
 「そもそもデイヴィッド・ロックフェラーが日米欧三極委員会を作ったのは、日本の政財界、官界、アカデミズムの実力者を彼らの代理人として仕立て上げ、これらの人々の個人的な影響力をフルに生かして、日本の軌道修正を図ることであった。
 彼らは、日本をアジア太平洋連合におけるアメリカの良きパートナーとしておだて上げる一方で、対ソ包囲網の一環を強化するという口実で、共産中国の基盤強化に日本を駆り立て、将来の大合併に至る道を日本が絶対に踏み外さないよう監視しているのである。もし日本が彼らの警告を無視したり、彼らとは異なった世界政策を展開するなら、彼らはただちに日本の食糧やエネルギー、その他の資源供給をストップし、彼らの支配下にあるマスメディアを総動員して日本人を大混乱に陥れるだろう」と。
 ここにおける「将来の大合併」とは、世界政府の樹立を意味する。アレンは、TCは世界政府の樹立に向けて設立された組織と認識している。またアレンは、アメリカが共産中国を従米的に発展させるために日本を利用し、同時に日本を自立させないようにしていると見ている。

 TCの第1回会合は、1973年(昭和48年)10月東京で開催された。74年(49年)、TCは、組織の目的を織り込んだ六つの共同声明を発表した。ゲイリー・アレンは、この公文書を注意深く読むと、「世界の億万長者が我々に否応なく承認を求めている『四つの目標』を見出すことができる」と述べている。
 第一は、世界的なクレジット決済システムを整えること。第二は、「持たざる国」に対して「持てる国」がもっと経済技術援助をすること。第三は、共産圏との貿易をさらに積極的に推し進めること。第四は、石油危機や食糧危機を回避するため、より大きな国際機関の提言を受け入れること、だと分析する。そして、アレンは「読者は、これらの目標が『四つの近代化』をめざす共産中国の基盤強化を図り、エネルギーや食糧、金融その他の指標に対する彼らの支配を強化するために提出されたものであることがわかるだろう」と書いている。
 私は、1976年(昭和51年)という時点で、アメリカにこうした洞察力を持った論者がいたことに、日本人はもっと注目すべきだと思う。先に引いたアントニー・サットン、ジェームズ・パーロフ、エドワード・グリフィンらもそうであるが、情報の収集・分析、洞察・予測に優れた能力を発揮する人物は、学界やマスメディアの領域にばかりいるとは限らない。むしろ既成の価値観や商業主義を超えてこそ、社会の深層や時代の将来が見える視点が存在するのである。

●TC設立後の日本の再従属化

 ゲイリー・アレンは、三極委員会(TC)について、「日本をアジア太平洋連合の一員として中国近代化のために使おうとしている彼らは、渡辺武アジア開発銀行元総裁を当初の日本側委員長にした。その他の日本側委員としては、宮沢喜一、大来佐武郎、牛場信彦、佐伯喜一、土光敏夫、藤野忠次郎、永野重雄、岩佐凱美、盛田昭夫らがおり、このうち何人かは日米賢人会議のメンバーを兼ねている」という。
 そして、アレンは、TCの「日本側委員の中には一人もビルダーバーガーはいない。このことは日本人がCFRやTCの背後にある超国家的な秘密組織から完全に締め出され、知らない間に彼らの道具にとして使われていることを意味している」と述べている。
 TCの日本側委員を見ると、TC設立当時、宮沢・大来は元外相、牛場は元駐米大使、佐伯は野村総研会長、土光は経団連前会長、藤野は三菱商事前会長、永野は日本商工会議所前会頭、岩佐は富士銀行前頭取、盛田はソニー会長だった。
 このうち私が最も注目するのは、宮沢喜一である。宮沢はTCメンバーの中で最も大物であり、日本側の委員長も務めた。TC設立後、翌1974年(昭和49年)外相、77年経企庁長官、80年官房長官、86年蔵相、87年副総理兼蔵相を歴任し、91年(平成3年)に首相となり、93年(5年)にかけて日本のトップの座にあった。首相退任後も98年(10年)小渕内閣で蔵相。2000年(12年)森内閣でも蔵相/財務相を務めた。首相になっただけでなく、これだけ繰り返し、経済担当大臣を務めた政治家は、稀である。
 宮沢が活躍した時代、TCが設立されて以後の日米関係は、一層アメリカ主導になったと思う。1985年(昭和60年)のプラザ合意、89年(平成元年)ブッシュ父大統領の提案による日米構造協議に続き、93年(5年)宮沢首相・クリントン大統領間で日米包括経済協議が開始された。宮沢喜一とビル・クリントンは、ともにTCのメンバーだった。私はこの首脳会談は、TCの日本への影響を象徴していると思う。
 宮沢・クリントン会談の翌年、94年(6年)から、アメリカによる年次改革要望書が毎年提出されるようになった。2000年(平成12年)日本長期信用銀行の外資への売却、02年(14年)事実上の日本破産処理案である「ネバダ・レポート」の発表、07年(19年)小泉政権下の郵政民営化の実現等、畳み込むように、アメリカは対日外交を進めてきた。
 この過程は、日本のアメリカへの再従属化である。私は、アメリカによる日本再従属化は、単に政府間の外交によって進められたのではなく、双方の政府に影響を与える民間組織があればこそ、強力に推進されてきたものと思う。私は、そこにCFRとTCが存在し、大きな推進力を発揮してきたのではないかと思っている。
 
●CFR、BC、TCに参加する国際的な権力者たち

 私見では、イギリスの王立国際問題研究所(RIIA)は、20世紀初頭に持っていた力が弱まり、今日では外交問題評議会(CFR)、ビルダーバーグ・クラブ(BC)、三極委員会(TC)の影響力が勝っていると思う。イギリス女王を頂点とした円卓会議を上回る国際組織が存在するという説もあるが、そうした何かが存在するにせよ、しないにせよ、CFR、BC、TCの三つの組織を主催またはそこに参加している所有者及び経営者の集団が、今日の世界で実質的に国際的な権力を発揮していると考えられる。
 これら三つの組織のすべてに関わっているのは、アメリカの支配集団であり、西欧の支配集団はビルダーバーグ・クラブとTC、日本の支配集団はTCにのみ参加している。わが国は、米欧主導の世界で、相対的に低い地位にある。
 現在の世界で、CFR、BC、TCという三つの輪のどれかに所属している者か、または所属していた者は、4千人以上になる。その逆に、過去から現在までを通しても、三つすべてに参加する者は、少ない。三つの輪が重なり合った領域にいるのは、デイヴィッド・ロックフェラー、ヘンリー・キッシンジャー、ズビグニュー・ブレジンスキー、そしてサイラス・ヴァンス(カーター政権の国務長官)、マックジョージ・バンディ(ケネディ・ジョンソン両大統領特別顧問、フォード財団理事長)、トーマス・ヒューズ(カーネギー財団理事長)らである。彼らのうちの最高実力者はデイヴィッド・ロックフェラーである。彼を支えてきた頭脳としてのキッシンジャーとブレジンスキーの存在は、私には際立って見える。
 デイヴィッド・ロックフェラーは、1915年(大正4年)生まれ。今年93歳である。ロックフェラー一族の中心は、彼の甥であるジョン・デイヴィソン "ジェイ" ロックフェラー4世の世代に移りつつある。

 ところで、本年(2008年、平成20年)5月10日の産経新聞は、「日米欧の『三極委員会』に中印が参加へ」と題した記事を掲載した。それによると、三極委員会は、早ければ来年(2009年、21年)の東京会合から、中国、インドの参加を認める方針を決めたという。
 「同委員会が中印両国に門戸を開くかどうかは、ここ数年懸案だった。関係者によると、冷戦終結後の国際情勢の変化の中で、両国が参加しないままでの会合は意味がなくなりつつあるといった議論や、同委を解散すべきだといった意見も出ていた。4月末に米ワシントンで行われた今年度の会合で、両国を加えて継続することを最終的に決めた」と記事は報じている。
 三極委員会は、日米欧の三極を結ぶ組織としてスタートしたが、日本だけでなくアジアの国々も参加するようになっていた。そこに本格的に中国・インドを加えるということは、21世紀に日米欧に匹敵するほどの大国となると予測されているこれら2国を取り込んで、多極化する世界でバランスを取りながら、米欧の繁栄を出来るだけ有利に維持していこうという狙いだろう。
 三極委員会を牛耳ってきたデイヴィッド・ロックフェラーは、年齢的に数年のうちに退場するだろう。その後、誰がデイヴィッドのやってきたような指導性を発揮するのか。J・D "ジェイ" ロックフェラー4世が引き継ぐのか、それとも巨大国際金融資本家集団のうちの誰かが引き継ぐのか。注目されるところである。

(2)ロックフェラー家の帝国

 

●デイヴィッド・ロックフェラーの庇護でカーターが大統領に

 フォードは、ウォーターゲイト事件でニクソンに大統領特赦を与え、事件の幕引きを行った。国民の不評を買ったフォードは、1976年(昭和51年)の大統領選で、民主党のジミー・カーターに敗れた。
 カーターは、ジョージア州知事をしていた。ジョージア州は、ロックフェラー一族の根拠地の一つである。カーターは、ロックフェラー家の庇護を受けており、国際的には無名に近かったカーターを大統領に押し上げたのは、デイヴィッド・ロックフェラーだった。
 1973年(昭和48年)、州知事時代のカーターは、デイヴィッド・ロックフェラーと、ニューヨーク州タリータウンの彼の邸宅で夕食を共にした。そこでカーターは、ブレジンスキーを紹介された。デイヴィッドは、ビルダーバーグ・クラブで日本を取り込むことを提案したが拒否され、新たな国際組織として日米欧三極委員会(TC)を立ち上げようとしていた。ブレジンスキーは、デイヴィッドを助けてこの組織の有望候補者を選考しているところだった。

 カーターに会ったブレジンスキーは、「カーターが、ブリュッセルと東京にジョージア州のため取引事務所を開いていたことに感銘を受けた。それは日米欧三極協力概念にぴったり当てはまるように思えた」と語っている。
 ブリュッセルはベルギーの首都であると同時に、北大西洋条約機構(NATO)と欧州委員会の本部が置かれている欧州有数の政治都市である。ブレジンスキーは、南部の農業中心の州にありながら、アジアの東京、欧州のブリュッセルに海外事務所を置いているカーターの目の付け所に、感心した。カーターはTCの創立メンバーとなるとともに、デイヴィッドの強力な後押しを受けた。3年後の76年の大統領選挙に出馬すると、瞬く間に民主党の候補として指名を獲得した。
 ロックフェラー一族に批判的なバリー・ゴールドウォーター上院議員は、「ロックフェラーとブレジンスキーは、カーターが彼らの理想的な候補者だと知った。彼らはカーターが指名を獲得し大統領に当選するのを助けた」と述べている。そして、カーターを大統領にする「銀行家たちの金力、学会の知的影響力、CFRとTCのメンバーに選ばれている報道機関関係支配者たちを動員した」とゴールドウォーターは言う。
 米紙『ワシントンポスト』1976年5月8日号によると、カーターは、ロンドンで二人の人物と面会し、大統領当選へのゴーサインを受け取った。その二人とは、ジェイコブ・ロスチャイルド卿とデイヴィッド・ロックフェラーだった。ジェイコブは、イギリス・ロスチャイルド家の当主である。デイヴィッドがロスチャイルド家にカーターを紹介し、これら欧米の両財閥の了解のもと、カーターはホワイトハウスへの道を進んだのだろう。
 カーターは、外交に関しては経験不足だった。彼を大統領にすべく国際政治を教えたのは、ブレジンスキーだった。カーターが大統領になると、ブレジンスキーは外交・安保政策担当の補佐官となり、自ら政権に参加した。ブレジンスキーとデイヴィッド・ロックフェラーの関係は、キッシンジャーとネルソン・ロックフェラーの関係と対照的である。

●CFR・TC会員で固めた実質的なロックフェラー政権

 カーターはCFRの会員であり、TCの会員だった。カーターは、CFRから70名以上、TCから20名以上のメンバーを政権スタッフに起用した。
 CFRとTCの双方の会員だったのは、ブレジンスキーを始め、副大統領ウォルター・モンデール、国務長官サイラス・ヴァンス、国防長官ハロルド・ブラウン、FRB議長ポール・ヴォルカーらであり、国務副長官、国務次官、国務次官補、財務次官、エネルギー副長官、大統領特別補佐官等もそうだった。財務長官マイケル・ブルーメンソール、CIA長官スタンズフィールド・ターナー等はCFRのみの会員だった。
 ロックフェラー家との関係では、国務長官のヴァンスは就任以前、ロックフェラー財団の理事長を務めていた。ケネディ政権のディーン・ラスクもそうだが、ロックフェラー家の金庫番だった人間が政権に入ると、国家を代表する外務大臣に就くというのが、アメリカという国家である。その上、デイヴィッド・ロックフェラーは、CFRの議長で、TCの議長でもあるから、カーター政権は、カーターを冠にし、CFR・TCの会員で固めた実質的なロックフェラー政権と見ることが出来よう。

 カーター政権は、現実主義的なキッシンジャー外交からの転換を図り、アメリカ的価値観を掲げた人権外交を打ち出した。キャンプ・デイヴィッド合意を仲介して、エジプト・イスラエル間の和平交渉を成功させたのは、歴史に残る功績である。しかし、その反面、イランの首都テヘランでアメリカ大使館を占拠され、2度の救出作戦に失敗し、国民の批判を浴びた。カーター政権の時代、1979年(昭和54年)にソ連がアフガニスタンに侵攻した。このソ連のアフガン侵攻を画策したのが、ブレジンスキーだった。ソ連にアフガンを攻めさせて、泥沼化する。彼の狙い通りアフガニスタンは、ソ連にとってのベトナムとなった。この間、CIAは、アフガンの反ソ連ゲリラを育成・支援した。私は、ブレジンスキーは学者としてだけでなく、参謀として天才的な資質を持つと見ている。
 ブレジンスキーについては先に書いたが、カーター政権以降のことをここで補足しておきたい。国家安全保障担当補佐官となったブレジンスキーは、民主党内では最も強硬派である。イランのアメリカ大使館人質事件の対応をめぐって、ヴァンス国務長官と対立し、ヴァンスは80年(55年)に辞任した。後任の国務長官には、ブレジンスキーが同じポーランド出身のエドマンド・マスキーを取り立てた。
 ブレジンスキーは、祖国ポーランドの独立自主管理労働組合「連帯」を積極的に支持した。ソ連・東欧諸国の共産政権の瓦解は、ポーランドに始まった。ブレジンスキーは、ポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ2世と密接に連絡を取っていた。ポーランドの民主化は、カトリック教会の宗教的な力と、西側諸国の経済的な力があいまって成し遂げられた。そのため、ブレジンスキーは、東欧民主化の黒幕といわれる。
 ブレジンスキーは、地政学を国際戦略の理論的支柱にしている。ユーラシア大陸の大陸国家(ランドパワー)を強大化させないよう、ソ連を崩壊に導き、ソ連崩壊後は旧ソ連諸国の民主化を画策して、アメリカの覇権の維持・拡大を進めている。
 ブレジンスキーは、ネオコンの元祖のように見られているが、9・11以後、彼は、ネオコンの主導でアフガニスタン、イラクに侵攻したブッシュ子政権を厳しく批判している。ネオコンについては第7章(2)で詳述するが、視野狭窄で武力偏重のネオコンと違い、ブレジンスキーは長期的な展望のもとに、グローバル時代のアメリカの覇権維持と、アメリカを基盤とした世界政府の樹立を志向している。バラク・オバマ大統領の最高顧問であるといわれ、オバマ政権の外交に指導力を発揮するものと思われる。

●レーガンに対するCFRとロックフェラーの影響力

 1979年(昭和54年)に、ネルソン・ロックフェラーが死亡した。ロックフェラー一族で最も深く政権中枢に陣取っていた人物がこの世を去った。翌1980年(55年)の大統領選挙では、現職大統領のカーターが共和党のロナルド・レーガンに敗れた。カーターの協調路線とは打って変わり、反共タカ派の大統領が誕生した。
 レーガンは、CFRの会員ではなかった。しかし、政権にはやはりCFRの会員が多く参入した。カーター政権では284名だったが、レーガン政権も257名ものCFRの会員がスタッフになった。これらの両政権は、民主党の最も協調的な路線から共和党の最も強硬路線へと路線が大転換したように見イェールが、ともにCFRの会員が政権に多数入っていることでは、一貫しているのである。政権には、TCの会員、またCFRとTCの両方のメンバーである者も含まれていた。
 主要閣僚には、CFRの会員が多く就いた。国務長官は、最初はアレクサンダー・ヘイグ、後にはTCのメンバーでもあるジョージ・プラット・シュルツ。国防長官は、最初は同じくTCのメンバーでもあるキャスパー・ワインバーガー、後にはフランク・カールッチ。二代目の財務長官ジェームズ・ベイカー、CIA長官ウィリアム・J・ケーシー、商務長官マルコム・ボールドリッジ、労働長官ウイリアム・ブロック、FRB議長アラン・グリーンスパンらが、やはりCFRの会員だった。政権途中で中華人民共和国駐在大使に任命したのは、CFR理事長のウィンストン・ロードだった。ロードは、キッシンジャーの元側近だった。

 大統領の後ろ盾にロックフェラー家がついていることも、変わらなかった。実は、ロックフェラー家は、大統領選挙の予備選挙の段階では、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(ブッシュ父)を擁立しようとした。一族は法で許される限りの最大の寄付をブッシュに行っていた。しかし、レーガンが優勢になると、ブッシュからレーガンに乗り換えた。
 1980年(55年)11月の大統領選挙の2ヶ月前、ヴァージニア州ミドルスバーグで、レーガンのためにパーティが開かれた。レーガンの右隣には、デイヴィッド・ロックフェラーが立っていた。デイヴィッド自身は民主党支持で知られるが、巨額の選挙資金をレーガンに提供した。これに応えて、レーガンは、ブッシュ父を副大統領候補に指名した。デイヴィッドは、自分の意を体した政治家であるブッシュ父を副大統領候補につけることで、レーガンを管理・誘導しようと考えたのだろう。

●軍拡競争でソ連を崩壊に導く

 昭和56年(1981)1月、大統領になったレーガンは、ソ連を「悪の帝国」と呼び、共産主義との対決路線を打ち出した。とりわけ戦略防衛構想(SDI)の構想を発表したことによって、ソ連を軍拡競争に引き込み、ソ連を経済的に窮地に追い込んだ。冷戦を終結させ、ソ連共産政権を崩壊に導いたことは、レーガン政権の功績である。
 レーガンは、国内経済の建て直しと軍備増強という課題を掲げ、大幅な減税と国防費の増額という相反する政策を同時に実行した。その結果、財政は悪化し、巨額の財政赤字と貿易赤字を抱えることになった。レーガンはこの「双子の赤字」を乗り越えるべく、規制緩和、富裕層を中心とした減税、フラット税制など新自由主義的な経済政策を行った。その政策は、レーガノミックスと呼ばれる。その政策により失業率が低下し、景気は一時回復した。しかし、ドルの価値は低下を続け、1985年(昭和60年)に日欧とプラザ合意を結び、ドル安に誘導した。ドル安によって米国の輸出は増大し貿易収支は改善したが、国内経済は再び悪化し、財政赤字は膨らんだ。
 ところが、アメリカ以上の財政赤字を抱えていたソ連の方が、多大な軍事費支出に耐え切れなくなり、経済危機に陥った。ソ連共産党の書記長にミハエル・ゴルバチョフが就くと、ペレストロイカと呼ばれる民主化政策が断行され、民主化の波が東欧諸国にも広がった。そして、ソ連・東欧の共産主義体制は、次々に崩壊した。
 レーガンは、85年から88年(60〜63年)にかけてゴルバチョフと4度にわたる首脳会談を行った。この間、両国首脳は87年(62年)には、中距離核戦力全廃条約(INF条約)に調印した。こうしたレーガン政権の展開を受けて、レーガンの後継者ブッシュ父は、89年(平成元年)12月マルタ島でゴルバチョフと会談し、冷戦は終結した。

 

●レーガンは自由主義者のようで究極的ケインズ主義者?

 カーター政権の時代、毎年の財政赤字は、402億ドルから789億ドルに膨らんだ。レーガンは、選挙戦で1983年(昭和58年)までに予算を均衡させると公言した。しかし、82年度には1279億ドルという記録的な財政赤字となり、83年度には2889億ドルに急増した。その後も、2000億ドル前後の赤字が毎年続いた。
 レーガンは新自由主義的な経済政策を行い、イギリスのマーガレット・サッチャーが行った保守主義革命に似た改革をアメリカで推進したと、大方に理解されている。そして、課税及び「大きな政府」の反対者として評価されている。経済政策には新古典派経済学の影響が顕著と見られている。しかし、一方で、レーガン政権は、最初に減税は行ったものの、ガソリン税、社会保障税を増額し、またアメリカ史上最大の単一税増税を行った。行政部門の官僚は約10万人増員され、政府はむしろ「大きな政府」になった。

 こうしたレーガンの経済政策に対し、反ケインズ主義的なエコノミストから、レーガンは「ケインズ学説信奉者」になったという批判が上がった。84年(59年)、著書『ゼロサム社会』等で知られる経済学者レスター・サローは、レーガンを「究極的ケインズ学説論者」と呼び、「もしケインズ学派の進歩的な民主党大統領が2000億ドルもの赤字を作れば、保守主義者たちが何と言うか、考えても見よ」と、ニューズウィーク誌に書いたほどである。このようにレーガン政権の政策には、新自由主義的な要素とケインズ主義的な要素が混在していたというのが実態である。

 プラザ合意とは、こうしたアメリカの財政赤字、ドルの価値低落を、日本及び西欧諸国の協力によって改善しようとしたものだった。とりわけわが国は、その経済力によってアメリカ経済を支えることになった。アメリカの軍事力と日本の経済力が合体して、ソ連・東欧の共産主義政権を倒壊させることができた。それは、大きな成果である。しかし、同時にそれは、アメリカの新たな経済的競争相手である日本を、アメリカの経済的支配下に組み込む、一石二鳥の荒業だったのである。
 このプラザ合意を取り仕切ったのは、財務長官ジェームズ・ベイカーであり、筋書きを書いたのは、ピーター・ピーターソンだといわれる。ともにCFRの会員である。

●反共主義者レーガンのちぐはぐな政策

 ところで、ソ連との軍拡に打ち勝って冷戦を終結させたことにより、レーガンと言えば、アメリカを代表する反共主義者というイメージが定着している。確かにそうなのだが、そのイメージとは相容れない奇妙な政策も行っている。
 カーター政権が台湾との関係を絶ったとき、レーガンは「親密な友人かつ同盟者に対する完全な裏切り」と非難した。しかし、自分が大統領になると、台湾との関係修復には努力しなかった。逆に中共政府との共同コミュニケで、台湾に武器輸出をする長期政策を実行しないことを発表し、大陸側に高度な航空軍事技術を売り込んだ。
 カーターは、ソ連がアフガニスタンに侵攻すると、ソ連への穀物輸出を禁止した。しかし、レーガンは、再びソ連への小麦販売を承認した。またレーガンは、アフガニスタンの反ソゲリラ組織ムジャヒディンに武器を提供していたが、ゴルバチョフとの交渉が進むと、ムジャヒディンへの支援を削減した。
 レーガンのこうしたちぐはぐな政策は、頑固な理想主義のようでいて、現実主義的な政策である。イデオロギーより利益を優先した政策である。レーガンの後ろ盾にはロックフェラー家があると書いたが、こうした政策には、巨大国際金融資本の意思が反映しているのだろう。

 この点に関し、レーガン政権時代で注目したいことがある。ピーター・グレイスを委員長とする特別委員会の税金使途調査である。グレイス委員会は、税金の使途を調査し、個人の連邦所得税は全額、連銀への利子の支払いに当てられていることを明らかにした。委員会の調査結果が発表されると、連銀は毎年印刷する紙幣量の公表を取りやめた。レーガンは、それ以上問題解明を続けようとは、しなかった。その後もアメリカでは、どれだけの金額を国が連銀から借り、それにどれだけの利子がつくのか、わかっていない。
 レーガンの反共反ソ路線は、ネオコンを生んだ。ネオコンの源流は、反スターリン主義的なユダヤ系の左翼知識人である。彼らの一部が第二次世界大戦後、民主党に入党し、最左派グループとなった。彼らは、レーガン大統領がソ連に対抗して軍拡を進め、共産主義を力で克服しようとしたことに共感し、共和党に移った。反スターリン主義が反共産主義に徹底された。ネオコンは、やがてブッシュ子政権において、政権中枢に躍り出ることになる。

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第6章 デイヴィッド・ロックフェラーの絶頂

 

(1)ブッシュ家を押し上げたもの

 

●父子2代の大統領を出したブッシュ家

 1989年(平成元年)、レーガンは引退した。次に大統領になったのは、彼の副大統領だったジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュである。彼の息子ジョージ・W(ダフヤ)・ブッシュもまた大統領になった。父子がアメリカ大統領になった例は珍しい。
 ブッシュ父子の政権を語るには、祖父プレスコットから語る必要がある。プレスコット・ブッシュは、鉄道で財を成したエドワード・ハリマンの会社に勤め、幹部社員となった。ハリマンの銀行がイギリスのブラウン家の銀行と合併し、ブラウン・ブラザーズ・ハリマン(BBH)となると、その共同経営者として事業を取り仕切った。BBHは当時アメリカ最大の投資銀行だった。プレスコットの代からブッシュ家は、ハリマン家と一体の関係にある。

 ブッシュ家は、祖父のプレスコット、父のジョージ、子のジョージと三代にわたって、東部の名門イェール大学を卒業している。イェール大学には、学内の秘密結社スカル・アンド・ボーンズ(SB:Skull & Bones、髑髏と骸骨団)がある。SBについては後に詳しく書くが、プレスコットがSBに入会したことが、その後のブッシュ家の繁栄の一つの要員となっている。
 スカル・アンド・ボーンズは、イェール大学の学生の中でも名家の御曹司しか入れない。ハリマン家の息子や、ハリマン家の弁護士から政界に入ったロバート・A・ロヴェットは、プレスコットと同じく、スカル・アンド・ボーンズの会員だった。スカル・アンド・ボーンズの会員を、ボーンズメンという。ボーンズメンの人脈が、ブッシュ家に富と権力をもたらしたのである。
 プレスコット、つまりブッシュ祖父が幹部を務めたブラウン・ブラザーズ・ハリマンは、ボーンズメンが9人、出資組合員となっていた。BBHは、ハリマン家の銀行であるとともに、スカル・アンド・ボーンズ人脈の金融会社だったのである。

●ブッシュ祖父はナチスを支援していた

 ブッシュ家には、スキャンダラスな過去がある。ブッシュ祖父は、1926年からナチスに資金を提供していたのである。彼が頭取を務めたユニオン銀行は、ナチス政権下でのドイツ産業界の再編を支援し、鉄鋼石炭王フリッツ・ティッセンと資金提携していた。ティッセンは1920年代半ばからヒトラーを支援し、ナチスが権力を掌握するのを財政的に支えた。ブッシュ祖父は、妻の父ジョージ・ハーバート・ウォーカー、アヴェレル・ハリマンの弟ローランドらとともに、アメリカが第2次大戦に参戦した後も8カ月近くの間、ティッセンとの取引を続けていた。
 アメリカ連邦議会は、こうしたブッシュ祖父らの取引を利敵行為として厳しい対応を取った。1942年(昭和17年)8月、連邦議会は、対敵通商法に基づき、ブッシュとハリマンが共同経営していたティッセンの企業ハンブルク・アメリカン運輸会社を差し押さえた。10月には、ユニオン銀行を差し押さえ、ブッシュ、ハリマン、ティッセンの共同経営企業を2社差し押さえた。11月には、ブッシュ祖父が金融支援したシレジアン・アメリカン社のナチス資産を差し押さえた。同社は、ナチスの軍事産業に石炭を供給していた。その経営には、義父ジョージ・ハーバート・ウォーカーが参画していた。ちなみにブッシュ父のジョージ・ハーバート・ウォーカーという名前は、この母方の祖父に由来する。シレジアン合同製鉄株式会社は、ドイツ最大の化学会社I・G・ファルベン社と共同で、アウシュヴィッツ強制収容所におけるユダヤ人強制労働によって利益を得ていた。
 ブッシュ祖父が経営していたユニオン銀行は戦後、政府により清算された。しかし、その銀行が移転した先は、政府が管理する場所の住所だった。つまり、業務は政府に引き継がれたのである。

 第2次大戦後、ブッシュ祖父は、1953年(昭和28年)コネティカット州選出の上院議員となり、アイゼンハワー大統領と親しく交友した。ニクソンを見出して政界に送り、アイクの副大統領としたのは、ブッシュ祖父だった。ブッシュ祖父は、アレン・ダレスの親友でもあった。アレンは、戦時に作られた諜報機関・戦略事務局(OSS)でウィリアム・ドノバンに次ぐナンバー2の地位にいた。戦後中央情報局(CIA)が創設されると、アイクとケネディの両政権で長官を務め、CIAを独自性の強い組織にした。
 プレスコット・ブッシュがハリマン家やアイゼンハワー、アレン・ダレスらと強いつながりを持ち、またSBの会員であったことが、ブッシュ家を権力の中枢に導いた。そして父子2代の大統領を出したブッシュ家が戦前ナチスを支援していたという事実は、ブッシュ家の恥ずべき過去である。ただし、ナチスを支援していたのは、ブッシュ祖父らだけではない。米欧の銀行や企業は、ある時期までナチス・ドイツに資金を貸し、軍需用の石油を売ってもいた。ロスチャイルド家もロックフェラー家も、共産主義とともにナチスを育成・支援したのである。

●ブッシュ父はCFR・TC・SBの会員

 プレスコットの息子ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュは、1989年(平成元年)にアメリカ大統領になった。彼の息子ジョージ・W・ブッシュもまた大統領になったので、ここではブッシュ父と記す。
 ブッシュ父はCFRの会員であり、CFRの理事を務める一方、TCの会員にもなっている。彼の政権もまたCFRとTCの会員を多く起用した。
 ブッシュ父は、1948年(昭和23年)、プレスコットと同じくイェール大学を卒業した。彼もまたスカル・アンド・ボーンズ(SB)に入会した。ボーンズマンであることで、彼は強力な人脈を得た。
 ブッシュ父は、ブラウン・ブラザーズ・ハリマンではなく、石油業界に入った。テキサス州でザパタ・オフショア社を設立し、実業家として石油関連事業で成功した。アメリカの石油は、スタンダード・オイル社のロックフェラー家が牛耳っている。ロックフェラー財閥に利権を売る石油採掘業者として、ブッシュ父は、ロックフェラー家とも深い関係を得ていた。

 ブッシュ父は、大統領になる前、1975年(昭和50年)からCIAの長官を務めた。実はブッシュ父は、事業の傍ら1950年代ないし60年頃から、CIAに勤務していた。CIAには、イェール大学出身者が多く入局している。CIAは、イェール大学の同窓会のような雰囲気があるとさえいわれる。同大の出身者の中心は、SBの会員である。ブッシュ父がCIAの仕事をするようになったのは、SBの人脈によるものだろう。ブッシュ祖父がアレン・ダレスの親友だったことも、関係していると思われる。また石油業界のビジネスマンは、民間における情報の収集・処理のプロである。ブッシュ父がCIAに貢献できることは少なくなかっただろう。

●CIAの要員として秘密工作に関与

 アイゼンハワー政権で、カストロが革命を起こしたキューバに侵攻する作戦が、立案されていた。アイクを引き継いだケネディは、作戦を実行した。この作戦は、ピッグズ湾作戦と呼ばれる。作戦は、ちぐはぐな動きが原因で失敗に終わった。
 CIAでは、ピッグズ湾作戦を「ザパタ作戦」というコード名で呼んでいた。「ザパタ」は、ブッシュ父が経営するザパタ・オフショア社の社名である。この作戦で派遣された2隻の支援船の名前は、「バーバラ」と「ヒューストン」だった。バーバラは、ブッシュ夫人の名前であり、ヒューストンは、ブッシュ父の本拠地の地名である。こうした三つの名前の一致は、ブッシュ父がピッグズ湾作戦で中心的な役割を果たしていたことを示唆する。
 1960〜61年(昭和35〜36年)のブッシュ父は、ヒューストンとマイアミの間を毎週往復していた。当時彼は、CIA幹部として工作活動の命令を出す立場にあり、ピッグズ湾作戦に参加するキューバ人を募集し、管理する責任者だったという証言が多くある。ブッシュ父は、キューバ侵攻作戦に加わるキューバ人をマイアミで募集し、組織化していたのだろう。
 アメリカ政府にとって、カストロへの対処は、大きな課題だった。CIAは何度かカストロの暗殺を試みたが、みな失敗した。そこに、ソ連がキューバにミサイルを設置するという重大事態が発生した。1962年(昭和37年)、キューバ危機の対応において、ケネディと政府・軍部・CIAの強硬派との間に、激しい意見対立があった。結局、ケネディとフルシチョフの交渉によって、核戦争の危機は避けられた。しかし、アメリカにとっては、社会主義キューバという脅威は、解消しなかった。ケネディ大統領暗殺事件は、こうした政府部内の意見対立が一因ではないかと見られている。

 ウォーターゲイト事件の際、ニクソン大統領の発言が公開された。1972年(昭和47年)6月23日、ニクソンは、主席補佐官ハルデマンとの会話が録音されたテープの中で、ブッシュ父に関わる重要な発言をしている。そこでニクソンは、FBIの調査によって、自分たちが「ピッグズ湾の件」に関与したことが暴露されることを恐れていると語っている。「ピッグズ湾の件」とは、ニクソンが、JFK暗殺を指すときの暗号だった。この暗号使用は、ニクソンがJFK暗殺について何か重要な事実を知っていたことを暗示する。また「ピッグズ湾」という言葉は、ブッシュ父を連想させる。
 ニクソンは、同じテープの中で、「テキサス人」という言葉を頻繁に使ってもいた。「テキサス人」とは、ブッシュ父、ロバート・モスバッカー、ジェームズ・ベイカーを指す。モスバッカーはニクソン政権時代、ブッシュ父の会社の共同経営者であり、ニクソンのために資金調達をしていた。後にブッシュ父政権の商務長官となった。同じくベイカーは、ブッシュ父の側近であり、ブッシュ父政権で国務長官となった。
 ニクソンの発言は、ピッグズ湾作戦を担当したブッシュ父がJFK暗殺計画に関わったことを暗示する。JFKの暗殺は、1963年(昭和38年)11月23日に起こった。その6日後、FBI(連邦捜査局)の長官だった J・エドガー・フーヴァーは、国務長官に宛ててあるメモを送った。そこには、「テキサスのFBI捜査官W・T・フォーサイスが、CIAのジョージ・ブッシュ氏とJFKの暗殺事件の大要を伝えてきた」と記されていた。

 ブッシュ父は、この疑惑に対し、自分はケネディが暗殺された63年(38年)当時、テキサス州ヒューストンに住んでおり、石油会社ザパタ・オフショア社の経営に専念していたため、CIAには関わっていなかったと述べている。また、フーヴァーは「CIAのジョージ・ブッシュ殿」に宛てた手紙を書いたという情報が出ると、ブッシュ父は手紙の存在を否定している。
 最初、CIAは、当時ブッシュが協力者であったかどうかについてはコメントしないと述べていた。しかし、この手紙の存在が世間に知られると、このジョージ・ブッシュは同姓同名の別人だと言い出した。CIAには同姓同名の下級職員が勤務していた。しかし、彼はFBI長官から手紙を受けるような立場にはなかった。
 一方、CIAは、フーヴァーFBI長官の電話を盗聴し、ケネディ大統領暗殺計画について語るフーヴァーの声をテープに録音していた。フーヴァーがテープの中で名前を挙げているのは、ネルソン・ロックフェラー、アレン・ダレス、リンドン・ジョンソン、ジョージ・ブッシュである。そこから、これらの人物はケネディ暗殺にかかわっていたのではないかという疑惑が挙がっている。先のニクソンも含めると、ケネディ死後の歴代大統領のうち、ジョンソン、ニクソン、ブッシュ父が名を連ねている。レーガンには、ブッシュが副大統領をしていた。重要な秘密を共有する者たちが、秘密の保持とともにアメリカの国家権力を継承してきたのかもしれない。
 真相は、分からない。ケネディ暗殺事件の真相がいまだ解明されていないためである。

●ロックフェラーの資金を受けて大統領に

 1967年(昭和42年)、ブッシュ父は、テキサス州選出の下院議員となり、政界に進出した。71年(46年)には、ニクソン大統領によって、国連大使に任命された。ニクソンは、ブッシュ祖父が見出して政界に送った人物である。当然ニクソンは息子のジョージとも親しい。ニクソンはネルソン・ロックフェラーの子飼いだったが、ブッシュ父もまたロックフェラー家を後ろ盾に持っていた。ニクソンによって国連大使に任命された時から、ブッシュ父は権力の中枢を駆け上っていく。
 ブッシュ父は、フォード政権では、74年(49年)から北京連絡事務所長、76年から77年(51〜52年)にかけてCIA長官を務めた。長年CIAで数々の工作を務めたうえで、組織の長になったわけである。
 アメリカでベストセラーになったティム・ワイナーの著書『CIA秘録』(文芸春秋)は、ブッシュ父がCIA長官に指名されたとき「諜報に関してほとんど何も知らなかった」と書いているが、これは実際と違う。『CIA秘録』は、CIAについてかつてなく詳細な記述に満ちた本だが、ケネディ暗殺事件、ウォーターゲイト事件、イラン・コントラ事件等、アメリカの権力史の重要な部分に深く立ち入っていない。

 ブッシュ父は、80年(55年)に共和党最右派のレーガンへの対抗馬として大統領候補の予備選挙に立候補した。このとき、ブッシュ父は、ロックフェラー一族から法の範囲内で最大の献金を受け取った。ロックフェラー家の献金者は、デイヴィッド、エドウィン、ヘレン、ローレンス、メアリー、ゴッドフリーらが名を連ねた。いかに一族の期待を集めていたかがわかる。
 しかし、ロックフェラー一族は、レーガン有利と見るや、レーガンに乗り換えた。デイヴィッド・ロックフェラーは、レーガンに対し、ブッシュ父を副大統領候補にするよう働きかけ、レーガン=ブッシュ・コンビが大統領選を制した。ブッシュ父は81年(56年)、副大統領に就任し、レーガン政権に対するロックフェラー家の掌握を具現化した。

 ブッシュ父は、88年(63年)、民主党のマイケル・デュカキスを破って大統領に選出された。現役の副大統領で初めて大統領選挙に勝利した例となった。
 ブッシュ父政権の主要閣僚は、すべてCFRの会員だった。国務長官ジェイムズ・ベイカー、その後任のローレンス・イーグルバーガー、国防長官リチャード・チェイニー、財務長官ニコラス・ブレイディ、CIA長官ウィリアム・ウェブスター、その後任のロバート・ゲイツ、連邦準備制度理事会議長アラン・グリーンスパン、統合参謀本部議長コリン・パウエル。その他、国家安全保障担当補佐官、司法長官等も軒並みCFRの会員だった。政権スタッフのうち382名が、CFRの会員だったという。
 なお、チェイニーはブッシュの息子ジョージ・W・ブッシュ政権で副大統領に、パウエルは国務長官になった。同じく国防長官になったゲイツは、大学を出てすぐCIAに入ったCIA生え抜きの人材であり、ブッシュ父の政権でCIA長官、子の政権で国防長官になった。オバマ政権でも国防長官を務めることになった。

●麻薬・コカインの密輸に関する疑惑

 ブッシュ父は、CIA長官を経験した大統領である。これは異例のことだった。大統領となったブッシュ父は、89年(平成元年)、パナマに軍事侵攻して、マニュエル・ノリエガ将軍を麻薬密輸の容疑で逮捕した。悪行を働く独裁者を捕まえるという西部劇のような話だが、実態は違う。CIAは約30年間、ノリエガをCIAのエージェントとして雇い、麻薬密売を黙認し、彼の独裁政治を肥大させていた。CIA長官当時のブッシュ父は、ノリエガの行動を容認していた。その背後で、CIAがノリエガを含む国際的な麻薬密売ルートに関わっていた。
 ブッシュ父のCIAでの任務の一つは、世界的に麻薬産業を整理統合することだった。そのことは、多くの研究者によって指摘されている。
 ベトナム戦争は、一面において麻薬戦争であり、「黄金の三角地帯」を巡る戦争だった。「黄金の三角地帯」とは、1960年代に世界のアヘンの大部分を生産していたインドシナ北部のビルマ・タイ・ラオス・シナが国境を接する地域をいう。この地帯は、ベトナムがフランスの支配下にあった時代には、フランスの諜報機関とコルシカ・マフィアが支配していた。フランスがベトナムから撤退すると、アメリカが利権を引き継ぎ、シシリア・マフィアと手を結び、CIAが「黄金の三角地帯」を支配してきた。CIAにとって、麻薬の密売は政府予算とは別に得られる重要な資金源だった。CIAの世界的活動は、麻薬で得た資金に拠っている。
 当時からブッシュ父は、CIAの要員として、「黄金の三角地帯」で生産される麻薬の密輸・密売に重要な役割を担っていたようである。ブッシュ父は、レーガン政権で副大統領になると、表向きは国家麻薬阻止制度の責任者を務め、実態は麻薬供給を促進するような動きをしていた。

 ブッシュ父がレーガンの副大統領だった時期、1986年(昭和61年)に、イラン・コントラ事件が起こった。レーガン政権が、イランへの武器売却代金をニカラグアの反共ゲリラ「コントラ」の援助に流用していたことが発覚した事件である。
 事件の調査過程で、ブッシュ父は、イラン・コントラ双方の交渉窓口となり、麻薬・武器の取引を推進したという容疑が挙がり、クリントン政権下の連邦議会で、公聴会に召喚された。当時ブッシュ父は元大統領という立場であり、元大統領が召喚されるという異例の事態となった。真相は解明されずにうやむやになっているが、ブッシュ父が経営するザパタ・オフショア社の施設が、麻薬やコカインの密輸に使われていたことが暴露されている。

 ブッシュ父政権では、湾岸戦争が勃発した。またソ連・東欧の共産政権が崩壊、アメリカが唯一の超大国になる等の歴史的事件が多く起こった。これらについては後の項目で述べる。

(2)スカル・アンド・ボーンズの人脈

 

●スカル・アンド・ボーンズとは

 ここでブッシュ家3代が会員であるスカル・アンド・ボーンズ(SB)について述べたい。
 スカル・アンド・ボーンズは、1832年にイェール大学に結成された秘密結社である。イェール大学の学生のうち、1学年に15名のみ入会を許される。少人数ゆえ、会員数百人規模の小さな団体である。しかし、アメリカ社会に秘密結社の数ある中で、最も強い社会的影響力を持ち、政界・財界・法曹界・学界やCIA等に強力な人脈を広げている。SBは、アメリカ支配層の主流であるWASP、つまりホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタントを中心とした集団である。
 スカル・アンド・ボーンズはウィリアム・ハンチントン・ラッセルとアルフォンソ・タフトによって創立された。W・H・ラッセルは、アヘン貿易で財を成したラッセル家の一員である。19世紀のイギリスは、インドとシナを結ぶアヘン貿易で、莫大な富を獲得した。このアヘン貿易にアメリカからラッセル・アンド・カンパニーも参入していた。このラッセル家の会社は、ロスチャイルド系の商社であるジャーディン=マセソン社と提携し、太平洋と大西洋を股にかけて巨富を得ていた。SBは、このラッセル・アンド・カンパニーの財力をもとに創立された団体である。

 スカル・アンド・ボーンズのメンバーには、17世紀に最初に北米に来たピューリタンの名家や、18〜19世紀に成功したハリマン、ロックフェラー、ペイン、ダヴィソン、ピルスベリー、ウェイヤハウザー等の富豪が多い。アメリカの所有者集団の主要部分に当たる。
 SBの実態が知られるようになったのは、アントニー・サットンの研究による。サットンは、ソ連の共産主義とアメリカの国際金融資本の関係を調査する中で、SBの存在を知った。そしてソ連の共産主義を育成・支援してきた金融資本の中心に、SBの活動があることを明らかにした。
 サットンは技術者上がりの経済学者で、アメリカの公文書やソ連の技術マニュアル等をもとに徹底的に実証的な研究をした人物で、いわゆる陰謀論者とは異なる。
 サットンの著書『アメリカの秘密組織』によれば、スカル・アンド・ボーンズは、結成後、アメリカ市民自由連合を創設、ロシアのボルシェビキ革命を支援、アメリカの教育界を支配、宗教界に影響、イェール大学出身者によりCIAを支配、ヒトラーに資金を提供等と多岐にわたる活動をしている。そして、SBの社会的影響力について、サットンは、次のように書いている。
 「彼らは、カーネギー、フォード、ピーボディ、ラッセル・サーガなど、すべての主要な財団を獲得した。彼らの目的は、これらの財団に真っ先に入り込み、その将来をコントロールすることにある」「学術団体の中でも、米国歴史協会、米国経済協会、米国化学協会、米国心理学協会は、すべてSBのメンバーか、彼らに近い人間によって設立された」と。

 スカル・アンド・ボーンズのメンバーをボーンズメンという。ボーンズメンの中から、3人の大統領が出ている。創立者アルフォンソ・タフトの息子ウィリアム・タフト、そしてブッシュ父とその息子である。ブッシュ家から父子の大統領が出たことによって、SBは俄然注目されるようになった。このことがなければ、SBが今日のように広く知られることはなかっただろう。

●SBとイルミナティ伝説

 スカル・アンド・ボーンズは、「髑髏と骸骨団」といった名称だが、ラッセルはドイツで同様の名称を持つ団体に入会し、アメリカに帰ってその支部としてSBを作ったという説がある。また、SBについてはイルミナティとの関係も指摘されている。
 イルミナティとは、1776年、ドイツのインゴルシュタット大学の教会法の教授アダム・ヴァイスハウプトによって設立された秘密結社である。啓明社・光明会等と訳される。創設の年は、アメリカ独立の年でもある。
 ヴァイスハウプトは、イルミナティ結成の年、「新世界秩序」と題した本を出版した。「新世界秩序」とは、すべての既成政府の廃止と世界統一政府の樹立、私有財産制と遺産相続の廃止、愛国心と民族意識の根絶、家族制度と結婚制度の撤廃、子供の集団教育の実現、すべての宗教の廃止によって創造される新たな世界秩序である。イルミナティは、こうした世界秩序を目指す団体として知られる。
 ヴァイスハウプトの思想は、共産主義の先駆ともいえる思想である。マルクス=エンゲルスによって空想的社会主義者と呼ばれたサン・シモン、フーリエ、オーエンより、ヴァイスハウプトが時代的に早い。

 1784年、バイエルン政府は、過激な思想を掲げるイルミナティを禁止した。海外に逃れたヴァイスハウプトは、その後、会員をフリーメイソンの支部に潜入させ、メイソンの内部に秘密組織を作ったともいわれるが、その消息は定かでない。イルミナティがアメリカ独立戦争、フランス革命、ロシア革命等に暗躍したという説もあるが、これらをイルミナティの陰謀として描くのは、幻想文学の類だと私は思う。
 ところが、20世紀に入ってイルミナティは、あらゆる陰謀団体の源流と説かれるようになった。偽書『シオンの議定書』とイルミナティが結び付けられ、ユダヤ民族の陰謀という観点から、イルミナティとフリーメイソンとユダヤを一体のものとする陰謀論が流行している。陰謀論は諸説紛々であり、そのため、富と力を実態とした世界の権力構造がカムフラージュされてしまっていると思う。
 私が思うに、キリスト教思想には、キリスト教と異なるものを悪魔的なものとみなす傾向がある。イルミナティ伝説も、イルミナティは、神に敵対する悪魔、堕天使ルシファーを信奉する団体とされ、邪悪なイメージが投影されている。そこに見られるのは、神と悪魔の二元論、対立・闘争の論理である。その原型は、ユダヤ教の世界観である。日本人でイルミナティ陰謀論を説く人については、私はユダヤ=キリスト教の磁場によって、思考回路に影響を受けていると感じる。

●スカル・アンド・ボーンズへのヘーゲルの影響

 スカル・アンド・ボーンズについても、イルミナティのアメリカ支部として創設されたという説があり、SBは今日、イルミナティ伝説の中心的存在となっている。確かにスカル・アンド・ボーンズは、「新世界秩序」の創造を目的に掲げる。しかし、それがヴァイスハウプトの説いた社会の実現を目指すものとするには、大きな飛躍がある。SBの目指すのは、アメリカを中心とした「新世界秩序」の創造であり、そこにはアメリカのナショナリズム及び帝国主義が表現されている。
 SB創立者の一人、W・H・ラッセルは1831〜32年にドイツに留学し、当時ドイツで流行していたヘーゲルの哲学を学んだ。ヘーゲルは、世界は理性の世界であり、国家は「絶対理性」「世界を歩む神」であり、「最終目的」である。市民は国家を崇拝するときにはじめて自由を得る、と説いた。このヘーゲルの国家思想とアメリカのナショナリズムが結合して、スカル・アンド・ボーンズの理念が生まれたと考えられる。
 ヘーゲルは、1831年に亡くなった。彼の後継者は、ヘーゲルの説く哲学と宗教の同一性をそのまま受け入れ、キリスト教思想を保持したヘーゲル右派(老ヘーゲル派)、ヘーゲルのキリスト教解釈を部分的に認める中央派、ヘーゲルのキリスト教解釈を批判して弁証法は継承するが観念論を唯物論に転換したヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)に分裂した。右派は資本主義的国家主義の思想となり、ナチスに影響を与えた。左派は唯物論と共産主義を結合させ、そこからマルクス、エンゲルスが登場した。
 ヘーゲル哲学は、英米にも影響を与えた。イギリスでは、マルクスと同時代にトマス・ヒル・グリーンがヘーゲルを摂取し、原子論的個人主義、ベンサム的功利主義に替わって、国家の役割を積極的に認める有機的国家の思想を説いた。グリーンによれば、絶対我(絶対意識)がまずあり、自我はそれに向かって人格を形成する。絶対我は自我の自由の実現であり、国家はその実現のための道徳的共同意志の表われである。国家は人間を自由にし、生活を向上するために積極的に関与すべきものである。
 こうして、グリーンは、個人対国家の対立ではなく、個人に対する国家の価値を主張して、自由放任主義を改め、公共性を重んじる社会改革の道を開いた。その哲学は人格的自由主義と呼ばれる。グリーンの思想は古典的な自由主義を修正する修正的自由主義の一形態である。その一方、グリーンの思想はセシル・ローズやアルフレッド・ミルナーらを心酔させ、ジョン・ラスキンの思想とともに、大英帝国の帝国主義の思想的裏づけともなった。
 ヘーゲル哲学は、アメリカでは、ラッセルによって、スカル・アンド・ボーンズの理念に流入した。また、ローズ、ミルナーらの円卓会議の活動やローズ奨学金による人材育成を通じて、グリーンのヘーゲル主義哲学がアメリカにも伝播したと考えられる。

 スカル・アンド・ボーンズの研究者は、SBはヘーゲルの弁証法を信奉していると指摘する。へーゲルは、一般に有限なものはすべて自己に内在する矛盾を動因として対立物を生み出し、それを媒介としてともにより高次の段階に止揚されると主張した。そして、テーゼ(正)、アンチテーゼ(反)、ジンテーゼ(合)による弁証法を、現実世界の一切の運動の原理とした。ここにおいて、弁証法は、思考と存在の統一的論理として体系化された。
 サットンの後継者クリス・ミレガンは、スカル・アンド・ボーンズについて、次のように言う。「彼らは、テーゼ(正)に対してアンチテーゼ(反)を作り、対立を制御しながら、あらかじめ定められたジンテーゼ(合)を導き出す。彼らの作り出すジンテーゼとは、新世界秩序である。この秩序において、国家は絶対であり、自由は国家に服従する個人だけに与えられる」と。
 ミレガンの理解によれば、SBは弁証法を単なる認識の方法及び存在の原理ではなく、行動の方法と原理に応用したことになる。すなわち、既存の秩序に対し、それに反する力をぶつけることで対立を生み出し、その対立を解決する中で新たな調和を生み出そうとする方法である。
 私は、スカル・アンド・ボーンズの会員たちが、自覚的にこうした弁証法的方法をもって行動してきたとする見方には、疑問がある。

●無節操で利益本位の利己主義

 私は、スカル・アンド・ボーンズの行動は、ヘーゲル哲学を応用した弁証法的方法によるのではなく、利益追求のための行動だと思う。
 ブッシュ祖父やハリマン家が、ナチスに資金を提供していたことを先に書いたが、スカル・アンド・ボーンズの有力会員のいるブラウン・ブラザース・ハリマンやモルガン保証信託は、ロシア革命のボルシェビキにも資金を提供していた。ミレガンは次のように述べている。「アヴェレル・ハリマンは連邦法を無視して、革命直後にソ連に投資した。投資会社のモルガン保証信託とブラウン・ブラザース・ハリマンは、共産ロシアの初期の融資に関わっている」と。
 こうした資本主義者でありながら共産主義を支援したり、また自由主義者でありながらナチスを支援したりするボーンズメンの行動が、社会に対立を生み出し、闘争と戦争を惹起したことは確かである。しかし、それ以上に確かなことは、こうした行動が彼らに利益をもたらしたことである。儲かることならなんでもするという無節操で利益本位の利己主義こそ、彼らの行動原理だろうと私は思う。

 ボルシェビキやナチスを支援したのは、SBの会員だけではない。レーニンは、1917年4月、亡命先のスイスからロシアに帰国し、強力に革命を指導した。この時、レーニンは封印列車に乗ってドイツ経由で帰国した。列車は、ロスチャイルド家のドイツにおける代理人、マックス・ワールブルグが準備したものだった。同じくロスチャイルド系のクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフは、1917年にレーニンとトロツキーに対し、活動資金としてそれぞれ2000万ドル(当時)を与えている。同商会は、アメリカのユダヤ系資本で、ロスチャイルド家との関係が深かった。トロツキーは、アメリカに亡命していた時期、ロックフェラーの援助により、ニュージャージー州のスタンダード・オイル社の所有地で、革命用の私兵集団の訓練を行っていた。
 ナチスに対しても、シュローダー兄弟、J・P・モルガン、ウオーバーグ兄弟等、欧米の国際金融資本家たちが資金を提供していた。当時、中央銀行の中の中央銀行という存在である国際決済銀行(BIS)もナチスの財源確保に関与した。ヒトラーが第2次大戦を始めた後、ドイツに戦争を止めさせるには、石油の供給を止めればよかった。ところが、ロスチャイルド家とノーベル財閥の石油会社シェルは、敵国であるドイツに石油を輸出していた。その石油は、ソ連のバクー油田から採掘されたものだった。バクー油田は、スターリンに莫大な外貨をもたらしていた。
 こうした事実により、スカル・アンド・ボーンズ会員の行動は、ヘーゲル弁証法を信奉するゆえの彼ら独自の行動ではなく、巨大国際金融資本に共通する行動であることがわかる。巨大国際金融資本は、共産主義を育成することが利益になる段階では資金を出し、共産主義と対立することが利益になる段階では冷戦構造を維持し、共産主義を崩壊させることが利益になる段階では崩壊に導く。ナチスについても、育成が利益なら資金を出し、対立が利益なら対立を活用し、戦争が利益なら戦って潰す。一貫しているのは、資本の論理であり、利益追求のための徹底的な現実主義だと私は思う。

●スカル・アンド・ボーンズがCIAに人材を

 スカル・アンド・ボーンズは、アメリカの中央情報局(CIA:Central Intelligence Agency)に多くの人材を送っている。合衆国は、キリスト教を主な宗教とし、自由とデモクラシーを理念とする政治を行っている。その裏では、麻薬取引、国内外の要人の暗殺、他国の政府の転覆、捏造事件による戦争等、陰謀的な活動を行ってきた。こうした裏の半面を理解するには、CIAの存在に目を向ける必要がある。
 アメリカには大戦中、戦略事務局(OSS:Office of Strategic Services)という戦時の諜報機関が存在した。しかし、戦後、OSSは廃止されていた。ここで新たな諜報機関の創設に重要な役割を果たしたのが、ロバート・A・ロヴェットである。
 ロヴェットは、ハリマンの会社の弁護士から共同経営者となり、ブッシュ祖父と盟友だった。ルーズベルト政権下での第2次大戦時には、産業界の動員の責任者を務めた。戦後、ロヴェットは、トルーマン政権下で諜報機関に関する政府諮問委員会の中心となった。ロヴェットは、対外諜報活動や対抗諜報活動を担う新たな機関が必要であり、独立した予算を持ち、公聴会を経ずに議会から直接活動費を受け取れるようにすべきだと主張して、国務長官、戦争長官、海軍長官に強く迫った。このロヴェットの働きかけによって、CIAが1947年(昭和22年)に創設された。

 ロヴェットは、イェール大学の出身だった。そのことから、CIAには、イェール大学の出身者が多く入局するようになった。CIAには、イェール大学の同窓会のような一面があるという。ロヴェットは、ボーンズマンだった。そのため、CIAにはスカル・アンド・ボーンズの人脈が形成された。ブッシュ父は、その人脈の一人である。ロヴェットは、トルーマン政権下で51〜53年(26〜28年)に国防長官を務め、朝鮮戦争では全軍を指揮した。
 スカル・アンド・ボーンズにおいてロヴェットの先輩であり、かつ当時最大の大物だったのが、ヘンリー・スティムソンである。1911年、23歳の若さで戦争長官になったスティムソンは以後、7人の大統領の側近を務めた。29〜33年に国務長官、40〜45年に再び戦争長官となり、対日戦争を指揮した。日本への原爆投下の決定に重要な役割を果たしたことで知られる。スティムソンはまたスカル・アンド・ボーンズの有力会員として、ボーンズメンを育成し、政府や財界等に送り込んだ。

●歴代政権におけるボーンズメン

 アイゼンハワー政権でCIA長官となったのは、OSS出身のアレン・ダレスだった。CIAは、ダレスのもとで組織を拡大した。しかし、大統領に虚偽の情報を伝えたり、失敗を隠そうとしたり、勝手な動きをしたりして、問題行動が多くなった。そこで、ロヴェットは、CIAを組織的に見直すことを提案した。ダレスは強く抵抗し、CIAは厄介な存在になった。ケネディに政権を引き継いだアイクは、CIAを「灰の遺産」と呼んだ。「灰の遺産」とは、どうにもならないガラクタを意味する。
 ケネディは、自分の政権を作る際、ロヴェットに協力を求めた。ロヴェットは、ボーンズメンとその仲間を権力の中枢に送り込んだ。国家安全保障問題特別補佐官のマクジョージ・バンディ、アジア担当国務次官のアヴェレル・ハリマンらがそうである。
 ケネディは、アイクに引き続きダレスをCIA長官に指名したが、間もなくダレスとCIAに対して怒りを表した。CIAとボーンズメンは、ベトナムへの軍事介入を強力に推進しようとした。ケネディは、いったんは介入したが、早期撤兵を進めようとしていた。
 ケネディの暗殺に、CIAが関与していたことは確実である。ケネディの暗殺後、ジョンソン大統領の下で、アメリカはベトナムに本格的に参戦した。ハリマンは、ジョンソン大統領の下でベトナム政策の責任者に留まり、ベトナム戦争の拡大・長期化を担った。

 ニクソン政権に代わると、キッシンジャーがベトナム戦争終結への地ならしをした。キッシンジャーは、ボーンズメンではない。彼が活躍した時代、スカル・アンド・ボーンズの政権への影響は減少した。CIAは、数々のスキャンダルを暴かれ、ベトナム戦争への批判が強まるなか、影響力を失っていった。しかし、CIAは形勢逆転のために、ウォーターゲイト事件でニクソンを辞任に追い込んだ可能性がある。ニクソンも、ケネディ暗殺事件に関与した可能性がある。ニクソンが大統領の椅子に固執すれば、より大きな問題が暴露される恐れがあった。
 ニクソン辞任後、フォードが大統領になると、フォードはウォーターゲイト事件の真相解明を切り上げた。フォードは、ケネディ暗殺事件後、ウォーレス委員会の委員として、暗殺事件の真相を不明のままにすることに貢献した。
 フォード政権では、ボーンズメンが政権中枢に返り咲いた。1975年(昭和50年)秋、フォードは突然、キッシンジャーを解任し、国家安全保障担当補佐官にブレント・スコウクロフトを任命した。国防長官は、キッシンジャーの盟友ジェームズ・シュレジンジャーを罷免してドナルド・ラムズフェルドに替え、CIA長官も、ウィリアム・コルビーを罷免して、ブッシュ父を起用した。 彼らはボーンズメンであり、フォード政権下で、勢力を回復した。
 この時、CIA長官を務めたブッシュ父が、後に大統領になる。スカル・アンド・ボーンズの大統領である。さらに一代おいて、同じくボーンズメンであるブッシュ子が大統領になる。彼らブッシュ父子の政権において、スカル・アンド・ボーンズはアメリカ社会での影響力を拡大した。
 ブッシュ父とCIAが麻薬密輸に関わってきたことを先に書いたが、これは驚くようなことではない。CIAには、スカル・アンド・ボーンズの会員が多く入局している。SBの創立者の一人、W・H・ラッセルは、アヘン貿易で財を成したラッセル家の一員である。SBは、ラッセル・アンド・カンパニーの財力をもとに創立された団体である。それゆえ、ボーンズメンの多いCIAが麻薬を密売するのは、先祖の仕事を継承して、国家組織で行っているようなものである。

 私は、アメリカ社会でスカル・アンド・ボーンンズが外交問題評議会(CFR)より大きな力を持っているとは思えない。SBはCFRより歴史が古く、アメリカ所有者集団の中枢部をなしてはいる。しかし、CFRの人脈は、SBのそれより遥かに大きい。そして、CFRを長年牛耳ってきたロックフェラー家の存在は、他の多くの財閥の存在を遥かにしのいでいる。それが、私が、SBよりCFRの影響力に注目する理由である。

(3)クリントン、ブッシュ子も背後は同じ

 

●クリントン政権もCFR会員の多さは相変らず

 ここで外交問題評議会(CFR)とアメリカの歴代政権に、再び話に戻いたい。
 1992年(平成4年)の大統領選で、ブッシュ父は、民主党のビル・クリントンに敗れた。レーガン、ブッシュ父と続いた共和党政権から民主党政権に移ったのだが、ここでもやはりCFRと三極委員会(TC)の存在が目を引く。
 クリントンは、CFRの会員でTCの会員だった。閣僚にも、CFR、TCの会員が多かった。副大統領アル・ゴア、国務長官ウォーレン・クリストファー、その後任のマデレーン・オルブライトはCFRの会員である。クリントン政権で国防長官は3人いた。レス・アスピン、ウィリアム・コーエン、ウィリアム・ペリーである。彼らはすべてCFRの会員だった。CIA長官も3人いた。ジェームズ・ウルジー、ジョン・ドイッチ、ジョージ・テネット。みなCFRの会員である。財務長官ロイド・ベンツェン、その後任のロバート・ルービンまたしかり。その他、国家安全保障担当補佐官、統合参謀本部議長等、クリントン政権の閣僚19名のうち17名がCFR、もしくはTCの会員だった。ペリーはTCの会員でもあった。政権全体では約100名のCFR会員が登用されたという。

 ビル・クリントンは、アーカンソー州の高校を卒業後、ワシントンDCの名門ジョージタウン大学に進学した。同大卒業後、ローズ奨学金を得て、イギリスのオックスフォード大学に留学した。クリントンが大統領になったことによって、このセシル・ローズの遺産で作られた奨学金の存在がクローズアップされた。
 ローズ奨学金は、英語圏の優秀な人材をイギリスに留学させて教育を施し、円卓会議等のネットワークに組み込み、イギリス王室及びロスチャイルド家等のイギリス所有者集団の富と権力に寄与するように育成するための奨学金制度である。

●ロックフェラー家が抜擢した若き大統領

 ビル・クリントンの故郷であるアーカンソー州は、ロックフェラー家が支配している土地である。ネルソン、デイヴィッドらの兄弟であるウィンスロップ・ロックフェラーは、1967年(昭和42年)に同州の知事になった。ウィンスロップは、政治家を志す若きクリントンに目を留め、保護下においた。副島隆彦氏は、ビル・クリントンの実父は、ウィンスロップ・ロックフェラーだという説を採っている。
 ローズ奨学金によるイギリス留学を終えると、クリントンは故郷のアーカンソー州に戻り、弁護士となった。その後は、29歳で州の司法長官、32歳で州知事となる。知事としてはウィンスロップ・ロックフェラーの後輩である。こうした逸材に目を付けたデイヴィッド・ロックフェラーは、1988年(昭和63年)にクリントンをTCの会員にした。また翌89年にはCFRの会員ともした。
 そして91年(平成3年)、デイヴィッドは、クリントンをドイツのバーデン・バーデンで開かれたビルダーバーグ・クラブ(BC)の会議で、出席者に紹介した。それによって、クリントンは、アメリカ大統領の座へと駆け上った。州知事という地方政治家がビルダーバーグ会議に招待されて、その後、大統領となるというのは、カーターと同じパターンである。
 ちなみにジョージ・ブッシュ父、マーガレット・サッチャー、ジョン・メイジャーも大統領や首相になる前に、BCに招かれて紹介されてから、その地位に就いている。
 クリントンを大統領に押し上げたのは、ロックフェラー家だけではない。アヴェレル・ハリマンの未亡人パメラ・ディグビーも資金提供者の一人で、クリントンを大統領候補に担いで民主党の全米議長となり、大統領誕生に力を貢献した。

 92年(4年)の大統領選挙に勝利したクリントンは、演説で一人だけ名前を挙げて感謝した。それが、キャロル・キグリー教授だった。
 キグリーについては先に書いたが、ジョージタウン大学時代のクリントンの指導教官(mentor)だった政治学者である。キグリーは、自他ともに認める「エスタブリッシュメント」の学者であり、屈指の「インサイダー」だった。その立場から書いた本が幻の書『悲劇と希望』である。本書の題名は、「国際銀行家が支配する世界こそ“希望”であり、それに抗う人々は“悲劇”である」というところからきている。つまり、支配集団の一員が支配体制の確立を誇って書いた本である。そうしたキグリーの著書に、クリントンは推薦文を寄せている。よほどキグリーの学識や人脈から得たものが大きかったのだろう。
 クリントン政権では、IT革命、それによる財政赤字の解消、共産中国との間の高度技術提供や政治資金授与の疑惑等、さまざまな事象が起こったが、これらについては、後の項目に書く。

●ブッシュ子政権はCFRに加えてSBの人脈が目立つ

 クリントンの次の大統領の座を争う2000年(平成12年)の大統領選挙は激戦だった。共和党のジョージ・W・ブッシュと民主党のアル・ゴアは、ともにCFRの会員だった。この選挙は、最後まで票の集計に疑惑の残るまま、ブッシュ子が僅差で勝利した。
 2001年(13年)1月20日に職務に就いたブッシュ子の政権も、CFRの会員を主要閣僚に配した。副大統領のディック・チェイニー、国務長官のコリン・パウエル、後任のコンドリーザ・ライス、国防長官のドナルド・ラムズフェルド、後任のロバート・ゲイツ、国務副長官のジョン・ネグロポンテ、国防副長官のポール・ウォルフォウイッツ、チェイニーの首席補佐官ルイス・“スクーター”・リビー、国防政策諮問委員会委員長のリチャード・パール、米通商代表部代表で後に国務副長官のロバート・ゼーリックらが、CFRの会員だった。またCIA長官は、ジョージ・テネット、ジョン・マクラフリン、ポーター・ゴス、マイケル・ヘイデンと次々に替わったが、全員CFRの会員である。
 彼らのうち、チェイニーは、ブッシュ父政権で国防長官、パウエルは同じく統合参謀本部議長だった。他にも多くのスタッフをブッシュ子は、父の政権から引き継いでいる。
 ちなみにCFRは、2000年末の時点で理事長がレスリー・ゲルブ。会長がピーター・ピーターソン。副会長がモーリス・グリーンバーグ(AIG会長)。理事には、カーラ・ヒルズ、ロバート・ゼーリック、ジョージ・ソロス、ロバート・ルービンらが名を連ねていた。史上最強の投機家ソロスが理事に入っていることは注目に値しよう。

 ブッシュ子大統領は、2004年(平成16年)、再選に成功した。2度目の大統領選挙の相手は、民主党のジョン・ケリーだった。ケリーもまたCFRの会員だった。そのうえ、ブッシュ子と同じくイェール大学の出身で、スカル・アンド・ボーンズの会員だった。ボーンズメン同士の大統領選により、SBの存在が注目を集めた。たとえば、アメリカ三大放送網の一つCBSが、2002年(平成14年)、次のように報道した。
 「スカル・アンド・ボーンズは、20世紀最大の権力者を含む秘密結社である」「これほどの社会的・政治的ネットワークは存在しない」「ブッシュ大統領は、5人のボーンズメンを政権に誘い、参加させた。つい最近、彼は1953年加入のボーンズマン、ウィリアム・ドナルドソンを米国証券取引委員会の委員長に指名した。大統領と同様、彼はスカル・アンド・ボーンズの『沈黙の誓い』を守りつづけている」と。
 ブッシュ子政権におけるボーンズメンにおいて、大物はドナルド・ラムズフェルドとブレント・スコウクロフトである。ラムズフェルドは、タミフルで知られる製薬会社の経営者だが、軍産複合体と深い関係を持った政治家である。スコウクロフトは、ブッシュ父政権で国家安全保障担当大統領補佐官として外交を取り仕切り、ブッシュ子政権でも大統領対外情報諮問委員会(PFIAB)座長を務めた。ネグロポンテ、リビーもイェール大学の同窓である。
 このように、ブッシュ子政権はCFRの会員が要職を占め、またスカル・アンド・ボーンズの人脈が特徴となっている。さらに最も大きな特徴は、ネオコンが政権中枢を占めたことである。この点については、後に述べることにし、ブッシュ子政権における最大の出来事、9・11について、次章に書くことにする。ページの頭へ

 

 

第7章 9・11とアメリカの挫折

 

(1)アメリカ政府が関与

 

●9・11にアメリカ政府が関与

 9・11とは、2001年(平成13年)9月11日に怒ったアメリカ同時多発テロ事件である。この事件をきっかけにアメリカは翌10月7日、アフガニスタンに侵攻し、さらに03年(15年)3月19日、イラク戦争を開始した。9・11及びアフガン戦争及びイラク戦争こそ、現在の世界の状況を生み出した一連の出来事である。それらは、すべてブッシュ子政権で起こった。
 拙稿「9・11〜欺かれた世界、日本の活路」に書いたように、私は同時多発テロ事件にアメリカ政府が何らかの形で関与していると確信している。関与とは、テロリストの計画を利用して加担したか、米政府とテロ・グループとの共犯か、米政府による自作自演か、何らかの形で意図的に関わったことを意味する。利用加担か政府共犯か、自作自演かについては、まだ決定的なことは言えない。アメリカ政府が徹底した調査を拒み、事件の証拠を公開していないからである。
 私は先の拙稿に、9・11に関するアメリカ政府の公式発表について、多くの疑問と疑惑のあることを書いた。そして、アメリカ政府中枢の事件への関与を示すと私が考える事実を提示した。すなわち、

(1)政府は調査委員会の調査を妨害した
(2)アメリカ政府中枢は事件を前もって知っていた
(3)チェイニーはペンタゴンを攻撃させ、ペンシルバニアでは撃墜を命じた
(4)「21世紀の真珠湾」が待望されていた
(5)FBIは捜査官の捜査を妨害した
(6)CIAとISIそしてオサマとの間に濃厚な関係がある

等の事実である。
 また、私は、アメリカ政府が事件に関与したとすれば、そこには目的があるとして、考えられる目的を6つ挙げている。すなわち、

(1)石油・天然ガスの確保
(2)アメリカ=イスラエル連合の安全保障を強化
(3)戦争による特需の創出
(4)ドル基軸通貨体制の維持
(5)麻薬利権の取り戻し
(6)宇宙空間の軍事化による地球支配

 以上である。
 詳しくは、拙稿「9・11〜欺かれた世界、日本の活路」をご参照願いたい。

●石油企業・軍需企業等の関係者が政権に集合

 9・11に関し、政府が関与した場合に考えられる目的のうちに、私は先の拙稿において、石油・天然ガスの確保、戦争による特需の創出等を挙げている。実は、ブッシュ子政権は、石油企業・軍需企業の関係者が多く政権に集合し、自らの利益のために、政府を利用していた。
 父子とも大統領となったブッシュ家は、テキサスの石油業界をバックに持っている。ブッシュ子政権の中枢は、石油メジャーと関係の深い人物が集まった。石油メジャーや電力会社等のエネルギー産業、また軍需関連産業や巨大国際金融資本などの共通利益のために、アメリカの政府は、戦略的に動いていたと想像される。背後にいる最も大きな存在は、ロックフェラー家である。スタンダード・オイル社を中心に、ロックフェラー家は、アメリカの石油業界を支配しており、ブッシュ父子は、ロックフェラー家の資金と人脈を受けて、政権に就いている。

 アメリカの石油メジャーにとって、産油国の政体は、専制体制であれ、民主体制であれ、本質的には、どちらでも構わない。親米であればよい。世界最大の産油国サウディアラビアは、王家や首長による専制体制が敷かれているが、アメリカは一切問題にしていない。サウディは、中東随一の親米国だからである。アメリカにとって、そういう国は、それでよい。自由やデモクラシーや基本的人権など、広める必要はない。大義名分より、石油である。問題は、反米的な国家をどうするかなのである。アメリカの言うことを聞かない国々に、親米的な政権を実現し、石油・天然ガスの利権を得ること。その利権を安定的なものにすること。これが、ロックフェラー家を筆頭とするアメリカの石油メジャーの願望だろう。

 なぜブッシュ子大統領は、9・11後、すぐさまアフガニスタンに侵攻することを宣言したのか。オサマ・ビンラディンがいるから、タリバンが活動しているから、それは確かに理由であるが、もっと重要なことは、資源である。アフガニスタンの北、ロシアのカスピ海沿岸地域には、広大な油田がある。この地域の油田には、中東にまさるほどの石油が埋蔵されている。
 ロシア、中国などもカスピ海地域の油田を虎視眈々と狙っている。中東とともに、この地域を支配する者が、事実上、世界のエネルギー市場を支配する。ひいては世界の覇権を手にすることになる。
 アメリカが、カスピ海地域のエネルギー資源の利権を獲得するためには、石油の搬出パイプラインをロシアや中国の側に伸ばさずに、アフガニスタンとパキスタンを経由して南下させる必要がある。ブッシュ子政権は、それを実現することを一つの使命としていたのだろう。

 ブッシュ子政権で軍需産業の側の筆頭は、ラムズフェルド国防長官である。ラムズフェルドは、フォード政権の国防長官を務めた後、軍事投資会社カーライル・グループ会長のフランク・カールッチとともに、軍事シンクタンクのランド・コーポレイションを動かし、理事長として国家ミサイル防衛(NMD)プロジェクトを推進していた。ここにはノースロップ・グラマン社やロッキード・マーティン社等の巨大軍需企業が連なっている。こうしたラムズフェルドがブッシュ子政権で再び国防長官になったのである。アメリカの軍産複合体が宇宙時代に対応したアメリカの軍事革命を推進するには、うってつけの人材だった。
 そのラムズフェルドの上役が副大統領のチェイニーだった。チェイニーはブッシュ父政権の国防長官として、湾岸戦争を主導した。当然、軍需産業と太いパイプを持っている。チェイニー=ラムズフェルドのラインは、軍需産業にとっては最強の布陣だったことだろう。

●アフガン侵攻でユノカル社のパイプラインを建設

 1990年代、この地域にパイプラインを建設する計画を立てたのが、石油会社ユノカルだった。計画は、アフガニスタンを通ってパキスタンに続く全長2400キロのパイプラインを建設するという壮大なものだった。ユノカル社の顧問には、ヘンリー・キッシンジャーがいた。先に書いたようにキッシンジャーは、RIIA、CFR、ビルダーバーグ・クラブ、TCという国際機関を結ぶ象徴的な人物であり、キッシンジャー・アソシエイツ社は、アメリカの多国籍企業の国際的な権益増進に寄与すべく、各社と顧問契約を結び、企業活動をしている。
 さてユノカル社の石油利権は、アフガニスタンの政権を取ったタリバンの方針と衝突した。タリバンは、アフガニスタンに侵攻したソ連に対抗するために育てた組織だが、反米的な姿勢に変わっていた。1998年(平成10年)2月、ユニカル社の代表は、米下院国際委員会で、パイプラインの建設計画を延期すると発表した。そして、「アフガニスタンの内紛をアメリカの影響力で集結させてほしい」と要望した。
 翌99年から2001年(11〜13年)にかけて、アメリカはアフガニスタンに多額の援助をした。親米政権を確立し、パイプラインの建設を実現するためだ。しかし、埒が明かなかった。そこで報じられたのが、2001年(13年)10月までにアメリカがアフガニスタンに侵攻するという計画である。だがアメリカ国民の多くは、戦争を望んでいなかった。9月10日、アフガニスタン侵攻計画は、ブッシュ大統領の承認待ちという状態になっていた。
 いわゆる同時多発テロ事件は、その翌日の9月11日に起こった。事件後、ブッシュ大統領は、ただちにテロリズムとの戦争を宣言し、10月7日に、アフガニスタンへの爆撃を決行した。アメリカは、瞬く間にアフガニスタンを占領した。反米的なタリバンを追い払い、親米的なハミド・カルザイを大統領の座につけた。これによって、障害が取り除かれ、ユノカル社によるパイプライン建設は再開された。そのユノカル社の顧問を以前にしていたのが、カルザイ大統領だった。すなわちアメリカは、ユノカル社の利権にまみれた傀儡政権を、アフガニスタンに樹立したのである。そして、9・11の後に急遽アフガン侵攻が計画されたのではなく、アフガン侵攻が計画されているところに、9・11が起こったのである。9・11は、アフガン侵攻を正当化するには、絶好の出来事だったのである。

●ユノカル社とハリバートン社を結ぶチェイニー元副大統領

 アフガン侵攻の2年後、アメリカは、イラクに侵攻した。実は、アフガン侵攻同様、イラク侵攻にも事前に計画があった。1998年(平成10年)、ネオコンのシンクタンクのひとつである「アメリカ新世紀プロジェクト」(PNAC、ピーナック)は、イラクがアメリカとイスラエルへの石油供給を脅かしているとして、イラクとの戦争を主張した。PNACには、ブッシュ子政権の首脳陣となるチェイニー、ラムズフェルド、ウォルフォウイッツ、リビーらが参加していた。
 ブッシュ大統領は、9・11の前に、イラクの石油目当てに、サッダーム・フセインを追放するための戦争を計画していた。イラクは、石油埋蔵量で世界第2位である。アメリカの計画を知ったフセインは、攻撃をされないように、国連安全保障理事会常任理事国のフランス・ロシア・中国にイラクの石油を売っていた。安保理がイラク攻撃を決議しないように図ったのである。しかし、アメリカは、イラク戦争を開始した。フセインはアルカーイダを支援しており、大量破壊兵器を渡すおそれがある。テロリストが核兵器を持てば、国家が相手と違って抑止力が働かず、防ぎようがない。だから、脅威が感じられる時点で先制攻撃をしなければならないーーこういう理屈で、先制攻撃が正当化された。アメリカは、イラク戦争に戦勝後、フランス・ロシア・中国の石油に関する権利をなくし、イラクの石油利権を独占した。
 ユノカル社が深い関係のある会社に、石油関連サービス会社のハリバートン社がある。ユノカル社は、当時ハリバートン社を含むセントガス社の救済を行なっていた。ハリバートン社は、イラク戦争で軍需関連の仕事を多く受注し、多大な利益を上げるようになった。かつて同社のCEO(最高経営責任者)をしていたのが、チェイニー副大統領である。チェイニーがハリバートン社に仕事をもたらし、チェイニーも利益を得ただろうことは、想像にかたくない。

●カーライル社・ブッシュ家・ビンラディン家の深い関係

 次にブッシュ子政権と軍需企業との関係について述べる。ブッシュ子は大学を卒業すると、父の石油会社に勤務し、下院議員選挙に出馬したが落選した。その後、1994年(平成6年)、テキサス州知事に当選するまでの間、ブッシュ子はケータエアという会社の役員を務めた。同社はカーライル社の子会社の一つである。カーライル社は現在、世界三大の投資会社の一つとなり、またアメリカ最大の軍需関連企業である。ブッシュ子は、カーライル社の資金的な支援を受けて、テキサス州知事に当選し、また合衆国大統領にもなった。
 カーライル社との関わりは、ブッシュ父に始まる。ブッシュ父は大統領時代、側近のジェームズ・ベイカー国務長官とともに、多くの公共事業をカーライル社に発注し、同社を巨大企業に育て上げた。大統領退任後もブッシュ父は同社の顧問をしており、ベイカーもまた顧問である。同社の会長フランク・カールッチは、CIAの出身で、レーガン政権で国防長官を務めた後、カーライル・グループの会長となった。ブッシュ子政権の国防長官ラムズフェルドとは大学が同窓であり、軍事シンクタンクのランド・コーポレイションを一緒に動かしていた。

 もう一つ注目すべき事実は、オサマ・ビンラディンがアメリカ政府によって9・11の首謀者とされているが、その兄セーラムなどビンラディン一族は、カーライル・グループに莫大な投資をしてきたことである。しかも、ブッシュ父は、カーライル・グループを通じ、サウディアラビアにおけるビンラディン一族の事業に関与している。つまり、アメリカ政府が戦争による需要を生み出すと、カーライル投資グループが儲け、ビンラディン一族も利益を得るという仕組みになっているのである。
 9・11をきっかけとしてアメリカがアフガン戦争及びイラク戦争を起こし、その戦争がブッシュ父子とその取り巻きがかかわる会社に膨大な利益をもたらしている。この事実は、9・11への政府の関与には、戦争による特需の創出という目的があると見るに十分である。そして、ブッシュ子政権は、軍需産業の側にすれば、まさに自分たちが政府を利用して、利益を上げることの出来る政権だったのである。

(2)ネオコンの画策と失敗

 

●ネオ・コンサーバティズムの潮流

 ブッシュ子政権において、CFR、SB、石油業界・軍需業界の人材以上に顕著なのは、ネオコンと呼ばれる親イスラエルの軍事強硬論者が、首脳陣の多く占めたことである。
 冷戦の終結後、アメリカは世界で唯一の超大国となった。このとき、アメリカの世界的な覇権を確立するために、その圧倒的な軍事力を積極的に使用すべきだという戦略理論が登場した。それが、ネオコンである。
 ここでネオコンについて詳述すると、ネオコンはネオ・コンサーバティズム(新保守主義)の略称である。保守主義を意味するコンサーバティズムの頭に「新しい」を意味する「ネオ」をつける。伝統的な保守と区別するために、ネオをつけている。
 アメリカでは、「保守」と対比されるのは「リベラル」である。リベラルとは、リベラリズム、自由主義の略である。自由主義とは、国家権力の介入を排し、個人の自由と権利を守り、拡大していこうという態度のことである。自由主義は、近代イギリスで発達した思潮である。これは言葉の本来の意味での自由主義であり、国権の抑制と自由競争に特徴がある。これを古典的自由主義と私は呼ぶ。
 それに対し、今日の「リベラル」は、19世紀半ばのイギリスに現れた「進歩」に元があり、それまでの自由主義を修正したものである。社会改良と弱者救済に特徴があり、修正的自由主義と私は呼ぶ。
 前者の古典的自由主義は、英米では、保守主義の態度でもある。なぜなら、これらの国々では、国権の抑制と自由競争が歴史的に制度化され、伝統となっているからである。自助努力と自己責任の原則を強調し、機会均等を達成した上で、効率的な市場経済を担保しようとするのが、この古典的自由主義である。その伝統を保守することが、保守の基本態度となっている。
 古典的自由主義に比し、修正的自由主義は、社会的弱者に対し同情的であろうとし、弱者救済を目的として自由競争を制限する。名前は同じリベラリズムだが、国権抑制・自由競争型と社会改良・弱者救済型で、政策に大きな違いがある。
 大雑把に言って、アメリカでは、共和党は「保守」、民主党は「リベラル」となるだろう。もともと古典的自由主義が「リベラリズム」だったのだが、修正派に「リベラル」の看板をとられてしまったのである。英米の「リベラル」は個人主義的で、左傾化すると社会民主主義と結びつく。状況によっては、共産主義にさえ同調する。
 「リベラル」に看板を取られた古典的自由主義者の中には、「リバータリアニズム」と自称する人もある。「徹底的自由主義」とでも訳せるだろう。英米では、これが伝統的な「保守」である。いわゆる「ネオコン」と呼ばれる新保守主義者は、この新種である。

●ネオコンがブッシュ子政権に参入

 ネオコンの源流は、1930年代に反スターリン主義の左翼として活動したトロツキストである。彼らは「ニューヨーク知識人」と呼ばれるユダヤ人の集団だった。そのうちの一部が、第二次世界大戦後、民主党に入党し、最左派グループとなった。彼らは、レーガン大統領がソ連に対抗して軍拡を進め、共産主義を力で克服しようとしたことに共感し、共和党に移った。反スターリン主義が反共産主義へと徹底されたわけである。彼らは、もともと共和党を支持していた伝統的な保守とは違うので、ネオコンという。
 アメリカの伝統的な保守は、自分の郷土を中心にものを考え、アメリカ一国で自立することを志向する。外交においては、現実主義的な手法を重視し、国益のためには独裁国家とも同盟を結ぶ。これに対し、ネオコンは、自由とデモクラシーを人類普遍の価値であるとし、その啓蒙と拡大に努める。近代西洋的な価値観を、西洋文明以外の文明に、力で押し付けるところに、闘争性がある。その点では、戦闘的な自由民主主義と言えるが、そこにユダヤ=キリスト教の世界観が結びつき、イスラエルを擁護するところに、顕著な特徴がある。
 ブッシュ子政権以前からネオコンは活動しており、強硬な反共派の文筆家ノーマン・ポドレッツ、デタント外交に反対したヘンリー・ジャクソン上院議員、レーガン政権の国連大使ジーン・カークパトリックらが挙げられる。

 ソ連崩壊後の1990年代には、ネオコンは、アメリカの脅威の源は、共産主義からアラブ諸国とイスラーム教過激派に移ったと認識した。ネオコンとシオニズムは、思想的には別のものであるが、ネオコンにはユダヤ人が多く、そのことが彼らの主張を親イスラエル的・シオニスト的なものとした。中東においてイスラエルを支持し、アラブ諸国を軍事力で押さえ込み、石油・資源を掌中にし、自由とデモクラシーを移植する。こうした戦略は、アメリカの国益を追求するとともに、イスラエルの国益を擁護するものともなった。
 ネオコンは、ブッシュ子政権において、政権の中枢に多く参入した。9・11のいわゆる同時多発テロ事件がなければ、ネオコンの理論は、主流に躍り出ることはなかったかもしれない。9・11は、アメリカ国民に、テロの恐怖を引き起こし、報復への怒りを沸き立たせた。そして、ネオコンの理論を、アメリカが取るべき方針だと国民に思わせた。
 9・11については、アメリカの所有者集団・経営者集団の中で、政府の関与を追及している者は、未だいないようである。これに比し、イラク戦争については、ブッシュ子政権以前にアメリカ外交に関わってきた政治家・学者から反対意見が多く出た。なかでも冷戦終結後のアメリカ外交の基本方針を作ったとも言えるブレジンスキーは、政権のネオコン・グループを批判し、論戦を繰り広げた。もう一人、アメリカ外交に最も強い影響を与えてきたヘンリー・キッシンジャーも、中東への冒険的な進攻に反対した。ブッシュ父の国務長官だったジェームズ・ベイカー、その後任だったローレンス・イーグルバーガー、同じく大統領補佐官だったブレント・スコウクロフトらも、国際的な支持のないイラク攻撃に反対した。こうした反対があるにもかかわらず、ブッシュ子政権はイラク進攻を強行し、また戦争を継続した。そこに、ネオコン・グループの強引な姿勢が現れている。

●ブッシュ子を取り巻いたユダヤ人ネオコン・グループ

 ブッシュ子政権におけるネオコンの頭目は、副大統領のチェイニーであり、彼に次ぐのが、国防長官ドナルド・ラムズフェルドだった。ブッシュ大統領やチェイニー、ラムズフェルドをイラクへの先制攻撃の戦略に導いたのは、ユダヤ人のネオコン・グループである。
 この辺は、広瀬隆著『アメリカの保守本流』(集英社新書)が詳しい。ユダヤ人のネオコン・グループとは、国防副長官ポール・ウォルフォウイッツ、副大統領首席補佐官ルイス・リビー、国防政策会議議長リチャード・パール、国防次官ダグラス・ファイス、ホワイトハウス報道官アリ・フライシャー、大統領のスピーチライターであるデイヴィッド・フラムである。これに保守派の論客ウィリアム・クリストルを加えて、広瀬は「ネオコン7人組」と呼んでいる。彼らは、全員がユダヤ系移民の子孫である。
 「ネオコン7人組」の中心的な存在は、ウィリアム・クリストルである。そして、その父親であるアーヴィン・クリストルは、ネオコンの創始者ともいわれる。アーヴィンは、1930年代に反スターリン主義の左翼として活動したトロツキスト、「ニューヨーク知識人」の一人。トロツキズムから反共産主義に転じ、ユダヤ人シオニストとして活動した。1943年(昭和18年)に「アメリカン・エンタープライズ研究所(AEI)」を創設し、言論活動を行い、若手を育成した。AEIのメンバーには、チェイニーやパールがいる。アーヴィン・クリストルは、CFRの会員でもある。

 クリストルらのユダヤ人トロツキストに強い影響を与えたのが、ハンナ・アーレントである。アーレントはユダヤ人であり、ナチスの迫害を逃れて1941年(昭和16年)、アメリカに亡命した。名著『全体主義の起源』『革命について』等で、アメリカの独立革命は成功、フランス革命・ロシア革命は失敗とし、リベラル・デモクラシーを賞賛して、全体主義との戦いを唱導した。アーレントの共産主義とナチズムへの批判は、ユダヤ人トロツキストにマルクス主義からの脱却を促した。アーヴィン・クリストルは、反共からさらに戦闘的なシオニズムに転じたわけである。
 アーヴィンの息子ウィリアム・クリストルは、1997年(平成9年)にシンクタンク「アメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)」を設立し、会長となった。PNACの設立趣意書には、後のブッシュ子政権の中枢の名前が並んでいた。チェイニー、ラムズフェルド、ウォルフォウイッツらである。
 クリストル父子らのユダヤ人ネオコン・グループは、アメリカの支配集団の主流であるWASPではない。ユダヤ系アメリカ人は、徐々にWASPの支配層に入り込み、アメリカの政治を大きく左右するほどの影響力を持つに至った。レーガン政権、ブッシュ父政権、クリントン政権を通じて、シオニストのユダヤ系アメリカ人とアメリカの伝統的な支配集団であるWASPとが接近・連携していったと考えられる。
 ちなみに、ユダヤ人の人口は現在全世界で1300〜1400万人いるとされる。そのうち、531万人がイスラエルに、528万人がアメリカに住む。アメリカはイスラエルに匹敵するユダヤ人居住地である。ユダヤ人は全米の人口の約5.5%にすぎないが、金融・報道・法曹・科学・教育・芸術等で優秀な能力を発揮している。アメリカのユダヤ人の6〜7割はニューヨークに住む。ニューヨークの人口の3〜4割はユダヤ人といわれ、「ジューヨーク」というあだ名があるほどである。

●戦闘的シオニストとしてのネオコン

 ウィリアム・クリストルは1995年創刊の雑誌『ウィークリー・スタンダード』の編集長も務めた。クリストルを中心としたユダヤ人ネオコン・グループはこの雑誌を発信源としていた。彼らはサッダーム・フセインを悪の権化とし、アメリカはイラクを攻撃して、米軍がイラクを統治し、中東諸国をすべて民主化しなければならないと主張した。ブッシュ大統領は、就任後の一般教書演説でイラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と発言して世界を驚かせたが、その原稿を書いたのは彼らの一人で、スピーチライターのフラムだった。
 クリストルとともに共同設立者としてPNACを設立したのが、ロバート・ケイガンである。ケイガンはCFRの会員である。ケイガンは、レーガン政権の国務長官ジョージ・シュルツのスピーチライターとして、レーガン外交に関与した。クリントン政権に替わると、アメリカは国連を無視して先制攻撃によってサッダーム・フセインを排除すべし、と主張し、戦闘的なシオニストぶりを露にした。こうしたケイガンの主張を継承する立場にあるのが、ブッシュ子政権のネオコン・グループなのである。

 クリストル、ケイガンらユダヤ系アメリカ人ネオコン・グループは、イスラエルの極右政党リクードの党首アリエル・シャロンの政策を支持し、シャロンと密接な関係を持っていた。シャロンは戦闘的なシオニストであり、パレスチナ難民の殺戮を容認し、「ベイルートの虐殺者」と呼ばれる人物である。シャロンは、2001年(平成13年)にイスラエルの首相となった。ここにアメリカ・ブッシュ子政権のネオコン・シオニストとイスラエルの強硬派政府との連携が出来上がった。
 ブッシュ子政権のユダヤ人ネオコン・グループは、アメリカの外交政策をシャロン政権を援護するよう働きかけ、超大国アメリカの軍事力で、イスラエルの安全保障を強化しようとした。アメリカを親イスラエルでシオニストの国家に変貌させようと図ったのである。

(3)超大国を動かすシオニズム

 

●ネオコンの資金源にロスチャイルド家あり
 
 名著『赤い楯』(集英社文庫)で知られるわが国のロスチャイルド研究の第一人者・広瀬隆は、次のように書いている。
 「ネオコンがCIAや国務省を無視し、これほどまでにワシントンで力を持つには、誰か大物パトロンからの資金援助がなければならないが、資金はロスチャイルドから出ていた」(『アメリカの保守本流』集英社新書)
 ロスチャイルド家とユダヤ人ネオコン・グループを結ぶ人物に、アーウィン・ステルザーがいる。ステルザーは、ニューヨークで投資銀行と金融経済顧問をかねるロスチャイルド社の代表である。彼が経営するロスチャイルド社の親会社は、世界金融界の頂点に立つロンドン・ロスチャイルド銀行である。
 ステルザーは、メディア王ルパート・マードックの「最も重要な資金面の後ろ盾」だと広瀬は言う。オーストラリア生まれのユダヤ人マードックは、猛烈な勢いでイギリスのマスメディアを買収し、さらにアメリカに進出した。有力な新聞・雑誌を押さえ、FOXテレビを買収した。こうしたマードックのメディア買収は、背後にいるロスチャイルド家の対米戦略の一環と考えられる。メディアを使って、自己に有利になるように、アメリカの世論に影響を与えることができるからである。今やFOXは四大テレビ・ネットワークの一つに数えられている。

 ステルザーに話を戻すと、アーヴィン・クリステルらが設立したアメリカン・エンタープライズ研究所(AEI)にステルザーは資金を提供してきた。AEIの後ろには、ロスチャイルド家があるわけである。ステルザーはネオコン・グループの一人、リチャード・パールを、1998年(平成10年)保守系のシンクタンク、ハドソン研究所の幹部に引き立てた。そして、ブッシュ子政権の国防長官ラムズフェルドの右腕として中枢に送り込んだ。パールは「暗黒の王子」という異名を持ち、サウディの武器商人アドナン・カショーギとの武器売買に暗躍し、ブッシュ子政権をイラク進攻に駆り立てた。「ロスチャイルド子飼いのパールが、ブッシュと米軍を動かしたのである」と広瀬は書いている。
 ステルザーは、ウィリアム・クリストル編集の雑誌『ウィークリー・スタンダード』の編集者を兼ね、同誌を実質支配していたという。広瀬は「世にネオコンと呼ばれる集団は、全員が彼のロスチャイルド人脈だった。これが、好戦的シオニズムとネオコンを結びつけたネットワークである」と述べている。ラムズフェルドとパールは、ビルダーバーグ・クラブの常連参加者でもあり、ロスチャイルド家から欧米の所有者集団につながっている。
 ロスチャイルド家がどうして対米戦略を展開し、アメリカの政治に影響力を及ぼそうとするのか。巨大国際金融資本としての事業展開は、当然の目的だろう。それとともに、その行動は、イスラエルという国家の存立と繁栄をめざしたものでもある。ロスチャイルド家こそ、イスラエルを建国し、支援・擁護してきたユダヤ人一族だからである。イスラエルのシオニストとロスチャイルド家、そしてアメリカのユダヤ人ネオコン・シオニストは、国際的かつ民族的に連携しつつ、超大国アメリカを自らの利益にかなうように、誘導・操作しようとしてきたのである。
 
●シオニスト=ロスチャイルド家の対米工作

 ロスチャイルド家を中心としたシオニストの対米活動は、ブッシュ子政権の時に、始まったものではない。ケネディは、イスラエルが核開発をすることを認めなかったが、彼が暗殺されて後、アメリカはイスラエルの核保有を黙認するようになった。1960年代から、イスラエルはアメリカの政界・議会へのロビー活動を活発に行い、アメリカ指導層をイスラエル支持に固めていった。カーター大統領の時期には、アメリカはイスラエルとエジプトの和平に努力した。しかし、イスラエルには、和平を目指す勢力と、徹底的な対決を志望する勢力がある。イスラエルのシオニストは、アメリカにおいて、同調者・支持者を増やし、アメリカの民衆を、イスラエル支持、シオニスト擁護に意識付けていったものと思う。
 とりわけ1989年(平成元年)米ソの冷戦が終結したことで、シオニストの対米活動が活発になったのだろう。1991年(3年)、ブッシュ父政権の時代に、ソ連が崩壊し、アメリカが唯一の超大国になった。この国際構造の変化に対応して、シオニスト=ロスチャイルド家は覇権国家アメリカをイスラエル寄りにし、アメリカの軍事力で自国と利益を守る仕組みを構築しようと図ったのだろう。そして、アメリカ=イスラエルの提携を強め、アメリカが中東に軍事侵攻することは、アメリカの軍産複合体にとって、多大な利益をもたらし、組織と企業の維持・発展に有効なことだった。そこに、シオニスト=ロスチャイルド家とロックフェラー一族を中心としたアメリカの金融資本・軍需産業・石油産業の提携の強化がなされる理由がある。

 ここで注目されるのが、ビルダーバーグ・クラブとネオコンの関係である。上記の動きは、ビルダーバーグ・クラブに集結する欧米の所有者集団の多くにとって、好ましいことだったのだろう。ビルダーバーグ・クラブは、ブッシュ子政権時代、ネオコンを毎年会議に招いている。ブッシュ子政権スタッフでは、国防長官ドナルド・ラムズフェルド、国防副長官ポール・ウォルフォウイッツ、国務副長官ロバート・ゼーリック、国防政策会議議長リチャード・パール、国防次官ダグラス・ファイスらがビルダーバーグ・クラブの会議に参加していた。
 ラムズフェルドは、9・11で政府の関与を露呈する発言を繰り返した。そういう人物がビルダーバーガーであり、またCFR、スカル・アンド・ボーンズ、PNACの会員なのである。ビルダーバーグ会議の参加者ウォルフォウイッツ、パール、ファイスはユダヤ人「ネオコン7人組」のメンバーだが、彼らのリーダー格であるロバート・ケイガンも会議に招かれている。
 ビルダーバーグ会議には、同時期に他にもネオコンが多く参加しており、ジョン・ボルトン元国務次官、ウィリアム・ルーティ元国防次官、マイケル・レディーンAEI研究員、マックス・ブートCFR研究員がそうである。
 こうしたビルダーバーグ会議の参加者の名簿を見て、私は、ビルダーバーグ・クラブに集う欧米の所有者集団のうち、多くはネオコンを支持または利用してきたと考える。それゆえ、9・11の真相を究明する視線は、ブッシュ子政権の中枢スタッフから、さらにビルダーバーグ・クラブや現代世界の支配構造へと向かわざるを得ないのである。

●クリントン政権はかつてなくユダヤ人が多かった

 ブッシュ父に替わって、ビル・クリントンが大統領になったのが、1993年(5年)である。以後、2000年(12年)までクリントン政権が続いた。クリントンは、民主党カーター外交を継承して、中東においては和平を促進した。
 実は、クリントン政権は、史上例を見ないほどユダヤ人が多くいた。それ以前に最もユダヤ人が多かったのは、先に書いたフランクリン・D・ルーズベルト政権である。ルーズベルトが私的なブレーンとしていたグループには、政界・財界・学界・法曹界で活躍するユダヤ人が多かった。財務長官のヘンリー・モーゲンソー、労働長官のパーキンス女史らが政権の中枢にいた。

 しかし、クリントン政権におけるユダヤ人の多さは、FDR政権とは比較にならない。閣僚となったユダヤ人は、ルービン財務長官、後任のサマーズ、オルブライト国務長官、アイゼンスタット国務次官、ホルブルック国連大使、グリックマン農務長官、ライシュ労働長官、カンター通商代表・商務長官、バーシェフスキー通商代表、バーガー国家安全保障担当大統領補佐官である。また中東政策担当者を務めたインディク中東担当国務次官補、ロス中東特使、ミラー中東特使らもユダヤ人だった。コーエン国防長官は父親がユダヤ人で、母親がアイルランド系だったが、ユダヤ教の環境で成長したので、ユダヤ系である。

 クリントン政権は、レーガン政権時代に膨らんだ「双子の赤字」を解消し、財政黒字に転じるほどの経済的成果を挙げた。この時の主要経済担当スタッフのうち、財務長官のルービン、同次官で後長官のサマーズに加えて、FRB議長のグリーンスパンの三人ともがユダヤ人だった。彼らは、巨大国際金融資本の意思を受けて、アメリカ財政の建て直しを推進したと思われる。

 クリントン政権にユダヤ人が多かったといっても、みなが同じ思想、同じ政策を持っているわけではない。しかし、一つ顕著な事実は、二期目のクリントン政権で1997年(平成9年)、マデレーン・オルブライトが国務長官に就任すると、アメリカはイスラエルからの輸入量を大幅に増やして巨額の貿易赤字を記録するようになったことである。これはイスラエルへの巨額の財政支援となった。ブッシュ子政権でもこれは続いた。ブッシュ子政権の親イスラエル外交は、急に始まったものではなく、クリントン政権でユダヤ人が政権中枢で多く活動するようになっていたのである。

●PNACによるアメリカの軍事革命論

 クリントン大統領は、イスラエルとアラブ諸国の融和に努力し、オスロ合意に貢献した。しかし、その政権の時代に、ネオコンが勢力を伸ばしていた。1997年にクリストルがケイガンとPNACを設立し、政府にイラク攻撃をけしかけ、アメリカの軍事力による世界制覇を要求していた。PNACは、2000年(平成12年)9月、つまり9・11の1年前に、『アメリカ防衛の再建〜新しい世紀のための戦略・力・資源』という出版物を刊行した。この文書に「ニュー・パールハーバー(新しい真珠湾攻撃)」という表現が登場する。ブッシュ大統領は、9・11の当日の日記に「ニュー・パールハーバー」という言葉を記した。PNACの文書を読んだか、その内容を聞いていたかしたのだろう。
 『アメリカ防衛の再建』は、軍事費の大幅な増加、国土安全保障局の設立、中東軍事基地の建設、宇宙の軍事化による軍事技術の革新など多岐にわたる提言をしている。そしてアメリカ政府に「軍事革命(RMA)の完遂」を求めている。この革命は、パクス・アメリカーナ、すなわち「アメリカの平和」を、より効果的に確立するための革命である。すなわち、アメリカが世界的な覇権を確立するために、抜本的な戦略転換を呼びかけるのが、『アメリカ防衛の再建』という文書である。

 ブッシュ子政権が9・11の翌年、平成14年(2002)に公表した「国家安全保障戦略」は、PNACによるアメリカ防衛再建の提言をほとんど取り入れている。さらに加えて、「われわれの最良の防衛は攻撃である」と言っている。ここに先制攻撃理論が提唱されている。
 宇宙の軍事化に重点を置いた「軍事革命」については、PNACによる『2020年のビジョン』と呼ばれる文書が、よりはっきりとその目的を述べている。
 文書は冒頭で、次のように言う。「アメリカの宇宙軍は、米国の利益と投下資本を守るために、軍事作戦による宇宙支配をするものである」と。この目的を達成する方法は、「全領域の支配」つまり「地球規模の戦闘空間の支配」である。「全領域の支配」とは、陸海空だけでなく、大気圏外の宇宙空間をも支配することである。つまり宇宙の軍事化による地球規模の支配を通じて、米国の利益と投下資本を守ることが、この軍事革命計画の目的である。
 PNACと9・11の関係については、別の拙稿「9・11〜欺かれた世界、日本の活路」をご参照願いたい。ここで指摘したいのは、ユダヤ人ネオコン・グループが主催するPNACが、アメリカの軍事革命、及び世界戦略に重大な影響を与えてきたという事実である。そして、ブッシュ子政権が遂行したアメリカが世界的覇権を確立するための抜本的な戦略転換は、同時にイスラエルの国益に合致し、イスラエルの安全保障をアメリカの富と権力で強化するものだった。ブッシュ子政権の誕生をもって、アメリカ政府をかつてないほどシオニスト化したのである。

●アメリカの国民をシオニスト化

 もともとアメリカの国民の多数は、郷土での自立した生活を重んじ、他国には不干渉をよしとする。アメリカ外交の伝統だったモンロー主義は、こうした意識に合っているわけである。政党で言えば、この立場が共和党であり、反対に海外に積極的に出て行こうとするのが民主党である。第1次大戦も、第2次大戦も、朝鮮戦争そしてベトナム戦争も、民主党政権のもとで、アメリカは海外の戦争に参戦した。大雑把に言えば、共和党はアイソレーショナリズム(不干渉主義)、民主党はグローバリズム(地球覇権主義)の傾向がある。ネオコンは民主党から共和党に移って、共和党にグローバリズムを浸透したのである。ブッシュ父政権は湾岸戦争を起こし、ブッシュ子政権はアフガン=イラク戦争を起こしたが、これらはそのグローバリズムの表われである。
 しかし、いかにアメリカ政府を親イスラエル化・シオニスト化したとしても、国民の理解と支持がなければ、国家全体は動かない。イスラエル、ロスチャイルド家、ネオコン・グループは、同時にアメリカの大衆への働きかけも進めていた。アメリカでは、イスラエルの極右政党のように戦闘的なシオニズムをそのまま打ち出したのでは、大衆の賛同は得られない。そこで彼らはクリントン政権時代から、アメリカの新保守主義という姿を取って、キリスト教の保守派を取り込む活動を進めた。キリスト教徒をシオニスト化する活動である。

 キリスト教の宗派の中でも、カルヴィニズムは、神を絶対的な権威とし、人間を全く無力な存在とする。カルヴァンの予定説は、神の意思の絶対性を極限まで強調するものである。カルヴィニズムはまた人間が作った儀式や図像を偶像崇拝として徹底的に排除する。ユダヤ教の聖典であるトーラー(モーゼ五書)を含む聖書を信仰の根本とする。こうした点で、カルヴィニズムは、ローマ・カトリック教会を批判することで、キリスト教の再ユダヤ教化を進めたという一面を持つ。
 アメリカの初期開拓者ピルグリム・ファーザーズは、カルヴィニズムのイギリス的形態であるピューリタニズムの信奉者だった。彼らを祖とするアメリカ社会では、カルヴィニズム的プロテスタントが主流となっている。それゆえ、シオニストにとって、アメリカのキリスト教を一層ユダヤ教に近づけ、イスラエルは絶対に守るべき聖なる国家という意識を国民に広げることが、容易だったのだろう。

●イスラエル・ロビーがアメリカの政治を誘導

 ここで重要なのが、イスラエル・ロビーの存在である。今日、アメリカでは、イスラエル・ロビーが最大のロビー団体となり、アメリカの外交政策に強い影響を与えている。イスラエル・ロビーは政府・議会・政治家に積極的に働きかけ、アメリカの政策をイスラエルに有利なものに誘導している。ユダヤ系アメリカ人の一部のほか、非ユダヤ系キリスト教徒も活動している。彼らの活動の目的は、アメリカの外交をイスラエルに有利なものに導くことである。そして、イスラエル・ロビーはアメリカ=イスラエル連合を絶ち難いまでに確固としたものすることに成功している。
 こうした状態を危惧するアメリカ国民の中から、合衆国政府はアメリカの国益よりもイスラエルの国益を優先しているという批判が上がっている。高名な国際政治学者ジョン・ミアシャイマーとステファン・ウォルトによる『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』(講談社、2007年)は、言論界に一石を投じた。著者たちは、イスラエル・ロビーの強い影響力により、アメリカの政策論議は合衆国の長期的安全保障を損なう方向に向かっていると主張する。イスラエル・ロビーの団体は、極右政党リクードに近い団体・個人で構成されていると指摘。他の団体・個人との境界線は曖昧で、多くの学者、シンクタンク、政治活動委員会、ネオコン・グループ、キリスト教団体等がロビー活動を支援しているという。
 これに対し、イスラエル・ロビーとその支援者は、ミアシャイマーとウォルトに「反ユダヤ」のレッテルを貼りつけ、批判の拡大を封じる動きをしている。私の見るところ、著者たちのネオコンへの突っ込みは深くない。またシオニズムへの批判も徹底したものではない。それでも「反ユダヤ」として攻撃されるところに、今日のアメリカの言論状況があるのだろう。

 イスラエル・ロビーは、ロスチャイルド家やユダヤ系金融資本家を資金源とし、潤沢な資金を持つ。また、そこにはユダヤ人の優秀な頭脳が集まっている。彼らによってイスラエルを批判しているとみなされた者は、選挙で落とされる。そのため、いまやアメリカのほとんどの政治家は、共和党・民主党にかかわらず、イスラエル・ロビーの主張に同調したり、イスラエルの外交政策を支持したりするようになっている。わが国で言えば、在日韓国人・朝鮮人団体や部落解放同盟が、政党や政治家に圧力をかけ、政治や教育、報道をゆがめているのと似た点がある。イスラエル・ロビーは、もちろんわが国における動きを遥かに上回るスケールで活動している。
 2008年(平成20年)の大統領選挙においても、有力候補者たちは、早々にイスラエル支持を表明した。共和党のジョン・マケイン、ルドルフ・ジュリアーニ、ミット・ロムニーら、民主党のバラク・オバマ、ヒラリー・クリントン、ジョン・エドワーズら、みなそうだった。
 同年末、イスラエルは突然、パレスチナ自治区ガザを攻撃し、多数の一般市民を殺傷した。明けて09年(21年)1月22日、オバマ大統領は、就任後初めて中東情勢に言及した。オバマは、ガザ攻撃での無差別大量虐殺を批判することなく、イスラエル支持の姿勢を鮮明にした。プロテスタントの黒人大統領は語った。「はっきり言います。アメリカはイスラエルの安全にコミットします。脅威に対するイスラエルの自衛権を支持します」と。オバマもまた、イスラエル・ロビー及びその背後にいる巨大国際金融資本の意思に応えていることがこうした発言からうかがえるのである。オバマ政権は中東和平に意欲を示しているが、最初から親イスラエルのスタンスで臨むのでは、公平な仲裁者の役割は担えないだろう。ガザ攻撃は、アメリカの新大統領に親イスラエルのスタンスを明確化させるための圧力だったのかもしれない。

●ユダヤ系アメリカ人の一部が強力に活動

 1960年代半ばから、イスラエルはアメリカの政界・議会へのロビー活動を活発に行い、アメリカ指導層をイスラエル支持に固めていった。今やアメリカの指導層は、イスラエル政府の外交政策を支持する親イスラエル派やシオニストが主流を占めている。キリスト教保守派の多くは、イスラエルを守るべき国とし、キリスト教とユダヤ教の結びつきは強化されている。
 ネオコンの親イスラエル的・シオニスト的な戦略が、イスラエル・ロビーの支持するものとなっているのは、言うまでもない。しかし、これをユダヤの陰謀と見るべきではない。ユダヤ人ネオコン・グループは、アメリカに住むユダヤ人の多数派ではない。アメリカには、約530万人のユダヤ人がいるというが、ユダヤ系アメリカ人の7割以上は、イラク戦争に反対している。ユダヤ系といっても、彼らの思想は多様である。ユダヤ教徒だけでなく、キリスト教徒や唯物論者もいる。ユダヤ教の信仰においても、伝統保守派もいれば改革派もいる。政治的にも穏健派から過激派まで、多様な意見がある。また、もともとユダヤ系アメリカ人には、民主党支持者でリベラル(修正自由主義的)な思想を持つものが多い。
 だから親イスラエル的・シオニスト的でかつ闘争的なユダヤ人は、ユダヤ系アメリカ人の一部である。しかし、彼らはイスラエルの強硬派と結びつき、強力な活動をしている。そしてその背後には、ロスチャイルド家、及びユダヤ系の国際金融資本家がいる。
 ロスチャイルド家は、欧米の多くの財閥の子孫が遺産相続人として巨大な資産を有する投資家となっているのと異なり、直系相続人が多数、第一線でビジネスマンとして活動している。世界の金価格は現在もロンドンのシティにあるロンドン・ロスチャイルド銀行で決定されている。そして、イギリス、フランスのロスチャイルド家に、欧米のユダヤ系投資銀行が創業者以来、これと姻戚関係でつながっている。現代世界で活躍してきたユダヤ系投資銀行は、ゴールドマン・サックス、ソロモン・スミス・バーニー、ウォーバーグ・ディロン・リード、シュローダー・グループなどである。これらは2008年(平成20年)世界経済危機を経て業務形態を変えつつあるが、ユダヤ系金融業者は横の連携を取りつつ、富の獲得と拡大に活躍している。
 ロスチャイルド家、及びユダヤ系の国際金融資本家は、その豊富な資金力・情報力を用いて、ユダヤ系アメリカ人のシオニストやネオコンを支援している。それはイスラエルやユダヤ人の利益となるとともに、彼らの私的事業の利益にもなるからだろう。

●キリスト教終末論の影響

 もう一つ私がアメリカの親イスラエル化・シオニスト化に重要な働きをしただろうと思うものは、キリスト教的終末論である。キリスト教的終末論とは、人類の滅亡を説くものとは違う。世の終わりに、キリストが再臨し、最後の審判が行われて、救済が実現するというものである。なかでもヨハネの黙示録は、善と悪の最終戦争が行われた後、神が降臨し、正しい者のみが救われ、千年王国が建設されることを、象徴的な表現で描いたものとされる。
 終末論は、キリスト教圏で歴史上、繰り返し高揚した。それが、20世紀から21世紀への世紀の変わり目に再燃した。クリントン政権の末期、西暦2000年は、ミレニアム(千年紀)運動が高揚した年だった。キリスト教的終末論において、特別の意味を持つのが、イスラエルの存在である。聖書の解釈の仕方の一つに、世の終わりが近づいた時、救世主(メサイア)が再臨する前に、カナンの地にユダヤ人の国家が建設されるというものがある。その国家がイスラエルであると考える一部のキリスト教徒にとって、イスラエルは絶対に守らなければならない国家となる。こうしてユダヤ教の強硬派とキリスト教的終末論が結びつき、アメリカとイスラエルの連合は、不離一体のものとなった。この強力な連合に戦略を与えたものが、ネオコンの理論なのである。
 ネオコン理論の影響の下、アメリカの社会にシオニストのキリスト教徒が増加し、キリスト教が復興・活発化するととともにシオニズムも拡大・増強するという構造が生まれたと考えられる。
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第8章 21世紀アメリカの衰退

(1)オバマの危うい挑戦

 

●オバマ新大統領もCFR会員が取り巻く

 2008年(平成20年)11月の大統領選挙で、アメリカ初の黒人大統領が誕生した。バラク・オバマである。15世紀以来白人種の優勢が続く歴史の中で、有色人種からアメリカ合衆国の大統領が出たことは、文明史的にも画期的なことである。
 オバマは、共和党のジョン・マケインと戦って、これを破った。マケインは、ブッシュの外交・軍事政策を支持・継承する立場で、自説を主張した。選挙戦の中盤までは、両候補のどちらが勝つか予断を許さなかった。しかし、08年9月、リーマンブラザーズの倒産に始まる世界的な経済危機が襲うと、「Change(変革)」をスローガンに掲げるオバマを支持する国民が急速に増えた。そして、本年(2009年、平成21年)1月、民主党による新たな政権がスタートした。
 アメリカの大衆の多くは、「Change(変革)」を求めている。しかし、オバマ大統領が変革の旗手として、大胆な変化を生み出し得るかどうかは、じっくり様子を見る必要がある。

 その様子の見方だが、まずCFRとの関係から言えば、オバマは、自分はCFRの会員ではないと公言している。しかし、CFRの機関誌『フォーリン・アフェアーズ』に論文を寄せており、CFRと無関係ではありえない。ちなみに、大統領選を戦った共和党のマケインはCFRの会員であり、予備選の段階で、民主党の指名候補者だったヒラリー・クリントン、ジョン・エドワーズも、同じく共和党のミット・ロムニー、ルドルフ・ジュリアーニは、みなCFRの会員である。
 オバマ政権の閣僚には、ビル・クリントン政権の時のスタッフが多く起用されている。最高の大物は元大統領夫人のヒラリー・クリントンである。ヒラリーは国務長官として、これからのアメリカ外交を担う。彼女は、CFRの会員であり、TCの会員でもある。さらにビルダーバーグ会議の参加者でもある。CFR、TC、BCの三つすべてに参加している政治家は、アメリカでも少ない。ヒラリーが米欧の所有者集団にとって、重要な経営者であることの証である。ヒラリーは、所有者集団には未知数のオバマという指導者を抑え、操作するための要となるだろう。
 国務長官に並ぶ要職・国防長官には、オバマはロバート・ゲイツを任命した。ゲイツは、ブッシュ子政権後半の国防長官である。オバマはブッシュの戦争政策を厳しく批判して大統領になったのだから、ブッシュのもとでアフガン戦争及びイラク戦争を指揮した人間を留任させることは、普通に考えるとありえない選択である。ゲイツはレーガン政権のCIA副長官として、アメリカが敵国イランに武器を輸出したイラン・コントラ事件に関わった。ブッシュ父の政権ではCIA長官となり、父子2代に仕えてきた人物でもある。民主党のオバマにとっては、まず排除すべき存在ではないか。
 しかし、このゲイツもまたCFRの会員なのである。歴代政権で政党が変わっても、CFRから多くの人材が一貫して供給されてきたことが、オバマ政権でも繰り返されているのである。
 次に触れるオバマ政権の重要経済閣僚ティモシー・ガイトナー、ポール・ヴォルカーもCFRの会員である。

●経済危機に対処する主要経済閣僚の顔ぶれ

 オバマ大統領は、「Change(変革)」をスローガンに掲げて大統領の座を獲得した。時あたかも、1929年の世界恐慌以来の経済危機の真っ最中である。同政権がどのような経済政策を行うか、そこに世界経済の行方が深く係っている。そこで、オバマ政権の経済担当閣僚の顔ぶれが注目される。
 財務長官にはティモシー・ガイトナー、国家経済会議(NEC)委員長にローレンス・サマーズ、新設の経済回復諮問委員会委員長にポール・ヴォルカーが任命された。彼ら3人が、これからアメリカの経済危機に対処する主要経済閣僚である。彼らがFRB議長のベン・バーナンキとともに、経済政策を動かしていく。
 ガイトナーはCFRの会員であり、ビルダーバーグ・クラブのメンバーでもある。彼の父親は、フォード財団の主任研究員だった。ガイトナーはダートマス大学、次いでジョンズ・ホプキンズ大学大学院でアジアの地域研究を専攻した。卒業後、ヘンリー・キッシンジャーのコンサルタント会社キッシンジャー・アソシエイツに就職した。その後、ガイトナーは財務省に入り、国際担当の財務官僚として頭角を現す。そして、クリントン政権下、1999年から2001年(平成11〜13年)にかけて、ロバート・ルービン、ローレンス・サマーズという2人の財務長官の下で、国際担当財務次官を務めた。その時の長官であるサマーズとともに、今回オバマ政権のスタッフとなった。

 ガイトナーは財務次官時代、1997年(平成9年)のアジア通貨危機において、巨大国際金融資本のアジア市場進出に寄与した。とりわけ韓国を国際通貨基金(IMF)の管理下に置くことを主張した。98年(10年)、アメリカとの「マネー戦争」に大敗した日本に対しては、不良債権処理を迫った。 わが国及びアジア諸国にとっては、手ごわい相手である。
 ガイトナーは、ブッシュ子政権時代には、財務省を離れて、CFRの国際経済担当の上級研究員となった。CFRで経済政策を立案する主要メンバーなのである。2003年(平成15年)に、ガイトナーは、ニューヨーク連邦準備銀行の総裁となった。07年(19年)からのアメリカ経済危機では、J・P・モルガン・チェイスのベアースターンズ吸収の仲介や金融業界の規制見直し、リ−マン・ブラザーズの破綻における政府の決定などに重要な役割を果たしてきた。その実績を買われて、オバマ政権で財務長官になった。
 こうした経歴から、ガイトナーはキッシンジャーの人脈に連なる人物であり、さらにその後ろ盾・ロックフェラー家の庇護を受けていると推測される。またゴールドマン・サックスの共同会長だったルービンの下で財務次官を務めたことや、連邦準備制度(FRS)の主要銀行であるニューヨーク連銀の総裁だったことから、ウォール街に集結する米欧の巨大国際資本の意思を体した経営者と見てよいだろう。

●オバマは「Change」をなしうるか

 ガイトナーとともにオバマ政権の経済閣僚となった大物の一人が、国家経済会議(NEC)委員長のサマーズである。サマーズは、クリントン政権で市場を尊重し自由貿易の維持を主張していたルービンの後任として財務長官を務めた。サマーズは、ルービンと政策的に近く、新自由主義とグローバリズムの信奉者として知られる。中国を重視したクリントン政権で対外経済関係を担当し、日本には内政干渉に近いほど厳しく、不良債権処理や減税、公的資金の投入を要求した。
 ルービンもサマーズもユダヤ人である。サマーズはビルダーバーグ・クラブの会員である。ルービンは2007年(平成19年)からCFRの共同理事長となっている。
 次に、オバマ政権の経済回復諮問委員会委員長ヴォルカーは、カーター、レーガン両政権下でFRB議長を務めた。レーガノミックスを主導し、金融引き締め策でインフレを鎮圧したと評価されるが、景気回復は一時的で、赤字は再び膨らんだ。ヴォルカーはFRB議長となる前は、ロックフェラー系のチェイス・マンハッタン銀行の副社長だった。CFRの会員であり、TCでは事務局長、北米議長を務めた。ビルダーバーグ・クラブの会員でもある。ロックフェラーとロスチャイルドが相乗りで買収した旧長銀、新生銀行のシニア・アドバイザーともなっている。

 ガイトナー、サマーズ、ヴォルカーーーオバマ政権の主要経済閣僚には、共和党のレーガン政権に居た者や民主党のクリントン政権に居た者がいる。一見異なる理念と経済政策をもった人間の寄り集まりのようである。しかし、彼らには共通項がある。彼ら三人は、みなビルダーバーグ・クラブの参加者であることである。またガイトナーとヴォルカーはCFRの会員であり、サマーズもCFRに近い位置に居る。
 アメリカでは、経済政策は、政府よりも連邦準備制度(FRS)が実権を握っている。FRSは、米欧の巨大国際金融資本の連合による国際経済管理機構である。現在のFRB議長は、ブッシュ子政権の途中から担当しているベン・バーナンキである。バーナンキは、プリンストン大学の教授だったが、ブッシュ子政権下でFRBの理事となり、2006年(平成18年)に議長となった。
 前任者は、それまで18年間FRBに君臨したアラン・グリーンスパンである。グリーンスパンは、今日の住宅バブル、石油バブルを招いた責任を問われている。バーナンキはグリーンスパンを批判するのでなく、基本的にグリーンスパンの路線を踏襲している。結果が良くなかった部分を是正するという対応である。グリーンスパン、バーナンキはともにユダヤ人であり、ユダヤ系金融資本、さらにロスチャイルド財閥、ロックフェラー財閥につながっている。

 オバマ大統領は、「Change(変革)」をスローガンに掲げ、共和党に替わって、民主党による新たな政権を樹立した。しかし、これまで書いてきたように、アメリカの二大政党の後には、巨大国際金融資本が存在する。私は、オバマもまたアメリカの歴代大統領と同様、アメリカ及び西欧の所有者集団の意思に妥協・融和せざるをえないだろうと予想する。
 オバマにせよ、今後のアメリカの大統領にせよ、アメリカを「Change(変革)」しようとするならば、その挑戦はアメリカの政治構造の変革へと進まざるを得ない。そして、もし本気で挑戦しようとすれば、ケネディ大統領暗殺事件から9・11に至る多くの事件の真相を究明することなくして、変革を成し遂げることはできないだろう。とりわけ9・11の真相究明が重要である。

(2)アメリカに寄生する勢力

 

●アメリカの政治構造

 ここでアメリカの政治構造について補足したい。わが国は、議院内閣制を取っている。総理大臣は、国民の選挙で選ばれた国会議員の中から選出される。内閣の閣僚も多くは、国会議員から任命される。民間から入閣する閣僚は、ごく少ない。日本人には、アメリカの政府も同じようなものと見ている人が多い。しかし、アメリカは全く違う。
 アメリカの大統領は、連邦議会の議員とは関係なく、立候補できる。戦後の大統領は、ケネディやオバマのように上院議員からなる場合より、州知事からなる例のほうが多い。カーター、レーガン、クリントン、ブッシュ子等がそうである。日本では、県知事が直接総理大臣になることはできない。アイゼンハワーは陸軍退役後、大学の学長から大統領になった。日本では、東大の学長がいきなり首相になることはない。
 次に重要なことは、アメリカの大統領は、議会に関係なく、閣僚を選ぶことである。議会の承認はいるが、裁量は大きい。議員から閣僚を選ぶ場合もあるが、民間人から選ぶことが非常に多い。わが国の外務大臣に当たる国務長官、防衛大臣に当たる国防長官、財務大臣に当たる財務長官を始め、CIA長官、商務長官、国家安全保障担当補佐官等、政府の要職の多くに民間人が就く。学者がなる場合もあるが、財界人が政府の要職に就く例が目立つ。大手投資銀行の会長、巨大財団の理事長、石油会社や軍需企業の役員等が、選挙による国民の信任を受けることなく、国政を動かす立場になれてしまう。
 わが国でも、財界人や学者が大臣になることはあるが、その例は少ない。たとえば、日本財団の会長が外務大臣、三菱重工の社長が防衛大臣、野村證券の社長が財務大臣になって、閣僚にずらりと財界人が並ぶことは、ありえない。

 アメリカ合衆国の政治構造を理解するには、上記のことを踏まえる必要があると思う。大統領は国民が選ぶが、閣僚は大統領が議員にかかわりなく選ぶ。この仕組みを利用すれば、大統領候補を支援する財界人が、当選後大統領に圧力をかけることで、実質的に政権スタッフの陣容を決めることさえできる。実際、政権の変わる度に、財界人のグループが入れ替わり立ち代り、政府の主要部分を構成している。
 アメリカの連邦政府は、大統領を中心とした行政組織というより、財界を基盤とした行政組織と見たほうがよいと思う。国民が選んだ大統領が自由に組閣するというより、むしろ財界人やその代理人が政府の要所を占める。政治の実権を握っているのは財閥であって、大統領は表向きの「顔」のような存在となっている。国民が選んだ「顔」を掲げてあれば、政府は機能する。だから、誰が大統領になっても、所有者集団は自分たちの利益のために、国家の外交や内政を動かすことができる。このようになっているのが、アメリカの政治構造だと思う。

●所有者集団は合法的に意思を実現

 大統領には、もちろん独自の意思があり、政策や判断がある。単なるロボットや操り人形ではない。だから、大統領と財界人グループとのぶつかり合いはある。しかし、大統領には大きな枠がはめられている。権限のうち最も強い権限は人事権だが、人事権を実質的に限られていれば、大統領の出来ることは、かなり制約される。なぜ人事権を握られているかというと、アメリカの大統領選挙には、莫大な費用がかかる。資金を提供してくれるスポンサーに対して、大統領はその意思を受け容れ、応えざるを得ない。
 アメリカは、実質的な二大政党制である。国民は二つの大政党が立てる候補のどちらかを選ぶ。片方が駄目だと思えば、もう片方を選ぶ。そういう二者択一の自由はある。しかし、アメリカでは、大統領が共和党か民主党かということは、決定的な違いとなっていない。表向きの「顔」である大統領が赤であれ青であれ、所有者集団は外交・国防・財務等を自分たちの意思に沿うように動かすことができる。共和党・民主党という政党はあるが、実態は政党の違いを越えた「財閥党」が後ろから政権を維持・管理していると考えられる。
 わが国では、財界人が政治に影響力を及ぼそうとすれば、政治家と料亭で食事をしたり、懇談会をしたりして意見を述べなければならない。しかし、アメリカでは、自分たちやその代理人が直接外務大臣や防衛大臣や財務大臣になる。大統領のスタッフとして、日常的に意見を言い、自分たちの意思を、大衆向けの「顔」としての大統領に言わせるようにすることができる。

 アメリカは三権分立の国家であり、連邦議会も存在する。連邦議会は立法組織であり、行政や司法とは独立した自立的組織である。財界人グループないし大統領が、こうしたいと打ち出しても、議会は否決することがある。そこがアメリカのリベラル・デモクラシーの特徴であり、アメリカは「財閥党」による独裁国家ではない。自由民主主義の仕組みの中で、所有者集団は、自分たちの意思を合法的に、または違法とされない範囲で実現しようとするわけである。
 ここで重要なことが、連邦議会の議員に対する働きかけである。資金力や情報力によって、議員に圧力をかけ、また利益を提供することにより、大多数の議員を協力者にすることができる。これに最も成功しているのが、イスラエル・ロビーとその背後にいるユダヤ系を中心とした巨大国際金融資本である。
 意思の実現のためにもう一つ重要なことは、マスメディアの利用である。大衆の政治意識は、マスメディアの情報によって、大きく左右される。だから金融資本は、新聞・雑誌・テレビ等のマスメディアを所有し、情報を操作している。アメリカは、統制国家ではないから、表現の自由はある。しかし、流れる情報の量を管理すれば、大衆の意識を方向付けることができる。多少の反対意見があっても、大勢には影響しない。
 こうして自由の国・アメリカにおいては、国民の自由と権利は保障されつつ、富と権力を所有する集団の意思が合法的に実現される。そういう構造が出来上がっていると考えられる。
 わが国には、明治以来、立憲君主制のもとで議会政治が行われてきた。帝国憲法は、臣民に一定の自由と権利を保障しており、この体制はデモクラシーの日本的形態だった。大東亜戦争の敗戦後、わが国には、アメリカからGHQ製翻訳憲法の押し付けとともに、アメリカ型のリベラル・デモクラシーが強制移植された。しかし、もとになるアメリカの政治構造とは、上記のようなものである。アメリカ的な価値観や制度を無批判に取り入れ、模倣するのは、愚者の道である。

●ロックフェラー財団から政府中枢へ

 先にアメリカ合衆国では、共和党・民主党という政党はあるが、実態は「財閥党」が政権を維持・管理していると書いた。その例証を三つ挙げたい。
 一つ目の例は、ロックフェラー財団である。ロックフェラー家は6400億ドル(1ドル=100円として64兆円)の財産を管理し、アメリカの10大メーカーのうちの6社、10大保険会社のうちの6社、多国籍企業200社を支配している。その資産は全米国民総生産の50%を越えるといわれる。
 ロックフェラー家はアメリカの政治を動かすために、ロックフェラー財団と関係の深い人材を送り、財団に有利なように連邦政府の政策に影響を与えてきた。ケネディ・ジョンソン両政権の国務長官だったディーン・ラスクは、ロックフェラー財団の理事長だった。カーター政権の国務長官サイラス・ヴァンスも、同財団の理事長だった。他にも財団の関係者が政府の要職に就いている例は多い。
 カーター政権の国家安全保障担当大統領補佐官だったブレジンスキーや、ニクソン・フォード両政権の同担当大統領補佐官及び国務長官だったキッシンジャーは、デイヴィッド・ロックフェラーとの関係が深かった。カーターは民主党、ニクソン、フォードは共和党だが、政党に関わりなく、デイヴィッドは、自分の意思と利益を理解している人材を、政権に配置していたわけである。歴代政権にCFRやTCの会員が多いことを見てきたが、デイヴィッドはこうした組織を通じて、他にも多数の人材を経営者として政府に送ってきた。
 ロックフェラー家から、直接政界に乗り出した人間もいる。なかでもデイヴィッドの兄ネルソンは、ニューヨーク州知事を経て、1960年代に三度にわたって共和党の大統領候補を目指した。1960年にはニクソンに指名を奪われた。1969年に大統領になったニクソンがウォーターゲイト事件で辞任し、副大統領から昇格したフォードは、ネルソンを副大統領に指名した。ネルソンが副大統領だった時代、ロックフェラー家の意思を体得したキッシンジャーが国務長官として外交を担当し、同じくブッシュ父がCIA長官として諜報活動を統括した。副大統領はあまり力を持てなかったとはいわれるが、ネルソンが大統領の横にいることで、ロックフェラー家が相当の影響力を及ぼしたことは想像に難くない。

●同時に国務長官・国防長官を出したベクテル

 二つの目の例は、ベクテル社である。世界一の建設業者ベクテル社は、全世界の石油メジャー精製プラントのほとんどを建設し、原子力発電所の半分を建設し、石炭火力発電所と大型ダムを建設してきた。超巨大ゼネコンである。ベクテル社は、レーガン政権の国務長官と国防長官を生み出した。
 ベクテル社の2代目スティーブン・ベクテルは第2次大戦後、友人のジョン・マコーンと別会社ベクテル・マコーン社を作った。共同経営者のマコーンはトルーマン政権の国防長官となり、アイゼンハワー政権で原子力委員会委員長、ケネディ政権でCIA長官になった。それ以後も、ベクテルは国家指導層と密接に連携し、便宜供与を受けてきた会社である。
 レーガンを共和党の大統領候補に担ぎ出したのは、スティーブン・ベクテルだった。そして、レーガンが当選すると、ベクテル社から国務長官にジョージ・プラット・シュルツ、国防長官にキャスパー・ワインバーガーが就いた。
 シュルツはニクソン政権で労働長官、財務長官を務めた。ワインバーガーも同政権で保健教育福祉長官を務めた。ニクソン失脚とともに二人は政府を離れ、ベクテル社の社長・副社長に就任した。そして1980年の大統領選挙運動で、レーガン陣営を取り仕切った。彼らが経営するベクテル社は、レーガンに大口の寄付を行った。レーガンが大統領になると、シュルツは国務長官、ワインバーガーは国防長官になった。一企業の社長・副社長コンビが、政府の外交と軍事を担うことになったわけである。これほどあからさまに一つの企業が大統領の権力と結びついたことは、かつて例がなかった。
 レーガンの選挙には、デイヴィッド・ロックフェラーが巨額の選挙資金を提供した。デイヴィッドの意思を入れて、レーガンは、ブッシュ父を副大統領候補に指名した。シュルツ、ワインバーガーのベクテル・コンビが国務長官と国防長官となるには、デイヴィッド・ロックフェラーの要望または了解があったはずである。ベクテル社は、ロックフェラー財閥の傘下の企業であり、シュルツとワインバーガーは、ともにデイヴィッド肝いりのCFRとTCの会員だった。
 ベクテル社は、その後も政治との関わりを維持している。たとえば、湾岸戦争のとき、統合参謀本部議長としてアメリカを勝利に導いたコリン・パウエルは、退任後、ベクテルの役員になった。その後、ブッシュ子政権の国務長官となった。ブッシュ父政権で、米国通商代表部代表として日本に強硬な要求を突きつけたカーラ・ヒルズは、ベクテルの理事に就任した。全世界に施設と人脈を持つベクテル社は、CIAと連携・協力していることでも知られる。今日もベクテル社は、元CIA長官のリチャード・ヘルムズ、ウィリアム・ケイシーを顧問にするなど、政界や情報機関とのコネクションを誇っている。

●現在最も活動が目立つのはゴールドマン・サックス

 三つ目の例は、ゴールドマン・サックスである。近年、アメリカで政権への参加が最も目立つ企業が、ゴールドマン・サックスである。ゴールドマン・サックス(GS)は、ドイツ系ユダヤ人マーカス・ゴールドマンが設立した銀行で、もとはロスチャイルド財閥との関係が深かったが、現在はロックフェラー財閥とも融合している金融機関である。1990年代からウォール街を代表する投資銀行として巨大化した「強欲資本主義」(神谷秀樹氏)の象徴的存在である。2008年(平成20年)の経済危機で、生き残りのために商業銀行に変わった。
 ゴールドマン・サックスの共同会長だったジョン・ホワイトヘッドは、レーガン政権のシュルツ国務長官のもとで国務副長官を務めた。やはりGSの共同会長だったロバート・ルービンは、クリントン政権の財務長官になった。ルービンはクリントンの選挙参謀として資金集めに奔走した。クリントンが大統領になると、経済担当補佐官から財務長官となった。
 ニクソン政権の国防総省高官だったヘンリー・ポールソンは、ゴールドマン・サックスに入って会長兼最高経営責任者(CEO)を務め、その後、ブッシュ子政権の財務長官になった。ブッシュ子政権では、大統領補佐官スティーブン・フリードマンがGSの元共同会長、首席補佐官ジョシュア・ボルテンは元エグゼクティブ・ディレクターだった。米商品先物取引委員会委員長ジェフリー・ルーベンも、ゴールドマン社出身である。国務副長官だったロバート・ゼーリック、国家安全保障補佐官だったファリア・シルザドは、退職後、GSに雇用された。
 彼らは一個人として、GS社員から政治家へ、あるいは政治家からGS社員へと転職したわけだが、GSという会社にとっては、アメリカの政治・経済を動かす人間を送れば、その人脈によって自社に有利な情報を得たり、政策を誘導したりできる。また政府要職にあった人間が自社に入って重役に就けば、それが同社の強みになる。

 ロックフェラー家では、デイヴィッド・ロックフェラーとその甥のジョン・デイヴィソン "ジェイ" ロックフェラー4世との間で、世代交代の争いが行われているようである。ジェイは、初代以来の直系の長男の長男であり、ウェストヴァージニア州選出の民主党上院議員である。
 2008年の経済危機でデイヴィッドが所有者として支配してきたシティ・グループは、大きな打撃を受け、その系列のメリルリンチ、リーマン・ブラザーズは経営破綻した。
 一方、ジェイが所有者であるゴールドマン・サックスは、サブプライムローン危機でほとんど損害を受けず、逆に勢力を増した。ブッシュ子政権の財務長官となったポールソンはGS出身らしく、シティ・グループよりGSに有利な政策を決定した。GSが政治に影響力を強めていることは、デイヴィッドからジェイへと、ロックフェラー家の実権の移動がうかがわれる。

●アメリカにおける政治の実態

 覇権国家アメリカの政策は、巨大国際金融資本家や石油や軍事等の多国籍企業の経営者たちによって、ほとんど決められている。これらの所有者・経営者の集団が、支配集団をなしている。彼らは、アメリカの大統領を選ぶだけではなく。大統領顧問団や政策までも決定する力を持っている。そして、誰が大統領かに関係なく、大統領を管理し、アメリカという国家を実質的に支配し続けている。彼らは、しばしば直接政府の要職に就いて、政府を動かしてもいる。彼らの多くは、自らがCFR、ビルダーバーグ・クラブ、TCの会員であり、また彼らの意思を理解する優秀な人材をこれらの組織に参加させ、政府に送り出している。
 こうした政治支配を可能にしているのは、莫大な富、資金力である。アメリカの財閥は、18〜19世紀に巨富をなした家が多い。鉄道王ヴァンダービルト、その親族のホイットニー、不動産王アスター、死の商人デュポン、鉄道王ハリマン、鉱山王グッケンハイム、金融王モルガン、石油王ロックフェラー、石油王メロン等は、巨額の資産を子孫が相続している。個人相続税が設けられる前に、こうした財閥・富豪が出来上がった。アメリカの所有者集団は、免税財団を作ることで、課税をまぬかれ、その富を維持し続けている。

 多くの財閥・富豪は所有者として資産の運用を、経営者に任せている。資産家の資金を運用するのは、信託基金(トラスト)の管理者やウォール街の投資専門家たちである。こうした経営者たちは、遺産資金の運用を委託されている立場である。資産の運用を成功させるには、銀行や企業の活動だけでは足りない。政府そのものを支配し、国家という組織を操って、より大きな富を生み出し、またその富を守ることができる。
 ヨーロッパの政府は、歴史的に王家の政府だった。デモクラシーの発達によって、政府に労働者集団が参加するようになっても、基本的な構造は変わらない。これに対しアメリカは、連合王国イギリスから独立した国王のいない国家である。その国家の政府は、資本家の政府である。大統領が国民によって選挙で選ばれても、所有者集団が政府を管理する構造は変わっていない。これが資本主義であり、また自由民主主義の実態である。
 資本主義に替わるものとして、20世紀に期待された共産主義は、一部の知識人党派が権力を手にし、新たな所有者集団に成り代わるものでしかなかった。しかも、巨大国際金融資本は、共産主義を育成・支援して、富を産む機構に取り込んでいた。共産主義は国家統制的資本主義であって、いわゆる資本主義との差は、自由主義的か統制主義的かの違いにある。それゆえ、21世紀に資本主義に替わるものが共産主義ではありえない。従来の資本主義ではなく、また共産主義でもない新たな経済体制が創出されなければならない。

結びに

現代の世界は、その支配構造から理解しないと、歴史の深層をとらえられない。表層だけでなく深層の側からも現代世界史を見ることで、人類の課題を明確にすることができる。本稿は、2009年(平成21年)5月時点までの内容だが、ここに書いたことは、以後の世界の動向を見る際の視座をすえるものとなるだろう。5年後、10年後、30年後と、世界的な指導者や米国政府の陣容は交代して行くだろうが、今のままでは基本的な支配構造は継続するだろう。その構造を変えることが、21世紀人類の重要課題となっている。ページの頭へ

 

関連掲示

・拙稿「西欧発の文明と人類の歴史

・拙稿「現代の眺望と人類の課題

・本稿の主題と関わる日米の経済関係については、別の拙稿「アメリカに収奪される日本〜プラザ合意から郵政民営化への展開」に書いた。

 

参考資料(主なもの)

  河出書房版『世界の歴史』第24巻(河出文庫)

  中央公論社版『世界の歴史』第29〜31巻(中央公論社)

・宮崎正勝著『文明ネットワークの世界史』(原書房)

・『一冊でわかる イラストでわかる 図解世界史』(成美堂出版)

  歴史の謎研究会編『日本と世界の近現代史がこの1冊でわかる!』(青春出版社)

  池上彰著『そうだったのか! 現代史』(集英社文庫)

  浜林政夫+野口宏著『ドキュメント戦後世界史』(地歴社)

  アーノルド・トインビー著『試練に立つ文明』(社会思想社)、『現代が受けている挑戦』(新潮社)

・ヘンリー・キッシンジャー著『キッシンジャー秘録』(小学館)

・ズビグニュー・ブレジンスキー著『ブレジンスキーの世界はこう動く―21世紀の地政戦略ゲーム』(日本経済新聞社)、『ブッシュが壊したアメリカ』(徳間書店)

・サミュエル・ハンチントン著『文明の衝突』(集英社)、『文明の衝突と21世紀の日本』(集英社新書)、『引き裂かれる世界』(ダイヤモンド社)

  ジョン・ミアシャイマー+ステファン・ウォルト著『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』(講談社)

  エマニュエル・トッド著『帝国以後 アメリカ・システムの崩壊』(藤原書店)

  北野幸伯著『中国・ロシア同盟がアメリカを滅ぼす日』(草思社)

  ティム・ワイナー著『CIA秘録』(文芸春秋)

・キャロル・キグリー著『悲劇と希望』(邦訳なし)

・W・クレオン・スクーセン著『世界の歴史をカネで動かす男たち』(成甲書房)

・ゲイリー・アレン著『ロックフェラー帝国の陰謀』(自由国民社)

・ジェームズ・パーロフ著『権力の影 外交評議会CFRとアメリカの衰退』(徳間書店)

  G・E・グリフィン著『マネーを生み出す怪物』(草思社)

  海野弘著『陰謀の世界史』(文芸春秋)

  アントニー・サットン+クリス・ミレガン他著『闇の超世界権力スカル&ボーンズ』(徳間書店)

・ヴィクター・ソーン著『次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた』(徳間書店)

  ユースタス・マリンズ著『世界権力構造の秘密』(成甲書房)

  広瀬隆著『赤い盾』(集英社)、『アメリカの保守本流』『アメリカの経済支配者たち』『アメリカの巨大軍需産業』(集英社新書)

  安部芳裕著『金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った』(徳間書店)


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