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■「日本弱体化政策」の検証〜日本の再生をめざして

1996.12.15初版/2001.2.19一部改訂

 

<目次>

はじめに

第1章 アメリカによる「日本弱体化政策」

第2章 「日本弱体化」と文明の大転換

第3章 「日本弱体化」の秘密計画

第4章 「自由」という名のキツーイ弾圧

第5章 反日日本人が誕生・増大した

第6章 「日本弱体化」のための東京裁判

第7章 日本国憲法は「弱体化」の総仕上げ

結びに〜日本の再生をめざして

 

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はじめに

 

私は、今日の日本人は、心の危機にあると思います。その危機の背景には、戦後の「日本弱体化政策」と「反日共産思想」があると思います。いわば、戦後の米ソの冷戦構造が、日本人の心の深層に構造化されたまま、心理空間をワープしているといえましょう。危機の背景の一つ、「日本弱体化政策」について、検証します。

 

 

第1章 アメリカによる「日本弱体化政策」

 

(1)日本占領の期間

 

  先の大戦をわが国の政府は、大東亜戦争と名付け、米国の政府は太平洋戦争と称しました。戦争の期間は3年8ヶ月でしたが、連合国軍による日本の占領はその約1.8倍の6年8ヶ月の長期に及びました。戦争が終わったのちこれほどの長期間、占領軍が駐留して占領政策が行われたという国は、他にありません。

  実は、戦争は8月15日に終結したのではありません。国際法上は、戦争状態の終結は、講和条約の発効する時点においてです。それまではれっきとした戦争状態です。それゆえ、連合国軍は「戦闘段階終了後の占領段階において、連合国の利益にかなった日本社会の改造政策を戦争行為(軍事行動)として推進した」(佐藤和男博士)のです。それは、武器による物理的な戦争の段階に続く、政治と宣伝と教育による戦争の継続でした。物理的破壊ではなく、心理的・制度的破壊が徹底的に行われ、日本人の精神的改造が行われたのです。この遂行のために「日本は無条件降伏した」という虚偽の下に、他に比類なく長い日本占領が行われたのです。(註1)

 

(2)占領政策の目的

 

  アメリカの占領政策の目的は、明確でした。「降伏後における米国の初期対日方針」(昭和20年9月22日)には「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及び安全の脅威とならざることを確実にすること」と明記されています。アメリカは、日本が決してアメリカに報復戦争をすることのないように、日本人に戦争の贖罪意識を植え付け、民族の誇りと自尊心を奪いとろうとしました。そして日本人を精神的に去勢し、日本の国家と社会をアメリカの意のままになる従属的な体制に変え、宗主国に対する従属国、保護国に対する非保護国的な存在にしようとしたのです。すなわち、占領政策とは、日本弱体化を目的とする政策だったのです。

  大東亜戦争において日本は無謀な戦争に突入して、敗れるべくして敗れました。しかし、国民は精神的には敗れていませんでした。終戦直後の日本人は深い悲しみの中にありながらも、誇りと勇気を持っていました。

  それゆえ、日本占領を開始したアメリカ人にとって、敗れてもなお静かに整然と行動している日本国民の姿は、不気味なものと映ったのでしょう。激戦直後の彼らにとって、日本人は「邪悪な悪魔」であり、いつかは自分たちに報復してくるのではないか、という脅威を感じていました。そこで、二度と歯向かってこないように、日本人の精神を打ちのめし、徹底的に精神改造をしようと企てました。

  江藤淳氏の言葉を借りると「日本軍の『物的武装解除』をもたらした直接の引き金が、原子爆弾の投下であったとするなら、『精神的武装解除』(=バーンズ国務長官)のためにも無差別的な原子爆弾が投下されなければならなかった。そのことによって日本人の誇りを打ち砕き、日本人のセルフ・イメージを根底から塗り替えなければならなかった」というわけです。

  精神改造の始めは「日本は無条件降伏した」と思わせ、連合国軍の政策への抵抗の意志を奪うことでした。さらに強引な言論統制と巧妙な検閲によって、批判を封じたうえで、日本人に戦争に対する罪悪感を植え付ける計画を実行しました。民族の固有の伝統と歴史を否定して愛国心を根こそぎに抜き去ること、国の指導者に対する国民の不信感をかき立てること、共産主義者に活動をさせて国論を分裂させることなどして、日本人の精神的団結を破壊しようとしました。これらの政策は、すべて一つの目的のために遂行されましたーー日本を弱体化することです。

  その効果は、決定的でした。原爆に匹敵するほどの破壊力を示し、今日もなおその放射能は日本人の精神を汚染し、日本人の背骨を虫食み、自滅へ導いています。

 マッカーサーが米国への帰国後、日本人は占領が終わって独立国になっても、なお占領時代の自分のダマシに気がつかないから、「日本人の精神年齢は12歳だ」と嘲笑したことは有名です。

 「君の精神年齢は12歳だな。日本人はみんなそうだ」といわれて、あなたはどう感じますか? 「別に」「関係ないよ」などと思う人もいるかもしれませんね。今も日本には、マッカーサー好みのよい子が多いのです。不正に対しても怒れない、戦えない、卑屈で、依存的で、自尊心も自衛本能も失った日本人こそ、彼の目標でしたから。

 

(3)占領政策の内容

 

  占領政策とは、日本弱体化政策であり、それは同時に、連合国軍側の戦争行為の正当化、戦争犯罪の免罪でした。私は、占領政策のポイントを主に5つに分けて考えています。

 

@  言論統制と検閲の実施

  特に連合国軍総司令部の占領政策への一切の批判の封じ込め

A  民族の伝統・歴史の否定

  特に修身、国史の授業停止による、伝統的な倫理道徳と歴史観の根絶

B  戦争犯罪宣伝計画の徹底

  特に『太平洋戦争史』による「勝者の歴史」=「真相」という洗脳、罪悪感の移植

C  東京裁判の開催

  国際法に根拠を持たぬ勝者による復讐劇。 日本=極悪犯罪国家という一方的断罪

D  GHQ製憲法の押し付け

  占領政策の総仕上げ。法制化による継続化。主権の制限による属国化・被保護国化。

 

 以上の五つです。以下の章で、これらについて具体的に記述したいと思います。

ページの頭へ

 

(1)日本は無条件降伏していないことについては、以下の拙稿をご参照下さい。

 「日本は無条件降伏などしていない

 

第2章 「日本弱体化」と文明の大転換

 

  今日の日本人の心の危機は、背景に、戦後の「日本弱体化政策」と「反日共産思想」があると書きました。私は、これらは異文化間のダイナミックスの産物であり、文明の歴史的転換に伴った抵抗力・反動力の作用だと考えます。

 

(1)異文化の破壊と同化

 

  大東亜戦争にして太平洋戦争は「異文化間戦争」でした。そして、アジア・太平洋の全域に繰り広げられた、「文明の挑戦と応戦」の一大ドラマでした。それは、白人種西洋文明と有色人種東洋文明という異質なものの激突でした。ここで、西洋欧米の側には、白人の有色人種に対する人種差別、キリスト教徒の異教徒(東洋宗教)への優越意識、西洋的価値観=普遍的真理、という心理的要因が強烈なファクターとして働いたと思います。

  西洋キリスト教文明の白人にとって、東洋・日本の文明は全く理解できないものだったでしょう。風貌は黄色いサル。何をしでかすかわからない。バンザイ突撃、特攻隊等はクレージ。死にもの狂いで攻撃してくる姿は、東洋鬼。日本の固有の宗教である神道は恐ろしい異教であり、土人の悪魔教のように映ったのではないでしょうか。彼らには、日本は邪悪な国というイメージが強烈に焼き付いていたのです。

  トルーマン大統領やバーンズ国務長官をはじめとする当時のアメリカの指導者たちは、日本という異文化を自らの文化と同化させ、自分たちと異なる哲学を破壊して、同一の価値観を強制しない限り、日本による報復の危険は去らないと考えました。それゆえ、日本弱体化政策とは、異文化を破壊する政策であったともいえると思います。

  英国のサー・ジョージ・サンソムは、名著『西欧世界と日本』のなかで、「このように強力な政治的圧迫と高度に組織化された宣伝とによって、一つの文化が意図的に他の異文化に影響力を強制しようとしたのは、史上ほとんどその前例を見ることができない」と指摘しています。

  こうした「異文化の破壊と同化」のための政策は、日本人の精神の徹底的改造を進めるものであり、日本人の心の深層領域までワープするものだったといえましょう。その最も強力な動力が、戦争犯罪に関する罪悪感の植え付けでした。この辺、なんとも、キリスト教の原罪観念的であり、また狩猟民族=ゲルマン=アングロ・サクソン的な発想だなあという気がします。

 

(2)文明の歴史的転換の中で

 

  以上のことをさらに大きい枠で、捕らえたいと思いますーーー20世紀から21世紀へと入り、世界は大転換を続けています。図式的に言えば、西洋から東洋へ、物質科学から精神科学へ、人間中心から宇宙との調和へ、という転換です。そういう転換の「時」がきているのです。この転換期において、日本は東洋と西洋の融合点に位置し、文明の総合と進化のために重要な役目を担う運命にあります。

  しかし、戦前の日本の指導層は、この「時」を計ることができませんでした。日本とアジア発展の時を見誤って、戦う必要の無い無謀な戦争に突入し、自滅してしまいました。東条英機らが描いた「大東亜共栄圏」構想は、花に例えれば、人工的に早咲きさせようとして、かえって散らせてしまったものです。それは、独伊ファシズムの覇道をまねて、力づく無理矢理に進めたから、自然の法則に外れ、狂い咲きとなってしまったわけです。しかし、木にしても、早咲きの花が散って終わりではなく、季節がくれば自ずと満開になっていきます。そのように、日本は時の勢いを受けて、戦後、奇蹟的に復興し、旭日が昇るように今日の繁栄へと至り、また隷属から立ち上がったアジアは太陽の光を受けるように成長発展の道を歩むことができているわけです。

  そして、この21世紀には、一層この勢いが強まっていくでしょう。それを村山節氏や浅井隆氏のように「東洋ルネッサンス」と、また、ラビ・バトラ氏のように「黄金時代」ということもできましょう。

  さて、私は、アメリカの戦前の極東政策と戦後の日本弱体化政策は、こうした文明の歴史的転換に対する西洋物質文明からの頑固な抵抗・反動だった、と見ることができるだろうと思います。また、同様な抵抗・反動の別の形態が、反日共産思想だと考えます。マルクス=エンゲルスに始まり、ロシアで定式化された唯物論的共産主義は、西洋近代の物質主義の極限形態であり、日本・アジアの共産化と、それに伴う東洋精神文明への圧迫は、文明の歴史的転換への抵抗・反動の別の形態である、と考えています。

  その抵抗・反動が、日本において、最も激しく「自国民による反日」という形で現れるのは、日本が東洋と西洋の融合点に位置し、文明の総合と進化において、中心的かつ先端的な役目を担う運命にあるからこそでしょう。

  しかし「時」の勢いというものは、人為によって押し止めることはできません。いやがおうでも、転換は進んでいきます。その過程で、人類の精神的な進化が進んでいくのだろうと思います。言い換えれば、人類の中の宇宙的な心が目覚めるとでもいいましょうか。きっかけは、まず日本人が目覚めなければならない、日本人が目覚めるとき人類が目覚めるーーーその役割を果たしうるかどうかは、日本人本来の精神を取り戻せるかどうかにかかっている、と私は考えます。

  日本人が宇宙的な心に目覚め、人類の精神的進化に貢献するには、まず二つの心理的障害を取り除くことが必要です。それが、マッカーサーとスターリンという二人の亡霊によるマインドコントロールです。

  このマインドコントロールからの解放という課題は、日本人であれば、どなたでも、主義・主張や、思想・信条、宗教・宗派などを超えて、考えてみるべき問題だと思います。

 

  以上のような構図と展望の下に、「日本弱体化政策」について、次に具体的について書きます。ページの頭へ

 

第3章 「日本弱体化」の秘密計画

 

  戦後、日本を弱体化しようとした占領軍の政策には、ある秘密計画がありました。

 

(1)秘密計画があった

 

アメリカの日本占領政策は、日本人に戦争の罪悪感を植え付け、民族の誇りと自尊心を奪い、日本が決してアメリカに報復することのないようにすることを目的としていました。

  日本占領の最高司令官マッカーサーがワシントン政府から受けた第1号命令は、日本を再び米国及び連合国の脅威にならないよう、徹底的に無力化、弱体化することでした。すなわち「降伏後における米国の初期対日方針」(昭和20年9月6日受け、26日公表)に「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及び安全の脅威とならざることを確実にすること」とその目的は明記されています。そして、この目的の下に行われた占領政策は、日本人を精神的に去勢し、当時の日本人が持っていた愛国心を抹殺し、アメリカの属国的・被保護国な存在へと貶めようとするものでした。すなわち日本弱体化政策です。

  この政策を実行するにあたっては、秘密計画が存在したのです。

 

(2)ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム

 

  その名は、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム。「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画」でした。以下ここでは「戦争犯罪周知宣伝計画」と呼ぶことにします。

  日本弱体化政策には、周到な計画が存在しました。それは、日米戦争中から立案され、占領後は、その方針にそって、日本人から、力と弾圧によって、民族の歴史、道徳、団結心等を奪っていったのです。「戦争犯罪周知宣伝計画」の実行は、連合国軍総司令部の民間情報教育局(CI&E)が強力に展開しました。これは民間検閲支隊(CCD)による検閲と相乗効果をなして、日本弱体化を進めるものでした。

  CI&E発行の文書に、表題もズバリ「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」というものがあります。これは、計画実施の中間報告とでもいうべきもので、日付は昭和23年2月6日です。

  その文書の冒頭には「民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植え付ける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ぼしてきた民間情報活動の概要を提出するものである」と書かれています。「日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植え付ける」ことが目的です。

  またこの文書は「戦争犯罪周知宣伝計画を、広島・長崎への原爆投下に対する日本人の態度と、東京裁判中に吹聴されている超国家主義的宣伝への、一連の対抗措置を含むものまでに拡大するにあたって、採用されるべき基本的な理念、および一般的または特殊な種々の方法について述べている」と記しています。原爆投下への批判や日本側の言い分を圧殺しようとしています。

  そして、その計画は3段階に分けて行われました。

 

(3)『太平洋戦争史』(第1段階のa)

 

  戦争犯罪周知宣伝計画の第1段階は、実質的には占領直後に開始され、CI&Eの文書によると昭和21年6月までに行われたものです。

  連合国軍は占領後まもなく、昭和20年9月から通信社・新聞社等への言論統制、検閲を始めました。この言論統制と検閲の下で、計画実施の第1段階が行われました。ここで重要かつ決定的な役目を果たしたのが、『太平洋戦争史』です。

 「太平洋戦争史」は、昭和20年12月8日から、日本のほとんどあらゆる日刊紙に一斉に連載されました。マッカーサー司令部は、日本の真珠湾攻撃の日を選んで、スタートしたのです。これは、日本全国民に対する戦争犯罪周知宣伝計画の開始でした。

  『太平洋戦争史』は、CI&Eが準備し、GHQ参謀第3部の戦史官の校閲を経てつくられたものです。国務省(=外務省にあたる)が作成した資料を下にしており、勝者の立場で、米国中心に書いた歴史書です。

  この文書は、まず「太平洋戦争」という呼称を日本の社会に導入したという意味で歴史的な役割を果たしました。連載開始1週間後の12月15日には、「大東亜戦争」という呼称は禁止されました(「神道指令」による命令です)。それとともに、日本の立場からの戦争の見方は抹殺されました。今日「太平洋戦争」という呼び名を安易に使っている人は、自分がアメリカ人の立場で戦争を見ていることに気づいていないのです。

ちなみにサンフランシスコ講和条約は、「太平洋戦争」という米国の用語は使っていません。「日本国と各連合国との間の戦争状態」と規定しています。「太平洋戦争」は、日米戦争を米国の立場から名付けたものであって、国連憲章は先の大戦を「第2次世界大戦」とし、世界人権宣言は「戦争」としています。わが国は太平洋のみならず東アジアを舞台とした戦争を戦ったので、大東亜戦争という名称は地理的概念としても妥当なものです。

GHQによる『太平洋戦争史』は、「戦争を始めた罪と、これまで日本人に知らされていなかった歴史の真実を強調するだけではなく、特に南京とマニラにおける日本軍の残虐行為を強調している」ものです。それによって、日本人のセルフ・イメージを破壊し、日本の過去は悪の歴史であるというイメージを刷り込み、戦争の罪悪感を植え付けるものでした。それは、続いて、昭和21年6月から行われる東京裁判への準備でもありました。

『太平洋戦争史』はNHKのラジオでドラマ化され、ラジオ番組「真相はこうだ」として放送されました。昭和20年12月9日より翌年の2月10日まで、週1回10週間にわたっての放送でした。

  なかでも東京裁判を通じて、日本人に初めて伝えられた「南京大虐殺」の放送は、国民に深刻な心理的打撃を与えました。これは日本人の罪悪感の形成に決定的な影響を与えました。虐殺行為を針小棒大に強調し、誇大な数字を捏造したキャンペーンでした。このキャンペーンの延長線上に、朝日新聞の本多勝一氏がいます。(1)

  新聞連載終了の後、『太平洋戦争史』は、本として10万部印刷され、昭和21年3月より完売されました。それだけ売れたのは、学校の教材として使用されたからです。すでにマッカーサー司令部の命令により、昭和20年12月31日に、修身、国史、地理の授業が即時停止されていました。その中で、21年4月、文部省は全国の小中学校に、これらの授業停止中の教材として『太平洋戦争史』を使用するよう通達しました。そして、『太平洋戦争史』は学校で、子供たちの頭に教え込まれました。それは、とりもなおさず、戦争犯罪周知宣伝計画の浸透でした。

  一方、マッカーサー司令部は、文部省に対して、この勝者の歴史観に沿って教科書を書き改めさせました。ここで協力した学者が、教科書裁判で有名な家永三郎氏らでした。改ざん後、子供たちの教科書は『太平洋戦争史』に基づく歴史観で書かれ、基本的にはほとんど改正されずに現在に至っています。

『太平洋戦争史』が宣伝された5ヶ月後、昭和21年5月3日に、東京裁判が開廷されました。6月24日に市ヶ谷法廷において行われたキーナン首席検事による劈頭陳述は、『太平洋戦争史』に呼応し、それと同質の歴史観に基づくものでした。まさに『太平洋戦争史』こそ、いわゆる「東京裁判史観」の原点です。

『太平洋戦争史』とは、どんな内容でしょうか?  端的にいうと、米国の国益のために書かれた宣伝文書です。戦争の原因国際関係動かすさまざまな動因から総合的に把握しようとするのではなく、歴史的事象の一部を断片的に切り取って並べ、日本にのみ戦争責任があるように、描いています。一方、米国にとって都合の悪いことは一切触れていません。その典型として、排日移民法は一切ふれられていません。この法律は、日本を一方的に敵対視して、日本人のみを特定して排除した人種差別的な法律です。その結果、日本の平和主義者を潰し、軍国主義者を台頭させて、日米戦争を招いた誘因となったものです。また、米国が大不況への対策として自国の経済を守るためにブロック化し、これに対抗したイギリスもブロック経済化したことが、世界経済に重大な影響を与え、市場から締め出された日本は自存自衛のために大陸へ活路を求めていかざるをえなかったという事情も、描かれていません。このように一面的な記述であるため、この文書は歴史書というより、政治的な宣伝文書と呼ぶべきものです。

  江藤淳氏によれば、「『太平洋戦争史』なるものは、戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定するとともに、歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖したという意味で、ほとんど民間検閲支局(CCD)の検閲に匹敵する深刻な影響力を及ぼした宣伝文書である」「教育と言論を的確に掌握しておけば、占領権力は、占領の終了後もときには幾世代にもわたって、効果的な影響力を被占領国に及ぼし得る。そのことをCCDの検閲とCI&Eによるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムは、表裏一体となって例証している」。

  そして、戦後日本の歴史記述の大部分は、言論弾圧と検閲の下に、日本人の脳髄に刷り込まれた「太平洋戦争史」に基づいたものです。昭和57年の第1次教科書問題も、中国・韓国等に対する謝罪外交も、来年使用予定の中学歴史の「危ない教科書」も、基をたどれば、この宣伝文書に発するものといえましょう。

 

(1)南京事件については、以下の拙稿をご参照下さい。

 「南京での『大虐殺』はあり得ない

 


4)記憶と歴史の剥奪(第一段階のb)

 

 「ある民族を滅ぼすには、その民族の記憶を消すことだ」という箴言があります。アメリカは、この古来の鉄則に忠実に、日本の弱体化政策を実行しました。つまり、日本民族の固有の記憶と歴史を剥奪し、代わりに勝者の歴史を吹き込んだのです。

  与えられた勝者の歴史とは、戦争犯罪周知宣伝計画の第1段階において決定的な役割を果たした『太平洋戦争史』でした。そして、民族の固有の記憶=歴史の剥奪には、『太平洋戦争史』が出された1週間後の昭和20年12月15日に発せられた「神道指令」が重大な効果をもたらしました。

 「神道指令」は、日本固有の民族的信仰の神道と国家との結びつきを禁止するものでした。今日では、神道は、宇宙生命との融合、自然環境との共生を重んじた宗教であり、原始文化と現代文化を調和させたユニークな日本文明の根本にあるものとして、世界的に高く評価されています。また、多くの識者から、21世紀に人類文明が新生するために、神道の持つ平和的でエコロジカルな性格が期待されています。しかし、戦後間もない頃には、神道は、日本の「侵略戦争」の思想的根源のように見られていました。

  占領軍によるいわゆる「国家神道」の解体を、政教分離、信教の自由の実現として評価する人も多いことでしょう。しかし、一つ忘れてはならない問題があります。それは、ポツダム宣言及び降伏文書に違反するものだったことです。ポツダム宣言は第10項で「言論、宗教及思想の自由」を明示的に保障していたからです。

  戦争の勝利者が、敗者の宗教に手をつけるということは、異例なことでした。文字どおり無条件降伏したドイツにおいてさえ、行われていません。日本における「神道指令」は、有色人種への人種差別と、ユダヤ=キリスト教による異教への弾圧という意志があったと、私は推察しています。

 「神道指令」は、例えば、ホメイニのイランや、フセインのイラクをアメリカが破って占領したとした場合、「イスラム教指令」を出して、国家と宗教の結合を断ち切ろうとするようなものです。西洋では17世紀のドイツ30年戦争前に行ったことです。

  マッカーサー司令部は、「神道指令」と同時に、神武天皇による日本建国の理想とされた「八絋一宇」という言葉の使用を始め、日本民族の理想やロマンを伝える伝承や神話の抹殺を命じました。古事記・日本書紀はもちろん、古くからのおとぎ話までが消されました。これは、欧米でいうならば、聖書・ギリシャ=ローマ神話からイソップ物語までを否定することにあたりましょうか。

  同時に、楠木正成、東郷平八郎などの国民的英雄の名が削られ、反対に足利尊氏、幸徳秋水ら反逆者や不忠者を讃えられました。また、西郷隆盛、吉田松陰らに関する本の発行も禁止されました。彼ら明治維新の英傑たちは、西洋の植民地化に対抗して、日本の独立を守り、アジアの興隆を目指した指導者でしたから、近代日本の背後にある危険思想と見なされたのでありましょう。西郷さんなどは、内村鑑三が英文で書いた『代表的日本人』の人物像の一人であり、まさに「代表的日本人」こそが、アメリカにとっては、危険人物だったともいえましょう。

 

(5)東京裁判の準備(第2段階)

 

  秘密計画を報告した連合国軍総司令部民間情報教育局(CI&E)の文書によると、戦争犯罪周知宣伝計画の第2段階は、昭和21年年頭から開始された、となっています。CI&Eの文書には、この段階では「民主化と、国際社会に秩序ある平和な一員として仲間入りできるような将来の日本への希望に力点を置く方法が採用された。しかしながら、時としてきわめて峻厳に、繰り返し一貫して戦争の原因、戦争を起こした日本人の罪、および戦争犯罪への言及が行われた」と記されています。そして、新聞、ラジオ、映画等のメディアが徹底的に利用され、特に新聞へは、記者会見、報道提供、新聞社幹部と記者への教化等によって「毎日占領政策の達成を周知徹底」した、と記述されています。

  特に重点が置かれたのは、東京裁判という歴史的な一大イベントの予告と、報道です。昭和21年6月に極東国際軍事裁判所が開廷されるにあたっては、国際法廷の解説や戦犯裁判の資料を提供して、東京裁判の違法性を隠蔽しました。裁判中は、「とりわけ検察側の論点と検察側証人の証人については、細大漏らさず伝えられるよう努力している」と文書は報告しています。日本の弁護側と弁護側証人については、わずかしか伝えないという情報操作が行われたのは、言うまでもありません。

 

(6)原爆批判と日本の言い分の封殺(第3段階)

 

  この文書がだされた昭和23年2月6日現在では、第3段階は進行中です。第3段階は、東京裁判の最終論告と最終弁論を目前にして、緊迫した情勢を反映したものでした。文書には、原爆投下への批判と敗戦国の言い分を圧殺し、連合国を全面的に正当化しなければならないという連合国側の危機感が漂っています。

  文書の述べているところを要約するとーーー合衆国の一部の科学者、聖職者、ジャーナリスト等の発言に示唆されて、日本人の一部が、原爆投下を「残虐行為」の烙印を押してはじめている。さらに、これらのアメリカ人のあいだに、一部の日本の国民感情を反映して、広島での教育的人道主義的運動は、「贖罪」の精神で行われるべきだという感情が高まりつつある。これとともに、東京裁判で東条英機が「自分の立場を堂々と説得力を以て陳述したので、その勇気を国民に賞賛されるべきだという気運が高まりつつある。この分で行けば、東條は処刑の暁には殉国の志士になりかねない」云々。

  こうした原爆問題と東條証言による連合国・米政府への批判の高揚に対抗して、戦争犯罪周知宣伝計画の第3段階が展開されたのです。

  その内容は、それまでの段階以上に、繰り返して日本人に「日本が無法な侵略を行った歴史、特に極東において日本軍が行った残虐行為について自覚」させようとし、特に「広島と長崎に対する原爆投下の非難に対抗すべく、密度の高いキャンペーン」を行おうとしたものです。日本の「侵略」や「残虐行為」は、原爆投下の免罪のために強調されたのです。そして、日本は犯罪国家だから原爆を投下したのは当然だ、悪いのは日本の軍部指導者である、という意識が徹底的に植え付けられました。特に、東條証言で陳述された日本側の言い分を一切認めず、「悪者はコイツだ、うらむならコイツだ、俺たちはワルクナイヨー、なんの罪もナインダヨー」と、日本国民が連合国批判に向かわないように、宣伝しました。

  実は、東京裁判はそれ自体が、最も大規模なウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムであったといえます。それとともに江藤淳氏の言葉を借りれば、「日本人から自己の歴史と歴史への信頼を、将来ともに根こそぎ『奪い』去ろうとする組織的かつ執拗な意図を潜ませていた」ものでもありました。

  連合国側は、日本の戦争は「共同謀議による侵略戦争」と決め付け、日本の指導者を「平和と人道に対する罪を犯した戦争犯罪人」として処刑する意志でした。これに対し、東條英機は、総理大臣としての責任を認めつつも、大東亜戦争は自存自衛の戦争だった、と日本が戦争に至った世界史の展開と、日本の立場を陳述しました。それはCI&Eの文書が、東條は「自分の立場を堂々と説得力を以て陳述した」と書き止めたほど「説得力」のあるものだっただけでなく、東京裁判では連合国側の戦争責任が一切問われていない、という矛盾を鋭く指摘するものでもありました。

  判決は下り、東條は、連合国に操作された日本人同胞の憎悪を浴びながら、絞首刑にされました。マッカーサーは、そのわずか2年半後の昭和26年5月3日に、米国上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で驚くべき発言をしました。「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」ーーつまり、太平洋戦争は、日本にとっては自衛戦争だった、とほとんど認める発言を行ったのです。そこには、朝鮮戦争で、ソ連・中国・北朝鮮の共産軍と戦い、共産主義の脅威以って知ったマッカーサーの姿がありました。彼は、東アジアにおいて共産主義化を防ぐということが、戦前の日本にとって、いかに重大な死活問題だったか、ということを理解したのです。実は、マッカーサーは、その前年の10月15日、ウェーキ島でトルーマン大統領に対して、「東京裁判は誤りだった」と告白した、と世界中に伝えられています。

  しかし、東京裁判を行っていた時点でのマッカーサーは、国際法を超える最高決定権者として、「力と正義」の絶頂にありました。ジェネル・トージョーの言い分を、後に自分が認めるようになることなど、思い付くわけもありません。そして、戦争犯罪周知宣伝計画を遂行していきました。

 

(7)プログラムは作動中

 

  占領時代は終わりました。東京裁判は、マッカーサー自身によって否定されました。しかし、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムは、多数の日本人の脳にセットされたままです。このプログラムは今、現在も作動しています。あなたの脳の中でも、おそらくーーーそして、日本という国が滅ぶ時まで、作動し続けるでしょう。

  但し、このプログラムをデリートすることは、簡単です。それが、謀略だということを知れば、それでいいのです。ページの頭へ

 

参考資料

・江藤淳著『閉ざされた言語空間』(文春文庫)

 

 

第4章 「自由」という名のキツーイ弾圧

 

  「日本弱体化政策」の一つは、言論弾圧と検閲でした。自由を愛する方、マスコミ人、マスコミ志望の方で、占領時代の秘話を御存じない方には、特に考えていただきたい内容です。

 

(1)アメリカは言論統制と検閲をした

 

  戦後、アメリカは日本を「解放」し、「自由」を与えた、と思われていますが、さにあらず。占領下には、真の「言論の自由」はありませんでした。現実には、厳しい言論統制と検閲が行われました。それは、日本のマスコミや文化人の精神を捻じ曲げてしまうほど強烈な弾圧でした。その効果は、今日にいたるまで、続いています。

  連合国軍が、ポツダム宣言の諸条件を無視し、占領政策を銃剣の行使と命令の通達とによって強行する過程では、何よりもまず日本の新聞とラジオが、次いで日本の学校が徹底的に利用されました。つまり、マスコミと教育です。

  この過程で、アメリカは、日本の戦時中にも優る言論統制を行い、新聞、ラジオの検閲を始め、手紙等の郵便物の検閲までをあえて行いました。そして、アメリカの司令部への一切の批判を封じたうえで、徹底的な反日宣伝を行い、日本弱体化政策を推し進めたのです。

 

(2)戦前以上の言論統制

 

  ポツダム宣言にはどのように書かれていたのでしょうか? 宣言第10項には、「われらは日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有する者に非ざるも、われらの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし。日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし」。

  また、第12項には、「日本国国民の自由に表明せる意思に従い、平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、連合国の占領軍は直に日本国より撤収せらるべし」という文言があります。

  第12項の「日本国国民の自由に表明せる意思」は、第10項の「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」に照応するものと解釈するのが順当でしょう。しかるに占領軍当局は、実際には、「あれはああしろ、これはこうしろと指図」するかたちで一方的に改革を強制し、言論・思想等の自由に苛烈に統制を加えた上、「基本的人権」の無視さえも憚ろうとしませんでした。

  このように、ポツダム宣言と現実に実施された占領政策との間には、明らかに矛盾撞着が認められます。占領政策はしばしばポツダム宣言に背き、なかでも言論・思想等の自由は、占領下の日本には存在しませんでした。

  第10項によれば、「民主主義的傾向の復活強化」を実現すべき主体は日本政府以外のなにものでもありません。それは、戦前の日本に民主主義的傾向があったことを認め、その復活と強化をうたっています。軍部が台頭し、政治の実権を握る前の日本は、立憲君主制による議会政治を行っており、日本的な民主主義=民本主義が存在していました。ですから、ポツダム宣言によれば、日本政府は日本の自主性をもって「民主主義的傾向の復活強化」を行うことのできる権利を留保していました。とこらが、米国は、日本の政治社会システムのあらゆる形態を、米国式に変えることをのみ、民主主義化として、米国型の民主主義を、占領政策として押し付けました。それは、米国に将来決して脅威とならない属国化・被保護国化です。

  そのために、言論統制と検閲を必要としたのです。江藤淳氏いわく「これこそ勝者が敗者を一方的に支配するという『無条件降伏』の『思想』の、露骨な実践にほかならない」。

 

(3)周到な事前準備

 

  言論統制と検閲は、マッカーサー司令部が勝手にやったことではありません。あらかじめ「統合参謀本部の許可無しには、これを終了させることはできない」と定められおり、合衆国最高司令官たる米大統領・ルーズべルトの命令によって、実施されたものです。

  しかも、それには、周到な事前準備がされていました。占領軍が日本で実施した報道管理体制の原型は、実は日米開戦直後に(!!)ワシントンで概略完成していました。その後、アメリカは日本占領のときのために、巧妙緻密な検閲計画を練り上げていたのです。これこそ、戦略的思考というべきものでしょう。

  米国は、民主主義国であり、言論の自由を謳歌している国です。それゆえ、国家による検閲を嫌悪しているアメリカ人が、戦争という国策上検閲を実施せざるを得ないような危機的状況に直面した際、政府は検閲の存在という事実を隠蔽しようとします。民主主義による言論の自由の下で、表面には見えないように、国民に気付かれない仕方で、検閲を行わなければなりませんから、米国では検閲の方法が非常に高度に発達しました。

  日本占領後に民間検閲を実施する組織を計画し、実際の検閲業務に熟達した人物が、民間検閲将校(Civil Censorship Officer)として選ばれました。アメリカのマスコミ界、出版界のプロが、国策のために検閲を引き受けました。また、多数の日本人を雇用し、検閲に協力させることも、決定していました。こうして長期的に準備が行われていました。

 

(4)新聞ラジオへの言論統制の開始

 

  昭和20年9月2日、ミズーリ艦上の降伏文書調印によって、国際法上の戦闘行為は停止されました。この条件付終戦によって「目にみえる戦争」は終わりましたが、それに替わって「目にみえない戦争」、つまり「思想と文化の殲滅(せんめつ)戦」(江藤淳氏)が、開始されたのです。それは、国際法を無視して強行された隠れた戦争でした。日本における民間検閲は、この戦争で、ほとんど原子爆弾に匹敵する猛威を振いました。

  日本は敗戦・占領と同時に「言論の自由」を与えられたことになっています。ポツダム宣言第10項が「言論、宗教及思想の自由」を明示的に保障していました。しかし、実際には、降伏文書調印から2週間も経たぬうちに、昭和20年9月14日、同盟通信社が24時間の業務停止を命じられました。同社は、当時事実上の国営通信社というべき存在でした。業務再開を許されたときは、「同社の通信は日本のみに限られ、同盟通信社内に駐在する米陸軍代表者によって百パーセントの検閲を受け、(略)また海外にある同盟支局からのニュースはこの禁止が緩和されるまでは使用してはならない」ことになりました。つまり、連合国司令部を通じるルート以外には、日本の立場からのニュースが海外諸国に流れないよう、また海外からのニュースが日本に入らないように、報道をシャットアウトしたわけです。続いて行われた言論弾圧は、日本のマスコミの姿勢や精神を根本的に捻じ曲げるほどに強烈なものでした。

 

(5)フーヴァー大佐の声明

 

  9月15日に、民間検閲支隊(CCD)の支隊長ドナルド・フーヴァー大佐は、同盟通信社、日本放送協会等の日本報道関係代表者を集めて、通告を行いました。

 

  「マッカーサー元帥は、連合国がいかなる意味においても、日本を対等とみなしていないことを明瞭に理解するよう欲している」

  「諸君が国民に対して提供してきた着色されたニュースの調子は恰も最高司令官が日本政府と交渉しているような印象を与えている。交渉というものは存在しない。(略)最高司令官は日本政府に対して命令する。しかし交渉するのではない。交渉は対等の者の間に行われるのである」

  「今後、日本国民に対して配布される総てのものは、一掃厳重な検閲を受けるようになる。新聞とラジオは引き続き100パーセント検閲される。虚偽の報道や人心を誤らせる報道は許されない。連合国に対する破壊的批判も然りである」

 

  江藤氏曰く「この声明はポツダム宣言の規定する双務的、相互拘束的な日本と連合国との関係を、真っ向から否定していた。即ち合意による敗北の全称否定であり、征服による敗北の一方的な宣言である」。

  フーヴァー大佐は、9月6日付のトルーマンのマッカーサーへの指令に立脚して声明していました。

  この指令の第1項は「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである」と規定し、第3項はさらに重ねて「われわれがポツダム宣言を尊重し、実行しようとするのは、日本との契約関係に拘束されていると考える」のではなく、同宣言が「日本に関して、また極東における平和および安全に関して誠意を以って示されているわれわれの政策の一部をなすもの」だからである、と述べています。

  かくして、江藤氏曰く、日本の報道関係者たちは「これからは日本人のための記事を書いてはならない、占領軍のための記事だけを書かなければならない、と言い渡されたに等しい」。

 

(6)1週間のうちの劇変

 

  昭和20年9月14日に同盟通信社が24時間の業務停止を命じられました。そして、次々に弾圧の手が差し伸べられていきました。朝日新聞が18日から48時間、英字新聞『ニッポン・タイムズ』が19日から24時間の発行停止処分を受けました。また、『東洋経済新報』は9月29日号の回収と断裁処分を受けました。

  『東洋経済新報』の場合は、次のような内容が弾圧の原因となったものですーーー「米国はかつて無謀な移民法の制定により、日本の平和主義者を打倒し、軍国主義者の台頭を促した。今次の極東戦争はここにその遠因の一つが存する。これは米人自身の認める見解だ」

  (ははあー、人種差別的で反日的であった「排日移民法」への批判は一切許さないというわけですな。ちなみに「排日移民法」は『太平洋戦争史』でも一切触れられていません。「自由と正義の解放軍」には、恥部はあってはならないのですね)

  9月14日から21日の1週間のうちに、占領下の日本の新聞、雑誌等の論調には、一大転換が起こりました。特に、朝日新聞が21日に発行停止を解除されたときには、論調が劇的に変化していました。敗戦直後の朝日は、占領下の日本国民の心情を切々と書いていましたが、それがコロッと変わり、反政府的反国民的な論調へと転換しました。あきれるほど見事な「転向」です。

  かくして、日本の新聞とラジオは、連合国軍司令部に対する一切の批判と抵抗の自由を封殺されていました。銃剣の下に、測り知れぬほどの圧力が、日本の言論精神に加えられたといえましょう。

 

(7)占領軍の宣伝機関に

 

  9月21日には、日本新聞遵則(プレス・コード)、日本放送遵則(ラジオ・コード)が、出版・報道関係者に公表されました。

  その内容は、プレス・コードの次のような条項をみれば、明らかです。

 「第2条 直接又は間接に公安を害するが如きものは之を掲載すべからず」

 「第3条 連合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加ふべからず」

 「第4条 連合国進駐軍に関し破壊的批評を為し又は軍に対し不信又は憤激を招来するが如き記事は一切之を掲載すべからず」

 「第5条 連合国軍隊の動向に関し、公式に記事解禁とならざる限り之を掲載し又は論議すべからず」

  これらの遵則は、以後6年半にわたって日本のマスコミを拘束しました。

  こうして「言論の自由」が完全に圧殺されていたので、9月26日に、トルーマン大統領のマッカーサーに対する指令(JCS1380/6)が新聞紙面に掲載されたとき、それをポツダム宣言・降伏文書違反として批判できる新聞は、どこにもありませんでした。

  トルーマンの指令には、公然と国際法を無視した次のような内容が示されていました。

 「一、天皇および日本国政府の権限はマッカーサー元帥の支配下におかれる。連合国と日本との関係は契約的基礎の上にあるのではなく日本は連合国に対して無条件降伏を行ったのである。マッカーサー元帥の権威は日本に対して至上のものであるからマッカーサー元帥の権威の範囲に対する日本人の質問を許してはならない。

  二、日本の管理はマッカーサー元帥が速やかにその意図を実行し必要とあらが武力を行使する権利を傷つけずに良好なる結果を生ずる場合にのみ日本政府によって行われるであろう。

  三、対日戦後処理問題に関するポツダム宣言は契約上の要求にもとづいてなされたものではなく、日本および極東の平和ならびに安全に対して誠意ある政策を実施せんとする意図の下に発せられたものである」

  マッカーサーは、この指令を、占領間もない9月6日に受け取っていました。しかし、26日までの20日間公表せずにいました。この間に、マッカーサーは、日本の新聞、ラジオ等を徹底的に弾圧し、連合国司令部に対し、一切批判・抵抗できないようにしたうえで、公表したのです。この20日の間に、日本のマスコミは、有無を言わさず、占領軍の宣伝機関に変じられました。マッカーサーは、こうしてマスコミを自分のマスコミとすることで、日本国民の批判・抵抗を抑えこむことができたのです。

 

(8)イヌの「自由」

 

  続いて、9月29日には、「新聞と言論の自由に関する新措置」指令が出されました。この指令によって、日本の新聞は、「いかなる政策ないし意見を表明しようとも」「決して日本政府から処罰されることがない」という特権的地位を与えられました。国家の機密情報を暴露することも可能です。利敵行為、通敵行為も罰せられません。国家に対する忠誠義務から完全に解放されたのですから、これこそマスコミとして、究極の言論の自由を与えられたと喜ぶべきでしょうか?

  いいえ。日本の国家権力から解き放たれた代わりに、連合国最高司令官という外国権力の代表者の完全な管理下に置かれたのです。そして、連合国・米国政府の政策ないし、マッカーサーの意見の代弁者に変質させられたのです。つまり、日本のための言論機関から、連合国のための言論機関へと転向させられたのです。

  日本の新聞は、これに逆らったなら、商売として存続することは、できませんでした。生き残るためには、進んで連合国の対日占領政策遂行の道具となり、連合国の政策ないし意見を、鼓吹する以外に、道がなかったのです。これこそ、勝者から与えられた「言論の自由」の実態でした。イヌになれ、ということでしょう。

  出版関係者は「報道の自由」も「言論の自由」も存在しないことをよく知っていました。しかし、そのことを指摘したり活字にしたりすることは厳禁されていました。これが外国権力に対する完全服従を強制されたジャーナリズムの実状でした。

  かくして、9月29日をもって、日本の言論機関、なかでも新聞は、自国の国益を無視した、国籍不明のメディアに変質させられました。

  続いて、10月8日には、事前検閲が同盟通信社から、朝日、毎日、読売報知、日本産業経済、および東京新聞の東京5紙に対して、拡張実施されました。 読売報知は、今の読売、日本産業経済はサンケイです。

  こうした弾圧は非常に強烈でしたので、日本のマスコミの多くはマスコミとしての精神を捩じ曲げられ、今日にいたるまで卑屈な自主規制と自己欺瞞に陥っているほどです。

 

(9)検閲の指針

 

  戦後日本を弱体化させ、マスコミの言論精神を偏向させたものに、マッカーサーによる徹底的な言論統制と検閲がありました。そこには、30項目に及ぶ検閲指針が存在しました。マスコミは、このことをほとんどとりあげていませんから、一般には知られていません。

  検閲指針は、昭和21年11月末には、まとめられていました。「削除または掲載発行禁止の対象となるもの」として、30項目が示されています。その内容とは、

 

  第1に、マッカーサーやGHQに対する誹謗や中傷

  第2に、東京裁判に対する批判や抗議

  第3に、「連合国最高司令官・司令部(SCAP)が憲法を起草したことに対する批判    日本の新憲法起草にあたってSCAPが果たした役割についての一切の言及、あるいは憲法起草にあたってSCAPが果たした役割に対する一切の批判」。

  憲法批判とこれが米国製であることの暴露、及び押し付けられた事実は一切触れてはならない。

  第4に、「検閲制度への言及  出版、映画、新聞、雑誌の検閲が行われていることに関する直接間接の言及がこれに相当する」。

  言論統制や検閲制度が存在しているという事実を暴いてはならない。

  第511に、アメリカ、ソ連、英国、朝鮮人、中国、他の連合国及び連合国一般に対する直接間接の一切の批判。

  第12に、「満州国における日本人の取扱いについて特に言及したもの」。

  これはソ連、中国への批判となるが、特に項目を別にして明示している。日本人が不当に取りあつかわれたことに対する批判。

  第13に、連合国の戦前の政策に対する批判

  第16以下では、「戦争擁護の宣伝」「神国日本の宣伝」「軍国主義の宣伝」「ナショナリズムの宣伝」「大東亜共栄圏の宣伝」「国家主義の宣伝」「戦犯の正当化と擁護」など一切を禁じるもの。

 

  ここで意図されているのは、@GHQへの批判封じ(特に、憲法と東京裁判等)A連合国への批判封じ(特に、米の原爆、ソの満州侵略等)B日本の伝統的な精神文化と明治以降の日本国家の否定、といえましょう。

  以上のように、マッカーサー司令部は、厳格な検閲指針を設けてマスコミを検閲し、日本の言い分、反論を一切報道できないようにし、さらに日本のマスコミを徹底的に活用して、一方的な情報を流し、宣伝活動をしたのです。

 

10)自動検閲装置となったマスコミ

 

  GHQが最も活用したのは情報発信の中枢、NHKと朝日新聞、岩波書店などでした。これら主要な情報機関には検閲官が常駐し、厳重なチェックをするばかりでなく、占領政策に都合のよい情報を積極的に流させました。

米国製の「日本国憲法」では、第21条で「検閲はこれを行ってはならない」と定められています。しかし、占領軍は、戦前の日本の軍政が行った検閲の比ではない徹底的な言論統制を実施していたのです。しかも、検閲していることを絶対に漏らさせないようにして、検閲の存在そのものも隠蔽するという、巧妙かつ狡猾な仕方をしていたのです。

こうした言論統制と検閲の存在すら知らない日本国民は、NHKや朝日で同じ日本人の進歩的文化人が言っていることだからと、無抵抗に受け入れ、すべて真実だ、正義だと洗脳させられました。そのうちに、日本の過去の戦争はすべて「侵略戦争」だ、南京での虐殺数は30数万人だ、とウソも百遍繰り返せば、すべて「真実」となっていったのです。NHKや朝日が占領期間中に協力同調して、このウソをオウム返しに、主張し続けた責任は大きいのです。

マスコミ側は検閲でボツにされる前に、占領軍におもねったゴマスリの反日記事を作るよう「自己検閲」の習性が自然に身につきました。このように占領軍の支配と影響を受けたのが日本のマスコミ界でした。

実に今日にいたるまで、日本のマスコミの多くは、マッカーサーの言論統制と検閲の呪縛を解けず、侮日的反国益的な報道を続けています。特に、大東亜戦争と占領時代に係ることに関する限り、異常なほどの心理的規制が働いているようです。自分で枠組みを破ることができないのです。銃剣の下にヤキを入れられた恐怖によって、マスコミとしての精神を捻じ曲げられてしまったのでしょう。

  偏向マスコミは、依然、朝日、NHK、岩波を筆頭とします。これらは、GHQが最も重視し、宣伝に利用したマスコミでした。NHKも? と思う人がいるかも知れませんが、NHKの製作番組では、大東亜戦争と占領時代に係る表現は、あきれるほど「東京裁判史観」に縛られています。ちょっと注意してドラマ、特集番組、教育番組をウォーッチしてみてください。他に、この傾向にあるのは、新聞は毎日、テレビはTBS、テレビ朝日などです。記事や番組によって、幅はありますが。

 

11)信書の検閲

 

  さらに検閲は、マスコミだけではなく、一般市民にも向けられました。すなわち、郵便、電信電話の検閲です。これは、情報収集、世論把握を企図したものでした。

  米国から押し付けられた「日本国憲法」は、第21条第2項に、「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と明記しています。しかし、実際は、占領期間には、信書はしばしば開封されて占領軍当局の検閲を受け、そのあとには「検閲済」と英文で記した黄色いテープが貼り付けてあったのでした。こうした占領軍による検閲は、終戦後まもなく廃止された検閲の復活ともいえるものです。戦前の日本政府は、あからさまに強権的な言論弾圧をしました。占領軍は、検閲の存在を隠蔽し、国民に知られないようにして、実に組織的で徹底した弾圧を行いました。

  連合国司令部は、昭和21年9月から、日本全国を9つの地域に分割し、各地域で毎日5百通、都合4千5百通の私信を検閲し、世論動向を調査しました。12月には、3倍に増やしました。実に、1ヶ月に33万7千5百通を開封して、検閲したことになります。

  この事もまた、占領政策は「言論、宗教及思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」としたポツダム宣言に背いていたことを明らかにしています。また、占領中の日本人には、現憲法第21条が保障している「言論、結社、表現の自由及び通信の秘密」があり得なかったということができましょう。

 

  連合国司令部による言論弾圧と検閲は、伝統と歴史を奪って勝者の歴史を教え込む教育とともに、日本人のアイデンティティと自己の歴史に対する信頼を、あらゆる手段を用いて崩壊させよう、という執拗な意図に支えられていました。そればかりではなく、いったんこの検閲と宣伝教育計画の構造が、日本の言論機関と教育体制に定着し、維持されるようになると、占領軍の統制検閲機構が消滅しても、引き続き同じ効果が持続するように仕組まれていたのです。それによって、日本人の伝統と歴史に対する自信と誇りは、自動的に崩壊を続けてきました。また同時に、いつでも、外国からの検閲の脅威に曝され得る体質ができあがっているのです。

  この仕組みと体質こそ、昭和57年の第1次教科書問題のときに表面化し、来年使用予定の新教科書問題において、一層あからさまに暴露されたものです。

  「『自由』という名の弾圧」の欺瞞を打ち破り、心理的規制の呪縛を解き放って、日本亡国の危機を乗り越えましょう。

 

12)3S政策の実行

 

厳しい言論統制の一方で、占領下に行われた日本弱体化政策の一つに、3S政策があります。これは「セックス(Sex)、スポーツ(Sports)、スクリーン(Screen)」の3つのSの事です。

GHQは、これらの3つのSを振興させ、アメリカの大衆文化や風俗を普及させて、わが国の大衆の関心を娯楽に向けるようにしました。そうすれば、日本人は団結心や愛国心が低下し、軟弱になって反抗しなくなるだろう、と考えたようです。

そして、アメリカは、最大のライバルにして、また強敵だった日本を骨抜きにすることに成功しました。この成功事例が、その後の「世界戦略」の骨組みになっているだろうことは、想像にかたくありません。すなわち、圧倒的な軍事力・経済力の裏づけの元に、自由とデモクラシーを理想として打ち出して支配の正当性をアピールし、大衆に対してはアメリカの通俗的な大衆文化を与えて、意識・生活・習慣をアメリカナイズしていくというやり方です。文化面としては、英語・ジャズ・コカコーラが象徴的でしょう。

 

私(昭和29年生まれ)も子供のころ、アメリカのテレビ番組や映画を見て、明るく豊かで幸せそうな人たちを見て、いいなあと思ったものです。そういう地上の楽園のようなアメリカが、荒廃し殺伐とした社会に変貌したのは、1960年代から70年代にかけて行われたベトナム戦争からです。映画や音楽の内容も、大きく変わりました。いまや欲望・憎悪・暴力・ホラー等に満ちた作品が、大量生産・大量消費されています。

このような変貌は、アメリカ人が、力と富におぼれ、アメリカ精神すなわちピルグリム・ファーザーズの清教徒的な倫理観や開拓者精神を失ったためだろうと思います。アメリカ文明の後追いをし、アメリカ文明に飲み込まれてしまうと、わが国も同じように荒廃し殺伐とした社会に転落していくでしょう。日本人は、日本精神に帰り、自己本来の生き方を大切にしていくことが大事だと思います。ページの頭へ

 

 

第5章 反日日本人が誕生・増大した

 

 日本人でありながら、自虐的な歴史観をもって、自分の国と国民を侮辱し、自国の国益に反することをする人を、反日日本人と呼ぶこととします。今日、学者、ジャーナリスト、教育者には、この類の日本人が多いのです。他の国では、例えば反米米国人、反露ロシア人、反中中国人、反韓韓国人などという人間は、ほとんど考えられません。いたとしても「スパイ」「人民の敵」「売国奴」などとして厳しい制裁を受けるでしょう。

  しかし、我が日本国だけは、反日日本人の楽園となっています。一体この人たちは、どのようにして誕生したのでしょうか。私は、主に四つの由来があると考えています。

 

(1)占領政策の協力者

 

  今から50年以上前、日本を占領した占領軍は、日本人の中から占領政策に協力する、反日的な日本人を生み出しました。その一部は、民間検閲の中から生まれました。占領時代、連合国総司令部の民間検閲支隊(CCD)は、日本の言論活動を厳しく検閲しました。検閲のためには、日本語に堪能な者が多数必要ですが、米国内にはほとんどいませんでした。そこで、占領後の日本で、日本人でありながら、日本人を検閲する協力者を募りました。彼らなくしては、世界史に類のない巧妙な検閲体制は成り立たなかったのです。

  江藤淳氏曰く、「検閲員に応募してCCD入りした人々の当初の動機は、ほとんどが経済的なものであったにちがいない。当時の日本人はまず飢えをしのがねばならず、そのためには自己の能力を最大限に利用しなければならなかったからである」。

  占領軍の手先となって日本人を検閲する日本人となったのは、滞米経験者、大学教授、外交官の古手、英語に自信のある男女の学生などでした。これらの人々に対してCCDは高給を提供しました。但し、給金は日本政府によって国民の税金から支払われました。連合国軍は、日本国民に言論統制や検閲の存在を隠し、新聞、雑誌、映画等の検閲が行われていることを知られないようにしていました。そのため、検閲者となった日本人は報酬を手にしたときから、被検閲者である他の日本人の眼に触れない「闇の世界」に属する者となったのです。

  当時、CCDに勤務した者は5千有余人、翻訳通訳機関で勤務した者も合わせると1万人以上にのぼるとみられています。江藤氏によると、「そのなかにのちに革新自治体の首長、大会社の役員、国際弁護士、著名なジャーナリスト、学術雑誌の編集者、大学教授等々になった人々が含まれていることは、一部で公然の秘密になっている。もとよりそのうちの誰一人として、経歴にCCDの勤務の事実を記載している人はいない」。

  反日日本人の一部は、こうした占領政策の協力者の中から、現れたのです。

 

(2)社会・共産主義者

 

@  共産主義者

 

反日日本人は、戦後の日本にはあふれるほどいます。しかし、戦前にはごく少数でした。それは、ソ連が作った国際共産党(コミンテルン)の指導下にあった日本共産党員でした。日本共産党はコミンテルンの日本支部として作られたもので、日本の政党ではありませんでした。彼らは、スターリンの指令に従って、「天皇制の打倒」による共産主義暴力革命を目指していました。終戦間際にソ連は突如不可侵条約を破って、背後から袈裟懸けに、満州・樺太・千島を侵略しました。こういう国の手先となって国内で転覆を起こそうと活動していたのですから、当時の日共がいかに反日的であったかがわかります。彼らが信奉した国際共産主義とは、実はソ連本位の社会帝国主義・赤色ファシズムと呼ぶべきものです。戦前の日共の活動は、日本をソ連の従属国・衛星国におとしめる道でしかなかったことは、東欧諸国の戦後の運命を見れば明らかです。

戦後の日本に反日共産主義者が激増したのは、マッカーサーが共産主義者の政治犯を解放し、共産主義活動を公認したことによります。解放された日本共産党員は、GHQの前で「解放軍万歳!!」と唱えたというのですから、あきれたものです。

GHQには、ニューディーラーと呼ばれる人間が多くいました。彼らは共産主義に親近感を持っていました。そして、マッカーサーの占領政策に強い影響を与えました。

戦前の日本は、世界で最も強い団結力を持った国でした。同一民族、同一言語の国としての愛国心をもって、国民がまとまっていました。それゆえ、占領軍は日本を弱体化させるため、反日的な共産主義者を使って、日本人の団結心を打ち砕き、国内を分裂させようとしたのです。但し、共産主義革命をさせない程度に利用する、ここがポイントです。また、別の角度から見ると、日本弱体化政策には、ニューディーラーを通じて共産主義者の意図が入り込んでいたのです。(1)

戦後、ソ連や中国に抑留された日本人は、そこで共産主義教育を施されました。また、国外の日本共産党員が工作活動をしていました。それらによって洗脳された人々は、反日的で、共産的あるいは容共的となり、ソ連や中国のエージェントや同調者となりました。日本軍の「非道悪虐」を証言している人には、この手の人間が多いのです。

マッカーサーの占領政策は、日本に共産主義革命を策す者たちにとって絶好の機会でした。とりわけ、昭和22年の2・1ゼネストにおいては、徳田球一、野坂参三らの日共指導層は、占領軍を「解放軍」と位置づけて、権力の奪取をめざしましたが、マッカーサー自身によって、中止を命じられました。

昭和24年の総選挙で日本共産党が大量当選すると、GHQは反共政策を取りました。25年6月、北朝鮮軍の侵攻で始まった朝鮮戦争においては、日共は北鮮・ソ連・中共軍と呼応して、武装闘争による共産革命を策しました。これに対し、GHQは米軍の朝鮮出動によって生じた治安の空白をうめるため、8月に警察予備隊を設置、9月に日共幹部の追放を指令(レッドパージ)などして対抗しました。

  朝鮮戦争のさなか、昭和26年9月にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印され、翌年4月の講和条約の発効によって、日本は米ソ対決の緊張の中で独立を回復しました。5月のメーデー事件の後には、7月に破壊活動防止法の制定、8月に警察予備隊の保安隊への拡充などして、治安の維持が図られました。昭和28年にようやく朝鮮戦争の休戦協定が調印された後(注意:戦争は終わっていません。今も休戦状態です)、29年には防衛庁が設置され、自衛隊が発足されました。

  こうして占領下のGHQによって破壊された、日本の治安と防衛の体制は、GHQによって回復されました。こうして、日本共産党による暴力革命は鎮圧されましたが、共産党は、GHQの日本弱体化政策による民主主義体制の継続が、革命に有利と考え、東京裁判史観とGHQ製憲法の護憲を国民に吹き込んできました。

  日本共産党は、戦前のスターリン=コミンテルンによる1932年テーゼに基づき、日本は半封建的前近代的な資本主義であると認識し、それゆえ日本における共産主義革命は、第1段階として民主主義革命となる、という段階論を唱えていました。つまり、共産主義革命のための民主化です。彼らは戦前の日本の歴史をおとしめ、日本文化を破壊することを、共産革命への前進としてとらえました。そして、米国の民主化政策に便乗し、日本の民主化を革命の手段として、推し進めたのです。

  日本共産党は、愛国革新と自主独立を唱えてきましたが、私の見るところ、愛国といっても共産革命のための手段にすぎず、本当に日本の伝統を守り、日本の精神文化を育てようというものではありません。「愛国の仮面の下の反日」というのが、本質です。その一つの証拠として、彼らは東京裁判による日本断罪の自虐史観を、宣伝・教育しています。

  さて、昭和35年に日本を揺り動かした60年安保をめぐって、日本の共産主義運動は、反日共の諸党派を生み出し、分裂と対立の道を歩んできました。その潮流には反スターリニズム、トロツキズム、毛沢東主義、反日爆弾闘争主義などがあります。また、マルクスの文献研究によって、非ロシア的なマルクス主義もあらわれました。そして、革共同、共産同などが、革命の正統争いを続けながら四分五裂してきたのですが、そこに通底するのは、日本的情念と反日感情との相矛盾した混合パワーです。

  日本以外の国では、多くの共産主義者は愛国者であり、愛国者だから共産主義者になった人々も多いようです。私はこうした真に愛国的な共産主義者は、敬意に値すると思います。しかし、日本においては、共産主義者は本質的に反日的であるという特異な現象を現しています。その淵源は、スターリン=コミンテルンによる1932年テーゼにあるのであり、スターリンによるマインドコントロールに呪縛されているのです。

 

A  社会主義者

 

  鳩山氏・菅氏による「民主党」の旗揚げに際し、社会民主党は分党方式で参加しました。 しかし、社会民主党の前身は日本社会党であり、昭和30年の結党以来一貫して日本の左翼の最大多数派を占めた社会主義者の政党であったことを忘れてはならないと思います。 私は、社会主義者・共産主義者でも、愛国的で自国の国益を大切に考える人には敬意を払う者ですが、旧社会党及びその支持者の多くは自国の立場を見失い、国民をミスリードしてきたので、ここに掲げます。

  とりわけ旧社会党左派(社会主義協会派)は、自身をマルクス=レーニン主義者と称し、議会制社会民主主義者としては他国にみないほど戦闘的な特性を持っています。70年安保のときには、総選挙によって議会での多数を獲得しようとするとともに、議会外では社青同という武闘組織をもって大衆的な革命運動を起こし、日本を社会主義化しようとしました。

  社会主義協会の理論的支柱である向坂逸郎氏は、昭和52年に、こう言っていました。「ソ連人の教養というのは、日本とはくらべものにならない。はるかに高いです。自由もね、日本とはくらべものにならない。自由です。思想の自由も、日本とはくらべものにならないくらいある。それは全然ちがいます」(月刊『諸君』昭和52年7月号)

  いやはや、なんとも、まるで「幻想の太陽」ですね。思い込みだけならご自由ですが、こういう人物が旧社会党の顧問をして、実に危険な活動へと誘導していたのです。社会党は、ソ連から指導を受け、多額の活動資金を受けていたからです。これはソ連からの亡命将校レフチェンコによって暴露されたことです。レフチェンコは月刊『文芸春秋』平成5年6月号で、日本社会党はソ連から多額の資金援助を受け、その綱領もKGBの影響下、指導下にあったと証言しました。これに対して、旧社会党から『文芸春秋』への抗議は全くありませんでした。そして、最近、旧ソ連の資料が公開され、ソ連の旧日本社会党への資金援助が、事実として裏付けられました。

  旧社会党は、安保廃棄・自衛隊違憲・非武装中立を主張してきた政党です。それは単なる人道的な反戦平和主義ではなく、日本社会主義化の戦略に基づくものでした。筋書きは、

   日米安保の廃棄→米軍の撤兵→自衛隊の違憲・解体→ソ連軍の進駐

   →ソ連の衛星的社会主義国に

というところだったでしょう。国民には、ソ連軍に対し「解放」という名の下に、無抵抗的降伏を呼びかけるわけでしょうね。事実、石橋政嗣元委員長は、「ソ連が侵攻してきたら、降伏したほうがよい」と「非武装中立論」で降伏の勧めを公言していました。確かにこれも一つの平和主義、しかし敗北主義的平和主義です。仮に日本がソ連の衛星国となっていたら、どうなっていたでしょうか。ハンガリー、チェコ=スロバキア、ルーマニア等と同然の運命だったことは、火を見るよりも明らかです。まあ、石橋氏などは、チャウシェスク大統領のように、従ソ・スターリン主義官僚の栄華を極め、国民の怒りをかって悲惨な最期に至ったかも知れませんね。

  戦後、日本を武装解除したGHQは、その後日本を再武装化しましたが、ここで再武装の必要性を力説した人物にマッカーサーの腹心・アイケルバーガー中将がいます。例えば彼は、昭和23年7月に『リーダーズダイジェスト』誌代表に対し「ソ連のやり方は、日本人の”赤”連中に内乱を起こさせ、自分たちを日本に引き入れさせる方法を取るはずだ。だから、米軍が日本から撤退すれば日本は赤化する」と主張していたとのことです。(児島襄著『日本占領』文春文庫) 日本の再武装化を「反動」「右傾化」「逆コース」などと学校で教えられて疑わない人が多いようですが、レフチェンコや石橋氏の発言について「自分の頭で」じっくり考えていただきたいものです。

  さて、一方、旧社会党は北朝鮮に対する異常なほどの思い入れを持ち、今ではおぞましいほどにその体制を理想化し、金日成を偉大な領袖と賛美していました。これは単なる国際友好のためではありませんよ。昭和40年代、日本が左翼革命運動で騒然としていた時代には、ソ連軍とともに北朝鮮の機械化軍団が、日本を侵攻する可能性があったのです。安保廃棄で米軍が日本から撤兵し、力のバランスが逆転したならば、日本国内の左翼と呼応して侵攻し、朝鮮と日本の社会主義化を実現するというシナリオです。北朝鮮には、朝鮮戦争において、米軍の削減で防衛が手薄になった韓国を突如侵略したという前例がありますから、当時の社会党がいかに恐るべき国際謀略に加担しようとしていたかが分かりましょう。

  平和・護憲・人権を党是としてきた旧日本社会党には、日本の国益よりも、旧ソ連や北朝鮮の国家目標に協力・奉仕するという反日的な体質があり、その体質が現在の社民党にそのまま受け継がれ、さらに民主党にも流れ込んでいるわけです。

 

(3)進歩的文化人

 

  社会主義者、共産主義者と共に、反日的な活動を行ってきた人々に、「進歩的文化人」がいます。彼らの誕生は、戦後の公職追放へとさかのぼります。

  昭和21年1月、GHQは、戦後初めての総選挙を前にして、突如、公職追放令を出しました。これによって、各界の指導者21万人が職を追われ、生活権を奪われ、「格子なき牢獄」につながれました。政党の立候補者にも多くの追放該当者が出たので、政党は大打撃を受けました。そして、その後公職には、占領政策に協力的であり、また東京裁判に肯定的な考えの者が多く就くことになりました。

  大学教授、文化人、有識者たちは、戦犯の汚名や公職追放を恐れて、一斉に方向転換し、日本の歴史を歪曲、アメリカの民主主義を礼賛して、占領政策に協力しました。エリートほど首がかかっているので、占領軍に迎合し、東京裁判やGHQ製憲法を賛美し、戦前の日本を断罪しました。東大では、横田喜三郎、大塚久雄、丸山真男、大内兵衛、坂本義和などの多くの「進歩的」な学者たちが、教授の椅子を手に入れました。

  彼ら進歩的文化人の実態は、実は反日日本人であり、また容共的であるのが特徴です。吉田茂首相は彼らを「曲学阿世の徒」と呼びました。彼ら進歩的文化人に教育された学生たちが、官界、教育界、マスコミに多く送り出されましたので、今日では、彼らの弟子や門下生の人脈が、日本を支配しています。

  谷沢永一氏は『悪魔の思想』のなかで、進歩的文化人の代表12人の実像を、彼ら自身の発言を引用して、明らかにしています。その12人とは、先ほどの東大教授5名以外に、鶴見俊輔・同志社大教授、安江良介・元『世界』編集長・現岩波書店社長、久野収・『週刊金曜日』編集長、加藤周一・評論家、竹内好・元都立大教授、向坂逸郎・元九大教授・社会党顧問、大江健三郎・作家、といった面々です。

  私の見るところ、彼らの学説・理論・主張に共通するのは、米国の占領政策を肯定し、東京裁判の追認の上に成立っていることです。また、日本と日本人を愚かで、遅れており、罪深いものという見方も共通しています。それは、米ソ対立構造が生んだ、時代のイデオロギーと、反日的侮日的な自虐感情の混合物とでもいうべきものでしょう。そこには、エリートとして日本的民衆を見下す冷たい視線も感じられます。

  特に歴史と文化に対する見方については、彼らは西洋欧米の価値観によって、日本の歴史・文化を判断する傾向にあります。それは一見、客観的論理的なようでいて、実は欧米の学問の理論や概念を、日本に当てはめたにすぎないものです。歴史の概念装置について言えば、西洋史の概念である封建時代、帝国主義、ファシズムなどの概念が、日本の歴史に機械的に当てはめられます。そして、欧米と日本との偏差を、遅れや特殊性として理解しようとします。そして、日本の固有の特長を否定し、近代化=民主化=欧米化を進めようとします。日本の伝統は半封建的前近代的と一面的にしか評価されません。世界史の中での明治維新や日露戦争の評価は非常に低く、明治以降の歴史は侵略的好戦的と断じられます。

  こうした進歩的文化人の考えの核心には、資本主義の後に歴史法則の必然として社会主義が実現する、という観念があります。言い換えると社会主義の信奉、或いは社会主義への同調です。彼らは、しばしば「戦後民主主義者」を自称しますが、その民主主義とは、反日的で従米か従ソの容共共和主義という国籍不明の観念でしかなかったのです。

  70年安保の時代には、反日左翼の影響で、多数の学生たちが安保廃棄・共産革命の運動に参加しました。その背後には、彼らを扇動する「背後の元凶」がいました。それが進歩的文化人です。大学には、革命教育をする教授連がいました。また、中学・高校には、彼らの教育を受けた日教組の教師がいました。

  彼らを背後で操っていたのは、スターリンの亡霊です。正確に言うと、1932年テーゼです。これは、国際共産党=コミンテルンの対日運動指令書です。それは、実は、ソ連の国益のためのものであり、スターリンの日露戦争の敗北に対する復讐心、有色人種への人種差別感情に満ちたものであったことを、谷沢永一氏が明らかにしています。

 

(4)日教組

 

  日教組は、マッカーサーによって、作られました。マッカーサーは、日本人の団結を弱めるために、日本の歴史と道徳を抹殺しようとしました。そのためには、教育の現場で、占領政策にしたがって、従米的反日的な教育を実行する日本人が必要です。そこで、それを担う教師を組織する労働組合を創出しました。それが日教組です。

  日教組は、社共両党の影響の下で、教育の場で、労働組合運動、社会主義運動を行ってきました。日教組は日本の社会主義化を目指して、青少年の洗脳を担ってきました。その影響には重大なものがあります。とはいえ、組合員の中でそういう運動を推進してきたのは一部の人たちであり、他の多数の良識的な教員は、組合の論理によって動かざるをえなかった、ということだと思います。

  日教組の考えを端的に現しているのは、日教組の代名詞だった槙枝元文委員長のこんな話ですーー「戦後の教育についていろいろ言われていますが、北朝鮮のようにやればいいんです」「北朝鮮には日本みたいな教育問題はいっさいありません」。

  いやはや、戦前の軍国主義的国家教育に反対する闘士が目指すのが、金日成ばりの全体主義的個人崇拝教育とは。反戦平和・民主教育とは、似ても似付かぬものです。

  ところで、私が70年安保の前後に通った高校には、日本共産党員の社会科教師や国語教師がいました。第1次ブント出身の社会科教師もいました。世界史の最初の授業は、『共産党宣言』についてたっぷり1時間行われました。国語の実力試験の問題が、宮本百合子の『播州平野』から出題されたこともあります。(元日共委員長の宮本顕治氏の夫人です)

  こうした私の経験上、梅原猛氏が、戦後教育と日教組について語っていることは、なかなか的を射ていると感じます。

 

 「日教組を支配する教師たちは、少なくとも最近まで、マルクス・レーニン主義の強い信奉者であった」「マルクス・レーニン主義は、資本主義を肯定し、それを継続させるような道徳は悪であるとし、資本主義を永らえさせるようなあらゆる道徳教育に反対する。『平和と民主主義の教育』というのは、社会主義革命の思想をカムフラージュし、そして日本人を危機に陥れている、この道徳の問題を避けて通り、社会主義革命が起こりやすいようにする教育にすぎないであろう」「戦後日教組が指向してきた教育は、革命家養成の教育をオブラートに包んだ、多分に道徳的な懐疑主義の色彩の強い平和教育である」「それはこの悪なる資本主義を打破し、社会主義社会をつくろうとする革命家を養成する教育である。‥‥‥裏で革命家を養成する教育を奨励し、表に平和主義教育を標榜して、資本主義道徳に対する懐疑の心を増長せしめていた」「ソビエト・ロシアを始めとする社会主義国の崩壊によって、この革命への指向は大幅に変更されなくてはならないと思われる。しかし教育学者の多くはそういう、実はもはや意味を失った革命教育を内包させた道徳的懐疑主義教育を、今もなお主張し続けている感がある」

 

  ここで梅原氏がいう「道徳的懐疑主義教育」とは、日本人の伝統的な道徳観を否定するものであり、私の見るところその核心はソ連・中共・北鮮の影響を受けた反日教育です。

  ソ連・東欧での共産主義体制の崩壊後は、日教組への新規加入者が減り、勢力は後退しました。しかし、今日もなお、一部の組合員たちは共産主義そのものへの根本的反省を行っていないようです。それは、ソ連型の共産主義に矛盾があったからだ、と考えているのでしょうか。反スターリン主義あるいは反ロシア・マルクス主義の立場からすれば、むしろ崩壊すべくして崩壊したのだ、共産主義へは多様な道があるのだと考えるのでしょうか。しかし、イギリス・イタリアでも議会主義的左翼政権の結果は、総じて経済活力の喪失、国家の「病」の悪化、青少年犯罪の増加、無気力・無職能の若年失業者の増大でした。そして、共産党という名称も、多くの先進国では消え去りました。しかし、教育界においては、今なお、歴史の法則的必然性によって資本主義の次の段階には社会主義が実現する、という旧観念が根強く保たれているのです。

  そして、今日も、日教組の一部の頑迷な教師たちは、青少年に旧観念を教え込み、反日日本人を製造しています。

 

(5)この章のまとめ

 

  これまで書きましたように、私は、反日日本人の主な由来を四種と考えています。

 

@  占領政策の協力者

A  社会・共産主義者

B  進歩的文化人

  C 日教組

 

  戦後日本を占領した連合国総司令部は、占領初期において、こうした反日日本人を誕生させることによって、日本を弱体化しようとしました。そして日本人が分裂し、自ら自国の国益に反することをするように、日本の社会に仕掛けを行いました。但しそれは、米国の国益を損ねない限度において、です。しかし、一端、誕生した反日日本人は、米国の思惑を超えて成長・増大しました。その大部分は旧ソ連や共産中国を利する勢力となりました。その一方、占領政策や共産主義の謀略に目覚め、「国際常識としてのナショナリズム」を取り戻した人々が、近年は増えてきています。

  さて、私が「反日」というとき、その「日本」とは、日本国(国際名 Nippon)であり、主権と領土と国民によって構成され、固有の伝統と歴史と文化を持って、国際社会に存在している、この国のことです。そして、「反日」とは、この自国の民利国益に反する態度や言動に関わり、とりわけ他国の政略や陰謀に利するものを言っています。

  国の特徴は、アメリカ、フランス、中国、韓国などでそれぞれ違います。自国・自民族の特徴は、他国との比較によってこそ、深く自覚できるものと思います。そして、他と異なる伝統、習慣、言語、社会、政体などに、その国と民族の特徴が自ずと現れていると思います。

  例えば、国の特徴は、国旗や国歌に象徴的に表現されています。そこに、その国の成り立ち、国民の理想などが象徴されています。そして、どの国、どの民族も、自らの国旗や国歌を大切にし、青少年には国旗や国歌の意味を教育しています。また、他国の国旗や国歌に敬意を払います。これは国際儀礼であり、国際常識です。

  日本国籍を持つ地球人であれば、日本の国旗や国歌を大切にするというのは、国際社会における自然な態度であり、当たり前の考え方です。それを私は、「国際常識としてのナショナリズム」と呼んでいます。これと、侵略的な排外主義とが、しばしば短絡的に混同されてしまっているところに、日本の不幸の一因があります。ページの頭へ

 

(1)共産主義とニューディーラーのかかわりについては、以下の拙稿をご参照下さい。

 「ニューディーラーが日本を改悪

参考資料

・谷沢永一著『悪魔の思想ー進歩的文化人という名の国賊12人』(クレスト社)

・梅原猛著『心の危機を救え』(光文社カッパブックス)

 

第6章 「日本弱体化」のための東京裁判

 

 東京裁判の見直しこそ、日本の危機を解決するためのキー・ポイントであり、21世紀における人類文明のターニング・ポイントです。

 

(1)日本弱体化のための見せしめ裁判

 

 「日本弱体化政策」の最大イベントこそ、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判でした。東京裁判は、昭和21年5月3日に開廷され、23年11月4日から12日に判決が下されました。A級被告28人を起訴したのは昭和天皇の誕生日(昭和21年4月29日)、東条英機・広田弘毅等7人の絞首刑は、今上陛下の誕生日(同23年12月23日)に実施されました。また、BC級戦犯1061名が処刑されました。それは、日本国民は勿論、全世界に向けた「力は正義である」という連合国のデモンストレーションでした。

  東京裁判は、最初から日本を一方的に侵攻者、極悪犯罪国家とし、日本の国家指導者を処刑しようとするものでした。結論は決まっていたわけですから、裁判というのは形式にすぎませんでした。それは「勝者による敗者への復讐劇」であり、「見せしめの儀式」でした。日本人に戦争の罪悪感を植え付け、自信と誇りを打ち砕き、日本を弱体化するために、東京裁判ほど効果をあげたものは無かったといえましょう。

 (国際法の権威・佐藤和男博士は、一般に「侵略」と訳されている aggression を「侵略」と訳すのは誤訳であり、「侵攻」が適当であると考証しており、以下それに従います)

 

(2)東京裁判史観

 

  東京裁判によって作られた歴史観を、東京裁判史観といいます。東京裁判の裁判管轄権は、ポツダム宣言によって、昭和16年以降の大東亜戦争=太平洋戦争に関してのみに制限されていました。ところが、連合国は宣言を無視して、昭和3年以降の日本を裁くものへと拡大しました。

  当裁判のほとんどに参加し、研究家としても著名な富士信夫氏は、東京裁判史観を「東京裁判で下した判決の内容は全て正しく、満州事変に始まり大東亜戦争に終わった日本が関係した各種事件、事変、戦争は、すべて日本が東アジア及び南方諸地域を略取し支配しようとした被告たちの共同謀議にく侵略戦争であって、戦前、戦中の日本の各種行為、行動はすべて『悪』であったとする歴史観」と定義しています。

  この定義に代表されるように、東京裁判史観は、戦前の日本が行ってきたことのすべてを断罪するものです。それによって、明治維新による有色人種で唯一の近代国家建設や日清・日露戦争の勝利を通して、日本が世界中から受けた尊敬は、ことごとく打ち消されました。さらに、明治国家に結実した日本の国の歴史、社会、文化、民族性にいたるまで、何もかも悪いということにされてしまいました。

東京裁判において、日本は昭和3年(1928)以来、共同謀議によって侵略戦争を行ったとして、断罪されました。その裏付けの一つとされたと考えられるのが、『田中上奏文』です。『田中上奏文』には、世界制覇の野望に基づく計画が書いてあり天皇も承認した、それを実行に移したのが昭和3年の張作霖爆殺事件だ、その後の日本の行動はこの文書に書かれた計画に基づいている、と理解されています。東京裁判では、米国・旧ソ連・中国などの連合国が日本を裁くうえで重要な根拠としたようです。ところが、『田中上奏文』には、当時から偽造された文書ではないかという疑いがあり、キーナン首席検事は、証拠としては提出しませんでした。今日、『田中上奏文』は偽造文書であることが確認されています。そうした文書が、東京裁判において日本を断罪する筋書き作りに利用されたとすれば、東京裁判の欺まん性は一層、大きなものとなります。(1)

  今日、東京裁判史観は広く深く、日本人の意識と無意識を呪縛しています。そして、ほとんどの日本人は、何か言ったり考えたりするときには、東京裁判史観を前提にしています。明治以降の日本の歴史は罪悪の歴史である、それは国の成り立ちそのものがみな悪いからだ、という観念に支配されているのです。そして、この観念の呪縛に気づかず、自ら検証しようとしない人が多いのです。

  そのことが、日本人の心の危機の原因の一つになっています。日本人はアノミーとアイデンティティ・クライシスという深い病に冒されています。

  また、日本国は、政治的にも外交的にも真に自主独立の国とはなり得ません。この虚偽と作為に満ちた歴史観を国が認めている限り、政府は中国や韓国の内政干渉に対し正当なる反論をできず、屈辱的な謝罪外交を続けることになるでしょう。その最も深刻な影響は、青少年教育に現れています。

  日本の新生のためには、東京裁判史観の打破こそが、急務中の急務なのです。

 「いや、そういうけれど、国際裁判で裁判を行って判決が下されたのだから、日本が悪いと思う。日本人はもっと過去の行いを反省して、謝罪しなければならないと思う」という人もいることでしょう。しかし、その裁判そのものに問題があったならどうでしょうか?  東京裁判は、国際法の下に、事実にいて、公平に裁かれたものだったのでしょうか。

  実態は、全く違ったのです。

 

(1)拙稿「日本悪玉説のもと、『田中上奏文』」をご参照ください。

(リンク先の第1章)

 

(3)言論統制と検閲の下での裁判

 

  まず、裁判を取り巻く環境を見てみましょう。東京裁判は、この裁判への一切の批判を許さない厳しい言論弾圧と検閲の下で行われました。その言論統制は、一般国民には見えない水面下で行われ、表に現れる新聞、ラジオ、雑誌等は、すべて連合国とマッカーサー総司令部の側からの一方的な報道をしました。その宣伝・洗脳効果は絶大でした。

  マッカーサーは、昭和20年8月30日に来日するや、降伏文書の調印もされていないうちから、あらゆる占領政策に先立って、戦争犯罪人の逮捕リスト作成を指令し、9月11日には、東条内閣の閣僚全員を含む39人の逮捕指令を発表しました。いかに彼が戦犯の裁判を重視していたかが分かります。そして、東京裁判による戦争犯罪の宣告と処刑は、占領政策のクライマックスともいえるものでした。

  占領政策を進める秘密計画であったウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争犯罪周知宣伝計画)は、東京裁判という歴史的な一大イベントを予告し、これを最高に効果あるものにするための計画であったともいえるのです。

  この計画は、第1段階では、『太平洋戦争史』によって、日本断罪の歴史観を宣伝・教育し、東京裁判を進める準備をしました。

  第2段階では、国際軍事裁判所の開廷にあたって、国際法廷の解説や戦犯裁判の資料を提供して、東京裁判の合法性・正当性を粉飾しました。裁判中は、「とりわけ検察側の論点と検察側証人の証言については、細大漏らさず伝えられるよう努力している」と計画文書は記しています。

  第3段階では、東京裁判の最終論告と最終弁論を目前にして、米国内から沸き上がる原爆投下への批判を無視し、東條証言による日本の言い分を封じ、連合国を全面的に正当化しようとしました。そして、日本国民に執拗に戦争の贖罪意識を植え付け、戦時指導者に対する責任追及へと世論を誘導しました。

  この間、巧妙かつ組織的な民間検閲が実行されました。GHQによる30項目に及ぶ検閲指針には、マッカーサーやGHQに対する誹謗や中傷、東京裁判に対する批判や抗議、検閲制度に関する直接間接の言及等が含まれていました。

  こうした徹底的な言論弾圧の中で、実に2年6ヶ月以上もの長期間をかけて、東京裁判が行われました。こうした裁判を取り巻く環境は、批判と報道の自由を認めないという点では、旧ソ連・スターリン体制下の社会主義裁判や、中国・毛沢東体制下の人民裁判などに通じるともいえましょう。

 


4)裁判に法的根拠なく、手続きにも問題

 

  これまで裁判を取り巻く環境について記しましたが、裁判そのものは公正かつ公平に行われたものだったのでしょうか? いいえ、それは裁判とすらいえないものでした。

  東京裁判は国際法に根拠が無く、裁判の法手続きも不正・不公平なものでした。

 

@東京裁判の唯一の根拠は、マッカーサーの発令による「極東国際軍事裁判所条例」でした。しかし、この条例は国際法に根拠を持たず、それゆえ国際法的に見るとこの裁判は成立しないものでした。

  この点を明らかにしたのは、判事中唯一人、国際法の専門家であったインド代表のパール判事でした。彼は、マッカーサー最高司令官に裁判所条例なるものを発令する権限が何ら存在しない事を明らかにし、条例が国際法に根拠を持たない非合法なものであることを痛論しました。それゆえ、この裁判は成立せず、被告はしたがって全員無罪である、と主張しました。

  東京裁判の具体的な構成や規定の一切は、裁判所条例によって決められていました。条例は米国憲法違反の疑いもありました。その条例を作ったのはマッカーサーの参謀将交たちです。つまり、東京裁判は、裁判という形を取った占領行政措置であったのです。

 

A判事と検事は、すべて戦勝国で占められていました。中立国の判検事も、日本の判事もいない不公平なリンチ裁判でした。

  判事のうちには、国際法の知識は愚か、法律学一般の素養さえも不十分な者が少なくなく、厳密な意味で法学者といえるのは、レーリンクとパールくらいでした。マッカーサーから裁判長に任命されたウェッブは、豪州の地方判事で国際法の知識を欠いていました。

 

Bこの裁判では「偽証罪」はなく、日本国と日本軍の犯罪については側聞、伝聞、作り話も許され、それがそのまま法廷証拠として採用されました。

  とりわけいわゆる「南京大虐殺」について、この傾向が著しく、虐殺を証明する公式資料が一つもないのに、犠牲者数として誇大な数字が強調されました。

 

C連合国にとって不利な証拠は一切却下されました。弁護側の証拠は大量に却下されたため、却下された資料と、却下されるからと提出されなかった資料が多数に及びました。

  それらは平成7年小堀桂一郎・東大名誉教授らによって『東京裁判却下未提出弁護側資料』全8巻として出版されました。この新資料や実証的な歴史研究に基づいて裁判を再審すれば、判決が覆ることは確実となっています。

 

D11人の判事が一堂に会したことは一度もなく、米・中・ソ・加・ニュージーランド等の7人の判事が検察側の論告のみを基礎に判決しました。

  この多数派判決は、検察側の主張をほぼ全面的に支持したものでした。多数派判事は、たとえマッカーサーが定めた裁判所条例が国際法に合致していなくても、条例を絶対視する、と主張しました。判決は司法的判断ではなく、政治的判断だったわけです。

 

Eこうした多数派判決に対し、パール(印)、レーリンク(蘭)、ベルナール(仏)、ウェッブ(裁判長、豪)の4人は個別的反対意見を提出しました。

  特に、パール判事が提出した膨大な判決書は、条例に反して法廷では朗読を許されず、被占領下の日本国民の目に触れることはありませんでした。

 

(5)判決は国際法の原則に反する

 

  判決は、罪刑法定主義、法律不遡及の原則に反し、かつ被告らが「共同謀議」による「侵攻戦争」を行ったという判決は不当なものでした。

 

@罪刑法定主義、法律不遡及の原則に反していた

  近代法の原則の一つとして、罪刑法定主義、法は遡及せずという原則があります。法律を事件後に作って裁くのは、事後法であって、事後法による処罰は「近代法最大のタブー」なのです。しかし、ニュルンベルク裁判に続く東京裁判では、この原則に反する「平和に対する罪」「人道に対する罪」というそれまでの国際法には一切なかった罪が新たに作り出され、それによって被告が裁かれたのでした。

  これは、人権宣言を無視することでした。人権宣言(1789年)は「違反より前に確立しかつ公布された法律によってのみ処罰される(権利宣言第8条)」と明言しています。東京裁判は「平和」と「人道」のためという大義名分によって、国際法を踏みにじり、人権を無視したものだったのです。

 

A「共同謀議」という特殊な理論によって戦争指導者の個人責任が裁かれた

  東京裁判は、国家指導者の個人責任というそれまで存在しなかった戦争責任を追求しました。共同謀議とは、国際法では認知されていない変則的、地方的な理論であり、検察側が米国の下級裁判所の判例しか示せないようなローカルなものでした。これが強引に国家間の戦争の計画遂行にあてはめられ、戦争指導者が有罪・死刑にされました。

  仮に「共同謀議」なるものを想定するにしても、実際のところ、日本では、昭和3年から終戦までの17年間に、首相は14人、内閣は15回も代わっており、一貫した侵攻政策、世界制覇の野望を果たす「共同謀議」などできる状態ではありませんでした。

  むしろ、米国は昭和6年からのルーズベルト大統領の長期政権下、周到なオレンジ計画をもって対日戦争を準備・遂行しました。日本人だけを差別する排日移民法、在外資産の凍結、石油・屑鉄輸出禁止、ABCD包囲網などを次々に進め、開戦準備の時間稼ぎのため、野村・ハルの日米交渉を10カ月も引き延ばしました。そのうえで、昭和16年11月、突如それまでの交渉を無視してハル・ノートを突きつけてきました。これは、日本への宣戦布告に等しいものでした。

  さらに、真珠湾攻撃については、ルーズベルトら米国指導者は事前に日本からの無線を傍受しておりながら、日本に先制攻撃をさせるように企みました。これは米国では広く知られ国民の憤慨をかっていることであり、例えばウエスト博士は昭和44年の東京講演で、真珠湾は日本が先に手を出すように誘い、「だまし打ち」だと開戦の責任を日本に押し付けるための巧妙ななであった、と米国を告発しました。

 ルーズベルトは、ヤルタ会談において、ソ連に対し日本の領土の略取を条件に日ソ中立条約を破って参戦させる密約をしており、米英ソの指導者たちこそ「共同謀議」を行っていたというべきでしょう。

 

B「侵攻戦争」の定義が存在しないのに、「侵攻戦争」だと断定された

  第2次大戦当時の国際法には、「侵攻戦争」の定義は存在しませんでした。1928年の不戦条約では、戦争は「攻撃的戦争」(Offensive war)と「自衛的戦争」(Defensive war)とに分けられていました。

  これに対し、「侵攻戦争」(aggressive war)とは、東京裁判のために作られた概念でありながら、その判決では「侵攻戦争」は定義されていませんでした。そして不戦条約をほとんど唯一の根拠として「侵攻戦争は違法」であり、日本は「侵攻戦争」を行ったと判決されたのです。ところが、不戦条約においては、ある戦争が攻撃的戦争か自衛戦争かどうかは、その戦争を行った国に自己解釈権があると、認められていました。大東亜戦争は、日本は、自衛戦争として意義付けていた以上、これを「侵攻戦争」と決め付けることはできなかったのです。

  戦後、国連において、侵攻戦争の定義が試みられてきましたが、極めて困難な課題となっています。国連総会で一応の定義に達したのは、1974年12月のことですが、国連国際法委員会は、いまだに侵攻を正式に国際法上の犯罪とは認めていません。現在、侵攻行為の存在を決定するのは、国連安保理とされています。ということは、常任理事国の政治的判断によっては、いかようにでも左右されるわけです。

 「侵攻戦争」は英語で「aggressive warwar of aggression」といいます。その意味は、主な辞書によると「unprovoked war」つまり「挑発を受けないのに行う戦争」です。この素朴な意味からいうと、日本はアメリカとの戦争に踏み切るまでに、執拗な挑発を受け続けていました。 特にハル・ノートは事実上の宣戦布告と見なされるものであり、パール判事が現代史家の言葉として引用しているように、このような覚書を受けたならば「モナコやルクセンブルクでも米国に対し、武器を取って立ったであろう」というほどに挑発的なものでした。それゆえ、対米戦争は「挑発を受けた戦争」であり、「侵攻戦争」とは断定できません。

  また、対中戦争の方も、支那事変の発端となった昭和12年7月の溝橋事件で、最初の発砲を行って日中両軍を戦いに引き込んだのは、中国共産党の謀略だったことを中国側が明らかにしています。 事実、東京裁判においては、満州事変の勃発の経緯は極めて詳しく立ち入って取り調べが行われていますが、支那事変についてはほとんどないに等しいほどです。これを追求すれば、日本の「侵攻戦争」説が成り立たなくなるからでしょう。

  さらに、ソ連にいたっては、日ソ中立条約を一方的に破って満州、樺太、千島を侵攻した侵攻国であることは火を見るより明らかです。その国が裁判官席に座って、日本を裁いたところにも、東京裁判の本質が現れていると思います。

  私は、侵攻戦争であろうが自衛戦争であろうが、戦争を憎む者です。しかし、勝者が善で敗者が悪であるというような単純な善悪二元論では、戦争の複雑・多様な原因は決して解明されません。従って、将来の世界戦争の再発を防ぐこともできないだろうと、考えます。


 

(6)東京裁判が裁かれる時

 

  これまでたびたびふれてきたパール判事は、判決書の最後を次の言葉で結んでいます。

 「時が熱狂と偏見をやわらげ、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、その時こそ、正義の女神はその秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」と。(『共同研究 パル判決書』講談社)

  まさに時は来たのです。今日、東京裁判は、国際的に大きく見直されようとしています。戦後50年の昨年、膨大な『却下未提出弁護側資料』が公刊されました。また本年8月には『世界がさばく東京裁判』(ジュピター出版)が出版されました。この書は世界14カ国の85人の外国人有識者が、連合国の戦争責任を追求し東京裁判を批判しているものの集大成です。 この書の序文に、初代国連大使・加瀬俊一氏は次のように記しています。

 「かねてから私は『東京裁判を裁判せよ』と主張し、歴代首相にもその必要を説いた。裁判は2年半にわたり423回も開廷し、鳴り物入りで日本を糾弾したが、要するに勝者の敗者に対する一方的断罪であった。日本の立場を完全に無視しており、パール・インド判事の名言を借りれば『歴史の偽造』なのである。それに、『法律なければ犯罪なし』の原則に反する。しかも、わが国民は戦勝国の世論操作によって洗脳され、いまだに裁判の真相を理解していない。これを正せぬ限りわが民族の精神的独立は回復しがたい」

 

(7)裁判への批判

 

  こうした新資料・新研究によると、東京裁判には、当初から根本的な批判があがっていたことがよく分かります。連合国のイギリスから厳しい批判がぶつけられるとともに、米国政府や連邦議会からもあがり、マッカーサーの側近や部下などGHQの中からも、あがっています。 (『世界がさばく東京裁判』は必読に値します。)

  なかでもパール判事は「あれは、法律にも正義にも基づかない裁判である」「法律的外観はまとっているが、本質的には執念深い報復の追跡である」と結論しました。英国の元内閣官房長官・ハンキー卿は、著書『戦時裁判の錯誤』でパール博士を100%支持しました。その他、F・J・P・ピール氏、フリードマン教授、米最高裁のW・O・ダグラス判事など、パール支持を表明する学者・法律家は枚挙にいとまがありません。今や、パール博士の説は、国際法学界の定説となっており、知らぬは日本人ばかりなり、という状態です。

  判事の中で、もう一人重要な存在が、 オランダのレーリンクです。レーリンクは、昭和58年に東京で開かれた「東京裁判国際シンポジウム」で、東京裁判に対する厳しい批判を明らかにして参加者に衝撃を与えました。 さらに、その後の氏の所論をまとめた『レーリンク判事の東京裁判』(新曜社)が近刊です。日本では、パールの「日本無罪論」はアジア人として民族的に偏向した極端な所説だ、といった見方がありますが、レーリンクはパール判決に深い敬意を表しています。彼は、自分裁判当時「国際法については何も知らなかった」と語っており、判事中で国際法の専門家はパール博士のみだったと認めています。またレーリンクは、西洋白人中心の歴史観を反省し、植民地だったアジアの立場に深い理解を示し、日本がアジア解放に果たした世界史的役割を重視しています。

  裁判長ウェッブは、裁判後に「パリ条約は何の変更も加えられなかった」とコメントしています。「パリ条約(ケロッグ・ブリアン不戦条約)が東京裁判の法的根拠だ」と、この裁判の合法論者は主張していたのですから、それに変更がないとすれば「侵攻した国の指導者の刑事責任」を問うことはできません。東京裁判の合法性を裁判長自身が、事実上否定したのです。

  極めつけは、東京裁判の指令者であり最高権限者であったマッカーサー自身が、「東京裁判は誤りだった」と述懐していることです。やるだけやっといて無責任なことです。

 

(8)もはや無視や拒否はできない

 

  東京裁判の新資料・新研究は、世界史的視野で日本の戦前と戦後の歴史を見直させるものとなっています。もはや東京裁判を検証することなしには、日本の過去・現在・未来は語れません。さらに人類にとっての真の世界平和への道は開かれないと、私は考えます。

  ところが、東京裁判の検証に消極的で、むしろ避けようとしている人たちがいます。彼らは、半世紀近くも前に作られた東京裁判史観を固定し、日本人がその定式によってしか歴史を見られないようにしたがっているようです。日本が「共同謀議による侵攻戦争」を行った「極悪犯罪国家」でなければならないと、あくまで考える人たちは、一度貼り付けたレッテルを覆されたくないのでしょうね。

  例えば、アメリカ追従論者は、検証を快しとしません。なぜなら、検証はアメリカの対日挑発政策や原爆投下を裁くものとなるからです。また、共産主義の支持者・同調者も同様です。なぜなら、検証はソ連の暴虐や中共の陰謀を白日にさらし、共産主義の世界制覇の謀略をあばく結果になるからです。実に、この「原爆投下」と「共産主義の謀略」こそ、東京裁判において、連合国が絶対に触させまいとした二大事実なのです。

  一方には、 東京裁判の問題点を認めつつも、裁判の意義を肯定的に評価する人たちもいます。例えば、未曾有のユダヤ人虐殺と世界大戦に際して、新たに作り出された「平和に対する罪」「人道に対する罪」「国家指導者の個人責任」などの概念を評価し、国際法と国際裁判の前進が見られるというのです。具体的には、「ジェノサイド(集団殺害罪)条約などその後の国際法の発展に寄与した」(藤田久一東大教授)という意見があります。 また、ユーゴの戦犯国際法廷では、判事団は紛争国以外の出身者で構成され、二審制を設けているとして、東京裁判の教訓が国際社会でいかされている、ともいわれます。

  しかし、前進は非常に限られたものだと、私は思います。レーリンクは1977年秋に「第2次大戦の後、およそ30の国際戦争と百を越える内戦が行われている。このように、武力行使の禁止にもかかわらず、沢山の戦いがあったのだ。しかも、1945年このかた、平和に対する罪への訴追は一度も行われていない!」と語っています。私は、東京裁判を追認し、その判決を前提している限り、この世界は変わり得ないと思います。

  考えてみてください。アメリカのベトナム戦争、ソ連のアフガニスタン侵攻、中国のチベット弾圧などは、何も裁かれていないのです。私は、 むしろ、東京裁判における勝者のおごりと根本的な反省の欠如が、 これらの国々の指導者たちの覇道的独善的な行動を生み出していると思います。(ベトナム戦争に反対したアメリカのリベラリストやヒッピーたちは、人類で初めて原子爆弾を人間の上に落とした人間たちへの批判者でした)

  もはや東京裁判を批判せずに、日本を語るものは怠惰であるか、特定の政治的な意図を持った者でありましょう。東京裁判への認識を改めずに、人類の戦争を問い、平和を願うことは、私には、自己欺瞞、自己撞着であると思います。

 

(9)真理と正義を求め、 東京裁判を克服しよう

 

  私は、東京裁判で日本の弁護人となって活躍したアメリカ人弁護人たちに、真の自由と民主主義の精神を見る者です。ブレイクニー、ローガン、スミス、ファーネス、ラザラス等、彼らは、対日戦争では自国のために戦った愛国的な米国軍人でした。しかし、彼らは法の精神に基づいて、連合国の戦争責任を問い、裁判の不公平を追求したのでした。

  ブレイクニー弁護人が米国の原爆投下を批判する弁論を行なったときには、途中から日本語への同時通訳はストップされ日本語の裁判記録にも残されませんでした。

  彼は次のように語りました。「キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪になるならば、我々は広島に原爆を投下したものの名を挙げる事ができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も我々は承知している。‥‥‥原爆を投下した者がいる! この投下を計画し、その実行を命じこれを黙認した者がいる! その者達が裁いているのだ!」

  この件りは日本語の速記録には「(以下通訳なし)」となって長らく日本人の目から隠されていました。 もし日本語に通訳されていれば、法廷の日本人傍聴者の耳に入り、そのうわさはたちまち広がっていったでしょう。そして、原爆投下による非戦闘員の無差別大量殺戮という非人道的行為を行ったアメリカの戦争責任と、当裁判所の非合法性に対して、批判が沸き上がったでしょう。

  ローガン弁護人は、最終弁論において、アメリカの対日経済制裁と戦争挑発政策を批判し、 大東亜戦争は「不当の挑発に起因した、国家存立のための自衛戦争」であったと論じ、真珠湾攻撃については「この日本の攻撃が自衛手段でないと記録することは実に歴史に一汚点を残すものであります」と述べ、アメリカの戦争責任を徹底的に追及しました。

  スミス弁護人は、判決後「東京法廷は、真の国際法廷ではない。 あれはマッカーサー元帥個人の裁判所である」と、アメリカ連邦最高裁で激しく、批判しました。

  こうしたアメリカ人弁護人たちは、 自国と自国民を裏切って日本を弁護したのではありません。 私は、彼らが一貫して貫いているのは、 自国のことも、他国のことも、是は是、 非は非とするフェアーな態度であり、自他の立場と互いの国益を理解し、 批判すべきは批判し、反省すべきは反省するという姿勢だと思います。 私は、 そこにアメリカの自由と民主主義の精神を見るとともに、その精神が、日本の自他一如・共存共栄の精神に深く通底するものであると、感じるのです。

 

10)この章のまとめ

 

  日本弱体化政策としての東京裁判は、虚偽と抑圧と不正に満ちたものでした。 しかし、東京裁判史観は、 日本人の心を呪縛し、学校とマスコミをおおっています。

  この呪縛を解くには、東京裁判の克服が必要です。ページの頭へ

 

参考資料

・佐藤和男監修『世界がさばく東京裁判』(ジュピター出版)

  小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明 却下未提出弁護側資料抜粋』

(講談社学術文庫)

・『国際シンポジウム 東京裁判を問う』(講談社学術文庫)  

・『共同研究 パル判決書』(講談社学術文庫)

 

第7章  日本国憲法は「弱体化」の総仕上げ

 

  「日本弱体化政策」の総仕上げともいえるものこそ、日本国憲法です。それは、日本が再び米国の脅威とならないようにするために、米国が与えた法的な拘束でした。その威力は、現在も日本の国家と国民の心を縛り上げています。

 

(1)三つの特異な性格

 

  現在の日本国憲法を起草したのは、GHQでした。草案は英文で書かれ、それを日本側で翻訳したという、米国製の翻訳憲法が、現行憲法です。

  この憲法は本来、GHQが占領政策を実行するための法的基盤を整えるものでした。即ち、占領基本法として押し付けたものです。さらに、それは占領政策の効果を、占領期間を超えて、固定化・持続化しようとするものでした。そこには、国連の敵国条項と同じ精神が流れています。

  また、この憲法は、半植民地憲法と呼ぶべき出生の秘密を持っており、日本の主権を制限し、日本を米国の従属国・被保護国的な地位に置こうとするものでした。

  すなわち、日本国憲法は、

    @米国製の翻訳憲法

    A占領基本法

    B半植民地憲法

という3つの特異な性格を持っていると思います。

  そしてそれ故に、日本国憲法は日本弱体化のための「謀略憲法」であると、私は考えます。ここまで言うと、驚かれた方もいるかもしれませんが、それにはワケがあるのです。

 

(2)押し付けられた憲法

 

  日本国憲法は、世界的に見ても、生い立ちが異常な憲法です。その異例な点は、アメリカ軍を中心とする連合国軍の占領下という特殊な状況において成立したことです。そして、この憲法は、日本国の主権が極度に制限されていた中で、米国から強制的に与えられたものなのです。

  同じ敗戦国でも、条件付き降伏の日本と異なり、文字どおり無条件降伏をしたドイツに対してさえ、戦勝国は憲法を押し付けなどしませんでした。外国製の憲法草案を翻訳させる発想などないどころか、ドイツの宗教に口を出すことも、ドイツの一般の軍人が戦争責任を問われることもありませんでした。この違いには、白人の有色人種に対する人種差別意識が存在することを見定めなければなりません。

  さて前文は、日本国民自身が「決意」し「宣言」する等と書かれています。事実は、この憲法は、占領軍によって、銃剣の下に言論統制と検閲の中で、日本国民に与えられたものです。GHQは、この憲法を、日本の国民には、あたかも日本の委員が起草した原案を国会が審議し、天皇裁可で発布された様に思わせました。 国内法的観点から言えば、改正はあたかも合法的に進められました。それは旧帝国憲法の改正手続きによって、天皇の御発議から改正手続きが始まり、帝国議会の議を経、枢密院の御諮詢を経て、公布、施行せられたのですから、国内法の手続きは、踏んでいます。しかし、その過程は、厳しい言論統制の下、GHQが憲法制定を行っていることを絶対に知られないように検閲し、しかもその検閲の存在自体をも知られないようにして、行われました。こうした巧妙な陰謀の下に、日本国憲法は作られ、日本に押し付けられました。

  日本国民は「決意」し「宣言」したのではなく、「決意」させられ「宣言」させられたのです。そして、その後、生まれた世代は、それを追認させられてきたのです。

  多くの国民は、この事実に目をつぶってきました。しかし、実は、日本国憲法が押し付け憲法であり、不法なものであることは、制定者であるマッカーサー自身が認めていたことなのです。そして彼は言いました。「日本人の精神年齢は、12歳だ」と。

 

(3)欺瞞に満ちた制定史

 

@すべてはマッカーサーの指示だった

  日本国憲法は、昭和21年8月24日、衆議院本会議で可決成立しました。そして、その後、11月3日に公布され、翌年の5月3日に施行されました。

  マッカーサー連合国軍総司令官は占領後、昭和20年10月11日、幣原喜重郎内閣に憲法改定を指示しました。しかし、憲法を改定することは、日本が受諾したポツダム宣言に明示された条件ではなかったのです。国の基本法である憲法にまで手を付けるということは、「日本は無条件降伏した」という偽造と歪曲の極みでした。

  昭和20年10月11日、マッカーサーは幣原新首相に憲法改定を指示しました。同時に日本民主化の5原則を示し、戦前の日本の国家体制の根本的な変革を求めました。その5原則とは、「婦人参政権」「労働組合の育成」「教育の自由主義化」「秘密検察等諸制度の廃止」「経済の民主化」でした。さらに続いてその原則に基づいて、教育改革指令、神道指令等を出し、日本の体質(constitution)を根こそぎに変えようとする一連の社会制度改革を進めていきます。マッカーサーが、こうした占領政策を実行するためには、基本的な法制化が必要でした。そのために、憲法(constitution)の改定指示が出されました。それゆえ、憲法改定は、日本弱体化政策の総仕上げというべきものです。

  改憲の指示を受けた幣原首相は、日本を代表する憲法学者の松本丞治博士を国務相に任命し、彼を委員長とする憲法問題調査委員会を設置しました。松本委員会は、昭和21年2月2日に憲法改定案の審議を終了し、日本国政府案をGHQに提出しました。

  ところが、2月13日、GHQは松本博士、吉田茂外相らに対し、日本側の提出した草案を拒否しました。そして、突然、英文の憲法草案を突きつけてきたのです。これこそGHQが秘密裏に書き上げていた、いわゆるマッカーサー草案です。松本博士ら日本側代表は、この思ってもみない不意打ちに、愕然としました。そこには、ポツダム宣言と降伏文書を無視し、あらゆる法を踏みにじった無法なる独裁者の意志が存在しました。

  当時は、東京裁判が開かれることになっており、日本の指導者は、その責任追及が天皇に及ぶことを恐れました。GHQ民政局長ホイットニー准将は、「天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつあり」、マッカーサーは「このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持している」、と主張しました。「他国」とは、ソ連を中心とするものです。そして、「最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えている」と言い、もしこれをのまなければ「天皇の身体(person)の保障をすることはできない」と、ほぼ脅迫に近い形で受け入れを迫りました。

  このとき提示された英文の草案が現在の憲法の原型なのです。

 

A英文草案が翻訳された

  マッカーサーは、日本側の憲法案の一部を知り、2月3日、憲法改定にあたっての骨子を示した「マッカーサー・ノート」を、ホイットニーに示し、GHQ民政局内で直ちに憲法改定草案の起草作業に入るように指示したのでした。

GHQには、共産主義に同調するニューディーラーが多数いました。彼らは対日経済政策等の策定に深くかかわりましたが、特に民政局にはニューディーラーが多く集まっていました。そして、日本弱体化政策には、ニューディーラーを通じて共産主義者の意図が入り込んでいったのです。それは、憲法の起草においても同様でした。(1)

憲法起草の作業は極秘のうちに進められました。1週間足らずという世界記録的な短時間で、草案は作られました。草案作成を行ったのは、民政局の職員25人です。ホイットニー局長、ケーディス次長ら4人は弁護士出身ではありますが、憲法の専門家は1人もいません。また、他の職員は、法律には素人の軍人や事務員などの寄せ集めです。また、日本の歴史や文化の専門家は誰もいません。彼らは、日本に対する無知や誤解や偏見におおわれていました。

現憲法とは、このようなアメリカ人たち、GHQ民政局によって書かれた憲法なのです。草案に対し、松本博士は憲法学の立場から反論する「説明書」を書いて提出しました。これに対し、ホイットニー将軍は怒り狂い、日本政府が草案をそのままのむか、それともマッカーサーが直接日本国民に提示するか、どちらかだと、全く交渉による妥協の余地が無い姿勢を示しました。どちらかーー「48時間以内に返答せよ」。

  もはや日本政府は、草案を受け入れざるをえず、残された作業は、英文の翻訳でした。2月23日から政府案策定の作業に入りましたが、GHQから度重なる督促を受け、3月4日には急遽、提出させられ、「今晩中に確定草案を作成せよ」という命令が下されました。なんの準備も無いまま、外務省の佐藤達夫部長らは、行きがかり上、徹夜作業で翻訳をさせられました。ここで最終的に、日本側の草案は全面却下され、マッカーサー草案をただ翻訳しただけに近い確定草案が作られました。

  この翻訳文案が日本政府自身による改定案という形をまとい、3月6日に「憲法改正案要綱」として発表されました。その後、枢密院の審議を経て、6月20日に衆議院に提出されました。

 

C国民の自由意思は無視された

  昭和20年4月、憲法改定の陰謀の中で、戦後初の衆議院議員総選挙が行われました。それに先立って行われた公職追放によって多くの有力政治家が追放され、一方、共産党の政治犯・思想犯が解放されました。しかし、この選挙で皇室制度に反対する政党は、共産党のみ、その当選者も5名のみでした。それゆえ、もしポツダム宣言に謳われた「日本国民の自由意思」や極東委員会の原則を遵守すれば、日本国民の絶対多数の意思によって、皇室制度が存続されることは、確実でした。また、憲法の改正は、必要であれば、日本人自身の手で、軍国主義と敗戦の経験を下に、大日本帝国憲法の欠陥を改めることもできました。ドイツ国民は自らの意志で基本法を作る「自由意思」を認められました。しかし、マッカーサーは「日本国民の自由意思」を無視して、日本国憲法を押し付けたのです。

  政府案策定までの間、日本国民はその内容を十分に知らされる機会もなく、国民的議論はされませんでした。しかも重要なことは、この間、国民は、憲法制定がGHQの手で進められていることさえ全く知らされていませんでした。改定は、徹底した言論統制と検閲体制の下で行われたからです。GHQによる30項目に及ぶ検閲指針には、総司令部が憲法制定を行っていることの言及、さらに検閲していること自体への言及という項目が定められており、徹底的な検閲が行われていました。新聞、ラジオだけではなく、個人のプライベートな恋文までもが、執拗に検閲されました。こうして絶対に、GHQ製の憲法であることを知られないように隠して、すべてが進められたのです。

  発表された政府案に対して、これは日本語ではなく、英語で書かれたものではないかという疑問が内外から出されました。あまりにも英語的な発想であり、不自然な日本語が多く、しかも翻訳の間違いや生硬さから意味不明瞭な表現が散見されたからです。しかし、銃剣と弾圧の下では、自由な議論などできるはずもありません。国会での審議はすべて英訳してGHQに届けられ、厳しい監視が敷かれていました。審議によって、いくつかの修正が加えられましたが、その大多数はGHQの圧力によるものであり、日本側からの修正もすべてGHQの承認を要しました。

 

C異例の短期間で改定された

  こうして日本国憲法草案は、GHQ内での検討が1週間足らず、しかもここでほとんどが決まり、1ヶ月間強で日本側の翻訳作業が終えられ、3ヶ月半という異例の短期間で審議は打ち切られて、国会決議が行われ、10月7日可決となりました。

  これが、日本国憲法の制定のあらましです。

 

 日本弱体化政策の総仕上げをなすものこそ、日本国憲法の押し付けだったのです。それゆえ、日本弱体化政策を克服するには、憲法の改正を行わなければなりません。(2)

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(1) 日本弱体化政策に共産主義者の意図を入り込ませたニューディーラーについては、以下の拙稿をご参照下さい。

ニューディーラーが日本を改悪

(2)憲法に関しては、以下の拙稿をご参照下さい。

日本国憲法は亡国憲法――改正せねば国が滅ぶ

参考資料

・伊藤哲夫著『憲法はかくして作られた』(政策研究センター)

    江藤淳著『1946年憲法ーその拘束』(文春文庫)

・児島襄著『史録日本国憲法』(文春文庫)

・吉田和男著『21世紀の繁栄のための憲法改正論』(PHP)

・日本を守る国民会議『日本国新憲法制定宣言』(徳間書店)

 

 

結びに〜日本の再生をめざして

 

  最初に私は、今日の日本人は、心の危機にあると書きました。その危機の背景には、戦後の「日本弱体化政策」と「反日共産思想」があるとし、本稿では「日本弱体化政策」について、検証してきました。

 「日本弱体化政策」は、21世紀となった今なお、わが国と私たちを、支配しています。私たちは、戦後史を振り返り、「日本弱体化政策」のからくりを見抜き、これを克服していくべき時にあります。日本の再生をめざして、私たちの意識改革と行動が求められています。とりわけ、東京裁判の見直しと、日本国憲法の改正こそ、焦眉の課題だといえましょう。ページの頭へ

 

「憲法・国防」の題目へ  「歴史再考」の題目へ

 

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