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  人類の展望

                       

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■現代の眺望と人類の課題

2009.5.21初版/2014.9.18第2版/2015.8.15一部修正

 

<目次>

 はじめに

第1章 人類史の区分と現代の世界

第2章 勝者が支配する戦後世界

(1)戦勝国による秩序

(2)連合国としての国際連合

第3章 新しい国際経済体制

(1)戦後の国際経済

(2)金融による世界支配

(3)現代の資本主義

(4)現代世界の支配構造

第4章 米ソの冷戦

(1)米ソ冷戦の構造

(2)冷戦下の世界

5章 アジア・アフリカの目覚め

(1)アジアの解放と戦乱

(2)諸文明の競合

(3)中東が国際関係の焦点に

第6章 共産圏の矛盾・抗争
(1)共産主義の罪過

(2)共産中国の虚妄

第7章 アメリカの迷走

(1)軍産複合体とアメリカの戦争

(2)ベトナムという陥穽

(3)ケネディ暗殺事件の闇

第8章 世界は大転換期に突入

(1)人類存亡の岐路

(2)米国外交が世界を動かす

(3)石油をめぐる争い

(4)イラン・イラクの争い

(5)アジアの興隆

第9章 冷戦の終焉とその後の世界

(1)冷戦が終結し、ソ連が崩壊

(2)米国はグローバリゼイションを推進

(3)欧米資本はアジアの成長を妨害

第10章 21世紀の激動

(1)唯一の超大国アメリカの繁栄と衰退

(2)ヨーロッパの統合とユーロの危機

(3)ソ連の後継国ロシアの復興

第11章 多極化する世界

(1)グローバル化の進展とナショナリズムの興隆

(2)アメリカは変わりうるか

(3)危険な挑戦者・中国の強大化

(4)多極化する世界における諸地域の変動

(5)日本の混迷と再建

第12章 国連の人権活動と世界の現状

(1)国連の人権活動

(2)国際社会の取り組み

結章〜人類の課題と日本の役割

(1)地球環境破壊等の危機を乗り越える

(2)諸国家・諸民族の共存共栄を実現する

(3)新しい精神文化を興隆させる

 

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はじめに

 

 本稿は、拙稿「西欧発の文明と人類の歴史」の続編である。「西欧発の文明と人類の歴史」では、第2次世界大戦の終了までを書いた。この続編では、大戦後の時代を現代とし、現代の世界を歴史的に眺望し、21世紀における人類の課題を確認する。

2009年(平成21年)5月21日掲示の初版では、第9章以下に、現代世界の支配構造と米欧の支配者集団の組織と活動について書いた。このたびの第2版では、1970年代以降の部分を中心に大幅に加筆・修正し、また執筆時点の2014年(平成26年)9月までの内容に更新した。これに伴い、初版の第9章以下は本稿から独立し、「現代世界の支配構造と米国の衰退」と題して、別に掲示することにした。

 

 

第1章 人類史の区分と現代の世界

●人類史の区分と現代の世界

 私は、人類は核爆弾の開発・使用をしたことによって、新たな歴史の段階に入ったと考える。そして、1945年(昭和20年)以降を現代とし、それ以前と区別している。
 人類は、数度の転換期を経て、今日に至っている。すなわち人類革命(数百万年前)、農業革命(1万年頃〜1万年1千年前頃)、都市革命(紀元前3500年頃〜前2500年頃)、精神革命(紀元前800年頃から前500年頃)という四つの転換期を経て、15世紀から近代化革命を経験してきた。

 ヨーロッパ文明は15世紀に近代化を開始し、人類全体に近代化革命をもたらした。その結果として開かれた現代は、人類が存亡の危機に直面している時代である。西欧発の文明は、発展と破壊を地球全体に広げながら、人類を繁栄か滅亡かに分かれる危機にまで押し進めたのである。
 人類は現代において、第6番目の転換期にある。この第6期を私は「新人類革命」と呼ぶ。「新人類革命」とは、かつて人類が人類となった革命に匹敵するほどの大きな変化を意味する。「新人類革命」は、1945年に始まり、21世紀はその過程にある。この転換期の内容は、人類発生以来の危機と飛躍である。いま地球規模で進行している「新人類革命」は、これに先立つ「近代化革命」の延長上に展開しているものであり、またそれからの脱却の過程でもある。

 私のいう現代は、20世紀半ばから21世紀の今日へと続く時代である。私は、この現代をさらに三つに区分する。
 第1期は、1945〜71年である。この期間は、人類が、核兵器によって自滅するか、原子力等を平和利用することによって飛躍できるかという課題を抱えるようになった時期である。米ソ二大超大国が世界を大きく二分し、冷戦といわれる緊張の中で、核戦争の危険性が高まる一方、物質文化の発展が一段と加速し、人類に多くの恩恵をもたらした。アジア、アフリカの諸民族が独立し、人類文明の中心地域が、西洋・欧米から東洋・アジアへと徐々に移り始めた。
 第2期は、1972〜2000年である。人類文明の中心地域の移動が明瞭になり、物質科学中心の文化から物心調和への文化へと転換する動きも顕著になってきた。ソ連の解体によって冷戦が終結し、アメリカが唯一の超大国となったが、一極支配から多極化への動きが現れ、文明間の摩擦・対立を生じている。情報革命、核拡散、地域統合、グローリゼイション等が進む一方、環境、人口、エネルギー、資源、食糧等の危機が人類規模で拡大した。
 第3期は、2001年から現在までである。この時期、人類は21世紀に入った。第1期、第2期に現れた流れは、より勢いを増しつつある。第3期の初年に起こった9・11の同時多発テロ事件とそれをきっかけとしたアフガン戦争及びイラク戦争が国際社会に深刻な歪を生み出している。人類最大の危機として、地球温暖化が広く認識された。人類があらゆる障壁を除いて、団結協力しなければ、数十年のうちに、大災厄にいたるだろう。人類は核戦争と地球環境破壊による自滅の危機を乗り越えて、大調和の文明へと飛躍できるか重大な段階にある。

 私はこうした現代において、日本の果たすべき役割は、大きいと思う。そして、わが国に伝わる人と人、人と自然が調和して生きる日本精神が、人類を生存と繁栄に導く指導原理として働くだろうと考えている。

 以下、前編に続いて、第2次世界大戦の終結と戦後世界秩序の構築から始め、21世紀の今日まで眺望を進めたい。ページの頭へ

関連掲示
・拙稿「9・11〜欺かれた世界、日本の活路

・拙稿「地球温暖化〜『不都合な真実』を知ったら

 

 

第2章       勝者が支配する戦後世界

 

(1)戦勝国による秩序

 

●勝者の支配のための戦後処理
 
 1945年(昭和20年)8月に日本の降伏で第2次世界大戦が終結すると、戦勝国は戦後処理を行った。その目的は、世界の平和と諸国の復興の実現である。しかし同時に敗戦国に対する報復、連合国の行ったことの正当化が意図され、戦勝国が支配的な地位を維持するための国際秩序の構築が進められた。そこにおける戦勝国の利己的、闘争的な姿勢が、戦後世界の新たな対立・抗争の要因となっていく。

 戦勝国による戦後処理として、第一に連合国は、ドイツ、オーストリア、日本の3国をそれぞれ軍事占領下に置いた。ドイツとオーストリアは米英仏ソで分割占領された。その後、米英仏とソ連の対立が起こり、ドイツは東西に分裂し、ひとつの民族が別々になってしまう。
 日本は幸い米ソによる分断を免れた。日本はアメリカを中心とする連合国の共同統治となった。日本占領の連合国軍は、ほとんどがアメリカ軍であり、実質的にアメリカによる占領となった。日本は6年7ヶ月にも及ぶ長期間占領され、その間、日本を弱体化する政策が強行された。
 朝鮮は北緯38度線より北部はソ連、南部はアメリカが分割占領した。その後、朝鮮は南北に分裂し、朝鮮戦争で同一民族が戦い、現在も分断されたままである。

 第二に、戦勝国は敗戦国に対し、占領行政を行った。分割占領されたドイツの処理方針は、1945年(昭和20年)8月米英ソ3国首脳によるポツダム会談で具体化された。基本目的は、ドイツの非ナチ化であり、民主化である。
 米英仏の占領地域では、中央政府は当面置かず、地方レベルの政党活動のみを認め、すべての州で州議会選挙が行われた。復興を進めるため、米英は両国の占領地域の経済的統合を決定した。
 これに対し、ソ連の占領地域では、ソ連により、社会民主党(SPD)とドイツ共産党(KPD)をドイツ社会主義統一党(SED)に統合するよう強制され、共産化が進められた。
 冷戦構造が固定化されていく中で、米英仏ソの四か国の協調は困難になり、東西ドイツ分断は決定的となり、1949年9月ドイツ連邦共和国(西ドイツ)、翌10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言された。
 一方、わが国において、アメリカの占領政策の目的は、明確だった。「降伏後における米国の初期対日方針」(昭和20年9月22日)には「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及び安全の脅威とならざることを確実にすること」と明記されている。アメリカは、日本が決してアメリカに報復戦争をすることのないように、日本人に戦争の贖罪意識を植え付け、民族の誇りと自尊心を奪いとろうとした。そして日本人を精神的に去勢し、日本の国家と社会をアメリカの意のままになる従属的な体制に変え、宗主国に対する従属国、保護国に対する非保護国的な存在にしようとした。
 対日占領政策とは日本弱体化政策であり、それは同時に、連合軍側の戦争行為の正当化、戦争犯罪の免罪だった。占領政策のポイントは、主に5つに分けられる。すなわち、

(1)言論統制と検閲の実施
特に連合国軍総司令部の占領政策への一切の批判の封じ込め
(2)民族の伝統・歴史の否定
特に修身、国史の授業停止による、伝統的な倫理道徳と歴史観の根絶
(3)戦争犯罪宣伝計画の徹底
特に『太平洋戦争史』による「勝者の歴史」=「真相」という洗脳、罪悪感の移植
(4)東京裁判の開催
国際法に根拠を持たぬ勝者による復讐劇。 日本=極悪犯罪国家という一方的断罪
(5)GHQ製憲法の押し付け
占領政策の総仕上げ。法制化による継続化。主権の制限による属国化・被保護国化。

 以上の五つである。

 戦後のドイツと日本の最大の違いは、(5)における憲法の改定にある。ドイツの場合は、連合軍による憲法の制定に抵抗した。憲法を制定することにより、分断が固定されることを避けるために、基本法の制定にとどめた。民族分裂という苦難を乗り越えて、1990年(平成2年)10月、西ドイツが東ドイツを吸収する形で、再統一された。これに比し、わが国の場合は、未だに占領下において、GHQから押し付けられた憲法を改正することができていない。
関連掲示
・拙稿「日本弱体化政策の検証〜日本の再生を目指して
・拙稿「日本国憲法は亡国憲法〜改正せねば国が滅ぶ

●勝者が敗者を裁く

 占領行政の一つとして、連合国は、敗戦国の戦争指導者を処分する国際軍事裁判を行った。ドイツに対しては、ニュルンベルグ裁判が、1945年(昭和20年)11月20日から46年(21年)10月1日にかけて行われた。続いて日本に対しては、極東国際軍事裁判(東京裁判)が、1946年(21年)5月3日から48年(23年)11月12日にかけて行われた。
 基本的な枠組みは、ナチスの指導者を裁いたニュルンベルグ裁判で打ち出され、それをもとに東京裁判が行われた。これらの軍事裁判は、戦勝国が敗戦国を一方的に裁くものであり、見せしめのためのリンチ、復讐劇だった。通常の戦争犯罪の他に、「平和に対する罪」「人道に対する罪」という罪状が新たに作られ、過去にさかのぼって適用された。これは、罪刑法定主義という近代法の原則を無視したものだった。その一方、戦勝国側の戦争犯罪は問われず、不公平かつ不公正なものとなった。

 「平和に対する罪」は、侵攻戦争を計画・準備・開始・実行し、またはその目的で共同の計画や謀議に参加する行為をいう。第1次世界大戦後、不戦条約(1928年)に多くの国が調印した。しかし、ある国が起こした戦争が侵攻戦争であるか自衛戦争であるかの決定権は、その国にあるとされていた。また何をもって侵攻戦争・自衛戦争と規定するかの基準は、今なお整備されていない。そのような中で行われた国際軍事裁判は、勝者が敗者を侵略者と決め付け、断罪するものとなった。
 ここで使われたものに、共同謀議という概念がある。共同謀議は英米法のものであって、ドイツや日本の法体系には存在しない。ドイツは、ヒトラーという独裁者がおり、強固に結束したナチスが10年以上にわたって国家を統治した。それに比し、日本は、短期間で首相が替わり、政府・陸軍・海軍がバラバラだった。ドイツの指導者には共同謀議を当てはめられたとしても、日本の指導者に適用するには無理がある。しかし、連合国は、戦前の日本をナチス・ドイツと同類の国に仕立て上げるために、日本の国家指導者をこれで裁き、処刑した。

 次に「人道に対する罪」は、一般人民に対する殺戮・虐待・追放その他の非人道的行為、及び政治的・人種的・宗教的理由に基づく迫害行為をいう。主にナチス・ドイツによるユダヤ人への迫害に関して裁くために作られた。ナチスの犯罪は、1932年(昭和7年)から1945年(昭和20年)に至るヒトラーが政権にあった期間を対象とし、戦争行為とは直接の関係を問わないとされた。
 ナチスによるユダヤ人の迫害は、アウシュビッツ等の「絶滅収容所」で毒ガスによる大量殺戮が行われたと断罪された。ナチスによるユダヤ人の迫害は類例のない規模と残虐さをもっていたから、その犯罪行為を明らかにし、再発を防ぐ必要はあった。しかし、そのために近代法の原則を曲げて裁判することが正当化されるものではない。

 日本には、アウシュビッツはない。組織的・計画的に捕虜や一般市民を大量に殺害したという記録はどこにもない。そこで東京裁判で持ち出されたのが、いわゆる「南京大虐殺」だった。
 東京裁判の折に、中華民国側が告発した被虐殺者数は34万人だった。中華人民共和国政府も34万人説を採用している。その数は今日では40万人に増えている。しかし、南京市の安全区を管理していた国際委員会の公文書では、当時の南京市の人口は20万という。南京防衛軍の5万人とあわせてどんなに多く見積もっても25万人である。南京市の人口は南京攻略の前は100万人といわれていたが、いざ戦闘が始まるとなると激減していたのである。
 20万人しか人がいないところで、30万人、40万人もの殺戮ができるはずがない。この数は、極めて過大である。その他、「南京大虐殺」は著しい誇張・捏造によるものであって、日本の国家指導者をナチス・ドイツの指導者と同類と処罰するために演出されたものである。

 こうした勝者による国際軍事裁判は、その不公平・不公正によって、戦後世界に大きな歪みを生み出すものとなった。勝者の側が犯した戦争犯罪や非人道的行為は、裁かれなかった。ユダヤ人への迫害は、ソ連でも行われた。一般市民の無差別殺戮は、アメリカもイギリスも行った。捕虜への虐待は、フランスやオランダも行った。
 勝者による国際軍事裁判の最大の欺瞞は、人類史上、最も残虐な兵器である核兵器を使用することの是非が問われなかったことである。「人道に対する罪」を問うならば、原爆の使用こそ、その最たるものと言わねばならない。
 アメリカの原爆投下は、トルーマン大統領が決めた。45年8月上旬の段階で日本に対し原爆を使用する必要があったのか、アメリカ国内でもトルーマンへの非難が上がった。しかし、東京裁判では、核兵器によって広島・長崎の一般市民を大量虐殺したトルーマンは、裁かれなかった。アメリカは、原爆投下を正当化しており、今日も日本に対して原爆の使用を謝罪していない。
 不公平・不公正な国際軍事裁判は、核兵器の開発競争と拡散を許すものとなった。その結果、人類は核戦争による自滅の危機を拡大してしまったのである。

●原爆免罪のための「南京大虐殺」

 アウシュビッツの替わりに東京裁判で持ち出されたのが、いわゆる「南京大虐殺」だったと先に書いた。南京事件の誇張・捏造は、さらにアメリカの原爆投下と関係がある。
 最初に、わが国において行われた占領政策の概要から述べると、占領期間には、GHQによって「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争犯罪周知宣伝計画)」が遂行された。民間情報教育局(CI&E)がこれを強力に展開した。 CI&E発行の文書に、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」というものがある。これは、計画実施の中間報告とでもいうべきもので、日付は1948年(昭和23年)2月6日である。
この文書は「戦争犯罪周知宣伝計画を、広島・長崎への原爆投下に対する日本人の態度と、東京裁判中に吹聴されている超国家主義的宣伝への、一連の対抗措置を含むものまでに拡大するにあたって、採用されるべき基本的な理念、および一般的または特殊な種々の方法について述べている」と記している。

 計画は3段階に分けて行われた。第1段階は『太平洋戦争史』の教育宣伝と、民族の記憶と歴史の剥奪である。第2段階は東京裁判の準備である。そして第3段階が原爆批判と日本の言い分の封殺である。先の文書が出された48年(23年)2月6日では、第3段階は進行中である。第3段階は、東京裁判の最終論告と最終弁論を目前にして、緊迫した情勢を反映したものだった。
 東京裁判は46年(21年)5月3日に始まった。この裁判を報じるラジオ放送において、「南京大虐殺」が報じられた。この放送は、日本人に深刻な心理的打撃を与えた。GHQによる徹底した言論弾圧と検閲の中で、日本人の脳裏に「南京大虐殺」が刷り込まれていった。
 中国が裁判所に出した南京事件の報告書には、犠牲者34万人と記されていた。報告のための調査は45年(20年)11月7日に始まったのだが、その時点では犠牲者は4万人だった。ところが、翌年2月に報告書が出来た時点では、犠牲者は34万人と当初の8.5倍にもなる数字が書かれていた。

 東京裁判の最中に出された先の文書「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は、原爆投下への批判と敗戦国の言い分を圧殺し、連合国を全面的に正当化しなければならないという連合国側の危機感が漂っている。
 文書の述べているところを要約するとーーー合衆国の一部の科学者、聖職者、ジャーナリスト等の発言に示唆されて、日本人の一部が、原爆投下を「残虐行為」の烙印を押してはじめている。さらに、これらのアメリカ人のあいだに、一部の日本の国民感情を反映して、広島での教育的人道主義的運動は、「贖罪」の精神で行われるべきだという感情が高まりつつある。これとともに、東京裁判で東条英機が「自分の立場を堂々と説得力を以て陳述したので、その勇気を国民に賞賛されるべきだという気運が高まりつつある。この分で行けば、東條は処刑の暁には殉国の志士になりかねない」云々。

 東京裁判が終結期に入った1948年(昭和23年)になると、米国で科学者、聖職者、ジャーナリスト等から広島・長崎への原爆投下に対する批判が一層高まった。原爆による無差別大量殺戮は、史上前例のない非人道的なもので、死亡者は当時20万人以上となっていた。良心的なアメリカ人にとっては、自国の戦争犯罪は絶えがたいものだっただろう。デモクラシーの国、アメリカでは世論による政府批判は、政権をゆるがす。米国政府は原爆投下を正当化し、罪悪感をぬぐうために、原爆に匹敵するような日本人による20万人規模の「大虐殺」を必要とし、そこで「南京大虐殺」が利用され、南京事件は一層誇大なものに強調されたのだろう。
 南京事件は、ナチスによるユダヤ人迫害のアウシュビッツに替わるものとしてひねり出され、アメリカの原爆投下の免罪のために、誇張・捏造されたと私は考える。

関連掲示
・拙稿「南京での『大虐殺』はあり得ない

 

●講和条約の締結と戦時賠償の支払い

 戦争は、戦闘を止めれば終わるのではない。講和条約の締結をもって、初めて終結する。また、戦後処理は、講和条約に伴う戦勝国と敗戦国の間の戦時賠償で終了する。
 第2次世界大戦において、戦勝国は、先に書いたような戦後処理を進めた上で、敗戦国と講和条約を締結した。戦争状態を法的に終了させる国際条約が講和条約である。
 連合国は1947年(昭和22年)にイタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランドの旧枢軸5カ国とパリ講和条約を結んだ。また、わが国は連合国のうちの多数と、51年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和条約を結んだ。52年(昭和27年)4月28日、講和条約発効により、わが国は主権と独立を回復した。

 ドイツは、日本と異なり、講和条約を結んでいない。東西に分断されたから、ドイツの再統一まで講和は事実上棚上げされた。現在に至るも講和条約は結ばれていない。だから、わが国と比較し得るような国家間の賠償をドイツは支払っていない。
 「日本とドイツは過去に同様の過ちを犯したが、ドイツはその過ちを反省して償った。それに比し、日本は反省も償いもしていない」という説が、マスメディアや学者・有識者によって繰り返されている。しかし、これはまったく違う。確かにドイツは、巨額の補償を支払ってはいる。だが、それは戦時賠償ではない。補償は、連邦補償法、対イスラエル協定、連邦返済法、西側12カ国との包括条約等の法律・条約に基づいて支払われている。それらはすべて、対象を「ナチス犯罪」の被害者としている。すなわち、ナチス犯罪に対する補償なのである。
 ナチス犯罪は、1932年(昭和7年)から1945年(昭和20年)に至るヒトラーが政権にあった期間を対象とし、戦争行為とは直接の関係を問わない。このナチス犯罪は、通常の戦争犯罪や戦争に伴う被害とは全然別の概念である。
 繰り返しになるが、ドイツは、現在に至るも講和条約を結んでいない。だから、国家間の戦時賠償を支払っていない。これは今後のドイツの課題なのである。
 またナチス犯罪に対して、ドイツは、補償を支払ってはいるが、謝罪はしていない。まして、戦争行為自体への謝罪は行っていない。

●日本の戦後処理の実行と残課題

 わが国の場合、これと比較し、サンフランシスコ講和条約により、戦前日本が占領したアジア諸国に対する賠償を義務付けられた。サンフランシスコ講和条約は、連合国全部との講和ではなかった。日本は講和条約を結んでいない国々とは個別に交渉をした。そして、その後の2国間交渉により、すべて解決している。

 韓国については、戦前朝鮮半島は日本国の一部だったので、戦時賠償という概念は当たらない。日韓国交正常化に伴い、「日韓請求権問題の解決ならびに経済協力協定」という形で、日本統治時代の清算が行われた。
 中国については、蒋介石政権・毛沢東政権とも賠償請求を放棄した。しかし、日本の在外資産をすべて没収したので、莫大な収入となった。実を取ったのである。さらに、わが国は、共産中国に対し、ODA等により6兆円にもなる援助金を提供した。そのことは、中国人民に知らされていない。

 ソ連は講和会議に参加したが、調印をしなかった。そこでわが国は、ソ連との間で56年(昭和31年)に、日ソ共同宣言を発し、国交の回復ができた。国交を回復したことにより、日本はソ連の賛成を得て、同年12月、国際連合すなわち連合国(the United Nations)への加盟を実現した。ソ連との間で平和条約は、今も締結に至っておらず、ソ連が不当に占領し続けている北方領土問題は解決していない。北方領土の返還交渉は、わが国の戦後処理の残課題の一つである。
 1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和条約を結んだ際、日本は講和条約に調印すると同時に、アメリカと日米安全保障条約を締結した。GHQに押し付けられた憲法によって軍備を制限されているわが国は、当時自国の防衛のためには旧敵国であるアメリカの力に依存せざるをえなかった。その状態が現在なお続いている。日本人自身の手で憲法を改正し、主体的な立場で外国との安全保障条約を締結し直さねばならない。このことは、わが国の戦後処理の残課題の最大のものである。

 アメリカに押し付けられた憲法。ロシアが不法占領する北方領土。日本の戦後は、終わっていない。

関連掲示
・拙稿「日本再建のための新憲法――ほそかわ私案
・拙稿「憲法第9条は改正すべし
・拙稿「集団的自衛権は行使すべし

(2)国際連合による国際秩序

●戦後国際秩序の構築

 戦後の国際秩序は、どのようにして構築されたか。次にその点について記したい。
 第2次世界大戦において、連合国は大戦の勝利を確信し、新たに世界秩序を構想しながら、大戦を終結へと進めた。とりわけアメリカは積極的なリーダーシップを発揮し、軍事・経済の優位をもとに、戦後の国際秩序の構築を推し進めた。
 大戦後のアメリカは、比類ない破壊力を持つ核兵器を独占していた。また圧倒的な空軍力、海軍力を有し、軍事面で抜群の存在となった。経済面でもそうだった。アメリカの工業生産力は大戦中に2倍以上に成長した。戦後のアメリカは、世界の工業生産の半ば以上を占め、エネルギー資源でも石炭の半分、石油の3分の2、電力の半分以上を生産した。また、世界の金の8割を保有していた。こうした抜群の軍事力、経済力をもとに、アメリカは、戦後の国際秩序の構築を主導した。その体制は、軍事的には国際連合、経済的にはブレトン・ウッズ体制ということができる。
 ここにアメリカは、軍事的・経済的に、新たな覇権国家としての地位を確立した。これに対抗する存在となったのが、ソ連である。ソ連は大戦前、共産主義革命を輸出する危険な国家だった。各国は対ソ反共政策を取った。大戦の初期、ソ連はフィンランド侵攻を問われ、国際連盟から除名された。ところが、英米は、大戦の途中から、日独と戦うためにソ連と手を結んだ。国際連盟から追放された国が、平和を愛好する国家の一員に成り代わった。アングロ・サクソン流の原理原則なき外交が、ソ連を飛躍的に成長させた。そうしたソ連が国際社会で発言力、影響力を増し、覇権国家アメリカに対抗する構図のもとに、戦後世界は動き出した。

●連合国の発展形としての国際連合
 
 戦後世界の軍事面を秩序付けたのが、国際連合である。国際連合は、わが国では国際連合と訳されているが、連合国のことに他ならない。第2次大戦の連合国が、国際機構に発展したものが、いわゆる国際連合である。英語では、一貫してthe United Nationsであり、実体は同一である。
 「国際連合=連合国」は、1941年(昭和16年)8月に英米により発表された大西洋憲章に萌芽を見る。大西洋憲章は、戦後の平和維持体制や国際連合の基礎となる国際秩序の構想を盛り込んだ。この憲章の基本原理を取り入れて、42年1月に連合国共同宣言が出された。

 戦争の大勢が決した1943年(昭和18年)以降、動きが加速した。43年にモスクワで開かれた米英ソ外相会談で平和機構設立が宣言された。これには中国も署名した。米英ソ中の代表は、44年(昭和19年)8月ワシントン郊外で開催されたダンバートン・オークス会議にて、国際連盟に代えて国際連合を設立することを決めた。そして「国際連合憲章=連合国憲章」の草案が作成された。
 ここで注目すべきは、ほぼ同じ時期となる44年7月、ニューヨーク郊外のブレトン・ウッズにおいて、連合国通貨金融会議が開催されたことである。参加国は、44カ国。国際連合に関する会議より、はるかに多い。ブレトン・ウッズでは、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行/IBRD)の創設が決定された。戦後国際秩序の構築は、軍事面だけでなく経済面でも並行して進められたのである。

 軍事面では、戦後国際秩序にソ連を取り込めるかどうかが、一大課題だった。45年2月のヤルタ会談で、ソ連を引き込むために、ルーズベルトとチャーチルはスターリンに譲歩し、大国に拒否権を与えることとした。具体的には米英ソ等の主要国が安全保障理事会の常任理事国となり、常任理事国は拒否権を持つことが合意された。ソ連の不参加による大国間の分裂は避けられた。しかし、その一方、一国が拒否権を発動することで、安保理が意思決定できない事態となる可能性をはらむことになった。
 42年に出された連合国共同宣言には、署名する国家が相次ぎ、45年(昭和20年)3月までに合計47カ国が署名した。これが国際連合の原加盟国となる資格の一つとなった。
 45年6月サンフランシスコ会議で、「国際連合憲章=連合国憲章」が採択された。同憲章調印の時、イタリア、ドイツは降伏していたが、日本はなお連合国軍と交戦中だった。いわゆる国際連合は、戦後作られた組織ではない。枢軸国と戦う国々の連合だからである。今日の国際連合=連合国とは、連合国が戦後の国際秩序を構築するために、恒常的な国際機構へと発展したものである。

 大戦終結後、45年10月に原加盟国51カ国で、国際機構としての国際連合=連合国が改めて発足した。この時点では国際連盟は存続していた。国際連合は国際連盟が発展してできた組織ではない。まったく別に立ち上がった機構である。連合の創設を進めた米英ソのうち、米ソは連盟に入っていなかった。国際連盟は、国際連合=連合国が創設された翌年、46年4月に解散した。二つの機構は、約半年間、並存したのである。
 国連の本部は、アメリカ・ニューヨークに置かれた。本部の建物は、ロックフェラー財閥の所有地に設置された。このことは、国連の創設に、ロックフェラー財閥、及びこれに協調する巨大国際金融資本がかかわっていたことを示唆する。戦後秩序の経済面をなすブレトン・ウッズ体制も、米欧の巨大国際金融資本の合意の上に成立したものだろうから、戦後世界の枠組みの創設には、米英ソ等の「国家」の意思だけでなく、ロックフェラー、ロスチャイルド等の「資本」の意思が働いただろうと私は考える。
 なお、ロックフェラー財閥は、19世紀からアメリカの石油産業を支配したスタンダード・オイルの創業者一族であり、代々アメリカの石油、金融、不動産、軍事産業、マスコミなどあらゆる産業を支配してきた。その富をもって、国際政治に強い影響力を発揮してきた。またロスチャイド財閥は、18世紀ドイツ出身のユダヤ人一族が金融を通じて巨富をなした財閥であり、19世紀後半には、西欧諸国の中央銀行がすべてロスチャイルド家の所有銀行となった。ロックフェラー家が台頭する以前から、強大な政治力を振るっている。

●国際連盟の欠陥

 国際連合は、国際連盟と別組織であるが、国際連盟の欠陥や失敗を踏まえて構想された。そこでまず国際連盟について述べたい。

 国際連盟は、第1次世界大戦の悲惨を体験した諸国が、1920年(大正)9年、国際紛争の平和的解決、軍縮、国際協力活動の推進などを目的として作った国際機構だった。しかし、連盟には、発足当時から欠陥があった。提唱国のアメリカが加盟しなかった。軍を持たず、経済的措置のみを手段とした。それらのため、大戦後の激しい国際社会の動きの中で無力さを露呈し、平和維持機構としての効力は発揮できずに終わった。

 まず加盟国については、アメリカ・ソ連・ドイツなどの大国が、不参加だった。国際連盟はウィルソン米大統領の提唱で生まれたのだが、ウィルソンは上院の反対によって批准できなかった。アメリカが連盟に参加しなかったのは、孤立主義の伝統が根強かったからである。当時世界随一の存在になっていたアメリカを欠く国際組織は、基盤が脆弱だった。国際連盟はまた、敗戦国ドイツと共産国ソ連を対象から除いていた。ドイツの加盟が認められたのは、復興がだいぶ進んだ26年。ソ連の加盟は34年だった。

 次に主要国については、国際連盟は理事会を置いた。常任理事国は、イギリス、フランス、イタリア、日本の4カ国でスタートした。ドイツとソ連が加盟すると、常任理事国に加わった。しかし、33年にはドイツと日本が脱退。その4年後にイタリアも脱退。日独脱退の翌年、ソ連が加盟したのだが、ソ連は第2次大戦勃発後、39年12月に除名された。こういう具合だから、一貫して常任理事国だったのは、イギリスとフランスのみ。うちフランスは40年6月ドイツに敗北したから、連盟は事実上機能しなくなった。弱体化した国際連盟は、46年解散した。

 次に意思決定機関については、国際連盟は、総会を最高決定機関とし、決定方法は全会一致を原則とした。これは、国際連盟が世界平和を目指す高邁な理想のもとに創設され、加盟国が同等の権利を有するという立場を取っていたことによる。

 次に平和維持のための機能としては、国際連盟は、紛争処理手続きや主権侵犯国への制裁行動を規定してはいた。しかし、軍事的制裁手段を持たなかった。紛争を解決しようとしても国際的な軍事警察権がなく、軍事的制裁を行えなかった。経済制裁しか方法がないため、ほとんど効果は上がらなかった。

 上記のような欠陥、弱点があったため、国際連盟は、第1次世界大戦後、つかの間の平和が揺らぎだし、国家間の対立、世界経済恐慌、主要国の脱退等が続くと、設立の目的を果たせなくなったのである。そこで、第2次世界大戦の最中から、新たな国際機構を構想するに当たっては、こうした欠陥、弱点の克服が課題となった。

●国際連合=連合国の特徴

 国際連合=連合国は、国際連盟が加盟国の行動を止められなかった反省に立ち、主要国間の協調を重視した。
 国際連盟は最高決定機関を総会とし、全会一致を原則としたが、国際連合は総会での決定は多数決とする一方、総会以上の権限をもつ安全保障理事会が中心的機関として設置された。安全保障理事会は、ルーズベルトの「4人の警察官」構想を基にして、提案国である米英ソ中とフランスが、常任理事国となった。これらの五大国が事実上、国連の意思決定権を握った。安保理の決定が出れば、加盟国は経済制裁や国交断絶を義務づけられた。
 この点、国際連盟には大国と小国を対等に扱う理想主義があったが、国際連合は戦勝国が戦後もリーダーシップを握るという大国中心主義が明瞭である。


 国際連盟は軍事的制裁手段を持たなかったが、国際連合は安保理常任理事国に軍事行動の権限を与えた。これは、国際連合と国際連盟の重大な違いの一つである。国際連合の場合は、平和を乱す国があれば、軍事行動を含む強制的措置を取る権限がある。これは軍事的に非力な存在だった国際連盟の欠陥を改善したものである。平和を維持するためには、力が要る。軍事力を否定すれば平和が実現すると思う人は、軍を持たなかった国際連盟の破綻をよく知るべきである。

 国際連合と国際連盟のもう一つ重大な違いは、国際連合は、安保理常任理事国に拒否権を与えたことである。これは、国際連盟にはなかった権限である。五大国中1カ国でも不賛成の国があれば、他に表決が必要な9カ国以上の賛成があっても表決は無効となる。
 拒否権は、戦後国際秩序の構築の過程でソ連を引き込むために設けられたものだが、その後、ソ連が盛んに発動し、国連の意思決定を困難にした。アメリカも時に拒否権を発動したから、安保理の平和維持機能は低下した。米ソは互いに有利な立場に立とうとして様々な画策をし、国際連合の理想は宙に浮いたまま、世界は東西に分断され、米ソの冷戦に至ることになった。ドイツは分断を乗り越えて統一されたが、朝鮮は未だ統一されていない。大陸の中国と台湾は、他国による分断ではないが、対立を続けている。
 しかし、その一方、大国拒否権を設けたことによって、国際連合=連合国は、冷戦の続く中でも、主要国の脱退を生じなかった、国際連盟はアメリカが加盟しないうえに、常任理事国が脱退したり、除名になったりした。これに比し、国際連合はアメリカが参加・主導し、主要国が分裂せず、加盟国が増加し続けている。

 「国際連合憲章=連合国憲章」は、旧敵国である枢軸国に対し、旧敵国条項を定めている。旧敵国条項とは、第2次大戦中に連合国の敵国であった国々に対し、地域的機関などが、安全保障理事会の許可がなくとも強制行動を取り得ること等が記載されている条項である。第53条と第107条である。条文には明記されていないが、旧敵国とは、日本、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランドの7か国を指すと考えられてきた。
 戦勝国は、いざとなれば自由に日本等に攻め入ってもいいということを堂々と決め、それを半世紀以上も、そのままにしてきたのである。
 わが国は、国際連合=連合国に加入後、その一員として誠実に役割を果たし、経済復興後は、巨額の分担金を払って、組織を支えてきた。1970年(昭和45年)の第25回国連総会以来、わが国は、たびたび総会などの場で、国連憲章から「旧敵国条項」を削除すべしとの立場を主張してきた。94年(平成6年)12月、ようやく総会において憲章特別委員会に対し、旧敵国条項の削除の検討を要請する決議が採択された。95年(7年)12月には、第50回総会において憲章特別委員会の検討結果を踏まえて、削除へ向けての憲章改正手続きを開始する決議が採択された。そこからもまた、長い。もう10年以上過ぎている。
 今日においても、同採択を批准した国は効力発生に必要な数には遠く及ばず、敵国条項は依然として国連憲章にその姿を留めたままとなっている。死文化されたとはいうが、条文がある以上、悪用されないとは限らない。

●集団安全保障と個別的・集団的自衛権

 国際連合の新しさは、集団安全保障という概念を打ち出したところにある。
 国連憲章第42条は、非軍事的措置では不十分なときは、安保理は軍事的措置をとることができると定めている。そして、国連憲章は、安保理の決定によって、国際の平和及び安全の維持又は回復を行う仕組みを定めている。それが、集団安全保障である。
 集団安全保障とは、個々の国家の武力行使が禁じられ、国連のみが違反国に対する武力行使をも含む軍事的強制行動の主体となる仕組みである。国連のみが軍事的強制行動を行うとしているわけである。
 しかし、実際には、国連による集団安全保障はこれまで発動されたことがない。理想として掲げられているにすぎない。人類は未だ国連憲章が目標としている集団安全保障体制を実現しえていない。

 国連憲章は、第51条に「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置を取るまでの間」は、加盟国が有する「個別的又は集団的自衛の固有の権利」に基づいて必要な措置をとることができるとしている。
 国連憲章は、個別的または集団的自衛権を、集団安全保障体制を補完するものとして認められている。ソ連にも拒否権を与えるに当たり、アメリカは中南米へのソ連共産主義の侵入を予想した。ソ連の影響を受けた国が出現し、そこでソ連が拒否権を発動しても、中南米の防衛ができるように、アメリカは集団的自衛権を盛り込んだのである。
 集団安全保障体制が未だ実現できていない世界の現状では、各国は、他国から武力攻撃を受けた場合、安保理の措置に頼ることはできず、個別的または集団的自衛権を行使して自衛しなければならないのである。
 
 国連は創設時から現在まで、国連に武力を集中しえていない。各国は独自に武力を保有しており、それをもとに地域的な安全保障体制を築いている。その地域的な安保体制は、旧来の軍事同盟にほぼ等しいものであり、集団的自衛権の行使である。
 特に安保理の常任理事国である米ソが冷戦を続けていた時代においては、国連は存在感が薄く、NATO(北大西洋条約機構)を中心とした西側と、ワルシャワ条約機構による東側が、それぞれ集団的自衛権による安全保障機構をつくって、軍事的に対峙していた。
 ワルシャワ条約機構は、ソ連の崩壊によって解消された。NATOは健在であり、今日の世界で最も強力な地域的安全保障体制である。これは、明らかに集団的自衛権に基づく機関である。NATOの加盟国は、どの加盟国に加えられる外部の脅威に対しても、結束して戦うことを条約で誓っている。
 アジア、太平洋、アフリカ、ラテン・アメリカ等にも、地域的な安全保障条約機構が多数作られ、世界はそうした地域機構が並存・重合する体制となっている。その中で、米英ロ仏中の五カ国は、依然として安全保障理事会の常任理事国という地位を占めるとともに、核保有大国として国際社会に強い影響力を維持している。

 安保理が全会一致とならない場合、国連は武力行使を行わない。武力攻撃を受けた国家は、自衛権で防衛するしかない。国連が設立されて後、ほとんどの場合は、このようである。1991年(平成3年)の湾岸戦争のときは、安保理は全会一致で制裁を決議したが、国連軍は組織されず、多国籍軍が安保理決議をもとに、イラクを攻撃した。2003年(平成15年)のイラク戦争のときは、安保理でフランスが反対したので、アメリカはイギリス等とともに開戦した。その後、NATOが結成後、初めて集団的自衛権の行使として参戦した。それゆえ、集団的自衛権は、集団安全保障を補完するのではなく、集団安全保障体制の不在を埋めているというのが、国際社会の実態である。ページの頭へ

関連掲示
・拙稿「集団的自衛権は行使すべし
 第2章 国連が各国の自衛権を認めている
 第3章 集団的自衛権はどのように成立したか

 

 

第3章 新しい国際経済体制

 

(1)戦後の国際経済

 

●新しい国際経済体制の構築
 
 第2次世界大戦は、第1次世界大戦の戦後体制の矛盾の中に、はらまれていた。英仏のドイツへの報復とそれへのドイツの反発、「持てる国」と「持たざる国」との格差拡大等がそれである。その上で、国際社会を揺るがした決定的な出来事は、世界恐慌だった。恐慌はアメリカに発し、世界に激震が走った。かつてない経済危機に対処するため、イギリス、フランス等がブロック経済を取った。そのことが、列強の激しい対立を生み出した。
 世界恐慌とそれによるブロック経済が2度目の大戦を引き起こす大きな要因になったという教訓から、第2次世界大戦の最中から軍事面の国際連合だけでなく、経済面でも各国が協調し合う新しい体制作りが模索された。
 新しい国際経済体制は、圧倒的な経済力を持つにいたったアメリカの主導によって形成された。この体制は、構想が練られた会議の開催地を取って、ブレトン・ウッズ体制と呼ばれる。主要な国際経済機関の名を取って、IMF=GATT体制ともいう。こうした国際機関を利用して、アメリカは、世界秩序の一元化を図った。自国の利益をもとにして、資本主義世界経済システムの再構築を進めたのである。

●アメリカ主導のプレトン・ウッズ体制

 大戦中の1944年(昭和19年)7月、ニューヨーク郊外のブレトン・ウッズにおいて、連合国44カ国の代表が集まって連合国通貨金融会議が開催された。44年(19年)7月とは、サイパン島で日本軍が全滅し、日本本土への空襲が迫ってきた時期である。その頃、連合国は、戦後の国際経済秩序を構想していたのである。
 連合国通貨金融会議は、通貨切り下げ競争をなくし、国際貿易の均衡した発展の促進を目指した。会議では、アメリカ案とイギリス案がぶつかりあった。アメリカ案は、財務省のハリー・デクスター・ホワイトによる。かのソ連のエージェントの疑いのある人物である。イギリス案は、大蔵省経済顧問のケインズによる。
 ホワイトは、金の裏づけを持つドルを基軸通貨として為替安定基金を設立するという通貨基金案だった。ケインズは、銀行原理に基づいて新たな不換紙幣である「バンコール」を発行して国際的決済に当てる国際精算同盟案だった。大戦で多くの海外資産を失い、その上に巨額の対外債務を負うイギリスが、圧倒的な経済力を持つようになったアメリカにかなうわけはなかった。会議の結論は、アメリカ案に基づくものとなった。
 こうして結ばれたブレトン・ウッズ協定により、1945年(昭和20年)、国際通貨の安定を図るための国際通貨基金(IMF)と戦後復興と開発のための国際復興開発銀行(世界銀行/IBRD)が創設された。

 ブレトン・ウッズ協定によって、アメリカは、1オンス(31・104グラム)=35ドルで金とドルの交換を保証し、各国は、対ドル為替レートを固定するという固定相場制を取ることになった。各国は、平価の上下1パーセント以内に為替相場の変動を抑えるように市場に介入する。金本位制の一種であるが、これを金為替本位制と言う。各国の通貨価値は、ドルで表示される。わが国は、1ドル=360円と定められた。
 協定に別に規定はないが、事実上、ドルは唯一の国際通貨となった。国際間の決済のほとんどに、ドルが必要となった。このような通貨を基軸通貨という。ドルがこうした地位を得たのは、当時世界の金準備の約8割がアメリカに集中していたことによる。
 ブレトン・ウッズ体制は、資本主義世界経済としての近代世界システムが形成されて以来、初めてつくられた一元的な国際経済体制である。厳密には、ソ連及びソ連の影響圏があるので、全世界規模のものではないが、原理的には一つのシステムとしての国際経済体制が、ここに構築された。それは、かつてないほど強大な力を持った覇権国家アメリカの経済力に大きく依存するものだった。それゆえ、将来もしアメリカの経済力が相対的に低下すれば、体制を維持できなくなる可能性を秘めていた。

●GATTによる貿易の自由化

 戦後世界における貿易に関しては、貿易の自由化を目指す国家間交渉が行われた。その結果、「自由・無差別・多角」という三原則に従って、国際貿易の拡大を目指す「関税と貿易に関する一般協定(GATT)」が、1947年(昭和23年)、主要23カ国の間で調印された。GATTは48年に発効し、戦後世界における貿易自由化を推進する中心的な役割を担った。
 GATTの基本原則は、開放経済体制に即した自由貿易主義である。そのため加盟国は、関税規則、諸手続きについては最恵国待遇を適用、特恵関税を撤廃または軽減、輸入品と国産品を差別することなく扱う内国民待遇を適用、輸入数量制限を撤廃、各国相互間の関税引き下げ交渉によるGATT税率を加盟国に一般化等を行うことを定めた。
 GATTによって大きな恩恵を受けたのが、わが国である。わが国は、1955年(昭和30年)にGATTに正式加盟した。日本は戦前、列強のブロック経済に苦しめられた。アメリカからは石油やくず鉄の禁輸措置を受けた。それらの資源・原料を買いたくても、売ってくれなかった。また工業製品を外国に売りたくても、市場に広く参入できなかった。ところが、第2次世界大戦によって、こうした制約条件が取り払われた。わが国が要望してそうなったのではない。世界の環境が大きく変わったのである。戦前は徹底的に締め出されていたわが国が、戦争が終わってしばらくすると、広く経済活動を展開できる環境に立つことになったのである。これは僥倖だと私は思う。

●ブレトン・ウッズ体制の変化

 ブレトン・ウッズ体制は、アメリカの圧倒的な経済力に依存していた。米欧の巨大国際金融資本は、互いに競争しつつも、この体制の維持には協力し合い、資本主義世界経済を発展させてきた。
 ただし、体制の及ぶ範囲は、自由主義・資本主義の国家間のみに限定された。戦後国際経済機構が創設されたとき、国際収支や金・外貨準備の公表が加盟の条件とされた。ソ連は、公表は計画経済の原則に反するとして、IMF・IBRD・GATT等に加盟しなかった。そのため、ブレトン・ウッズ体制は、資本主義圏に限定された。ソ連・東欧等の社会主義諸国は、一つの経済圏を形成した。米ソを二つの中心とした新たなブロック経済で、世界が二分されたともいえる。それゆえ、巨大国際金融資本及び自由主義・資本主義の国家にとっては、ソ連・東欧等を自由化することが大きな課題となった。そして、この課題の実現に成功し、1990年代以降、世界経済はほぼ一元化されつつある。この過程については、後に冷戦の開始や冷戦の終結等の項目で触れる。
 ブレトン・ウッズ体制は、1940年代後半から世界の半分以上を占める地域で、国際経済の基礎として機能した。先の話になるが、この体制をアメリカが自ら突き崩すことになったのが、1971年(昭和46年)のニクソン・ショックである。これをドル・ショックとも言う。
 ベトナム戦争が泥沼化し、財政悪化に陥っていたアメリカは、この時、金ドル交換停止を発表した。それによって、ブレトン・ウッズ体制は崩壊したと一般に言われる。確かに固定レートによる金為替本位制は終わった。しかし、ドルの基軸通貨としての地位は変わらない。金の裏づけはなくなったが、各国が協同でドルを守る仕組みは変わらない。アメリカは依然として、ドルの力で世界の経済を主導している。莫大な財政赤字・貿易赤字を抱えながらも、ドルの発行量をコントロールし、国際市場からドルを還流させるなどして、アメリカの繁栄を維持している。
 だから、ニクソン・ショックによるブレトン・ウッズ体制の崩壊は部分的崩壊というべきである。その後は、ブレトン・ウッズ体制を変化させた形で、現在の国際経済体制が維持されている。1971年までを前期ブレトン・ウッズ体制、それ以後を後期ブレトン・ウッズ体制として区別するとよいと私は思う。

●IMF=GATT/WTO体制の一角をなす世界銀行

 ブレトン・ウッズ体制はIMF=GATT体制ともいう。そのうちIMFは、1971年(昭和46年)のニクソン・ショック後も、国際通貨の安定を図るという機能を果たしている。一方、GATTは、暫定的な国際協定だったので、発効後、貿易と関税引き下げに関する国際交渉が何度も重ねられた。その結果、1994年(平成6年)に発展的に解消し、1995年(平成7年)に新設された世界貿易機関(WTO)に吸収された。それゆえ、現在の変形されたブレトン・ウッズ体制を、IMF=WTO体制と呼ぶこともできるだろう。
 しかし、国際経済体制において、より重要な機関は、国際復興開発銀行(世界銀行/IBRD)及びその背後にある中央銀行制度である。中央銀行制度については、後に触れる。

 国際復興開発銀行つまり世銀はIMFの親分格であり、IMFは世銀の姉妹機関である。世銀を中心とした国際経済機関も、IMFもワシントンの中心街に事務局がある。世銀の歴代総裁はアメリカが独占し、また世襲化している。世銀の援助の目的は、援助国対象国(受益国)にアメリカ流の市場原理と自由競争を定着させ、資本主義経済圏に組み込むことである。そして融資に際し、厳密な条件をつけて、厳しい審査と監視を行っているのが、IMFである。
 世銀の職員は、国連の専門機関の中で最も多く、1万人を超える。これにIMFの職員を合わせると1万3千人を上回る。これは、国連本体の規模にほぼ匹敵する。国連本体の職員数に拮抗するほどの職員がいるのが、世銀・IMFなのである。

 世銀つまり国際復興開発銀行は、第2次世界大戦後の復興開発という役割を果たした後、1970年代以降は、発展途上国の経済社会開発のための融資・計画立案・助言・指導が主要業務になってきた。IMFも、当初の国際通貨の安定を図るための機関から、大きく業務を広げてきた。80年代にはブラジル等の累積債務国の救済をし、90年代にはメキシコ等の途上国の金融危機の克服に主導的役割を果たした。
 とりわけ1997年(平成9年)、東南アジアや韓国等を襲ったアジア通貨危機において、IMFは強力に活動した。この時、IMFは、通貨暴落で苦しむアジアの国々を外から経済的に管理する機関として働いた。
 当面の経済危機を解決し、その国の回復力を補助するのであれば、IMFの役割は、債務不履行を避けるために短期資金を提供することでよいはずである。しかし、IMFは、各国政府に、金利の大幅な引き上げと、中央銀行及び各銀行の信用創造の抑制、法改正を含む徹底的な構造改革を要求した。そのため、タイ、韓国、インドネシアでは、多くの銀行が破綻し、企業の破産、債務不履行の増加、工業生産の崩壊等が起こり、かえって、国民経済が深刻な状態に陥った。
 こうした状態を作り出しながら、IMFは外国の投資家が土地を購入し、銀行その他の重要産業を買収できるよう、各国政府に迫った。外資がどっと参入して、その国の資産を安く買いあさった。またIMFは、中央銀行を独立させ、その行動と政策について説明責任を負わなくするよう法改正をすることも、融資の条件の一つだった。それでいて、中央銀行は、IMFとは緊密に政策調整を図るべきだとした。このことは、その国の中央銀行を、IMFの管理下に置くものである。

 IMF及びその上位にある世銀は、対象国への支援・援助という範疇を超えて、その国の経済を支配し、アメリカ主導の経済社会政策を強要する機関となっている。そして、世銀及びIMFの支援・援助を受けることで、かえって国内の貧富の差が拡大し、また人権侵害や自然環境の破壊が進むという批判が上がっている。こうした動きを見ると、もともと世銀及びIMFの本質は、金融による世界支配を目指すという点にあるのではないか、と私は思う。

 

(2)金融による世界支配

 

●金融による世界支配の仕組み

 金融による世界支配というのは、巨大国際金融資本による世界経済の管理である。IMFは、基軸通貨としてのドルの価値を高め、守るための機構である。そのドルは、アメリカで作られる。しかし、アメリカでは、政府には通貨の発行権がない。おかしな話だが、連邦準備制度理事会(FRB)という民間会社が握っている。
 連邦準備制度とは、1913年(大正2年)、連邦準備法に基づいて設立されたアメリカ独特の中央銀行制度である。全国を12の連邦準備区に分け、各区に1行ずつ連邦準備銀行を設置する。その頂点にあるのが、連邦準備制度理事会(FRB)である。連邦準備制度理事会は、通貨の発行だけでなく、金利の統制も行っている。連邦政府とは別に、経済上の政府が別にあるようなものである。FRBと各国の中央銀行制度については、後に改めて書く。

 ブレトン・ウッズ体制の前期は、一般にIMF=GATT体制ともいう。ブレトン・ウッズ体制の後期、つまり現在の体制は、IMF=WTO体制と呼ぶことができる。その一角に、IBRDがある。その点では、IBRD=IMF=GATT/WTO体制と呼んだほうがよい。ただし、ブレトン・ウッズ体制の基盤には、アメリカの連邦準備制度があり、それに各国の中央銀行が連なっている。そこに集結している巨大国際金融資本が、国際経済体制を動かしていると考えられる。
 FRB、各国中央銀行、IBRD、IMF、GATT/WTO等と並べ続けるのは、分かりにくいので、改めてこうした第2次世界大戦後の国際経済体制を、ブレトン・ウッズ体制と呼ぶことにしたい。

●ユダヤ的な価値観の普及

 戦後の国際秩序の経済面として、ブレトン・ウッズ体制について書いてきたが、この体制は金融による世界支配を目指すものであり、その基盤にはアメリカの連邦準備制度があると述べた。連邦準備制度について、その由来・背景を補足したい。

 私は本稿の前編となる「西欧発の文明と人類の歴史」に、次のように書いた。

 「産業資本の確立期以降の資本主義の精神は、キリスト教よりもユダヤ教に近いものに変貌している。ユダヤ教は、現世における利益の追求を肯定し、金銭の獲得を肯定する。プロテスタンティズム的な「世俗内禁欲」とは正反対の価値観である。そして、ユダヤ教的な価値観が非ユダヤ教徒の間にも広く普及したものこそ、今日に至る資本主義の精神だと私は考えている。
 近代資本主義は、産業資本の形成をもって、初めて資本主義となった。産業資本が出現する以前、資本は商人資本、高利貸し資本という形態を取った。経済史学者は、これらを前期的資本と呼ぶ。そして商人資本、高利貸し資本からは近代資本主義は生まれないとする。
 しかし、経済活動は生産だけでなく、消費と流通と金融なくしては成り立たない。近代資本主義においては、商人資本は商業資本となり、高利貸し資本は銀行資本となった。産業資本は、生産によって利潤の獲得をめざす資本である。これを生産資本と呼ぶならば、商業資本は流通資本、銀行資本は金融資本である。生産だけでなく、消費・流通・金融がバランスよく発達してこそ、経済規模が拡大する。それによって、資本の価値増殖運動は持続的に発展する。生産は消費と結びつくことで、継続・拡大する。この生産と消費を結びつける流通と金融に巧みなのが、ユダヤ人だった。
 産業資本の発達による貨幣経済の拡大は、ユダヤ人の活躍の場を広げ、彼らに膨大な富をもたらした。それとともに、資本主義世界経済の発達によって、ユダヤ教の価値観がヨーロッパ文明のみならず、非ヨーロッパの諸文明にも浸透したところに、グローバル資本主義が出現したといえよう。ユダヤ人だけでなく、ユダヤ的な価値観を体得した諸国民が、地球規模の資本主義経済を推進しているのである」、と。

 ここにいうユダヤ的価値観が経済機構として現実化したものの一つが、アメリカの連邦準備制度であり、また世銀やIMF等の国際経済機構だろうと、私は考えている。

●通貨の発行権と民間銀行

 さて、国際経済体制は、資本と国家という異なる原理を持った二つの主体が相互作用しながら運動する場所である。近代主権国家の経済システムは、資本主義である。資本主義の経済活動は、貨幣なくして成り立たない。貨幣こそ、生産された商品を流通させる媒介者である。貨幣はまたそれ自体が商品でもあり、貨幣という商品を流通させる活動が、金融である。それゆえ、近代主権国家の政府は、貨幣経済の管理を重要な役割とする。租税の徴収や商品の購入、政府機構で働く官僚への給与等のほとんどが、貨幣によって行われる。
 その際、重要なのが、通貨の発行権である。一国の通貨の発行権を誰が持っているかという問いは、その国の経済を誰が実質的に支配しているかという問いに、ほぼ等しい。通貨発行権を政府が持つのが当然だと考えるのは、素朴な思い込みである。欧米の多くでは、民間銀行が通貨発行権を持っている。それが中央銀行となっている。巨大金融資本が通貨をコントロールしている。

わが国の場合は、紙幣は日本銀行が発行している。紙幣に、日本銀行券と明記されている。しかし、日銀は、国立銀行ではない。政府系金融機関ではあるが、資本金1億円で、ジャスダックに上場している株式会社である。政府が株式の50%を保有しているので、完全な民間銀行となることを免れている。

近代資本主義の発生の地、西欧で通貨発行権を最初に獲得した民間銀行は、1694年設立の英国銀行である。ロスチャイルド家が台頭するのは18世紀後半、欧州を席巻するのは19世紀初頭のナポレオン戦争を通じてゆえ、それよりはるか前の時代の話である。
 1743年、モーゼス・アムシェル・バウアーというユダヤ人の金匠が、「赤い盾」という名の古銭商の店を開いた。その息子のマイヤーは、家名を店の名の「赤い盾」、ドイツ語のロートシルトに変えた。ロスチャイルド家は、その時に始まった。
 マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、極めて先見の明のある人物だった。18世紀後半は、資本主義の発達とともに、近代主権国家が成長する時代だった。イギリスでは、産業革命が始まっていた。その時代の先を読んだように、マイヤー・アムシェルは、長男のアムシェル・マイヤーに本拠地のフランクフルトを継がせ、他の四人の息子をウィーン、ロンドン、ナポリ、パリに送った。そして、その地でそれぞれ銀行を設立させた。ロスチャイルドの息子たちは、その国の王侯・貴族と取引して巨富を得て、その国の主要な銀行家となり、他を圧倒していく。

●近代資本主義の完成としての中央銀行制度

 近代主権国家は、貨幣経済を管理するために、その国の信用制度の中心となる銀行を必要とする。それが中央銀行である。最初の中央銀行は、1694年にロンドンに設立されたイングランド銀行である。
 15世紀末、スペインからオランダに移ったユダヤ人は、アムステルダムでアムステルダム銀行を作り、銀行業務を発展させた。名誉革命以後、オランダからイギリスに多くのユダヤ人が移住した。彼らは、金融の知識・技術を発揮して、ロンドンを金融の中心地に変えていく。イングランド銀行は、ユダヤ人が銀行をさらに高度に発達させたものである。民間銀行だが、政府に巨額の貸付を行うことで、銀行券の発券特許を得た。これにより、政府は財政の維持や戦費の調達のために国債を発行し、銀行はそれをもとに貨幣を発行するという仕組みが作られていく。1833年には、イングランド銀行券は、法貨に定められた。法貨とは、法的強制力を与えられた貨幣である。

 銀行が出す貨幣は、銀行が保有する金(きん)に裏づけられ、いつでも金と引き換え可能とされる。しかし、実際には一度に引き換えが集中することはないから、銀行は保有している金の価値以上に、貨幣を発行できる。金の保有量の10倍の貨幣を発行しても、金融業務を行える。そこで銀行は、多量の貨幣を発行して貸し付け、利子を得る。こうして価値を増大することが出来る。
 もとは政府が銀行から金(かね)を借りるために、借金の証文として出した国債である。それをもとに銀行券を発行するのだから、無から価値を創造したようなものである。裏づけは、政府の信用であり、その信用は権力に基づく。さらにその権力は、政府の債務を返すために、国民から税金を徴収できるという強制力に基づく。国民は知らぬうちに借金をしていたことになり、政府がした借金を返済させられるわけである。
 近代主権国家は、個人の所有権、財産権、商業活動の自由、職業選択の自由等、国民の自由と権利を保障するための法制度を発達させた。それらは、資本と国家が富と権力を維持・発展することを可能とする仕組みである。そして、それに加えて、この中央銀行制度が完成したことをもって、私は近代資本主義が完成したと考える。
 貨幣は、利子をつけて貸すことで価値を増大させる。それが、資本主義の根本にある。貸し借りは権力関係を生む。この関係が個人と個人の間ではなく、資本家と政府の間で結ばれ、さらにその債権債務は政府が国民から徴税する方法で処理される。こうした仕組みが法制度化されたことにより、近代資本主義は仕組みとして完成したと私は考えるのである。
 
●ロスチャイルド家がアメリカに進出

 ナポレオン戦争は、ロスチャイルド家に飛躍をもたらした。各国に戦争のための資金を貸し出して巨額の債権を得、また戦争を通じた投機で大もうけをした。それによって、ロスチャイルド家は、当時の世界の金融の中心地、ロンドンのシティで主要な存在となった。
 イギリスでは、それまでシティの支配者だったのは、ベアリング家である。ベアリング家は、現在もイギリスの大貴族であり、一族で爵位を6つ持っている。また封建領主からの伝統的な貴族や海賊・商人上がりの貴族もいる。こうした所有者集団の一角に、ロスチャイルド家が入り込み、時を追うごとに中心的な存在となっていった。

 当時ヨーロッパの主要国は、植民地経営で栄華を誇っていた。ロスチャイルド家の発展はめざましく、イングランド銀行を始め、ヨーロッパの主要国のほとんどの中央銀行が、ロスチャイルド家の支配下に入ったり、ロスチャイルド家の所有銀行が中央銀行となったりした。例外は、帝政ロシアだけである。
 
 ロスチャイルド家が次に重要な進出地としたのが、新興国アメリカである。アメリカ合衆国は、植民地時代、イギリスのジョージ3世から、植民地独自の通貨の発行を禁止され、代わりにイングランド銀行の通貨を利子つきで購入し、それを使うように命令された。これに植民地の人民は反発した。本国イギリスからの独立は、ポンド・スターリングに代わる独自の通貨を発行する権利を獲得することをも意味していた。1792年、アメリカは、ドルを公式に採用した。
 合衆国憲法は、通貨の発行権は連邦議会にあることを定めた。第1条立法府の第8節(5)に「貨幣を鋳造し、その価値および外国貨幣の価値を定め、また度量衝の標準を定めること」とした。
 建国の功労者で第3代大統領となったトーマス・ジェファーソンは、「もしアメリカ国民が通貨発行を私立銀行にゆだねてしまったら、最初にインフレが起き、次にデフレが来る」と警告した。
 ロスチャイルド家を中心とするヨーロッパの金融資本は、自分たちの資金力でアメリカを金融的に支配しようと試みた。20世紀の初頭までに、彼らによる中央銀行の設立が8回計画されたが、設立の危険性を理解するアメリカの政治家は、これに対抗し、その都度廃案にした。

●他の財閥とともに連邦準備制度を設立

 20世紀初頭、アメリカの金融界は、ロスチャイルド、ウォーバーグ、モルガン、ロックフェラーの4大財閥によって支配されていた。彼らは協同で中央銀行の設立を目指した。そして、ついに1913年に連邦準備法が制定され、連邦準備制度(FRS)が創設された。米連邦準備銀行は、イングランド銀行・ドイツ銀行をもとに構想された。原案は、ロスチャイルド家と深い結びつきを持つポール・ウォーバーグが中心となって作成したといわれる。法案にはウィルソン大統領が署名した。ウィルソンには、エドワード・マンデル・ハウス大佐という側近がおり、ハウスは欧米の財閥の意思を実現するため活動した。
 先に書いたように、連邦準備制度とは、アメリカ独特の中央銀行制度にほかならない。ヨーロッパの中央銀行制度が、アメリカでも作られたわけである。
 アメリカの場合、全国12箇所に存在する連邦準備銀行を統括する組織として、連邦準備制度理事会が置かれている。理事会の議長の任命権は、大統領が持つ。

 連邦準備制度は、設立当初から、その危険性を多くの政治家が何度も指摘した。1922年、セオドア・ルーズベルト元大統領は、ロックフェラーのスタンダード石油と国際的銀行家を「陰の政府」と呼んだ。ニューヨーク市長ジョン・ハイランは、この元大統領の発言を受け、彼らが合衆国政府を事実上運営していると公言した。
 1936年、連邦議会の銀行通貨委員会議長を務めたルイス・マクファッデン共和党議員は、下院での議会演説にて、連邦準備銀行は「政府機関ではない。自らの利益と外国の顧客の利益のために、合衆国の国民を食い物にする私的信用独占企業体だ。連邦準備銀行は外国の中央銀行の代理人である」「連邦準備制度理事会が合衆国政府を強奪してしまった」と述べた。

●アメリカ連邦準備銀行の株主

 ピーター・カーショウは、アメリカ連邦準備銀行の10大株主を挙げている。すなわち、ロンドンのロスチャイルド家、ベルリンのロスチャイルド家、パリのラザール・フレール、イタリアのイスラエル・セイフ、ドイツのクーン・ローブ商会、アムステルダムのウォーバーク家、ハンブルクのウォーバーク家、ニューヨークのリーマン・ブラザーズ、同じくゴールドマン・サックス、ロックフェラー家だという。
 10のうち7つまでが西欧の財閥や会社である。アメリカの連邦準備制度は、単にアメリカの金融的中心というだけでなく、国際的な金融の中心となっていることが窺われる。と同時に連邦準備制度が創設された1913年当時の米欧の資本の力関係を反映しているのだろう。またロックフェラー家を除くと、みなユダヤ系である。なお、10大株主とされるうち、クーン・ローブ商会はリーマン・ブラザーズに吸収されている。そのリーマン・ブラザーズは、最近、2008年(平成20年)9月に経営破たんした。

 連邦準備制度は、全米を12に分け、それぞれ一個の連邦準備銀行を置く。そのうち中心的役割を担うのが、ニューヨーク連邦準備銀行である。ジム・マーズによると、ニューヨーク連銀は、チェイス・マンハッタン銀行とシティ・バンクの二つの銀行によって支配されている。この二行でニューヨーク連銀の株の53%近くを保有しているという。チェイス・マンハッタンは、現在のJPモルガン・チェイスである。
 私は、カーショウの10大株主という説と、マーズの二大銀行という説の整合性はまだよくわからないが、重要な点は、債権の所有者が誰であれ、制度の構造は変わらないということにある。

●連邦準備制度の問題点

 アメリカの連邦準備銀行は、民間団体でありながら通貨発行権を握っている。連銀は、その特権によって、連邦政府が印刷した紙幣を原価並みの値段で買い取る。それを政府は連銀から額面どおりの値段で借りる。その結果、利子の支払いが生じる。政府からほぼ原価で引き取った紙幣を、政府に額面どおりに売り、そのうえ利子を取るのだから、利益は莫大となる。この仕組みは、「紙幣の錬金術」と呼ぶに値する。
 連邦準備銀行は、民間企業でありながら、税金申告は免除され、会計報告も免除されている。連邦準備制度理事会の会計は、監査を受けたことがない。連邦議会の管理が効かない存在となっている。巨大国際金融資本による経済的な政府が、大統領を中心とする連邦政府を、背後から操作しているようなものである。
 アメリカの連邦政府はどのようにして、連銀から借りる紙幣の利子を支払うのか。1913年、連邦準備制度が創設された際、巨額の利子の支払いが予想された。巨大国際金融資本は、政治家に働きかけ、国民の税金を支払いに当てることを制度化しようとした。その目的で導入されたのが、個人の連邦所得税である。当時、連邦所得税は合衆国憲法に違反するという判決を最高裁が出していた。しかし、それにもかかわらず連邦所得税が導入された。その徴税を担う役所が国税庁(IRS)であり、連銀と同じく1913年に設立されている。

 連邦所得税は、連銀への利子の支払いに当てられる。国民のために使われるべき税金が、FRBへの支払いに費やされている。そんな馬鹿な、と誰もが思うだろうが、FRBと連邦所得税の創始後、レーガン大統領時代に初めてこの実態が明らかになった。
 レーガンはピーター・グレイスを委員長とする特別委員会を作り、税金の使途を調査した。その結果、個人の連邦所得税は全額、連銀への利子の支払いに当てられていることがわかった。1セントも国民のためには使われていないのである。特別委員会によって調査結果が発表されると、連銀は毎年印刷する紙幣の量、つまり国に貸し出す金額の公表を取りやめた。そのため、どれだけの金額を国が連銀から借り、それにどれだけの利子がつくのか、依然としてわかっていない。
 ちなみに、2006年度(平成18年度)のアメリカ連邦政府の年度会計では、個人の所得税が税収の半分近くを占めている。ところが、その個人所得税の総額、9696億ドル(116兆28億円)もの大金が、国民のためには使われていないという。

●巨大国際金融資本による世界中央銀行的存在

 アメリカの連邦準備制度は、アメリカ独自の中央銀行制度である。しかし、第2次世界大戦後、ドルが基軸通貨となったことにより、アメリカ連邦準備銀行は、先進国諸国の中央銀行の中で中心的な存在となった。すなわち基軸通貨ドルを発行し、金利を決定する世界の金融の要となったのである。
 世銀やIMFは、巨額の資金を対象国に融資し、戦後の復興の事業で利益を出した。また、その国が経済発展の段階に入ると、中央銀行を設立したり、または傘下にしたりして、その国の経済を管理下に置く。そして金融を通じて国家を支配する活動をしているものと思われる。
 その世銀にしてもIMFにしても、アメリカからドルの供給を受けるわけである。世銀やIMFは、アメリカの連邦準備銀行がその国際業務を、国際社会の経済機構に担わせたものとも考えられる。そして、連銀は、純粋にアメリカの銀行ではなく、ユダヤ系を中心とする米欧の巨大国際金融資本が共同出資した世界中央銀行的存在と考えられる。
 
 大戦後、基軸通貨として長く君臨してきたドルの力は、2000年代の今日、徐々に衰えつつある。地域統合が進むヨーロッパでは、統一通貨ユーロが創設され、中東やロシアとの間で石油・天然ガス等の決済に一部使われている。欧州連合(EU)では、欧州中央銀行制度が確立し、ドイツのフランクフルトに本部を置く欧州中央銀行(ECB)がユーロを印刷している。それを加盟各国の中央銀行に分配するという通貨システムが駆動している。その背後には西欧諸国の中央銀行を連結するロスチャイルド家等の巨大国際金融資本の意思が働いているのではないか。

●現代国際秩序の社会的諸関係

 近代世界システムは、世界帝国ではなく世界経済として形成された。覇権国家は、オランダ、イギリス、アメリカと移行した。冷戦終焉後は、アメリカが初めて世界帝国となった。この間、その時期ごとに、覇権国家には有力な対抗国家があった。オランダにはフランス、イギリスにはドイツ、アメリカにはソ連である。
 近代世界システムにおける国家の政策は、重商主義、自由主義、帝国主義と変化し、第2次大戦後は、新たな自由主義と共産主義が対立した。新たな自由主義とは、これまで書いてきたブレトン・ウッズ体制の基本政策である。このように政策は変化しても、資本主義の経済システムは一貫して拡大を続けてきた。
 近代世界システムにおいては、国家よりも資本が優位に立っている。文明間・国家間の相互作用の場所として、資本主義経済システムが全体を基礎付けている。
 近代資本主義は、最初から、一国内で発生・発達したものではない。資本主義世界システムは、15世紀後半、文明間・国家間の相互関係の中で発生した。その後も国際的分業体制の拡大とともに、中核部で産業資本が発達した。
 マルクスは、経済活動を、生産関係を中心に考えた。しかし、経済活動には生産・消費・流通・金融の四つの側面がある。経済活動は、生産・消費・流通・金融を含む経済的社会関係の全体で考えねばならない。第2次大戦後の世界では、ブレトン・ウッズ体制がこの関係に骨組みを与えた。
 こうした経済的社会関係を基盤として、文明間・国家間・都市間・地域間等の社会的諸関係が張り巡らされている。そのネットワークの中で、近代の独立主権国家が成長し、国内の法・制度を整備し、また思想・文化も発達した。第2次世界大戦後の世界では、国際機構としての国際連合、地域安全保障のためのNATO、ワルシャワ条約機構等が創設された。これらも、経済的社会関係の上に成立したネットワークの要素となっている。

(3)現代の資本主義

 

●資本主義とは何か

 戦後の国際秩序のことからは離れるが、ここで話を掘り下げるために、改めて資本主義とは何かということについて述べておきたい。
 資本主義は、マルクスの用語ではなく、彼の後に幅広く使用されるようになった言葉である。まず資本とは、事業の元手である。一般には資金や生産設備と考えられている。資本制生産様式とは、生産手段を私有する資本家が、生産手段を持たない労働者の労働力を商品として買い取って商品生産を行う生産様式をいう。資本主義とは、資本制的生産様式が主たる生産様式になった社会経済体制をいう。近代市民社会は資本制的生産様式が支配的になった社会である。
 マルクスは、『資本論』で資本制的生産様式が支配的となった社会の原理を究明し、またこの社会が形成された歴史を描こうと試みた。彼のとらえた資本とは、資金とか生産設備とかいった物象ではなく、生産関係にほかならない。「資本とは、物象ではなく、物象を介した人と人との間の社会的関係である」(『資本論』)、「資本は一つの社会的生産関係である」(『賃労働と資本』)とマルクスは明言する。
 マルクスによれば、資本は貨幣や商品や生産手段ではなく、一方に生産手段を私有する少数の資本家、他方に生産手段を奪われ自分の労働力を商品として売るしかない多数の労働者がいるという生産関係が、貨幣や生産手段等を資本たらしめるのである。
 賃金労働者は、労働力商品を資本家に売り、資本家は、労働力という他人の所持する商品を買うという関係にある。マルクスは、この資本家と労働者の関係を、階級という概念でとらえ、階級関係は、政治的な支配関係を伴うが、本質的・基本的には生産の場における経済的関係であることを洞察した。

 資本制的生産様式においては、商品の生産過程で剰余価値が生み出され、資本家はこれを利潤として獲得する。資本は、賃労働者を搾取して得た剰余価値を領有する。従って、資本とは剰余価値を生む価値であるとマルクスは主張した。
 この理論の基礎にあるのは、労働価値説である。マルクスは、イギリス古典派経済学による、商品の価値はその生産に投じられた労働量によって決まるという労働価値説を継承した。彼は、労働と労働力を区別し、労働力商品が生産過程で余分の新価値である剰余価値を無償で産むという剰余価値説を唱えた。
 マルクスは、労働力商品が市場で売買される際、外形的には等価交換がされていることを認めている。その上で資本家が正当な手続きで商品経済の論理、等価交換の原理に則りながら、どうやって剰余価値を搾取しているか、その仕組みを解明しようとマルクスは試みた。
 マルクスによれば、資本家は労働力の価値の回収に要する必要労働時間以上に労働時間を延長することにより、その超過分である剰余労働を剰余価値として取得する。剰余価値は、利潤、地代、利子等の不労所得として現れるとした。
 私は、こうしたマルクスの資本主義に関する理論には、欠陥があると思う。

●マルクスの理論ではとらえ切れない

 資本主義に関するマルクスの理論的欠陥の一つは、商品について市場における価値の決定という要素を軽視していることにある。
 同じ量の労働時間を投じて生産した商品でも、他社の商品より品質が悪かったら売れない。また、消費者の求める新しい商品を開発しなければ、いつまでも同じ商品を作っているのでは、売れない。売れない商品を山ほど作っても、価値を産出したことにはならない。投下された労働時間が同じでも、売れない商品の価値はゼロである。商品が売れなければ、賃金は払えない。資本家自身も倒産する。
 また、マルクスは、労働力を量的にのみとらえ、労働者の能力の質的な違いを捨象した。しかし、労働力商品の価値もまた他の商品と同様、需要と供給によって決まる。また、単純作業の機械的肉体労働と、知性・感性を発揮する創造的精神労働では、市場における価値が大きく異なる。労働力の質が商品の価値を高める。発明や工夫、デザイン等、生産に知識・技術・美意識を要するものは、市場における価値が高くなる傾向がある。特に消費者の欲求に応え、また消費者の欲求を引き出す商品は、高い価値を獲得し、また多くの需要を創出できる。このように商品の価値を高めるものは労働力の量ではなく質であり、質の高い労働を行う労働者は、それだけ多くの賃金を得る。
 それゆえ、市場における交換原理を中心にすえない限り、価値の本質と、その創造、決定、増殖のメカニズムは、解明し得ないと思う。

 マルクスの理論的欠陥の別の点は、階級闘争や政治的支配を説きながら、権力に関する分析が不足していることである。
 資本主義における経済的社会関係は、権力関係を抜きに考えられない。権力関係が基礎にあって、資本制的生産様式の生産関係が構成されている。権力関係とは、支配―服従または保護―受援の関係である。資本主義社会で広く見られる支配―服従の関係は、一方が自分の意思に他方を従わせ、他方がこれに従うという双方の意思の働きである。意思の働きは、権威という心理的な作用のみで機能する場合と、実力ないし武力という物理的な作用を伴う場合がある。

 資本家と労働者の間における賃金の決定には、双方の意思が関わっている。これは支配―服従の権力関係によるものであって、商品経済の論理とは異なる社会的要素である。資本家の力が圧倒的に強い場合は、労働者は15〜16世紀のラテン・アメリカやアフリカの奴隷のように、まったく無力な存在となる。賃金すら得られない。逆に労働者の力が相対的に強くなると、資本家は賃金を上げざるを得ず、労働者は豊かになり、社会保障も充実していく。19世紀後半以降の西欧先進国では、こうした変化が起こった。この変化は、権力関係の変化によるものであって、経済法則からは出てこない。マルクスの理論モデルは、19世紀半ばのイギリス社会には、ある程度近似しているとしても、それ以前の非西洋文明やそれ以後の欧米社会には、よく当てはまらないのである。
 資本主義社会を把握するには、資本主義以前の経済社会、及び変貌する資本主義社会との比較の中で理解せねばならないが、そのためには権力関係に関する分析を重視しなければならないと思う。

 マルクスの理論的欠陥として、市場の交換原理の軽視と権力の分析不足の二点を挙げた。市場における商品交換と支配ー服従または保護―受援の権力関係は、ともに人間の意思の形成と交通に関する事象である。意思の形成と交通には、理性だけではなく情念つまり感情、感覚や信条が深く関わっている。数理的合理性では割り切れない人間の心の領域がそこにはある。そして、資本主義以前の社会における道徳・宗教・伝統文化等は、この情念を含む心理作用の表われであり、資本主義社会においても、人間の行動の基礎となっている。近代化とは「生活全般の合理化」(マックス・ウェーバー)の進展であるが、その一方で、市場における商品交換と支配ー服従または保護―受援の権力関係においては、目的合理的に合理化しえない心理作用が働いているのである。

 なお、ウェーバーは合理性を価値合理性と目的合理性に分けているが、価値合理的行為は単に理性的ではなく情念的な行為であって、倫理・芸術・宗教等における行為には、意識的な感情・感覚・信条だけでなく、個人的無意識、集合的無意識が働いている場合がある。これを、近代西欧的なデカルト的自我をモデルにした合理性という概念で覆い尽くすことは出来ないと私は考える。

 マルクス主義的共産主義は極度の合理主義である。それゆえ非合理性の領域を軽視し、そのために限界と矛盾を示した。20世紀の共産主義は旧ソ連の崩壊、東欧の自由化等に結果したが、その原因はもともとマルクスの理論的欠陥にあったのである。

関連掲示・
・拙稿「心の近代化と新しい精神文化の興隆
・拙稿「所有と支配の矛盾〜求められる精神的向上」及び「極度の合理主義としての共産主義の崩壊

 項目の0506

 

●権力関係を加えないと価値の移転は説明できない

 ウォーラーステインは、近代世界システムの分析において、中核部と周辺部の間で商品交換が行われる際、周辺部において競争的に生産される産品は弱い立場に置かれ、中核部において独占に準ずる状況で生産される産品は強い立場を占めるとし、「結果として、周辺的な産品の生産者から中核的な産品の生産者への絶え間ない剰余価値の移動が起こる」と説く。しかし、ウォーラーステインは、剰余価値という用語を使っていながら、この用語は「生産者によって獲得される実質利潤の総額という意味でしか用いていない」と断っている。
 アルギリ・エマニュエルは、周辺的産品が中核的産品と交換されるときに、剰余価値の移転を伴うとし、これを「不等価交換」と呼んだ。これについて、ウォーラーステインは、「不等価交換は、政治的に弱い地域から政治的に強い地域への資本蓄積の移転の唯一の形態ではない。たとえば収奪というかたちもあり、近代世界システムの初期の世界=経済に新しい地域が包摂される際には、広い範囲でしばしば行われた」と述べている。すなわち、「政治的に弱い地域から政治的に強い地域への資本蓄積の移転」には、収奪、不等価交換等の形態があるとしている。
 私見を述べると、不等価交換は、市場での交換における価値の移動の非対称性をいう。形式的には等価交換に見えるが、実質的には不等価交換になっているために、一方的に価値が移動していくわけである。これに比べ、収奪は、強制的に奪い取ることである。売買という経済的な行為ではなく、権力による政治的な行為である。多少の対価が支払われても、極度に非対称的な場合は、収奪という。
 ウォーラーステインは「政治的に弱い地域から政治的に強い地域へ資本蓄積の移転」と書いているが、私は、価値の移転は、経済原理論的なものだけではなく、政治学的な権力関係によると考える。そして権力関係という社会的要素を重視しなければ、資本主義の経済活動の根本構造は理解できないと私は思う。


●資本主義と社会主義の類似性

 次に、資本主義と社会主義の比較を述べたい。社会主義は、社会的不平等の根源を私有財産制に求め、それを廃止ないし制限し、生産手段の社会的所有に立脚する社会を作ろうとする思想・運動である。西欧の社会主義には様々な思潮があるが、1864年の第1インターナショナルの結成以後、社会主義は、主として議会を通じて平和的に目標を実現しようとする社会民主主義と、暴力革命によって社会改革を行おうとする共産主義の二つに大きく分かれた。
 共産主義は思想・運動であって、社会体制としての共産主義は、いまだかつて地上に実現したことがない。この項目では、経済社会の体制をついて述べるので、混乱を避けるため、旧ソ連とその系列国の共産主義を、社会主義という上位の概念で記述する。

 私は、戦後世界を長く二分した旧ソ連の社会主義体制は、資本主義とまったく異なるものだったとは考えない。旧ソ連は、政策としては、思想的には共産主義、特にその中のマルクス=レーニン主義だが、経済体制としては社会主義である。
 旧ソ連の社会主義体制は、資本主義を脱却し、原理的に別のものになったわけではなかった。所有の形態は、一部私的所有から社会的所有に変わった。しかし、所有は支配という行為と関連付けて考えなければいけない。所有者が資本家から国家に変わったといっても、その国家を支配しているのが、権力を握る特定の集団であれば、その集団は、多くの富を領有することができる。旧ソ連では、共産党の官僚が新たな特権階級となり、新しい貴族となった。
 私は、先に資本家と労働者の間における賃金の決定は、権力関係によると書いたが、社会主義を標榜する国家において、貴族的な共産党官僚と貧しい労働者・農民という分化が起こったのは、支配集団と労働者・農民との権力関係による。共産党が権力を独占し、国民大衆には政治的自由がない。こうした社会では、自由主義的資本主義の社会よりも、労働者・農民は弱い立場となる。所有の形態より、支配の実態が重要なのである。

 それゆえ、旧ソ連の社会主義は資本主義を変形したものであって、資本主義とまったく別のものではなかったことがわかる。所有の形態が変わったとしても、資本主義の本質は維持されている。マルクスは、資本とは、貨幣や商品や生産手段ではなく、一方に生産手段を私有する少数の資本家、他方に生産手段を奪われ自分の労働力を商品として売るしかない多数の労働者がいるという生産関係が、貨幣や生産手段等を資本たらしめるとした。ここにおける資本家が共産党官僚に置き換えられた社会が、旧ソ連の社会主義体制であり、そこにおける生産関係は、本質的には変わっていない。
 社会主義は、資本主義が市場原理によるのに対し、計画経済を試みた。しかし、膨大な種類と量の商品を生み出す国民経済を、政府が完全に管理することはできない。工業製品の一部は計画的に生産できたとしても、農産物の収量は天候など自然条件に左右される。また、国民の生活資材は、国家が配給するものだけでは、欲求が満たされない。そのため、商品の価格を完全に統制することはできない。
 それとともに、旧ソ連時代の社会主義体制は、資本主義世界とまったく隔絶していたわけではない。資本主義諸国や外国資本から商品を購入し、またそれらに商品を販売していた。資本主義圏との間で、外貨を用いて貿易をし、通貨の交換を行っていたから、資本主義の経済システムに組み込まれ、その一部となっていた。

 次に、上記のような社会主義経済体制を取る共産主義とファシズムの違いは何か。共産主義的社会主義とファシズムは、経済的な側面に関する限り、私的所有と社会的所有の度合いの違い、及び政府による経済統制の度合いという相対的な違いに過ぎない。私は、ともに統制主義的資本主義と見ることができると思う。旧ソ連は、それをマルクス、レーニンの用語で粉飾し、ナチス・ドイツはマルクス、レーニンの用語を排除しただけで、政府による統制主義的資本主義という点では、本質的な違いはない。
 この点をより明確に理解できるのは、共産中国における社会主義市場経済の導入である。社会主義市場経済とは一見珍妙な概念だが、もともと社会主義は資本主義とまったく異なったものではなく、資本主義の変形である。政府の統制のもとで市場経済を拡大する政策が、原理的に可能なのである。
 共産主義とファシズムは、マルクス=レーニン主義的共産主義の思想で主導するか、ナショナリズムの思想で主導するかによって、表面は大きく違うが、その相違は本質的な相違ではない。特に共産主義を標榜しながら、ナショナリズムを強調する国家の外交的・軍事的行動は、ファシズムのそれと同様となる。その例が、スターリン時代の旧ソ連であり、江沢民以降の共産中国である。

●資本主義は変貌しつつ発達を続けている

 資本主義は、19世紀の後半から様々な点で変貌しながら生き延び、またますます発達を続けている。マルクスの理論によれば、恐慌によってとうに革命が起こり、社会主義に移行しているはずである。ところがそうはなっていない。
 資本主義の変貌の一つは、株式会社の普及である。株式会社は資本の一つの形態である。株式という金融商品の大衆化は、資本家と労働者を単純に有産者・無産者と分けることをできなくしている。ほとんどの企業は株式会社となり、労働者も株式を購入することで、小規模ながら資本の所有者となりうる。年金も、個々の労働者に支払われるのは小額だが、国民全体ないし企業組合が持つ原資は巨額となる。巨額の資金が機関投資家に委託され、銀行や証券会社はそれを株式・社債等で運用し、利益を上げる。その利益が、年金受給者に分配される。生命保険も同様で、加入者となった労働者は共同出資者となり、利益の配分を受けるから、小資本家でもある。
 かつてマルクス及びマルクス主義者によって、資本主義は、私有財産制と契約自由の原則に基づいて、資本家の私的利潤獲得のために生産が行われるから、社会全体の生産は無政府的性格を持つとされた。これは、19世紀から1920年代までの自由主義的資本主義には、当てはまる。しかし、アメリカにおけるニューディール政策やケインズの理論によって、資本主義は政府の介入を受け、一定の管理のもとで経済活動が行われるようになった。現代の資本主義は、管理された資本主義であり、修正資本主義といわれる。

 レーニンの理論によれば、20世紀初頭の帝国主義は資本主義の最高にして最後の発展段階であり、社会主義革命への準備段階だった。しかしその予想とは異なり、帝国主義は資本主義の最高の段階でも最後の段階でもないことが、歴史によって示された。むしろ社会主義は矛盾を示してソ連では崩壊し、中国では市場経済を取り入れている。
 レーニンが挙げた帝国主義の特徴の多くは、独占資本主義の特徴であり、経済学的な分析によるものである。しかし、帝国主義は、基本的には対外政策であり、もともと経済外的な動機による。経済外的な政策によって、資本主義経済が国際的に管理・統制されれば、各国の対外政策は変わりうる。
 事実、資本主義は、20世紀半ばから21世紀にかけて、大きく変貌した。19世紀的な軍事偏重の帝国主義政策は、維持されなくなった。国際連合の設立、ブレトン・ウッズ体制、植民地の独立等は、資本主義世界経済に新たな可能性を与えることになった。近代西洋文明が生み出した資本主義世界経済というシステムは、柔軟な可塑性と堅固な持続性を持っているのである。そして、1990年代以降、情報科学と金融技術が結びついたグローバル資本主義が、アメリカの主導により世界的に推進され、資本主義は新たな活力を発揮して、地球の隅々を覆いつつある。

 資本主義を根本から別のものに変える原理は、まだ見出されていない。現在の世界で可能なことは、国際的また各国的に資本主義を管理し、一定の制御の中で経済活動を行うことである。その制御は、欲望を縮小し、私益より公益の実現を喜びとし、自然との調和を重んじるという人々の精神的な向上なしには成し得ない。新しい精神文化の興隆が求められる所以である。

●権力関係と貨幣の自己増殖

 資本主義における経済的社会関係は、権力関係を抜きに考えられない。その点を補足したい。権力関係が基礎にあって、資本制的生産様式の生産関係が構成されている。権力関係とは、支配―服従または保護―受援の関係である。一方が自分の意思に他方を従わせ、他方がこれに従うという双方の意思の働きである。意思の働きは、権威という心理的な作用のみで機能する場合と、実力ないし武力という物理的な作用を伴う場合がある。
 マルクスが剰余価値としてとらえようとした価値は、利潤・利子・地代という形で取得される。これらの価値はすべて貨幣で表現され、蓄積される。マルクスは生産に重点を置き、資本における利潤の増大のメカニズムを解明しようとした。しかし、私は、資本の典型としての貨幣にもっと注目すべきだと思う。
 貨幣は、資本主義の不可欠の要素である。資本主義は、貨幣経済が高度に発達したものである。資本は、自己増殖する価値の運動体である。その典型は、貨幣である。貨幣の貸借は、返済の義務を生じる。この関係は、自由な契約により、貸主と借主の間の自由意思の働きである。返済が賃借の金額と同額であれば、貨幣は増加しない。しかし、貸借の報酬として、利子を取るとき、貨幣は増殖する。この貨幣の自己増殖の運動は、資本主義の本質的な要素である。
 貨幣という典型的な資本の形態なくして、資本主義は成立しない。貨幣の貸借は、自由意思による契約であるが、返済の義務は、強制的な取立てを伴う。平等の関係が支配―服従の関係に転じる。そこに闘争的な権力関係が発生する。

●ユダヤ人は古代中東の諸文明の伝統を継承

 ユダヤ人と近代西洋文明の関係については、別途主題化すべきものであるので、ここでは記述の流れで必要なことのみ書く。
 古代メソポタミア文明における古代バビロニア王国では、ハンムラビ王が、紀元前18〜17世紀に「ハンムラビ法典」を制定した。法典は、大商人から元手を借りて商業を行なう代理人が利益をあげなかった時は、借りた銀の2倍返すと定めていた。貧民は神殿で食料、種などを借りられ、貸付利子は大麦が33%、銀が20%だった。また為替で特定額の貸付を行うことが、ハンムラビ王の時代には知られていた。ヒッタイト人、フェニキア人、エジプト人の間でも、利子は合法的であり、しばしば国家によって利子率が決定された。
 イスラーム文明で8世紀後半に樹立されたアッバース朝では、経済規模の拡大に通貨の供給が追いつかなかった。金銀貨の両替に当たる銀行が一種の小切手を振り出し、その使用が一般化した。バグダットには多くの銀行が設立され、そこで振り出された小切手は、アフリカ北西端のモロッコでも現金化できたという。

 こうした古代バビロニア王国からアッバース朝にいたる2千年以上の経済的伝統をよく体得したのが、ユダヤ人だった。ユダヤ人は、西アジアの諸文明の経済文化の影響を受けた。モーゼ五書の一つ、『申命記』に、「外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない」と定めている。同胞ではなく外国人からは利子を取っても、取り立てをしてもよいという教えである。
 故国を失って離散したユダヤ人は、移住した地でも生活できる職能を身につけた。その職能のひとつが商業だった。外国語を習得し、異文明間の交流において通訳と交易を行うことができるユダヤ人は、各地の為政者に重用された。西欧のキリスト教社会では、金銭を扱うことは汚い職業とされていた。そのため、ユダヤ人が金融業を担当していた。ユダヤ人は、ユダヤ教の教えに従って、キリスト教徒に、利子をつけて貨幣を貸し、利子の支払いを受けた。その商慣習がキリスト教徒の間に普及したとき、西欧に資本主義が胚胎したと私は思う。
 すべての価値は、市場において、貨幣をもって数理的に表現される。その貨幣は、賃借によって増殖する。それゆえ、貨幣を持つ者は、一層の富を集める。貨幣による富を追い求める者は、拝金主義者となる。拝金主義者は、いつの時代、どこの社会にもいた。重要なのは、西欧の社会におけるユダヤ人が、西欧社会にユダヤ的価値観を広げたところに、有色人種の植民地から西欧に富が収奪され、さらに産業資本が発生して生産力が飛躍的に向上したことである。生産を担う産業資本は資金が要る。また商品の流通には、信用制度が便利である。そこにおいて貨幣の所有者は、限りない価値増殖の場所を見出した。

 西欧における貨幣の所有者は、貨幣を産業資本家よりも、政府に貸し付けるほうが、巨大な利益を生むことを認識した。その最大の機会が、戦争である。戦費を調達し、政府に貸し出す。戦後は、その債権によって、貨幣は増殖する。平時においても、国債を購入することで、債権を得て、貨幣は増殖する。

 さて、このように述べてきたところで、再度アメリカの連邦準備制度について語っておきたい。貨幣所有者としての資本家が、政府に貨幣を貸し付けるその究極の形態こそ、通貨の発行である。政府が印刷した紙幣を原価で買い取り、それを額面で政府に貸し付ける。しかも利子を取る。こういう仕組みを作れば、恒常的に貨幣は利子を生み続け、資本は自己増殖を続ける。
 ここで重要なのが利子の支払いである。アメリカの連邦政府は、その利子の支払いのために、国民から個人所得税を徴収する制度を作った。銀行が政府に貨幣を貸し付ける。その利子を国民が税金で払う。これは、銀行が直接国民に貨幣を貸し付けているのと同じことである。銀行(資本家)が国民(労働者)にお金を貸し付けて利子を取る。ただし、国民は政府に納める所得税が、自分が知らぬ間に借りた借金の返済のために、徴収されているとは、わからない。こういう仕組みが、連邦準備制度=連邦所得税制度ではないかと私は考える。


●暴走する資本、欲望を制御できない人類への警告

 金融による世界支配とは、貨幣を持っているものが金の力で世界を主導・管理することである。これは、19世紀のヨーロッパでロスチャイルド家が実現したことである。ロスチャイルド家は、金融によるヨーロッパ支配を実現した。ナポレオンが武力で出来なかったことを、ロスチャイルド家は金力で成し遂げたのである。
 アメリカの連邦準備制度とは、ロスチャイルド家が成し遂げたヨーロッパの金融による支配をアメリカにも拡大するものである。さらに、その制度を基礎とするIBRD・IMF等は、それを世界に拡大するものだろう。こうした金融による世界支配は、ユダヤ的な価値観によるものだと私は思う。推進主体は、ユダヤ人に限らない。ユダヤ的価値観を体得した非ユダヤ人が、多数いる。ユダヤ系かどうか、ユダヤ教徒どうかは、本質的ではない。ユダヤ的な価値観を体現しているかどうかがポイントである。言い換えれば、巨大国際金融資本が、金融による世界支配を進めているのであり、その所有者や経営者の中には、ユダヤ人もいれば非ユダヤ人もいるということである。
 資本は欲望の権化であり、欲望の物質化・機構化にほかならない。欲望を解放し、欲望が欲望を刺激して、自己増殖するシステムが資本主義である。その欲望の解放・増大を肯定し、促進するのが、ユダヤ的価値観である。
 国家間の対立、イデオロギーや体制の違いに関りなく、資本は双方に投資し、国家間の競争を利用して価値増殖運動を続ける。戦争も平和も、好景気も不景気も、すべてビジネスチャンスであり、諸国家の興亡も、諸文明の隆衰も、資本の成長にとってはすべてが栄養となる。この資本と決定的に対立するもの。それは、自然である。地球の自然こそ、資本の暴走の前に立ちはだかる、もの言わぬ警告者である。自らの欲望を制御できずに突き進む人類に対し、地球の自然は、自滅の危機を黙示している。中でも重大な警告が、地球の温暖化であり、それに伴う気象の異変や生態系の崩壊である。
 人類社会を大きく変貌させてきた近代西洋文明の重要要素に、ユダヤ的な価値観がある。その価値観を転換し、人と人、人と自然が調和して生きる価値観を確立し、世界に普及すること。それが、現代人類の重要課題だと思う。

 

(3)現代世界の支配構造

 

●近代化した社会の集団構成

 次に、現代世界の支配構造について述べたい。近代西洋文明及び近代世界システムは、資本と国家という二つの主体の相互作用のもとに発達した。資本と国家を人格的に言えば、資本家と統治者である。
 西欧では、中世の封建社会の統治者である王族・貴族が富と権力を所有し、支配集団を構成していた。近代化の進行によって資本家が成長し、この支配集団に参入した。それによって、封建制的身分的な集団と新興の資本家が共同で国家を統治し、海外に拡大する植民地の経営を行うようになった。
 中世以来の封建階級である王族や貴族は、今日も西欧に存在する。彼らは資本制的貨幣経済に適応し、世襲的な富裕層として、莫大な資産を運用している。イギリス・オランダ等の君主国では、資本家は王族・貴族に仕え、または協力して、富と権力を維持・拡大している。近代西洋文明及び近代世界システムの二つの主体である資本と国家は、彼らによって担われている。

 19世紀に、資本家の中で圧倒的な存在となったのが、ロスチャイルド家である。西欧では、ヨーロッパにはロスチャイルド家という一つの権力しかない、といわれるほど、ロスチャイルド一族は莫大な富と権力を掌中にした。彼らを筆頭として、ベアリング、ウォーバーグ、シュローダー等の国際金融資本家たちが、中世以来のイギリスやオランダ等の王族・貴族と共に、国際社会を支配する体制が作られた。近代世界システムの中核部は、こうした王族・貴族・資本家が支配する社会となった。
 19世紀末になると、新興国家アメリカが急速に発展し、近代世界システムの中核部は、西欧から北米へと拡大した。北大西洋地域ということも出来る。そして、アメリカの資本家が西欧の支配集団に参入するようになった。それが、モルガン、ロックフェラー、デュポン、メロン等の財閥である。こうして西欧及び北米の支配集団が、近代世界システムの中核部を支配するようになった。別の言い方をすれば、近代西洋文明は、西欧・北米の王族・貴族・資本家が、富と権力を所有する体制となったのである。その支配集団を構成するのは、白人諸民族とユダヤ民族である。

●中核部での複雑化・多様化

 マルクスは、生産手段の所有・非所有によって、社会集団を分けた。マルクスは、近代市民社会においては、資本家(ブルジョワジー)と労働者(プロレタリアート)を基本的階級とし、二大階級とした。マルクスは、市民社会は資本家階級と労働者階級に二分化し、激しい階級闘争が起こると予想した。
 マルクスは、資本家と労働者の中間に中産階級があるとした。プティ・ブルジョワともいう。中小商工業者・自営農民・自由業者等を指し、社会の中間層をなす。中産階級は、小所有者階級として所有者意識を持つ反面、生活上は労働者に近いという二重の立場に立つ。マルクスは、中産階級は資本主義社会の発展とともに衰退・分解する不安定な階級とした。
 しかし、近代世界システムの中核部は、周辺部から収奪する富によって社会全体が豊かになり、労働者の生活も豊かになった。また資本主義の高度な発達によって、19世紀後半より労働者は精神的労働者と肉体的労働者に分化し、精神的労働を担うホワイトカラーが増加し、かつての中産階級を旧中間層とすれば、新中間層を形成するようになり、かつ極度に増大している。
 また株式会社の発展により、大会社の場合、資本所有者である株主の数が増加し、中小株主が増えて株式所有が分散し、大株主の持ち株が低下する傾向にある。その一方、経営管理の職能が専門化し、所有者と経営者の分離が進んだ。企業だけでなく国家においても、高度な知識・技術を持つ経営者や官僚、すなわち精神的労働者の役割が重要になった。また労働者も株式を購入することで、資本の所有に参加することができるから、小所有者が増加した。社会改良の漸進により、生命保険、年金等が普及し、労働者が集団的に金融資本の所有者となって、利潤の分配に預かる仕組みが発達した。
 このように19世紀後半以降の近代世界システム中核部の社会は、複雑化、多様化が進んだ。こうした社会の構成をどのようにとらえるべきか。

●四つの集団〜所有者、経営者、労働者、困窮者

 私は、生産手段の所有・非所有で分ける階級という概念は定義が狭く、複雑化・多様化している今日の社会では、十分有効ではないと思う。生産手段の所有・非所有で分ける場合を除いて、階級ではなく集団という概念を用いることにする。階層という概念もあるが、社会を構成する集団は、必ずしも垂直的に層を成すのでなく、部分的に包含し合ったりするので、やはりうまくないと思う。
 西欧発の近代文明では、19世紀後半から今日に至るまで、社会は、大まかに分けて、四つの集団で構成されている、と私は考える。その四つの集団とは、所有者(the owners)、経営者(the managers)、労働者(the workers)、困窮者(the distressed)である。

 所有者とは、大規模な土地や資産を所有する富裕者をいう。西欧やアラブの王侯貴族や各国の資本家等である。
 経営者とは、企業や国家の経営を行う者をいう。所有者に採用または雇用されている企業経営者、政治家、官僚、学者等である。
 労働者とは、労働によって賃金を得て生活する者をいう。マルクスは、労働者と農民を区別し、都市の工場労働者を重視したが、私は、工業・農業・商業等の各産業で働く人々の全体を労働者と呼ぶ。
 困窮者とは、貧困・窮乏・差別等にとって生活に困窮する者をいう。貧民、窮民、難民である。極めて所得が低く、または劣悪な生活環境にある。

 次にこれらの四つの集団の間の関係について。
 所有者と経営者を分けるのは、所有と経営は別の行為だからである。所有者が経営者でもある場合もあれば、経営者を雇って労働させる場合もある。経営者は、自らが所有者でない場合は、同時に労働者でもある。ただし、他の労働者を雇用・管理して労働させる雇用者の立場にあり、被雇用者である一般の労働者と区別する必要がある。所有者と経営者は、社会において支配的な集団を成す。
 労働者は、経営者のもとで働く被雇用者もあれば、小規模の土地や資産を利用して自営で働く者もある。また小規模な株式を所有する者もあれば、ほとんど資産がない者もある。労働者のうち、非常に所得の低い者や資産がほとんどない者は、困窮者に近づく。労働者と困窮者は、被支配的な集団を成す。
 四つの集団の中には、王族・貴族のように前近代的な身分として固定的な小集団があるが、自由とデモクラシーを理念とする社会では、一定の流動性がある。経営者は、富を得ることによって所有者に上昇出来る。労働者のうち、有能なものは経営者に上昇する。さらに所有者に上昇する者もある。困窮者であった難民や移民が、教育を受けて経営者、所有者に上昇する例もある。逆に集団間を下降する場合もある。
 
 所有者、経営者、労働者、困窮者の四集団は、一つの社会の中に存在する。それとともに、国際的に広がって存在する。
 近代世界システムの中核部にある国家には、極めて富裕な所有者が多く存在する。彼らが所有する土地や資産は、システムの半周辺部・周辺部にも広がっている場合が多い。またその所有者に雇用される経営者も、中核部に多く存在する。中核部では、他国を支配し、他国から収奪する政府の政治家や官僚、国際的な企業活動を行う企業の経営者が多く労働している。
 システムの中核部の労働者は、周辺部の労働者より、多くの所得を得て、豊かな生活をしている者が多い。周辺部の労働者は、中核部の困窮者に近いか、それ以下の生活をしている者が多い。困窮者は、周辺部に偏って多く存在する。
 なお、労働者・困窮者が革命やクーデタによって権力を得た場合、権力を用いて富を得ることができる。その結果、新たな支配集団が所有者集団に成り代わる。共産主義国家は、資本家階級を打倒し、労働者階級の社会を建設するはずであった。しかし、その実態は、共産党官僚が資本家階級と入れ替わり、新たな所有者集団となった。旧ソ連や東欧諸国がそうだったが、今日の共産中国もそうである。共産党幹部は、国有財産を集団的に私物化し、巨富を得ている。
 また、周辺部の国家において、軍人がクーデタを起こして権力を得、新たな王族・貴族とも言える集団になっていく例がある。これは、近代世界に限った話ではない。前近代の諸文明・諸社会において、権力の簒奪者や外部からの侵入者が新たな王族や貴族となるということが繰り返されてきたからである。

●現代の国際社会を動かす四つの組織

 現代の国際社会には、欧米を中心とした所有者集団が、国際的な政治・経済を自己の利益にかなうように方向付けるための組織が存在する。
 第2次世界大戦後、設立された国際連合=連合国、国際通貨基金(IMF)、世界銀行(IBRD)、世界貿易機関(WTO)等の国際機関がそうである。こうした国際機関とは別に、1975年(昭和50年)から、先進国(主要国)首脳会議(サミット)が定期的に行われている。サミットは、政治・経済・安全保障・環境等、広範な議題について議論を行う。経済問題については、各国の財務大臣・中央銀行総裁による会議(G7等)も行われている。各国の中央銀行の中心には、アメリカの連邦準備制度理事会(FRB)がある。FRBは、基軸通貨ドルの発行権を持つことにより、アメリカだけでなく世界の通貨供給の中心となっており、各国の中央銀行がこれと連携している。

 さらに加えて重要な組織が四つある。王立国際問題研究所(RIIA)、外交問題評議会(CFR)、ビルダーバーグ・クラブ(BC)、三極委員会(TC)である。

 RIIAは、1920年に創設され、ロンドンに本部があるイギリスの機関である。CFRは、1921年に開設され、ニューヨークに本部があるアメリカの組織である。ビルダーバーグ・クラブは、1954年に第1回会議が開催され、西欧を中心として欧米が連合した組織である。TCは、1973年に設立され、アメリカを中心として、西欧と日本・アジアを結ぶ組織である。
 
 これらは、欧米を中心とした近代世界システム中核部の支配集団が織り成すネットワークであり、巨大国際金融資本家、王族、貴族、政治家、学者、報道人等が参加している。所有者・経営者の集団は、RIIA、CFR、BC、TCといった組織を通じて、西欧諸国やアメリカの外交政策、さらには日本やアジアの外交政策にも影響を及ぼしている。
 現代世界でこうした組織が重要な存在になったのは、かつての世界的な覇権国家イギリスの影響がある。アメリカは、後継の覇権国家として、イギリスの戦略や組織を応用・発展させたのである。イギリスでは、ユダヤ的な価値観とアングロ・サクソン文化が融合し、アングロ・サクソン=ユダヤ的な価値観が発達した。アメリカでは、それがさらに発達している。英米によるアングロ・サクソン=ユダヤ的価値観の広がりが、ユダヤ的な価値観の世界的浸透を推し進めるものとなっている。

現代世界はその支配構造から理解しないと、現代世界史の深層をとらえられない。表層だけでなく深層の側からも現代世界史を理解しないと、人類の課題を真に明確にすることはできない。現代世界史の深層については、本稿とは別に本稿を補助するものとして、「現代世界の支配構造とアメリカの衰退」に書いているので、ご参照願いたい。ページの頭へ

 

 

第4章 米ソの冷戦

 

(1)米ソ冷戦の構造

 

●大戦でソ連は躍進し、膨張した

 第2次大戦後、アメリカは圧倒的な軍事力、経済力で新たな覇権国家となった。これに対し、ソ連はナチス・ドイツと戦って勝利した実績、強大な軍事力、共産主義の宣伝・工作により、アメリカへの対抗国家として台頭した。
 国際連合は大戦後の国際秩序の維持を期待されたが、実際に新しい国際秩序を形成し、主導したのは、アメリカとソ連の二大超大国だった。
米ソは大戦の終結期から、戦後を見据えて対立を強めていた。もともと米ソは、基本的な思想・態勢が異なる。そうした両国が連合国として連携したのは、共通の敵を持つ者は、共通の利益を持つことによる。だから、戦争が終わるころには、矛盾が表面化した。アメリカは、日本とドイツを叩くためにソ連の手を借りたつもりだったが、ソ連は白熊のように躍り出た。

 第2次大戦を通じて最大の利益を得たのは、ソ連である。このことを明記していない歴史書が多い。ソ連は躍進し、膨張した。それを許したのは、ヤルタ会談である。
 ヤルタ会談で、ルーズベルトは、「解放ヨーロッパに関する宣言」を提案し、チャーチル、スターリンはこれに合意した。三首脳は、ナチス・ドイツが占領した欧州諸国で、暫定政権を作り、自由選挙を実施して国民を代表する政府を作ることに協力することを決めた。ところが、スターリンはその約束を守らなかった。
 ソ連軍がドイツ軍を追い出して占領した地域で、スターリンは自由選挙を実施せず、親ソ政権を次々に樹立していった。こうしてスターリンは、まんまと東欧・中欧地域に勢力を拡大した。
 東アジアでも、米英との密約に基づいて領土の拡張を図った。この時、わが国は、満州・朝鮮・樺太・千島に侵攻されたが、本土の分割占領は辛うじて免れた。

 ブルガリア、ルーマニアではソ連の支援の下で共産党政権が成立した。ユーゴスラビア、アルバニア、ハンガリーでは、社会主義革命が成功し、親ソ政権が実現した。どれも連立政権だが、共産党が主導的立場を占めていた。ソ連の強い後押しを受けた各国共産党は、徐々に他の政治勢力を排除し、独裁権を強化していく。
 かつてわが国の進歩的文化人や左翼のシンパは、こうしたソ連の勢力拡張を「解放」であり、民主的勢力の「前進」だなどと美化していた。現在出回っている歴史書もそういう視点を変えていないものが多い。しかし、実態は帝国主義的な膨張・支配に他ならないものだった。

●対するアメリカは「封じ込め」を図る

 アメリカは当初、ソ連とは相容れない部分はあるが協調は可能と見ていた。しかし、ソ連が東欧諸国を共産化・従属化していくのを目の当たりにしたアメリカは、対ソ政策を転換した。その過程で世界の変化を象徴的に表現したのが、イギリス首相チャーチルの「鉄のカーテン」演説だった。
 1946年(昭和21年)3月5日、アメリカ・ミズーリ州フルトン市のウエストミンスター大学で、チャーチルは、トルーマン大統領と聴衆を前に次のように訴えた。
 「ごく最近まで連合国軍の勝利という火に照らされていた情景に、一片の影が落とされた。(略)いまやバルト海のシュテッテンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが下ろされた」と。

 「鉄カーテン」というのは、ソ連の勢力圏となった東欧からは情報が閉ざされ、向こうで何が行われているのかさえ、わからなくなった事態をたとえたものである。チャーチルは、スターリンに、してやられた甘さを悔やんだ。
 チャーチルの訴えを聴き、共産主義の勢力拡大を恐れたトルーマンは、47年(22年)3月、議会で共産主義と対決し、自由主義を守る対外政策を打ち出した。この政策をトルーマン・ドクトリンという。当時、東地中海のトルコ、ギリシャを除く東欧・中欧はすでにソ連の勢力圏になっていた。ギリシャでも共産ゲリラが活発に活動していた。
 トルコ、ギリシャを共産化から守ることは、地政学的に重要な意味があった。ギリシャからトルコに共産化が及ぶと、ソ連に地中海と黒海を結ぶダーダネルス海峡、ボスボラス海峡を押さえられることになる。ソ連は黒海と地中海を自由に行動できるようになる一方、アメリカはカスピ海沿岸の油田への通路を絶たれる。これを防ぐためトルーマンは、トルコ、ギリシャへの経済的・軍事的援助を行うことを米議会に要請した。
 
 共産主義の浸透は西欧でも進んでいた。アメリカが乗り出さなければ、西欧諸国にまで共産化の波が及ぶことは確実だった。共産化を防ぐには、大戦で疲弊したヨーロッパの経済復興を図る必要がある。国務長官マーシャルの提案に基づいて、47年6月アメリカは大規模な経済復興計画(マーシャル・プラン)を発表した。西欧16カ国はこの提案を受け入れたが、ソ連・東欧諸国は拒否した。
 アメリカは、48年から52年(23年から27年)にかけて援助計画を実施した。食糧援助、農業の回復、工業の育成等が強力に進められた。計画の完了時には、西欧諸国は、戦前に比べ、工業生産で35パーセント、農業生産で10パーセントも越えるほどになった。経済の復興は西欧に安定をもたらし、共産革命の連鎖の危機を脱した。

 アメリカの一連の対外政策は、ソ連の周辺地域に経済的・軍事的援助を与え、ソ連の勢力膨張を長期的に封じ込めることを狙いとした。そのため、「封じ込め政策」と呼ばれる。
 アメリカが「封じ込め政策」を立案する過程で、重要な働きをしたのが、ジョージ・ケナンである。モスクワのアメリカ代理大使だったケナンは、チャーチルの「鉄のカーテン」演説の1ヶ月前、アメリカ国務省にソ連の危険性を指摘する電報を送った。ケナンは、ソ連は強力な抵抗を受ければ後退する国家なので、西側が強固な意思で反撃すべきと主張した。この政策提言が受け入れられて、ケナンは本国に呼び戻され、対ソ戦略の立案を担当した。そして、外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」の1947年7月号に、Xという匿名で論文を発表した。ケナンは、こちらがいくら善意を示してもソ連の姿勢は変わらない、協調路線ではなく、忍耐強く確固たる態度でソ連を封じ込め、ソ連が内部崩壊するのを待つしかない、と主張した。この論文が、アメリカの対ソ政策を方向付けた。

 アメリカ国内では、トルーマン・ドクトリンの発表と同じ月、47年(22年)3月に政府部内の共産主義者追放を主たる目的とする忠誠審査制度が制定された。「赤狩り(レッド・パージ)」の先頭に立ったのは、マッカーシー上院議員である。ハリー・デクスター・ホワイト、アルジャー・ヒス等、ルーズベルト政権の大統領側近や政府高官の反国家的行為が告発された。追及の手は、各種政府機関から芸能界にまで及んだ。
 また7月には国家安全保障法が成立し、これに基づいて国防総省(ペンタゴン)、CIA(中央情報局)、国家安全保障会議が創設された。アメリカ指導層は、遅まきながらソ連や共産主義への認識を改め、対決姿勢を取った。

●東西緊張の中のベルリン危機

 西欧でのアメリカの動きに対抗して、ソ連は1947年(昭和22年)9月ヨーロッパの共産主義政党の連絡組織としてコミンフォルムを結成した。コミンフォルムは、「共産党及び労働党者情報局」の略称である。東欧7カ国と仏伊の9カ国の共産党で結成された。コミンテルンは、大戦中の1943年(昭和18年)、米英と協調するため解散していた。
 コミンフォルムの創設後、東欧では連立政権を解体して共産党による一党独裁体制を構築する動きが顕著になった。ソ連占領下の東欧で唯一チェコスロヴァキアだけは、自由選挙が行われた。同国は議会制の歴史を持ち、マーシャル・プランへの参加にも積極的だった。選挙では共産党を含む連立政権が成立したが、48年2月共産党がクーデタを起こし、独裁政権を樹立した。欧米諸国の危機感は強まった。

 中でも最大の事件は、ベルリン危機である。東西両陣営の対立は日増しに深まるなか、1948年(昭和23年)、ドイツを巡って一触即発の危機が訪れた。敗戦以来、ドイツは米英仏とソ連によって東西に分割占領され、東側にあるベルリンは町そのものが東西に分割されていた。ドイツでは戦後、経済混乱に乗じて地下経済がはびこっていた。これを一掃するため6月21日に通貨改革が断行された。ところが、米英仏の管理下にある西側だけで新通貨ドイツ・マルクが導入されたことに、ソ連が反発し、強硬策に出た。24日ソ連は、西ドイツから西ベルリンにいたるすべての道路・鉄道を封鎖した。そのため、西ベルリンは、陸の孤島と化した。
 西ベルリンには、250万の市民と2万人の連合国要員がいた。備蓄食糧はわずか1ヶ月ほどしかない。西側諸国は、西ベルリンに1日平均8000トンの物資を空輸する「空の架け橋作戦」を展開した。食糧と燃料を満載した輸送機は、ソ連占領地区の上空を横切らざるをえない。砲撃による撃墜か偶発的事故が起きれば、米ソ戦争、さらに第3次世界大戦が起きかねない一触即発の状態となった。これをベルリン危機という。危機は、11ヶ月間続いた。

 翌49年(24年)4月、アメリカを中心に西側12カ国が北大西洋条約機構(NATO)を結成し、強力な軍事力でけん制した。これに対し、ソ連は同年5月についにベルリン封鎖を解除した。
 米ソの対立によりこの年、米英仏とソ連の占領地域が別々に独立した。米英仏占領地域では5月、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、ソ連占領地域では10月、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立した。ドイツの東西分裂である。ひとつの国民が敗戦によって二分されるという悲劇となった。
 わが国が民族分断の悲劇を避けられたのは、天佑だと私は思っている。

●米ソ冷戦のはじまり

 1947年(昭和22年)、」アメリカの政治評論家ウォルター・リップマンは、「冷戦―ーアメリカ外交政策の研究」という本を出版した。冷戦とは、砲火は交えないが、戦争を思わせるような国際間の厳しい対立状況である。
 ベルリン封鎖中の1948年(昭和23年)9月23日、アメリカは過去数週間以内にソ連において核爆発が起こった証拠を入手した。その発表の2日後、ソ連は2年前から原子爆弾を保有していたことを公式に認め、アメリカの核独占体制は崩れた。
 同年10月にアメリカ上院で、「冷戦(Cold war)」という言葉が使用されると、この言葉が急速に広まった。分断国家ドイツは、まさに冷戦を象徴する存在となった。
 これもベルリン危機の最中、ソ連は49年(24年)1月にコメコン(東欧経済相互援助会議)を結成し、ソ連を中心とし、ソ連の国益を優先した社会主義国の国際分業体制を作り上げた。これに対し、同年9月、西側諸国は社会主義圏への輸出統制を開始した。アメリカは、西欧・東地中海・東アジアの諸地域で「封じ込め」政策を一層推進した。
 こうして大戦後の新国際秩序を巡る米ソの争いは、冷戦という政治的・軍事的対立の構図を取ることになった。

●NATO・ワルシャワ条約機構による東西の対峙

 ベルリン危機の最中の1949年(昭和24年)4月、アメリカ、カナダとヨーロッパ10カ国がNATO(北太平洋条約機構)を結成し、地域集団防衛体制が取られた。ソ連はこれに対抗して、55年(30年)、東欧7カ国との間でワルシャワ条約機構を創設した。こうして、ヨーロッパは軍事的に完全に二大陣営に分裂した。東西対立は、決定的になった。
 西側・東側とは、ヨーロッパにおける地理的位置関係に基づく言い方である。西側とは、ソ連・東欧に対して西に位置する自由主義・資本主義の諸国、及びこれに協調する諸国である。東側とは、統制主義・共産主義の諸国、及びこれに協調する諸国である。米ソを中心とする二つのブロックが、経済体制を異にして対峙した。

 冷戦時代の世界は、米ソ二大超大国が核兵器をもってにらみ合う恐怖の均衡状態にあった。両国は、軍事力・経済力で競い合い、自己の勢力圏を拡大しようとするとともに、資本主義と共産主義というイデオロギーを自国の国益に利用した。米ソは1953年に、ともに水爆の保有を宣言し、核兵器の破壊力は飛躍的に増大した。米ソは、相手より優位に立とうとして、核軍拡競争の道を進んだ。
 冷戦は、国家間の対立だけでなく、各国の国内でも思想的・政治的な対立を生んだ。西欧諸国の多くで、自由主義・資本主義をよしとする政党と統制主義・共産主義をよしとする政党とが、抗争が続いた。自由主義か統制主義か、資本主義か共産主義か、自由か平等か、個人か階級か、私有か公有か。米ソ冷戦に対応したイデオロギー論争が繰り広げられた。

 冷戦体制は、ヨーロッパからアジア・太平洋地域やアフリカ等にまで及び、世界規模の対立構造となっていった。
 東アジアでは、49年10月中華人民共和国が成立した。中華人民共和国は、50年にソ連と中ソ友好同盟相互援助を締結した。アメリカは台湾に逃れた中華民国を支持し、台湾海峡を挟んで東西両陣営がにらみ合う構図となった。
 朝鮮半島では戦後、北緯38度線を境に米ソ両国が分割管理する状態が続いていたが、48年に親米の大韓民国(南朝鮮)、親ソの朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国された。50年には、朝鮮戦争が勃発する。これらの展開については、後に改めて書く。
 戦前の日本は自国及び東北アジアにおける共産化を阻止するために、防共政策を取った。ところが、アメリカはその日本を敵視し、日本を叩き潰した。結果はどうか。アメリカは中国の共産化を許し、早くから狙っていた広大なシナを失った。日本が押し留めていたソ連の南下は、怒涛のように行われ、朝鮮半島の北半分もソ連圏に入った。対日敵視政策は、アメリカにとって大失敗だった。

(2)冷戦下の世界

 

●東アジアにおける冷戦の継続

 わが国では、大東亜戦争の敗戦後、占領下でGHQにより政治犯・思想犯が釈放されて、共産党員が公然と活動するようになった。また日教祖などの労働組合が育成され、社会主義者が勢力を得た。アメリカがソ連の宣伝・工作に協力したようなものである。1955年(昭和30年)に自由民主党と日本社会党の対立構図が出来上がった。「55年体制」と呼ばれる。
 「55年体制」は、単なるイデオロギーではなく、米ソの帝国主義政策を背景とした対立だった。自民党はアメリカから資金援助を受け、社会党はソ連から資金援助を受けていた。アメリカは日米安保で、旧敵国の日本を軍事的保護国とし、在日米軍の基地をアジア・太平洋地域での反ソ反共政策の拠点として利用した。ソ連は、社会党を通じて日米安保を破棄、GHQ製の憲法の第9条を固守させ、非武装中立化した日本を解放すなわち従属化しようとした。

 一般に米ソの冷戦は、1991年ソ連の崩壊によって終結したとされる。冷戦時代の世界史と冷戦の終結の過程については後に書くが、重要なことは、今も東アジアでは対立構造が継続していることである。東アジアでは、冷戦は終わっていない。朝鮮半島は分断されたままである。中国と台湾は、他国による分断ではないが、正統性を主張する二つの政府が対立を続けている。東アジアでは、自由主義か統制主義か、資本主義か共産主義かという思想の違いが、そのまま国家の対立となっている。
 米ソ冷戦時代の1960年代から、共産中国もわが国の思想や政治に影響力を及ぼすようになった。その影響力はソ連の崩壊後、一層強くなり、左翼政党だけでなく保守政党にも広がっている。朝鮮半島の思想もわが国に流入し、半島の反日ナショナリズムを代弁するような日本人も多くいる。これは、東アジアにおける冷戦の反映であり、アメリカかソ連または中国か、台湾か中国か、韓国か北朝鮮か。こういう対立が日本人の精神を混乱させ、思想的に分裂させている。そして、21世紀の今日、これから朝鮮半島、中国・台湾の間に大きな構造的な変動が起ころうとしている。その変動は、米中対決へとエスカレートする恐れがある。
 日本人は、自らの精神をしっかり持たないと、周辺諸国の思惑で日本人同士が争わされることになるだろう。日本精神の復興がますます必要となっている。

●資本主義世界経済の二分化

 米ソ冷戦時代は、一般に資本主義と社会主義が経済体制やイデオロギーの違いによって対立した時代と理解されている。私は、先に書いたように、社会主義は経済学的には資本主義を変形したものであって、資本主義とまったく原理的に異なるものではないと考える。それゆえ、米ソの冷戦は、近代世界システムの資本主義世界経済における自由主義と統制主義という政治思想の対立と考える。
 自由主義的資本主義に対応する政治形態は、普通選挙による議会制デモクラシーである。自由主義(リベラリズム)とは、国家権力の介入を排し、個人の自由と権利を守り、拡大していこうという態度のことである。デモクラシーとは、民衆が政治権力に参加する制度のことである。これらが合体したものを、自由民主主義(リベラル・デモクラシー)と呼ぶ。
 統制主義的資本主義に対応する政治形態は、政治集団による一党独裁ないし実質的な一党独裁である。そうした体制の国家も、民主主義を標榜する。実態は別として、民衆が政治権力に参加する制度を取っていると主張すれば、民主主義は国名にも付けられる。ただし、その国に自由はない。そこが、自由民主主義と統制主義的民主主義との違いである。
 自由主義的資本主義のアメリカは、私的資本を中心とした集団の利益を追求する。統制主義的資本主義のソ連は、共産党官僚を中心とした集団の利益を追求する。どちらも富と力を掌中にしている集団が、政府という機関を用いて利益を追及し、またその体制を維持しようという点は、共通している。

 共産中国が1970年代から流布した三つの世界論では、米欧日を第一世界、ソ連・東欧を第二世界、アジア・アフリカの非同盟諸国を第三世界と呼ぶ。この分け方は、近代世界システムの概念とは、一致しない。近代世界システムとして見れば、ソ連の躍進・膨張は、システムの中核部にソ連が参入し、半周辺部の東欧諸国を勢力圏下に組み入れたと考える。

 ソ連の社会主義経済体制は、基本的には資本主義世界経済の一部であり、資本主義システムの一部地域が統制主義的資本主義に変わり、ブロック化したものである。ソ連・東欧諸国は、マルクス、レーニンの用語を並べることで、統制主義的資本主義を、理論上は社会主義であるかのように粉飾した。しかし、その社会主義は、資本主義の統制的形態であり、政府主導の計画経済と重要産業の国有化を進めたもので、経済利益は特権集団たる共産党官僚が領有した。

●二大超大国が新たな帝国主義政策

 対外政策に関しては、冷戦時代の米ソのともに軍事力を駆使して勢力圏を拡張しようとするものだった。先に書いたが、帝国主義の本質は、軍事力を背景に他国を植民地や従属国に転化する政策であり、私は米ソの対外政策は帝国主義だったと考える。
 20世紀初頭、レーニンは、帝国主義の五つの特徴として、生産の集中・独占、金融寡頭支配の確立、資本輸出、国際カルテルによる国際市場の分割支配、世界分割の完成を挙げた。20世紀後半、米ソの帝国主義は、19世紀的な植民地拡大の帝国主義とは違う仕方で勢力を拡大した。アメリカは、植民地を所有せず、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの国々に復興援助・開発援助を行って、自国に従属させた。これは植民地経営による財政的負担を避けながら、対象国を経済的に従属させるやり方である。
 ソ連の帝国主義政策は、私的資本による資本輸出、私企業による国際カルテル等は行わない。しかし、本来の帝国主義の特徴である、軍事力を背景に他国を従属国に転化する政策を強力に実行した。植民地の獲得という仕方ではなく、周辺国を自国の勢力圏に組み入れ、自国の従属国とした。各国の共産党をソ連を中心に系列化し、共産主義の思想・運動を、国際的な支配―従属体制の維持・強化に利用した。この点が、ソ連の帝国主義政策の最大の特徴である。根本にあるのは、ネイション・ステイト(国民国家)としての国益の追求である。獲得された利益の多くは、支配集団としての共産党官僚の財産となっていく。
 ソ連の帝国主義を、日本の保守派の一部は赤色帝国主義と呼び、中国共産党の極左派は社会帝国主義と呼んだ。マルクス=レーニン主義者の多くは、社会主義は帝国主義ではないと主張した。ソ連の進出は解放だ、前進だと主張した。その主張は、共産主義への幻想や自己欺瞞によるもので、スターリンの詐術に翻弄されていたのである。反帝国主義・反スターリン主義を唱える者も、帝国主義とスターリン主義は別のものとし、スターリン主義の対外政策が帝国主義であることを明確に把握していなかった。

●遅々たる進歩、それを受けた改善の努力

 二度の世界大戦を経て、人類はいったい学習・進歩したのか。核兵器の製造で人類最終戦争の危機を自ら生み出した。戦勝国による国際連合は、核の寡占による安全保障体制を担うものとなり、米ソ、米中の対決による核戦争は防がれてきてはいる。また、ブレトン・ウッズ体制は、単一市場・共通通貨による経済的競争へと各国を方向付け、ブロック経済による軍事的衝突は避けられている。これまで書いてきたように、こうした戦後国際体制は矛盾を表し、限界を示し、不完全なものではあるが、それでもなお私は一定の進歩だと思っている。

 後に項目ごとに書くが、第2次世界大戦後、人類は幾度か第3次世界大戦の危機に直面してきた。既に書いたベルリン危機に続いて、朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争、中ソ対立、そして私が最大の危機だったと理解している70年安保前後の日本危機、1980年代半ばのソ連最盛期等が、それである。人類は瀬戸際で、核戦争の勃発を回避してきた。
 現在展開されているアメリカとイスラーム文明諸国の抗争、ロシアとその周辺国の紛争、これから起こり得る米中の対決等に関し、21世紀の戦争が過去と違うのは、地球環境の問題が深刻化し、人類は戦争だけでなく、自然条件の悪化を自ら引き起こしていることである。この点においても、私は現代の国際社会の仕組みを生かしながら、それを人類にとってよりよいものに改善していく方法以外に、替わる方策はないと思う。そうしたなか、わが国が自国の文明の特徴と国際社会における役割を自覚して、憲法を改正し、国際社会で自主的・主体的な発言・行動の出来る国家に再生することが、人類の進路に重要な意味を持つと私は考えている。ページの頭へ

関連掲示
・拙稿「日本的な保守の役割と課題

 

 

第5章 アジア・アフリカの解放と独立

 

(1)アジアの解放と戦乱

 

●アジアの解放と独立

 第2次世界大戦後、戦勝国による国際秩序として国際連合の創設、ブレトン・ウッズ体制の構築が行われた。その秩序のもとで、アメリカが新たな覇権国家となり、ソ連共産主義が躍進し、米ソの冷戦が発生した。これに劣らず重要なことは、西欧諸国が植民地を失い、アジア・アフリカ諸国が独立したことである。
 大塚寛一先生は、戦前の昭和10年代から、過去数世紀にわたって発展した物質文化に、精神文化が伴っていないことによる欠陥を是正することが、アジア人の使命であることを説いておられた。そして、人類は物質科学時代から精神科学時代へと転換し、世界の中心は西洋から東洋・アジアに移り変わることを、半世紀以上も前から明示されている。実際、15世紀以来のヨーロッパ文明を中心とした文明間の関係は、20世紀後半から大きく変動し、日本文明を始めとするアジアの諸文明が興隆してきている。大塚先生の慧眼は、トインビー、ヤスパース、大川周明等を遥かにしのいでいる。

 欧米の植民地とされたアジアの解放と独立は、日露戦争における日本の勝利に始まる。この戦争は、有色人種が初めて白人種に勝った歴史的な出来事だった。第2次大戦の一部をなす大東亜戦争=太平洋戦争は、アジアの諸民族が欧米諸民族と戦った戦いであり、アジア諸文明が近代西洋文明と衝突した異文明間の戦いでもあった。
 大戦の終結後、欧米列強による植民地支配体制は動揺を見せ始めた。特に1940年代後半、民族主義運動を背景にアジア諸国が次々と独立を果たした。イギリスの支配下にあった南アジアで、インド、パキスタン、セイロン(現スリランカ)が分離独立した。大戦中日本軍が占領していた東南アジアでもベトナム、インドネシア、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)などが相次いで独立した。

 わが国は、大東亜戦争の戦争目的の一つに、アジアの解放を掲げた。これは帝国主義的な膨張政策を美化したものとして批判されている。しかし、日本軍がアジア諸民族が自らの手で独立を勝ち取れるよう、民族意識を育て、軍事的訓練を施し、武器の提供を行ったことも事実である。
 たとえばインドについては、藤原岩市少佐がマレー半島のイギリスの中核をなすインド兵に対して、投降工作を行い、インド独立の基盤を作る工作をした。藤原が率いる特務機関は「F機関(藤原機関)」と呼ばれ、インド国民軍の創設を指導・支援した。インド国民軍は、日本のお陰で早く独立を達成できたと、今も感謝している。
 またインドネシアでは、今村均中将らがペタと呼ばれる祖国防衛義勇軍を組織し、3万5千の将校・兵士を育成した。独立戦争では、約2千人もの日本人が独立義勇軍に身を投じ、うち約千人が戦死等で亡くなったと推定されている。
 インドやインドネシアは、日本の協力に感謝している。大東亜戦争の戦争目的であったアジアの解放が、全くの虚偽であったわけでは断じてない。

 ところで、19世紀からイギリスの植民地となっていたインドが、1947年8月、イギリスから独立した際、インドとパキスタンは分離独立した。ヒンズー教徒の多いインドに対し、イスラーム教徒が数派となった地域がパキスタンとなったものである。1971年には、同じくイスラーム教徒が多い地域がバングラデシュとして独立した。

インドとパキスタンは、分離独立後、1947年10月にカシミールの帰属をめぐり、第1次印パ戦争を行った。以後、65年9月に第2次、71年12月に第3次印パ戦争が起こった。多神教のヒンズー教と一神教で偶像崇拝を否定するイスラーム教という宗教対立が根底にあるインドとパキスタンの対立は根深く、アジア諸国内の不安定要因となっている。


 次に東アジアについては、1910年(明治43年)以来、わが国が36年間にわたり統治していた朝鮮半島は、敗戦後、米ソによって分断統治された。その後、朝鮮民族は、南北に分かれて国家を樹立した。そして、朝鮮戦争で南北が激突することになる。これは、同じく分断国家となったドイツでは起こらなかった出来事である。また北朝鮮では、金日成の独裁・個人崇拝の確立のため、大量粛清や厳しい弾圧が行われた。
 中華民国は、日本軍の撤退後、国共内戦となった。形勢不利となった蒋介石は、大陸を脱して台湾に移った。台湾は1895年(明治28年)から50年間わが国が統治していたが、敗戦後、中華民国に返還された。蒋介石は、中華民国政府を台北に置いた。外来のシナ人による支配は、台湾人を抑圧し、民族的アイデンティティを奪うものだった。
 大陸では、ソ連の支援を受けた中国共産党が攻勢を続け、1949年(昭和24年)に中華人民共和国の成立を宣言した。以後、共産主義が支配するシナでは、実質的な一党独裁体制が取られ、毛沢東の個人崇拝が進められた。度重なる大量殺戮や伝統文化の破壊が行われ、また長く経済的混乱が続いた。
 このように、東アジアでは大戦後、分断や対立、戦争、粛清、抑圧等が特徴的となり、その状態が米ソ冷戦で構造化されたのである。大東亜戦争さらには明治以来のわが国のアジア政策には、功罪両面がある。しかし、大戦後の東アジア各国の歴史は、その国の国民の行動の歩みであり、また米ソ二大超大国の関与の軌跡である。半世紀以上前の日本の統治や戦争の負の側面ばかりを強調するのは、見方がアンバランスである。
 なお、中国、台湾及び朝鮮については、後の項目に主題的に書く。

●シナは共産化された

 大東亜戦争において、中華民国は、米・ソ・西欧諸国から支援を受けながらも、日本軍に連戦連敗だった。しかし、どういうわけか連合国には高く評価され、戦時中に不平等条約が撤廃された。また、戦後処理に関する首脳会談に参加したり、国際連合の構想を練る会議に参加し共同提案者となるなど、国際的地位を高めた。そして、国際連合=連合国の常任理事国に加えられ、世界の五大国の一つとなった。

 日本の敗戦後、中華民国では、国民党と共産党の間の矛盾が表面化した。もともと国民党は共産党とは相容れず、敵対関係にある。昭和10年代、蒋介石には、反共という共通の目的のもと、日本と連携し、アジアの共産化を防ぐ道もあった。しかし、蒋介石は、共産党と組んで日本と戦う道を取った。反共よりナショナリズムを優先したわけである。日本軍がシナから撤退すると、毛沢東率いる共産党は、シナの共産化を目指し、主導権争いを再開した。
 1946年(昭和21年)、国共内戦となり、48年には全面戦争に突入した。最初は国民党が優勢だったが、党内の腐敗や汚職が明るみに出て民衆の支持を失った。逆に中国共産党は農民や労働者の支持を得て勢力を挽回し、49年(24年)5月に国民党軍を大陸から追い出した。中華民国政府は大陸を脱出し、台湾に移った。同年10月、毛沢東を国家主席、周恩来を首相とする中華人民共和国の誕生が北京で宣言された。
 当時、アメリカは、共産主義が西欧に波及するのを防ぐため、経済復興やベルリン危機の対応に力を注いでおり、シナの内戦に積極的に介入する余裕がなかった。シナの共産化を図る側には、有利な国際環境にあったわけである。

 シナが共産化したことは、ソ連が東アジアに勢力を拡大したことを意味する。スターリンは、第2次世界大戦で日本とアメリカを戦わせ、シナを共産化することに成功した。ソ連は満洲から華北にまで侵攻し、中国共産党に武器・人員を直接支援し、共産党軍を国民党軍に勝利せしめた。朝鮮半島も北半分を勢力圏下に取り込んだ。こうして東アジアで、ソ連はアメリカを大きく出し抜いた。スターリンは、ヨーロッパでドイツの半分と東欧を共産化・従属化したが、これに継ぐ一大成果だった。

●東アジアで冷戦が固定、今も継続

 大陸から逃走し台北に政府を移した蒋介石は、そこで政権の正統性を主張した。これに対し、北京の共産党政権も、正統性を主張した。共産党政府は、大陸で土地改革や財閥の追放を行い、50年(30年)にはソ連との間に中ソ友好同盟相互援助条約を結んだ。
 この年6月、朝鮮戦争が勃発した。詳しくは後に書くが、北朝鮮の侵攻を受けた韓国は苦戦し、国連決議によってアメリカ軍を中心とした国連軍が派遣され、激しい攻防が続いた。アメリカ政府はそれまで国民党のあまりの腐敗ぶりに呆れ、台湾が共産化されてもやむなしと見放しかけていた。しかし、朝鮮戦争でアメリカ政府は態度を一変させた。すぐさま第7艦隊を台湾海峡に派遣し、大陸から中国が台湾を攻撃しないようけん制した。さらに中国が北朝鮮を支援すると、これに対抗して翌年から台湾への経済的軍事的援助を開始した。朝鮮半島が共産化され、台湾も中国によって共産化されたら、アメリカは東アジアで決定的に後退してしまう。そこでアメリカは台湾の中華民国を支持し、台湾を防衛する方針を固めたのである。
 この結果、台湾海峡を挟んでアメリカと中ソという東西の両陣営がにらみ合う構図となった。台湾の立場で言えば、東アジアで冷戦構造が固定したので、アメリカの後ろ盾を得て、共産中国に併合されずに独自の道を歩むことができたのである。
 一方、大陸の共産中国は、ソ連の援助を受けて、ソ連を手本とする社会主義建設を開始した。その第1段階が、第1次5カ年計画であり、1953年から57年にかけて実施された。以後、中国では大躍進、文化大革命、毛沢東死後の四人組の粛清等、混乱や権力闘争が繰り返された。その間、6500万の命が犠牲になったと推計される。
 
 ソ連は、20世紀半ばに世界の約半分を共産化し、世界全体を併呑するかに見えた。しかし、アメリカの「封じ込め」政策は徐々に効果を表し、また同じ共産主義の中から中国という挑戦者が現れ、また自国では社会主義経済体制の矛盾が増大するなどし、ロシア革命の70年後、ソ連は崩壊した。
 ただし、ソ連の崩壊後も、共産主義そのものは死んではいない。スターリンが東アジアに産み落とした統制主義国家は、21世紀のこの今も健在である。北朝鮮は建国以来、旧ソ連・中国の支援を受けながら、軍事優先の政策を進め、核兵器を保有して、対決的な姿勢を取り続けている。共産中国は長い混迷の時期を貫いて核開発を進め、強大化な軍事力を持つに至った。1990年代からは急速に経済発展の道を進み、旺盛な経済力も身に付けている。そして今日、日本の、アメリカの、アジアの、そして世界の脅威として、ますますその不気味な力を強めている。

●米ソ冷戦の中の地域戦争〜朝鮮戦争

 大東亜戦争で日本が敗れると、朝鮮を占領するため、ソ連軍が南下してきた。これを見たアメリカは、半島全体がソ連の支配下に入ることを防ぐため、急遽軍隊を南から上陸させた。アメリカは、北緯38度線を境にして南北に分割して占領することをソ連に提案し、ソ連もこれを了解した。分割占領は、5年を期限としていた。しかし、東西両陣営の対立が進むにつれ、朝鮮半島も冷戦構造に組み込まれることになり、分断状態が固定化されていく。
 朝鮮統治を巡って米ソが対立するなか、国連は、南北で総選挙を行って統一政府を樹立することを決議した。しかし、ソ連はこれに反対した。そこで南部でのみまず選挙が実施された。その結果、李承晩が大統領に選ばれ、1948年(昭和23年)5月、大韓民国の成立を宣言した。これに対し、ソ連は、同年9月、朝鮮民主主義人民共和国を樹立させた。スターリンは、ソ連軍の大尉だった金日成を首相にした。韓国・北朝鮮の両国は、それぞれ自らを正統政府と主張して対立した。
 ベルリン危機は、48年6月から49年5月の間である。また、西ドイツの建国が49年5月、東ドイツは10月だから、朝鮮の南北分裂はドイツの東西分裂より早い。また、アメリカ上院で「冷戦」という言葉が使用されたのは48年10月だから、朝鮮半島では一足早く冷戦状態が生まれたのである。

 朝鮮半島で緊張が高まるなか、50年(昭和25年)6月、北朝鮮軍が38度線を越えて南進した。これにより、朝鮮戦争が勃発した。金日成は事前にソ連を訪問し、スターリンから武力統一の方針に支持を取り付けていた。
 当時シナでは、49年10月に中華人民共和国が成立していた。朝鮮戦争の開始時、ソ連は、理事国が共産中国に交代しないことへの抗議のため、安全保障理事会を欠席していた。安保理は、ソ連欠席の中で、北朝鮮に対して戦争行為の即時停止と38度線への撤退を求めることを決議し、国連軍の創設が決定された。国連軍はアメリカ軍を主体に編成され、司令部は東京に置かれた。
 北朝鮮軍は、ソ連軍が残していった最新鋭のT34戦車で猛進を続けた。7月末には国連軍と韓国軍は、辛くも釜山を維持するのみという状態になった。しかし、50年9月マッカーサーの指揮する国連軍が仁川上陸作戦を敢行し、ソウルを奪還した。さらに38度線を越えて進軍したが、11月になると、北朝鮮の要請で、共産中国が参戦した。中国の人海戦術で戦闘は激しさを増し、38度線付近で膠着状態となった。
 背後ではソ連が支援していた。そのうえ、北朝鮮空軍のミグ戦闘機には、ソ連軍パイロットが多数搭乗していたしたことがわかっている。スターリンとすれば、西方ではドイツの分断が固定化されたから、東方では朝鮮の分断を打ち破り、勢力を拡大しようとしたと考えられる。

 とめどなく押し寄せてくる中国人民解放軍に手を焼いたマッカーサーは、原爆の使用をトルーマンに提案した。中国本土を含む26都市への原爆投下を計画したのである。ソ連との直接対決による世界戦争への拡大を恐れたトルーマンは、51年4月マッカーサーを解任した。
 53年(28年)7月、ようやく休戦協定が結ばれ、戦争は停止した。協定に不満だった韓国は調印しないまま、休戦状態に入った。国際法上、朝鮮戦争は終結していない。
 朝鮮戦争は、大きな犠牲を出した戦争だった。この戦争の死者は、南北あわせて270万人から360万人に上ると推計されている。朝鮮民族が大東亜戦争で蒙った被害より、遥かに大きい。また南北分断によって、多くの離散家族が生まれた。その数は1,000万人にも達するという。
 朝鮮戦争は、アメリカ軍と中国軍の戦いとなったので、中国は反米意識を高めた。核兵器の脅威を味わった毛沢東は、核開発に執念を燃やした。またこの戦争は、米ソの対立を決定的なものとし、冷戦構造を本格化した。

朝鮮戦争によって東アジアに冷戦構造が固定された。冷戦というとヨーロッパを中心に考える傾向があるが、実は東アジアのほうが深刻である。そのことを強調していない歴史書が多い。
 世界的に緊張関係が広がる中で、朝鮮戦争という熱戦が起こった。ヨーロッパではなかった出来事である。しかもこの戦争は今も休戦状態が続いている。韓国には、国連軍が今も駐留している。北朝鮮は核開発を進め、アメリカ、日本、国際社会の脅威となっている。また、共産中国と台湾の対立は、依然として続いている。中国は台湾の「統一」を一貫して国家的課題としている。強大化した軍事力を用いて、台湾を侵攻する可能性は高い。大戦後の冷戦は、ソ連崩壊後なお東アジアでは形を変えて持続しているのである。

●日本への影響

 朝鮮戦争は、日本の被占領期に始まった。わが国は、この戦争中にサンフランシスコ講和条約に調印し、講和条約は52年(昭和27年)4月28日に発効。6年7ヶ月にわたる占領が終了し、日本は主権と独立を回復した。
 朝鮮戦争が日本にもたらした最大の影響は、戦争特需による戦後初の好景気である。アメリカは、朝鮮戦争を遂行するため、軍用物資を日本の企業に多く発注した。兵站基地となったわが国は、その需要に応えるため、旧軍需工場が復活し、生産を請け負った。産業全般に活力が戻り、経済の各種指標は、戦前の数字を越えた。支払いはドル建てであり、外貨不足の解消ともなった。獲得した外貨を元手にして、原料を輸入し、加工して輸出する戦後日本の貿易パターンが開始された。
 もうひとつの影響は、国防の回復のきっかけとなったことである。アメリカは、ソ連・中国に対抗するため、日本を「反共の砦」とする必要を感じ、日本に再軍備を求めた。アメリカによってGHQ製の憲法を押し付けられた日本は、第9条により、国防に制約を課せられていた。アメリカは、憲法の改正と再軍備を求めたが、吉田茂首相はこれに抵抗した。その結果、憲法はそのままにして、段階的に再軍備が進められた。朝鮮戦争の最中、1951年(昭和26年)8月警察予備隊が保安隊に拡充され、朝鮮戦争の休戦協定調印後、54年(29年)に防衛庁が設置され、自衛隊が組織された。
 こうしてわが国は、アメリカ軍の占領下に、一定の再軍備を進めた。自衛隊は、米軍を補完するものとして発足した。1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効により独立を回復した日本の国民は、ただちに憲法を改正して、主権の十全な回復をし国防の充実を図るべきだった。それを怠ったため、わが国はアメリカに従属し、その保護と干渉のもとで主体性を欠く国家となっている。

ところで、わが国は、戦前の軍慰安婦について、「20万人」の韓国人女性等を「強制連行」したとして、戦後、韓国等から非難されるようになった。その原因は、1993年(平成5年)に出された河野官房長官談話である。だが、官憲が慰安婦にするために婦女を強制連行したという証拠は、まったく見つかっていない。慰安所は民間業者が経営したものだった。慰安婦は「性奴隷」ではなく、超高級取りの売春婦だった。これに比し、韓国政府は、朝鮮戦争において、韓国人女性らを慰安婦とした組織し、韓国軍が直接慰安所を運営していた。また、拉致・強姦等により、女性を強制的に慰安婦にし、補給品名目でドラム缶に入れて前線に、連行していた。また朝鮮戦争後は、韓国政府が慰安婦たちを直接管理し、米軍相手に性労働をさせ、ドルを稼がせていた。朴正煕大統領は、政府公認の売春施設である「基地村」を本格化した。「基地村浄化委員会」を立ち上げ、「基地村浄化対策」という公文書に直接署名していた。2014年(平成26年)、韓国人元米軍慰安婦たちが、韓国政府を相手取って集団訴訟を起こした

 

●20世紀の東アジア戦争

 第2次世界大戦は、ヨーロッパからアジアに広がった。わが国は、1937年(昭和12年)に始まったシナ事変が長期化し、41年(16年)に米英等との戦争に突入した。シナ事変は日中の戦争だが、米英ソが物的人的に中国を支援したので、アジアにおける多国間戦争に拡大する可能性を秘めていた。わが国の政府は、米英等との戦争を公式に大東亜戦争と称した。アメリカは、同じ戦争を太平洋戦争と呼んだ。ここでは、大東亜戦争と称することにする。大東亜戦争は、シナ事変と連続しており、これらは37年から45年(12〜20年)の8年間に及ぶ東アジアの戦争ととらえられる。
 東アジアでは、この1930〜40年代のシナ事変・大東亜戦争に続いて、50年代には朝鮮戦争、60〜70年代にはベトナム戦争が勃発した。これらの戦争は、別々の事象ではなく、大きな連なりの中での出来事ととらえることができる。大東亜戦争はそれで完結したのではない。欧米の植民地における独立戦争がそれに続いた。中でも、大きな戦争となったのが、朝鮮戦争とベトナム戦争である。そこで、私は、20世紀の半ばから後半にかけて東アジアで起こった主な戦争として、第1次をシナ事変・大東亜戦争、第2次を朝鮮戦争、第3次をベトナム戦争と位置づけてみたい。そうすることで、構造と流れを大局的に見ることが出来ると思う。ベトナム戦争は、第1次東アジア戦争に続く民族独立戦争の一環である第1次インドシナ戦争に対し、第2次インドシナ戦争となる。ここでは、規模の大きさから、第3次東アジア戦争として把握する。

 これら3度に渡る東アジア戦争は、人類文明の中心が欧米からアジアに移動するという文明の大転換に伴って生じた摩擦・対立である。すなわち異文明間の戦争である。そして、その戦いに、欧米の思想である自由主義・資本主義と統制主義・共産主義の対立が重なり、さらにこれらの外来思想に、アジアのナショナリズムが反発または融合する形で、激しい相互作用を起こしたものである。

 20世紀の東アジア戦争を一貫して戦ったのは、アメリカと中国である。そこに日本やソ連が絡みながら、戦争はシナ大陸、日本列島、朝鮮半島、インドシナ半島へと展開した。
 アメリカは、第1次東アジア戦争では、前半は中国を支援し、後半は日本と戦った。日本を叩くことには成功したもののシナの共産化を許した。第2次東アジア戦争では、北朝鮮・中国及びその背後のソ連と戦った。アメリカは、近代日本が苦心した朝鮮の防衛を肩代わりする立場となり、日本の事情を理解することになった。第3次東アジア戦争では、北ベトナム及びその背後のソ連・中国と戦った。これらの戦争で、アメリカは、日本には勝ったが、中国・北朝鮮には勝てず、ベトナムには敗れた。
 中国は、第1次東アジア戦争の前半から日本と戦い、苦戦した。しかし連合国の一員だったので、戦勝国の立場を得た。第2次東アジア戦争では、ソ連と連携して北朝鮮に援軍を送り、アメリカと戦って引き分けた。第3次東アジア戦争では、アメリカと戦う北ベトナムを支援し、アメリカをベトナムから撤退させた。
 日本は、第1次東アジア戦争で中国・アメリカ等と戦い、アメリカに敗れた。戦後わが国は、アメリカの軍事的保護国となった。憲法によって、国防を制約された日本は、第2次・第3次の東アジア戦争では、アメリカに基地と物資を提供する役割を担った。
 ソ連は、第1次東アジア戦争では、日本をシナの戦争に引き釣り込み、さらに日本とアメリカを戦わせ、中国・北朝鮮の共産化に成功した。第2次東アジア戦争では、朝鮮半島でアメリカと間接的に戦い、五分の戦いをすることで、力を誇示した。第3次東アジア戦争では、インドシナ半島でもアメリカと間接的に戦い、アメリカを泥沼に落としいれ、国力を消耗させた。

 第3次東アジア戦争となったベトナム戦争では、泥沼化した戦争を解決するため、アメリカは中国に接近した。ソ連との路線上の対立が軍事的な対立へと激化していた中国は、アメリカの申し出に応じた。その結果、米中が連携してソ連に対抗するという新たな構図が生まれた。
 その後、東アジアでは、大規模な戦争は起きていない。大規模な戦争の舞台は、東アジアから中東に移動している。戦後、イスラエルとアラブ諸国との間で、四度の中東戦争が繰り返され、世界的に主要な紛争地域である。そのうえ、1979年(昭和54年)以降は、ソ連のアフガニスタン侵攻、1991年(平成3年)の湾岸戦争、2001年(平成13年)のアメリカのアフガニスタン侵攻及び翌々年のイラク戦争と、中東が戦争の主たる舞台となっている。
 今後、もしアメリカと中国が、台湾を巡って直接対決することになれば、第4次東アジア戦争と呼ぶことが出来るだろう。

(2)諸文明の競合

 

●アフリカの独立と苦悩

 大戦後、欧米諸国の植民地体制は急速に崩れ、アジアでは多くの民族が独立を果たした。民族独立の波は、アジアからアフリカに及んだ。アフリカでは、エジプト、アルジェリアなど大戦の戦場となった北アフリカで民族運動が盛んに展開された。それに続いて、1957年(昭和32年)にエンクルマに率いられたガーナが独立した。これをきっかけに、サハラ以南も独立の動きが広がった。60年(35年)には、ナイジェリア、モーリタニア、カメルーンなど17の国々がいっせいに独立した。それにより、1960年は「アフリカの年」と呼ばれる。
 この年12月の国連総会で、植民地解放宣言が採択された。63年には、アフリカの新独立国を中心としたアフリカ統一機構(OAU)が誕生し、アフリカ諸国の主権擁護や相互連帯の促進などを目指した。その後もアフリカでは独立が相次ぎ、19世紀的な植民地体制は、1960年代に崩壊した。

 しかし、アフリカ諸国の発展は、長く滞った。ガーナのエンクルマ首相は、アフリカの統一を目指す「パン・アフリカニズム」を呼びかけたが、運動は拡大を見なかった。特にサハラ以南では、独立達成後も部族対立が残存して内戦が続発したり、旧宗主国が引いた国境線を受け継いだため国境紛争が起こったり、経済的に旧宗主国に従属した構造から抜け出せなかったり、経済的支配を持続しようとする旧宗主国との対立関係にあったりしている国が多い。
 21世紀に入って、アフリカはようやく発展の道を進みだしたように見える。アフリカ統一機構は、現在はアフリカ連合(AU)となり、諸国の連帯は強くなっている。その一方、天然資源の豊かな地域は、かつては米ソ、現在は米中を中心とした諸国の資源争奪の対象となっている。

●国民国家の普及・増加

 第2次大戦後、有色人種は白人種の支配から解放され、独立を獲得した。この過程は、近代西洋文明の文化要素である国民国家という組織体制が、諸大陸の文明に伝播する過程でもあった。そして、欧米が作った国際社会に、有色人種が欧米由来の独立主権国家を作って参入し、既成のルールに従いながら、自己を主張することになった。
 この先頭を切ったものこそ、明治の日本だった。日本の先例は、他のアジア、アフリカ諸国に勇気と自信と教訓を与えた。第2次世界大戦後の世界では、米ソの冷戦という国際状況において、アメリカにつくか、ソ連につくかという選択肢が、各国の政策・進路を分けた。各国の行動には、自由主義・資本主義か統制主義・共産主義かという思想的な選択より、経済的・軍事的な援助をどれだけもらえるかという実利的な選択が多い。
 アメリカは、自由、民主、人権を旗印としていながら、独裁国家、専制国家であっても、自国の国益にプラスになる国には、積極的に援助を行っている。ソ連もまた大富豪・大地主が国民大衆を支配している国でも、アメリカに対抗するに有益な国には、資金や技術や人材を送った。また、アジア・アフリカ諸国のほうも、敵対国がアメリカの支援を受けると、自国はソ連の援助を受けるというように、現実主義的な外交が目立った。
 冷戦の終結後、ソ連の崩壊等により、東欧・中央アジア等で、さらに独立国が増えた。21世紀の今日、独立国は、約190カ国を数えるにいたっている。この事実は、国民国家の普及を意味する。近代西欧に生まれた国民国家、私はその最初をフランスではなく、イギリスに見るのだが、この西欧発の組織体は、諸文明に伝播し、増加を続けている。
 その一方、近代国家の発生の地、西欧では主権国家の枠組みを超えた地域統合が進みつつある。その動きは、北米でも徐々に進んでいる。文明の中に主権国家が現れ、主権国家が国民国家に変貌し、国民国家の集団が地域統合に進む。こうした一つの流れはあるが、安易に主権を譲渡した国家は、大国や隣国に併呑されてしまう。この問題は、後に改めて検討したい。

●第三世界の台頭

 1950年代、東西冷戦の対立構造が確立すると、その東西の陣営に属さない、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカ諸国を指して、第三世界という呼び方が現れた。
 第三世界は、「第三身分」という言葉に由来する。フランス革命の立役者となった「第三身分」は、貴族・聖職者など特権階級に搾取される平民のことを指した。これに対し、第一世界とは、資本主義陣営に属する米欧日を中心とした西側先進国。第二世界とは、社会主義陣営に属するソ連・東欧を中心とした東側諸国をさす。
 第三世界といわれる諸国の中には、相互の連帯を強めるとともに、東西両陣営からの中立を保つ、第三の勢力形成の動きを見せる国もあった。その中心となったのが、中国とインドである。

 1954年(昭和29年)、中国の周恩来首相とインドのネルー首相が会談し、領土と主権の相互尊重や内政不干渉などからなる平和5原則を発表した。中国、インドは、その後、独自の外交を展開していく。
 55年(30年)には、インドネシアのバンドンでアジア諸国と若干のアフリカ諸国、計29カ国の代表の参加の下に、第1回アジア・アフリカ会議が開催された。このバンドン会議では、平和5原則を拡大した平和10原則が採択された。開催予定国の政情不安などで第2回会議は延期されたが、この時の精神は、非同盟主義に受け継がれた。
 61年(36年)に、ネルー首相、ユーゴスラビアのチトー大統領、エジプトのナーセル大統領の提唱により、25カ国が参加する非同盟諸国首脳会議が開かれた。非同盟主義の諸国は、東西両陣営に属さず、米ソ・先進国中心の国際秩序に異議申し立てを行う勢力となった。

 アジア、アフリカと違い、ラテン・アメリカ諸国の多くは、19世紀に独立を果たしていたが、経済的にアメリカ合衆国に従属し、多くの国でアメリカが支援する独裁政権が続いていた。それゆえ、アジア、アフリカの非同盟主義とは違う動きが見られた。各国には、植民地時代から続く極端な貧富の格差を背景に、親米独裁権力対反米・民主化勢力という対立が続いている。うちキューバは社会主義体制を取って、反米の姿勢を示し、それと連携した動きが他国にも広がっている。

●国際連合の変化とまとめ役の不在

 第二次世界大戦の戦勝国による国際秩序の固定化を目指す国際連合は、新しく誕生した新興国が大挙して加盟したことにより、その性格を変えていくことになる。アジア・アフリカで増加する国民国家は発言力を増し、旧宗主国と旧植民地、白人諸国と有色人種諸国、大国と中小国等の間の強力や調整が求められるようになる。
 国際連合は、アメリカが主導して作った。しかし、国連でソ連が拒否権を多用し、またアジア、アフリカ諸国の発言力が増すと、国連はアメリカの思うようにならなくなった。そのため、アメリカの政府や国民には、国連離れが起こり、国益中心の行動が目立つようになった。利用できるときは利用するが、利用できないときは勝手に行動するという大国のエゴイズムが露わになった。
 一方、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの反米的な国々は、国際連合をアメリカ批判の場としてきている。ソ連が隆盛だった時代には、ソ連の支援を受けた諸国家が、ソ連解体後は、イスラーム教諸国、中南米諸国等が、反米で連携している。
 世界の諸国家は、先進国と発展途上国に大きく分けられる。この間に中進国がある。これらは、近代世界システムという見方で言うと、中核部、半周辺部、周辺部に当たる。大まかに言って、先進国は、地球の北部に集中し、発展途上国は南部に集中する。そこから、国際社会の問題を「南北問題」と呼ぶ言い方が普及した。しかし、「南」といわれる地域にも、アラブ諸国のように、石油・天然ガスが豊富で非常に豊かな国がある。そうした国々は、高価値の資源を持たず貧困にあえぐ国々と顕著な対比をなす。そこで、「南」の国々の間に「南南問題」が存在することが指摘されるようになった。
 今日の人類社会は、大国・中国・小国、「持てる国」「持たざる国」等でそれぞれ利害が異なり、しばしばエゴイズムのぶつかり合いが繰り広げられている。力の上では、まとめ役を期待されるべきアメリカ合衆国が、最も利己的な行動を取っているところに、混迷の深さがある。そして、その混迷の由来は、現代の歴史に多くを見出すことが出来る。

●アジア諸文明はユダヤ=キリスト教系諸文明に異論

 アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの諸国のうち、とりわけ大きく発展しているのは、アジア諸国である。アジア諸国は、1960年代から日本を先頭に次々と発展し、21世紀の今日では、アジアは世界経済の中心となりつつあり、人類史上にかつてない大勢力として歴史の舞台に登場している。

 アジアには歴史の古い文明が多くある。世界の文明は、主要文明と周辺文明に分けられる。私の定義では、主要文明とは、独自の文明の様式をもち、自立的に発展し、かつ文明の寿命が千年以上ほどに長いか、または現代世界において重要な存在であるものである。また周辺文明とは、主要文明の文化的刺激を受けて発生し、これに依存し、宗教・政治制度・文字・芸術・技術等を借用する文明である。
 比較文明学者の伊東俊太郎氏は、主要文明に当たるものを「基本文明」と呼び、現代世界における基本文明として、アフリカ文明、西欧文明、アラビア文明、ロシア文明、インド文明、シナ文明、日本文明、アメリカ文明の8つを挙げる。
 国際政治学者のハンチントンは、冷戦後の世界の主要文明を7または8とし、西洋文明、東方正教文明、イスラーム文明、ヒンズー文明、シナ文明、日本文明、ラテン・アメリカ文明を挙げ、これに今後可能性のあるものとして、アフリカ文明を加えている。
 両氏の挙げる大文明のうち4つは、アジアに存在する。私の呼び方で言えば、イスラーム文明、インド文明、シナ文明、日本文明である。そして、これらの主要文明から文化的刺激を受けて発達した周辺文明もアジアには存在する。チベット文明、モンゴル文明、朝鮮文明、南伝仏教文明等である。

 これらのアジア諸文明は、第2次世界大戦後、抑圧された諸民族が独立し発展してきた結果、文明として活力を取り戻し、特に冷戦終結以後、高い文化的アイデンティティを持って、ユダヤ=キリスト教系の諸文明に異論を発するようになってきている。


●ユダヤ文明はユダヤ=キリスト教系諸文明の周辺文明

 ユダヤ=キリスト教系の諸文明とは、米欧中心の西洋文明、ロシア中心の東方正教文明である。私は、イスラエル建国後のユダヤ教社会をユダヤ文明とし、ユダヤ=キリスト教系諸文明の周辺文明の一つと位置づける。
 ユダヤ文化は、古代シリア文明にさかのぼる。ユダヤ民族は、ユダヤ=キリスト教という文化要素を、ギリシャ=ローマ文明経由で西欧文明に提供した。しかし、亡国離散した後のユダヤ諸社会を、まとめて一個の文明と見ることはできない。ロシア、東欧、西欧、北米に離散したユダヤ人は、19世紀後半からパレスチナに移住し続けた。建国後のイスラエルは、ユダヤ教を宗教的な文化要素としつつ、ロシア、東欧、西欧、北米の諸文化、諸思想が混在する社会となっている。その点でも、ユダヤ文明は、ユダヤ=キリスト教系諸文明の周辺文明と見ることが出来る。
 アジア諸文明の中で、ユダヤ=キリスト教系の諸文明と、鋭く対立するようになっているのが、イスラーム文明である。アラブ諸国はイスラエルと数次にわたって戦争を行い、またアメリカと湾岸戦争、アフガン戦争及びイラク戦争で戦っている。また旧ソ連とはアフガン戦争で戦い、今日は旧ソ連圏のイスラーム教徒が中央アジア各地で、ロシアと戦っている。
 ハンチントンは、これらの戦いを、西洋文明とイスラーム文明との衝突ととらえているが、私は第2次大戦後という現代において、イスラエルやロシアを含めたユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の対立・抗争ととらえた方がよいと思っている。

(3)中東が国際関係の焦点に

 

●イスラエルの建国と中東戦争

 先の項目でユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の対立・抗争ということを書いた。ここで時計を戻して、イスラエルの建国と中東戦争について書きたい。

 20世紀以降、最も大きな問題を抱えるようになった地域が、中東である。イギリスは大戦でユダヤ人とアラブ人の協力を得るため、双方にパレスチナでの国家建設を認めた。それと同時に、フランスと中東地域を分割統治する密約を結んでいた。第1次大戦後、イギリスはアラブ人、ユダヤ人との約束を反故にし、アラブ諸地域を、フランスと共に分割した。国際連盟の委任統治領という形ではあるが、パレスチナはイギリスが事実上の植民地とした。パレスチナに世界各地からユダヤ人が入植し始めると先住のアラブ人の間に対立・抗争が起こるようになった。

 アラブ対ユダヤの対立に手を焼いたイギリスは、第2次大戦後の1947年(昭和22年)、パレスチナの委任統治権を国際連合=連合国に返上した。以後、ユダヤ人国家を建設しようとするシオニズムの後ろ盾となる国家は、アメリカに替わった。
 パレスチナにおけるユダヤ人の人口は、第1次大戦の終了時点で5万6千人。総人口の1割に満たなかった。しかし、第2次大戦終了時点では、約60万人。総人口の3分の1にまで増えていた。
 47年11月、国連はパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家と国連永久信託統治区に分割するパレスチナ3分割案を可決した。シオニズムの新たな後ろ盾であるアメリカは、トルーマンのもと、国連で強力な多数派工作を行った。分割案は、パレスチナの6パーセントの土地しか所有していなかったユダヤ人に、56パーセントの土地を与えるものだったから、アラブ側は激しく反発した。
 こうした国連の決定には、ユダヤ人への同情が影響していた。ユダヤ人は、ヒトラーの迫害を受け、多数が収容所で惨死した。またナチス以前からヨーロッパではユダヤ人への迫害が行われてきた。欧米人の間に、その贖罪の意識が働いたものだろう。またユダヤ人のほうも、こうした歴史を自己に有利になるよう宣伝した。

 48年(23年)5月、ユダヤ人は国境を明示しないままイスラエルの独立を宣言した。それに抗議する周辺アラブ諸国との間に、第1次中東戦争が始まった。イスラエルは独立戦争と呼び、アラブ側はパレスチナ戦争という。一つの戦争を、片や大東亜戦争と呼び、方や太平洋戦争と呼ぶようなものである。
 イスラエルの独立を不当とするアラブ連盟は、数万の軍をイスラエルに侵攻させた。しかし、アラブ側は統一的な司令部をもたず、イスラエルは圧倒的な勝利を収めた。49年4月の休戦協定では、イスラエルは国連分割案が示す範囲を超えて、パレスチナ全土の80パーセントを支配した。分割案から休戦協定までの間に、パレスチナ人130万人のうち100万人が難民となったという。
 47年の国連決議では、エルサレムは、国連永久信託統治区に位置している。エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教というセム系一神教の三つの宗教の聖地である。ところが、第1次中東戦争の結果、49年のイスラエルとトランス・ヨルダンの休戦協定で、エルサレムは東西に分割された。これにより、国連決議は守られなくなった。
 大戦後、イスラエルは、アメリカの援助で軍事的に強化された。これに対抗して、ソ連はアラブ諸国に接近し、軍事援助を増やした。米ソの冷戦の影響という新たな抗争要因が、中東に加わった。

●ナーセルの挑戦と挫折

 第1次世界大戦まで、イスラーム文明ではオスマン帝国が長く君臨した。だが、大戦後、オスマン帝国が解体され、西欧の列強が植民地支配を広げた。新たにできたアラブ諸国は、イギリス、フランス等が一部の支配層を利用して作ったもので、家産国家的な性格が強く、国民国家としての基盤は弱かった。そうした国々、イラク、ヨルダン、シリア、レバノン、サウディアラビア、エジプト、チュニジアが第2次大戦後、パレスチナのアラブ人代表者とともに結成したのがアラブ連盟だった。アラブ連盟は、イスラエルに対抗する勢力となった。だが、パレスチナ人を真に支援する組織ではなかった。アラブ連盟は1948年(昭和23年)の第1次中東戦争でイスラエルに敗北したことにより、中東におけるイスラエルの存在感は強まった。以後、56年の第2次中東戦争、67年の第3次中東戦争、73年の第4次中東戦争と、4度にわたる戦争を繰り返すことになった。

第2次中東戦争後、イラクとシリアでは、1958年(昭和33年)にアラブ復興党とシリア社会党が統一されて、バース党が結成された。バース党は、アラブ復興社会党の略称であり、バースは「復興」「再生」を意味する。シリアのダマスカスに本部を置き、アラブ諸国に支部を持つ。アラブ統一・社会主義・自由を基本綱領とし、アラブ・ナショナリズムによるアラブの統一と社会主義社会建設を目指す。共産主義には反対する。イラクでは、後に同党からサッダーム・フセインが登場する。
 またサウディアラビア王国は、1932年(昭和7年)にイブン・サウードがイギリスの支援を受けて建国した。しかし経済的には、33年(8年)以降、ロックフェラー系のカリフォルニア・スタンダード石油が石油利権を握り、アメリカ資本の支配下にあった。同社は、44年(19年)にアラムコに合併された。同国は、アメリカに石油を供給すると共に、アメリカの中東政策の拠点となっている。

 第2次大戦後の中東に大きな変動をもたらしたのが、エジプトのナーセルである。エジプトは、1882年以来イギリスの占領下にあったが、第1次大戦後、1922年(大正11年)に独立国となった。36年(昭和11年)に条約によりイギリス軍は撤兵したが、スエズ運河は除外され、イギリスによる軍事占領が続いていた。エジプトの将校だったナーセルは、第1次中東戦争の敗北で、自国の王政の腐敗に幻滅した。52年に革命を起こし、54年(29年)から政権を掌握し、大統領となった。
 ナーセルはアラブ諸国で初めて農地改革を行い、反英的な非同盟政策を取って、アラブの民衆の支持を得た。こうしたナーセルを警戒した米英両国は、56年(31年)世界銀行によるアスワン・ハイダム建設への資金援助を打ち切った。ナーセルは、これに対抗し、同年スエズ運河の国有化を宣言した。イギリスは、フランス、イスラエルとともにエジプトに軍事干渉し、利権の維持を図った。
 ここに勃発したのが、第2次中東戦争である。イスラエルはシナイ戦争と呼び、アラブ側はスエズ戦争ともいう。この時、アメリカは英・仏・イスラエル三国の行動を支持しなかった。ソ連がエジプトを支持して武力介入する可能性があり、それを避けるためアメリカは英仏を非難したのである。国連決議により三国軍は撤退に追い込まれ、57年(32年)戦争は終結した。イスラエル軍は一時制圧していたシナイ半島から撤退し、エジプトはスエズ運河の国有を維持した。
 戦争の結果、ナーセルは、一躍アラブ諸国の指導者的存在となり、アラブのナショナリズムは高揚した。ナーセルは、61年(36年)にはインドのネルーなどとともに非同盟諸国首脳会議を主導した。

 ナーセルは、イスラエルへの対抗意識を強め、1967年(昭和42年)、イスラエルのインド洋への出口であるチラン海峡の閉鎖を試みた。これにイスラエルが応戦し、第3次中東戦争が勃発した。
 イスラエル空軍は電撃作戦を展開し、エジプト、シリア、ヨルダンの空軍基地を奇襲攻撃によって破壊した。また同陸軍は、ヨルダン川西岸、ガザ地区を占領したことにより、パレスチナの全域を支配下に収めた。さらにシナイ半島、ゴラン高原をも制圧した。わずか6日間で決着がついたので、6日間戦争ともいう。
 戦争の結果、300万人のパレスチナ人の半分が、イスラエルの支配下に入った。一方、アラブの星だったナーセルの威信は、地に堕ちた。

●エルサレムの占領と紛争の恒常化

 私は、西アジアに現れた一神教、すなわちユダヤ教、キリスト教、イスラーム教を総称して、セム系一神教と呼ぶ。
 セムとは、いわゆる旧約聖書が伝える大洪水で生存したというノアの子の一人である。セムはアッシリア人、アラム人、ヘブライ人、アラブ人の祖先とされている。セムの子孫にアブラハムがいる。アブラハムはユダヤ民族の始祖とされ、ユダヤ教はアブラハムが契約した神(ヤーウェ、エホヴァ)を信仰している。ともにセムの子孫とされるヘブライ人からはキリスト教が発生し、アラブ人からはイスラーム教が発生した。キリスト教とイスラーム教は、ともにユダヤ教を継承しつつ独自の教えを説く。ユダヤ教は旧約聖書を、キリスト教は旧約聖書と新約聖書を、イスラーム教はこれらに加えてクルアーン(コーラン)を聖典としている。 それゆえ、私はユダヤ教、キリスト教、イスラーム教を総称して、セム系一神教と呼んでいる。
 神は一つというが、神が争っているのではなく、神を信じる人間が争っている。しかも祖先をともにする者が争っている。中東のこうした兄弟的な宗教の争いで、焦点となっているのが、エルサレムである。

 エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の聖地ないし重要な場所である。
 エルサレムは、第3次中東戦争でイスラエルが占領したヨルダン川西岸に存在する。エルサレムは、第1次中東戦争後、国連決議を無視した形で東西に分割されていたが、イスラエルが全市を押さえることとなった。イスラエルは、エルサレムを「統一された首都」と宣言した。同市を国連永久信託統治区としている国連決議を完全に無視した行動である。そのため、世界の多くの国は、エルサレムを首都と認めず、大公使館をティルアビブに置いている。

 イスラエルというと、多くの人はユダヤ人だけの国家のように思っている。国民の8割はユダヤ人だが、残りの大部分はアラブ人である。当然イスラエルには、ユダヤ教徒だけではなく、イスラーム教徒もいる。自由主義者もいれば、社会主義者もいる。政党は右翼政党連合のリクード、左翼の労働党の他、少数党がいくつもある。アラブ諸国との対決を主張する勢力もあれば、和平共存を願う勢力もある。それゆえ、ユダヤ人は一枚岩ではなく、ユダヤ人全体が世界征服という陰謀を行っているということは、ありえない。一部と全体を混同してはいけない。
 なお、アラブ側には、1964年(昭和39年)、パレスチナ解放機構(PLO)が結成された。PLOは、68年(43年)にパレスチナ国民憲章を制定した。憲章は、敵はユダヤ教徒ではなく、英米勢力と結びついたシオニストであるとし、パレスチナに民主的、非宗教的国家を建設する方針を出した。しかし、69年(44年)アラファトがPLO議長になると、闘争的な組織に変わった。PLO加盟諸派にはテロやゲリラ活動を行うグループがあり、シオニストとの闘争は激化していった。

●アメリカの関与で、中東情勢は一層深刻に

 ユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の関係という視点で見ると、中東には、第1次大戦後、西洋文明の覇権国家イギリスによって文明間の対立がもたらされた。続いて、第2次大戦後、西洋文明の覇権国家アメリカと東方正教文明の対抗国家ソ連によって、その対立は冷戦構造の中に組み込まれた。その結果、争いが憎悪を生み、報復が報復を招いて、抜き差しならない状態となっている。
 ハンチントンは、西洋文明と「儒教―イスラームコネクション」、つまりシナ文明=イスラーム文明連合の衝突の可能性を強調する。実際、共産中国とパキスタン、イランは核開発で深い関係にある。西洋文明とシナ文明=イスラーム文明連合の緊張関係の核心には、第2次大戦後続くイスラエルとアラブ諸国の対立がある。
 ハンチントンの見方では、冷戦期を含めたイスラエル、ユダヤ文明の中東及び世界全体への影響の重要性が浮かび上がらない。ハンチントンは、アメリカを中心として西洋文明が存続・発展していくための政策を提言するが、その立論はユダヤ=キリスト教系の西洋文明、とりわけアメリカ=イスラエル連合を益するものとなっていると思う。

 私は、超大国アメリカの果たすべき役割は、イスラエルとアラブ諸国の対話を促し、中東に和平を実現することにあると思う。そういう試みもされてはきたが、むしろ両者の対立を強める結果を生む動きのほうが多い。
 ケネディ大統領は、イスラエルが核開発をすることを認めなかった。しかし、彼が暗殺された後、アメリカはイスラエルの核保有を黙認するようになった。1960年代から、イスラエルはアメリカの政界・議会へのロビー活動を活発に行い、アメリカ指導層をイスラエル支持に固めていった。
 カーター大統領の時期には、アメリカはイスラエルとエジプトの和平に努力した。しかし、再び対立的な方向に戻り、今やアメリカの指導層は、イスラエル政府の外交政策を支持する親イスラエル派やシオニストが主流を占めている。アメリカのキリスト教保守派の多くは、イスラエルを守るべき国とし、キリスト教とユダヤ教の結びつきは強化されていく。そのこともユダヤ=キリスト教とイスラーム教の対立を激化させる要因となる。
 イギリスの三枚舌外交が生んだ中東の対立構造は、アメリカの関与によって一層深刻になり、そこに石油資源の獲得競争が加わり、中東は世界で最も危険な地域になっている。1970年代以降の展開については、後の項目に書く。ページの頭へ

関連掲

・拙稿「戦後韓国の慰安婦制度こそ、真の国際人権問題
・拙稿「9・11〜欺かれた世界、日本の活路
 第5章「9・11以後、世界は変わった」
 第6章「文明の衝突における日本文明の役割」

 

 

第6章 共産圏の矛盾・抗争

(1)共産主義の罪過

 

●スターリン批判の衝撃

 1953年(昭和28年)、スターリンが死んだ。ソ連帝国に君臨した独裁者の死は、スターリン暴落と呼ばれる株価の低下を引き起こした。やがて遥かに大きな影響を世界にもたらす。
 56年(31年)2月、ソ連共産党第20回大会において、第一書記フルシチョフは、東西間の緊張を緩和し、平和共存路線を図ることを表明した。政策の転換の背景には、深刻な経済危機と対米強硬路線のゆきづまりがあったものと見られる。大会の最終日、秘密会議が開かれた。席上、フルシチョフは、激しくスターリン批判を行った。個人崇拝と専横、戦争指導・外交の誤り、大粛清等、スターリンの罪状の数々が列挙された。
 この秘密報告は、アメリカ国務省の手に渡り、同年6月全文が発表された。衝撃は世界を駆け巡った。とりわけ東欧諸国への影響は甚大だった。ソ連に押さえつけられていた国々に、自立への動きが生じた。

 スターリン批判以前から、ユーゴスラヴィアは、チトー大統領のもと、独自の社会主義路線を取り、非同盟主義外交を行っており、クレムリンも了承していた。スターリン批判によって、新たにポーランドとハンガリーでソ連離れの動きが起こった。
 56年6月ポーランドで、待遇改善を求める労働者のデモが起こり、全国に波及した。共産党は事態沈静化のため、反主流派の元党書記ゴルムカを復帰させた。ゴルムカはソ連軍の介入を受けぬ範囲で、労働条件の改善、言論の自由等の改革を進めることに成功した。
 続いて10月ハンガリーで、ソ連の支配に反発する暴動が起き、自主路線の首相ナジ・イムレが復活した。ナジはワルシャワ条約機構からの脱退と複数政党制を宣言した。これにソ連が軍事介入し、戦車で民衆の抵抗を鎮圧した。ナジは処刑された。ハンガリー動乱という。

 こうしてソ連は、二国の締め付けに成功した。フルシチョフ発言の後も、ソ連の基本姿勢は変わらず、武力で抑え込んだ。しかし、ソ連は自らの国際的な評価を下げた。アルバニアがソ連離れをし、61年(36年)にソ連と断交して中国に接近した。ルーマニアもソ連中心のワルシャワ条約やコメコンに反対し、独自路線に転換した。西側諸国でもスターリン主義への批判が置き、共産主義運動に分裂が起こった。トロツキー、ルカーチ、グラムシ等が再評価され、共産主義は百家争鳴の時代に入る。

●スターリンの大罪は今日に及ぶ

 フルシチョフの秘密報告は、スターリン時代の実態を報告するものだった。スターリンが書記長だった1934年(昭和9年)、ソ連共産党第17回大会が開かれた。その大会で選ばれた党中央委員会の委員及び委員候補139人のうち、98人が逮捕・銃殺されたとフルシチョフは報告する。実に7割である。また同大会の代議員1956人のうち、1108人が逮捕された。彼らは「人民の敵」と決め付けられ、秘密裁判で死刑宣告を受け、処刑された。それはスターリンの指示によるものだった。また取調べでは拷問を行い、自白が強要されたという。
 1997年(平成9年)11月6日、モスクワ放送は「10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年間に6,200万人が殺害され、うち4,000万が強制収容所で死んだ。スターリンは1,260万の命を奪った」と放送した。
 スターリン時代に関しては、マーティン・メイリア教授(カリフォルニア大学バークレイ校)が、最低2,000万人という数字を提示している。内訳は、強制労働収容所の死者1,200万人、1937〜39年の処刑者100万人、農業集団化の犠牲者600万人〜1,100万人などである。

 粛清は、赤軍幹部にも及んだ。5人の元帥のうち3人、海軍大将10人全員など、将校の5分の1が処刑された。赤軍は有能な将校が減って戦闘能力が低下し、第2次大戦でドイツがソ連に侵攻した時、初戦で大敗した。対独戦でソ連は民間人を含めて2,634万人が犠牲になったが、その原因の多くはスターリンの粛清にある。
 スターリンは、ソ連の農業基盤を破壊した。1929年(昭和4年)に始まった農業集団化の結果である。スターリンは、農業がうまくいかないのは富農が原因だとし、富農を絶滅する政策が強行された。それにより約900万人の農民が土地を追われ、うち半分が処刑されたという。集団農場の農民は集団労働で労働意欲が減退し、収穫高は大幅に低下した。かつては豊かだったロシアの農村で多数の餓死者が出るほどだった。毎年食料不足に見舞われ、アメリカから穀物を大量に輸入しなければならなかった。この農業政策の大失敗は、今日もロシアの農業の低迷に影響を残している。

 ソ連は、連邦国家だった。ロシア民族は人口の半分以下で、多民族の集合体だった。スターリンは、各民族が固定して住んでいると、民族として団結し、独立運動を起こすのではないかと恐れた。そして、少数民族を集団で遠方に移転させる政策を推進した。たとえば、チェチェン人は、中央アジアやシベリアに民族ごと集団移住させられた。スターリンの死後、帰郷が許されたが、ロシアへの恨み、反感が残った。チェチェン紛争の歴史的原因がここにある。
 スターリンはまたイスラーム教徒を分断する政策を行った。イスラーム教を信奉する民族が団結して反攻するのを防ぐため、強引に5つの共和国に分割した。現在のカザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンである。このスターリンの政策が、今日のロシアとイスラーム教諸国との摩擦のもとになっている。
 今日、旧ソ連諸国では、各地で民族紛争が起こっているが、その多くは、スターリンによる民族の集団移住や分割政策に原因があるのである。

 スターリンの犯した誤りは、あまりに多い。しかし、暴虐な独裁者が出た国は、旧ソ連に限らない。マルクス=レーニン主義的共産主義の影響を受けた国では、スターリンに似た独裁者が多く現れている。中国の毛沢東、北朝鮮の金日成・金正日、カンボジアのポル・ポト、ルーマニアのチャゥチェスクらがそれである。彼らはスターリンに学び、その独裁の方法をまねた。統制主義体制の国家で強大な権力を掌中にした指導者が、その維持・拡大のために、言論統制、情報管理、秘密警察、強制収容、拷問・殺戮等を行う。
 こうした現象は、共産主義の本質に深く根ざしたものといわねばならない。それとともに、スターリンは共産主義の本質を体現し、その後の共産主義の指導者に先例を与えたのであり、彼の罪過はきわめて大きい。

関連掲示
・マイサイトの「共産主義」の項目

 02「犠牲者1億人を生んだマルクスの欠陥」
 04「災厄を広げたレーニン・スターリン・トロツキー」
 05「所有と支配の矛盾〜求められる精神的向上」

 

●中ソ論争の背景に核戦略の違いあり

 ソ連は、アメリカを追って原爆・水爆を開発し、1957年(昭和32年)8月には、アメリカの先を越して大陸間弾道ミサイルの発射実験に成功した。10月には人工衛星スプートニク1号、続いてライカ犬を搭載したスプートニク2号の打ち上げにも、成功した。ソ連はアメリカに対する軍事的優位に立った。
 しかし、フルシチョフは、核の破壊力を増大していくと、いずれ米ソは核戦争に突入し、人類の絶滅につながると認識するようになった。フルシチョフは、軍事よりも経済でアメリカを抜くことを目指す政策に転じた。「大砲よりバター」で、社会主義体制の優位を示そうとした 平和共存路線とスターリン批判に強く反発し、ソ連を非難したのが、中国共産党である。
 1960年(昭和35年)4月、中国共産党の機関紙「紅旗」に公然とソ連を批判する論文が掲載された。58年(33年)にソ連の首相となったフルシチョフは、積極的に平和共存政策を提唱し、59年には訪米してアイゼンハワー大統領と首脳会談をし、国連演説で完全軍縮を提案した。こうした路線を中共が非難したのである。中ソの間には、核時代における戦略思想の違いがあった。

 毛沢東は、フルシチョフと全く違う考えを持っていた。毛は朝鮮戦争の時、途中から北朝鮮の意思を越えて、戦争を拡大した。戦争を拡大することにより、スターリンから核開発への援助・協力を取り付けようとした。57年(32年)10月、ソ連は、毛沢東の強い要望に応えて、中国と核兵器開発の技術援助を行う協定を結んだ。以後、中国の核兵器開発は、ソ連の技術援助により進められた。
 当時、毛は、ソ連が大陸間弾道ミサイルの発射実験に成功したことをもって、「東風は西風を圧倒している」と認識した。東側の諸国が西側の諸国に対して力の優位に立ったというわけである。そして、毛は、ソ連を中心とする社会主義陣営が団結して、アメリカの核を恐れず、「原爆は張子の虎」であることを暴露すれば、世界戦争は起こらない、そればかりか帝国主義を絶えず弱体化させ、究極的には圧倒することができると主張した。
 「中国は人口が6億人いるから、仮に原水爆によって半数が死んでも、3億人が生き残り、何年がたてばまた6億人になり、もっと多くなるだろう」と、毛は語った。これには、フルシチョフも呆れ果てた。毛の思想は「核兵器のいかなるものかを知らない」人間の「非人間的な考え方」であり、「野獣の考え方」であると厳しく批判した。シナの伝統である人命軽視の価値観は、ソ連の指導者をも驚かせ、警戒させたのである。

 やがて中ソに亀裂が生じた。ソ連は59年(34年)6月に中国に対する核開発技術援助供与協定を一方的に破棄した。中国はソ連に反発した。毛沢東は、ソ連との同盟関係を反故にし、ソ連の社会主義陣営を離脱し、自国を危機にさらしてでも、自力で核開発を推進しようと考えた。60年(35年)4月、紅旗論文で中国共産党が公然とソ連を批判するようになった背景には、こうした核戦略の違いがあった。
 中ソ論争が表面化すると、ソ連は、中国に派遣していた技術者を引き上げ、対中援助を打ち切った。スターリン主義を堅持し、毛沢東への個人崇拝を統治の要とする中国共産党は、フルシチョフを修正主義者と非難した。平和共存政策は階級闘争を放棄するものであり、マルクス主義の原則を逸脱するものだとして糾弾した。こうして中国共産党とソ連共産党の対立は、エスカレートしていく。

●核戦争の可能性が高まったキューバ危機

 1956年(昭和31年)以降、フルシチョフの平和共存路線によって、米ソの緊張関係がゆるみ、いわゆる「雪どけ」の時代を迎えた。しかし、60年(35年)5月にソ連がアメリカの偵察機を撃墜したことで、関係が再び悪化した。米ソはともに核実験を開始するなど、世界は緊張状態に戻った。こうした中、核戦争の危機が一気に高まったのが、62年(37年)10月のキューバ危機である。

 ラテン・アメリカの諸国の多くは、ナポレオン戦争後多く独立した。しかし、キューバの独立は遅れた。19世紀末になって、スペインからの独立を目指したキューバは、独立戦争を始めた。その最中の1898年、アメリカは、スペインと米西戦争を始めた。この戦争のきっかけとなったメイン号事件は、アメリカの自作自演だったことが知られている。スペインに勝ったアメリカは、フィリピン、グアムを譲り受けた。この時、アメリカはキューバの頭越しに、スペインとの間でキューバの独立を決めた。ただし、内政干渉ができるとした。そのため、キューバは、独立はしたもののアメリカの植民地に近い国となった。
 1952年(昭和27年)、バティスタがクーデタで政権を取り、アメリカの支援のもと独裁政治を行った。これに反発したカストロが59年(34年)にバティスタ政権を倒し、共産主義政権を樹立した。その後、アメリカとキューバの関係は悪化し、61年(36年)にはアメリカの爆撃機がキューバに侵攻作戦を試みて失敗。その後もCIAがカストロ暗殺を狙って何度も失敗した。
 こうしたカストロをソ連が支援した。アメリカは大戦末期から、ソ連が中南米に進出することを警戒していた。アメリカの懸念は現実になった。米ソ冷戦が、ラテン・アメリカにも広がった。

 1962年(昭和37年)10月15日から13日間、米ソは一触即発の状態になった。これをキューバ危機という。その年10月、アメリカの偵察機が、キューバにミサイル基地が建設されているのを撮影した。ソ連の中距離ミサイルが運び込まれ、設置されていることが確認された。
 当時、アメリカはイタリアとトルコにモスクワを射程に納めたミサイルを配備していた。片やソ連は、自国の領土からアメリカに届くミサイルは、開発できていなかった。そこで、フルシチョフは、60基のミサイル、60発の核弾頭をキューバに配備する計画を策定した。アメリカの裏庭のようなキューバに核ミサイルを配備して対抗しようとしたのである。
 アメリカにとっては、ワシントンやニューヨークをキューバから狙われる事態は、黙認できない。ケネディ大統領はソ連に猛然と抗議し、ソ連の武器・物資搬入を阻止するため、戦艦と戦闘機で海上封鎖した。マクナマラ国防長官やテイラー統合参謀本部議長らは、キューバ攻撃を進言していた。しかし、キューバを攻撃すれば、ソ連は報復する。西ベルリンに駐留する米軍が攻撃される可能性が高い。全面核戦争にエスカレートする恐れがある。そこでケネディは、軍部の強硬な申し入れを入れず、海上封鎖で対抗する方法を取ったのである。
 米ソによる世界核戦争の脅威は、日々強まった。全世界が固唾を呑むなか結局、ソ連が譲歩した。10月28日、モスクワ放送は「キューバからの武器の撤去」を発表した。それにより、衝突は回避された。世界に平和が戻った。
 実はケネディは、表向きは強硬な態度を取る一方、フルシチョフにトルコから核ミサイルを撤去することを密かに約束していた。

 危機を回避した両国首脳は、コミュニケーションの必要を痛感し、急接近した。翌63年(38年)6月ホワイトハウス・クレムリン間で直接通信するホットライン協定が結ばれた。ついで、同年米英ソ部分的核実験停止条約が結ばれ、平和共存と「雪解け」が進んだ。68年(43年)には核拡散防止条約が結ばれ、米ソ中心の核兵器管理が進められた。
 キューバ危機以後、核兵器は「使えない兵器」となった。その傍ら、通常兵器の拡大競争は激化していった。また米ソの共存を打ち破るように、1964年(昭和39年)10月、共産中国が最初の核実験を行った。67年(42年)には、水爆実験も成功させた。核を持った中国は、ソ連への対抗的な姿勢を強めた。根底には、アメリカへの挑戦があった。核を手にした毛沢東は、地球の支配者となることを目指していた。

 キューバ危機後のキューバでは、カストロが社会主義的な政策を続けた。キューバの経済を支えていたのは、ソ連だった。ソ連はキューバに安い価格で原油を売り、逆に高い価格でキューバの砂糖を買った。ところが、1991年(平成3年)、そのソ連が崩壊した。キューバへの外国からの財政支援はなくなった。アメリカは、経済封鎖を続けた。やむなくキューバは93年(平成5年)政策を転換し、一定限度の経済的自由化を行った。
 カストロは、2006年(平成18年)、国政の一線から身を引いた。アメリカはなお経済封鎖を解除せず、キューバ経済は低迷を続けている。一方、カストロの反米思想は、広がりを見せている。ベネズエラのチャベス大統領、ボリビアのモラレス大統領は、キューバと連携し、反米的な主張を唱えている。それに呼応して、中南米諸国に反米のネットワークが広がりつつある。

(2)共産中国の虚妄

 

●共産中国の国家建設

 共産中国の国家建設について、具体的に触れぬまま、中ソ論争や核保有にまで話を進めてしまった。ここで補足したい。中国は建国後、ソ連の援助を受けて、ソ連を手本とする社会主義建設に取り組んだ。その第1段階が、第1次5カ年計画であり、1953年から57年(昭和28〜32年)にかけて実施された。銀行・工場の国営化、農業の集団化、道路・鉄道建設による工業化等が進められた。
 続いて毛沢東は、建国10年を迎える中国が社会主義建設を進めるためのスローガンとして、「大躍進」を打ち出した。これは、生産大躍進として、人民公社革命・社会主義建設総路線と並んで、三面紅旗の一つをなすものだった。

 「大躍進」という名目で、全国民を挙げての製鋼事業が行われた。伝統的な工法による粗鋼の生産に労力が集中されたため、農作物の収穫が満足に出来ず、作物は腐るまで放置された。その結果、ひどい食料不足を招き、少なくとも2000万人、多く見て4300万人が餓死したといわれる。餓死者続出のなか、鍋・釜まで供出して民衆が作った鉄は、ほとんど使い物にならなかった。
 壮大な失敗に終わった大躍進政策は、実は中国の限られた財源・資源を核兵器開発に集中するために行われたものだった。中国共産党は、日中戦争、国共内戦の中から権力をつかみ取った。毛沢東は「鉄砲から権力が生まれる」と言い、政策の根本を軍事に置いていた。ところが、中国は建国後数年の間に、アメリカから核兵器で繰り返し威嚇された。1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争、54年(29年)のインドシナ戦争、54〜55年(29〜30年)の台湾との大陳諸島解放作戦、同じく58年(33年)の金門島砲撃の際である。毛沢東は、アメリカの核攻撃の瀬戸際に立たされた。この経験から、毛は、アメリカに対抗するには核兵器を保有することが不可欠と考えた。そして、核兵器とそれを運搬する弾道ミサイルの保有を決断した。
 独裁的な指導者・毛沢東の決断によって、中国は1950年代中半から、核開発を進めた。開発は、ソ連の援助と協力を受けて進められた。以来、中国は、国民生活の向上や通常戦力の近代化を後回しにして、核兵器の開発・保有を遂行した。

 大躍進政策を始めた年から、毛沢東は、核ミサイル開発と人民戦争の組み合わせによる「二本足軍事路線」を取った。 毛沢東は、核開発を進めるとともに、核攻撃を生き延び、侵略した敵を「人民の大海に埋葬する」という人海戦術を打ち出した。そして、広大な農村に「星をちりばめたように散在する」人民公社が設立された。人民公社は、革命後の土地改革で農業の集団化が進められた。その発展形態が、人民公社である。
 人民公社は、単なる農業生産組織ではない。政治・経済・文化・軍事など国家・社会のあらゆる機能を兼ね備えた一種の「自給自足社会」であり、「小国家」であった。かつまた人民公社を単位として民兵が組織された。万が一、アメリカの核攻撃を受けた場合は、人民公社で生き残ることを、毛沢東は考えたわけである。
 人民公社は、農業政策としては失敗だった。農地の共有化と農業の集団化は、農民の労働意欲をそぎ、生産性は低迷した。1980年代には、土地を貸与する方式に転換され、1985年(昭和60年)には人民公社の解体が完了した。しかし、毛沢東の強引な政策によって、独自の核開発は進められた。4300万ともいわれる犠牲者を伴いながら、やがて中国の核は産声をあげることになる。

●共産党指導部の路線対立

 毛沢東による「二本足軍事路線」の採用は、建国以来のソ連を雛型とした中国近代化路線の転換となった。人民解放軍の内外の反対と抵抗は大きかった。また、大躍進政策は、生産活動に混乱をもたらし、食糧生産が低下したため、多数の国民が餓死した。食人はシナ文明の特徴であるが、飢えた民衆は、人肉を食べた。
 あまりの悲惨さに心を痛めた彭徳懐は、1959年(昭和34年)の廬山会議で三面紅旗を批判した。そのため国防部長を解任され、自分を粛清する決議に署名させられた。毛沢東は、彭に同調する幹部を免職・監禁して反対意見を押しつぶし、軍事路線の転換を断行した。
 しかし、毛沢東は大躍進政策による混乱の責任を取って、国家主席を辞任した。59年(34年)替わって国家主席となったのが劉少奇である。劉は盟友のケ小平とともに経済の再建に取り組んだ。彼らは毛の破滅的な政策をやめ、現実的な政策を行った。それによって、中国経済は回復した。
 実権を失った毛沢東は、劉少奇に深い恨みを抱き、復讐のチャンスを狙った。復讐は、文化大革命という形で実行されることになる。

関連掲示
・拙稿「核大国化した中国、備えを怠る日本〜日中戦後のあゆみ

●毛沢東の継続革命論

 中国は1964年(昭和39年)10月、最初の核実験に成功した。その翌年、文化大革命が開始された。文化大革命は、文学者への批判に始まったので「文化」大革命といわれる。
 当時ソ連では、社会主義革命によってブルジョワジーは打倒され、ソ連では階級闘争は基本的になくなったとしていた。これに対し、毛沢東は、異を唱えた。毛によると、革命後も共産主義が実現するまでは、プロレタリアートとプルジョワジーの階級闘争は存続する。その階級闘争の反映により、共産党の党内には、社会主義を目指す勢力と資本主義に戻そうとする勢力が生まれる。それゆえ、資本主義化を防ぐため、党内また党外で階級闘争を続けていかなければならない、と毛は説いた。これを継続革命論という。
 こうした理論から、資本主義的な思想を追放するには、常に思想闘争を行い、資本主義に走る者を打倒しなければならない。それには、権力を奪取する政治革命とは別に、文化の革命を必要とするという理論が導き出される。思想や生活を変える革命というわけである。

 ソ連の革命理論が、共産党官僚による独裁を正当化し、国民大衆の批判的思考を抑圧するものだったのに対し、毛の革命理論は一見、社会主義体制内部の矛盾を明確化し、社会主義の再生を図るもののように見える。そのため、ソ連型社会主義に矛盾・限界を感じた共産主義者や知識人の中には、毛沢東に心酔し、理想化する者が多く現れた。
 1960年代、世界の先進国で、共産主義運動や反戦・人権運動が嵐のように高揚した。パリの5月革命、日本の全共闘運動、アメリカのベトナム反戦運動等がそれである。こうした運動に対し、毛沢東思想は熱病のような影響を与えた。
 確か毛沢東が言うように、社会主義体制で資本主義は復活または発達し得る。それは、もともと社会主義は資本主義の変形であり、まったく原理的に別のものではないからである。社会主義は統制主義的資本主義であり、計画経済には、市場による生産量と価格の調整という過程を欠く。そのため、国家経営・企業経営は早晩行き詰まる。経営再建のためには、自由主義的な政策を取り入れざるを得ない。自由主義的政策を行えば、自由主義的な資本主義に変化する。その際、統制主義の国家では、権力が集中するから権力を掌中にする者に富もまた集中する。富の集中を防ごうとすれば、極めて高い倫理が必要となる。毛沢東が考えたのとは違い、これは思想の問題だけではなく、社会主義の根本的な問題なのである。

●文化大革命は、毛沢東の奪権闘争

 文化大革命がシナで繰り広げられていた当時、外の国々からは、毛沢東がその社会主義理論を実践しているように思われた。しかし、その実態は毛沢東が劉少奇から権力を取り戻すために起こした奪権闘争だった。
 劉少奇は、大躍進政策の途中で国家主席となった。毛沢東の荒唐無稽、実態無視の政策による混乱を見た劉少奇は、民衆の生活を考慮した建設的な政策を進めた。毛は、こうした劉に個人的な怨恨を抱いていた。
 毛は、劉少奇やケ小平らを、社会主義を裏切り資本主義に走る「走資派」と呼んで、激しく批判した。大躍進政策の失敗の責任を取った毛沢東は、国家主席の座は離れたが、共産党の主席(党首)の座は確保していた。国民の間には、革命の英雄というイメージがある。毛は、それを権力闘争に利用した。若者を洗脳して紅衛兵を組織し、彼らを扇動して、奪権を進めた。劉を悪者に仕立てて共産党から除籍し、監禁状態において虐待した。劉少奇は、まともな治療も与えられず、苦悶の中で病死した。劉は偽名で埋葬され、その死は長年、国民に発表されなかった。

●「プラハの春」と中ソ国境紛争

 中国で文化大革命の火が燃えさかっていた当時、ソ連は「社会主義大家族」という理念で、東欧を支配していた。1964年(昭和39年)フルシチョフの死後、第一書記となったブレジネフは、制限主権論を説いて、社会主義建設の名目でソ連の東欧への帝国主義的支配を正当化した。
 しかし、スターリン批判以後、自立への動きが生じた東欧では、その後もソ連離れの動きが続いていた。1968年(昭和43年)、ドプチェク政権が誕生したチェコスロヴァキアでは、社会主義の範囲内で自由化・民主化の動きが強まった。いわゆる「プラハの春」である。しかし、同年の8月、ソ連をはじめとするワルシャワ条約機構軍が軍事介入し、ドプチェクは失脚した。自主改革はソ連によって阻止された。
 このソ連の軍事介入は国際的な非難を浴び、ソ連の東欧への支配力は低下した。以後も東欧諸国の自由化への動きは、徐々に進行していく。たとえば、1956年(昭和31年)ソ連の介入により、一度は自由化への動きが封じられたハンガリーでは、60年代後半以降、カーダール書記長のもと、経済の自由化が進められた。
 「プラハの春」以後、中ソ論争は激しさを増した。中国はソ連を「社会帝国主義」と決め付け、ソ連も中国を「反レーニン主義」と規定して対立した。社会主義陣営における主導権争いでもあった。遂に中ソは1969年(昭和44年)、両国の国境地帯、ウスリー江の珍宝島(ダマンスキー島)で、数回にわたって武力衝突した。ソ連は、中国の各施設を破壊するため、本格的な侵攻を計画したほどだった。

 核兵器を多く保有するようになった中国は、既に米ソに取って侮れない存在となっていた。ソ連は、力で中国を押さえようとした。69年ソ連は、中国の核施設に対する先制攻撃共同作戦を、アメリカのニクソン大統領に提案した。アメリカはこれを断り、中ソの対立を外交的に利用しようとし、中国に接近する道を選んだ。当時アメリカは、ベトナム戦争で大きな打撃を受けていた。その解決のため、中国と秘密交渉を行った。
 アメリカは、それまでの反共政策を改め、台湾より共産中国を重んじる方針に転じた。アメリカが強く後押ししたことにより、1971年(昭和46年)、国連の代表権は、中華民国から中華人民共和国に移った。アメリカは中ソを切り離し、中国と結ぶことで、ソ連との冷戦を有利に進めようとしたわけである。同時に中国もアメリカ、日本と接近し、ソ連と対抗する姿勢を強めた。米中は、1972年(47年)2月のニクソン大統領の訪中で国交実現に合意した。
 米中接近では、イデオロギーの対立より、国家と国家の力学が優先された。第2次世界大戦では、アメリカはソ連と組んでナチス・ドイツと戦った。ソ連も米英と組んでドイツと戦った。国益のためには、イデオロギーは引っ込める。イデオロギーは理想ではなく、国益になる範囲で外交に利用する手段である。イデオロギーとは、その程度のものであると心得ておく必要がある。
 
●伝統の否定、道徳の破壊、生命の殺戮

 毛沢東の継続革命論には、社会主義の再生をめざす動機があった。しかし、もし社会主義体制において権力者の私利私欲や独断専横を防ぐことが目的の一つであれば、シナには儒教という伝統がある。儒教は、為政者に対し、自らの道徳を高め、人民のために尽くすことを説く。しかし、文化大革命は、こうした伝統的な政治道徳思想を評価・復興するのでなく、逆に徹底的に否定した。さらには、民衆の間の家族道徳、社会道徳をも破壊した。文化の革命ではなく、文化の破壊である。文化大革命ではなく、文化大破壊である。
 毛沢東は、1976年(昭和51年)に死亡した。毛の妻・江青らは「四人組」として、反対派から一層され、77年(52年)、文化大革命の終了が宣言された。それまで10年以上にわたって、シナでは混乱が続いた。その後、総書記となり民主化を試みた胡耀邦は、文化大革命では「約1億人が連座された。中国の人口の10分の1に相当する」と述べている。犠牲者数は、少なくとも773万人と推計されている。明記すべきは、虐殺の大部分は、紅衛兵によるものではなく、人民解放軍の将兵、武装民兵、党員幹部によるものだったことである。

 こうした混乱の中ではあったが、見逃せないことがある。それは、文化大革命で実権を取り戻した毛は、核ミサイル開発計画を推進したことである。
 経済の全体的成長や国民生活の向上を理解しない毛は、ひたすら権力と核兵器に固執した。劉少奇らとは根本的に国家建設の方針の違いがあり、核開発・核戦争戦略をめぐる路線の対立があった。ソ連は、毛によって共産中国が軍事力を強めていくことを、非常に警戒した。しかし、毛はソ連との対決も辞さずという決意で開発を進めた。毛沢東の核戦略こそ、その後、中国が東アジアの地域大国となり、さらにアメリカに挑戦する対抗国家となった大きな要因である。またこのことは、共産中国では、政治は混乱を繰り返したが、人民軍は一貫して強固な組織を保ち、強大化したことを意味する。

 毛沢東の思想や運動は、彼の死後も世界に広く影響を与え続けた。スターリンが世界に起こした災厄も大きかったが、毛沢東が起こした災厄は、それを上回る。
 ソ連における共産主義による犠牲者は、2000万人から6200万人という説があるが、シナにおける犠牲者は、6500万人と推計されている。スターリンと毛沢東の独裁政治をもっと極端な形で実践したのが、カンボジアのポル・ポト政権である。ポル・ポトは、毛の大躍進政策と文化大革命に強い影響を受け、知識の根絶や農業の破壊をし、また国民を200万人から300万人も虐殺した。
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第7章 アメリカの迷走

(1)軍産複合体とアメリカの戦争

 

●アメリカを動かす軍産複合体

 

 第2次世界大戦を通じて、アメリカでは軍需産業が大いに繁栄した。その中から軍産複合体が出現する。軍産複合体は、その後のアメリカの政治に大きな影響を与え、政府の政策を左右するようになる。

 軍需産業は、産業資本である。産業資本と金融資本は、共通利益で結ばれている。産業資本が金融資本を潤し、金融資本は産業資本を支える。これらの資本にとって、最大のビジネスチャンスは戦争である。戦争は、一大公共事業であり、多大な需要を生み出す。また雇用も生み出す。ケインズは、完全雇用は戦争以外では実現できないことを認識していた。ニューディール政策は、戦争によって初めて限界を破り、戦争によってアメリカは未曾有の好景気に入った。

 大戦後のアメリカは、軍事的にも経済的にも世界最大の強国となった。戦争で成長した軍需産業の中から、戦争で利益を上げる大規模な企業集団が出現した。その企業集団と国防総省、軍、CIA等が結びつき、巨大な勢力となった。それが軍産複合体である。

 

 軍産複合体は、核兵器の開発の中で形成された。アメリカは、世界に先駆けて原子爆弾の開発を進め、これに成功した。原爆の開発には、最先端の科学が応用され、大規模な新施設や多くの人員が必要である。開発費も莫大である。軍需産業にとっては、通常兵器とは規模の違うビジネスが、核兵器の開発・生産だった。そこに軍産複合体が形成された。

 いったん肥大化した軍需産業は、利益を維持するため、需要の継続を求める。戦後のアメリカには、ソ連による世界の共産化を防ぎ、自由とデモクラシーを守る使命があった。そのため、軍事力を増強し、世界各地に広く軍隊を派遣した。アメリカ軍が世界各地に駐屯することにより、アメリカの軍需産業は政府から多くの受注を受けた。

 しかし、軍需産業にとって最も大きなビジネスチャンスは、戦争である。戦争は、武器・弾薬を始め、兵隊の食糧・生活物資等、膨大な需要を生む。恩恵を受ける企業は多くの分野に及ぶ。自国が戦場にならない戦争は、大いに儲かる。だから軍需産業は、新たな戦争を求める。そしていったん戦争が始まると、これを可能な限り長引かせようとする。戦争が長く続くほど軍需産業は潤う。アメリカに出現した軍産複合体は、自らの利益のため、政府に働きかけ、政策を左右するようになっていった。

 

●ケネディ大統領の暗殺

 

 大戦終結から5年を経た1961年(昭和36年)の1月、アイゼンハワー大統領は、全米に中継放送された辞任演説で、軍産複合体の危険性を国民に語った。「この巨大な軍隊と軍需産業の複合体は、アメリカが経験したことのない新しいものである。(略)大変な不幸をもたらす見当違いな権力が増大していく可能性がある。軍産複合体が我々の自由と民主主義の体制を危険に陥れるのを、手をこまねいて待っていてはいけない」と。

 アイゼンハワーは、第2次世界大戦で連合国軍総司令官としてノルマンジー作戦を成功させた英雄である。その軍人上がりの大統領が、軍産複合体が政治に介入し、政府を動かそうとしていることを国民に警告した。当時、巨大化した兵器工業界、軍事技術開発機関、軍事関係議員、軍事ロビイスト等が連携し、それぞれの利益のために軍拡路線を推進しようとしていたのである。

 

 アイゼンハワーの後任は、ジョン・F・ケネディだった。ケネディは、アイクの警告をよく理解し、軍産複合体に対して積極的な対応を試みた。この時期、アメリカの進路に大きくかかわることになる重要な問題が、アジアに存在していた。第2次大戦後、インドシナ半島のベトナムで続いていた戦争である。アメリカはソ連に対抗するため、反共産主義の側を支援していた。

ケネディ大統領は、軍事顧問団を送る形でベトナムに軍事介入した。直接軍隊は派遣せず、65年(40年)には撤退する方針だった。だが、ケネディは1963年(昭和38年)11月22日、テキサス州ダラスでパレード中に暗殺された。世界に衝撃を与える事件だった。後任のリンドン・ジョンソン大統領は、ベトナムに積極的に参戦した。

 ベトナム戦争は奇妙な戦争だった。アメリカは、圧倒的な軍事力を持っており、勝とうと思えば勝てるはずなのに、戦争は1973年のパリ和平協定の成立まで、約10年間続いた。この間、軍産複合体は膨大な受注を受けた。その一方、ベトナム戦争は、アメリカの政府と国民に多大な負担と深刻な影響をもたらした。

 

(2)ベトナムという陥穽

 

●ベトナムが東西対決の場に

 

 ここでベトナムの歴史とベトナム戦争について書く。

 ベトナムは、19世紀以来、フランスの植民地だった。仏領インドシナの一部をなしていた。第2次世界大戦でフランスがナチス・ドイツに敗れ、親独のヴィシー政権が成立した。日本は、ヴィシー政権との合意の下に、1940年(昭和16年)9月、北部仏印に進出した。さらに41年(17年)3月には、南部仏印に進出した。

 以後日本はベトナムを占領することになるが、45年(20年)8月、大戦で敗北した。すると、ベトナム各地で蜂起がされた。共産主義者が組織したベトナム独立同盟(ベトミン)の指導による動きである。9月には、ベトナム共産党の指導者ホー・チミンが独立を宣言し、ベトナム民主共和国が成立した。独立を認めない旧宗主国フランスは、バオ・ダイを元首とするベトナム国を発足させた。そして、46年(21年)12月、アメリカの支援を受け、ベトナム民主共和国への攻撃を開始した。ホー・チミンは徹底抗戦を呼びかけ、ここに第1次インドシナ戦争が始まった。

 この戦争は、アジアにおける植民地からの民族独立戦争の一つだった。しかし、ベトミンをソ連が支援したことにより、ベトナムは東西陣営の「対決の場」となった。

 

 戦争は、8年間続いた。54年(29年)ディエンビエフーで、フランス軍がベトナム解放軍に包囲殲滅された。その結果、ジュネーブ協定が調印された。協定により、北緯17度線が暫定的な軍事境界線となった。また2年後に総選挙を行い、統一政府を樹立することが約束された。しかし、これではベトナムの共産化は必至と見たアメリカは、ジュネーブ協定に調印せず、南ベトナムにゴ・ディン・ジェムを大統領とするベトナム共和国を樹立した。

 第1次インドシナ戦争後、ベトナムでは、アメリカと中ソがそれぞれ支援する二つの政権が南北に並存することになった。48年の朝鮮、49年のドイツに続いて、54年ベトナムも分断国家が固定されたわけである。

 アメリカは、ベトナムが共産化すれば、その波がドミノ倒しのように東南アジア全体に及ぶことを警戒した。これを「ドミノ理論」という。東欧はソ連によって共産化・従属化された。中国が共産化し、北朝鮮もソ連の勢力圏に入った。その上、東南アジアが次々に共産化したら、アメリカの世界的優位は崩れる。アメリカは、アジアの反共に力を入れた。ソ連も北ベトナムを支援した。米ソは直接対決はしない。双方が支援する者が戦う。そのことにより、米ソの代理戦争といわれる。

 

●アメリカが本格的にベトナムに介入

 

 南ベトナムでは、ゴ・ディン・ジェムは統一選挙を実施せず、反対派や仏教徒を厳しく弾圧した。アメリカは、自由とデモクラシーを旗印とするが、国益のためには、理念より実利を優先する。圧政への反発が強まり、60年(35年)南ベトナム解放民族戦線(NLF)が結成された。NLFは、北ベトナム(ベトナム民主共和国)の支援を受けてゲリラ戦を開始した。背後には、ソ連がいる。これが第2次インドシナ戦争である。一般には、ベトナム戦争と呼ぶ。

 

 アメリカが支援したゴ・ディン・ジェムは、63年6月に暗殺された。後任政権も民衆の支持を得られず、ベトナムでは反政府・反米の運動が拡大した。

 ケネディ大統領は軍事顧問団を送ってベトナムに軍事介入したが、65年(40年)には撤退する方針だった。そのケネディが暗殺されると、副大統領のリンドン・ジョンソンが後任となった。ジョンソンは、64年(39年)8月に起こったトンキン湾事件をきっかけとして、地上部隊を派遣した。しかし、最新装備のアメリカ軍が思わぬ苦戦となった。そこでジョンソンは、ゲリラを支援する北ベトナムを叩くべく、65年2月北爆を開始した。これがアメリカの本格的な参戦となった。これに対抗して、この年から共産中国が参戦した。それにより、戦争は長期化する。

 北爆のきっかけになったトンキン湾事件とは、64年8月4日北ベトナム海軍の魚雷艇が公海上でアメリカ艦船を攻撃したとされる事件である。憤激したアメリカ議会は、大統領に戦争の指揮大権を白紙委任する「トンキン湾決議」を行った。ジョンソンは決議を受けて、戦争を拡大した。

 ところが、トンキン湾事件は、ジョンソン政権の捏造だった。そのことを、1971年(昭和46年)にニューヨーク・タイムズの記者がペンタゴンの機密文書を入手して暴露した。事件当時の国防長官だったマクナマラは、それが事実であると1995年(平成7年)になって公式に認めた。大体、当時北ベトナムは、魚雷艇を持っていなかった。

 その後のベトナム戦争の展開については後の章に書くことにして、ベトナム戦争を含めてアメリカの進路に重大な変化をもたらしたケネディ暗殺事件について、次に詳しく書きたい。

 

(3)ケネディ暗殺事件の闇

 

●ケネディ暗殺のなぞ

 

 ケネディは1963年(昭和38年)11月22日、テキサス州ダラスでパレード中に暗殺された。テレビで生中継されている間の衝撃的な出来事だった。自由とデモクラシーの国・アメリカで、現職の大統領が白昼、大衆の注視の中で暗殺されたのである。

 政府はすぐ、連邦最高裁長官のウォーレンを委員長とする真相究明委員会を設置した。委員会は、事件の約10ヵ月後、オズワルドの単独犯行だとする最終報告書を出した。報告書には矛盾が多く、この事件には不可解な点が多い。今日もなお証拠が公開されておらず、真相は不明なままである。

 ジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件には、なぞが多い。その主なものを挙げる。

 

@ウォーレン委員会の報告書は、ケネディの乗った車が、オズワルドが隠れていたビルの前を通り過ぎた後に、狙撃がされたと明記している。

 しかし、暗殺現場を撮影したザプルータ・フィルムによると、ケネディは前方からの銃撃によって前頭部を撃たれ、脳の一部が後方に飛んでいる。また頭が後ろにのけぞるほどの衝撃だった。

 このことは、後方のビルにいたオズワルドの単独犯行説では説明できない。

 

Aオズワルドがいた教科書ビルの窓からは、木の葉が邪魔して狙撃しにくい。単独犯なら確実に狙撃できる場所を選ぶはずである。

 

Bオズワルドは「射撃の名手」とされるが、海兵隊時代の記録からは名手とは言えない。なにより、オズワルドには銃を撃った後に検出される硝煙反応が検出されなかった。

 

C大統領を討った1発目の銃弾はそれたが、2発目は首、3発目は頭部に当たり、ケネディは民衆の前で倒れた。

 報告書は、犯人は5秒程度で3発発射したとしている。しかし、オズワルドが使用したボルトアクション方式のカルカノ銃では、5秒程度の間に3発発射し、うち2発を命中させるのは至難である。

 

D大統領に致命傷を与えた最も正確な射撃は3発目とされる。しかし、通常は1発、2発、3発と撃つごとに照準に狂いを生じる。

 

E大統領と同乗者の他の被弾箇所は、5箇所ある。報告書は1発の銃弾というが、それでは、ほぼ説明不可能である。多方向から撃たれていると考えられ、複数犯である可能性が高い。

 

F報告書は、ケネディ大統領の頭蓋骨に銃弾が命中したとしている。銃弾は骨に当たると少なからず変形する。しかし、公表された銃弾には、変形がなく、新品のようだった。

 

Gオズワルドは「やったのは俺じゃない。俺は身代わりにされた。そう、はめられたのだ」と述べた。その後、彼は取調べの始まらないうちに殺害された。場所は、こともあろうにダラス警察署内だった。通常警察署内に武器は持ち込めない。警察が殺人を容認していた可能性がある。

 

Gオズワルド殺害の犯人ジャック・ルビーは、ユダヤ系マフィアの大物マイヤー・ランスキーの手下だった。ルビーもユダヤ人だった。ウォーレン委員会でウォーレン委員長は、ルビーに証言させないことを決定した。真相解明のためには、ルビーの証言は不可欠なのにである。

 

H大統領の車が通るルートは、突然変更になった。通常、シークレット・サービスなどによりあらかじめ通る場所が綿密に選定され、緊急事態などの状況以外にはルートを突発的に変更する可能性は低い。

 

I2006年(平成18年)3月、暗殺直前の現場を撮影した動画がネットに掲示された。ケネディの乗ったオープンカーの動きを後ろから取った映像である。大統領の乗った車の後ろから警護する車の中で、背広姿の男が立ち上がる。その男が合図をすると、ケネディの車のすぐ脇にいたシークレット・サービスが車の側から離れる。指示をされた警護員は、手を広げてどうしてだというポーズを取る。大統領の乗った車は、無防備な状態でパレードを続け、銃弾を浴びた。

 

J事件の目撃者、関係者は21人いた。その全員が事件後4年以内に亡くなっている。死因は変死、交通事故などとされている。21人もの目撃者、関係者が全員4年以内に亡くなることは、確率的に極めて低く、特異な現象である。

 

 以上、事件の不可解な点のうち、主なものを挙げた。

 事件直後、何者かが真相を隠そうとしているという疑いが広がった。しかし、マスコミは、報告書の矛盾を暴露し、異議を申し立てることをしなかった。事件は、うやむやになっていった。

 現職の大統領が白昼公然と暗殺されるという重大事件だというのに、事件の真相は、21世紀の今日もなお解明されていない。証拠物件は、政府によって、2039年まで公開されないことになっているからである。なぜそうしなければならないのか。極めて不自然であり、真相を隠蔽する必要あってのことだろう。

 

●ケネディの挑戦とそれへの反発

 

 なぜケネディは暗殺されたのか。誰が何の目的で大統領を暗殺したのか。暗殺の首謀者にはいろいろな説があるが、事実はどうなのか。21世紀の今日も、はっきりしていない。

 犯行を計画したり、または関与したりしたという疑いが出ているのは、リンドン・ジョンソン副大統領、CIA、軍産複合体、大統領選でケネディに敗れたニクソン、ブッシュ(父)、イスラエルの諜報機関モサド、ギリシャの大富豪オナシス等である。彼らのうちの単独犯という説もあれば、複数による共謀説もある。

 

 事件の原因を考えるには、ケネディの行っていた政策と暗殺後のアメリカの変化を検討してみる必要があるだろう。

 最初に概略を述べると、ケネディは、軍産複合体の肥大・暴走を防ぎ、軍産複合体の諜報部のようになっているCIAを抑えようとした。ベトナム戦争では早期撤退を進めようとした。また彼は、軍産複合体と結合した巨大国際金融資本から通貨の発行権を政府に取り戻そうとした。イスラエルの核保有への協力を拒否した。マフィアを一掃し、彼らに有罪を宣告しようとした。これらを通じて、ケネディは、大統領の権限を強め、非政府集団からリベラル・デモクラシーを守ろうとした。ケネディの死後、こうした彼の試みは次々に覆され、政府が背後の非政府集団によって動かされる構造がアメリカ合衆国で出来上がっていったと私は考える。

 以下、この点を具体的に述べたい。

 

@ケネディは、肥大化し、独自の動きをするCIAを潰そうとし、反発を受けた。

 

 ケネディは、CIAの影響力を徹底的に弱めようとした。創立者で初代長官のアレン・ダレスを辞めさせ、CIAの犯罪を調査する委員会を設置したり、CIAの権限を制限しようとしたりした。

 ケネディに罷免されたダレスは、ウォーレン委員会の委員となった。事件の真相究明を封じることのできる立場にいたわけである。

 暗殺事件へのCIAの関与は、多くの研究者から疑われている。たとえば、ケネディの乗っていた車は、暗殺直前に防備が解除または手薄にされた。それができたのは、CIAしかないと考えられる。

 ケネディの死後、CIAは一層肥大化した。CIAが世界最大の麻薬取扱い組織であることは、公然の秘密である。ベトナム戦争が長期化した理由の一つには、麻薬の生産地である黄金の三角地帯をめぐる争いがあった。

 当時インドシナ半島には、「黄金の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)」と呼ばれる地域があった。ラオス・ビルマ・タイにまたがるこの地域は、世界最大のアヘンの産地だった。1960年代の世界で、アヘンの70%を生産していたのである。ベトナム戦争によりこの地域の麻薬生産の支配権を手に入れることによって、CIAは世界最大の麻薬ディーラーになった。

 どうして麻薬なのか。麻薬は、CIAの重要な資金源なのである。世界的に諜報活動を展開するには、莫大な資金がいる。国家予算として公表される費用以外に、自由に使える資金が必要である。その秘密資金を生み出すのが、麻薬取引と見られる。ベトナム戦争で、CIAは三角地帯を支配し、そこから大量のヘロインをアメリカに運び、多額の利益を生んだ。兵士の遺体を移送するとき、体内に麻薬を詰めて、本国に運んだ。ベトナムで麻薬におぼれた兵士たちは、帰国してからも麻薬を続けた。アメリカは、ベトナム戦争によって麻薬が蔓延する社会となった。

 ちなみにブッシュ(父)は、大統領になる前、1970年代にCIAの長官をしていた。彼が大統領だった1989年(平成元年)、アメリカは、パナマのノリエガ長官を急襲・逮捕した。これは、CIAの麻薬の利権にかかわる事件だったことが、アメリカ議会で明らかにされている。

 

Aケネディはベトナム戦争では早期撤退を進めようとして、軍産複合体の不利益を招いた。

 

 アメリカは、ベトナムの共産化を防ぐため、南ベトナムの反共政権を支援していた。しかし、ケネディは、ベトナムには直接軍隊を派遣せず、またベトナムから軍隊を早期に撤退させ、戦争マシンを止めると誓った。CIAの縮小とともにこうした政策は、軍産複合体にとっては、不利益だった。

 ケネディ暗殺後、副大統領から大統領に就任したジョンソンは、軍産複合体の意思を体現した人物だった。彼は、トンキン湾事件を捏造し、1965年(昭和40年)、北爆開始により、戦争を拡大した。アメリカは以後、73年(48年)に撤退し、戦争終結が宣言されるまで、泥沼のような戦争を続けた。その間、戦争特需により、軍産複合体は、さらなる成長を続けた。

 今日アメリカでは軍産複合体が一層強大化し、巨大国際金融資本ともども、アメリカ政府を動かすようになっている。ペンタゴン、CIAと軍需産業が一つのグループをなし、相互に人事交流している。軍需産業から政府首脳となり、ペンタゴンから民間企業に天下ったりする。アメリカの歴代首脳の多くが、軍需産業の幹部を歴任している。

 軍産複合体と巨大国際金融資本は、ビジネスで結びついている。1967年(昭和42年)、ジョンソンは、ベトナム戦争の最中に、ソ連に対する経済封鎖の解除を行った。北ベトナムとべトミンの背後にはソ連がいるのだから、経済封鎖の解除は、ソ連の軍需物資の入手を手助けするようなものである。しかもソ連が軍需工場を設立したり、ベトナムに送る軍需物資の購入を行う資金は、当時ロックフェラー財閥が支配していたチェイス銀行(現JPモルガン・チェイス銀行)が融資していた。

 

Bケネディは通貨の発行権を民間から政府に取り戻そうと考えたが、暗殺で頓挫した。

 

 アメリカでは通貨発行権は政府にはない。連邦準備制度(FRB)という民間銀行が通貨発行権を握っている。ケネディは、連邦準備制度に対抗し、財務省に銀行証券を発行するよう行政命令を出した。これは、通貨の発行権を政府に取り戻そうとする試みだろう。連邦準備制度に集う巨大国際金融資本にとっては、権益を侵す挑戦である。

 ケネディが発行させた銀行証券は、暗殺により頓挫した。発行した40億ドル分は、市場から回収された。以後、ケネディのような試みをする大統領は出ていない。

 

Cケネディはイスラエルの核保有への協力を拒否した。

 

 ケネディは、イスラエルが核開発をすることを認めなかった。イスラエルの初代首相ダビッド・ベングリオンは、こうしたケネディに激怒した。ベングリオンは、イスラエルの諜報機関モサドに大統領暗殺の陰謀に関与するよう指示したことを疑われている。

 ケネディが暗殺された後、アメリカはイスラエルの核保有を黙認するようになった。事件の4年後、1967年(昭和42年)に、アメリカはイスラエルへの主要武器供給国となった。また、1960年代から、イスラエルはアメリカの政界・議会へのロビー活動を活発に行い、アメリカ指導層をイスラエル支持に固めた。以後、アメリカの政府・議会は、アメリカの国益よりイスラエルの国益を優先するような判断・行動を多くしている。

 なおケネディの考えが改まらないことを悟ったベングリオンは、共産中国と組むことを決め、ひそかに共同取引を開始した。そしてイスラエルと中国は協力して核開発を進めた。中国は、その後、パキスタン、イラン等のイスラーム教諸国にも核技術を提供している。

 

Dケネディはマフィアを一掃しようとし、暗黒街の怒りを買った。

 

 ケネディは、マフィアを一掃しようとし、彼らに有罪を宣告しようとした。マフィアは怒った。ユダヤ系マフィアの大物マイヤー・ランスキーもその一人だった。オズワルドを殺害したジャック・ルビーは、ランスキーの手下だった。ルビーもユダヤ人だった。

 アメリカのマフィアといえば、イタリア系マフィアというイメージがあるが、これはユダヤ人が支配するハリウッド映画界によって作られたイメージである。実際はアメリカ最大のマフィアはユダヤ系である。そのユダヤ系マフィアとイスラエルとの間には、宗教的・民族的なつながり、共通の利害関係もあるだろう。

 

●JFK暗殺後のアメリカ

 

 1964年、ケネディ暗殺事件を調査したウォーレン委員会は、オズワルドの単独犯行として報告書をまとめた。ケネディを後継したジョンソン大統領はその証拠資料を「75年後の2039年まで非公表」と決めた。ジョンソンは繰り返しこの事件は謀略ではないと語ったが、証拠を75年間非公表にしたということは、それだけ長期間公表できない重大なことがあるということを意味している。証拠資料は1992年にCIAによって一部が開示されたが、ほとんど読む価値のないものばかりだった。重要な部分は非公表のままである。しかも、米国国立公文書記録管理局に保存された証拠の一部が火事で焼けたり、何者かに盗まれたことが明らかになっている。それによって既に重要な資料が消却または隠ぺいされている可能性もある。だが、ケネディ暗殺事件の真相が解明されなければ、アメリカの権力構造の実態は把握できない。またケネディ暗殺事件の真相が暴露されたとき、アメリカ合衆国という国家の威信・信用・正統性は大きく揺らぐかもしれない。

 

ジョン・F・ケネディが暗殺された後、1968年(昭和43年)夏に、弟のロバートも暗殺された。ロバートは、ジョンが大統領だった時、司法長官として兄の指示を受けて、活動した。兄の死後は、大統領候補として人気があった。次の大統領選挙で大統領になる可能性が高かった。ロバートは、兄の遺志を継いでアメリカを変えようとしていた。しかし、彼までもが暗殺されてしまう。ジョンだけではなく、ロバートも暗殺されたということは、ケネディ兄弟が目指していたものを絶対に望まない勢力が、彼らの暗殺を首謀したことをうかがわせる事実である。

私は、ケネディ暗殺事件の真相が解明されなければ、アメリカ合衆国の重大部分を把握することができないと思う。またアメリカという覇権国家の深部が明らかにならなければ、現代世界の諸問題を根底からとらえることには難しい点がある。そういう意味で、封印されたケネディ暗殺事件の真相解明は、人類にとって重要な課題の一つである。

 

アメリカは、自由とデモクラシーの国であることを標榜している。確かにアメリカには言論の自由、表現の自由、経済活動の自由等がある。しかし、その国家を実際に支配している支配層の中核にいるのは、巨大国際金融資本であり、その資本と結びついた軍産複合体だろうと私は思う。アメリカ合衆国では、軍産複合体、及びそれと深く結びついた巨大国際金融資本の権益を侵さない範囲であれば、政治や報道は自由に民主的に行われ、人権も擁護される。だが、その権益を犯す行為に対しては、あらゆる手段をもって徹底的な抑圧や排除が行われる。アメリカの国家社会には、そういう構造が出来ているのだろうと私は思う。

ケネディの死後、軍産複合体は一層強大化し、アメリカのみならず世界の動向に重大な影響を及ぼし続けている。私は、9・11、つまり2001年(平成13年)9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件にも、軍産複合体の関与があると見ている。ケネディ暗殺事件の真相究明なくして、アメリカ合衆国の深層構造は解明されないと思う。そして、その深層構造の中に、9・11とアフガン戦争及びイラク戦争の隠された原因もあるだろうと考えている。 ページの頭へ

 

 

第8章 世界は大転換期に突入

 

(1)人類存亡の岐路

 

●70年安保前後に日本と世界の最大危機が


 第2次世界大戦後、人類は幾度か第3次世界大戦の危機に直面してきた。ベルリン危機、朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争、中ソ対立、70年安保前後の日本危機、1979年の中東危機、1980年代半ばのソ連最盛期等が、それである。
 こうした危機の中で私が、日本と世界にとって過去最大の危機だったと理解しているのが、70年安保前後の日本危機である。

 1965年(昭和40年)の年頭、我が生涯の師にして、神とも仰ぐ大塚寛一先生は、次のようなご警告を発した。
 「いまや世界は、一大転換期に直面しており、早ければ3年のうち、遅くとも5年以内には、全世界人類が、滅亡の岐路に立つような重大な時期に遭遇しよう」と。
 このご警告後、間もなく世界は、激動の時代に入った。先生がご警告を発した翌月65年(40年)2月、アメリカはベトナムへの北爆を開始し、ベトナム戦争が本格化した。翌年の66年(41年)11月、共産中国で文化大革命が始まり、激しい権力闘争が繰り広げられた。さらにその翌年の67年(42年)6月、イスラエルがアラブ諸国に侵攻し、第3次中東戦争が勃発した。69年(44年)には毛沢東の個人崇拝で加熱する中国と、これを押さえ込もうとするソ連との間で中ソ国境紛争が起こり、中ソ激突の可能性が高まった。
 この間、先進諸国では、共産主義運動や反戦・人権運動が嵐のように高揚した。アメリカのベトナム反戦運動、西ドイツ、イタリア等の学生運動が各国に広がった。こうした運動は、フランスでは高度資本主義の管理体制を批判する社会変革闘争へと急進化し、68年(43年)に五月革命が起こり、ド・ゴール政権が退陣した。

 わが国でも、同年同月に日本大学で日大全共闘が結成され、続いて東京大学等の各大学に全共闘運動が広がった。最初は大学改革を求める学生運動だったが、やがて共産主義運動へと性格が変わり、新左翼各派を中心とした暴力革命闘争へと過激化した。
 大塚先生は1965年(昭和40年)にご警告を発した後、66年(41年)9月に、人類救済の百ガン撲滅運動を開始された。68年(43年)6月には、日本精神復興促進会を結成し、各界有力者に協力を呼びかけ、「真の日本精神」を伝える運動を展開された。同年夏より、大塚先生は全国の人口30万以上の都市で講演を行い、一大啓発活動を推進された。
 各地の講演会で大塚先生は、世界をおおう危機は、世界の大転換に伴う現象であることを明らかにされた。そして、この危機を乗り越えるためには、日本人が日本精神を取り戻し、一致団結しなければならないことを説かれた。

 大塚寛一先生は、戦前から既に、世界は西洋物質文明の時代から東洋精神文明の時代に大転換すると説いてこられた。拙稿「西欧発の文明と人類の歴史」第7章に、第2次世界大戦期前後に示された先生の比類ない予見力について書いた。
 先生は、大東亜戦争について、「大東亜戦争は戦う必要がなかったし、戦えば負けることは最初から決まっていた。それはちょうど弓を放つのでも、矢が弦を離れるときすでに、当るか当らないかは決定している」と説かれた。その理由は「すでに裏半球の欧米は、四季でたとえれば木枯が吹きはじめる季節であり、表半球のアジアの方は、春がおとずれ、発展期に遭遇する時である」からとし、「あの時、わしの言う通りに厳正中立を守っていれば、日本は一兵を失うこともなく、領土も縮めず、第三国からは敬われ、いまは米ソをしのぐほどの立派な国になっていたにちがいない」と述べておられる。
 大塚寛一先生は、大戦後も、一貫して世界の大転換を説かれた。1960年代から70年代にかけての時代は、多くの人々が、物質科学文明に幻惑され、また共産主義の幻想に取りつかれていた時代だった。そうしたなかで、大塚先生は、西洋物質文明の限界と共産主義の矛盾を看破し、日本人が進むべき道、そして人類が進むべき道を示しておられたのである。

 1969年(44年)1月、東大安田講堂事件が起こった。全共闘運動、共産革命運動は全国に広がり、多くの大学は占拠され、街頭では火炎瓶が飛び交い、国内は騒然とした状態となった。大塚先生は、「日本人は日本精神に帰れ」と訴え、一層活発に日本精神復興促進運動を展開された。この年3月、『百ガン撲滅の理論と実証』(改題後『真の日本精神が世界を救う』)という本を刊行され、国民の啓発を進めた。
 同年12月の総選挙は、大きな山場だった。選挙前、日本社会党が躍進し、日米安保条約の破棄を唱える左翼政権の誕生が確実視されていた。議会活動と街頭闘争が連動すれば、安保破棄から社会主義革命へと突入する恐れがあった。しかし、選挙の結果は、社会党が約50議席を減らして大敗。保守勢力が政権を保ち、潮目が変わった。
 70年(45年)になると全共闘運動、共産革命運動は下火になり、6月日米安保は自動延長された。この年11月25日、作家の三島由紀夫は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自衛隊に決起を促す演説をして受け入れられず、割腹自殺した。70年代には、新左翼党派間で内ゲバが頻発し、赤軍派によるよど号ハイジャック事件や、連合赤軍によるリンチ事件・浅間山荘事件などが起こり、共産主義運動は大衆の支持を失った。

 こうして1970年(昭和45年)を峠として、日本国内の嵐は収まり、平穏が戻った。これは、わが国だけのことではなく、世界全体が第3次世界大戦の最大危機を回避し、対話と協調の方向へと大きく動き出したのである。

 

●1960年代後半〜70年前後はいかに大きな危機だったか

 今日の日本人、また人類の多くはまだ、1960年代後半から70年前後、日本及び世界がいかに重大な危機に直面していたかを、よく理解していない。
 大塚寛一先生は、1960年代はじめ、もし世界核戦争となれば、人類の大半が滅亡し、文化は一度に破壊される。さらにもし極度に原水爆が地球の半面で連鎖爆発すれば、人口衛星が飛び出すように、地球が天体の軌道から外れ、消滅するかもしれない、と強く警告された。
 そして、世界がいよいよ重大危機の只中にあった1969年(昭和44年)半ば、大塚先生は、大意次のように説いて、警告された。
 もし70年(45年)6月に日米安保条約が破棄され、アメリカが日本から引き揚げたら、日本に侵攻する外国軍を阻止することは、日本にはできない。日本をソ連が占領すれば、ソ連は世界を征服することができ、共産中国が占領すれば、中国がソ連を押えることができるようになる。日本の工業力とそれを生み出した日本人の知能を手にした国は、世界を風靡することができる。だからソ連も中国も、もし日本が他国に奪われたなら非常に不利になるから、日本を奪い合うようになる。その中ソの前哨戦が、中ソ国境紛争である。
 もしアメリカが社会党・共産党等の反米運動に捨てばちになり、日本から引き揚げると、中国・ソ連・北朝鮮等の軍隊が、日本に襲いかかってくる。そして、日本が共産化すれば、アメリカはアジアから手を引かざるを得ず、共産主義が全世界をおおうようになる。だからアメリカも、砂糖に群がったアリのように、中国軍・ソ連軍が日本に満ち、互いに奪い合っているところに、原水爆を日本に撃ち込む。これと同時に、世界は大混乱に陥り、第3次世界大戦が勃発する、と。

 1968年(昭和43年)から72年(47年)にかけて大塚先生は、多数の講演をされた。その記録は膨大な量となっている。今後、1960年代後半から70年前後の危機の大きさが認識されるようになるにつれ、人類は大塚先生の偉大さを理解するようになっていくだろう。ちょうど、先生が1939年(昭和14年)9月から時の指導層に送付された「建白書」の警告が的確無比だったことを理解する人が、徐々に現れているように。
 大塚先生の理論と実証を知るには、著書『真の日本精神が世界を救う』(イースト・プレス)が最良の手引きとなるだろう。

●危機を乗り越えた人類の前進

 1960年代後半から70年前後の危機を乗り越えてから、日本人は、日本の伝統や文化を再認識するようになった。共産主義だけでなく、近代西洋文明の根底が問われ、東洋や自然に回帰する生き方が見直された。
 大塚先生は、戦前から既に、世界は西洋物質文明の時代から東洋精神文明の時代に大転換すると説いてこられた。そして、1970年(昭和45年)前後から世界は、一日にたとえれば、夜から昼に変わるような大変化の時代に入ると説かれた。また、この時代においては、東洋・アジア、特に日本人に重大な使命があると強調された。

 15世紀以来発展を続けた欧米は、今世紀から衰退期に入った。西欧は二度の大戦で大きく後退した。アメリカもピークを過ぎ、覇権の維持に汲々としている。
 1972年(昭和47年)、アメリカは中国と結んで、ソ連に圧力をかけた。それは奏を功して冷戦は終結に至り、1991年(平成3年)にはソ連が解体された。東欧諸国でも共産政権が次々に崩壊した。20世紀を席巻した共産主義は、西洋物質文明を極度に進めたものだったが、その共産主義が矛盾を暴露し、大きく後退した。共産主義が後退した国々では、大衆は精神文化に心の渇きを癒している。先進国では、共産主義に理想を描いていた多くの人々が幻想から覚め、共存調和の生き方を求めている。
 アメリカでは、1960年代から東洋の宗教や瞑想を評価する文化運動が起こり、西洋文明・物質文明の相対化が進んだ。原子物理学者は「老子」「易経」や仏典に表わされている宇宙の姿と、相対性理論や量子力学が描く世界像とが近似していることを発見した。東洋の神秘と想われていたものの背後に、深遠な認識や知恵があることが、欧米の知識層に理解されるようになってきた。

 その一方、アジアは活動発展期を迎え、大きく動き出した。日本が1960年代に高度経済成長を遂げたのに続き、70年代には日本と関係の深い韓国、台湾、香港、シンガポールなど、NIES(新興工業経済地域)と呼ばれる国々が急速に発展した。四小龍とも称された。80年代にはタイ、マレーシア、インド等も工業化政策を進めて経済開発に成功した。80年代後半以降は、日本の海外投資により東アジアの経済成長はさらに加速し、「東アジアの奇跡」「世界の成長センター」などと称されるまでになった。90年代からは、市場経済を導入した中国も経済成長の軌道に乗った。
 21世紀に入ると、アジアは、まさに世界の経済的中心地域となってきている。人口、生産力、発展可能性等で他の地域を大きく上回っている。アジアが経済的に発展するとともに、アジア諸文明の精神文化の再評価がされ、日本、シナ、インド等の精神的伝統が、人類に新たな精神文化の創造を促している。
 こうしたここ半世紀ほどの世界の変化を見るにつけ、大塚寛一先生の慧眼は、他に比類なきものであることが感じられる。21世紀は、西洋物質文明の欠陥を是正するため、東洋に精神文明の興隆が期待されている。とりわけ日本の精神的伝統のもつ潜在力が大きく開花する時を迎えているのである。だが、まだほとんどの人々は、この大きな世界の大転換に気付いていない。日本人自身が自らの特徴や役割をよく認識していない。そのため、人類社会は対立・抗争が止まず、進むべき方向を見いだせずに動揺を続けている。

関連掲示
・マイサイトの「基調

 

(2)米国外交が世界を動かす

 

●ベトナム戦争の泥沼化とニクソン・ショック

 ここで米国の歴史を振り返ると、20世紀後半から21世紀前半にかけて、世界をけん引してきたのは米国である。米国では、1963年(昭和38年)、JFK暗殺事件の後、副大統領のリンドン・ジョンソンが大統領に昇格した。65年(40年)2月、ジョンソンはベトナム北爆を開始して、本格的にベトナム戦争に介入した。
 1965年(昭和40年)には地上軍を5万人派遣し、66年(41年)には54万人へと一挙に増員した。アメリカは、アジアのナショナリズムとコミュニズムに激突した。ベトナム戦争は、朝鮮戦争をはるかに上回る規模となり、長期化し泥沼化した。
 1968年(昭和43年)の大統領選挙は、共和党のリチャード・ニクソンが当選した。ニクソン政権は、ベトナム戦争終結への道筋を付けることを一つの使命とした。
 アメリカは、核兵器以外のあらゆる最新科学兵器を使用した。特に森林を枯死させる枯葉剤は、生態系を破壊する兵器であり、含有された猛毒物資ダイオキシンの影響により、多くの奇形児・障害者が生まれた。だが、ベトナム民族の抵抗は強く、アメリカ軍はべトミンと南ベトナム解放民族戦線(NLF)を打ち破ることは出来なかった。ジャングルでの戦いに兵士は疲弊し、麻薬におぼれる者が多く出た。他方、NLFは民衆の支持を得て、北ベトナム、ソ連、中国などから武器の提供を受け、農村地帯を完全に支配下に置いた。69年(44年)には、南ベトナム臨時革命政府が樹立された。
 アメリカの国内では、戦争目的への疑い、多くの若者の戦死、帰国者の障害や麻薬中毒、社会道徳の低下等により、政府への批判が高まった。アメリカ社会の支えとなってきた理想や規範が損失した。道徳は低下し、治安は悪化し、人心は荒廃した。反戦運動は国外にも広がり、国際共産主義運動、人権運動と結びついて、アメリカへの反発が強まった。

 ニクソンが大統領に就任した時、アメリカ経済には大きな陰りが出ていた。第2次大戦後、圧倒的な経済力を誇った戦勝国アメリカは、強力な工業力を発揮し、1960年代には「黄金の60年代」といわれた。豊かで、明るく、幸せなアメリカは、憧れの国であり、世界の羨望を集めた。だが、日本と西欧諸国の復興によって国際競争力が低下し、貿易黒字が減少した。さらに、ベトナム戦争の巨額の軍事費支出、世界に張り巡らした軍事基地の維持、各国への軍事・経済援助の増加、大企業の多国籍企業化、本国の金準備を上回る対外投資等により、60年代末には、米国の経済的優位は急速に崩れていった。

 戦争は、軍産複合体や巨大国際金融資本には、巨大な利益をもたらすが、国家経済には大きな負担となる。ベトナム戦争の出費により、アメリカの貿易収支は、1971年(昭和46年)に、80数年来初めてという27億ドルの赤字となった。戦費拡大はドル不安をもたらした。また1970年のアメリカの金保有量は、1949年の246億ドルから111億ドルに減少してしまった。金準備の不足はアメリカ経済の大問題となった。そこで、71年(昭和46年)8月、ニクソンは金ドル交換停止を宣言した。金に対してドルを8パーセント切り下げた。切り下げにはアメリカの国際競争力を改善する狙いもあった。アメリカの措置は世界経済に衝撃を与えた。これをニクソン・ショックまたはドル・ショックという。
 ドルが金と交換されなくなったことで、各国は協調して国際決済手段としてドルを守る必要に迫られた。71年12月、10カ国の代表がワシントンのスミソニアン博物館に集まり、ドルの切り下げ、主要通貨の対ドル為替レートの切り上げなどを決定した。73年には、固定レート制から変動通貨制に移行した。金と交換できる通貨が地球上から姿を消し、変動通貨制に移行したことで、国際通貨体制は極めて不安定になった。こうして戦後の国際通貨制度を支えてきたブレトン=ウッズ体制は部分的に崩壊した。以後、ブレトン・ウッズ体制を変形した形で、現在の国際経済体制が維持されている。

●キッシンジャー外交の展開

 ニクソン政権は、ベトナム戦争の終結に向けて、米中国交の実現、米ソ貿易の拡大等、目覚ましい外交を行った。こうした外交は、ほとんどがヘンリー・キッシンジャーの忍者外交によるものだった。国際政治学者のキッシンジャーは、今日のアメリカの外交政策に最も強い影響を与えている人物の一人である。ニクソン政権で大統領補佐官を務め、のち国務長官を兼任した。

キッシンジャーはユダヤ人であり、やはりユダヤ人の国際政治学者であるハンス・モーゲンソーの現実主義的外交を継承・実践した。キッシンジャーのバックには、ロックフェラー家があり、キッシンジャーはその意思を体した行動をしたとも見られる。

 1969年(昭和44年)、中ソは、共産主義の路線対立が高じて、国境紛争に至った。中国は、ソ連から自立して独自の核開発を進め、1964年(昭和39年)に核実験に成功した。70年(45年)4月には、人工衛星を打ち上げ、IRBM(中距離弾道ミサイル)が完成していることを世界に示した。ソ連は強大化する中国を押さえるため、核攻撃の共同作戦をアメリカに提案した。アメリカはこれを断り、逆に中ソの間に楔を打った。その結果、米中ソの三角関係と呼ばれる勢力均衡状態が生まれた。
 
 当時の共産中国では、共産党の実質的な一党独裁体制のもと、毛沢東の個人崇拝が熱病のように高揚していた。その価値観は、自由、デモクラシー、人権等のアメリカの理想とは、相容れない。しかし、キッシンジャーは1971年(昭和46年)、極秘で共産中国を2度訪問し、米中和解の道筋を付けた。
 1972年(昭和47年)2月、ニクソン大統領は、共産中国を訪問した。それまで対立関係にあった中国と接近した。これは、ベトナムの背後にいる中国とソ連が、当時中ソ対立で緊迫化している状況を捉えて、中ソ分断を狙うものだった。ニクソン訪中で、米中両国は、国交実現に合意した。米国はその一方、それまで反共の友好国だった中華民国台湾との国交を断絶した。共産中国は、台湾に代わって国連安保理の常任理事国となった。
 キッシンジャーは、米中とソ連の対決という構図に進めるのではなく、ソ連との間では第1次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結した。さらに第2次交渉を進めるなど、緊張緩和(デタント)政策を推進した。こうして米中、米ソの勢力均衡を組み直しながら、ベトナム戦争終結の条件を整えていった。
 ベトナム和平交渉においてキッシンジャーは、極秘にパリに何度も飛び、そこでベトナムの共産主義者と交渉を重ねた。この間、ニクソン政権は、ニクソン・ショックでドルを守る体制をつくり、また米中国交実現で中ソを分断した。キッシンジャーの交渉は3年半かかって、ようやく終結の道筋がつき、1973年(昭和48年)、パリ和平協定が調印された。協定により米軍は撤退した。

 ニクソン大統領はウォーターゲイト事件によって失脚した。1972年(昭和47年)、ニクソンの選挙運動員が、ウォーターゲイト・ホテルにある民主党本部に、盗聴器を設置しようとしたことが発覚したのである。事件の全容は、なお解明されていないが、盗聴器を仕掛けた運動員の行動がなんとも間抜けだった。最初から盗聴が暴露されて、ニクソンが窮地に陥るように仕組んだ事件だと疑われている。録音されたニクソンの音声には、JFK暗殺事件に関与していたことを疑わせる発言があった。
 ニクソンの失脚後、74年(49年)、副大統領のフォードが大統領に昇格した。フォードは、JFK暗殺事件後、ウォーレン委員会の委員として、暗殺事件の真相を不明のままにすることに貢献した。大統領になると、今度はウォーターゲイト事件の真相解明を切り上げた。もし事件の真相究明を続けたならば、政府中枢での画策が明るみに出て、政権は危機に瀕し、米国の統治の正統性まで揺らいだだろう。
 フォードは、ウォーターゲイト事件でニクソンに大統領特赦を与え、事件の幕引きを行った。そのため、国民の不評を買い、1976年(昭和51年)の大統領選で、民主党のジミー・カーターに敗れた。

 キッシンジャーは、フォード政権でも国務長官として外交を取り仕切った。キッシンジャーはユダヤ人であり、シオニストである。一貫してシオニズム及びイスラエルの利益のために行動した。ケネディは、イスラエルが核開発をすることを認めなかったが、彼が暗殺されて後、アメリカはイスラエルの核保有を黙認するようになった。1960年代から、イスラエルはアメリカの政界・議会へのロビー活動を活発に行い、アメリカ指導層をイスラエル支持に固めていった。
 今日、アメリカでは、イスラエル・ロビーが最大のロビー団体となり、アメリカの外交政策に強い影響を与えている。イスラエル・ロビーは政府・議会・政治家に積極的に働きかけ、アメリカの政策をイスラエルに有利なものに誘導している。合衆国政府は、アメリカの国益よりもイスラエルの国益を優先しているという批判が出ている。
 こうしたアメリカ=イスラエル関係は、キッシンジャーが強化・深化したものである。ユダヤ人シオニストのキッシンジャーが、アメリカ外交を取り仕切った時代があったからこそ、イスラエル・ロビーはアメリカ=イスラエル連合を絶ち難いまでに確固たるものに出来たのだと私は考える。

 

●アジアの中のベトナム戦争

 1973年(昭和48年)以降、米軍はベトナムから撤退した。アメリカは、直接介入するのではなく、南ベトナムを軍事的に支援する方針に切り替えた。ベトナム人同士で戦うこととなった。これを「戦争のベトナム化」という。
 内戦は続いた。それから2年余り南ベトナムは持ちこたえたが、劣勢は明らかだった。75年(50年)、NLFはホー・チミン作戦という大攻勢を展開し、首都サイゴン(現ホー・チミン)が陥落した。その結果、ベトナム戦争はようやく終結した。翌76年南北統一の総選挙が行われ、ベトナム社会主義共和国が建国された。世界最大の強国アメリカは敗れ、アジアの弱小民族が統一を勝ち取った。

 ベトナム戦争で、アメリカ側は5万8000人が戦死した。ベトナム側は、3000万人のうち360万人が死亡したという。この戦争は、米ソ冷戦期最大の紛争だった。イデオロギー・体制間の戦いであり、資本主義・自由主義と共産主義・統制主義が激突した。それとともに、ベトナム戦争は、第2次大戦後最大の民族解放戦争だった。西洋白人種とアジア有色人種が戦い、西洋の文明とアジアの文明とが衝突した。私の見方では、20世紀の東アジアにおいて、シナ事変・大東亜戦争、朝鮮戦争に続く、第3次東アジア戦争に位置づけられる。

 こうした性格を持つベトナム戦争は、同時にアジア諸国も関与した戦争だった。ベトナム戦争において、米軍はわが国に存在する基地を使用した。アメリカ第7艦隊は、横須賀・佐世保・那覇を基地とした。北爆を行ったB52戦略爆撃機は、沖縄とグアムを基地とした。佐藤栄作政権は、最後まで南ベトナムに経済的援助を続けた。またベトナム戦争は、朝鮮戦争同様、戦争特需をもたらした。軍隊は多くの物資を消費する。その需要は未曾有の好景気を生み、「いざなぎ景気」と呼ばれた。それがわが国の高度経済成長の一要因となった。
 ベトナム戦争当時、戦争に反対する市民運動が広がった。「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)は市民運動の新たな形態となった。ある者は素朴に戦争に反対し、ある者はベトナムのナショナリズムに共感し、ある者は共産主義に理想を抱いた。反戦運動の一部は、大学紛争や全共闘運動と結びついて、暴力革命を目指す運動へと過激化した。

 わが国だけではなく、ベトナムに平和と独立を願った人々は、世界に多くいた。しかし、統一後のベトナムは、期待を裏切ることが続いた。
 自分たちの国家を築き、国家建設を進めているはずのベトナムから、毎年数万人もの人々が祖国から脱出した。粗末な船で海を渡る人々は、ボートピープルと呼ばれ、難民となった。
 ベトナムは超大国の介入を退け、撃滅して追い払ったはずだった。ところが、1975年から1977年にかけて、ベトナムは隣国カンボジアと軍事的な衝突を繰り返し、1978年12月にはカンボジアに全面的な侵攻を行い、覇権主義的な行動を取った。ベトナムはクメール・ルージュ(カンボジア共産党)のポル・ポト政権を打倒し、カンボジア国土の大半を占領した。これに対し、カンボジアを支援してきた中国が79年2月、ベトナムに侵攻した。91年のカンボジア和平協定の調印まで、中越の対立は続いた。このようにアジアにおいては、社会主義国同士が戦争をしたのである。こうした出来事の数々は、多くの市民運動家や共産主義者の理解を絶していたようである。だが、国際社会は、国家と国家、民族と民族がそれぞれの利益をかけて対立・抗争を繰り返しているのが、現実である。特に社会主義・共産主義を理想視はすると、大きな錯覚に陥ることを、歴史的事象を通じてよく確認する必要がある。

 ベトナム戦争に関して、もう一点、書いておきたいことがある。それは、韓国の参戦である。韓国はベトナム戦争で海外に軍隊を派遣した。アメリカ以外に5カ国が参戦したが、本格的な戦闘に参加したのは、韓国軍だけである。韓国はのべ約30万人の兵士を送り、ベトナム人と戦った。ベトナム側から見れば、侵略者である。韓国側は4400人以上が戦死した。韓国とすれば、北朝鮮と対抗するために、アジアにおける共産主義の伸張を防ぎたいという目的があっただろう。
 韓国は、今もわが国が統治していた時代について、わが国を批判している。その時代の虐待・虐殺や慰安婦などが強調される。しかし、2000年(平成12年)4月12日付の『ニューズウィーク』日本版は、ベトナム戦争で韓国軍は、8千人以上のベトナム民間人を虐殺したと報じた。また、ベトナム人女性が多く非管理売春婦にさせられ、韓国人との間に生まれた混血児ライダイハンが1万人以上いるという。こうした点も含め、物事は多角的に見て判断するべきだろう。

関連掲示
・拙稿「韓国が認めないベトナムでの残虐非道

 

(3)石油をめぐる争い

 

●第4次中東戦争と世界を襲った石油危機

 ここで中東に目を転じよう。1970年(昭和45年)エジプトでナーセルが死に、副大統領のサダトが大統領となった。サダトは、イスラエルに占領されていたシナイ半島、ゴラン高原などの奪回を目指して軍事行動を起こした。エジプト・シリア両軍は、73年(48年)10月6日、イスラエルに対して奇襲攻撃を行い、第4次中東戦争が始まった。
 不意を衝かれたイスラエル軍は苦戦したが、やがて劣勢を挽回してシリアに攻め込み、スエズ運河を渡ってエジプトに侵入した。これに対し、最初から軍事的劣勢を自覚していたアラブ側が産油国の強みを活かした強力な策を打った。それが石油戦略である。
 同年10月17日、石油輸出国機構(OPEC)に加盟するペルシャ湾岸6カ国が、原油価格の21%引き上げを発表した。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)に加盟する10カ国は、前月の産油量を基準に、イスラエルを支持する国向けの生産量を毎月5%ずつ削減する。逆に、アラブ諸国を支持する国、イスラエルに占領地からの撤退を求める国には、従来通りの量を供給すると発表した。そのうえ、アメリカ・オランダなどのイスラエル支援国には、石油の全面禁輸措置が取られた。こうしたアラブの石油戦略の発動は、先進国の経済に深刻な影響を与えた。これを第1次石油危機という。

 アラブ諸国の石油戦略は、石油を使ってアラブ諸国への支持を広げ、イスラエルを孤立させることを狙ったものだった。アラブの産油国は、石油を武器にすれば、国際社会で強い影響力を持てることに気づいたのである。それまで親米路線をとり、石油戦略の発動に慎重だったサウディアラビアも強硬路線に転じた。
 石油の全面禁輸をちらつかせるアラブ側の前に、日本や西欧諸国は次々と対イスラエル政策の見直しを声明した。これを切り崩そうとするアメリカに対し、サウディも強硬姿勢を示し、アメリカの軍事介入を防いだ。こうして、アラブ側は、日本や西欧諸国に中東政策の見直しを迫ることに成功した。

 1930年代以降、オイル・メジャーと呼ばれる巨大な国際石油企業が、世界の石油を支配していた。これらの企業は、アメリカ、イギリス、オランダ系の7社だったので、セブン・シスターズ(七人姉妹)とも呼ばれた。この7社が生産と価格に関するカルテルを結んで、莫大な利益を上げていた。
 これに対し、産油国は1960年(昭和35年)9月、OPECを作った。さらにアラブの産油国は、独自に68年(43年)1月にOAPECを結成し、メジャーの寡占体制に異議を唱えるようになった。
 産油国のこうした行動は、西洋文明に対する非西洋文明の応戦であり、また近代世界システムにおける周辺部の中核部への反抗でもある。また国家単位で見れば、旧植民地の旧宗主国への逆襲であり、また資源ナショナリズムの高揚でもある。画期的な出来事だった。
 アラブ産油国の主体意識は、強まった。1970年代に入ると、世界の石油生産量の36%を中東が占めるようになっていた。先進諸国は中東への石油依存度を高めており、産油国は発言力を増した。こうした事情を踏まえて、アラブの産油国は、石油戦略を発動したのである。
 第4次中東戦争は1973年(昭和48年)11月に停戦となり、痛みわけに終わった。OPECは、同年12月には石油の削減の中止と増産を決めた。石油危機はひとまず終わった。しかし、アラブ側がこの戦いで取った新戦術が、その後も世界を大きく左右していく。

 アラブの石油戦略は、欧米のオイル・メジャーから、石油の価格と生産量の決定権を取り返すものだった。石油のような地下資源は、いつかは枯渇する。産油国が協調すれば、供給を制限したり、価格を引き上げたりすることができる。そうして得た資金を経済基盤の整備に当てれば、石油が枯渇した後も繁栄を維持できるようになる。石油戦略には、こうした長期的な構想があったと見られる。
 石油の決済は、ドル建てである。アラブの産油国に流れ込んだ大量のドルは、価値の増殖を求めて、世界の金融市場を動きまわるようになった。

●エジプトとイスラエルの和平

 第4次中東戦争後、アラブ諸国の内部に大きな変化が現れた。4度にわたる中東戦争で最も人的・物的損害を被ったエジプトが、イスラエルとの共存の道を模索し始めたのである。
 サダトは、ナーセルを継いだ後、最初は社会主義的経済政策を継承していたが、第4次中東戦争後の1974年(昭和49年)から政策を転換した。外資の導入、輸入の自由化、公共部門の民営化等の自由主義的な政策の採用である。サダトは、これによってアメリカへの接近を図った。そして、アメリカを通じてイスラエルに圧力をかけることで、失地の平和的回復を目指したのである。
 サダトはイスラエルとの間に兵力引き離し協定を結び、77年(52年)11月19日にイスラエルを訪問した。これを機会に、エジプトとイスラエルの和平交渉が開始された。
 当時、米国は、カーター政権だった。カーター政権は、ニクソン=フォード両政権におけるキッシンジャーの現実主義的な外交からの転換を図り、アメリカ的価値観を掲げた理想主義的な人権外交を打ち出した。78年(53年)9月、カーター大統領の仲介で、サダトとイスラエルのベギン首相が米国のキャンプ・デイヴィッドで会見し和平合意に達した。翌79年(昭和54年)3月、エジプト・イスラエルの抗争を収拾するための「中東和平会議」が開催された。カーターはみずから中東を訪問し、交渉に当たった。もし決裂すれば、第3次世界大戦へと発展しかねない危険な状況であった。和平交渉は暗礁に乗り上げ、3月10日、11日、12日と難航を続けたが、13日交渉は奇跡的といえる成立を見た。そして26日、エジプト・イスラエル間で平和条約が調印された。歴史的和解と賞賛された。
 キャンプ・デイヴィッド合意を仲介して、平和条約を締結させたのは、カーターの歴史に残る功績である。しかし、その反面、1980年(昭和55年)イラン=イラク戦争においては、イランの首都テヘランでアメリカ大使館を占拠され、2度の救出作戦に失敗し、国民の批判を浴びた。

 中東の国際関係が難しいのは、すべての人民が平和を望んでいるのではないことである。サダトはイスラエルとの融和路線に反対する者によって、81年(56年)に暗殺されてしまう。だがエジプトは、サダトの後を継いだムバラク大統領の下で、念願だったシナイ半島の回復を果たした。領土問題は一応の決着に達した。
 イスラエルとアラブ諸国、ユダヤ人とパレスチナ住民は、4度の戦争を経て、ようやく和平への道を歩みだしたかに見えた。しかし、なおその道は遠く、軍による攻撃とテロの応酬が今日も日常的に繰り返されている。

 

●石油危機後の日本の対応

 石油危機の発生に際し、アメリカは自国での石油生産量が多く、南米からの石油の輸入もあるので、それほど大きな影響はなかった。これに比べ、中東の石油に大きく依存する日本と西欧は、深刻な影響を受けた。
 日本の原油輸入価格は、1972年度から74年度の間に4倍以上に値上がりした。石油は燃料であるだけではない。プラスチック、ビニール等の石油化学製品の原料でもある。また戦後の日本では、農業も石油に大きく依存している。すなわち、石油を燃料とする農業機械で耕作や収穫をし、石油を原料とする化学肥料を多量に使用し、石油を暖房用燃料とするビニールハウスで促成栽培をしたりしている。石油の値上げは、農業生産にも波及することになった。
 自国に石油資源がなく、ほとんど輸入に頼らなければやっていけない日本は、官民上げて石油危機と取り組んだ。省エネ技術の開発が進められ、石油の消費量を削減しつつ、質の良い工業製品を生産することで、日本は国際的な競争力を強めた。とりわけ小型で燃費の良い日本車はアメリカの消費者の心をつかみ、日本の自動車産業は対米輸出を中心に大きく発展することになった。
 石油危機は、日本に中東外交の方針転換を迫まるものでもあった。現行憲法と日米安保条約のもと、従米的な外交を余儀なくされているが、さすがのわが国もイスラエル支持からアラブ寄りの姿勢にスタンスを変えた。欧州共同体(EC)の諸国も高い原油価格で窮地に陥り、アラブ寄りの方針を明らかにした。開発途上国の多くも、イスラエル批判に転じたので、イスラエルは孤立した。だが、イスラエルは、外交力・諜報力を駆使して、巻き返しを図った。バックには、ロスチャイルド家を盟主とするユダヤ系巨大国際金融資本が存在する。

●石油危機後の先進国の対応

 石油危機によって先進国はエネルギー資源の急激な価格高騰で大打撃を受けた。そのうえ、スタグフレーションに見舞われた。スタグフレーションとは、スタグネーションつまり停滞とインフレーションつまり継続的な物価上昇・貨幣価値下落とを合わせた造語で、不況の中でインフレが進む現象をいう。石油による資源インフレによるもので、それまでの経済理論ではあり得ない現象だった。これにより、各国は低成長の時代に入った。
 世界的に不況が深刻になるとともに、貿易をめぐる国際摩擦も起きた。これを乗り越えるために、先進国は協力し合うことが必要となった。そこでフランスのジスカール・デスタン大統領の呼びかけで、先進国首脳会議(サミット)が開始された。第1回サミットは1975年(昭和50年)、フランスのランブイエで開催された。2度の世界大戦は、一面では資源をめぐる戦争だったが、先進諸国はその戦争で得た教訓を生かし、対話と協調の道を歩み出した。

 最初のサミットはフランス、アメリカ、イギリス、西ドイツ、イタリア、日本の6ヶ国で行われた。その後、サミットは毎年開かれるようになり、カナダ、EC(後にEUに発展)が加わった。
 1989年(平成元年)の米ソ冷戦の終結後は、1997年(平成9年)から、サミットに旧ソ連のロシアも参加している。ただし、ロシアは先進国とはいえないので、この時から主要国首脳会議という名称となった。
 こうした首脳会議に加えて、閣僚クラスの国際会議も行われるようになった。参加国数によって、G7、G8などという。各国の中央銀行総裁と経済担当大臣の集まりである。
 サミットもGXも、国際連合=連合国の会議体ではない。常設の国際機関でもない。しかし、これらは、今日の世界で国際社会を動かす重要な会議となっている。現在では発展途上国のうちの有力国が加わり、G20が影響力を増している。

●「持てる国」と「持たざる国」の格差の拡大

 第4次中東戦争において発動した石油戦略により、アラブ産油国には膨大な資金が流れ込むようになった。その資金の流れが、世界経済に大きな影響を与えるようになった。
 産油国のオイル・マネーは、米英の巨大銀行に預けられる。銀行は、その余剰資金をメキシコやブラジル等の発展途上国に貸し付ける。これらの国々は、借りた金を、値上がりした石油代金を支払うために使う。そのため、国際収支の赤字が増えていく。一方、銀行はOPECの預金を非OPEC諸国に貸し付けるだけで、金利収入を得る。主にこのオイル・ダラーの還流に当たったのが、ロックフェラー系の銀行、チェイス(当時)やシティ・バンクだった。
 アラブ産油国の富裕層は、豊かな資金で国際投資をし、富を増やそうともした。オイル・マネーが世界の市場を飛び回るようになり、国際的な投機がますます活発になった。アラブ産油国は、オイル・マネーで武器を大量に買いもした。軍備の近代化・強大化が図られ、中東の軍拡競争に拍車がかかった。
 また産油国の国内では、豊富な資金を当てた急速な開発ブームが起きた。その結果、貧富の差が広がり、社会にひずみが大きくなり、国民の不満がたまった。開発は、近代化であり、西洋文明の摂取ともなる。国民にはイスラーム教徒が多い。イスラーム文明から見ると、こうした社会的矛盾は、キリスト教文明、とりわけアメリカ文化の流入に原因があると理解される。そうした状況において、イスラーム教の基本原理に返ろうと呼びかける運動が活発になった。イスラーム教原理主義である。こうした展開が起こった典型的な国が、後に触れるイランである。

 石油危機が最も深刻な影響をもたらしたのは、石油資源を持たない国である。先進国が集中する地球の北部と、開発途上国の多い地球南部との間の問題を南北問題というが、南部の諸国のうち、産油国と非産油国の間の格差が広がった。アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの諸国の中で、石油を「持てる国」と「待たざる国」の違いが顕著になっていった。
 「持たざる国」が多く分布するのは、地球南部だけではない。東欧諸国の多くも石油資源に恵まれていない。そのため、石油危機は、東欧諸国の経済にも大きな打撃を与えた。
 石油危機以前、東欧諸国は、ソ連から極めて安価で原油を購入することが出来ていた。ところが、石油危機後、国際的な原油価格の上昇に合わせて、ソ連も東欧諸国への売り渡し価格を上げた。これが経済不振の続く東欧諸国には深刻な打撃となった。石油危機は1980年代の社会主義諸国の経済破綻の一要因となり、それが、社会主義体制の崩壊につながった。アラブの石油戦略は、共産主義の崩壊をもたらすことにもなったのである。

 石油危機後、石油に替わるエネルギーへの転換や新たな技術の開発が始まった。最も発達したのは、原子力の利用である。各国で原子力発電所の建設が進んだ。ここでも巨大国際金融資本の間の利権争いが行われている。すなわち石油利権を握るロックフェラー家中心の勢力と、ウラン資源を抑えているロスチャイルド家中心の勢力の争いである。しかし、原子力の平和利用には、重大な危険性が伴う。より安全に利用する技術が確立されないと、環境破壊・健康被害を拡大するおそれがある。こうした中で、自然のエネルギーを利用する代替エネルギーの研究が求められ、太陽光、地熱、風力、潮力等の利用が模索されるようになった。

 

(4)イラン・イラクの争い

 

●大戦後イランの政治的変遷とイラン革命

 中東に関して、次にイランとイラクの間の問題を見て行こう。
 イランは、中東イスラーム教諸国の中では、異色の存在である。イランは、古代にはペルシャ文明が栄えた地であり、イラン国民の多くは、アラブ民族ではなく、ペルシャ民族である。また最大の特徴は、アラブ諸国にはイスラーム教の多数派であるスンニ派が多いが、イランには少数派のシーア派が多い。
 イランでは、第2次世界大戦において、パフレヴィー朝の国王ムハンマド・レザー・シャーがナチス政権と提携した。戦後、レザー・シャーは南北から進駐してきた英ソ両軍により退位させられて亡命した。シャー・パフレヴィーが後を継いだ。
 イランの石油利権は、イギリスのアングロ・イラニアン石油会社が独占していた。しかし、同社は契約改定交渉で譲歩しなかった。これに対する不満が強まるなか、急進民族派が政権を握り、議会は石油国有化法案を可決した。1951年に首相となったモザデクは、世論を背景にアングロ・イラニアン石油会社を国有化した。これに対し、イギリスはタンカーの航路を封鎖し、国際石油資本は石油の買い付けを拒否した。そのため、イラン経済は大打撃を受けた。

 1953年(昭和28年)8月、アメリカの支援を受けた国王パフレヴィー2世が、クーデタによりモザデクを倒し、政権に復帰した。翌54年には8大石油資本(米・英・蘭・仏系)の合弁会社イラニアン・コンソーシアムが設立され、国有化された石油会社の運営に当たることになった。こうして、イランにおけるイギリスの石油利権独占体制は打ち破られた。
 パフレヴィー2世は、ソ連やアラブ急進派との関係悪化を承知の上で親米路線を貫き、CIAの援助で秘密警察を設置し、反対派を弾圧して独裁体制を築いた。63年(38年)から白色革命と呼ばれる一連の近代化政策を強力に推進した。膨大な石油収入を背景に軍や首都の近代化、農地改革、国営企業の払い下げ、識字運動など、政府主導の近代化が進められた。しかし、他方で貧富の差が拡大し、国家情報治安局(SAVAK)による監視、弾圧が続いた。75年以降になると復興党(ラクターヒーズ)の一党独裁が強化された。この時期、イランはアメリカの中東における拠点としての役割を果たした。21世紀の今日とは大違いである。
 こうした「近代化=西洋化」の改革に対し、イスラーム教シーア派の法学者たちが強く反発して抗議集会を開いた。国王は容赦のない弾圧を加え、最高指導者のホメイニー師を国外に追放した。

 1978年(昭和53年)、イランで国王の圧政に反対するデモが起こり、首都テヘランでは数千人の死者が出た。さらに12月には200万人の大デモが起こり、もはや鎮圧できなかった。79年1月にパフレヴィー2世は亡命した。2月ホメイニー師がフランスから帰国して革命政府の樹立を宣言した。パフレヴィー朝は崩壊し、3月国民投票でイスラーム教を国家原理とするイラン・イスラーム共和国が発足した。
 ホメイニー師は、イスラーム教的な社会規律の回復など宗教色、民族色の強い政策を追求した。石油を国有化し、一方で産油量を激減させた。オイル・メジャーによるイラニアン・コンソーシアムは利権を失い、石油は1バレルが23ドルへと高騰した。エネルギー・コストの上昇による不況が世界を襲った。そのあおりを受けて中南米では経済に壊滅的な打撃を受けた。これを第2次石油危機という。以後、開発途上国も資源を持つ国と持たない国に分かれ、次第に格差が広がることになった。
 ホメイニー師のもと、イランは反米色を強め、中央条約機構(CENTO)から脱退した。これによって、中東におけるアメリカの拠点は失われた。同じ1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、イランは反ソ色も強め、独自の姿勢を示した。

●イラン・イラク戦争

 1979年(昭和54年)にイラン革命が起きると、アメリカとともにアラブ諸国は、革命の波が石油を産出するサウディアラビア、クウェートなどの君主国に及ぶことを恐れた。そして、イラクを「イラン革命の防波堤」と見なして期待をかけた。
 イラクでは、68年(昭和43年)にバース党がクーデターで政権を奪取し、その政権が続いた。79年にサッダーム・フセインが大統領の地位に就いた。バース党はアラブ統一・社会主義・自由を理念に掲げるが、イラクの社会主義は一党独裁によって軍人・官僚が膨大な石油収入を私益化するものとなり、アラブ・ナショナリズムも最初の理想を失い、アラブ至上主義、領土拡張主義に堕してしまうことになった。
 サッダーム・フセインは、イラン革命当時の国際情勢、革命によるイランの軍事的弱体化などの状況を読んで、領土拡張を図った。イラクとイランの間には、シャトルアラブ川下流の国境を巡る対立がある。フセインは、領土紛争を口実にイランとの戦争を始めた。これがイラン・イラク戦争である。

 イランはシーア派が多数を占める国家だが、イラクの南部にはシーア派が居住し、また人口の約60%を占める。フセインは、イラクでは少数派のスンニ派を母体とし、国内のシーア派を冷遇していた。
 フセインはイランに侵攻したが、イランはイラクの3倍の人口を持ち、イスラーム革命を唱えるイラン軍の士気も高かった。イラク軍は1982年に追い出され、逆にイラン軍がイラクに攻め込んだ。しかし、イラク軍はアメリカから潤沢な援助を受け、アメリカ製武器による近代装備を誇っていた。これをイランの人海戦術で打ち破ることは不可能だった。戦局は膠着化し、イライラ戦争と呼ばれる長期戦が続いた。
 1988年(昭和63年)、ようやく両国は国連の停戦決議を受け入れて停戦した。イラン・イラク戦争で、イランは500億ドル、イラクは900億ドルの戦費を使い、両国とも財政の悪化に苦しむことになった。それが、後の湾岸戦争の背景となっていく。

 

(5)アジアの興隆

 

●東アジアの発展と西洋の抵抗

 大塚寛一先生は、1970年(昭和45年)前後から世界は、一日にたとえれば、夜から昼に変わるような大変化の時代に入ると説かれた。また、この時代においては、東洋・アジア、特に日本人に重大な使命があると強調された。先生の慧眼には明瞭に写っていたのだろうが、東洋・アジアでは日本が1960年代に高度経済成長期に入り、毎年10%以上の成長を続けた。これに続いてアジア諸国が大きく発展し始めた。
 先にも書いたが、1970年代には、日本に続いて新興工業経済地域(NIES)と呼ばれる韓国、台湾、香港、シンガポールが急速に発展した。1973年(昭和58年)の第4次中東戦争とそれに伴う石油危機によって、石油価格が高騰し、スタグフレーションが長期化した。国際市場での企業間の価格競争が激化し、国際競争に打ち勝つための安価な労働力の獲得と新たなビジネス機会を狙って、先進国から周辺の途上国への資本、技術の流出が急速に進んだ。アジアでは、日本やアメリカが資本の投下と技術の移転を進めた。それがNIESの発展の推進力になった。
 続いて80年代には、タイ、マレーシア、インド等も、NIESと同様の工業化政策を進めて経済開発に成功した。1980年代後半〜90年代には、日本の海外投資により東南アジア諸国連合(ASEAN)が目覚しい経済発展を行った。ASEANは、1967年(昭和42年)にインドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイの5カ国で設立された地域協力機構である。東アジアの経済成長はさらに加速し、「東アジアの奇跡」「世界の成長センター」などと称されるまでになった。
 
 東アジアの急速な発展に対し、これに抗して、西洋中心の時代に引き戻そうとする動きもある。その先端にあるのが、1970年代から世界的規模で積極的に企業活動を行うようになった欧米の多国籍企業である。多国籍企業とは、海外各地にその国の国籍を持つ現地法人を子会社として持ち、世界的規模で活動する企業である。金融、石油、自動車、IT、半導体、防衛等の分野に多く見られる。多国籍化した巨大産業資本である。
 多国籍企業は、1958年(昭和33年)のEEC発足後、アメリカ企業のヨーロッパ進出を契機として多く出現した。国際分業の拡大と資本投下の一層の国際化を意味する出来事だった。多国籍企業の活動により、アメリカでは、国内生産の5分の1が海外で行われるようになった。それに伴って、アメリカ国内の製造業は縮小していく。多国籍企業は、国家を超えた情報通信手段の発展を促し、また各国で規制緩和を求め、経済のグローバル化、グローバリゼイションを推進する一大勢力となっている。多国籍化した産業資本に莫大な資金を提供するのは、巨大国際金融資本である。

 1980年代のアメリカは、レーガン政権がソ連への対抗のために、軍拡路線を取った。軍事費の増大や多国籍企業の活動等により、アメリカは財政赤字と貿易赤字の双子の赤字を抱えるようになった。多国籍企業の活動というのは、もとはアメリカの企業であっても現地法人が生産した製品がアメリカに入る時には、海外からの輸入となるため、貿易収支は悪化するのである。
 アメリカのドルの価値は下がっていった。ドルの価値を下げてでもアメリカが軍拡を行うのは、西側諸国全体の安全保障のためとして了解された。ドルの暴落は、世界経済に混乱を招き、ひいては共産主義の暗躍を許す。そこで先進諸国は1985年(昭和60年)、ドルの価値を守るために、プラザ合意を行った。プラザ合意によって、日本は急速な円高が進んだ。円高により、輸出よりも対外投資が有利となったため、大量の資金が海外に投資された。日本の資金は、東アジア各国に多く投資された。それによってこの地域の経済成長はさらに加速した。

●ASEAN、次いで中国の成長
 
 1991年(平成3年)、ソ連の崩壊で米ソ冷戦が終結したことは、アジアが成長するために一層好環境を与えた。冷戦期には反共同盟的な連合体となっていたASEANが、本来の目的である地域経済協力を本格的に推進するようになった。93年(5年)にはASEAN自由貿易地域(AFTA)を設立し、94年(6年)にはASEAN地域フォーラム(ARF)の第1回会合が行われた。99年(11年)までに東南アジア10カ国すべてがASEANに加盟した。ASEANの動きは、東アジアにおける地域統合を促進するものとなっている。

 この間、1995年(平成7年)には、ベトナムがASEANに加盟した。ベトナム戦争については先に書いたが、統一後の社会主義国ベトナムは、経済がうまくいかなかった。戦争の爪あとは深く、環境破壊や毒物汚染の影響もある。しかし、根本原因は社会主義政策そのものにある。1986年(昭和61年)、ついにベトナム共産党は、ドイモイ(刷新)という改革路線を決定した。この路線は、ソ連のペレストロイカ(建て直し)や中国の改革開放路線に通じるもので、一定程度、自由主義的な政策を取り入れるものである。ベトナムは95年(平成3年)、東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟し、さらに敵国だったアメリカとの国交を回復した。
 こうした改革の結果、ベトナム経済は1990年代以降、急成長を行っている。ベトナムは、今やアジアの新興工業国の一つとして目覚しい発展を遂げつつある。日本は、1995年から2012年まで政府開発援助(ODA)の最大の援助国となった。2012年度には日本の2国間援助の中でもベトナムが最大の供与国だった。
 1960〜70年代のベトナムの独立戦争をアジアのナショナリズムの観点から支持した人々は、統一後のベトナムの発展を称賛するだろう。これに対し、コミュニズムの立場から支持した人々は、ベトナムの歩みをよしとするのか。それともベトナムに幻滅し、また共産主義そのものに幻滅したのか。左翼的知識人、文化人には見解を明らかにせず、ものを言ってもあいまいな人が多い。
 だが、ベトナムは、現代におけるナショナリズムとコミュニズム、西洋文明とアジア諸文明、国家と民族等の問題において、重要な存在である。ベトナム戦争は、現代の世界史の重要事件であり、米ソ冷戦期最大の紛争であり、第2次大戦後最大の民族解放戦争だった。統一ベトナムはその結果、生まれた国であり、今日のその発展をどのように評価するかは、現代世界史の見方における一つのポイントである。

 共産中国は、1990年代に入ると経済特区を設けるなど経済自由化を進めた。中国は安い賃金と豊富な労働力で生産拠点として台頭し、「世界の工場」となった。
 共産中国では、1976年(昭和51年)に毛沢東が死去すると文革派が一掃された。それとともに、かつては「資本主義の道を歩む実権派」(走資派)として批判された勢力が復権した。その巨頭の一人が、ケ小平である。
 ケ小平は78年(53年)に主席になり、改革開放政策を推進した。ケは農業・工業・国防・科学技術の「四つの現代化」を掲げ、東部の沿海地帯に経済特区、経済開発区を設けて、資本主義諸国の技術と資金を大規模に導入することにより経済の発展をめざした。
 ケ小平は「社会主義市場経済」という概念を打ち出した。これは、明らかに自由主義的資本主義を取り入れるものだった。それにより、中国は経済成長の軌道に乗り始めた。ケは、共産党と人民解放軍を掌中に収めた。1997年(平成9年)まで中国の最高指導者の地位にあり、高度経済成長を指導した。
 日本は、1972年(昭和47年)9月、米国に続いて、日中国交回復を行った。わが国は、中国に対して大東亜戦争に関する賠償金を支払うのではなく、経済援助を行うことにした。1978年(昭和53年)、日中平和条約を結び、翌79年(54年)から、本格的に中国への政府開発援助(ODA)の供与を始めた。日本のODAは、中国の経済成長に大きな助力となった。ODAは総計3兆円支出された。民間からの援助金を含めると、6兆円にもなると推計されている。

 中国に続いて、インドも1990年代以降、経済発展の道を歩んでいる。インドは世界最大のデモクラシー国家であり、中国に次ぐ人口大国である。多民族、多宗教、多言語、多文化のインドは、その多様性をデモクラシーによって、統合している。

だが、インドのジャンム・カシミール州では、州人口の90%以上を占めるイスラーム教徒が、1990年以来、分離独立運動を起こし、反印闘争を展開している。1998年5月には印パ両国が相次いで核実験を実施し、双方が核兵器を持っている点では、中東のイスラエルとイスラーム教諸国の関係よりも、インドとパキスタンの対立は深刻になっている。また、宗教的・民族的な伝統であるカースト制度が社会を覆っており、貧困、不衛生等の多くの問題を抱えている。

そうしたインドが、巨像が歩み出すように、成長の道を進み出した。とりわけ古代より数学に優れた能力を発揮するインド人は、IT産業の分野において著しい発展を見せており、21世紀の半ばには、GDPで中国を抜くのではないかという予測もある。


 21世紀の今日、アジアは、まさに世界の経済的中心地域となっている。人口、生産力、発展可能性等で他の地域を大きく上回っている。日本が先導し、また支援する形で、経済成長を成し遂げた国は多い。アジアが物質的に繁栄するとともに、アジア諸文明の精神文化の再評価がされ、日本、シナ、インド等の精神的伝統が、人類に新たな精神文化の創造を促すという展開になってきている。そして、アジアから新しい精神文化が興隆し得るかどうかに、人類が今後、物心調和・共存共栄の新文明へと飛躍できるかどうかがかかっていると言えよう。

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関連掲示
・拙稿「核大国化した中国、備えを怠る日本〜日中戦後のあゆみ

 

第9章 冷戦の終焉とその後の世界

 

(1)冷戦が終結し、ソ連が崩壊

 

●レーガン政権の対ソ軍拡

 現代の世界史を画する出来事に、米ソ冷戦の終結がある。ここで冷戦が終焉に向かった過程を記し、冷戦終結後の世界について書きたい。
 冷戦の終結は、米ソの対立・抗争の結果だった。まず米国側から書くと、1980年(昭和55年)の米国大統領選挙で、共和党のロナルド・レーガンが現職大統領のカーターを打ち破ったことで、米ソ対立の構造は根底から動き出すことになった。

 米ソ2大超大国の冷戦は、20年以上も続いた。その間、米ソ両陣営に分かれての軍事同盟が世界中に張り巡らされた。核兵器、ICBMの開発等、米ソの軍備拡大競争は際限なく進められた。レーガンは、筋金入りの反共タカ派であり、カーターの協調路線とは打って変わって、ソ連との熾烈な軍拡競争を行った。レーガンは、ソ連を「悪の帝国」と呼び、共産主義との対決路線を打ち出した。とりわけ、敵が発射した大陸間弾道弾(ICBM)や潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)をレーザービームで破壊するという戦略防衛構想(SDI)を進めた。SDIは、宇宙空間をも舞台にするため、スター・ウォーズ計画とも呼ばれた。この軍拡路線が、ソ連を軍拡競争に引き込み、経済的に窮地に追い込んだ。その結果、冷戦を終結させ、ソ連共産政権を崩壊に導いたことは、レーガン政権の功績である。

 経済政策については、レーガン政権は、新自由主義・市場原理主義を取り入れた政策を、8年間にわたって行った。イギリスでは、レーガンに先立ってサッチャーが同様の政策を行い、インフレ対策としては効果を上げた。そのため、新自由主義・市場原理主義は、1980年代以降、日本を始めとする多くの国々で圧倒的な影響力を振るった。
 レーガン政権の経済政策は、国内経済の建て直しと軍備増強という課題を掲げ、大幅な減税と国防費の増額という、相反する政策を同時に実行するものだった。その政策は、レーガノミックスと呼ばれる。
 レーガン政権は、新古典派経済学に基づくフラット型の税制を実施した。法人税と所得税を極端に低くし、一部の富裕層と株主や経営者の所得を最大にする財政政策である。結果は、当初の見込みに反して、大幅減税で税収が激減し、財政赤字が拡大した。またインフレ抑制とドル資金をアメリカに呼び寄せることを目的に高金利政策とドル高政策をとったために、製造業は海外に生産拠点を移していった。その結果、輸出が減り、輸入が増えて、貿易収支の赤字が拡大し、財政赤字と貿易赤字という「双子の赤字」が顕著になった。

 ソ連に打ち勝とうとする軍拡は、米国の財政を圧迫した。また、ドルの価値は低下を続けた。西側の結束を図りつつ自国の基軸通貨ドルを守ろうとするレーガン政権は、先進諸国に働きかけを行った。1985年(昭和60年)に主要5カ国の財務大臣がニューヨークのプラザ・ホテルに集結し、ドルの切り下げに合意した。これが、プラザ合意である。プラザ合意は、共産主義と対決するアメリカの財政赤字、ドルの価値低落を、日本及び西欧諸国の協力によって改善しようとしたものだった。

 米国は日欧と合意したドル安によって、輸出が増大し貿易収支は改善したが、国内経済は悪化し、財政赤字は膨らんだ。ところが、ソ連の方が多大な軍事費支出に耐え切れなくなり、経済危機に陥った。ソ連でミハエル・ゴルバチョフが共産党書記長に就くと、ペレストロイカと呼ばれる民主化政策が断行され、米国との関係改善が図られた。レーガンは、1985年から88年(60〜63年)にかけてゴルバチョフと4度にわたる首脳会談を行った。この間、両首脳は87年(62年)に、中距離核戦力全廃条約(INF条約)に調印した。こうしたレーガン政権の対ソ外交を受け、ブッシュ父政権で、89年(平成元年)12月米ソ冷戦は終結することになる。

 日本は高度経済成長により、1968年に、西ドイツを抜いてGNP世界第2位の経済大国となった。1980年代には自動車産業など多くの経済分野で、米国に脅威に与える存在となっていた。米国はプラザ合意で日本に経済的に協力させる体制を作り、アメリカの軍事力と日本の経済力の合体によって、ソ連・東欧の共産主義政権を倒壊させることに成功した。米国にとっては、ソ連を潰すとともに、新たな経済的競争相手である日本を、アメリカの経済的支配下に組み込むという、一石二鳥の荒業をやってのけたわけである。
 一方、日本は、プラザ合意により、急激な円高となり、バブルが発生した。束の間の繁栄の後、1980年代末から90年代初めにかけてバブルは崩壊した。その後、日本経済は、政府の経済政策の誤りによって、戦後先進国で唯一、デフレに陥った。

関連掲示
・拙稿「アメリカに収奪される日本〜プラザ合意から郵政民営化への展開

●ソ連の行き詰まり、改革から冷戦の終結へ

 冷戦下の米ソの軍拡競争は、米国以上にソ連の経済を圧迫した。ソ連では、レーニン、スターリンの時代からの社会主義農業政策の失敗、計画経済が生み出す非能率性、労働意欲の減退、生産と消費の連携の無さ、イノヴェーションの停滞、共産党官僚専制体制への不満の増大等が高じ、1970年代末には社会主義体制の行き詰まりが目立つようになっていた。
 そうした時、ソ連は1979年(昭和54年)、ブレジネフ書記長の指導のもと、アフガニスタンに侵攻した。直接的な目的は、親ソ政権維持である。アフガニスタンは古代から交通の要衝であり、地政学的に重要な地域である。大英帝国時代のイギリスも力を入れた場所である。反政府ゲリラの抵抗によって、戦争は泥沼化した。米ソが互いに対抗する陣営に援助を行う代理戦争の様相を呈した。アメリカのベトナム戦争に比せられた。
 米国はソ連のアフガン侵攻を画策していた。画策の司令塔は、カーター政権で国家安全保障担当大統領補佐官を務めたズビグニュー・ブレジンスキーだった。ソ連にアフガンを攻めさせて、泥沼化するという彼の狙い通り、アフガニスタンはソ連にとってのベトナムとなった。
 ブレジンスキーは、キッシンジャーと並んで今日のアメリカの外交政策に最も強い影響を与えている国際政治学者である。カーター政権以降も今日まで、21世紀の地球で超大国アメリカの覇権を維持し、アメリカ主導の世界秩序を構築する戦略を打ち出している屈指の戦略家である。

 ソ連は1980年代に入っても、軍事力を増強し続けた。西側では、ソ連はアメリカを軍事力で上回った時点で軍事行動を起こすのではないかという懸念が強まった。軍事力のピークは1985年(昭和60年)と見られ、元英国軍将軍のジョン・ハケットらは、著書『第三次世界大戦――1985年8月』で欧州侵攻への警戒を呼び掛けた。わが国でも、1970年代後半から80年代前半には、ソ連軍が北海道に侵攻するかもしれないという危機感があった。ソ連の軍事行動は、核兵器による第3次世界大戦への発展の可能性を孕んでいた。
 ソ連では巨大な軍需生産の継続が民需を圧迫し、また長期化したアフガニスタン戦争が国家経済を悪化させていった。1982年にブレジネフからアンドロポフへ、84年にチェルネンコへ、翌年はゴルバチョフへと、めまぐるしく指導者が変わった。1985年(昭和60年)、ゴルバチョフが書記長に就任した時、ソ連の経済と社会は深刻な状態に至っていた。
 ゴルバチョフは、こうした状況を打開すべく、内政では、「ペレストロイカ」(建て直し)をスローガンとして政治・経済の改革に着手した。86年にウクライナのチェルノブイリで原発事故が起こると、「グラスノチ」(情報公開)を推進した。
 外交では、アメリカとの軍縮交渉を進め、西側諸国との協調路線をとった。同時に、1988年(昭和63年)にはアフガニスタンからの撤退を開始した。そして89年(平成元年)12月、地中海のマルタ島沖で、ブッシュ父大統領と首脳会談を行い、冷戦終結の共同宣言を発表した。

●東欧諸国の民主化とソ連の解体

 ソ連は、東欧諸国を帝国主義的に支配・搾取していた。1968年(昭和43年)、チェコスロヴァキアの「プラハの春」を軍事介入で阻止したソ連は国際的な非難を浴び、東欧への支配力が低下した。ブレジネフが制限主権論を唱えて、東欧諸国の官僚政権を管理していたものの、自由化への動きは、徐々に進行していた。それが、ゴルバチョフのペレストロイカをきっかけにして、東欧諸国で巨大な民主化の波が起こった。
 1989年(平成元年)、その波はいち速く、ユーラシア大陸の東部に達した。6月4日市場経済の導入が進められる共産中国で、天安門事件が起こった。民主化を求めて天安門広場に集まった学生・民衆を、中国共産党指導部が武力鎮圧した事件である。
 東欧では、 その2週間後の6月18日、ポーランドで自主管理労組「連帯」が選挙で圧勝し、民主化革命が起こった。ポーランドの民主化は、ポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ2世を頂点とするカトリック教会の宗教的な力と、西側諸国の経済的な力があいまって成し遂げられたものだった。ここでも、ポーランド出身の戦略家ブレジンスキーが民主化を画策した。
 10月23日にはハンガリーで、ソ連型の一党独裁体制が放棄された。11月9日には東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が取り払われた。同月17日チェコスロヴァキアでビロード革命が成功し、12月25日にはルーマニアでチャウシェスク政権が崩壊した。独裁者チャウチェスク大統領は処刑された。翌1990年(平成2年)東西ドイツが統一を果たした。
 ソ連では、ゴルバチョフが1990年に憲法を改正して複数政党制に替え、ソ連の初代大統領に就任して国内改革を推進した。しかし、彼の改革は、ソ連を再建するものとはならなかった。共産党守旧派の抵抗は根強く、市場経済導入を目指した経済改革も進まなかった。一方、改革が失速しつつあることに対し、連邦内の諸共和国は批判的な姿勢を強めた。ソ連共産党に抑えられていたナショナリズムが復興し、ソ連からの独立を志向するようになった。
 急進的な改革派のボリス・エリツィンは、一度はゴルバチョフとの党内抗争に敗れたものの、ロシアを権力基盤に巻き返しを図り、1990年にロシア共和国の主権宣言を行って、1991年にロシア共和国大統領に就任した。
 1991年8月、ゴルバチョフ政権に対し、危機感を募らせた守旧派が、政権奪取を狙ってクーデタを起こした。この時、エリツィンは戦車に乗って鎮圧に活躍し、クーデタは数日で失敗に終わった。これを機にバルト三国が独立を果たすなど、連邦からの離脱が相次いだ。クーデタの失敗を機にソ連共産党が解散され、12月11日にはソビエト社会主義共和国連邦を解体する独立国家共同体(CIS)の創設が決定された。12月25日ゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、ソ連は正式に解体された。
 大塚寛一先生は、1960年代から、共産主義は破壊ばかりで建設がなく、必ず崩壊することを明察されていた。先生は別格だが、ソ連が共産主義を放棄するという歴史的大事件は、そのわずか数年前まで、エマヌエル・トッド、小室直樹らを除くと、世界中のほとんどの有識者が予測できないほどの大変動だった。ソ連の軍事行動の可能性、それによる世界戦争の危機が懸念された1985年前後からの数年間の変化は、実に劇的な展開だった。

関連掲示
・マイサイトの「共産主義」の項目

(2)米国はグローバリゼイションを推進

 

●冷戦終結後に、湾岸戦争が勃発

 冷戦が終結した後、中東では湾岸戦争が勃発した。イラン・イラク戦争後、イラクは中東の軍事大国となったものの、フランスに30億ドルという多額の債務を背負っていた。サッダーム・フセインは、経済危機を解決しようとして、1990年(平成2年)8月クウェートに侵攻した。クウェートの石油を押さえて財政を好転させようとしたことが、直接的な要因である。イラクは、国境地帯にあるクウェートのルイメラ油田はイラクの石油資源を盗掘していると非難した。
 イラクはイギリスがオスマン帝国から切り離して作った国だった。イギリスは、オスマン時代の州の一部をイラク、一部をクウェートとした。そのため、イラクにはクウェートはもともと自国の一部だったという見方があった。
 アメリカは、イラク軍のクウェート侵攻で、西側の石油資源が危機にさらされたと判断した。そして、クウェートの解放、サウディアラビアの防衛を目指す大規模な軍事介入を図った。
 国連安保理はイラクにクウェートからの撤退を要求したが、1991年(平成3年)1月、撤退期限が過ぎた。安保理は全会一致で制裁を決議したものの、国連軍は組織されなかった。安保理決議をもとに、アメリカが主導して、ヨーロッパ諸国、エジプト、シリアなど29カ国の多国籍軍を組織し、1月17日イラクへの攻撃を開始した。これが、湾岸戦争である。
 多国籍軍のバクダッド等への空爆に対し、イラクはイスラエルへのミサイル攻撃で応じた。フセインは、湾岸戦争をパレスチナ問題にリンクさせて戦線の拡大を図った。しかし、これには、イスラエル、アラブ諸国が応ぜず、結局多国籍軍の圧倒的な軍事力により、空爆からわずか42日間でイラク軍は多国籍軍に敗れた。
 湾岸戦争では、日本も130億ドルの戦費を提供した。だが、戦争終結後、クエートが国際社会に出した感謝文に、日本の名前はなかった。カネだけを出して、人を出さない日本の協力の仕方は、国際社会で評価されないことが、鮮明になった。
 湾岸戦争は、それまでの米ソ冷戦による二極的な世界秩序に替わり、アメリカ主導の一極的な世界秩序維持の動きの出発点となった。米国の中東での軍事行動は、2001年(平成13年)9月11日の米国同時多発テロ事件への報復として行われたアフガニスタン戦争、またそれに続く2003年(平成15年)のイラク戦争という形で繰り返されることになった。
 湾岸戦争において、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長は、イラク支持を打ち出して国際的に孤立した。そのため、湾岸産油国からの援助が受けられなくなり、パレスチナは経済危機に直面した。パレスチナ人の多くは当時レバノンに移住していたが、1993年(平成5年)にはパレスチナの暫定自治の基本合意が成立し、イスラエル軍が占領しているガザ地区とエリコ地区での自治が認められた。パレスチナの主要組織であるPLOは、テロ行為を放棄し、パレスチナの代表として認知されることになった。パレスチナでは、1987年イスラーム教原理主義組織ハマスが創設された。ハマスは対イスラエル強硬路線を鮮明にしており、イスラエルとの戦いが執拗に繰り返されている。

●米国は唯一の超大国として、グローバリゼイションを進める

 冷戦の覇者となった米国は、1990年代からグローバリゼイションを推進した。
 1989年(平成元年)からレーガンに続いて同じ共和党のジョージ・ブッシュ父が米国大統領を1期務めた。ブッシュ父は、ソ連のゴルバチョフと会談し、冷戦を終結に導いた。また、湾岸戦争に勝利した。湾岸地域に軍隊を駐留させ、中東の石油への管理を強めた。ソ連が崩壊すると、アメリカは、唯一の超大国の地位を獲得した。軍事的に圧倒的な力を誇るアメリカは、世界各地に軍隊を駐留させ、「世界の警察官」を自認した。各地の地域紛争に介入し、各地域で影響力を強めていった。アメリカの経済力・軍事力は、1990年代には、一国で世界のGDPの4分の1、軍事費の3分の1を占め、経済・軍事の両面で一人勝ちの状態となった。1990年代の数年間は、世界史上初めて、一国が世界を支配する一極体制が実現したと言えよう。

 1992年(平成14年)、民主党のビル・クリントンは、現職のブッシュ父を破って大統領になった。1980年代に「双子の赤字」に苦しんでいたアメリカは、クリントン政権の時代(1993〜2001年)に、レーガン政権以来の財政赤字を解消し、さらに黒字に転換するほどの経済的繁栄を謳歌した。
 クリントンは、ケインズ主義的な政策を取った。レーガン税制を全面的に改正して、所得税も法人税も最高税率を引き上げた。同時に、財政支出を公共投資と投資減税に集中して、民間投資を喚起する政策をとって、5年で財政を黒字に転換させるという目覚しい業績を上げた。
 クリントンは、レーガン、ブッシュ父とは異なり、軍事行動には消極的だった。代わって、グローバリゼイションを標榜した。グローバリゼイションとは、国境を越えた交通、貿易、通信が発達し、人・もの・カネ・情報の移動・流通が地球規模で進む現象である。グローバリゼイションを推進するアメリカは、ITの情報力と基軸通貨ドルの経済力で他国を圧倒した。
 クリントン政権は、インターネットなどの軍事技術を民間転用することで、IT(情報技術)革命をいち速く進めた。マイクロソフトやインテルといったIT関連企業がアメリカ経済をけん引した。それによってアメリカは、情報通信技術で各国に大きく抜きん出た。
 クリントン政権は、また金融のイノヴェーションを進めて世界経済を支配する仕組みを作った。1980年代まで宇宙開発に従事していた科学者が金融業界に転じ、宇宙工学を応用して金融工学を発展させた。金融工学は、新古典派経済学に基き、将来の不安定性をリスクという概念でとらえ、確率論的な計算によって、リスクの分散や管理ができるとし、これを商品化した。デリバティブと呼ばれる金融派生商品が続々と作られ、情報金融システムを通じて、世界中で販売されるようになる。アメリカは、ドルが基軸通貨であることを利用し、新たな金融商品を売ることで、ドルがアメリカに還流し、アメリカが繁栄する仕組みを作り上げた。

 グローバリゼイションは、もの、カネ、人、情報の移動・流通に伴い、技術・金融・法制度等の世界標準が形成される現象でもある。アメリカ主導のグローバリゼイションは、アメリカの標準を世界の標準として普及する動きとなった。この動きは、アメリカの国益を追求する手段として推進された。またアメリカ的な価値観、アメリカ的な文化・習慣・言語・制度等を他国に押し付けるアメリカナイゼイションの動きともなった。アメリカ的な価値観とは、イギリスで発達したアングロ・サクソン=ユダヤ的な価値観がアメリカでさらに発達したものと言えるものである。
 グローバリゼイションを戦略的に進める思想が、グローバリズムである。資本の論理によって、国家の論理を超え、全世界で単一政府、単一市場、単一銀行、単一通貨をめざす思想。それが私の理解するところのグローバリズムである。経済的には、世界資本主義の思想とも言える。巨大国際金融資本が主体となって、合理主義を地球規模で徹底して実現しようとする思想である。既存の国家を超えた統一世界政府を目指す点において、グローバリズムは、地球統一主義または地球覇権主義と訳すことができる。私は、近代西洋文明が生み出した思想の典型であり、またその頂点だと考える。
 アメリカがグローバリゼイションで繁栄する反面、世界では地域間の経済格差が広がり、貧困にあえぐ国々、人々は一層の貧困に追いやられた。そのため、世界各地で反米的な運動が起こった。とりわけイスラーム教諸国での運動は宗教的な思想を根底とした過激なものとなった。クリントン政権末期から、アメリカは再び軍拡路線を進め、2000年(平成12年)以降、ブッシュ子政権でもそれが継続された。

 

(3)欧米資本はアジアの成長を妨害

 

●カジノ資本主義の狂宴

 先に書いたように、1971年(昭和46年)のニクソン・ショックは、アメリカが金とドルの交換を停止したものだった。それによって、各国は次々に変動相場制に移行した。金ドル交換停止は、アメリカにとっては、いくらドルが海外に流出しても、金に交換する必要がなくなったことを意味する。依然として、ドルが基軸通貨であることは変わらない。それゆえ、アメリカはいくらでも貿易赤字を続けていられることになった。だからドルは一層、海外に流出した。外国製品をどんどん輸入しても、ドルを刷って支払えばよい。金の裏づけはいらない。そのため、アメリカ国民の浪費癖は、ますます自制が聞かなくなった。
 資本主義が変動為替相場制に移行したことによって、貨幣に新たな機能が生じた。貨幣自体が、一つの商品になったのである。自分が持っている通貨は、為替相場が上がれば、他国の通貨と交換するときに、差益が出る。逆に相場が下がれば、差損が出る。この仕組みを利用して、ある国の通貨を安い値段で買い、高い値段の時に売れば、為替差益を得ることが出来る。こうなると、貨幣は、通貨交換をすることで利潤を生む商品となるわけである。

 ある通貨が安くなったら大量に買い、高くなったところで売る。これだけで大儲けが出来る。逆に裏目に出たら大損をする。こうした為替差益を狙う通貨の売買は、一種のギャンブルと化す。
 世界の金融市場を結ぶコンピューターのネットワークが、このギャンブルを超高速で行うことを可能にした。金融市場は、あたかも巨大なカジノの賭博場のようになった。外国為替取引に関係するディーラーたちは、世界の金融市場を瞬時に結ぶコンピューターの画面を見ながら、マネー・ゲームに興じる。イギリスの経済学者スーザン・ストレンジは、こうした資本主義の姿を「カジノ資本主義」と名づけた。 世界市場は、カジノ資本主義の狂宴の場と化した。
 ここにおいて、近代資本主義は一つの完成を見た。近代資本主義は、産業資本の発達によって近代資本主義となった。マルクスは生産に重点を置き、資本における利潤の増大のメカニズムを解明しようとした。しかし、本稿で書いてきたように、資本の典型としての貨幣にもっと注目すべきである。貨幣は、資本主義の不可欠の要素である。資本主義は、貨幣経済が高度に発達したものである。資本は、自己増殖する価値の運動体である。その典型は、貨幣である。貨幣の貸借は、返済の義務を生じる。この関係は、自由な契約により、貸主と借主の間の自由意思の働きである。返済が賃借の金額と同額であれば、貨幣は増加しない。しかし、貸借の報酬として、利子を取るとき、貨幣は増殖する。この貨幣の自己増殖の運動は、資本主義の本質的な要素である。
 貨幣という典型的な資本なくして、資本主義は成立しない。そして、金ドル交換停止後に表われた貨幣そのものの商品化は、こうした資本主義の本質を全面的に実現したものだと私は思う。

●ヘッジファンドによる通貨暴落

 アジアは、1970年代から90年代にかけて急速な経済成長を続けた。しかし、欧米諸国は、黙ってその成長を許しはしなかった。アジア諸国は、欧米の金融資本に狙われ、1997年(平成9年)、アジア通貨危機が起こった。
 通貨危機に襲われる前、アジアのほとんどの国は、自国の通貨レートをドルに連動させるドル・ペッグ制という為替政策を取っていた。当時はドル安で為替相場は比較的安定していた。また、アジア各国は、外国資本の流入を促して資本を蓄積しつつ、輸出を拡大して経済成長を図るやり方を取っていた。
 しかし、1995年(平成7年)から、アメリカのクリントン大統領は、経常収支赤字を減らすため「強いドル」政策に転じた。ドルが高めに推移するようになると、これに連動してアジア各国の通貨の価値が上昇した。これは輸出には不利である。アジア諸国の輸出は伸び悩んだ。投資家は、今後、アジア諸国が経済成長を維持できるかどうか疑問を持つようになった。
 この状況に目をつけたのが、ヘッジファンドである。ヘッジファンドとは、大口投資家から資金を集め、金融派生商品(デリバティブ)の運用などを柱として世界中に投資する投機的な投資信託をいう。梃子のように原資の数十倍を運用することになるレバレッジを利用して、巨額の資金を動かし、年利30〜40%もの収益を上げる。また、短期的に大量の資金を動かして、為替相場や株式相場を誘導し、巨額の利益を獲得する。それが、現代資本主義の怪物ヘッジファンドである。

 1990年代後半、ヘッジファンドの投資顧問業者は、アジア諸国の経済状況と、その国の通貨の評価に開きが出ており、通貨が過大評価されていると見た。そういう通貨に空売りを仕掛け、安くなったところで買い戻せば、差益が出る。ここで狙われたのが、タイの通貨バーツだった。
 97年(平成9年)7月、ヘッジファンドは、バーツに空売りを仕掛け、タイ政府が買い支える事を出来なくした。それによって、バーツは暴落した。タイ経済は壊滅的な打撃を受けた。通貨暴落の波は、マレーシアやインドネシア、韓国にまで波及する経済危機に発展した。このあおりを受けて、インドネシアでは、長期政権だったスハルト体制が崩壊した。
 各国は経済の建て直しのために、IMFに援助を求めた。この時、IMFは、通貨暴落で苦しむアジアの国々を外から経済的に管理する機関として働いた。IMFの管理下で、強力な経済改革が進められるとともに、外資がどっと参入し、その国の企業・資産を安く買い占めた。アジア諸国では、通貨危機とIMFの管理のため、「世界の成長センター」といわれるほどの経済成長にブレーキがかかることになった。
 戦後の国際通貨体制をブレトン・ウッズ体制というが、この体制は別名IMF=GATT体制ともいう。IMFは、1971年(昭和46年)のニクソン・ショック後も、国際通貨の安定を図るという機能を果たしている。一方、GATTは、暫定的な国際協定だったので、発効後、貿易と関税引き下げに関する国際交渉が何度も重ねられた。その結果、1994年(平成6年)に発展的に解消し、1995年(平成7年)に新設された「世界貿易機関(WTO)」に吸収された。それゆえ、現在の変形されたブレトン・ウッズ体制を、IMF=WTO体制と呼ぶこともできるだろう。

 アジア通貨危機以後、東アジアでは、欧米外資に対する警戒が高まった。アジア独自にASEAN+3(日本、中国、韓国)による地域経済協力が模索されるようになった。
 アジア通貨危機は、他の地域にも影響を及ぼした。ユーロ・ダラーは、アジア市場からアメリカ市場に回帰した。ロシアは、新興市場として不信感を招き、財政危機に陥った。同じく新興国のブラジルも、危機に陥った。
 アジア通貨危機を仕掛けたのは、ジョージ・ソロスだと言われる。ソロスは、ハンガリー生まれのユダヤ系アメリカ人であり、ヘッジファンドの代表的な運用者である。アジア通貨危機でヘッジファンドに襲われたマレーシアのマハティール首相は、ソロスがマレーシア通貨リンギットを下落させたとして、激しく非難した。
 私は本稿で先に次のように書いた。産業資本の発達による貨幣経済の拡大は、ユダヤ人の活躍の場を広げ、彼らに膨大な富をもたらした。それとともに、資本主義世界経済の発達によって、ユダヤ教の価値観が西欧のみならず、非西欧の文明にも浸透したところに、グローバル資本主義が出現したといえよう。ユダヤ人だけでなく、ユダヤ的な価値観を身に着けた諸国民が、地球規模の資本主義経済を推進しているのである、と。
 そうしたユダヤ的価値観の典型的な実践者が、ジョージ・ソロスといえよう。ソロスは、ユダヤ人である。しかし、ソロスと同じような投資家が、アメリカを中心に各国に多く出現している。そうした投資家はユダヤ人だから、情け容赦ない金儲けをするのではない。ユダヤ的な価値観を体得した投資家として経済活動をしているのである。
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10章 21世紀の激動

 

(1)唯一の超大国アメリカの繁栄と衰退

 

●現代史を画した9・11

 2000年(平成13年)1月、民主党ビル・クリントンに替わって、共和党ジョージ・ブッシュ子が大統領に就任した。
 ブッシュ子政権で現代史を画する9・11が起こった。9・11とは、2001年(平成13年)9月11日に起こった米国同時多発テロ事件である。この事件をきっかけにアメリカは同年10月7日、アフガニスタンに侵攻し、さらに03年(15年)3月19日、イラク戦争を開始した。9・11及びアフガン戦争及びイラク戦争こそ、現在の世界の状況を生み出した一連の出来事である。それらは、すべてブッシュ子政権で起こった。
 米国同時多発テロによるとされる事件には、不審な点が多くある。詳しくは、拙稿「9・11〜欺かれた世界、日本の活路」に書いた。
 上記拙稿に述べたように、米国政府は、ワールド・トレード・センター(WTC)の3つのビルは、航空機の衝突とそれに伴う火災が原因で崩壊したとする。これはまったく説得力がない。物理学の法則に反しており、子供だましである。ジェット燃料ではビルの鋼材は溶解しない。火災ではビルは崩壊しない。特に第7ビルの倒壊は、飛行機の激突も大規模な火災もなく、突如倒壊した。建築物の解体技術によって計画的にビル爆破が行われた可能性があり、爆薬の痕跡が発見されている。
 ペンタゴンにボーイング757が激突したというが、飛行物体が国防総省のビルに接近しているのに、空軍機は発進せず迎撃しなかったのは不可解である。建物の損傷が小さすぎる。進入経路と激突箇所が不自然である。ブラックボックスから有益な情報が出ないのは不思議である。押収された記録映像が、公開されていない。現場写真は、事件の直後なのに、機体の残骸がなかった。ラムズフェルド国防長官は「この建物に被害を与えたミサイル」と口を滑らせている。
 ペンシルバニアの旅客機は墜落したと発表されたが、ただの墜落では、残骸が13キロも飛びはしない。墜落現場には機体の残骸がなく、ジェット燃料が燃えた跡もない。現場の詳しい映像が公開されていない。テロリストの所持品だけが残るはずがない。犠牲者の血液が発見されていない。最後の3分間の録音が残っていないのは不合理である。ラムズフェルド長官は、「撃ち落した」と言っている。
 またテロリストが犯人だとするとおかしなことがある。アルカーイダの犯行だとするのは、犯行声明によるのみである。米政府は計画を知らなかったというのに、なぜすぐ犯人を発表できたのか。全員死亡したはずの犯人のうち、7人は生きていた。テロリストたちの技術では、ハイジャックしたという航空機の操縦は不可能だった。
 私は、これらの点を仔細に検討し、同時多発テロ事件にアメリカ政府中枢が何らかの形で関与していると考えている。関与とは、テロリストの計画を利用して加担したか、米政府とテロ・グループとの共犯か、米政府による自作自演か、何らかの形で意図的に関わったことを意味する。利用加担か政府共犯か、自作自演かについては、まだ決定的なことは言えない。アメリカ政府が徹底した調査を拒み、事件の証拠を公開していないからである。
 だが、アメリカ政府中枢の事件への関与を示すと私が考える、次のような事実がある。

(1)政府は調査委員会の調査を妨害した。
(2)アメリカ政府中枢は事件を前もって知っていた。
(3)副大統領のチェイニーはペンタゴンを攻撃させ、ペンシルバニアでは撃墜を命じた。
(4)ブッシュ政権の内部及び周囲では、「21世紀の真珠湾」が待望されていた 。
(5)事件後、FBIは捜査官の捜査を妨害した。
(6)CIAとパキスタンの統合情報部(ISI)、そして主犯とされたオサマ・ビンラディンとの間には濃厚な関係があった。

等々である。
 また、アメリカ政府が事件に関与した場合、目的は6つ考えられる。

(1)石油・天然ガスを確保すること。
(2)アメリカ=イスラエル連合の安全保障を強化すること。
(3)戦争による特需を創出すること。
(4)ドル基軸通貨体制を維持すること。
(5)麻薬利権を取り戻すること。
(6)宇宙空間の軍事化による地球支配を進めること。

以上である。詳しくは、先の拙稿をご参照願いたい。

●「新しい十字軍戦争」としてアフガニスタン、イラクに侵攻

 9・11の同時多発テロ事件が起こるや、ブッシュ子大統領は、「新しい十字軍戦争」を唱導し、国民に支持・協力を呼びかけた。報復に沸騰する世論を後押しにして、アメリカは、アフガニスタンに進攻した。テロは、イスラーム教原理主義勢力タリバンによるものとし、タリバン政権を倒すとして、アメリカは、2001年(平成13年)10月7日イギリス等とともに、アフガニスタンへの空爆を開始した。
 ブッシュ子政権は、この戦争は従来のような国家と国家の戦争ではなく、テロリスト集団と国家が戦うという新しい戦争だとした。この規定は、従来の戦争の概念を変えた。連合軍は圧倒的な優勢のうちに作戦を進め、12月には作戦を終了した。反米的なタリバン政権に替わって、親米的な政権が樹立された。だが、これで戦争は終わらなかった。米国、アフガニスタン政府等とタリバンとの戦いは続いている。
 アフガニスタンは、ユーラシアにおける地政学的な要所であり、中東にまさるほどの石油が埋蔵されているというカスピ海沿岸地方から石油を搬送する通路である。また世界最大のアヘンの生産地でもある。アメリカはここに重大な利権を持っている。アフガン侵攻には、利権の維持という理由もあることを見逃してはならない。
 9・11後、アメリカは、同時多発テロ事件を計画・実行したとして、アルカーイダの指導者オサマ・ビンラディンを主犯に名指した。この人物についてもCIAとの関係など不可解な点がいろいろあり、アメリカの協力者説、替え玉説、死亡説などが飛び交った。その点についても先の拙稿に書いた。米国は、アフガンでの戦いに関与しながら、オサマの追跡を続けた。オサマ・ビンラディンが米軍の軍事作戦によって死亡したと報道されたのは、ようやく2011年(平成23年)5月のことだった。

 アメリカは2003年(平成15年)3月19日、サッダーム・フセインを除いて民主化を進めるとしてイラク戦争を開始した。ブッシュ子政権は、9・11の前に、イラクの石油目当てに、フセインを追放するための戦争を計画していた。イラクは、石油埋蔵量で世界第2位である。アメリカの計画を知ったフセインは、攻撃をされないように、国連安全保障理事会常任理事国のフランス・ロシア・中国にイラクの石油を売っていた。安保理がイラク攻撃を決議しないように図ったのである。
 しかし、アメリカは、フセインはアルカーイダを支援しており、大量破壊兵器を渡すおそれがある。テロリストが核兵器を持てば、国家が相手と違って抑止力が働かず、防ぎようがない。だから、脅威が感じられる時点で先制攻撃をしなければならないーーこういう理屈で、自衛権の行使として先制攻撃を正当化した。これは、先制攻撃に関する新しい解釈だった。
 ドイツ、フランスなど冷戦時代に米国の盟友だった国々は、イラク攻撃に反対を表明し、米国の一極支配に反発する動きが目立った。国連安保理でフランスが反対したので、アメリカは、安保理決議なく、イギリスなどと共に空爆を開始した。湾岸戦争以来のイラク攻撃だった。第2次イラク戦争とも言われる。
 ブッシュ子大統領は、開戦理由を三つ挙げた。

(1)イラクは大量破壊兵器を保有し続け、その事実を否定し、国連の武器査察団に全面的な協力を行わない。そのことに対する武力制裁のため。
(2)イラクの一般市民をサッダーム・フセイン大統領の圧政から解放するため。
(3)テロリストに対する支援国であるイラクを民主的な国に変えるため。

 以上である。
 わが国に続いて、多くの国々が、アメリカを支持して参戦した。NATOは、結成後初めて集団的自衛権の行使として参戦した。集団的自衛権は、集団安全保障を補完するのではなく、集団安全保障体制の不在を埋めているという国際社会の実態が浮かび上がった。
 侵攻の翌月には米英連合軍が首都バクダードを占領し、フセイン政権は打倒された。これで正規軍同士の戦闘は終了し、2003年5月ブッシュ子大統領は「大規模戦闘終結宣言」を出した。だが終戦宣言後も、イラクの治安は回復せず、内戦状態が続いた。アメリカ・NATO等の軍隊は、イラク駐留を継続した。
 2003年12月13日米軍はサッダーム・フセインを逮捕した。アメリカは、囚われたフセインを世界の耳目にさらし、勝利宣言を行った。
 アメリカは、フランス・ロシア・中国の石油に関する権利をなくし、イラクの石油利権を独占した。こういう利己的なやり方が、欧州諸国の反感を招いた。世界の多極化を阻止するはずが、かえって多極化を促進してしまった。

 開戦理由の第一は、先の通り、イラクの大量破壊兵器保有だった。ところが、アメリカが派遣した調査団は、2004年(平成16年)10月、「イラクに大量破壊兵器は存在しない」という最終報告を提出した。大量破壊兵器を保有しているというのは、CIAの情報だった。それが誤っていたことが明らかになった。その結果、この戦争の正当性は、根底から揺らいだ。
 ブッシュ子政権は、誤情報を鵜呑みにしたのか。それとも、核兵器・生物兵器・化学兵器は存在しないことは分かっていて、戦争を始めたのか。真相は明らかではない。アメリカの議会も、国連安保理も、この点を徹底的に追及しようとはしていない。
 イラク戦争の大義は、失われた。それにより、9・11同時多発テロ事件に関する疑問が、アメリカ国民の間に広がった。わが国においても、この事件を疑う人が増えた。
 フセインについては、イラク特別法廷及びバグダードの高等法廷で裁判が行われ、「人道に対する罪」で死刑と判決された。2006年(平成18年)12月30日絞首刑が執行された。
 フセイン政権崩壊後、イラクでは、議会選挙、憲法制定等が行われ、2006年の選挙でマリキが首相に選ばれた。イラクでは少数宗派であるシーア派のマリキ首相は、政府や軍の幹部をシーア派で固めた。強権的な政権運営を行い、スンニ派や元フセイン政権関係者等の反発を受けている。イラクの治安は再び悪化し、小規模な戦闘が続くことになった。

関連掲示
・拙稿「9・11〜欺かれた世界、日本の活路

●米国とイラン・イスラエル関係


 アフガニスタン及びイラクの情勢は、中東の他の国々の問題と密接につながっている。今日の中東における地域的な対立の中軸には、イランとイスラエルの敵対関係がある。
 近年中東で最もアメリカが最も警戒しているのは、イランの動きである。イランは核開発を続けている。国際社会はこれを阻止しようとしている。もしイランがこれに反発して強硬な姿勢を貫き、世界各国に石油を運ぶ通路であるホルムズ海峡を封鎖するような事態になったならば、アメリカとイランは戦争になるだろう。軍事的には、アメリカが海軍力で優勢ゆえ、比較的短期間で鎮圧される可能性が高い。だが、イランが米軍基地への報復、イスラエル本土へのミサイル攻撃、湾岸諸国の油田や製油所の爆撃・爆破等へと行動をエスカレートすると、新たな中東戦争に発展する恐れがある。わが国にとっては、シーレーンによる石油の輸送が脅かされる事態となる。イスラエルがイランに攻撃を仕掛ける可能性もある。イランの核開発に最も脅威を感じているのはイスラエルだからである。イランが核開発を大きく進める前に叩こうとして、イスラエルが動くかもしれない。
 イスラエルは、アメリカにとって、中東で最も重要な国である。ユダヤ教とキリスト教の宗教的なつながりとともに、ロスチャイルド家・ロックフェラー家等の巨大金融資本の連携が背景にある。イスラエルは、アメリカの政府・議会に徹底したロビー活動を行っており、主な政治家はほとんどが親イスラエル的である。親イスラエルでないと、選挙で当選できないと言っても過言ではない。
 カーター大統領の時期には、アメリカはイスラエルとエジプトの和平に努力した。しかし、イスラエルには、和平を目指す勢力と、徹底的な対決を志望する勢力がある。イスラエルのシオニストは、アメリカにおいて、同調者・支持者を増やし、アメリカの民衆をイスラエル支持・シオニスト擁護に誘導していったものと思う。とりわけ1989年(平成元年)米ソの冷戦が終結したことで、シオニストの対米活動が活発になったと見られる。91年(3年)、ブッシュ父政権の時代に、ソ連が崩壊し、アメリカが唯一の超大国になった。この国際構造の変化に対応して、シオニスト=ロスチャイルド家は、地球覇権国家アメリカをイスラエル寄りにし、アメリカの軍事力で自国と利益を守る仕組みを構築しようと図ったのだろう。

 冷戦の終結後、アメリカは世界で唯一の超大国となった。このとき、アメリカの世界的な覇権を確立するために、その圧倒的な軍事力を積極的に使用すべきだという戦略理論が登場した。それが、ネオコンである。ネオコンはネオ・コンサーバティズム(新保守主義)の略称である。
 ネオコンの源流は、1930年代に反スターリン主義の左翼として活動したトロツキストである。彼らは「ニューヨーク知識人」と呼ばれるユダヤ人の集団だった。そのうちの一部が、第二次世界大戦後、民主党に入党し、最左派グループとなった。彼らは、レーガン大統領がソ連に対抗して軍拡を進め、共産主義を力で克服しようとしたことに共感し、共和党に移った。反スターリン主義が反共産主義へと徹底されたわけである。彼らは、もともと共和党を支持していた伝統的な保守とは違うので、ネオコンという。ネオコンには、ユダヤ人の政治家・理論家が多く存在する。
 アメリカの伝統的な保守は、自分の郷土を中心にものを考え、アメリカ一国で自立することを志向する。外交においては、現実主義的な手法を重視し、国益のためには独裁国家とも同盟を結ぶ。これに対し、ネオコンは、自由とデモクラシーを人類普遍の価値であるとし、その啓蒙と拡大に努める。近代西洋的な価値観を、西洋文明以外の文明に、実力を用いてでも押し付けようとする。その点では、戦闘的な自由民主主義とも言えるが、そこにユダヤ=キリスト教の世界観が結びつき、イスラエルを擁護するところに、顕著な特徴がある。
 ネオコンは、ブッシュ子政権において、政権の中枢に多く参入した。9・11のいわゆる同時多発テロ事件がなければ、ネオコンの理論は、米国で主流に躍り出ることはなかったかもしれない。9・11は、アメリカ国民に、テロの恐怖を引き起こし、報復への怒りを沸き立たせた。そして、ネオコンの理論を、アメリカが取るべき方針だと国民に思わせるものとなった。
 アフガニスタン戦争及びイラク戦争の開始後、ネオコンのグループによって9・11より前に戦争が計画されていたことが明らかになった。その計画を実行するために起こされた事件が、9・11の同時多発テロ事件と考えられるのである。

 ユダヤ人が多く参加するネオコン・グループは、ブッシュ子政権に重大な影響を与えた。当時ユダヤ人のネオコンは、イスラエルの極右政党リクードの党首アリエル・シャロンの政策を支持し、シャロンと密接な関係を持っていた。シャロンは戦闘的なシオニストであり、パレスチナ難民の殺戮を容認し、「ベイルートの虐殺者」と呼ばれる人物である。シャロンは、2001年(平成13年)にイスラエルの首相となった。ここにアメリカ・ブッシュ子政権のネオコン・シオニストとイスラエルの強硬派政府との連携が出来上がった。ネオコン・シオニストは、アメリカの外交政策をシャロン政権を援護するよう働きかけ、超大国アメリカの軍事力で、イスラエルの安全保障を強化しようとした。アメリカを親イスラエル、シオニストの国家に変貌させようと図ったのである。ブッシュ子政権のネオコン・シオニストは、イスラエルを支持し、アラブ諸国を軍事力で押さえ込み、石油・資源を掌中にし、自由とデモクラシーを移植する戦略を推進した。
 今日、イスラエルが核兵器を保有していることは半公然の事実である。イスラエルは、約200発の核兵器を持つと見られており、中東諸国の中では、圧倒的な軍事力を誇っている。アメリカは、イスラエルの核保有を追認しており、イスラエルに対しては、制裁を行なおうとはしない。その一方、イランやイラクの核開発は、認めない。明らかにダブル・スタンダードを用いている。イスラエルが自由とデモクラシーの国であり、アメリカと価値観を共有しているというのが、その理由だろうが、核の問題は別である。アラブ諸国の核開発は認めないが、イスラエルの保有は擁護するというのでは、イスラーム教徒が受け入れないのは、当然である。こうしたアメリカの姿勢が、中東を始め、世界各地でイスラエルへの批判勢力の反発を買っている。

 

世界を揺るがしたリーマン・ショック


 米国のブッシュ子政権は、9・11の同時多発テロ事件をきっかけに、アフガニスタンやイラクに軍事介入し、莫大な戦費を支出した。産業構造の転換で製造業が縮小し、国内の生産力が低下したアメリカでは、戦争経済はもはや経済の再興につながらなかった。米国経済は、1990年代からのITバブルが2000年代に崩壊し、景気が後退した。ブッシュ子政権は、クリントン政権とは異なり、再びレーガン政権を受け継ぐ新自由主義の経済理念を取った。税制をレーガン型に戻し、法人税減税と高額所得者への減税を実行した。だが、その経済政策は、失敗に終わった。クリントン時代に蓄積した財政黒字は一挙に赤字に転じた。貧富の差が拡大し、税収が減少した。米国は、再び双子の赤字を抱えるようになった。
 こうした問題に対処するため、アメリカはウォール街の株式市場に海外から資金を集める必要を高め、様々な金融派生商品で資金を呼び込んだ。自己資金の何倍もの資金を借りて株式を買うレベリッジという手法により、巨額の取引が行われた。石油、穀物など、あらゆるものが、投機の対象となった。その活動は、強欲資本主義と呼ぶにふさわしい。ここで猛烈な活動をしたのが、ゴールドマン・サックスに代表される投資銀行や、ジョージ・ソロスらによるヘッジファンドだった。
 特に大きな問題となったのが、サブプライム・ローンである。アメリカ国民は、ものづくりを軽視し、金融による利益取得に走り、ドルの力に基づく過剰消費癖から抜けられなくなっていた。低所得層までが過剰消費に走り、収入に見合わない住宅を所有しようとする。そうした信用能力の低い階層を対象とした住宅ローンが、サブプライム・ローンである。ウォール街は、低所得者向けの住宅ローンを証券化し、これを安全性の高い商品であるかのように仕立てて、世界中で売りさばいた。破綻は時間の問題だった。
 2007年(平成19年)、サブプライム・ローンが焦げ付いた。これをきっかけに世界的な金融危機が始まった。翌2008年(20年)9月15日、投資銀行のひとつリーマン・ブラザーズが倒産した。世界経済は約80年前に起きた大恐慌以来の危機に陥った。これがリーマン・ショックである。
 1929年の大恐慌は、投機的な投資が一つの原因となって発生した。1920年代の資本主義は、ものの生産より金融が中心となり、金融市場が賭博場のようになっていた。アメリカでは大恐慌後、議会上院に銀行通貨委員会が設置された。この通称「ペコラ委員会」は、金融危機の原因と背景を解明するとともに、再発防止のための金融制度改革に取り組んだ。ペコラ委員会は、1929年の株価大暴落前後のウォール街の不正行為を暴き、銀行家が証券子会社を通じた銀行業務と一体的な業務展開をすることによって、巨額の利益を得ていたことなどの実態を明らかにした。その調査結果に基づき、1933年に銀行業務と証券業務の分離を定めたグラス・スティーガル法(銀行法)と証券法が成立した。また、翌34年には証券取引所法が成立し、ウォール街の活動を監視する証券取引委員会(SEC)が設立された。
 大恐慌後に設けられた規制は、1970年代までは、巨大国際金融資本の活動を抑えるのに有効だった。また、ケインズの理論・政策・思想を継承したケインズ主義が世界的に普及したことにより、マネー・ゲームに対する一定の制御がかけられていた。しかし、アメリカでは1980年代、レーガン政権の時代から徐々に規制が緩和された。そして、クリントン政権の1999年にグラム・ビーチ・ブライリー法が成立した。同法によって、銀行・証券・保険の分離が廃止された。その結果、金融機関は、持ち株会社を創ることで、金融に関するあらゆる業務を一つの母体で運営することが可能になった。これを理論的に推進したのが、新古典派経済学だった。
 「自由」の名の下、アメリカの金融制度は大恐慌以前に戻ってしまった。ウォール街は、さまざまな金融派生商品(デリバティブ)を開発し、サブプライム・ローン、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)等を生み出し、世界中を狂乱のマネー・ゲームに巻き込んだ。そして、リーマン・ショックによって、猛威を振るったカジノ資本主義は破綻した。
 FRBのグリーンスパン議長は、リーマン・ショックを「100年に1度の大津波」と呼んだ。1929年世界恐慌に匹敵するかそれ以上の経済危機という意味だろう。だが、この大津波は100年のスパンではとらえられない。少なくとも過去500年を視野に入れて見るべき現象である、と私は考える。リーマン・ショックは、数百年規模で起こりつつある世界的な変化の一貫である。近代西洋文明が生み出した現代の世界システムは、根本的に転換されるべき段階に入っている。しかし、世界はまだ新たな指導原理を見出していない。
 リーマン・ショック後、米国では投機的な金融機関に対する一定の規制が行われた。しかし、その規制は小規模なものにとどまっている。強欲資本主義は、一時的なダウンから立ち上がり、その勢いを取り戻しつつある。

 

(2)ヨーロッパの統合とユーロの危機

 

●ヨーロッパ統合への動き

 リーマン・ショックは、発信源の米国よりもヨーロッパに深刻な影響をもたらした。ヨーロッパは、第2次世界大戦後、統合に向けた歩みを続け、ヨーロッパ連合(EU)を結成し、また単一通貨ユーロを多くの国が採用するなど、国民国家の枠組みを超えた超国家的(トランスナショナル)な広域組織を目指す試みがされている。だが、リーマン・ショックは、ヨーロッパの抱える問題点を浮かび上がらせた。
 ヨーロッパ連合は、20世紀初頭に現れたヨーロッパの統合を通じた世界連邦の創設という構想に発したものだった。第1次世界大戦の悲劇は、平和への願いを切実なものとした。啓蒙の世紀にカントが永久平和の理想を説いたが、近代ヨーロッパの歴史は、戦争と侵攻、支配の繰り返しだった。第1次大戦を経て、ヨーロッパの平和はヨーロッパの統合によるのみという思想が、さまざまな運動となって現れた。代表的なものは、オーストリア・ハプスブルグ家のクーデンホーフ=カレルギー伯爵によるものである。
 だが、欧州統合運動は、ナチスの台頭によって破綻した。ドイツへの戦勝国の徹底的な報復政策は、ドイツ国民の復讐に駆り勝てた。国際連盟は、ドイツをはじめ主要国が次々と脱退した。第1次大戦が終結してわずか20年ほどしかたたずに、ヨーロッパは再び大戦に突入した。
 第2次大戦の最中から、国際連盟に替わる新たな国際機関の設立が進められた。軍事同盟である連合国を恒常的な国際機関に発展させる動きがそれであり、1944年(昭和19年)10月に「国際連合=連合国」が発足した。欧州統合運動は、これと連動するものとなる。
 欧州における大戦はファシズム国家の敗北によって終結したが、大戦によって、西欧諸国は疲弊していた。その一方、ソ連が強大化し、西欧はソ連・東欧の共産圏と陸続きで接することになり、各国の連帯が求められた。アメリカは、西欧の共産化を防ぐため、マーシャル・プランと呼ばれるヨーロッパの経済的復興援助計画を、1948年から51年(昭和23〜26年)にかけて実行した。これにより、西欧の復興はなった。
 また49年(24年)4月、アメリカ、カナダとヨーロッパ10カ国が北太平洋条約機構(NATO)を結成し、地域集団防衛体制が取られた。翌年ソ連はこれに対抗して、東欧7カ国との間でワルシャワ条約機構を創設した。ヨーロッパは軍事的に完全に二大陣営に分裂した。東西対立は決定的になった。
 こうした展開のなかで、フランスの実業家にして政治家でもあるジャン・モネが、ヨーロッパ統合論を唱えた。米ソ冷戦下で、欧米諸国の連携とアメリカとの結合の強化が求められた。西洋文明の二大地域である西欧と北米が共同で共産主義に対抗する体制の構築である。その課題への取り組みとして、欧州統合運動が具体化された。1950年(昭和35年)5月、フランスのロベール・シューマン外相が、モネの原案をもとに、ドイツとフランスの石炭及び鉄鋼の全生産を共通の管理下におき、他のヨーロッパ諸国の参加も認めるというシューマン・プランを提唱した。
 ドイツは敗戦後、東西に分断され、西ドイツは、ベルリンの壁で、ソ連圏と接していた。共産軍の侵攻を食い止めつつ、ドイツ統一を図ることは、民族の悲願だった。一方、フランスもまた独自の核兵器の開発に成功したとはいえ、ドイツと再び戦うことのないようにしながら、ソ連に対抗しなければならない。そこに独仏の利益が一致した。独仏の連合を中軸として、ヨーロッパの統合が進められた。
 シューマン・プランに基づき、西欧諸国は、1951年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)を設立した。これが、ヨーロッパ統合への第一歩となった。ECSCは、その後、欧州原子力共同体(ユートラム)、欧州経済共同体(EEC)へと発展し、1993年(平成5年)に今日の欧州連合(EU)に至った。ヨーロッパは、部分的な共同組織づくりから始め、それを経済・政治・通貨等の分野に広げ、統合を段階的に進めている。

●単一通貨ユーロと超国家的広域組織の試み

 ヨーロッパ連合の設立の基本方針は、冷戦終結後の1992年(平成4年)に締結されたマースリヒト条約で定められた。マーストリヒト条約は、通貨統合や共通外交など、加盟国に国家主権の一部移譲を求めるものだった。これに対し、一部では激しい反対が起きた。フランスの家族人類学者・人口学者・歴史学者のエマヌエル・トッドは、条約に強く反対した有識者の一人である。トッドはヨーロッパ統合に反対する理由を五つ挙げた。各国の社会構造・精神構造の違い、言語の多様性、国家・国民(ナシオン)の自律性、人口動態の差異、移民に対する態度の相違である。
 トッドは、単一通貨ユーロの創設に対しても反対した。トッドによると、ヨーロッパの近代化は、農村共同体やギルド等、国家と個人の間の中間的共同体を解体しながら進展した。都市化・工業化がそれである。共同体が崩壊すると、それまで共同体によって守られてきた個人は、バラバラの個人になる。単一通貨は、残存していた中間的共同体の意識を崩壊させ、とりわけ国民共同体の意識を崩壊させる。その結果、帰属意識を失った個人を無力感に陥れる、とトッドは指摘した。
 こうした懸念のある中で、1999年(平成11年)米ドルの一極支配に対抗する単一通貨ユーロは誕生した。ユーロが作られる前、ヨーロッパの各国は通貨の発行権を持ち、各国の中央銀行が自国の通貨の発行量や金利の調整を行っていた。ところが、ユーロを採用した国では、実質的に、自国の意思だけでは通貨政策・金利政策を決定できなくなった。
 ユーロ採用国は、財政政策を自国の判断で行う権限を持ってはいる。国債発行、政府支出拡大等を行うことができる。ただし、毎年の財政赤字をGDPの3%以下に抑え、公的財務残高をGDPの60%以下に抑えなければならない。その枠内で財政政策を行うとしても、財政政策は本来、金融政策と連動しなければならない。ところが、各国は金融政策については権限を持たない。ドイツ・フランクフルトに本拠を置くECB(欧州中央銀行)に金融政策を委ねている。フランクフルトは、ロスチャイルド財閥発祥の地である。
 単一通貨創出の背後には、西洋文明に巣くったユダヤの拝金主義があると私は考えている。現代の世界では、ロスチャイルド家を中心とするユダヤ系国際金融資本家と、ユダヤ的価値観を共にするロックフェラー家を中心とする非ユダヤ系支配層が協力して、世界の変造を進めている。目的は、国民国家の枠組みを壊して広域市場を作り出し、最大限の経済的利益を追求することである。このグローバリズムによる世界変造の重要課題が、世界政府の創設である。
 EUは、2004年に、民主化が進んだ東欧諸国など10カ国が新たに加盟し、25カ国が加盟する拡大EUとなった。東欧諸国のEU加盟は、冷戦終結で分断の歴史に終止符を打った東西ヨーロッパが、統合という新たな段階に入ったことを示す出来事となった。EUの東方拡大で、域内人口4億5000万人、国内総生産10兆ドルを超える巨大経済圏が誕生した。人口や経済規模でアメリカに匹敵する巨大な単一市場の出現である。域内では多くの国がユーロを採用しているが、イギリスのように独自の通貨を維持している国もある。
 2005年(平成17年)の5〜6月に、欧州憲法条約に関する投票が行なわれた。欧州憲法条約は、それまでのローマ条約、マーストリヒト条約、ニース条約などの条約を集約し、複雑な法体系を整備しようとするものだった。しかし、フランスとオランダでは、国民の多数が条約の批准に反対した。フランスはドイツとともにEUの中核をなす国であり、オランダは自由主義的な伝統と宗教的寛容で知られる。そうした国々で、多数の国民が条約に反対票を投じた。ここに統合問題の複雑さが垣間見られる。
 欧州憲法条約は、EUの全加盟国(当時25か国)が批准しなければ発効しない。特に独仏連合の片割れであるフランスで否決されたことは、条約案の見直しを迫るものとなった。協議を重ねて条約案に修正が加えられた。文面から「憲法」という表現を削り、単なる「改革条約」という呼称に変えた。これが通称リスボン条約である。
 リスボン条約は、理念的なヨーロッパ統合の将来像を掲げることを回避したところに特徴がある。内容は、次のようなものである。

(1)EU大統領というべき欧州理事会の常任議長を創設。
(2)欧州委員会の副委員長を兼任するEU外交・安全保障上級代表を新設。
(3)外交・安全保障、税制、社会保障政策などの分野の案件は全会一致とし、各国に拒否権を認める。
(4)少数派を尊重し、一定数以上の国が反対する場合は議論の継続を可能とする。
(5)人権保障規定などを定めた「欧州基本権憲章」の順守義務を定めるが、各国法の優位性を認める。
(6)旗、歌などEUの象徴に言及しない。

等である。総じてリスボン条約は、統一より連合という緩やかな組織体を目指すものとなっている。
 ヨーロッパ連合の全加盟国で批准がされるには時間がかかり、リスボン条約は予定より1年近く遅れて、2009年(平成21年)12月1日に発効した。この各加盟国での批准の過程で、世界を揺るがすリーマン・ショックが起こった。

関連掲示
・拙稿「トッドの移民論と日本の移民問題
・拙稿「ユーロとEUの危機

●顕在化する経済的困難と深刻化する移民問題


 多数の国がユーロを採用しているヨーロッパ諸国を襲ったのが、2008年(平成20年)のリーマン・ショックである。この世界経済危機は、震源地のアメリカ以上にヨーロッパ諸国に大きな打撃を与えた。アメリカのサブプライム・ローンやCDS等を多量に買って保有する銀行・金融機関が多かったからである。ユーロ採用国は世界経済危機による深刻な状態から抜け出ようとしているが、自国の判断で金融政策を行えないため、有効な景気対策を打てないでいる。
 なによりEU最大の工業力と経済力を持つドイツが、このジレンマに陥っている。今日のドイツ経済は、典型的な外需依存型経済である。そのため、経済危機による世界的な不況、需要の収縮によって、ドイツは大きな打撃を受けた。だが、ドイツは自国の通貨政策・金利政策で対処することができない。EU及びユーロ圏の国々と運命をともにするしかない。これは、ネイションに裏付けられた独自の通貨をやめたことによる大きな弊害である。ドイツの工業力・経済力が低下するならば、EUも全体として沈降することを免れない。
 ユーロ採用国には、経済力の格差が大きい。多額の債務を抱えている国々に、ポルトガル、アイルランド、ギリシャ、スペインがあり、PIGSと呼ばれる。イタリアを加えてPIIGSと呼ぶこともある。2010年(平成22年)初め、ギリシャが膨大な政府債務を隠していたことが露見し、欧州債務危機が先鋭化した。他のPIIGS諸国でも債務危機が広がり、自力では財政再建が不可能に近い状態である。これらの国の国債は、外国政府や外国投資家が多く保有している。ドイツ、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ等の経済的優位国が劣位国をどこまで支えてゆけるのか、疑問視するエコノミストは多い。PIIGSでは失業率が高く、特にスペインは22%を超えており、特に若年層は40%にも上っている。劣位国が脱退するか、逆に優位国が脱退するか、ユーロ圏は曲がり角に来ている。
 EUには、トルコの加盟問題という別の課題もある。トルコは、歴史的にヨーロッパ文明ではなく、イスラーム文明の一角をなす。EUの枠組みを非ヨーロッパ文明の国にまで広げるかどうかは、重要な検討点である。トルコからヨーロッパには、多数の移民が流入している。この移民問題こそ、長期的な観点で見ると、ヨーロッパの最重要問題となっている。第2次世界大戦後、西欧諸国は、北アフリカやアジアの異なる文明圏から、安価な労働力として、多数の移民を受け入れてきた。ドイツのトルコ人、フランスのマグレブ人、イギリスのパキスタン人やインド人シーク教徒等がそれである。宗教・言語・文化・習慣等の異なる移民が増加し、社会的な摩擦が強まり、社会不安が増大している。移住した国で不満を持つ移民によるテロが日常化している。
 2010年(平成22年)10月、ドイツのアンゲラ・メルケル首相は、自国の移民政策について「多文化主義は失敗した」と述べて、論議を呼んだ。イギリスのキャメロン首相も、2011年(平成23年)2月、ドイツで行った講演の中で、「イギリスでの多文化主義は失敗した」と述べた。とりわけオランダの状態は深刻である。ドイツ、フランス、イギリスにおける移民の人口比は7〜9%だが、2010年現在でオランダは10%を大きく超え、20%に近くなっている。オランダは、EUの加盟国以外の外国人にも、地方参政権を与えている唯一の国である。オランダは、この地方参政権付与によって、大失敗した。イスラーム系移民は、オランダ人とは融和せず、都市部に集中して群れを成して居住する。アムステルダムなどの都市部では、彼らが形成するゲットーにオランダ人が足を入れようとすると、イスラーム系住民は敵意を燃やして攻撃する。そういう険悪な状態に、オランダ人も危険を感じるようになった。とくに新たに流入したイスラーム系移民たちの暴力、犯罪や組織犯罪が目立ってくると、関係は悪化した。国内に別の国家が作られたような状態となってしまった。
 2009年(平成21年)8月、英紙『デイリー・テレグラフ』は、EU内のイスラーム人口が2050年までに現在の4倍にまで拡大するという調査結果を伝えた。それによると、EU27カ国の人口全体に占めるイスラーム系住民は前年には約5%だったが、現在の移民増加と出産率低下が持続する場合、2050年ごろにはイスラーム人口がEU人口全体の5分の1に相当する20%まで増える。イギリス、スペイン、オランダの3ヵ国では、「イスラーム化」が顕著で、近いうちにイスラーム人口が過半数を超えてしまうという。文明学的に見れば、この変化は、ヨーロッパ文明がユーロ=イスラーム文明に変貌するものとなる可能性を秘めている。
 国境を越えた人間の交流・融合という理想の追求が、現実には深刻な社会問題、政治問題を生み出している。ヨーロッパの各国では、移民への規制、自国文化の尊重を求めたり、さらにはEUやユーロに反対したりする政党が勢力を伸ばしている。フランスの国民戦線(FN)やスウェーデンの民主党等が知られ、欧州議会にも議席を獲得している。こうした政党が伸長すれば、EUやユーロは根底から揺らぐ可能性がある。

関連掲示
・拙稿「欧州債務危機とフランスの動向

(3)ソ連の後継国ロシアの復興

 

●プーチンのもとでロシアが復興している


 ヨーロッパの東方に位置するロシアでは、1991年(平成3年)のソ連崩壊とともにロシア連邦が成立し、エリツィンが初代大統領に就任した。ロシア連邦は、ソ連が持っていた国連安保理の常任理事国等の国際的な権利や国際法上の関係を継承し、事実上ソ連の後継国家となった。
 エリツィンは、市場経済の導入を進めた。だが、急激な移行によってロシア経済は混乱し、長期的な低迷に陥った。闇経済でマフィアが暗躍するなか、「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥が台頭し、政治的にも大きな影響力を持つようになった。
 1994年から96年(平成6〜8年)にかけて、ロシアからの独立を目指すチェチェン独立派武装勢力と、それを阻止しようとするロシア軍との間で第1次チェチェン紛争が発生した。一般市民を巻き込んで10万人以上が犠牲になった。
 エリツィンは1999年(平成11年)12月に大統領を辞任し、ウラジミール・プーチンを後継者に指名した。プーチンは2000年の選挙で、大統領に就任した。KGB出身であり、ゴルバチョフ、エリツィンとは違い、民主化ではなく、「強いロシア」の復活を企図している。
 プーチンは、国内の安定と政府権力の強化を目指し、中央集権化を進め、垂直統治機構と呼ばれる統治体制を確立した。財政再建のため、ロシア経済を半ば私物化していたオリガルヒの解体を進めた。石油・ガス会社ガスプロムを国有化するなど、親欧米・反政府的な新興財閥をほぼ一掃した。権力に恭順したオリガルヒに納税させ、財政の再建を進めた。対外債務に苦しんでいたロシアは、主力輸出商品である石油・天然ガスの価格急騰に助けられ、一転して巨額の外貨準備国となった。
 プーチンは、経済回復に伴い、崩壊寸前だったロシア軍を再建した。政権発足前の1998年(平成10年)8月に発生した第2次チェチェン紛争に対しては、テロへの報復として軍事作戦を展開し、容赦なく武力で制圧した。反政府的な報道機関に露骨に圧力をかけ、報道管制を行った。プーチン政権を批判するジャーナリスト等が次々と不審な死を遂げており、ロシア政府による暗殺と見られる。対外的には、中国との関係を強化し、また中央アジア各国とはエネルギー開発の面での協力を拡大した。
 プーチンは2004年(平成16年)に大統領に再選されると、地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改め、より一層の中央集権化を進め、大統領権限を強化した。ロシア政府は2005年にIMFからの債務を完済するなど、国際的な信用を取り戻した。
 旧ソ連圏第2の大国であるウクライナでは、2004年(平成16年)大統領選挙の混乱から民主化を求めるオレンジ革命が起こった。ヴィークトル・ユシシェンコが翌年、大統領に就任し、親欧米的な政策を進めた。プーチンは、天然ガスの料金を国際的な市場価格に合わせて従来の優遇価格より倍以上に引き上げるとして、ガス供給停止措置を採って圧力をかけた。ロシアにエネルギー供給を多く依存しているドイツ、フランス等に対しても、威圧を与えた。
 プーチンは2008年(平成20年)5月まで大統領を務め、後任のドミトリー・メドヴェージェフの指名により首相に就任した。憲法上、大統領の任期が2期8年と定められていたので、このような措置をとったもので、巧妙に実権を維持している。
 ソ連崩壊後の弱体ぶりから比べると、ロシアは相当の回復を遂げている。アメリカやNATOが東ヨーロッパ諸国の民主化を後押しし、ミサイル防衛基地の展開を進めているのに対し、プーチンは周辺諸国の親欧米化やEUへの加盟を防ぎ、逆に旧ソ連圏の国家連合の拡大を図っている。ロシアは、依然として米国に次ぐ世界第2の核大国でもある。
 ロシアは、ハンチントンの分類によれば、東方正教文明の中核国家であり、旧ソ連の主要部を引き継いだ地域大国である。世界第2の産油国でもある。中国だけでなく、欧州諸国もその石油を求めている。これに対し、ロシアは、自国産の石油をルーブルで売る政策を進めている。ドルの基軸通貨体制を破り、ドルの力をそぐことでアメリカの支配を弱めようと狙っているのだろう。ロシアはアメリカの一極支配体制を突き崩すために、中国との連携を強めている。ロシアは中国に武器や石油を売る。中国はイランに武器を売り、軍事技術を提供するという形で、中国・ロシア・イラン等による反米連合が生れつつある。中国・ロシア・中央アジア4国に加えて、イラン・インド・パキスタン等を準加盟国とする上海協力機構は、今後の展開が注目される。また、ロシアは、他の新興国とともに、BRICSと呼ばれるグループを作り、国際経済の上でも、影響力を強めつつある。
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11章 多極化する世界

 

(1)グローバル化の進展とナショナリズムの興隆

 

●北米とアジア及び環太平洋における地域経済圏の創設

 世界は冷戦終結直後のアメリカ一極支配の体制から、多極化の方向へ変化しつつある。多極化は、超大国に対し、複数の有力な地域大国が競合する状態である。またグローバリゼイション(地球単一化)が進む一方で、地域の経済圏を形成するリージョナリゼイション(地域統合化)が同時に進んでいる。その上、これらに対抗するナショナリズム(国家主義・国民主義・民族主義)が興隆し、またエスニック・グループの活動も活発になっている。
 リージョナリゼイション(地域統合化)については、ヨーロッパでは、EU及びユーロによる政治的・経済的な統合が進められていることを先に書いた。この動きに対し、1980年代後半から、他の地域でも地域経済圏の形成が活発化している。
 北アメリカでは、1980年代以降、広域経済圏を創設する動きが強まった。1985年(昭和60年)のアメリカ、カナダの米加自由貿易協定の合意に基づいて、94年に北米自由貿易地域(NAFTA)が発足した。その結果、アメリカ、カナダ、メキシコの3国で、人口3億6000万人、国民総生産6兆500万ドルの広域経済圏が成立した。NAFTAは、共同市場よりもゆるやかな結合を目指し、域内の関税、非関税障壁、サービス貿易その他の規制は撤廃された。域外諸国に対しては、各国の関税が維持されている。中南米を含む米州自由貿易圏に拡大させる構想がある。
 アジアでは、1989年(平成元年)に、日本、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、ASEAN諸国、合わせて12か国が加盟するアジア太平洋経済協力会議(APEC)が発足した。91年には中国、台湾、香港も加盟した。APECは開かれた地域協力を掲げて、人材の養成、投資促進での協力を進めており、将来の域内自由貿易の実現を目指す取り組みも行っている。
 東アジアでは、1997年(平成9年)のアジア通貨危機を通じて、地域協力の必要性を痛感し、ASEANと日・中・韓による首脳会議が開催されるようになった。「世界の工場」と呼ばれる中国が、富裕層の拡大とともに巨大市場としても期待されるようになり、中国への投資が拡大した。中国はASEANとの自由貿易協定(FTA)締結を模索するなど、東南アジアへの影響力を強めている。
 2005年(平成17年)12月に開催された東アジアサミットでは、ASEANと日中韓に加え、インドも参加した。インドは、10億人の人口と自由化政策を背景に、IT分野を中心に経済成長を遂げている。21世紀前半に経済力で中国を抜くという予想もある。インドを含むアジア太平洋地域は、21世紀の世界で最も重要な地域になっている。世界人口の半分近くが集中しており、生産力、消費力、発展可能性等から見て、世界で最も大きな成長力を秘めた地域である。アジア太平洋地域の動向は、世界の将来を左右する。
 アジア太平洋地域では、米国が自由貿易体制を大幅に広げようとしている。その手段となっているのが、環太平洋経済連携協定(TPP)である。TPPは2006年(平成19年)に誕生したブルネイ、チリ、ニュージーランド、シンガポールなど、経済規模が比較的小さい国の地域協定だった。ところが、2008年のリーマン・ショック後、米国は突如、この地域協定への参加に熱心になった。翌年、米国通商代表部から議会に提出された文書は、自国の「輸出増加、雇用増大」が目的だと述べている。そして、2009年に参加を表明するや、交渉の主導権を握った。
 わが国では、TPPに関する情報が少なく、当初米国の意図をよく理解していなかった。だが、TPPの対象は、農業だけでなく、金融・投資・保険・労働・医療・健保・通信・法務等、24の分野に及ぶ。それらの分野で、米国が日本に関税自主権の放棄と自主規制の撤廃を迫るものとなっている。日本と米国以外の参加国は経済規模が小さく、日米でGDPの総額の9割以上にもなる。TPPで米国が日本を主たる対象国としていることは明らかである。わが国のTPP賛成論者は、TPP参加でアジアの成長力を取り込めるというが、中国もインドも参加しない。それでどうやって、アジアの成長力を取り込めるのか等、問題点は多い。わが国は、TPP交渉に12か国目の参加者として加わり、米国との交渉を続けている。マスメディアは、農業など一部分野における利益団体の反対を取り上げることが多く、TPPの全体像を伝えていない。TPPの外交交渉は内容が公開されていないため、米国の連邦議会では反対意見が少なくない。私の見るところ、巨大国際金融資本が米国政府を利用して、各国の国民に詳細を知らせずに、自分たちに都合の良い仕組みをつくろうとしているのが、TPPだろう。アジア太平洋地域におけるグローバリズムの展開と思われる。
 TPPの基本には、自由貿易体制が世界経済を成長させるという考え方がある。だが、グローバリズムによる自由貿易の推進は、実際には先進国の経済成長率を低下させている。実質賃金が低下し、平価購買力が減少して、需要不足・供給過剰の傾向となっているからである。さらにグローバリズムは各国の国民経済や公共文化を棄損し、国民の連帯感や同胞意識を希薄にしており、デモクラシーを形骸化させる恐れがある。経済中心・個人本位の国際的な制度改革は、巨大国際金融資本とそれによる多国籍企業には繁栄をもたらすかもしれないが、家族や社会の絆を弱め、多くの国家に荒廃をもたらすだろう。

 

●注目されるBRICSの台頭

 各地域の経済圏が競合する形で、世界経済は新たな成長を続けている。そうした中で、BRICSと呼ばれる新興国の動向が、今後の世界経済に重要な影響を与えるだろうと注目を集めている。ブラジル、ロシア、インド、中国の4カ国をBRICsと呼んだのは、投資銀行のゴールドマン・サックスだった。2011年(平成23年)からは南アフリカを加えて、Sを大文字とし、BRICSと表現するようになった。これら新興5か国には、世界有数の人口を持つことや、国土の広さ、経済成長率の高さ等が共通している。総人口は世界の46%、国内総生産(GDP)の合計は世界の約2割とされる。
 BRICSのうち、中国とインドについては、それぞれ先に書いたが、ブラジルは、南米共同市場(メルコスール)の盟主的存在であり、中国との貿易を拡大している。鉄鉱石を初め鉱物資源を豊富に有している。ロシアは、旧ソ連圏の大国ゆえ、新興経済大国と呼ぶにはふさわしくない点があるが、プーチンのもと、豊富な石油・天然資源を西欧や周辺諸国に輸出し、その利益をもとに経済成長を図っている。南アフリカは豊富な鉱物資源を誇り、特に金は世界の産出量の半分を占める。アパルトヘイトを止めて民主化を進めてから、アフリカ最大の経済大国として経済発展を続けている。
 BRICSは当初投資銀行が投資目的で名づけたものに過ぎなかったが、対象の国々がグループを形成し、首脳会議を行い、独自の活動をするようになった。ユーラシア大陸、南米大陸、アフリカ大陸に分かれており、地理的には5か国に共通する利益はない。だが、新興国としての地位を意識し、アメリカの一極支配に挑戦する構えを見せている。特に、国際決済の手段となっているドルに対し、人民元、ルーブルなどの決済力を強め、ドルの基軸通貨としての地位を奪おうとする動きが注目される。
 21世紀の世界経済においては、従来の先進国が相対的に勢力を弱め、BRICSをはじめ、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの諸国が勢力を伸ばしている。それに伴い、新興国が国際的な発言力を増しており、先進国によるG8に対し、新興国11か国を含むG20が、世界的な経済政策の調整の場として重要性を増してきている。そうした中で、中国とロシアは、それぞれの思惑を持って、BRICSやG20を自国中心に多極化を進める場として利用している。
 多極化の極となる国の多くは、各文明の中核国家でもあり、多極化は同時に多文明化でもある。文明はその中で諸国家・諸民族が興亡する広域的な社会だが、固定したものではなく、範囲が広がったり狭まったり、文化的な要素が変化したりする。文明には主要文明と周辺文明があり、主要文明が滅んだり、周辺文明が主要文明にのし上がったりする。近現代の世界史では、西洋文明が他の諸文明をすべてその周辺文明に変えるかのごとき勢いを振るったが、非西洋文明が興隆することによって、近代化した主要文明が並立するという新たな多文明化の傾向が現れている。

●ナショナリズム、エスニシズムの興隆

 冷戦の終結後、1990年代から、グローバリゼイションが顕著に進んできている。国境を越えた交通、貿易、通信がますます発達し、人・もの・カネ・情報の動きが活発になっている。これをもってボーダーレスの時代ととらえ、もはや独立主権国家は、人類の進歩・発展の障害となりつつあるという見方がある。
 ボーダーレスは、超大国や巨大多国籍企業にとっては、有利である。相手国の主権を無視して、国益や利潤を追求できるからである。だが、弱小国や一般企業にとっては、不利である。政府主導の経済発展政策や国内産業の保護政策ができなくなるからである。特に発展途上国の多くにとっては、先進国主導の自由化の進展は、国内経済をより困難な状態に陥れるものとなる。実際、グローバリゼイションの進行によって、国際間の格差は拡大している。また世界的に貧困層が増加している。貧困と不平等に対する世界的な改善が求められている。
 冷戦の終結後、近い将来に国民国家は消滅し、国境はなくなるという見方が一時大勢を占めた。だが、実際には、その後、グローバル化の進展の中で、むしろナショナリズムは興隆している。ナショナリズムは、世界各地で、アメリカの一極支配に対して、国家の独立・主権・国益を守るという政治的な運動として現れている。またヨーロッパでは、欧州統合の動きに対し、18世紀から発達したネイション(国家・国民・民族)の独自性を保守しようとする動きとして現れている。アジア・アフリカでは、帝国主義や植民地支配から独立を果たした諸国が、国民を形成し、近代国家を建設する取り組みとしても現れている。また先進国を中心に、経済的・社会的・文化的なグローバル化に抗して、ネイションの役割を再評価し、国民の連帯感や共同意識の回復を求めたり、国民経済の再建や保護主義の必要性を説いたりする理論が支持を広げつつある。
 ナショナリズムはネイションを形成・維持・発展させようという思想であり、文化的単位と政治的単位を一致させようとする運動である。ネイションより下位の集団に、エスニック・グループがある。ネイションが文化的単位と政治的単位がほぼ一致した集団であるのに対し、エスニック・グループは文化的単位の集団であり、いわゆる少数民族や地域言語集団等をいう。エスニック・グループが政治権力の獲得や政治的権利の拡大をめざす運動は、広い意味ではナショナリズムに含まれるが、私はナショナリズムと区別する際にはエスニシズムと呼ぶ。統合の進む欧州においては、これに抵抗するナショナリズムのほかに、バスク、カタルーニャ、スコットランド、ウェールズ、ブルターニュ、シチリア等のエスニシズムもある。これらは1970年代に欧州統合の動きに抗して勃発したもので、欧州の事情を複雑にしている。エスニック・グループが所属国からの分離独立を求める運動も世界各地で活発化している。インドネシアの東チモールの独立運動は紛争となり、国連の多国籍軍によって治安が回復された後、2002年に独立に至った。一方、カナダのフランス語地域であるケベック州では分離独立運動が起こったが、多数原語の英語文化と少数言語のフランス語文化が協調する形で、国民的な統合がなされた。
 先進国を中心に少数者の文化や権利を積極的に認める多文化主義の思想が影響力を強めている。だが、多文化主義を推進すれば、国民がとめどなく差異化され、国民の絆が失われるおそれがあり、ネイションとしての一体性を保ちつつ、そのもとでの少数文化の尊重という共存調和の原理が求められている。

●国際テロリズムの脅威

 第2次大戦後、アジア・アフリカ諸国は、帝国主義や植民地支配から脱し、次々と独立を果たした。しかし、それらの国々には、近隣諸国との間に国境紛争の要因を抱えていたり、国内に多数の民族・宗教が存在している国が多い。
 冷戦時代には、米ソが、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの国々を、自陣営に引き入れ、その国の支配体制を支援するなどして、勢力の維持を図っていた。しかし、冷戦終結後、二大超大国の対立構造によって保たれていた秩序が消滅した。その結果、それまで自由主義と共産主義というイデオロギーの対立のもとに抑えられていた民族問題や宗教問題、天然資源の分配問題等をめぐる紛争が各地で表面化するようになった。1990年代におけるイラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争や、民族独立問題、石油パイプラインの利権等が絡むロシアのチェチェン紛争は、ポスト冷戦時代の典型的な地域紛争と言えるものである。
 さらに、21世紀にはいると、地域紛争の増加に加えて、国際的なテロリズムの脅威が世界中に拡散した。宗教的・民族的・思想的な理由によるテロが各地で破壊や殺害を引き起こしている。ロンドンやマドリード、バリ島、モスクワ等の各地でテロが相次いでいる。1990年代以降、先進国の主導で国際経済の自由化が進められたが、これは発展途上国の一部から途上国をより困難な状況に陥れる政策であるとみられた。とくにイスラーム圏では、こうした先進国主導の国際経済に組み込まれることに強い反発が起こり、純粋にイスラーム的な国家や社会の実現を目指すイスラーム復興運動が民衆の支持を得るようになった。
 2001年9月11日の米国同時多発テロ事件をきっかけに、米国とイスラーム教過激派の対立が激化した。イスラーム教徒が多数を占める国は発展途上国が多く、人口増加率が高い。国際的な格差の拡大と人口増加によって、貧困層の増大が大きな問題となっている。貧困は乳幼児の死亡率の高さ、識字率の低さ、不衛生、環境破壊等をもたらす。イスラーム復興運動の中で一部の過激な勢力は、暴力によって貧困に伴う問題を解決しようと考えるようになった。こうした事情が国際テロリズムの要因の一つとなっている。
 イスラーム復興運動は、世界的な広がりを持つ宗教によるもので、ナショナリズムやエスニシズムよりも広範囲にわたる。近代西洋的な主権国家を超えた広域的なイスラーム教社会の連帯に基づいており、イスラーム文明による西洋文明や東方正教文明への対抗という性格を持っている。現代世界は、グローバリズムが進展する一方、文明、地域機構、ネイション、エスニック・グループ等が重層的に絡み合いながら、闘争と対話を繰り広げていると言えるだろう。

 

(2)アメリカは変わりうるか

 

●オバマ大統領は「Change」を掲げた


 2008年(平成21年)11月、リーマン・ショックの激震の続くなか、米国大統領選挙が行われ、民主党のバラク・オバマが大統領になった。米国で黒人初の大統領だった。15世紀以来白人種の優勢が続く歴史の中で、有色人種からアメリカ合衆国の大統領が出たことは、文明史的にも画期的なことである。
 オバマは「Change(変革)」を訴えて、選挙戦を制した。世界大恐慌以来の経済危機への対処のため、金融に一定の規制をかける改革を進めた。多額の財政支出を伴う景気対策を打ち、経済の立て直しに取り組んだ。FRBのバーナンキ議長は、基軸通貨ドルの強みを生かしてドルを刷りまくって、世界中からドルを還流させて、アメリカ経済の再生を図った。しかし、目立った成果を上げることはできず、失業率は8%近い状態が続いた。景気は低迷し、格差は縮小せず、労働者や貧困層の不満が増大した。また、前政権の時代と合わせて4年連続で1兆ドルを超える深刻な財政赤字が続いた。
 アメリカ経済が目立った好転をなしえなかった原因の一つは、リーマン・ショックの根の深さにある。リ−マン・ショックは、ヨーロッパ諸国にアメリカ以上の大きな打撃を与えた。2010年(平成22年)初め、ギリシャが膨大な政府債務を隠していたことが露見し、欧州債務危機が深刻化した。リーマン・ショックから回復しかけたアメリカ経済は、欧州諸国の債務危機のたびに株価が下落し、消費意欲が低下するなど、足を引っ張られる形となっている。また、中国、インド・ブラジル等の新興国の経済発展も影響している。
 オバマ政権は、歴代の政権に比べると、社会保障政策に積極的だが、リーマン・ショックの影響への対応では、特定企業を救済するなど、労働者や貧困層より、財界を優先する姿勢を取った。その基本姿勢のもとでの若干の格差の是正に留まる。
 そうした中で力を入れているのが、医療保険制度改革である。米国には、わが国のような国民全員参加の公的医療保険制度がなく、高齢者・障害者向けのメディケアと低所得者向けのメディケードがあるのみだった。一般の国民は民間の医療保険に加入するのだが、保険料が高額なため国民の6人に1人が無保険者である。その数は、約5,000万人に上る。そのため、病気になって病院にかかると、医療費が払えず、破産する人が増え、深刻な社会問題となっている。第1期オバマ政権は、医療保険制度改革を内政の最重要課題に位置づけ、2010年(平成22年)年3月、医療保険制度改革法を成立させた。同法による公的医療保険制度は、「オバマケア」と呼ばれる。国民に保険加入を義務付け、保険料の支払いが困難な中・低所得者には補助金を支給し、保険加入率を94%程度まで高めようとするものである。だが、米国には、伝統的に自助努力の思想が強く、こうした政策に税金を使うことに対しては、財産権の侵害だとか社会主義だとかと言って反対する勢力がある。そのため最低限の医療保険の実現を通じての社会統合という方策は、大きな困難にぶつかっている。
 2012年(平成24年)11月の米国大統領選挙は、現職のオバマが、共和党のミット・ロムニーを破って再選された。選挙戦でオバマは、一定の公的ルールに基づく「公正な社会」を主張し、節度を保つ規制によって格差のない、平等な社会を作ろうとあらためて主張した。経済政策では、格差是正のための政府介入を説き、大幅な歳出削減は景気回復後に行うとし、富裕層に増税を課すと訴えた。だが、かつて米国民多数がオバマに寄せた希望は、しぼんでしまっている。
 国家財政は、深刻な状態に陥っている。2011年(平成23年)8月、連邦債務の上限引き上げ法案が成立し、かろうじてデフォルト(国家債務不履行)を回避したものの、2013年初めには、減税打ち切りと歳出の強制的削減による「財政の崖」に直面した。政府・民主党・共和党が合意し、かろうじて破綻を免れたものの、その後も、数か月単位でぎりぎりの段階でデフォルトを回避するというきわどい対応が続いている。米国が世界的な経済の混乱の発信源になりかねないという危うい状態である。

関連掲示
・拙稿「オバマVSロムニー〜2012年米国大統領選挙の行方

●米国の衰退の原因、その背景と根底にあるもの
 
 米国の経済は容易に脱却できない深刻な状態にある。米国の衰退の原因はどこにあるのか。
 米国は、旧ソ連の崩壊後、世界で唯一の超大国となり、ソ連・東欧を市場に組み込み、アジアに積極的に投資することで、帝国の繁栄を謳歌していた。しかし、今や米国は最盛期を過ぎ、衰退に向かっている。私は、衰退の主たる原因の一つに、米国が金融資本への規制を廃止し、強欲資本主義の暴走を許したことがあると考える。規制を廃止させて暴走を招いたのは、新自由主義の経済思想であり、リーマン・ショックは新自由主義が行き着いた結果である。だが、米国の指導層は、未だにこの点に関する根本的な反省と転換を行ってはいない。
 オバマ大統領は「Change(変革)」をスローガンに掲げ、共和党に替わって、民主党による政権を樹立した。しかし、アメリカの二大政党の後には、巨大国際金融資本が存在する。私は、第1期オバマ政権の開始時点で、オバマもまたアメリカの歴代大統領と同様、アメリカ及び西欧の所有者集団の意思に妥協・融和せざるをえないだろうと予想したが、やはりその通りになった。
 次に、私は、米国が金融資本への規制を廃止し、強欲資本主義の暴走を許し、衰退の道を進んだ背景には、米国の政治構造があると考える。米国の連邦政府は、大統領を中心とした行政組織というより、財界を基盤とした行政組織と見たほうがよい。国民が選んだ大統領が自由に組閣するというより、むしろ財界人やその代理人が政府の要所を占める。政治の実権を握っているのは財閥であって、大統領は表向きの「顔」のような存在となっている。国民が選んだ「顔」を掲げてあれば、政府は機能する。だから、誰が大統領になっても、所有者集団は自分たちの利益のために、国家の外交や内政を動かすことができる。このようになっているのが、米国の政治構造である。
 国民は二つの大政党が立てる候補のどちらかを選ぶ。片方が駄目だと思えば、もう片方を選ぶ。そういう二者択一の自由はある。しかし、米国では、大統領が共和党か民主党かということは、決定的な違いとなっていない。表向きの「顔」である大統領が赤であれ青であれ、所有者集団は外交・国防・財務等を自分たちの意思に沿うように動かすことができる。共和党・民主党という政党はあるが、実態は政党の違いを越えた「財閥党」が後ろから政権を維持・管理していると考えられる。
 次に、米国の政治構造の根底には、人種差別の問題がある。ノーベル経済学賞受賞者のジョゼフ・E・スティグリッツは、米国は1%の富裕層と99%の貧困層に分かれてしまったと指摘する。富裕層は、民主的な政治のもとで統治機構を通じてレント・シーキングを行っている。超過利潤の獲得である。「政治家やその応援団は常に1%のための政策を遂行するので、99%の不幸が続く。それが根本的に間違っている」との主張である。その結果、生じている極端な格差の背景には、エマニュエル・トッドがいうところの米国のデモクラシーの「暗い秘密」がある。家族人類学・歴史人口学の権威であるトッドは、米国では白人はインディアンや黒人を差別することによって、白人同士の間には平等の観念が成立した。トッドは、白人の平等と黒人への差別の共存は、「アメリカのデモクラシーの拠って立つ基盤」である、と指摘する。
 建国以来、初めて黒人の大統領が誕生したことは、まだアメリカが有色人種の優位な国になったことを意味しない。アメリカは貧富の差が大きく、社会保障が発達していない。新生児死亡率が高い。国民全体をカバーする医療保険制度がない。その面では、先進国とはいえない。極端な格差の原因には、「白人による人種差別意識がある」と、同じくノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンは告発している。
 新自由主義は、根底に人種差別意識のある米国社会では、市場における自由競争による格差拡大、弱者切り捨てを正当化する理論として働く。しかし、一部の富裕層が保有する富をさらに増大させても、社会全体の活力はそれほど上がるものではない。中間層の所得が増え、購買力が伸長しないと、国内の総生産=総所得=総支出は回復しない。中間層が上昇することで、貧困層も上昇できるような経済社会政策が強力に実行されないと、”1%対99%”に二極分化した帝国は、虚栄と荒廃の中で衰亡していくだろう。
 以上、米国の衰退について3点述べた。主たる原因は金融資本への規制を廃止し、強欲資本主義の暴走を許したこと、その背景にある政治構造、さらに根底にある人種差別意識であると私は考える。

●米国は慢性的経済危機を脱し得るか

 米国では、二大政党の間では、大まかに言って民主党は税収を確保し、社会保障などを充実させる「大きな政府」を志向する。共和党は税も含め規制など政府の国民生活への介入を最小限にする「小さな政府」を志向する。思想的には、共和党は古典的リベラリズム、民主党は思想的には修正リベラリズムがもとになっている。共和党は、1980年代から新自由主義が主流となり、新自由主義的なグローバリズムを推し進めてきた。グローバリズムはもともと民主党の特徴だったが、共和党がお株を奪った形である。民主党は、修正リベラリズムとはいっても、共和党と同じく米国独自の独立・自助の精神が根底にある。わが国や西欧諸国に比べると、米国は個人主義的な傾向が強い。
 デフォルト回避のため、その度に債務上限引き上げ法案をめぐって、米国連邦議会で期限の間際まで議論がされる。民主党の指導部が共和党への歩み寄りを見せると、民主党の左派が指導部に反発する。共和党でも指導部が法案成立に妥協を図ると、草の根保守運動の「ティーパーティー(茶会)」系の議員が反対する。このことが示すものは、民主党・共和党という政党レベルの対立とともに、それぞれの党内でも様々な思想・価値観の対立があることである。米国社会では、多様な思想・価値観がぶつかり合っており、一つにまとまることは非常に難しい。だが、米国の国家財政を維持するには、債務上限の引き上げは絶対条件である。富裕層への増税か、所得控除幅の縮小か、中間層・貧困層の社会保障の削減か、国防費の削減かーーデフォルトを回避するための妥協を積み重ね、対応策をまとめるには、険しい道をたどることになるだろう。
米国が国家債務不履行という最悪の事態に陥ったのでは、世界全体が混迷を極めることになる。世界最大の経済大国としての責任を以て、財政危機を打開してもらわねばならない。

●アメリカ人は生き方を変える必要がある

 米国は莫大な財政赤字・貿易赤字を抱えながらも、基軸通貨ドルの発行量を増加し、国際市場からドルを還流させるなどして、物質的な繁栄を追求してきた。だが、その結果、生み出された財政危機が、従来の経済政策で大きく好転できると思えない。米国は製造業を軽視し、金融主導の経済になっている。カネがカネを生むカジノ型資本主義は、国民経済を破壊し、社会の格差を拡大してきた。米国のGDPに占める家計消費額は71%だが、その消費は世界各国からの借金で欲望を刺激して生み出しているものである。米国民は、貧困層に至るまで贅沢な生活に慣れ、ローン利用の過剰消費癖から抜けられない人が多くなっている。
 一部のエコノミストは、米国は経済危機が深刻化すると、デノミか北米共通通貨・仮称アメロへの切り替えをやって、事実上の借金踏み倒しをするかもしれないと観測している。帝国中核部の支配層とそれに連なる所有者集団は、自分たちの富を守るために、最後の手段としてこういう強引な方法を取るかも知れない。だが、米国には新たな再興の可能性が出てきている。シェールガス革命である。資源利用のイノヴェーションにより、シェールガスの生産が本格化しており、既に世界のエネルギー市場で資源の価格や販路に影響を与えている。国際エネルギー機関(IEA)の報告書によると、米国は天然ガス生産で2015年にロシアを上回り世界最大になり、産油量も2020年代半ばまでにサウディアラビアを抜き世界最大となる見通しである。2035年までに米国は必要なエネルギーのほとんどを自給できるようになるという。
 シェールガス革命は米国を救うことで、世界を救う天の恵みかもしれない。ただし、課題は米国が世界最大のエネルギー供給国になるまでの間、財政危機を克服できるかどうかである。米国がこの際どい隘路を転落せずに進み得るかは、アメリカ人が価値観、生き方、精神を改められるかどうかにかかっているだろう。民主党にせよ、共和党にせよ、社会民主主義者にせよ、ティーパーティーにせよ、この点に気づき、国民の意識・文化・生活の変革を進めないと、米国はいずれ放恣と対立の中で自滅しかねない。
 アメリカ経済に依存・従属している日本にとって、これは他人事ではない。帝国の本国が潰れたならば、属国もまた潰れる。本国は属国を食い物にして危機を生き延びようとする。当面そのための方策となっているのが、TPPである。国家債務不履行の危機を生き延びるために米国は、わが国に対して、一層強くTPPへの参加を求めるだろう。軽々しくこれに乗ってはいけない。安易に乗ったら、日本は奈落への道をたどることになる。
 私は、わが国が本来、ここでなすべきことは、米国民に対して、物質中心・経済中心の考え方を改め、生活を改めるよう促すことだと思う。物質的な繁栄は、精神的な向上と、ともに進むものでなければ、人間は自らの欲望によって自滅する。物心調和の社会をめざすのでなければ、真の幸福と永遠の発展は得られない。米国が従来の価値観を脱し、物心調和の文明を目指す国に変わらなければ、世界全体もまた人類が生み出した物質文明とともに崩壊の道を下るだろう。

 

●アメリカは「世界の警察官」をやめた

 アメリカの外交・安全保障政策は、世界の針路を左右する。経済政策とともに、影響はすこぶる大きい。オバマ政権の外交・安全保障政策は、民主党の特徴である多国間協議を重視し、対話を優先する。外交・安全保障政策についてオバマ大統領の最も重要な発言は、「米国は世界の警察官である意思はない」という発言である。米国は、今も超大国ではあるが、経済力・軍事力が相対的に低下してきている。冷戦終結後、一時的にそうだったように、世界各地に米軍を派遣し、地球帝国の盟主のように振る舞うことはできなくなってきている。世界は一極支配体制から多極体制へと移行しつつある。米国の力の衰えに対し、明らかに挑戦的な姿勢を示している国々が現れている。イラン、北朝鮮、ベネズエラ等である。
 第1期政権でオバマは、イランに対して「核開発疑惑には経済制裁で対処する」とし、中国に対しては、柔軟な対話路線を取り、軍拡・海洋問題では牽制する一方、対北朝鮮・対イランでは協力を要請するとした。
 オバマ大統領は、9・11の真相解明を行うことなく、共和党ブッシュ子政権の中東政策を引き継いだ。若干の政策変更は行いつつも、基本的な方針は変えることなく、進んできている。米国の支配構造を改革しようとする意思は全くない。
 ブッシュ子政権が行ったアフガニスタン戦争は、短期間で終結宣言が出されたものの、その後も戦闘は続いている。オバマ政権は、ブッシュ子政権によって9・11の主犯とされたオサマ・ビンラディンの追跡を継続した。ようやく2011年(平成23年)5月2日、オサマは、米国海軍特殊部隊が行った軍事作戦によって死亡したと報道された。だが、CIAが本物だと断定した2002年(平成14年)発表のオサマのテープは、スイスの専門機関が声紋分析し、「替え玉による録音」と報告した。本人は既に相当前に死亡しており、この時、死亡が発表されたのは替え玉だった可能性が指摘されている。オサマの死亡発表後も、アフガニスタン戦争は、終結していない。

 オバマ大統領は、2012年(24年)11月の選挙で再選された。オバマは、再選後、2014年中にアフガニスタンからの米軍の完全撤退を行うと発表した。リーマン・ショック後、一層進んだ財政の悪化によって、米国は中東を始め、海外で大規模な軍事作戦を展開する力を失いつつある。だが、タリバン側に停戦の意思はない。米軍の撤退後、アフガニスタンが安定した状態を保つことができるのか、米国内外で疑問の声が上がっている。
 アフガニスタン戦争と同じくブッシュ子政権が行ったイラク戦争も、短期間で終結したものの、イラクの統治は安定していない。サッダーム・フセインは、2006年(平成18年)12月に処刑された。その後、イラクの治安は再び悪化し、小規模な戦闘が続いているが、オバマ大統領は2010年(22年)8月に改めてイラクでの「戦闘終結宣言」を出し、軍の撤退を始めた。  
 2011年(23年)12月に米軍は完全撤収し、同月14日オバマ大統領がイラク戦争の終結を正式に宣言した。だが、イラクには様々な内部対立があり、マリキ政権が自力で治安維持できるかどうか、不透明な状況での米軍撤退の実行だった。
 オバマ政権は、米軍の撤退完了後、イラクの政権が自らの手で民主化を進め、社会的な統合を行えるようにするという構想の実現には失敗した。マリキ首相は、シーア派の専制体制を築き、スンニ派や旧フセイン政権関係者等の反発を受けている。隣国シリアでは、シーア派のアサド政権に対する反政府運動が高まり、内戦状態になった。中東や東南アジア等のイスラーム教諸国や米国、西欧諸国からもイスラーム教徒の義勇兵が反政府側に多く参加している。イラクからも、スンニ派の過激派武装組織「イラクとレパントのイスラーム国家」(ISIL)が戦闘に参加した。ISILは、シリアで戦闘力や資金力を増強し、イラク国内で反マリキ政権の武装闘争を展開するようになった。
 2014年(平成26年)6月中旬、ISILはイラク北西部各地を制圧し、同月29日、指導者のアブバクル・バグダーディを、イスラーム共同体の指導者「カリフ(預言者ムハンマドの後継者)」として奉じるイスラーム教国家の樹立を宣言した。組織名も「イスラーム国」(Islamic State)に変更した。この動きに、マリキ政権だけでなく、イラン、シリア、トルコ、ヨルダン等の周辺諸国も対抗行動を取っている。さらに、イラク国内のクルド自治政府が、ISILの進撃の混乱に乗じて勢力圏を広げた。クルド人は「国家を持たない世界最大の民族」といわれる。イラク、トルコ、イラン、シリアにまたがって居住し、民族全体では2000万人以上いるとされる。ISILとクルド人の対立が深まるなか、オバマ大統領は、8月「イスラーム国」に対する限定的な空爆に踏み切った。イラクの内戦は、大規模な中東紛争に拡大する可能性を孕んでいる。今後、マリキ政権に替わる挙国一致内閣が内戦を終息し得るかどうか、イラク情勢は不透明である。オバマ大統領は、9月にはシリアのISIL制圧地帯への空爆も辞さない姿勢を明らかにした。限定的空爆で、どの程度の効果が上がるかは疑問視されている。また、ISILを支持する各国の過激派ムスリムによるテロの発生も予想される。

 私は、超大国アメリカが中東で果たすべき役割は、イスラエルとアラブ諸国の対話を促し、中東に和平を実現することにあると思う。そういう試みも一部の政権ではなされたが、むしろ両者の対立を強める結果を生む動きのほうが多い。特に9・11の同時多発テロ事件とそれをきっかけとしたアフガニスタン戦争及びイラク戦争が、中東を中心として、国際社会に大きな歪みと対立を生み出している。
 だが、オバマ大統領は、イスラエル支持を表明しており、ネオコンが多く参加したブッシュ子政権の中東政策を、概ね継承している。政権が共和党から民主党へ、ブッシュ子からオバマへと変わっても、根底にある親イスラエルの権力構造は変わっていない。
 アメリカは、イラクでの失敗を教訓として、極端な親イスラエル政策を改め、イスラエルとパレスチナ及びアラブ諸国を仲介して中東和平をめざす政策に転換しなければならない。軍事力にものを言わせた支配やアメリカ的価値観の押し付けをやめ、文明や宗教・民族の間の相互理解と、それに基く協調を追及しなければならない。そういう転換をしなければ、アメリカは世界の指導国としての地位を失っていくことになるだろう。問題は、現在のアメリカに代わって、理念と実力の両面から世界を平和と安定に導くことのできる国家が存在せず、今後も近い将来にそういう国家が出現することは期待できない。むしろ、共産中国がアメリカにとって替わろうと覇権主義の姿勢を強めており、米中決戦に向かう恐れもある。
 21世紀の人類は核戦争と地球環境破壊による自滅の危機を乗り越えて、物心調和・共存共栄の新文明へと飛躍できるかのどうか、かつてないほど重要な段階にある。だが、中東に平和と安定が実現しなければ、中東における宗教戦争・民族戦争に世界全体が巻き込まれる恐れがある。中東が世界の焦点の一つであるという状況は、今後も数十年にわたり、続くことだろう。

●アメリカはアジア太平洋を重視している

 オバマ政権は、第1期・第2期ともアジア太平洋重視の外交を行っている。
 2009年(平成21年)11月、オバマ大統領は、アジア諸国を歴訪した。来日したオバマ大統領は、11月14日に行った東京演説で、「日米同盟が発展し未来に適応する中で、対等かつ相互理解のパートナーシップの精神を維持するよう常に努力していく」「米軍が世界で二つの戦争に従事している中にあっても、日本とアジアの安全保障へのわれわれの肩入れは揺るぎない」と強調した。その後、シンガポールで米・ASEAN首脳会議に参加したオバマは、経済成長を続けるASEANの重視と連携強化の姿勢を明確にした。以後、基本的にオバマは、アジア太平洋重視の方針を取っている。
 中国について、当初オバマ政権は、大パートナーとして過大評価する傾向があった。また中国にひどく低姿勢だった。2009年11月のアジア歴訪の際に、オバマは「中国を封じ込める意図はない」と述べ、封じ込め政策の放棄を宣言した。また米中首脳会談で、軍事交流を推進することを決めた。こうした姿勢は、中国が米国債の最大の保有者となり、ドルの価値を中国に大きく依存する関係となってしまっていること。また中国が軍事力を増強し、ますます侮れなくなっていることが原因だろう。
 だが、その後、中国との外交を続ける中で、オバマ政権は中国に対する姿勢を改めた。中国の危険性を意識した政策を行うように変わった。そして、2011年(平成23年)秋に、米国は「アジア太平洋シフト」外交に転じ、在日米軍再編など日米同盟を通じた対中抑止強化に踏み出した。
 中国は、アメリカに対抗して西太平洋の海洋覇権を目指している。ベトナム・フィリピン等の東南アジア諸国と海洋権益をめぐって緊張を高めている。またわが国の尖閣諸島や沖縄を奪取する工作を進めている。世界の平和と安定にはアジア太平洋地域の平和と安定が不可欠である。日米が連携し、アジア太平洋における中国の覇権主義を抑える必要がある。

関連掲示
・拙稿「中国の日本併合を防ぐには
・拙稿「中国の『大逆流』と民主化のゆくえ
・拙稿「尖閣を守り、沖縄を、日本を守れ

(3)危険な挑戦者・中国の強大化

 

●市場経済の導入、天安門事件、そして反日教育


 中国では、毛沢東の死後、文化大革命を進めた江青らの四人組が粛清された。その後、かつて走資派として批判されたケ小平が、1978年(昭和53年)に国家主席になった。ケは、社会主義市場経済という原理的に矛盾した用語を用いて、市場経済を積極的に導入した。政治的には共産党が事実上の一党独裁を堅持しつつ、経済的には社会主義路線から国家資本主義路線に転換したものである。
 市場経済の導入で自由主義諸国の資本が投資されると、同時に自由主義・デモクラシーの思想が中国に流入した。当時、ソ連を中心とする社会主義陣営は、崩壊の時に近づいていた。アメリカは、ソ連に軍拡競争を仕掛け、ソ連は経済的に逼迫した。ソ連から植民地のように収奪を受ける東欧諸国で、民主化運動が起こった。それが本格化したのが、1989年(平成元年)だった。この年、11月にベルリンの壁が取り払われ、翌年、東西ドイツが統一、さらにその翌年のソ連崩壊へと進んでいく。
 1989年当時、ソ連におけるゴルバチョフの登場や東欧における民主化運動は、中国の知識人・学生に自由と民主主義を求める機運を高めた。この年、共産中国はソ連との和解に達した。その直後となる6月4日、自由とデモクラシーを求める学生・民衆が行動を起こし、天安門広場に集まった。中国共産党指導部は、この動きを武力で鎮圧した。目撃者の証言を総合すると、人民解放軍は天安門広場に集まった学生・青年が逃げられないように出口を防いだうえで、学生・青年を無差別に射殺し、また戦車で轢き殺したようである。中国政府当局は死者319人としているが、事件発生の3日後に中国赤十字の広報担当者が外国メディアに対して2600人と発表している。その後、重傷者が多く死亡したことから、実際は3千人に上ると見られる。
 それまで中国共産党は、「人民のための人民の政権」という論拠で中国を支配してきた。しかし、天安門事件で多数の学生・市民を虐殺したことによって、人民の信頼を失い、「正統性の危機」に直面した。中国共産党政府はこの事件の真実を隠すことで、政権の維持を図った。東欧・ソ連における共産党政権の崩壊を目の当たりにしたケ小平は、民主化運動を弾圧し続けなければ、中国も二の舞になることを痛感したに違いない。

 1992年(平成4年)、ケ小平は南巡講話を発表し、本格的な市場経済への移行を断行した。高度経済成長のもたらす繁栄は、共産党の独裁体制に新たな正統性の根拠を与え、政権安定の基盤をつくることになった。
 ケ小平は、江沢民を総書記にし、さらに1993年(平成5年)には国家主席に抜擢した。開放経済によって、国家資本主義的な発展を続ける中国社会は、マルクス=レーニン主義、毛沢東思想の理論とは、大きく乖離した。社会主義市場経済によって共産主義の原則を曲げているから、共産主義思想では、もはや国民を統合できなくなった。そこで江沢民が推進したのが、愛国主義である。 愛国主義の政策のもと、反日的な教育が徹底された。中国指導部は、民衆の不満を外に向けるために、日本の過去の「侵略」や日本軍による「虐殺」を誇大宣伝し、中国共産党が日本帝国主義に勝利したという虚偽の歴史を作り上げ、中国共産党の正統性を強調し、共産党の独裁が必要という思想を民衆に吹き込んだ。 
 「南京大虐殺」は、1937年(昭和12年)12月、日本軍が南京に入城した際、「大虐殺」が行われたとして、戦後、東京裁判において告発された事件である。東京裁判では、虐殺は風聞・伝聞だけで、目撃したという唯一の証言も、誰何による合法的な射殺だった。だが、中国共産党政府は反日戦略の一環として、南京で「30万人」が虐殺されたという記念館を創って、反日感情を高揚させた。だが、南京で民間人が多数虐殺されたという確かな証拠は、存在しない。日本軍入城当時、南京には人口が20万人しかおらず、そこで30万人の殺戮は行われ得ない。

●世界の大勢に逆行する軍拡

 米ソ冷戦の終結によって、世界は本格的に対立と闘争から対話と協調の方向に進んだかと思われた。しかし、その動きに異を唱えるように、共産中国はケ小平のもと、猛烈な軍備拡張を開始した。
 中国は、1989年(平成元年)から20年以上、毎年2ケタ台の伸び率で軍事予算を増加した。5年間で軍事費が倍増という猛烈さである。しかも、この数字は実態を表わすものではない。中国は、世界の武器貿易の約4割を占めるペースで、ロシアなどから新しい武器を購入してきた。輸入量は世界一である。こうした武器の購入費は、軍事予算に入っていない。宇宙兵器の開発費なども入っていない。実際の軍事費は、公表されている数字の約3倍だろうと見られている。実態はそれ以上かもしれない。
 危険なことは、猛烈な軍拡と、排外的・好戦的な思想教育が結びついていることである。共産中国は、単なる共産主義ではなく、ファシズム的な共産主義に変貌しつつあるのである。

 中国の軍事力は、独自の核開発に基づいている。核の開発は、毛沢東の悲願だった。中国は、経済力の低さに関わらず、開発を続けた。1964年(昭和39年)に核実験に成功し、70年(45年)4月に、人工衛星の打ち上げに成功した。これにより、中国は、日本とわが国にある米軍基地を攻撃することができるようになった。さらに81年(56年)には、核ミサイルの多弾頭化をめざす実験に成功し、88年(63年)には、原子力潜水艦からの弾道ミサイルの水中実験に成功した。こうして中国は、第1世代の核兵器を完成させ、最小限核抑止力、すなわちアメリカの本土を攻撃できる対米第二撃能力を保有した。
 中国のアメリカや日本への態度が、高圧的になったのは、1995年(平成7年)からと見られる。移動式・多弾頭の核ミサイルを完成させたからである。移動式のものは、先制攻撃で破壊することができない。中国の対米第二撃能力は、ここに完成した。これによって、中国はアメリカに対し、強気の姿勢を示すようになった。日本に対しても、傲慢な態度を取るようになった。
 わが国は、ODAによって中国の経済成長を支え、対日貿易における巨額の黒字を積み上げさせた。中国は日本が貢いだ富で、実質世界第1位の外貨準備高を誇るにいたった。日本は、軍事大国へと急成長する中国の国家戦略を後押ししてきてしまったのである。

関連掲示
・拙稿「南京での『大虐殺』はあり得ない

●中国で巨大なバブルがはじける


 中国は驚異的な経済成長を続けた。2010年(平成22年)には、GDPで日本を追い越し、世界第2位となった。だが、その経済基盤は決して安泰ではない。中国は、石油資源が枯渇し、1993年(平成5年)に石油輸入国に転落した。経済成長を続けるためには、大量の石油を輸入しなければならない。中国が1980年代以降、兵器を供与している国は、イスラーム系中東諸国、産油国と世界の戦略的要衝となる国であり、わが国のシーレーンに沿った国やアメリカの世界政策と抵触する国々である。石油以外にも、経済成長に必要な様々な資源を確保するため、中国はアフリカ、中南米等に貪欲に触手を伸ばし、世界各地で資源確保に躍起になっている。中国は、水資源の枯渇にも直面しており、インドやインドシナ半島の諸国の水源から水を奪い取ろうとして、大規模なダムや河川の工事を行っている。
 その一方、実質的一党独裁と市場経済の矛盾を抱えたままの経済成長のため、中国の内部では、様々な矛盾が高まっている。共産党官僚による腐敗の蔓延、貧富の差の拡大、農村の疲弊、失業者の増加、銀行の不良債権率の増大、エイズ感染者の広がり、河川・海洋・大気の汚染、砂漠化の進行等、統制のもとでの急速な経済成長は、ほころびを示しつつある。社会不安が高まり、各地で暴動が頻発している。2005年(平成17年)には年間9万件の暴動が起こったと発表された。ただし、これは共産党による公式発表だから、実態はそれを大きく上回るだろう。

 中国共産党は、政権を維持するには、どうしても成長率8%を維持しなければならない。成長率が8%を切ると、1億人以上の労働者に仕事を与えられなくなり、政権基盤が危うくなると考えられるからである。2008年(平成20年)夏の北京オリンピック大会の終了後、そうした中国に、リーマン・ショックの激震が走った。暴動が頻発し、社会不安の広がる中で、世界経済危機の大津波が、シナ大陸の深部にまで襲ったのである。2011年(平成23年)には、暴動・騒動事件の発生件数が18万件を超えたと伝えられた。これは毎日全国どこかで約500件発生している計算になる。
 そうした中で、習近平が2012年(平成24年)に共産党中央委員会総書記となり、13年(25年)には国家主席となった。比較的穏健だった胡錦濤前主席と異なり、習は、中国共産党の反日的な姿勢を強め、また覇権主義的な傾向を強くしている。中国経済は、2013年(平成25年)後半から、バブルの崩壊の兆しを表している。今後、経済が崩壊したら、社会不安はさらに増大する。その時、懸念されるのは、習政権が国民の不満を外に向けるため、周辺諸国に軍事的な侵攻を行うことである。わが国の尖閣諸島と沖縄は、そうした中国の奪取の対象として、十分な警戒を要する。

●米中が東南アジアで競い合う

 米国と中国は、世界規模の覇権をめぐって争っている。中でもその争いの重要な焦点となっている地域が、東南アジアである。
 東南アジアは、インド洋から太平洋への通路に位置し、昔から交通の要衝にある。この地域の主要国で構成する東南アジア諸国連合(ASEAN)は、計6億2000万人の人口を抱え、安い労働力と豊富な消費者が存在する。わが国にとっても、米国や中国にとっても、ASEANの重要性は増す一方である。
 中国は、東南アジアへの経済・外交・安全保障面での影響力を拡大している。そして、南シナ海のほぼ全域の領有権を主張し、覇権の確立を目指している。これに対し、米国は、アジア太平洋における中国の行動を牽制するため、ASEANとの関係の強化を図っている。冷戦時代に、米国と中国はインドシナ半島で激しく勢力争いをした。ベトナム戦争やカンボジア内戦は、米中の勢力争いの舞台だった。今日その争いの再現を思わせるほど、東南アジアは再び米中が激しく競い合う地域となっている。

 2014年(平成26年)3月18日ロシアがウクライナのクリミア自治共和国を併合した。それにより、冷戦終結後、かつてないほど世界の緊張は高まりつつある。中国は、ロシアに対する米国・EU・日本等の制裁の度合いを見て、尖閣諸島を含むアジア太平洋地域で海洋覇権の拡大を狙っている。
 そうしたなかで、オバマ大統領は4月23〜28日、日本などアジア4カ国を歴訪した。オバマ大統領のアジア歴訪はアジア太平洋地域での同盟を強化し、覇権拡大政策をとる中国を牽制するために有益なものとなった。これまでの宥和策中心の姿勢から、中国の侵攻を阻止しようとする姿勢に転換したことを示すものとも考えられる。
 オバマ大統領のアジア歴訪が終了するや、5月初め中国は、南シナ海のパラセル(中国名・西沙)諸島海域で石油掘削を進めた。これを阻止しようとするベトナム船と中国公船が衝突を繰り返し、南シナ海に緊張が高まった。中国は、アメリカがアジア太平洋地域にどこまで本気で関与しようとしているのかを試したものと見られる。だが、米国およびベトナムが断固たる姿勢を示すと、中国は掘削施設を撤収した。次のチャンスをうかがうものと見られる。
 東南アジアは、中東から日本に至る石油の海上輸送路、シーレーンの要の位置にある。インド洋からマラッカ海峡を通って、フィリピン沖、台湾沖を北上するシーレーンは、世界貿易の3分の1が経由する物流の大動脈である。わが国にとっては、石油輸送の生命線である。中国にシーレーンを抑えられれば、わが国はのどもとに手をかけられたも同然となる。それゆえ、わが国の安全と繁栄を維持するためには、尖閣の防衛だけでなく、シーレーンの防衛を外交・安全保障の重大課題としなければならない。生命線の防衛のためには、我が国は従来の憲法解釈を改め、集団的自衛権の行使を容認し、さらに現行憲法を改正し、自主国防力を整備する必要がある。唯一の同盟国である米国との緊密な連携を取るとともに、東南アジア諸国との連携の具体化が重要である。その連携をオーストラリア、インドへ広げることによって、わが国の安全保障は格段と強化されるだろう。

関連掲示
・拙稿「米中が競い合う東南アジアと日本の外交
・拙稿「荒れる南シナ海と米中のせめぎ合い

(4)多極化する世界における諸地域の変動

 

●「アラブの春」は長期的な変動の現れ


 米中が世界的な規模で覇権を争う形勢において、世界の各地での民主化を求める民衆運動と、国家による武力を用いた現状変更の動きが、状況に複雑さを加えている。そうした動きのうち、北アフリカ・中東における「アラブの春」と、ロシアによるクリミア併合が長期的に見て、特に重要なものだろう。
 2011(平成23年)1月14日、北アフリカのチュニジアで、23年間独裁体制を続けたベンアリ大統領が辞任に追い込まれ、国外に逃亡した。「ジャスミン革命」と呼ばれる。民衆の運動にはツイッターやユーチューブ、フェイスブックといったネットメディアが大きな役割を果たした。チュニジアでの民衆運動の成功はエジプトに飛び火し、2月11日、わずか18日間で30年間近く続いたムバラク大統領が辞任した。リビアでは最高指導者カダフィーが民衆の運動を弾圧しようとしたが、軍の一部が反乱を起こし、内戦が勃発した。同年10月カダフィーが射殺され、42年間続いたカダフィー政権は崩壊した。他にもバハレーン、イエメン、イラク、サウディアラビア等でデモが起こり、アラブ諸国が大きく揺れた。これを「アラブの春」という。
 イスラーム圏において、これほど多くの国で政治体制に対する民衆の反対運動が起こったのは、初めてのことだった。各国で事情は異なるが、共通しているのは長年続く独裁体制に反発した民衆が、独裁者の退陣を要求した点である。アラブ社会に巨大な地殻変動が起こりつつある。
 イスラーム教の信者数は11億人といわれ、世界人口の約6分の1を占める。世界の主要な既成宗教のうち、現在最も信者が増えているのは、イスラームである。イスラーム教徒(ムスリム)は、人口増加の著しいアジア、アフリカに多く存在する。各国の年齢構成は若年層が多く、失業・社会格差・物価高・行動規制等への若年層・知識層の不満が政治運動という形で噴出していると見られる。
 トッドは、近代化の主な指標として識字化と出生調節の普及を挙げる。そして識字化と出生調節の普及という二つの要素から、イスラーム教諸国では近代化が進みつつあるととらえる。
 識字化について、トッドは、次のように言う。「多くのイスラーム教国が大規模な移行を敢行しつつある。読み書きを知らない世界の平穏な心性的慣習生活から抜け出して、全世界的な識字化によって定義されるもう一つの安定した世界の方へと歩んでいるのである」と。
 出生調節については、次のように言う。「識字化によって個人としての自覚に至った女性は出生調節を行なうようになる。その結果、イスラーム圏でも出生率の低下が進行し、それはアラブ的大家族を実質的に掘り崩す」と。
 トッドによると、イスラーム教諸国において現在起こっていることは、かつてヨーロッパ諸国で起こった近代化の過程における危機と同じ現象である。すなわち、17世紀のイギリス、18世紀のフランス、20世紀のロシアなどと同じようなパターンが、今日イスラーム教諸国で繰り返されている。トッドは、この危機を「移行期の危機」と呼ぶ。そしてイスラーム教諸国は、この人口学的な危機を乗り越えれば、近代化の進行によって、個人の意識やデモクラシーが発達し、やがて安定した社会になると予想する。
 社会の近代化において、識字率が50%を超える時点がキーポイントである。識字率が50%を超えると、その社会は近代的社会への移行期に入り、「移行期の危機」を経験する。50%超えは、ほとんどの社会で、まず男性で起こり、次に女性で起こる。男性の識字率が50%を超えると、政治的変動が起こる。女性の識字率が50%を超えると、出生調節が普及し、出生率の低下が起こる。現在の北アフリカ・中東での民衆運動は、1970年代のイランにおける民衆運動を想起させるが、当時のイランは、トッドの言うような段階にあった。
 イスラーム教諸国では、近年出生率の低下が顕著である。イスラーム教の中心地域であるアラブ諸国では、出生率の低下は、伝統的な家族制度である内婚制共同体家族を実質的に掘り崩しつつある。また、男性の識字化は父親の権威を低下させる。女性の識字化は、男女間の伝統的関係、夫の妻に対する権威を揺るがす。識字化によって、父親の権威と夫の権威という二つの権威が失墜する。
 トッドは、次のように言う。「この二つの権威失墜は、二つ組み合わさるか否かにかかわらず、社会の全般的な当惑を引き起こし、大抵の場合、政治的権威の過渡的崩壊を引き起こす。そしてそれは多くの人間の死をもたらすことにもなり得るのである。別の言い方をすると、識字化と出生調節の時代は、大抵の場合、革命の時代でもある、ということになる」。トッドによれば、識字化はデモクラシーの条件である。識字化によって、イスラーム教諸国もデモクラシーの発達の道をたどっている、とトッドは指摘する。さらにトッドイスラーム教諸国脱宗教化するという大胆な予測を述べてもいる。この変化は世界的に人々が既成宗教から脱し、新たな精神文化へと移行していく過程の一環だろう。
 チュニジア、エジプト、リビア等の国々が今回の政変で民主化に向かうかどうか、まだ定かではない。チュニジアでは、2014年1月制憲議会が新憲法案を賛成多数で承認し、マルズーキ大統領のもと、立憲政治が行われている。エジプトでは、政変後選挙で選ばれたムハンマド・モルシーを大統領とする政権が、2013年7月7月、軍部によるクーデターに覆された。リビアでは多数の武装勢力が対立し、暫定政権が統治できない状態が続いている。これまで北アフリカ・中東のイスラーム圏で、独自にデモクラシーを実現した国は、存在しない。アメリカが侵攻し強権的に民主化したイラクでも、デモクラシーが発展するかどうか、確かな結果は出ていない。しかし、揺れる北アフリカと中東諸国の政情に、イスラーム教諸国は識字化と出生率調節によって、長期的に民主化の方向に動きつつあることを読み取ることができるだろう。

関連掲示
・拙稿「トッドの移民論と日本の移民問題

●ロシアのクリミア併合で冷戦時代に逆戻りか


 2014年(平成26年)3月、ロシアがウクライナのクリミア半島を併合するという大事件が起こった。冷戦終結後、初めての本格的な武力による現状変更の動きである。
 冷戦終結後、欧米勢力は旧ソ連圏の独立国家共同体(CIS)で影響力を強めてきた。その影響のもと、2003年(平成15年)グルジアでの「バラ革命」、04年ウクライナでの「オレンジ革命」、05年キルギスでの「チューリップ革命」等、民主化を求める政治運動が起こった。
 当時のアメリカは、共和党のブッシュ子政権の時代であり、ネオコンが政権を動かしていた。2003年(平成15年)のイラク戦争でサッダーム・フセイン政権を打倒したブッシュ子大統領は、中東民主化構想を提唱した。同時にCIS諸国の民主化勢力を支援した。その結果、グルジア、ウクライナ、キルギスで独裁政権が倒れて民主化が行われた。CIAが資金と情報を提供したと言われる。地政学的な戦略によるロシアへの対抗であり、また石油・天然ガスの確保の布石でもあるだろう。
 これに対し、ロシアは安価なエネルギーの提供や政治的な権謀術策を用いて、周辺諸国の民主化及びロシア離れを抑止しようとしている。なかでもウクライナは、ロシアにとって絶対勢力下に置くべき重要地域である。そのため、ロシアと欧米勢力との綱引きが続いている。冷戦終焉後、ウクライナの東部はロシアとの関係を深め、西部はヨーロッパとの関係を発展させている。またウクライナは、南部にあるクリミア半島を中心に、西方・東方のユダヤ=キリスト教文明とイスラーム文明が接触し、重なり合う地域でもある。
 2004年(平成16年)のオレンジ革命では、大統領選挙の不正が糾弾され、再選挙の結果、親欧米派の元首相ユシシェンコが親露派のヤヌコビッチ首相を破った。ユシシェンコは選挙期間中、ダイオキシンによって毒殺されかかった。オレンジ革命は、ヨーロッパとロシアに挟まれたウクライナが、EUやNATOに加わるのか、天然ガス等のエネルギーを依存しているロシアとの関係を堅持するのかという選択を迫らる中での出来事だった。
 ウクライナでは親欧米派政権のもとで、失政が続き、民衆の支持は低下した。ヤヌコビッチは2010年の大統領選挙に立候補し、女性首相ティモシェンコを破って政権を握った。ウクライナは2013年にEUとの政治・貿易協定の仮調印を済ませたが、ヤヌコビッチは調印を見送った。これに対し親欧米的な野党勢力から強い反発が起こった。2014年(平成26年)年2月下旬、首都キエフや西部における大規模な反政権デモによって、政変が起こった。親露派のヤヌコビッチは国外に逃亡し、ロシアの保護下に入ったと見られる。ウクライナ議会はヤヌコビッチの大統領解任を決議した。だが、ヤヌコビッチはクーデタだとして辞任に同意せず、ロシアのプーチンはクリミアの軍事制圧をヤヌコビッチの要請によるものだと正当化した。
 親欧米的な暫定政権が誕生すると、プーチン政権のロシアは、ウクライナのクリミア半島南部を実効支配した。3月7日クリミア自治共和国の議会がロシアへの編入を決議した。これを受けて、同月18日、ロシアはクリミア半島南部を併合した。
 ロシアはクリミアでの権益を確保しつつ、キエフの暫定政権に圧力をかけている。米欧諸国は、ロシアをG8からはずし、外交的経済的な制裁を行っているが、西欧諸国はロシアに天然ガスを大きく依存しており、必ずしも積極的ではない。ウクライナ東部では、武装した新露派がドネツク州、ルガンスク州で独立を宣言し、ウクライナ軍と衝突を繰り返している。   
 そうしたなかで、7月17日ウクライナ東部上空を飛行中のマレーシア機が撃墜された。乗客・乗員298人が犠牲になり、犠牲者の多くは、オランダ・ドイツ等のヨーロッパ人だったと報道された。親露派による攻撃であり、ロシア製地対空ミサイルBUKが使用されているとして、ロシア側の関与が疑われている。この事件によって、欧米諸国はロシアへの態度を硬化させた。ロシアは、これに対する報復措置を講じている。ロシアのクリミア併合をきっかけに、世界は冷戦時代への逆戻りの様相を呈している。

 世界は、米国の衰退により、一極支配体制が崩れ、多極分散の傾向が強まっている。その中で急速に強大化している中国が、米国と世界的な規模で覇権を争う形勢となっている。今後、対立・抗争が激化すれば、世界は冷戦ではなく再び熱戦すなわち世界戦争へと向かう可能性を孕んでいる。人類は第2次世界大戦後、多くの国が核兵器を開発・保有し、さらに核技術が高度化し、また拡散しつつある。核による第3次世界大戦という最悪の事態に至れば、人類のほとんどは死滅し、地球上の生物の7割も死滅する恐れがある。
 こうした愚かな悲劇を避けるには、人類が地球で共存共栄できる指導原理が共有されねばならない。その指導原理を体得・普及し得る国は、文明学的に見て、日本以外には存在しない。それゆえ、日本人の使命は重大である。万が一、日本が中国等の属国になれば、共存共栄の指導原理を広げうる国がなくなり、地球は抗争・強奪・破壊の修羅場と化し、荒廃を極めることになるだろう。

 

(5)日本の混迷と再建

 

●日本の混迷と再建〜国家安全保障

 世界は冷戦終結後、アメリカ一極支配の体制から、多極化の方向へ変化しつつあるが、この中で、日本は長く混迷を続けており、国家の再建が焦眉の急となっている。この点について、国家安全保障及び経済の二つの面から述べ、その後に、日本再建のために実行すべき課題を示したい。
 まず国家安全保障の面から述べる。日本は第2次世界大戦の敗戦後、戦勝国による占領期間に日本弱体化政策を強行された。東京裁判で国家指導者が裁かれ、GHQ製の憲法を押し付けられた。1952年(昭和27年)4月28日に、吉田茂内閣のもとで、サンフランシスコ講和条約の発効を以て独立を回復した。しかし、占領政策の影響により、主権を完全には回復できていない状態で、国際社会に復帰したものだった。「国際連合=連合国」の一員となったが、国連憲章には敵国条項が規定されており、日本は現在もその対象国の一つである。日本国憲法は、日米安全保障条約と一対になっており、憲法によって国防に大きな規制がかかっている。独立回復後の保守政権は、憲法改正を課題とし、1950年代後半から〜60年にかけて岸信介内閣等が改憲を目指したが、実現しなかった。岸首相は、左翼による安保反対運動に屈せず。1960年(昭和35年)日米安保の改定を実現したが、後継首相の池田隼人は、改憲の課題を棚上げし、高度経済成長路線を進め、安全保障は米国に依存する姿勢を強めた。そのうえ、1965年(昭和40年)佐藤栄作内閣以降、日本国政府は、集団的自衛権は権利としては保持するが憲法上行使できないという内閣法制局の解釈を踏襲してきた。そのため、独立主権国家としては、脆弱な国家安全保障体制であり続けている。
 こうした状態でありながらも、大戦後、独立を維持し得てきたのは、米ソの冷戦によって戦勝国による秩序が維持されてきたからである。だが、冷戦の終結によって、国際環境は大きく変わった。諸国家・諸民族・諸集団がそれぞれの権利を主張して起こる紛争が多くなっている。わが国は本来あるべき国家安全保障の確立を急ぐべきところだが、これが遅々としてよく進んでいない。
 ここであらためて浮かび上がってきたのが、領土問題である。日本は大東亜戦争の末期に、ソ連によって北方領土を不法占領された。ソ連はサンフランシス講和会議に参加しておらず、日本はまだソ連及びロシアと平和条約を締結していない。それにより、北方領土問題は未解決の問題である。また、占領期間末期の1952年(昭和27年)に韓国の李承晩大統領が李承晩ラインを引き、竹島の領有を主張するようになった。韓国は竹島の実効支配をするようになり、わが国はされるがままの状態となっている。さらに、1970年代から中国が尖閣諸島の領有を主張し出した。これは、尖閣諸島周辺地域に石油、天然ガス等の埋蔵資源が豊富にあることがわかったためである。尖閣諸島は北方領土、竹島と同じく日本の固有の領土であり、1972年(昭和47年)米国から沖縄諸島が返還された際に、沖縄の一部として日本に返還されたものである。
 韓国及び中国は、経済成長とともに軍事力を強化している。また国民を統合するために、特に1990年代から反日的な教育を行っている。日本に対して、歴史認識、戦後補償、南京事件、慰安婦等の問題を持ち出し、国家間関係を有利に進めようとしているものである。日本国内にはこれに同調し、反日的な主張・行動をする勢力があり、多くのマスメディアが偏向した報道をして国民を誤導している。
 とりわけ急激な軍拡を進め、覇権主義的な行動を取っている中国は、武力による尖閣諸島の奪取を計画している。尖閣の次は沖縄を狙い、さらに日本を支配下にしようと画策している。
 こうした状況において、わが国は憲法を改正し、国防力を充実させて、国家安全保障体制を強化することが急がれる。だが、現行憲法は、国会の3分の2以上の賛成で発議し、国民投票の過半数で決するという極めて厳しい改正要件を定めており、改正の実現は容易でない。そこで、まずは集団的自衛権に関する政府の憲法解釈を改め、行使を可能に戻す次善策が案出された。2014年(平成26年)7月、自民党と公明党の連立による安倍晋三内閣は憲法解釈を改め、集団的自衛権の限定的行使を容認することを閣議決定した。今後、行使を可能にするための法整備が進められる。
 中国は東シナ海のみならず南シナ海でも広範な領域を支配下に置こうとして行動しており、米国、東南アジア諸国、オーストラリア等が警戒を強めている。またインド洋への進出を進めており、シーレーン(海洋交通路)の防衛が国際的な課題となっている。わが国は、米国、東南アジア諸国、オーストラリア、インドと提携し、アジア太平洋からインド洋に及ぶ海洋の安全保障を強化する必要がある。この国際的連携をより強固なものにするためには、イギリスとの21世紀型の日英同盟の構築も有効である。アジア太平洋地域及び世界の平和と安定のために、日本に積極的な国際貢献が期待されている。
 
関連掲示
・拙稿「憲法第9条は改正すべし
・拙稿「集団的自衛権は行使すべし
・拙稿「慰安婦問題は、虚偽と誤解に満ちている

・拙稿「尖閣を守り、沖縄を、日本を守れ

●日本の混迷と再建〜経済

 次に経済面から、日本の混迷と再建について述べる。日本は、敗戦のドン底から立ち上がり、奇跡の復興と高度経済成長を成し遂げた。プラザ合意の後にバブルが発生し、1980年代末から90年代初めにかけてバブルが崩壊した。そして、ようやく経済が持ち直した時に、1997年(平成9年)橋本龍太郎内閣が構造改革の名のもとに、緊縮財政を行った。財政健全化のため、消費税を3%から5%に増税する等の増税を行った結果、翌年の98年(平成10年)からデフレに突入した。日本は、政府の経済政策の誤りによって、戦後先進国で唯一、デフレに陥った。高度経済成長によって、東アジア諸国をけん引してきた日本は、世界最大の債権国とまでなりながら、政策の誤りによって自ら凋落の軌道にはまった。
 以後、約15年間にわたって、デフレが続いた。デフレは、物価が継続的に下がる現象である。これによって所得が下がり、企業収益も下がると、所得税・法人税の税収が減るから、税収が減る。それによって、財政は悪化する。橋本内閣に続く小渕恵三内閣は景気振興策を打ったので、日本経済は顕著に回復したが、これと全く逆行することをしたのが、2001年(平成13年)からの小泉純一郎政権である。再び緊縮財政が行われ、構造改革だとして、さらに規制緩和と不良債権処理を強行した。その結果、デフレは一層深刻化し、財政赤字は急激に拡大した。以後の自民党政権は、橋本=小泉構造改革を継承する経済政策を行った。
 敗戦後、一時の期間を除いて長く政権を維持してきた自民党は、腐敗堕落を続け、国民の信頼を失った。そのような状況で、2008年(平成20年)9月、リーマン・ショックの大波が日本を襲った。米国のドル大量増刷政策により、円高が進んだ。
 自民党は、2009年(平成21年)9月の衆議院総選挙で敗れ、民主党が政権に就いた。民主党は、旧日本社会党の後継者となる政党であり、バラマキに象徴される社会民主主義的な経済政策を行った。そのため、デフレからの脱却はできず、日本経済は停滞が続いた。
 約15年に及ぶデフレによって失った潜在的な富は計り知れない。「需要不足に起因する生産能力の余裕」をデフレ・ギャップという。単なる需要と供給の差ではなく、「潜在実質GDPと実質GDPの差」つまりGDPギャップが、デフレ・ギャップである。平成10年から24年までの間、毎年の潜在実質GDPと実際のGDPの差は、仮にごく低めに平均100兆円としても、15年間で1500兆円に上る。それだけの富の生産ができなかったということは、それだけの富を失ってきたことと同じことを意味する。当然雇用に影響し、若者は就職できず、将来に希望が持てず、結婚や出産に消極的になる。企業の経営不振や倒産によって働き盛りの年代の男性が多数自殺するという末期的な様相を呈していた。デフレになってから1年間に毎年3万人以上の自殺者が続いた。こんな国は先進国でほかにないというところまで日本は低下した。
 このような状況で、平成23年(2011)3月11日に東日本大震災が発生した。東日本大震災は死者15,882人、行方不明者2,668人(2014年3月11日現在)という多大な犠牲者をもたらした。日本経済への影響は甚大であり、損失は100兆円とも見られる。まさに戦後日本最大の惨事であり、また日本が直面した国難である。
 民主党政権は大震災に際し、適切な対応が出来ぬのみか、かえって混乱を拡大し、被害を増大させる醜態をさらし、国民から厳しい批判を受けた。2012年(平成24年)12月の衆議院選挙で再び政権交代が起こり、自民党が政権に復帰した。新たな首班となった安倍晋三は、大震災からの復興を進めるとともに、デフレ・超円高の危機からの脱却と経済成長をめざし、アベノミクスと呼ばれる総合的な経済政策を打ち出した。長い、長い混迷の後、日本の再建のため、ようやくまともな経済政策が実行されるに至った。日本は巨大な潜在的成長力を秘めている。政治の強いリーダーシップで大胆な政策を断行すれば、必ず日本は復興できる。だが、安倍内閣は2014年(26年)4月に消費税を5%から8%に上げる増税を行った。デフレから脱却しきれていない状態での増税は、景気を悪化させる要因となりうる。今後、さらに10%への増税が計画されており、慎重な政策判断が望まれる。増税は財務省が省益を守るために進めるものであり、これに協力する内閣府によるデータは官僚に都合よく作成されている。政治家は官僚主導の政治から脱しないと、適切な政策を計画・実行することはできない。
 デフレ脱却・経済成長のための政策の成功いかんは、先に書いた国家安全保障政策の成否に直結する。デフレ脱却・経済成長の政策をしっかり軌道に乗せ、厳しい国際環境で平和と安全を確保するための体制整備を確実に進めなければならない。そして、日本人自ら手で憲法を制定し、真の独立主権国家としてのあり方を確立することが急務である。

関連掲示
・拙稿「経世済民のエコノミスト〜菊池英博氏
・拙稿「デフレ脱却の経済学〜岩田規久男氏
・拙稿「東日本大震災からの日本復興構想

 

●日本再建のために実行すべき課題

 日本の混迷と再建について、国家安全保障と経済の二つの面から述べた。次に、日本再建のために実行すべき課題を示したい。
 東日本大震災の中で、被災地の人々は助け合いや思いやりを示し、その高い道徳性には、世界各国から賞賛の声が上がった。福島第一原発の事故現場で懸命に対応する自衛隊・消防・警察・電力会社関係者の献身的な行動は、海外の多くの人々を感動させた。天皇陛下は、国民に対しビデオでメッセージを語られ、また天皇・皇后両陛下は被災地の人々を慰問され、国境を越えて尊敬を集めた。
 日本人は、人と人、人と自然が調和して生きることを大切にしてきた。そこに継承されてきたのが、日本精神である。国民は互いに助け合いや思いやりを発揮する。その中心に天皇がおられ、天皇と国民は親子の情で結ばれている。何かあれば天皇を中心に国民が一致団結する。こういう国柄が国家的な危機において、はっきりと現れた。国家的な危機において自ずと現れるこうした日本の特質を、日本人が自覚し、自己に内在する日本精神を復興することこそ、大震災からの復興の最重要課題である。
 日本が直面している国難において日本人が精神的に復興すれば、日本は立ち直る。逆に精神的に低迷すれば、天災人災の中で日本は自壊・滅亡する。日本はそのぎりぎりの地点にある。いまこそ日本人は、日本精神を取り戻さねばならない。日本の復興は、日本精神の復興から始まる。
 日本再建のため実行すべき課題を、私はマイサイトに掲載している。そのうち、基本的な12の課題をここに重ねて掲載する。

<課題1 大東亜戦争の総括〜大東亜戦争は日本精神から外れたため>

 大東亜戦争は侵略戦争か、自衛戦争かという論議が繰り返されてきた。真相は、大東亜戦争は、戦う必要のない戦争だった。戦わずして勝つ道があった。わが師・大塚寛一先生は、そのように看破されていた。先生は、1939年(昭和14年)9月から時の指導層に建白書を送付した。日独伊三国同盟に反対し、英米と開戦すれば大敗を喫すと警告した。大都市は焦土と化し、新型爆弾を投下されると予言した。そして、厳正中立・不戦必勝の大策を建言した。しかし、当時の指導層はその建言を入れず、警告どおりの結果を招いた。大東亜戦争の総括は、この歴史的事実を知ることなしに、決してなしえない。
 大塚先生は説く。大東亜戦争は日本精神による戦争ではなく、指導者が日本精神から踏み外れたために行った戦争である、と。戦後の日本人は、こうした観点から、大東亜戦争の総括を行なえていない。そのため、多くの人々は、ますます日本精神を失ってきている。自民党の腐敗・堕落も、民主党の迷妄・混乱も、そこに原因がある。
 真の日本精神に基づく歴史観を理解する人が増えること。これなくして、日本の再建はない。

関連掲示
・マイサイトの「基調」(その2)へ


<課題2 占領政策の克服〜占領政策は日本弱体化が目的>

 敗戦後のわが国で行われた占領政策は、今日では日本を民主化したものとして、肯定的に理解されている。しかし、その実態は、異例の6年8ヶ月にも及ぶ軍事占領のもとで強行されたものだった。目的は日本の弱体化である。日本が再び米国及び世界の脅威にならないように痛めつけることが、目的だった。憲法の押し付け、天皇の権威の引き下げと権能の限定、国民との紐帯の断絶、皇室の人員削減と経済的基盤の縮小、国防の規制、戦争に関する罪悪感のすり込み、民族の誇りの剥奪、勝者の歴史観の植え付け、伝統的道徳の否定、教育勅語の排除・失効の誘導、等。
 こうした日本弱体化政策の本質をとらえ、これを克服することなく、経済政策、社会政策、外交政策等を行なっても、国家としての日本は再建されない。諸政策は、日本再建策の実行あってこそ、成果を生む。

関連掲示
・拙稿「日本弱体化政策の検証〜日本の再生をめざして

<課題3 自主憲法の制定〜現行憲法は亡国憲法>

 現行憲法は、人類の理想を表したものとして護持すべきか、占領者によって押し付けられた憲法として破棄すべきか。この論議も繰り返されてきた。最も重要なポイントは、現行憲法は、日本人が自ら創った憲法ではないということである。
 憲法は国の基本法であり、国の理念・制度・機構を規定している。その憲法が日本人の作ったものではない。このことが、日本人の自信や誇りを損なっている。現行憲法は、敗戦後、GHQが約1週間で秘密裏に英語で書いたものが草案となった。その翻訳をもとに、制定された。明治憲法の改正手続きは踏んでいるが、占領下で押し付けられた憲法である。
 独立回復後、日本人は即刻自ら改正し、自主憲法を制定すべきだった。それが制定後60年以上、一字一句改正されていない。自ら憲法改正を実行しない限り、日本人は独立主権国家の国民という精神を取り戻すことができない。このまま現行憲法を押し頂いていると、わが国は亡国にいたる。日本の再建は、日本人自ら憲法を改正してこそ、力強く進められる。

関連掲示
・拙稿「日本国憲法は亡国憲法〜改正せねば国が滅

<課題4 皇室の復興〜皇室の維持・繁栄に英知を結集すべし>

 占領政策は日本弱体化政策だった。最大のポイントとされたのが、天皇のご存在である。わが国の強い団結力は、天皇を中心に国民が結束するところに発揮される。これを恐れたGHQは、天皇の権威を引き下げ、天皇の権限を少なくし、天皇と国民の紐帯を弱めることを日本弱体化政策の核心とした。昭和天皇に、いわゆる「人間宣言」をさせ、憲法の天皇条項を変え、皇室典範を普通の法律に下げた。皇室の経済的基盤を縮小させ、やむなく11宮家51方の皇族が臣籍降下した。
 独立回復後、皇室典範を初めとする皇室関係法を整備し、元宮家を皇族に復帰すべきだった。ところが、憲法改正がされないままであると同時に、皇室に関する改革もなされず、放置状態が続いている。皇族が減員し、そのうえ男系男子が41年間誕生されなかったことにより、次世代の皇族が急激に少なくなり、皇室は存続の危機にある。
 皇室の維持・繁栄は、わが国の存続・発展の要である。今のままでは、悠仁親王殿下が皇位に就かれるだろう30〜40年後には、皇族は悠仁様以外ほとんどいらっしゃらなくなっているかもしれない。旧宮家の復帰、養子、女性宮家の創設等の方策を実行し、男系男子による皇位の安定的な継承ができるように整備する必要がある。

関連掲示
・拙稿「皇位継承問題――男系継承への努力を

<課題5 国民の復活〜国民的アイデンティティの回復・強化を>

 占領政策は、日本人としての誇りを奪い、愛国心を損ない、自ら国を守る意思を挫くものだった。戦争犯罪を誇張・捏造して宣伝・教育し、日本人が日本人であることに自己嫌悪に陥るようにした。団結することは危険だという意識を植え付け、団結心を自己規制させた。その一方で、個人の自由と権利を拡大し、義務を縮小した。
 その結果、国民としての意識が低下した。国民より個人や階級に関心を分散した。とりわけ国防の義務をなくし、自ら国を守るという気概をなくしたことが、国民は運命共同体だという認識を弱めた。
 これに対し、国民意識を興隆し、国民的アイデンティティを回復・強化することが必要である。それには、教育が重要である。愛国心や公徳心を涵養し、日本人としての自己意識を育てる教育を実施しなければならない。安倍内閣で約60年ぶりに教育基本法が改正されたが、同法に基づいて、伝統を尊重し、国を愛する心を教えることである。
一方、大人は、国益という観念を取り戻す必要がある。国益とは、国民の共通利益である。個人の利益と対立するものではなく、個人の利益を守り、増大するものである。
 戦後の日本は、優れた精神的伝統を棄てたことにより、敗戦以上の誤りを犯し続けている。敗戦国が精神的に復興しなければ、3世代以内に滅亡する。日本人は日本精神を取り戻せ。それ以外に日本の存続・繁栄の道はない。

関連掲示
・拙稿「国家と国益を考える
 目次から23へ

<課題6 自主国防の確立〜自ら国を守る者のみが自らの文化を守り得る>

 戦後日本は、憲法第9条により、国防を規制され、アメリカに安全保障を依存する国家となった。日本人は、自ら国を守るという意思を失い、他に運命を委ねる受動的な集団となった。
 自ら国を守ろうとしない国民は、他国に頼って、平和と安全を維持しようとする。そのため、アメリカに依存すればアメリカ化、ソ連に依存すればロシア化、中国に依存すればシナ化する。独立自尊の姿勢を失い、大国・強国に従属することになる。
 独立と主権、生命と財産、自由と人権を、自らの力で守る姿勢があってこそ、精神的・文化的な価値も守ることができる。国民が自ら国防をせず、他国に依存している国は、伝統・文化・国柄を守り得ない。他国が守ってくれるのは、その国の利益にかなう範囲での領土・権益である。自らを守る国民のみが、自らの伝統・文化・国柄を守り得る。
 国防を怠っていると、日本人は、日本人としての国民的アイデンティティを失う。それによって日本文明は、文化的なアイデンティティを失い、他の文明の周辺文明または下位文明に変質していくこととなる。
 日本が日本であるためには、国民に自ら国を守るという意思が必要である。戦後日本に欠けているのは、この意思である。自主国防を整備し、自ら国を守る体制を回復・強化すべきである。

関連掲示
・拙稿「国防を考えるなら憲法改正は必須

<課題7 誇りある歴史の教育〜日本人自らの歴史を伝える>

 戦後、日本で流布されたのは、東京裁判で勝者が日本を一方的に断罪するために作り上げた歴史観だった。この歴史観は、アメリカの太平洋戦争史観とソ連の階級闘争史観、中国の民族解放史観が融合したものである。これを東京裁判史観という。
 東京裁判史観は、戦後の日本人の意識を深く支配している。その克服は、重要な課題である。日本人の立場に立った歴史観を取り戻さねばならない。
 歴史とは、アイデンティティの確認である。自分とは何者か。自分には親があり、親にはそのまた親がいる。生命のつながりの中に自分はある。この親・先祖からの生命の連続性を、事象の継起を通して表現したのが、歴史である。自分が今日あることを、親に感謝する。先祖の苦難と努力に敬いの気持ちを持つ。そこに、日本人として生まれたことへの誇りが湧く。また喜びとなる。
 青少年には、日本人のよいところを教え、誇りを持たせることが大切である。そこに自然と愛国心が育つ。過去の反省は、自己肯定の感情あってのものでなくてはいけない。自己否定や自己嫌悪からは、自嘲や自虐しか生まれない。その先に動き出すのは、自滅への衝動である。

関連掲示
・拙稿「教科書を改善し、誇りある歴史を伝えよう

<課題8 日本的道徳の回復〜教育勅語を復権する>

 明治時代にわが国の伝統的な道徳は、教育勅語に集約され、教育勅語に基づく教育が行われた。教育勅語は、家庭道徳、社会道徳、国民道徳の徳目を並べ、伝統を踏まえつつ、近代国家の国民の育成を期したものだった。
 敗戦後、GHQは国会で教育勅語が廃除・失効されるように誘導した。これによって学校教育で、日本の道徳は教えられなくなった。明治生まれ、大正生まれの世代が家庭や社会にいる間は、民間において民族の道徳が伝えられた。しかし、その世代が少なくなるにしたがって、戦後教育の影響が顕著になった。
 戦後教育は、教育基本法に基づく。教育基本法は、日本国憲法の精神を教えるものである。憲法は、アメリカ人が起草した。憲法は、アメリカ的な自由主義・民主主義・個人主義の価値観に基づいている。その占領者の価値観を身に着けた日本人を育てる教育がされた。日本人を親や先祖とは違う価値観を持つ日本人に変える教育である。その教育が浸透するにつれ、利己主義や拝金主義が蔓延した。家庭が崩壊し、社会が荒廃した。
 日本人は、本来日本人が持っていた道徳を取り戻さねばならない。そのためにまずなすべきことは、教育勅語を復権することである。

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・拙稿「教育勅語を復権しよう

<課題9 家族の復権〜生命のつながりの自覚を>

 GHQは、日本人の団結力の基盤が家庭にあると見て、日本の家族制度を改変した。憲法・民法を改正した。イエ制度は、封建的で個人を拘束するものとして廃止させた。個人を解放して、自由と権利を拡張した。人類学的には、直系家族型の制度を核家族型の制度に変えるものだった。それによって、集団主義から個人主義への変化が起こり、また父親の権威が低下した。戦後日本では、農村の村落共同体が解体されて都市化が進み、三世代同居の大家族は核家族に分解した。今日では、晩婚化・未婚化が顕著になり、少子高齢化が急速に進行している。少子化は、識字率の向上による出生率の低下という近代化の一般的傾向だが、わが国は、それが極端に進行している。
 人は、親子・夫婦・祖孫の生命のつながりの中で生まれ、また育つ。個人はアトム的個人ではなく、家族はアトム的個人の寄り集まりではない。家族は、社会の最小単位であり、また生命と文化の継承の場所である。父性と母性が協力し、それぞれの特徴を発揮するところに、健全な子育てができる。親の愛受けて成長した子供は、自己を確立し、自立した大人となり、自らも家庭をつくり、子供を生み育てる。そこに個人の自己実現が達成されるとともに、集団における生命と文化の継承が実現する。
 家族の復権なくして、日本の再建はなしえない。明るい家庭が、明るい社会の基礎である。調和のある家庭が、調和のある世界の基礎である。

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・拙稿「家族の危機を救え!

<課題10 生命力の発揮〜健康と生命に基づく国づくりを>

 多くの人は病気になったら薬を飲む。薬が病気を治すと思っている。実はそうではなく、自然治癒力があるから治る。薬は自然治癒力を補助するに過ぎない。不健康な生活をして病気になり、安易に薬や医者に頼る。そのため、今日のわが国では、病院が続々と建てられても満杯になり、医療費が国家財政を圧迫し、財政赤字が増える原因ともなっている。これでは個人としても国家としても、健康な状態ではない。
 国民が健康を失えば、国家は衰亡する。健康という点から、国家のあり方を考え直すべきである。健康と生命に基礎を置いたものの考え方、生き方を回復する必要がある。
 生命力を発揮することができれば、人は医薬に頼らずに健康に過ごせる。また大抵の病気は治る。極度に生命力が発揮されるときには、ガン・難病等も治癒する。お産にしても、自然分娩で無痛安産ができる。健康で寿命を全うし、大安楽往生ができる。脳細胞が活性化し、頭部が隆起する。それだけ偉大な生命力が、人間には内在している。その生命の偉大さを自覚してこそ、個人・家族・社会・国家・人類の発展がある。
 まず自分に与えられている生命力を維持・増進するよう努力すること。そういう考え方を、個人も国家も基礎に置くことが必要である。脱少子化の取り組みも、ここに根本を置くべきである。

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・拙稿「脱少子化は、命と心の復活から

<課題11 自然との調和〜人類文明を自然と調和あるものに>

 文明は自然に働きかけ、環境に変化をもたらす。文明は古代からそういう側面をもっていた。しかし、多くの場合、自然の回復力は人間による変化をはるかに上回っていた。だから、人類は人口を増やし、文化を発達させることができた。しかし、近代西洋文明はユダヤ=キリスト教、資本主義、近代国家、産業革命が合体したことにより、自然を征服・支配する文明を生み出した。これを自然と調和する文明に転換することが必要である。
 石油・石炭のような化石燃料をエネルギー源とすれば、温暖化や大気汚染等を引き起こす。これに替わるクリーンな自然エネルギーの活用を推進しなければならない。太陽光を中心とした再生可能な自然エネルギーの活用は、21世紀の産業革命ともいえる産業と文明の変化をもたらすと期待されている。
 近代西洋文明の根本は、神なき自然、魂なき自然、物質としての自然という自然観に基づく。これに対し、自然を単に物質・エネルギー循環のシステムと観るのではなく、人間の生命や心霊と通底したものと感じる心を取り戻すことが必要である。環境保全のためのエコロジーも、生命的心霊的な自然観に裏付けられる時、自然と調和した文明を生み出すものとなるだろう。先進国の中で唯一、わが国は今日でも、神道の自然観を保っている。森を守り、海を守る日本人の心を今日の地球に生かすことにより、人類文明の転換に貢献し得るのである。

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・マイサイト「自然」の拙稿

<課題12 精神的な向上〜日本精神の真髄を学び実践する>

 1〜11の課題を実行する上で、最も大切なのは、日本の伝統・文化・国柄を知り、日本精神を取り戻すことである。日本人が世代を超えて伝えてきた、人と人、人と自然が調和して生きる生き方を回復することが求められている。日本精神に基づいて、家庭・社会・国家を建て直すこと。さらに、日本精神の奥底に存在する自然の理法を自覚・体得することが、21世紀の日本人の課題である。
 近代西洋文明は、近代西洋思想に基づく。近代西洋思想の行き着くところは、個人主義と唯物主義である。心の現象は、脳の物質現象と見る。また人間の存在をパーソナルでローカルなもの、個別的で局所的なものと観る。個人中心で、現実世界限定の人間観は、道徳の低下や精神の荒廃を生み出す。生の目的は、金銭の獲得と欲望の追求になる。既成宗教は陳腐化し、脱宗教化した人々を善導することができない。こうした今日、新しい精神文化の興隆が待望されている。
 私は、21世紀の人類を導く精神文化は、日本から出現すると確信している。日本人には、自らの伝統的な精神を取り戻し、その精神に内在する原理を発動して、世界人類を精神的な向上に導く使命があると思う。日本精神の真髄を学び、実践する人が一人でも多く増えることを期待したい。

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・拙稿「心の近代化と新しい精神文化の興隆

・再び「基調」へ

 以上、日本人が日本再建のために取り組むべき基本課題を12点提示した。大東亜戦争の総括、占領政策の克服、自主憲法の制定、皇室の復興、国民の復活、自主国防の整備、誇りある歴史の教育、日本的道徳の回復、家族の復権、生命力の発揮、自然との調和、精神的な向上である。これらの課題への取り組みは、後の章で述べる人類の課題を実行する上で日本に期待される役割を果たすためにも必要なことである。ページの頭へ

 

12章 国連の人権活動と世界の現状

 

●国連憲章と世界人権宣言

 

 第2章「勝者が支配する戦後世界」の(2)「国際連合による国際秩序」で、戦後世界における「国際連合=連合国」の役割について概術した。国際連合は、第2次世界大戦の連合国が作った国際組織である。戦後は、これに植民地から独立した国々が多数参加することによって、組織の性格を一部変えてきている。

 国連は、現代世界史で重要な役割をしてきている。国連の本質は、連合国が発展した軍事組織である。また経済的には、第2次大戦後の世界を復興させ、経済開発を進める組織としても機能してきた。さらに、国連は人権を擁護し発達させる組織としても成長し、21世紀に入ると、人権が国連の取り組みの主流となった。軍事的な安全保障に加えて、人間の安全保障の実現を目指し、また経済開発だけでなく人間開発を推進する組織となっている。

 こうした国連の役割のうち、人権に関することをここに書く。人権の思想は、17世紀から西欧で発達した。イギリスの権利章典、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言等を経て、20世紀以降、世界的に広く普及している。当初は生命、自由、財産の権利を中心とした自由権の確保・拡大を目指すものだったが、勤労、生存、教育に関する社会権が加わり、さらに権利の範囲を拡大しながら発達している。

 私は、別に「人権――その起源と目標」を書いているところであるが、そこで述べているように、私は人権とは「生得的・普遍的な人間の権利」ではなく、「発達する人間的な権利」と捉えている。本稿では、ここで戦後世界で「発達する人間的な権利」が国連を中心にどのように発達してきたか、また現在、どのような段階にあるかの概略を記す。

 連合国の米英ソ中の代表は、1944年(昭和19年)8月ワシントン郊外で開催されたダンバートン・オークス会議にて、国際連盟に代えて国際連合を設立することを決めた。45年(昭和20年)6月のサンフランシスコ会議において、「国際連合=連合国」の憲章が採択された。51カ国が「国連憲章=連合国憲章」に調印した。「憲章」は、枢軸国と戦う連合国の憲章だった。日本の敗北による大戦の終結の後、45年10月に原加盟国51カ国で、国際機構としての「国際連合=連合国」が改めて発足した。

 国連憲章は第1条に「連合国=国連」の4つの目的を定めた。第一は、国際の平和及び安全の維持、第二は、人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係の発展、第三は、経済的、社会的、文化的または人道的性質を持つ国際問題の解決、並びに人権及び基本的自由の尊重を助長奨励することについての国際協力の達成。第四は、これら三つの目的の達成のために果たす中心的な役割である。これらのうち第三の目的の一部に、人権に係ることが盛られている。すなわち、「人種、性、言語又は宗教による差別なく、すべての者のために人権および基本的自由を尊重するよう助長奨励することについて、国際協力を達成すること」である。この文言を端緒として、戦後、人権の思想が世界に広がることとなった。

 国連は、連合国という軍事同盟に基づくものであり、国連による人権の国際的保障は、この軍事同盟による「力の秩序」を前提としたものである。武力による国家間の権利と権力の関係の維持の上に、個人の自由と権利の保障が進められたのである。

 国連には先の4つの目的を達成するために、6つの主要機関が設けられた。総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所及び事務局である。このうち、国際的人権保障にかかる主な機関は、総会、経済社会理事会である。1946年に経済社会理事会の補助機関として人権委員会が設立された。同年、人権委員会の中に「世界人権宣言(the Universal Declaration of Human Rights)」の起草委員会がつくられた。約1年半の準備を経て、48年12月10日に、第3回国連総会で世界人権宣言が採択された。

 世界人権宣言は、「連合国憲章=国連憲章」を受けて、人権を規定したものだった。「憲章」あっての宣言であり、また「宣言」によって「憲章」にいう人権がより具体化された。

 2度にわたる悲惨な世界大戦の後、連合国の国民は、世界人権宣言の前文を、次のように始めた。「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等で奪い得ない権利を認めることが世界における自由、正義及び平和の基礎をなすものである」と。続いて、「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する」と宣言した。ここに近代西欧で発達した人権の思想は、世界的な宣言という形で表現された。前文に続いて、「宣言」は、「人権及び基本的自由」を30条にわたって列挙した。そこで「宣言」は、17世紀以降発達した古典的な自由権を主としつつ、20世紀的な人権とされる社会権をも規定している。労働権、生存権、教育を受ける権利、社会保障を受ける権利、文化を享受する権利等である。それゆえ、「宣言」は、普遍的・生得的な「人間の権利」を定めるものではなく、歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」を定めたものである。すなわち、世界人権宣言は、「発達する人間的な権利」を宣言した文書である。

 世界人権宣言は国連総会決議として採択された。総会決議の性格上、国家に対する法的拘束力を持たないことを前提としていた。理念を謳うだけの政治的文書だった。そこで、後に「宣言」に補正を加えて条約化されることになった。それが国際人権規約である。

 

関連掲示

・拙稿「人権――その起源と目標

 

●国際人権規約と各種国際人権条約

 

 1960年代には、国連に加盟する発展途上国の数が急増した。「国際連合=連合国」は、第2次大戦の戦勝国による国際秩序の固定化を目指す組織だが、新興国が大挙して加盟したことにより、その性格を変えてきた。アジア、アフリカで増加する国民国家は発言力を増し、旧宗主国と旧植民地、白人諸国と有色人種諸国、大国と中小国等の間の強力や調整が求められるようになった。国際社会の多数派を占めるに至った有色人種新興国は、人権を享有する上で民族自決は前提条件であると主張した。この大きな流れの中で、国際人権規約が、1966年(昭和41年)12月16日に、国連総会で採択された。

 国際人権規約は、世界人権宣言のもとで、人権の理念を具体化し加盟国を直接に拘束する効力を持つ条約である。国際人権規約は、A規約・B規約という二つの規約の総称である。A規約は社会権規約、B規約は自由権規約である。これらの規約は基本的に世界人権宣言を条約化したものであり、人権の国際的保障の仕組みにおいて、最も重要な位置を占めるものとなっている。

 人権は近代西欧で、まず国家権力の介入からの自由として発達した。それゆえ、その権利すなわち自由権は「第1世代の人権」と呼ばれる。次に、資本主義の発展により生じた社会的矛盾を解決するために、国家の積極的関与によって実現される権利が発達した。それゆえ、その権利すなわち社会権は、「第2世代の人権」と呼ばれる。これら第1世代、第2世代の人権は、ともに20世紀半ばに、世界人権宣言及び国際人権規約に規定されるものとなった。

 さらに国際人権規約は、第1世代、第2世代だけでなく、新たな権利をも定めた。それが「第3世代の人権」と呼ばれるものである。自由権、社会権に対し、「連帯の権利」と称される。その代表的なものが「発展の権利」である。他に「環境と持続可能性への権利」「平和への権利」等が提起されている。

 「第3世代の人権」のうち「発展の権利」は、白色人種の支配から独立を勝ち得た有色人種の要望によって承認されたものである。自由権規約・社会権規約の双方に定められた。そして1986年の「発展の権利宣言」、1993年の「ウィーン宣言及び行動計画」を経て、国際社会に定着した。

 世界人権宣言及び国際人権規約は、主に普遍志向的な権利を定めたものだが、それだけでなく、特殊的権利をも定めている。その後者を拡張する形で特殊志向的な人権条約が制定されてきた。それが地域的人権条約及び個別的人権条約である。これらの人権条約は、第1世代、第2世代の人権を特殊志向的に発達させてきた。

 1951年(昭和26年)に欧州人権条約、69年(44年)に米州人権条約、81年に(56年)アフリカ人権憲章等が採択されてきている。これらを地域的人権条約という。欧州に続いて、米州・アフリカで地域的な人権条約が作られたことは、非西洋社会は西欧発の人権観念を受容すると、これを自分たちの権利意識に合うように修正しつつ、発展させていることを示している。なお、世界で最大の人口を擁するアジアでは、地域的な人権条約は作られていない。このことは、アジアの権利意識が欧米と共通だからではない。逆に違いが大きいためである。

 国連は総会が採択した国連憲章と世界人権宣言のもとに、漸次国際人権法の拡大をはかり、個別的条約を制定してきた。個別的人権条約には、ジェノサイド、人種差別、アパルトヘイト、女子差別、拷問等の特定の行為や慣習を禁止する禁止条約と、難民、子ども、障害者、移住労働者、先住民族等の特定の集団の権利を保護する保護条約がある。

 国際人権諸条約に定められた個人の自由及び権利が国家の体制のいかんを問わず、実現すべき価値であるという認識は、大局的には深まりつつある。また国際人権規約の自由権規約及び社会権規約は、今日ともに160以上の国が締約国となっている。個別的人権条約についても、締約国が最も多い子どもの権利条約は190以上の国が締約国となっている。また女性差別撤廃条約も締約国は180以上となっている。それにもかかわらず、人権の思想の根本にあるべき人間観について、人類は未だ共通の認識を形成できていない。人類が共有しうる新しい人間観の構築が求められている。

 

●人間開発と人間の安全保障

 

 人権に関する取り組みにおいて、1990年代から重要な位置を占めるようになっているのが、「人間開発」と「人間の安全保障」という二つの概念である。

 戦後世界では、国連とともにIMF・世界銀行等の国際金融機関が国際社会の政治的経済的秩序の維持を図っている。これらの国際金融機関は、大戦の疲弊からの復興と経済成長を目指してきた。そこで用いられる開発の概念は、GDPに代表されるような、ものやサービスの生産の量的な拡大を意味するものである。

 これに対し、パキスタン出身の経済学者マーブブル・ハクは、「人間開発」という概念を提示した。人間開発の概念は、従来の経済開発中心の路線から人間中心の発展路線への方向転換を促した。そして国内総生産(GDP)や国民総生産(GNP)に反映されるような商品の生産に偏りすぎていた人々の目を、人間の生活の本質と豊かさに向けさせた。ハクは、人間開発の概念を用いて、国連を中心に国際的な正義の実現を図る政策を推進した。

 1970年代以降、政治哲学者ジョン・ロールズの正義論の影響により、正義(justice)は主に自由と平等に関する公正(fairness)、正義の実現は不平等や格差の是正を意味するようになっている。

 インド出身の経済学者アマルティア・センはハクに協力し、「人間開発指標(Human Development Index、HDI)」を作成した。GDP等の数値化された経済指標に対し、人間開発を定量化し、客観的に評価できるように考案したものである。具体的には、出生時平均余命、識字率、購買力平均で調整した一人当たりGDPという三つの指数を用いて算出する。数値によって、各国を上位国、中位国、下位国に分ける。HDIによって、人間開発は、21世紀の国際開発協力の新しい理念となった。

 人間開発とともに、もう一つセンが提案して現代世界に重大な影響を与えているのが、「人間の安全保障」の概念である。センは、1994年次の国連開発計画(UNDP)による『人間開発報告書』で、この概念を打ち出した。人間の安全保障とは、「人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現すること」と定義される。人間の安全保障論は、発展途上国における貧困、階級や所得格差に基づく不平等などが内戦・紛争を引き起こす主な原因であり、社会や政治における民主的な発展が、平和を実現する道であることを主張する。伝統的な安全保障は国家安全保障だが、人間の安全保障は個々の人間の安全を保障しようとする。国家の安全保障と人間の安全保障は対立するものではなく、相互補完的な関係にあるとされる。

 人間の安全保障という考え方は、短時日に世界中に広がった。冷戦終結後の世界において、地域紛争の多くは発展途上国で起こっており、その状況に対応するために、人間の安全保障は不可欠の概念となった。

 人間の安全保障の主な領域は、経済・食糧・健康・環境・個人・地域社会・政治の7つある。そしてこのような人間の安全保障を実現する新しい開発のパラダイムとして、「持続可能な人間開発」がある。「持続可能な人間開発」は、地球環境の保全と経済成長の調和を図る「持続可能な開発」という概念をもとにしている。「環境と開発に関する世界委員会」は、持続可能な開発を「将来世代の必要を満たす能力を損なうことなく現存世代の必要を満たすような開発」と定義している。「持続可能な人間開発」は、開発を単に経済的な開発でなく、広く人間開発としたものである。世代間と世代間の公平を重視し、現在の世代も将来の世代もともにケイパビリティ(潜在能力)を最大限に発揮できるような開発である。ケイパビリティは、実際に人が何かをすること、または何かになることができる能力を意味する。「持続可能な人間開発」は、また人間・雇用・自然を重視し、貧困の撲滅、生産性の高い雇用の創出、女性の社会参画、環境の保全と再生を重視する考え方である。

 人間開発と人間の安全保障は相補的なものであり、大まかに言うと、人間開発が自由の拡大を目指し、人間の安全保障が平等に考慮するという関係にあると言えよう。

 国連では、2006年(平成18年)に総会の補助機関として国連人権理事会が設置された。旧人権委員会が格上げされたものである。それ以来、国連の人権活動は新たな局面に入り、国連では人権の主流化が進んでいる。その中で、人間開発と人間の安全保障は、国連の活動の柱となる重要な概念である。

 

●中国と発展途上国の人権状況

 

 今日、世界の独立国は、約190カ国を数えるにいたっている。その大多数は、植民地から独立した有色人種の発展途上国である。その多くでは、白人種によって剥奪されていた統治権の回復はされたものの、人民の自由と権利はいまだよく発達していない。アジア、アフリカ、ラテンアメリカ等の多くの地域に、貧困、不衛生、飢餓、内戦、虐待、環境破壊等の問題が存在する。これらの問題の解決には、まず国家が集団として持つ権利が確保・拡大され、そのうえで個人の自由と権利が保障されるようになければならない。

 発展途上国における国家権力の強化は、しばしば独裁や腐敗を生み、またそれが固定化される。経済発展と国民形成はうまくいかず、混迷と混乱が続く。先進国側は人権の擁護のための関与の正当性を主張し、途上国側は人民の自決権を援用し、関与を内政干渉として非難する。

有色人種の国家の多くは、欧米・日本等の近代化の先進国より、人権状況が良くない。最初に、共産中国をその例として挙げねばならない。共産中国は、国連安保理の常任理事国だが、国民の権利を強く規制しており、特に少数民族に対しては激しい弾圧を行っている。中国は1950年(昭和25年)にチベット侵攻を開始し、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺以後最大のジェノサイド(民族大虐殺)を行ってきている。

 2008年(平成20年)4月、国連人権理事会で、欧米はチベットの人権問題を取り上げようとした。ところが、中国は内政干渉だと反発し、これにキューバ等の独裁国家が加勢し、議題として取り上げられることもなく、同理事会は会期を終えた。中国は、チベットだけでなく、新疆ウイグルでも、弾圧・虐殺を行い、人権問題が生じている。チベット人は仏教徒だが、ウイグル人はイスラーム教徒であり、唯物論的な共産主義による宗教への迫害ともなっている。中国では、共産党により、民主化運動家への弾圧、インターネットへの監視・規制、法輪功への弾圧、生体からの臓器取り出し等が行われている。2010年(平成22年)、民主化運動家・劉暁波にノーベル平和賞が贈られると、中国政府は激しく抗議し、劉を事実上の軟禁状態に置いている。国際的に中国の人権弾圧への非難が高まっているが、現在も人権の擁護・普及の世界的な中心であるはずの国連で、中国の人権問題は、議論らしい議論が行なわれない。

 世界の現状を物語る別の例として、北朝鮮への対応がある。北朝鮮では、金日成・金正日政権のもと、多くの日本人を含む外国人の拉致が行われた。国内では、農業政策の失敗のため、300万人が餓死したといわれている。2003年(平成15年)4月、国連人権委員会は、北朝鮮が多くの国民を強制収容所に送り込み、拷問をし、幼児を餓死させるなど、人権を蹂躙していると非難して、「組織的かつ広範囲で重大な人権違反を犯している」という決議をした。この決議は日本人拉致問題の全面的解決を要求した。とはいえ、この委員会には、国内で人権を蹂躙している多くの諸国が名を連ねていた。議長国が、カダフィーを元首とする専制国家当時のリビアだったことは、皮肉なことだった。他の構成員にも人権問題を抱える途上国が多くあった。この委員会は、北朝鮮による人権侵害を糾弾する決議を採択したものの、中国におけるチベットでの弾圧、ロシアによるチェチェンの陵辱には目をつぶった。中国やロシアの人権問題について国連で議論らしい議論がされないのは、これらの国が安保理常任理事国だからである。こういう現状ゆえ、国連は「人権のとりで」としての存在意義が問われている。国連憲章、世界人権宣言、国際人権規約の思想と、国連の実態は乖離している。

 各地の発展途上国に目を向けると、バルカン半島のボスニアにおけるムスリムへの虐殺・虐待・強姦等は、民族浄化(エスニック・クレンジング)といわれるほど、苛烈なものである。アフリカ北東部の南スーダンのダルフール地方における紛争は、多くの難民を生み出している。その他、イラク、エチオピアのソマリ州、コンゴのギブ地方、ジンバブエ、ソマリア、パキスタンの北西部、シリア等、近年その国の国民の権利が著しく侵害されている国は、少なくない。問題の原因には、宗教的対立、少数民族の独立運動、相対的強国による併合、為政者の独裁・専横、資源確保を図る先進国の関与等がある。専制国家、独裁国家においては、特権的な支配集団を除く多数の国民が権利を制限され、多民族国家・多宗教国家においては、少数民族や少数集団が権利を制限されている例が多い。

 人権問題の対処としては、国連がその国の政権に対して非難決議をしたり、国際社会が経済的等の手段によって制裁を加えたりして、政治体制の変化を促すことがある。また安保理の決議によって、国連平和維持活動(PKO)の組織や国連平和維持軍(PKF)が活動し、治安と秩序の回復を図る。だが、安保理は、常任理事国の意見が一致しなければ、国連としての組織的な行動は取らない。その場合、特定の国家やそれに連携する国家群のみで行動を起こすことがある。その戦争が侵攻戦争なのか人道支援なのか、今のところ客観的な基準は存在しない。立場・利害が異なると、軍事行動に対する評価は大きく異なる。軍事行動の目的も、主は人権の擁護より、石油・天然ガス等の資源の確保にあることが多い。

 もう一点、今日の世界の人権状況を示すものとして、難民の問題を挙げたい。難民については、個別的人権条約の一つとして、1951年(昭和26年)に難民条約が締約された。難民条約は、第1条A(2)にて難民を定義している。難民の要件は、迫害の恐怖、国籍国の外にあること、国籍国の保護の喪失の3つとする。こうした難民を狭義の難民または条約難民という。迫害を受ける理由は、人種、宗教、国籍、特定の社会集団または政治的意見の5つとされる。それゆえ、戦争や内乱、自然災害によって国を追われる人々は、難民ではない。また、国籍国の外にあることが要件ゆえ、国内にとどまっている者も同様である。国籍国の外にあっても、国籍国の保護を受けている者も同様である。

 難民条約が定める狭義の難民に対し、外国軍隊の侵攻や内戦、食糧危機等により生じた国内避難民、人道上の難民等を、広義の難民という。国内避難民とは、武力紛争や内乱、自然災害、大規模な人権侵害等によって、難民と同じく移動を強いられているが、国境を越えていないので難民とは分類されない人々である。国内避難民は、国籍国の保護を期待できないという点に関しては、難民と共通した境遇にある。

 わが国の外務省によると、2009年(平成21年)末の時点で、世界における難民及び国内避難民は、4,300万人を超えるといわれる。日本の人口の3分の1である。それだけの人々にとって、母なる地球は安住の地となっていないのである。

 国連は、世界の人権状況を改善する中心的な国際機関だが、そこに自らの思想を浸透させて利用しようとする勢力が存在する。そうした勢力が関わっているものの一例が、戦前の日本軍の慰安婦問題である。1996年(平成8年)に国連人権委員会(現人権理事会)に出されたクマラスワミ報告書は、慰安婦を「性奴隷」と定義し、その人数を「20万人」と記述した。この報告書は、虚偽の証言であることが明白な吉田清治の著作を基にしたものだった。慰安婦を強制連行したという吉田の作り話を32年間にわたって事実として報道してきた朝日新聞は、2014年(平成26年)8月、吉田証言に関する記事の取り消しを行うことを発表した。だが、その発表を受けたクマラスワミ女史は、報告書の修正は行わないと述べている。事実の調査・報告よりも、思想の浸透が目的となっているからだろう。

 慰安婦問題以外にも、さまざまな国連機関が、日本の責任を追及する報告書や勧告を相次いで出してきた。この背景には国連を利用し、自らの主張を通そうとする左派・リベラル系団体の活発な動きがある。彼らは、NGO(非政府団体)という公認の団体を通じて、国連諸機関に働きかけて、自国の政府への批判や他国の政府への攻撃を行い、党派的・民族的な利益を実現しようとしている。市民運動の名目で、国際的な左翼や反日勢力が活動している。人権は普遍的・生得的な価値と思われやすく、また国連機関は一見政治的に中立な機関であるので、国連機関から人権問題として指摘されると、抗弁がしにくい。それゆえに、国際的な左翼や反日勢力の巧妙な活動には十分な注意が必要である。

 

●ミレニアム宣言とその実行状況

 

 21世紀を翌年に控えた2000年(平成12年)の9月、ニューヨークで、国連ミレニアム総会が開催された。ミレニアムとは、1千年紀を意味する。このミレニアム・サミットには、189の国連加盟国が参加した。各国の代表者たちは、21世紀の国際社会の目標として「国連ミレニアム宣言」を採択した。この宣言は平和と安全、開発と貧困、環境、人権とグッドガバナンス(良い統治)、アフリカの特別なニーズなどと課題として掲げ、宣言と既存の国際開発目標を統合し、「ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals、略称MDGs)」という共通枠組みとしてまとめた。

 「ミレニアム開発目標」は、次の8つの目標から構成されている。

 

<目標1> 極度の飢餓と貧困の撲滅

 2015年(平成27年)までに1日1ドル未満で生活する人の人口比率を半減させ、栄養失調を半減させる。

<目標2> 普遍的初等教育の達成

 2015年までにすべての子供が男女の区別なく初等教育を修了できるようにする。

<目標3> ジェンダー平等の推進と女性の地位向上

 初等・中等教育における男女格差をできれば2005年まで、遅くとも2015年までに解消する。

<目標4> 乳幼児死亡率の削減

 2015年までに5歳未満児の死亡率を3分の2減少させる。

<目標5> 妊産婦の健康の改善

 2015年までに妊産婦の死亡率を4分の3減少させる。

<目標6> HIV/エイズ、マラリア、その他の疾病の蔓延防止 

 HIV/エイズの蔓延を2015年までに阻止し、その後減少させる。

<目標7> 環境の持続可能性の確保

 2015年までに安全な飲料水と衛生設備を継続利用できない人々の割合を半減する。

<目標8> 開発のためのグローバル・パートナーシップの推進

 最貧諸国への特恵的措置によって、援助と貿易を改革する。

 

 これらの目標を達成するため、富裕国は貧困国に援助を行う。援助額は、各国の対GNI比で、2010年には0.5%、2015年には目標の0.7%を達成できるように拠出公約を行わなければならないとした。GNIは国内総所得である。

 だが、国連開発計画が発行した2005年版の『人間開発報告書』は、このままでは2015年を目標年次とするMDGsの達成が危ぶまれるという危機感を示し、富裕国から途上国への国際協力の抜本的改革を主張した。『報告書』は、大意次のように記している。

 最富裕層10%の所得の1.6%(3000億ドル)を再配分するだけで、1日1ドル未満で生活する10億の人々を、極度の貧困から上に押し上げることができる。

 人間開発の観点から不平等が問題になるのは次の5つの場合である。

 

(1)社会正義と道徳:許容可能な剥奪状況には限度があり、著しい不平等は是正すべきである。

(2)貧困層の優先:ほとんどの人々は豊かで大きな特権を享受している人々よりも貧しく恵まれない人々の所得やサービスといった暮らし向きの改善を優先すべきことを認めている。(3)成長と効率:財産、ジェンダー、宗教的差別のために社会の成員の多くが資産と資源を十分に得ていない場合、社会全体は非常に非効率であり、そのような社会では、より大きな平等と効率は相互補完的である。

(4)政治的正当性:弱者集団である貧困層、女性、農民、先住民族のコミュニティが、政治的な発言力が弱く、不利な立場に置かれたままであると、それが政治の正当性を弱め、制度を腐敗させる。

(5)公共政策の目標:多くの社会では、貧困を削減し、不当な不平等を取り除くことが公共政策の重要な目標と見なされているが、極端な格差がこのような目標の追求を阻んでいる。

 

 本年は2014年。ミレニアム開発目標の達成期限は、来年の2015年末である。現在世界平均では貧困の半減を達成しつつあるが、アフリカでは15パ―セント程度しか達成できておらず、期限までの目標達成は極めて難しい状況である。

振り返ると、2000年(平成12年)9月ニューヨークでミレニアム宣言が出された翌年の9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルが倒壊した米国同時多発テロ事件が起こった。米国政府は9・11をきっかけに、アフガニスタン戦争及びイラク戦争を開始した。これに対し、反米的な国際テロ活動が繰り広がられてきた。上記の2005年版『人間開発報告書』の3年後には、米国発のリーマン・ショックが起こった。それにより、世界各国の経済は大きな打撃を受けた。国連を中心とした国際的な貧困撲滅・人権擁護等の活動は、こうした現実世界の激動の中で行われており、国際情勢の影響は避けられない。

 

●国際的にガバナンスの向上が求められている

 

 国際社会の諸問題に取り組むために、国連を中心にガバナンスの向上が必要である。ガバナンスとは、統治のあり方のことである。良い統治の要件には、責任の明確性、透明性、予測可能性、公開性、デモクラシー、法の支配などが挙げられる。発展途上国の政府が効率的かつ公正な開発を進めるためには、これらの要件を満たすような「良い統治」の確立が求められている。

 国連開発計画による2002年版の『人間開発報告書』は、「ガバナンスと人間開発」を主題とし、人間開発の観点からガバナンスの向上について報告した。それによると、人間開発を推進するためには、人々のための人々による民主的なガバナンスが確立される必要がある。

 民主的ガバナンスは次の3つの理由で人間開発の前進に役立つ。その3つは、次の通りである。

 

(1)政治的自由を享受し、自らの生活を形成する意思決定に参加することは、それ自体が人間開発の一部をなす基本的人権であること。

(2)デモクラシーの下での選挙と報道の自由が、飢饉や無秩序への後退などの経済的、政治的破局から人々を守るのに役立つこと。

(3)民主的ガバナンスは政治的自由と市民参加による社会的経済的機会の拡大により、開発の好循環を引き起こすこと。

 

 一方、発展途上国や移行経済国においてデモクラシーの推進に努めている国際機関に対しても、デモクラシー、透明性、説明責任の拡大が求められている。

 こうしたガバナンスの向上が必要なのは、まず「国際連合=連合国」そのものである。向上のために、国連の代表制の基礎を拡大する改革案が出されている。改革案は、次の3つに絞られている。

 

(1)政府や官僚だけでなく、市民社会組織の参加を認め、発言者の多元化を図って代表制を拡大すること。

(2)権力の不均衡を是正し、いっそう民主的な意思決定手続きを持つ組織とすること。

(3)安全保障理事会の常任理事国5ヶ国に与えられた拒否権は、非民主的であり、これを撤廃もしくは縮小すること。

 

 私は、これら3点の意義を認めるとともに、国連憲章の敵国条項の削除を加えることを提案する。「国際連合=連合国」の発端は、枢軸国に対する軍事同盟だった。そのため「国際連合憲章=連合国憲章」は、旧敵国である枢軸国に対し、旧敵国条項を定めている。旧敵国条項とは、第2次大戦中に連合国の敵国であった国々に対し、地域的機関などが、安全保障理事会の許可がなくとも強制行動を取り得ること等が記載されている条項である。その対象とされる日本、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランドは、大戦後、国連に加盟し、その一員として誠実に努力してきている。それにもかかわらず、戦勝国はいざとなれば自由に日本等に攻め入ってもいいという条項が、半世紀以上もそのままになっている。まず敵国条項を削除することが、国連を出発点に戻って改革し、ガバナンスを向上させるポイントである。

 次に、世界の貧困を低減し、過度の不平等を是正するためには、国際金融機関の改革が必要である。国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(世界銀行/IBRD)、世界貿易機関(WTO)等の国際金融機関においては、デモクラシーの原則を推進するため、発展途上国が組織の意思決定に影響力を行使できるようにする必要がある。それには、現在IMFと世銀の投票権の半数近くを、アメリカ、日本、フランス、イギリス、サウディアラビア、ドイツ、ロシアの7ヶ国が持っている体制を変え、議席と投票権の配分方法を発展途上国の利害を適正に反映できるように改める必要がある。

 IMFと世銀は、今日ではもっぱら途上国と移行経済国を対象に貸付を行っている。移行経済国とは、中央集権的計画経済から自由主義的市場経済への移行をめざす旧社会主義諸国をいう。これらの機関において発展途上国等の代表を増やす方法として、3つ挙がっている。

 

(1)各加盟国に割り当てられている基礎票の割合を高めること。

(2)これらの機関内での途上国の発言権を拡大すること。

(3)これらの機関に自らの行動の説明責任を徹底して果たさせること。

 

 次に、WTOは、全加盟国が議席と投票権を持っているものの、実際の意思決定は舞台裏で行われており、発展途上国等から強い反発がある。この機関の透明性と参加の改善のための方法として、次の3点が提案されている。

 

(1)討議、交渉を公表し、意思決定を民主的で参加型のものにすること。

(2)発展途上国を無視して大国寄りの立場を取ることのないように不偏の立場を維持すること。

(3)各国の国内政策や実施に影響を与える可能性を考慮し、WTOも透明性を実現すること。

 

 IMF、世銀、WTOの改革については、既得権益を持つ国々を中心に強い抵抗がある。だが、発展途上国や移行経済国に対して、ガバナンスの向上を求めるのであれば、それを推進している国際機関そのものが、ガバナンスの向上を行うことが必要である。

 ガバナンスの向上については、国民国家やそれを基盤とした国際機関ではなく、国家の枠組みを超えたグローバル・ガバナンスの向上を求める動きもある。例えば国連開発計画が発行した1999年版の『人間開発報告書』は、国際組織が人間開発のための国際・国内・地方レベルの行動をいっそう支援するために、グローバル・ガバナンスについて、次の5つの変革が必要であるとした。

 

(1)生命・自由・正義・平等の尊重といった価値観や基準、態度を共有し、グローバルな倫理と責任を強化すること。

(2)グローバル・ガバナンスに全世界の人々を対象とした貧困緩和、公平さ、持続可能性といった人間開発の優先課題を組み入れ、人間開発と社会保護の原則をグローバルな経済統治の概念と実施に導入すること。

(3)とめどない共食い競争を防ぐために地域協定とグローバル協定を採択し、労働基準や環境規制を守らせること。

(4)多国籍企業のグローバルな倫理規範を策定し、そのモニタリングのため、企業、労働組合、NGOからなるグローバル審議会を設立すること。

(5)人間性重視のガバナンスに対するグローバルな関わりを強化し、世界市民意識を高めること。

 

 一見して分かるように、ここには国連等の国際機関に強い影響力を持つコスモポリタニズム(世界市民主義)の思想が色濃く表れている。現代のコスモポリタニズムは、個人主義、平等、そして普遍性という三つの要素からなり、その価値単位は個々の人間としている。コスモポリタニズムは、ネイション(国家・国民・共同体)の政治的・経済的・文化的な役割を認めず、世界市民意識を以てガバナンスの改革を進めようとする。そのため、ネイションの責任遂行能力を生かすことができず、国際社会で有効な改革を進めることができない。これに対し、コミュニタリアニズム(共同体主義)やリベラル・ナショナリズムの立場から、コスモポリタニズムのもとにあるアトム的な個人という近代西欧的な自己像を批判し、共同体やネイションの独自の価値を評価したうえで、国際社会の現実を踏まえた改革を行うことが主張されている。ページの頭へ

 

結章 人類の課題と日本の役割

 

(1)地球環境破壊等の危機を乗り越える

 

●地球環境の危機

 

21世紀における人類の課題は、環境・エネルギー・食糧・人口・核戦争等の地球規模の諸問題による危機を乗り越えて、物心調和・共存共栄の新しい文明を築くことである。現代の眺望を踏まえて、人類の課題と日本の役割について書きたい。

 

最初に、地球規模の諸問題について、地球環境破壊から述べる。

 人類が、地球環境の危機を認識し、取り組みを始めたのは、まだそう古いことではない。
 人類が、地球というこの惑星を自らの住まいと自覚したのは、宇宙から撮影した一枚の写真による。1968年(昭和43年)12月24日、アポロ8号が撮った宇宙に浮かぶ、青く輝く地球の写真である。この写真が世界中に報道されたことによって、人々は、はじめて「地球意識」とでもいうべき新しい意識を持つようになった。
 翌69年(44年)7月20日、人類史上初めて、有人宇宙船が月に着陸し、アメリカのアポロ11号の乗組員が、月面に降り立った。まさに歴史的な瞬間だった。

 以後、地球環境を考える運動や、宇宙や地球を意識した文化運動、自然回帰の生活運動等が、先進国を中心に叢生した。地球にギリシャ神話の大地の女神の「ガイア」という名前をつけ、地球を意識を持った存在のようにとらえる考え方も広がった。
 地球規模の環境問題について、人類が最初に国際会議を開いたのは、1972年(昭和47年)だった。その年の6月、ストックホルムで、国連人間環境会議が開催され、114ヶ国が参加した。キャッチフレーズは、「かけがえのない地球 (Only One Earth)」。経済学者バーバラ・ウォードと生物学者ルネ・デュボスが、地球と人類の文明の危機を伝える報告をした。かけがえのない地球を守るために「人間環境宣言」及び109項目の「環境国際行動計画」が採択された。会議の初日だった6月5日は、「世界環境デー」に定められた。しかし、その後、人類は、地球環境やエネルギー・食糧・人口等の問題に、十分有効な取り組みをできていない。
 国連人間環境会議が開かれた同じ年、ローマ・クラブの委嘱した研究グループが、『成長の限界』という報告書を発表し、世界的に大きな話題を呼んだ。研究グループは、マサチューセッツ工科大学(MIT)内に置かれ、ドネラ・H・メドウズ、デニス・L・メドウズ、ヨルゲン・ランダースの3人が中心となった。彼らはあらゆる分野からデータを集め、コンピューターを駆使し、システム思考に基いて総合的に地球の状態を把握し、21世紀の世界の人口および産業の成長を予測して、考えられるいくつかのシナリオを提示した。『成長の限界』は、具体的な政策と行動を求める問題提起を行った。本書は、人類はエネルギー、環境、食糧、人口等の危機にあることを明らかにした。また、近代西洋文明が目指すべき価値としてきた「成長」という概念に反省を投げかけた。

 

国連人間環境会議の20年後、1992年(平成4年)6月、ブラジルのリオ・デジャネイロで、史上はじめての地球環境サミットが開催された。この年、『成長の限界』を出したメドウズ等のグループが『限界を超えて』という新たな報告書を発表した。彼らは、この20年間、人類は危機に有効に対処できておらず、危機が一層悪化していることを告げた。「持続可能な成長」という概念を打ち出して、具体的な行動を提案した。「持続可能な」とは、自分たちの世代だけでなく、将来世代も経済発展が可能であるような、という意味である。

さらに、その12年後の2004年(平成16年)、メドウズらのグループは、3冊目の本を出した。『成長の限界〜人類の選択』である。1972年の最初の報告書から30年以上たったところで、改めて地球規模のシナリオを提出したものである。1970年代から顕在化してきた温暖化、砂漠化、森林消失、大気汚染、土壌汚染、水質汚染、海洋汚染、種の大量絶滅等々を揚げ、事態の深刻さは、以前より増しており、待ったなしで人類に行動を迫まるものとなっている。

だが、人類全体で見る時、1990年代から2000年代にかけては、「持続可能な成長」の追求よりも、欲望を解放した貪欲な利益の追求を行う強欲資本主義の活動の勢いが大きく上回る時期となってしまった。

 

●環境破壊とエネルギーの危機を乗り越える

 

人類全体のために長期的危機の解決を目指すより、現在の私的な利益を追い求める経済活動は、1990年代から増勢し、狂乱の様を呈した。一方、地球温暖化に対処するため、国際的な取り組みが話し合われ、1997年(平成9年)12月に京都議定書が議決された。議定書によって、2008年(平成20年)から二酸化炭素の削減への取り組みが始まった。この年、強欲資本主義はリーマン・ショックによって、壁に激突した。これを機に、従来の物質的・金銭的な基準による成長という考え方への見直しが、ようやく広まった。

京都議定書には、世界132ヶ国が参加した。だが、先進国のうち、アメリカとオーストラリアは、批准しなかった。なかでもアメリカは、中南米・アフリカ・中東・オーストラリア・日本・アジアのすべてを合計した以上の量の温室効果ガスを排出している。アメリカの人口は世界の5%だが、世界全体の25%近くの温室効果ガスを出している。一人当たりの炭素排出量で見ても、アメリカがずば抜けて多い。こうしたアメリカが、地球温暖化の問題への取り組みにおいて極めて消極的であることは、この取り組みを大きな限界のあるものにしている。アメリカが変わらなければ、地球の温暖化は止まらない。

さらに京都議定書では、インドや中国などの大量排出国が規制対象外となった。その他の削減対象になっていない発展途上国からの排出は続き、かつ急速に増加した。そのうえ、カナダは削減目標の達成を断念するなど、多くの問題が発生した。

京都議定書は、2013年(平成25年)までの5年間に関する協定だった。それ以降の地球温暖化防止の実効的な枠組みを作る必要がある。だが、ポスト京都議定書については、5年間のうちには結論が出ず、また協議や議論の途中であり、合意の目処は立っていない。地球環境問題では、各国の協調よりもエゴの張り合いという様相を呈している。人類全体としての「持続可能な成長」の枠内で、先進国、途上国、それぞれが「持続可能な成長」のあり方を見出せなければ、海面上昇による主要な巨大臨海都市の水没、凶暴化する台風・竜巻の襲来、一層の砂漠化による農地の荒廃、大気・水・土壌の汚染による健康喪失等によって、人類は衰亡へと向かうだろう。

 

温室効果ガスの削減を進めるためには、エネルギー政策の転換が急務である。産業革命以降、19世紀までは石炭の時代、20世紀以降は石油の時代だった。だが、化石燃料は埋蔵量に限界がある。1970年代の初めに、人類はエネルギーの危機にあると報告されるようになってから、自然エネルギーの研究が進められてきた。2008年の世界経済危機によって、自然エネルギーの活用は、世界各国の現実的課題となり、活発に進められることになった。アメリカのオバマ大統領はグリーン・ニューディール政策を打ち出し、わが国でもクリーンなエネルギーを活用する新しい政策が推進されている。太陽光・風力・地熱・潮力等の自然エネルギーの活用による「21世紀の産業革命」が、起こりつつある。いわば石油の時代から「太陽の時代」への転換である。この変化は、人類の文明に大きな変化を生み出す出来事である。

だが、石油に代わる新たなエネルギーが産業と生活全体を支えられるようになるには、時間がかかる。新興国を中心とした経済成長と人口増加によって、世界全体の石油消費は増え続けている。20世紀の後半から21世紀にかけて、石油・天然ガス等の天然資源の争奪が各地で繰り広げられている。天然資源の確保は、新たな国際紛争の重要な要因となっている。資源問題が改善に向かわないと、世界は安定に向かえない。そのうえ、化石燃料の消費で温室効果ガスが増加し、異常気象が恒常化している。北極の氷や氷河が溶け、各地の大河が干上がり、地下水が涸れてきている。砂漠が拡大し、難民や内乱や戦争を誘発している。

原子力発電は二酸化炭素を少量しか排出しないが、現在の核分裂による発電技術は、安全性が確保されていない。原発の管理や廃棄物処理が難しく、事故やテロや核兵器転用へのリスクもある。核融合による発電技術の開発研究の進展が期待されている。直接石油燃料に替わるものとしては、トウモロコシやサトウキビを原料にしたエタノール燃料が商品化され、それを利用した自動車も走るようになっている。しかし、食用植物を原料とするバイオ燃料は、食糧価格の上昇をもたらすなど、新たな問題を生み出している。

これらの問題を乗り越えるため、自然エネルギーの活用への転換を急加速しなければならない。


 

●食糧・水・人口の問題を解決する

 

21世紀の世界では、天然資源の争奪に、食糧と水の争奪が加わっている。まず世界の食糧は、現在の世界人口を養うに十分な量が生産されている。だが、食糧の分配が過度に不平等な状態になっている。小麦、トウモロコシ、牛肉等は国際的な商品であり、巨大な農業関連資本が市場を制している。そのため、先進国には飽食、発展途上国には飢餓という二極分化が起こっている。国連開発計画が発行した2003年版の『人間開発報告書』によると、発展途上国の7億9900万人、世界人口の約18%が飢えている。毎日世界中で3万人を超える子供が、脱水症、飢餓、疾病などの予防可能な原因で死亡している。世界的な食糧事情は、国際的な協力によって貧困と不平等の是正を進めなければ、改善されない問題となっている。

食糧問題に加えて深刻になっているのが、水不足である。2000年(平成12年)の時点で世界中で少なくとも11億人が安全な水を利用できず、24億人は改善された衛生設備を利用できなかったと報告されている。その後もアフリカ、中東、アジアの各地で水不足と飢饉が日常化している。原因は、人口増加、都市化、工業化、地球温暖化等である。水の価値が上がり、水は「21世紀の石油」といわれる。今後20年で世界の水需要は現在の倍になると予測される。これから一層、水の需要と供給のバランスが崩れていくだろう。「ウォーター・バロンズ」(水男爵)と呼ばれる欧米の水企業が、世界各地の水源地の利権を確保するため、しのぎを削っている一方、中国は、国家として、水の確保を進めており、わが国の水と森林の資源が狙われている。

仮にエネルギーを化石燃料から太陽光・風力・水素等に転換できたとしても、水の問題は、なお存在する。水不足と水汚染を解決できなければ、人類の文明はやがて行き詰る。また水をめぐっての紛争が各地で頻発し、大規模な地域戦争が起こる可能性もある。こうしたなか、日本の水関連技術への期待は大きい。海水の淡水化に必須の逆浸透膜の技術や、排水や汚水を再び生活用水として生まれ変わらせるリサイクル技術等は、日本の技術が世界で圧倒的なシェアを誇っている。日本は世界の農村と農民を助け、水と食糧問題を解決する力を持っている。優れた農業関連技術とインフラ整備、砂漠緑化や淡水化や浄水化などで最先端の技術を保有している。自然と調和して生きる日本人の知恵が、今ほど世界で求められている時はない。

 

各国政府が積極的に太陽光発電、電気自動車、砂漠の水田化、水の造成と浄化等の新しい技術を活用することで、環境、エネルギー、食糧、水等の問題は、改善に向いうる。地球温暖化や砂漠化にも、対処する方法はある。人工知能やロボットの開発、宇宙空間での資源利用等が、これらの問題への取り組みにもさまざまな形で貢献するだろう。しかし、仮にこれらの問題による危機を解決に向けることが出来たとしても、なお重大な課題が残る。その一つが人口問題である。

世界の人口は、20世紀初めは16億人だったが、年々増加を続け、1950年頃から特に増加が急テンポになり、「人口爆発」という言葉が使われるようになった。1987年(昭和62年)に人類の人口は50億人を突破し、2007年(平成19年)には66億人になった。2050年の世界人口は91億人になると国連は予想している。世界人口がピークを迎えるのは、21世紀末から22世紀になるだろうともいわれる。
 増え続ける人口は、大量のエネルギーを消費し、環境を悪化させ、食糧を高騰させ、水の争奪を起こし、紛争を激化させる。人口爆発は、新しい技術の活用による環境、エネルギー、食糧、水等の問題への取り組みを、すべて空しいものとしかねない。だから、人口増加を制止し、「持続可能な成長」のできる範囲内に、世界の人口を安定させる必要がある。
 どうやって安定させるのかは難題であるが、エマニュエル・トッドは、家族制度と人口統計の研究に基づいて、発展途上国での識字率の向上と出生率の低下によって、世界の人口は21世紀半ばに均衡に向かうと予測している。希望はある。識字率の向上と出生率の低下を促進するには、基本的な教育の普及が必要である。そのためには、貧困と不平等の是正が不可欠となっている。

 

地球規模の問題を考える人の中には、国家や民族を否定し、地球市民として生きるという人が少なくない。そういう人の政治意識は、ほとんど左翼と変わらない。しかし、現実の世界は、さまざまな国家が並存している国際社会である。地球環境の問題にしても、個人や民間団体の活動は、規模が限られている。地球規模の危機を改善するには、国際社会の単位である国家が主体とならなければ、大規模な動きはできない。
 西洋物質文明の中核をなすアメリカや、唯物論的な共産主義の支配している中国が、人類社会を大調和の方向に導けるとは、思えない。これに比し、日本には古来、人と人、人と自然が調和して生きる精神が伝わってきている。その精神が、21世紀人類の衰亡か飛躍かの岐路において、大きな役割を果すと私は思う。日本を再建し、日本文明の持つ潜在力を発揮することが、世界平和の実現と地球環境の保全の鍵となると私は考える。

今後人類にとって新しい文明の建設が可能になるのは、空間エネルギーの利用、物質転換の実現等、これまでの科学技術の水準を飛躍的に越えるものが登場・普及した時だろう。情報通信の分野では、既に驚異的な進歩が現れている。

人類は、1960年代に、宇宙へと進出し、宇宙開発の時代にった。同時に、コンピュータの発達による「情報通信革命」が急速に進み、産業革命による産業化とは異なる段階に入った。テクノロジーの進歩は、指数関数的な変化を示してきた。たとえば、コンピュータの演算速度は、過去50年以上にわたり、2年ごとに倍増してきた。これを「ムーアの法則」という。「ムーアの法則」によると、2045年に一個のノートパソコンが全人類の脳の能力を超えると予測される。人工知能が人間の知能を完全に上回るということである。そのような時代を未来学者レイ・カーツワイルは「シンギュラリティ(特異点)」と呼んでいる。カーツワイルは、人間とコンピュータが一体化し、「人類は生物的限界をも超える」と予測している。カーツワイルは、その時、人類の「黄金時代」が始まるという。

世界的な理論物理学者ミチオ・カク氏は、その「黄金時代」について、2014年12月末に概略次のように語っている。

 

●医療技術が進歩して、今では、がんの正体が分子レベル、遺伝子レベルで解明されるようになってきており、将来、私たちは腫瘍になってからではなく、細胞レベルのうちに、がんを分析することができるし、遺伝子レベルでがんを特定して、遺伝子療法を行うことも可能になる。

ナノ医療の分野では、すでに、がん細胞をピンポイントで攻撃できる「ナノマシン」が開発されていて、臨床実験の段階まで来ている。「ナノマシン」は知能のある爆弾で、個別のがん細胞を一つひとつ退治していく。

 

●寿命は、今後、飛躍的に延びることが予測される。30年後には、平均的な人であれば100歳まで生きるようになっている。再生医療の進展により、2045年までには主な臓器を実験室で作れるようになっている。内臓を取り替えることができるから、「内臓疾患」という単語が辞書から消える。

特定の遺伝子が老化現象に作用していることがわかってきている。将来は、それらの遺伝子を遺伝子治療で修復できるかもしれないし、遺伝子操作により抗酸化物質を作り出して酸化を止めて、寿命を延ばせるかもしれない。

また、ただ長い期間生きられるだけでなく、「永遠の若さ」を保つためには、「若返り」が求められる。現在、若返りのプロセスを左右する遺伝子を特定しようとしており、いずれは寿命を左右する遺伝子を発見できるだけではなく、若返りを可能にする遺伝子も見つけられるはずである。

 

●「シンギュラリティ」に突入すると、退屈な仕事はロボットが行うようになる。ロボットは計算がものすごく速く、反復的な仕事は人間より得意だからである。未来に求められるのは、人間の脳を使う仕事である。クリエイティブな仕事、革新的な仕事、科学的な仕事、芸術的な仕事である。

 

●人間とコンピュータが同化する時代が到来している。私たちの能力を強化するために、コンピュータと同化するのである。たとえば、脳をコンピュータにつなぐことで、人の能力を強化することができる。記憶を記録したり、記憶をアップロードしたりすることもできるようになる。また、脳が何千ものコンピュータチップを操作できるようになると、考えるだけで物を動かすこともできるようになる。部屋に入って考えるだけで明かりをつけたり、テレビをつけたり、ネットに接続したり、映画のチケットや旅行を手配できるようになる。

 

こうした予測によれば、今から約30年後の2045年には、テクノロジーの指数関数的な進歩によって、人類は「黄金時代」といってよいような新しい時代に入っていくと期待される。

上記のような科学的な未来予測も、空想的といえば空想的だが、わずか500年前には、夜も昼のように明るく、空中や地下を自由に移動し、遠く離れた大陸の人と互いに姿を見ながら話ができ、過去に起こったことを映像で再生できるというような今日の文明を、誰も予想することはできなかった。ここ百年の間にも、夢のような、いや人々が夢にすら思いつかなかったようなことが、次々に実現してきている。そのことを思うと、これからの時代にも何が現れ、世界がどのように変わりうるか分からない。危機が大きければ大きいほど、それを乗り越える知恵やひらめきもまた強く輝くだろう。人類は既に想像を超える変化を経験してきている。これからはさらに想像を絶する大変化を体験していくことだろう。

 

関連掲示

・拙稿「『太陽の時代』のギガトレンド〜21世紀の産業革命を促進しよう

 

(2)諸国家・諸民族の共存共栄を実現する

 

●日本から共存共栄の道を広める

 

 現代の人類は、共存共栄の世界を実現することを課題の一つとしている。共存共栄とは、自然の法則と調和して、個人と個人、国家と国家、民族と民族が共存調和して、共に繁栄することである。

 だが、現代世界で最も強い影響力を持っている価値観は、自己本位で利己的な傾向を持っている。それが、西欧発の文明において形成されたアングロ・サクソン=ユダヤ的な価値観である。アングロ・サクソン=ユダヤ的な価値観は、資本主義を生み出した。資本主義は合理的かつ組織的な生産を実現し、人類の欲望を解放した。またこの価値観は、グローバリズムすなわち地球統一主義または地球覇権主義の思想を生み出し、米国政府と巨大国際金融資本がこれを推進している。

 アングロ・サクソン=ユダヤ的な価値観が作り出した経済機構を改革しないと、人類は欲望の増大によって地球を食い荒らし、自滅に至るだろう。だが、この経済機構を改革する方法は、資本主義を全く否定することからは生まれない。合理的かつ組織的な生産を実現した資本主義を改善し、現在の経済機構を利己的・部分的ではなく、人類全体を益するように管理する仕組みを創ることが必要である。この仕組みを作るためには、物質的な発展・繁栄だけを追及する価値観ではなく、自然と調和し、また人間が精神的に成長・向上することを追及する価値観が高揚・普及しなければならない。そうした価値観の発達において、日本的な価値観が重要な役割を果たすだろう。そして日本的な価値観が指し示す共存共栄の道こそ、21世紀の世界人類が歩むべき道と私は考える。

 日本に伝わる共存共栄の道を世界に広めるには、まず日本国が独立主権国家としてのあり方を確立し、その上で日本的価値観に基づく外交を積極的かつ戦略的に展開する必要がある。

 

わが国は、今日の国際社会で、国家間関係(international relationship)においてだけではなく、文明間関係(inter-civilizational relationship)においても、地球全体のキーポイントとなる立場にある。そこで、日本文明の特長を良く発揮することが、日本人に求められている。

 ハンチントンは、現代世界には、7または8つの文明が存在すると説いたが、世界の諸文明は、単に併存しているのではなく、大きく二つのグループに分けることができる。二つのグループとは、セム系一神教文明群、非セム系多神教文明群の二つである。

 セム系一神教文明群は、ハンチントンのいう西洋文明、東方正教文明、イスラーム文明、ラテン・アメリカ文明の四つが主要文明である。私はその周辺文明の一つとして、ユダヤ文明を挙げる。セム系一神教文明群の担い手は、超越神によって創造された人間の子孫であり、アブラハムの子孫にして、世界的大洪水で生存したノアの長子セムの系統と信じられている。宗教的には、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教である。これらの文明における超越神は、唯一男性神とされる観念的な存在であり、神との契約が宗教の核心にある。地理学的・環境学的には、砂漠に現れた宗教という特徴を持つ。砂漠的な自然が人間心理に影響したものと考えられる。

 これに対し、非セム系多神教文明群とは、ハンチントンのいう日本文明、シナ文明、ヒンズー文明を中心とする。いわゆる東洋文明はこれらの文明である。これらの文明では自然が神または原理であり、人間は自然からその一部として生まれた生命体である。文明の担い手は、自然が人間化したものとしての人間である。宗教的には、日本の神道、シナの道教・儒教、インド教、仏教の一部、アニミズム、シャーマニズムである。地理学的・環境学的には、森林に現れた宗教という特徴を持つ。森林的な自然が人間心理に影響したものと考えられる。

 

世界の不安定の要因の一つである西洋文明とイスラーム文明の対立は、同じセム系一神教文明群の中での対立である。イスラエルの建国後、アラブ諸国はイスラエルと数次にわたって戦争を行い、またアメリカと湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争等で戦っている。また東方正教文明の中核国家だった旧ソ連とはアフガン戦争で戦い、今日は旧ソ連圏のイスラーム教徒が中央アジア各地で、ロシアと戦っている。これは、イスラエルやロシアを含めたユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の対立・抗争である。アブラハムの子孫同士の戦いであり、異母兄弟の骨肉の争いである。

1980年代以降、アメリカの指導層は、イスラエル政府の外交政策を支持する親イスラエル派やシオニストが主流を占めている。キリスト教保守派の多くは、イスラエルを守るべき国とし、キリスト教とユダヤ教の結びつきは強化されている。ブッシュ子政権は、9・11以後、「新しい十字軍戦争」を唱導した。これは、アメリカ=イスラエル連合つまりユダヤ=キリスト教とイスラーム教過激派との戦いであり、セム系一神教文明群の中でのユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の戦いである。ユダヤ人と中心としたネオコンの思想によるところが大きい。

オバマ政権は、アフガニスタンやイラクからの米軍の撤退を進めているが、中東では争いが憎悪を生み、報復が報復を招いて、抜き差しならない状態となっている。そして、現代世界は、イスラエル=パレスチナ紛争を焦点として、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教のセム系一神教の内部争いによって、修羅場のような状態になっている。

このような争いの世界を、調和の世界に導くには、どうすればよいのか。私は、非セム系多神教文明群が、あい協力する必要があると思う。中でも日本文明には対立関係に調和を生み出す原理が潜在する。その原理を大いに発動すべき時が来ている。

 

関連掲示

・拙稿「ハンチントンの『文明の衝突』と日本文明の役割

 

●日本文明の特徴を生かして世界平和に貢献する

 

日本文明は、非セム系多神教文明群の中で独自の特徴を示す。その特徴は、セム系一神教文明群にも非セム系多神教文明群の他の文明にも見られないユニークなものである。

 文明の中核には、宗教がある。日本文明の固有の宗教とは、何か。神道である。神道は、単なる多神教ではなく、根本に一神教的な側面を持ち、多神教と一神教を総合し得る可能性が内在している。すなわち、本質において「一」であるものが、現象において「多」であるという「一即多、多即一」の論理でとらえるべき世界観を示しているのである。

また、神道が他の主要な宗教と異なる点は、海洋的な要素を持っていることである。ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教や道教・儒教・インド教・仏教は、どれも大陸で発生した。大陸的な宗教を中核にすることによって、セム系一神教文明も非セム系多神教文明の多くも、ともに大陸的性格を持っている。21世紀の世界で対立を強めている西洋文明、イスラーム文明、シナ文明、東方正教文明には、大陸的な性格が共通している。

 これに比べ、神道は海洋的な要素を持ち、日本文明に海洋的な性格を加えている。これは、四方を世界最大の海・太平洋をはじめとする海洋に囲まれた日本の自然が人間心理に影響を与えているものと思う。この視点から見ると、世界の諸文明は大陸的文明群と海洋的文明群に分けられる。

私は、セム系一神教文明を中心とした争いの世界に、非セム系多神教文明群が融和をもたらすために、日本文明の役割は大きいと思う。日本文明のユニークな海洋的性格が、大陸的文明同士の摩擦を和らげ、大いなる調和を促す働きをすることを私は期待する。

ハンチントンは、文明は衝突の元にもなりうるが、共通の文明や文化を持つ国々で構築される世界秩序体系の元にもなりうる、と主張した。文明内での秩序維持は、突出した勢力、すなわち中核国家があれば、その勢力が担うことになると説く。また、文明を異にするグループ間の対立は、各文明を代表する主要国の間で交渉することで解決ができるとし、大きな衝突を回避する可能性を指摘している。そして、日本文明に対して、世界秩序の再生に貢献することを期待した。

ハンチントンは「日本国=日本文明」であり、一国一文明という独自の特徴を持っていると指摘した。9・11の翌年刊行した『引き裂かれる世界』で、ハンチントンは日本への期待を述べた。

 「日本には自分の文明の中に他のメンバーがいないため、メンバーを守るために戦争に巻き込まれることがない。また、自分の文明のメンバー国と他の文明との対立の仲介をする必要もない。こうした要素は、私には、日本に建設的な役割を生み出すのではないかと思われる。

 アラブの観点から見ると、日本は西欧ではなく、キリスト教でもなく、地域的に近い帝国主義者でもないため、西欧に対するような悪感情がない。イスラーム教と非イスラーム教の対立の中では、結果として日本は独立した調停者としての役割を果たせるユニークな位置にある。また、両方の側から受け入れられやすい平和維持軍を準備でき、対立解消のために、経済資源を使って少なくともささやかな奨励金を用意できる好位置にもある。

 ひと言で言えば、世界は日本に文明の衝突を調停する大きな機会をもたらしているのだ」と。

わが国は、世界平和を実現するために、中東におけるイスラエルとアラブ諸国の対立を和らげるように助力しなければならない。世界的にユニークな特徴を持つ日本文明は、西洋文明とイスラーム文明の抗争を収束させ、調和をもたらすためにも重要な役割があることを自覚すべきである。

 

 それとともに日本は、太平洋を隔てて、西洋文明の中核国家・米国とシナ文明の中核国家・中国の間に位置する。日本文明は、自己の存立のために、西洋文明とシナ文明の融和を図らざるを得ない環境にある。

超大国アメリカは、衰退の兆しを示している。主体性のない盲目的な従米は、一蓮托生の道である。アメリカが没落すれば、日本も一緒に没落する。わが国はまず独立主権国家としての自主性・主体性を取り戻すことが必要である。憲法を改正し、自主国防を整備し、その力の裏づけを持ってはじめて国際社会で発言力・影響力を発揮することができる。そして、アメリカとの関係を従属から対等の関係に転じていけるように進めなければならない。

次にわが国は、共産中国に対して毅然とした姿勢を貫く必要がある。独立主権国家としての自主性・主体性を失い、中国にこびへつらう態度を取れば、強大化する中国に日本は呑み込まれかねない。中国外務省筋による2050年の東アジアの予想地図によると、日本の西半分は中国の一部としての東海省となり、東半分は日本自治区と記されている。日本が中国の支配下に入り、民族が分断統治されているという予想地図である。わが国は、独立主権国家、一国一文明の誇りを以て、国家を再建し、このような中国共産党の願望を打ち砕かねばならない。

中国は、反日以外には国民を統合する原理を持てなくなっており、また唯物的な経済成長が行き詰まっている。覇権主義的な姿勢を強め、世界各地から資源を確保しようと躍起になっている。自然を支配し、搾取する共産主義思想により、自然環境の悪化もすさまじい。中国がこのまま破壊的な行動を続けるならば、人類の将来は中国によって破滅の方向に引きずり込まれるだろう。それを避けるために、わが国は、中国の民主化を促進し、共産主義が支配する以前のシナ文明の伝統、道教・儒教をはじめとする精神文化が蘇るように助力する必要がある。共産主義によって変質したシナ文明の再生には、日本文明の伝播が触媒作用を果たすだろう。

 

(3)新しい精神文化を興隆させる

 

●科学と宗教が融合する時代へ

 

第2次世界大戦後の現代世界において、西欧発の近代化革命が、地球規模で加速度的に進行している。

「近代化革命」つまり近代化の過程は、科学の発達と宗教の後退の歴史だった。西欧では15世紀以降、「呪術の追放」によって宗教が合理化され、17世紀の科学革命によって合理主義が進展した。18世紀以降、啓蒙主義の高揚が人知への過信をもたらした。その結果、西欧人の多くは神を見失った。その影響で、人類の多くが神を見失った。神といっても、聖書の物語の中に描かれている神ではない。真の神とは、宇宙・自然・生命・精神を貫く法則であり、万有顕現の原動力のことである。現代人は、こうした意味の神を見失い、自らが神に成り代わったかのように錯覚している。宗教はますます後退し、精神性・霊性は、物質的な享楽の中に埋没しかかっている。西欧を中心として世界的に、近代化革命の進展とともに「脱宗教化=世俗化」とニヒリズムが広がっている。

ところが驚くべきことに、20世紀に入って以降、科学の側から、この展開を逆転させる動きが現れている。科学の先端において、精神性・霊性への関心が高まってきている。科学の時代から精神の時代へ、あるいは物質科学文化の時代から精神科学文化の時代への転換ともいえるような、巨大なパラダイム・シフトが起こりつつある。

20世紀の新しい物理学、量子力学や相対性理論によって、物理学ではパラダイム・シフトが始まっている。そのことを明らかにした物理学者の一人が、フリッチョフ・カプラである。カプラは、名著『ターニング・ポイント』(1984年)で、次のように書いている。

「現代物理学から生まれつつある世界観は、機械論的なデカルトの世界観とは対照的に、有機的なホリスティック(全包括的)な、そしてまたエコロジカル(生態学的)な世界を特徴としている。それはまた、一般システム論という意味で、システム的世界観と呼ぶこともできる。そこではもはや、世界は多数の物体からなる機械とは見なされていない。世界は不可分でダイナミックな全体であり、その部分は本質的な相互関係を持ち、宇宙的過程のパターンとしてのみ理解できるとする」

カプラは、現代物理学の世界観が、東洋に伝わる伝統的な世界観に非常によく似ていることを発見した。『老子』や『易経』や仏典に表わされている宇宙の姿と、量子力学や相対性理論が描く世界像とが近似しているという。このことをカプラは、『物理学の道(タオ)』(1975年、邦題『タオ自然学』)という本で発表し、世界的に話題を呼んだ。

これは決してカプラ個人の見方ではない。20世紀の名だたる物理学者たち、不確定性原理のウェルナー・ハイゼンベルグや波動方程式のエルヴィン・シュレーディンガーが、かつては単なる神秘思想と思われていたインド哲学に深い関心を持ち、コペンハーゲン解釈のニールス・ボーアは晩年シナの易学の研究に没頭した。カプラの師、ジェフリー・チューは自分の靴ひも理論が大乗仏典の内容とそっくりなことに驚愕している。

カプラは言う。「東洋思想がきわめて多くの人々の関心を呼び起こしはじめ、瞑想がもはや嘲笑や疑いを持って見られなくなるに従い、神秘主義は科学界においてさえ、真面目にとりあげられるようになってきている。そして神秘思想は現代科学の理論に一貫性のある適切な哲学的裏付けを与えるものという認識に立つ科学者が、その数を増しつつある。人類の科学的発見は、人類の精神的目的や宗教的信条と完全に調和しうる、という世界観である」(『ターニング・ポイント』)

こうしてカプラは、科学と宗教とが調和・融合する新しい時代の到来を、世界の人々に伝えている。

 

●「心のアポロ計画」を推進する

 

大脳生理学者・カール・プリブラムも、次のように語っている。

「従来の科学は、宗教で扱う人類の精神的側面とは相容れないものだった。いま、これが大きく変わろうとしている。21世紀は科学と宗教が一つとして研究されるだろう。このことはあらゆる面でわれわれの生き方に重大な影響を及ぼすだろう」(プリブラム他著『科学と意識』)

科学と宗教が一つのものとして研究され、それが私たちの生活に大きな影響をもたらすーーこうしたことを唱えているのは、カプラやプリブラムだけに止まらない。物理学や生物学や認知科学など、さまざまな分野の科学者が、科学と宗教の一致を語っている。

われわれは、科学と宗教が分離し対立した近代を経て、改めて科学と宗教がより高い次元で融合すべき新しい段階に入っているのである。

ここにおいて、再評価されつつあるのが、宗教の存在と役割である。

カプラは、次のように書いている。「われわれが豊かな人間性を回復するには、われわれが宇宙と、そして生ける自然のすべてと結びついているという体験を回復しなければならない。宗教(religion)の語源であるラテン語のreligareはこの再結合を意味しており、それはまさに精神性の本質であるように見える」と。(『ターニング・ポイント』)

まさしく、われわれは、科学の時代から精神の時代、物質科学文化の時代から精神科学文化の時代への転換期にある。この時代の方向指示者の一人として、数理科学者のピーター・ラッセルは、「心のアポロ計画」という注目すべき提案をしている。ラッセルは、名著『ホワイトホール・イン・タイム』(1992年)で、次のように言う。

「今日、人類はまっさかさまに破局へ突っ込んでいく事態に直面している。もし本当に生き残りたかったら、そして私たちの子供や、子供の子供たちに生き残ってほしかったら、意識を向上させる仕事に、心を注ぐことこそが最も大切なことである。破壊的な自己中心主義から人類を解き放つための全世界的な努力だけが必要である。つまり、人類を導くための地球規模のプログラム、”心のアポロ計画”が要求されているのである」

アポロ計画とは、1960年代に宇宙時代を切り拓いた米国の宇宙開発計画である。それは、物質科学文明のピークを歴史に刻んだ。人類が月に着陸し、月面から撮った宇宙空間に浮かぶ地球の写真は、人々に地球意識を呼び起した。これに比し、「心のアポロ計画」は、この宇宙時代にふさわしい精神的進化を追及するプロジェクトである。

このプロジェクトでは、心理的な成熟や内面の覚醒を促す技術の研究開発に焦点が当てられる。そこに含まれるテーマは、次のようなものである。

 

神経科学と心理学に焦点を当て、心の本質を理解する。

自己中心主義の根拠をもっと深く研究する。

霊性開発のための現在ある方法を全世界的に調査する。

新しい方法を探すとともに、現在ある方法の協同化を進め、発見されたものの応用と普及を図る

 

提唱者ラッセルによると、この計画に巨額な資金は必要としない。

「毎年全世界が防衛”に費やしている1兆ドルの1パーセント足らずで、すべてがうまくいくはずである」とラッセルは言っている。

私はこの「心のアポロ計画」に賛同する者である。世界の有識者は、早急にこの精神科学発達プログラムを促進すべきである。だが、ラッセルが「心のアポロ計画」を提唱してから、既に20年以上経っているが、世界規模での具体的な取り組みはされていない。国連等の国際機関で、すみやかにその取り組みを開始すべきである。

 

関連掲示

・拙稿「“心の近代化”と新しい精神文化の興隆〜ウェーバー・ユング・トランスパーソナルの先へ

 

●日本から新しい精神文化の興隆が待望されている

 

精神科学発達のための計画は、従来の宗教や霊的伝統の再評価にとどまるものであってはならないだろう。私は、拙稿「心の近代化と新しい精神文化の興隆」において、西欧発の近代化の進行を、心の近代化という観点からとらえ、人々の心は全面的に「近代化=合理化」するのではないことを論じ、21世紀における新しい精神文化の興隆について書いた。
 キリスト教、イスラーム教、仏教等の伝統的宗教は、紀元前から古代にかけて現れた宗教であり、科学が発達し、人々の意識が向上するにつれて、その役割を終え、発展的に解消していくだろう、と私は考える。

現代は科学が発達した時代である。従来の宗教では人々の心は満たされない。従来の宗教は、天動説の時代に現われた宗教である。今では、地球が太陽の周りを回っていることは、小学生でも知っている。パソコンやスマートフォンや宇宙ステーション等がないどころか、電気や電燈すらなかった時代の宗教では、到底、現代人の心を導けない。

伝統的宗教の衰退は、宗教そのものの消滅を意味しない。むしろ既成観念の束縛から解放された人々は、より高い精神性・霊性を目指すようになり、従来の宗教を超えた宗教を求めるようになると考える。近代化の指標としての識字化と出生調節は、人々が古代的な宗教から抜け出て、精神的に成長し、さらに高い水準へと向上する動きの一環だろうと私は思う。

「近代化=合理化」が一定程度進み、個人の意識が発達し、世界や歴史や宇宙に関する知識が拡大したところで、なお合理化し得ない人間の心の深層から、新しい精神文化が興隆する。新しい精神文化は、既成宗教を脱した霊性を発揮し、個人的(パーソナル)ではなく超個人的(トランスパーソナル)なものとなる。それに応じた政治・経済・社会への改革がされていく。

いまや科学が高度に発達した時代にふさわしい、科学的な裏付けのある宗教の出現が求められている。21世紀に現れるべき新しい宗教に求められる特長とは、次のようなものとなるだろう。

 

◆実証性 実証を以て人々の苦悩を救う救済力を有すること

◆合理性 現代科学の知見と矛盾しない合理性を有すること

◆総合性 政治・経済・医学・教育等のすべてに通じる総合性を有すること

◆調和性 人と人、人と自然が調和する物心調和・共存共栄の原理に基づくこと

◆創造性 人類普遍的な新しい精神文化を生み出す創造力を有すること

 

これからは、こうした特長を持った新しい精神科学的な宗教を中心とした、新しい精神文化の興隆によって、近代文明の矛盾・限界を解決する道が開かれるだろう。(1)

人類は、この地球において、真の神を再発見し、宇宙・自然・生命・精神を貫く法則と宇宙本源の力にそった文明を創造し、新しい生き方を始めなければならない。そのために、今日、科学と宗教の両面に通じる精神的指導原理の出現が期待されている。世界平和の実現と地球環境の回復のために、そしてなにより人類の心の成長と向上のために、近代化・合理化を包越する新しい精神文化の興隆が待望されているのである。

今後、現れるべき精神文化は、自然と調和し、太陽光・風力・水素等の自然エネルギーの活用による「21世紀の産業革命」と協調するものとなるだろう。こうした動きが拡大していって、初めて世界の平和と人類の繁栄を実現し得ると私は考える。

新しい精神文化の出現が最も期待される地域は、精神文化の豊かな伝統を持ったアジアである。ここにおいて日本文明が担うべき役割には、まことに大きなものがある。西欧において始まった近代化を、非西洋社会で初めて成し遂げ、独自の展開をしてきた日本文明は、新しい精神文化の興隆が待望される時代に、大きな貢献を果たす可能性を秘めている。

 

現代世界人類の二大課題は、世界平和の実現と地球環境の保全である。そのためには、核戦争を防ぎ、また環境と調和した文明を創造しなければならない。これらの課題を実現するうえで、日本には重要な役割がある、と私は確信している。人と人、人と自然が調和する日本精神には、人類の文明を転換し、この地球で人類が生存・発展していくための鍵があると思う。

人類は、21世紀に物心調和・共存共栄の新文明を地球上に創造できるかどうかに、自らの運命がかかっている。日本人は、人類の一員として、自らの特徴を発揮し、物心調和・共存共栄の新文明の実現に貢献することによってのみ、自らの運命を切り開くことができる。

すべては、日本及び日本人の自覚と行動にかかっている。日本及び日本人は、自らに与えられた使命を担い、自己の本質に沿って進まないと、逆に混迷・衰亡の方向に陥ってしまうことになるだろう。

私たち日本人は、この21世紀において、日本精神を取り戻し、世界的にユニークな日本文明の特長を活性化し、新しい世界秩序の構築と、新しい人類文明の創造に寄与したいものである。

 

結びに、我が生涯の師にして神とも仰ぐ大塚寛一先生は、21世紀に来るべき新たな時代を「昼の時代」と呼び、次のように説いておられる。マイサイトの「基調」に掲げているものをここにも掲載する。

 「一日に夜と昼があるように、人類がこの地上に発生して滅亡するまでには、将来への準備期すなわち夜の時代と、その活動期すなわち昼の時代とがある。植物でも、種子がまかれて暗黒の地中において発芽する不自由な準備期と、やがて明るい地上に出て、自由に繁茂伸長する活動期とがある。子供ならば、母親の胎内にいる時代が準備期であって、それは不自由な暗黒時代、そして次には光明と自由のこの世に出てくる。
 そして人類も、明治の頃までがその夜の時代の時代に相当し、今は夜から昼の時代へ転換してゆく丑三時(うしみつどき)、鶏でいえば一番鶏が歌って夜明けを告げている時期である。そして21世紀を迎えると、いよいよ昼の時代の時代に大転換することになる。それは現代の物質科学時代から、物心を超越した真理の太陽が出現する時代である」

「いま東洋に精神文化が興って、西洋の物質文化と融合一体化したならば、男女が和合して幸福な生活が生まれるように、理想の文化ができ上がる。
 そして世界の対立摩擦を解消することができるだろう。日本がその役割を果たしたとすれば、共存共栄の理想世界への先導者として、きっと世界の人びとの尊敬をかち得ることができる」

「この地上に、人間が棲息するようになってから幾百万年、治乱興亡盛衰の幾山河を越え去り超え来たって、人類の歴史は、今一つの大峠に差しかかっている。湧き上がる濛々たる雲霧に妨げられて、視界はまだ、みなにとって定かではないだろうが、やがて雲霧が晴れわたるとき、人びとはそこに展開する荘厳な歴史の朝に驚嘆歓喜するに違いない」

「21世紀の昼の時代は、物質ではなく、精神を中心とした時代でなくてはならない。そのとき、日本に伝わる精神が偉大な役割を果たすようになる」

「この地球上が一つの国になる。そして軍備ではなく、世界警察権をもって、大きく治められてゆく。かつて日本が明治の初めに廃藩置県を行なったように、今度は世界の廃藩置県が断行され、国家とか国境というものがなくなる。国境がないから、これまでは対立摩擦を起していた民族間も、仲良く調和してゆくようになる」

詳しくは、大塚先生の著書『真の日本精神が世界を救う』(イースト・プレス)をご参照願いたい。

 

1 「新しい精神科学的な宗教」と「新しい精神文化の興隆」については、次のサイトをご参照下さい。

http://www.srk.info/

 

関連掲示

・拙稿「西欧発の文明と人類の歴史

・拙稿「現代世界の支配構造とアメリカの衰退

参考資料(主なもの)

  河出書房版『世界の歴史』第24巻(河出文庫)

  中央公論社版『世界の歴史』第29〜31巻(中央公論社)

・『世界各国史』『世界現代史』(山川出版社)

・宮崎正勝著『文明ネットワークの世界史』(原書房)

・『一冊でわかる イラストでわかる 図解世界史』(成美堂出版)

  歴史の謎研究会編『日本と世界の近現代史がこの1冊でわかる!』(青春出版社)

・池上彰著『そうだったのか! 現代史』『大衝突』(集英社)

  浜林政夫+野口宏著『ドキュメント戦後世界史』(地歴社)

  アーノルド・トインビー著『試練に立つ文明』(社会思想社)『現代が受けている挑戦』(新潮社)

・サミュエル・ハンチントン著『文明の衝突』(集英社)『文明の衝突と21世紀の日本』(集英社新書)『引き裂かれる世界』(ダイヤモンド社)

・ヘンリー・キッシンジャー著『キッシンジャー秘録』(小学館)

・ズビグニュー・ブレジンスキー著『ブレジンスキーの世界はこう動く―21世紀の地政戦略ゲーム』(日本経済新聞社)『ブッシュが壊したアメリカ』(徳間書店)

  ジョン・ミアシャイマー+ステファン・ウォルト著『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』(講談社)

  エマニュエル・トッド著『帝国以後 アメリカ・システムの崩壊』『文明の接近』『デモクラシー以後』(藤原書店)

・トッド+中野剛志他著『グローバリズムが世界を滅ぼす』(文春新書)

・ジョセフ・E・スティグリッツ著『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』『世界の99%を貧困にする経済』(徳間書店)

・北野幸伯著『中国・ロシア同盟がアメリカを滅ぼす日』(草思社)

・D・H・メドウズ他著『成長の限界』『限界を超えて』『成長の限界〜人類の選択』(ダイヤモンド社)

・フリッチョフ・カプラ著『ターニングポイント』(工作舎)

・ピーター・ラッセル著『ホワイト・ホール・イン・タイム』(地湧社)

 

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