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オ ピ ニ オ ン  歴史再考

                       

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ber117

 

■南京での「大虐殺」はあり得ない

2004.11.1

 

はじめに

 

昭和12年12月、日本軍が当時の中国の首都・南京に入城して占領した時の出来事を、南京事件といいます。東京裁判において、日本軍は南京で虐殺を行ったという判決が下されました。戦勝国による一方的な断罪でした。判決文には、犠牲者数20万人以上という数字が数度使われました。

もし大規模な民間人虐殺が行われていたとしたら、これほど日本人の誇りや自信を損なうことはないかもしれません。しかし、今日では実証的な研究が進み、20万人以上の虐殺はあり得ないことが学術的に明らかになってきています。資料上、疑問点が多く出され、民衆の大規模な虐殺などなかったという証言も多くあり、大虐殺説そのものが捏造であるという見方もあります。

ところが、わが国の将来を担う少年たちは、現在、学校で「南京大虐殺」説を教えられています。中学校の歴史教科書(平成14年度から使用)には、犠牲者数を「十数万人」「約20万人」としているものがあります。高校教科書(平成15年度から使用)には、「40万人」という数字を掲載しているものまであります。

私は、こうした根拠不十分な数字を犠牲者数として、中学・高校の教科書に掲載し、純真な少年たちに教え込むのは、不適当だと思います。また少年に限らず、この事件についてバランスの取れた認識を持たないと、漠然とした罪悪感がぬぐえず、日本人として誇りや自信が持てない、逆に嫌悪感や否定的な意識に陥ることになるでしょう。

私は、南京事件において、ある程度の民間人の殺傷はあったとしても、それは極少数であり、10万人単位の「大虐殺」はあり得ないと思います。その主な理由を、以下に記します。

 

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1.当時の南京の人口は20万しかいない

 

東京裁判の折に、中華民国側が告発した被虐殺者数は34万人だ。中華人民共和国政府も34万人説を採用している。その数は今日では40万人に増えている。

しかし、南京市の安全区を管理していた国際委員会の公文書では、当時の南京市の人口は20万という。南京防衛軍の5万人とあわせてどんなに多く見積もっても25万人である。南京市の人口は南京攻略の前は100万人といわれていたが、いざ戦闘が始まるとなると激減していたのである。20万人しか人がいないところで、30万人、40万人もの殺戮ができるはずがない。この数は、極めて過大であって、かつて大虐殺説を取っていた『朝日新聞』も、「軍民あわせて4万人」説に転換している。(秦郁彦著『南京事件』中公新書による)

さらに、軍人を除くと、民間人の殺傷は、どんなに多く見積もっても、1万人以下という説が有力になってきている。

 

参考資料

    東京裁判については、以下の拙稿をご参照ください。

日本弱体化のための東京裁判

 

2.難民帰還で人口はむしろ急増した

 

南京落城近しというときに、英米仏独は国際委員会を作って、非戦闘員である市民を収容する安全区を作った。国際委員会は、その後、事件の実態を調べ、報告書を出している。その公文書によると、日本軍の南京入城の1ヶ月後には人口が25万人いた。東京裁判の記録では、入城後6週間にわたり、虐殺、暴行、略奪が続いたとあるが、逆に人口が増えたのは、治安状態がよかったからだろう。南京の金陵大学教授で宣教師でもあるM・S・ベイツ博士による昭和13年3月の調査では、人口22万。博士は調査漏れや移動中の民衆を加えると25〜27万と推定されると注をつけている。

 

3.証拠となる写真・映像は一つもない

 

東中野修道教授を中心とした南京事件研究会写真分科会は、「南京大虐殺」の証拠として使われてきた写真143枚を検証し、大虐殺が行われた証拠となる写真は1枚もないことを明らかにした。(東中野修道著『南京事件「証拠写真」を検証する』草思社) 逆に、日本軍が南京に入城してから治安が回復し、市民が安堵した表情で食糧を受け取っている写真は多数ある。

虐殺そのものを収めた記録フィルムも、全くない。専門家によって唯一実写と認められているフィルムは、マギー牧師によるもの。その中にも虐殺を思わせるシーンは全くなく、多くは戦傷者の治療風景である。

平成8年4月に開館された長崎原爆記念館ではフィルムが映写されたが、これは米国製の映画『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(フランク・キャプラ監督)の一部だとわかった。この映画は米国で戦意発揚のために作られた反日宣伝映画で、南京陥落とは関係のない映像に、やらせで撮った映像を入れたものであることが明らかになっている。

 

4.大量虐殺された死体やそのための設備跡がない

 

南京は世田谷区や鎌倉市よりも狭い。その中に作った安全区はもっと狭い。そんなところで10万人単位の大虐殺ができるだろうか。これほど多くの人間を処刑するには、一時拘留する必要があり、巨大な設備が必要である。東京ドームがいくつも必要になる。また、食事調理・飲料水供給・汚水処理設備にも大変な設備がいる。しかし、その跡が全くない。また、20万人以上の死体といったら大変な物量になる。しかし、それほど大量の死骸は掘り出されていない。

 

. 日本軍には軍事目的がなく、作戦記録もない

 

日本軍は政治決着をつけて、早期撤退を希望していた。だから南京の攻略には特別注意を払っていた。一般人を多数殺したらならば、戦争の終結が遅くなるだけだからだ。

1万5千人程度の日本軍が数十万の敵に囲まれている状況で、非武装の一般人を集めて殺すには作戦理由がなければならない。しかしその理由がない。軍事目的のない作戦はない。

日本の軍隊は、官僚組織である。すべて命令で行われる。命令は全て文書だ。それがまったくない。被収容者の名簿もない。また、20万人以上を養うには大変な食料や飲料水が必要だが食料調達記録がない。また、それほどの人間を殺すには大変な兵員、兵器、弾薬が必要だ。当時の日本軍は人員も少なく、貧しいので、戦闘用以外にさく資器材はない。

 

6.東京裁判の証言者以外に累々たる死体を見た者がいない

 

東京裁判で証言台に立った紅卍会許伝音副会長、ベイツ教授らは、いたるところに死体が転がっていたと証言しているが、入城した将兵、百数十名の新聞記者やカメラマンは、誰一人この光景を見ていない。15人の国際委員会の委員、5人の外国人記者はじめ、第三国人は誰一人として見ていない。ベイツ教授自身、占領3日後の時点では「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が訪れたのは何よりです」と新聞記者に挨拶していた。(『東京日日新聞』昭和12年12月26日号)

 

7.マギー牧師が見た殺人は1人のみ

 

東京裁判で証言台に立ったアメリカのジョン・マギー牧師は、膨大な殺人、強盗、強姦、暴行、累々たる死体などを見たかのような証言をした。しかし、ブルックス弁護士が「殺人行為の現行犯をあなた自身はどのくらいご覧になりましたか」と反対尋問すると、答えは「1件のみです」。その1件すら歩哨に誰何(すいか)されて逃亡した者を射殺したケースだった。この場合は合法的な殺人であり、虐殺には当たらない。あとはみな伝聞あるいは想像ないし創作だった。

 

. 箝口令は引かれていないのに誰も伝えていない

 

南京入城には、百人以上の日本人の記者やカメラマンが同行した。当時はまだ報道管制が行われていない。しかし、戦後、日本人は東京裁判で報道されるまで誰も「大虐殺」を知らなかった。見ていれば、報道しただろう。また、陥落の直後の南京には、大宅壮一、西条八十、草野心平、石川達三、林芙美子らのジャーナリストや作家・文人が行っていた。しかし、戦後言論の自由が完全に保証されてからも、誰一人、「大虐殺」を書き記したり、発表した者がいない。

 

. 国際委員会による殺人は49件のみ

 

国際委員会は日本の行動に関して61通もの手紙を書いて各大使館に送った。同委員会が抗議した日本軍の非行は425件。但し、これらの一つ一つの検証はなされていないことを、スミス書記長が認めている。ラーベ国際委員会委員長は、最終的な報告書で、殺人は49件と報告している。但し、同様に検証は行われていない。

このラーベが記した日記を基にした本が『南京の真実』である。ラーベがヒトラーにあてて書いた上申書では南京の犠牲者は、5〜6万人。そのうち3万は下関(シャーカン)で戦死した兵隊だと書いている。市内で戦死した兵隊の人数も引くと、犠牲者は1万人もいないことになる。仮に、ラーベの著書によっても、20〜30万人規模の虐殺という東京裁判の判決と、それに依拠する大虐殺説は、全く成り立たない。

 

10. むしろ国際委員会からは感謝状が出た

 

南京落城近しというときに、英米仏独は国際委員会を作って、非戦闘員である市民を収容する安全区を作った。日本は安全区に対して中立を守るのであればこちらも中立を守ると約束し、砲撃しなかった。これに対し、ラーベ委員長は日本軍に対して、「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡を取り得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」との書簡を送っている。

 

11. 食料を送って受領書と感謝状を受けた

 

難民区に20万もの人がひしめいて、食糧が不足したため、日本軍は、食料、被服等を給与して民心の安定を図った。特に、昭和13年正月には大量の食糧を送り、紅卍会支部長より受領書、感謝状が贈られている。日本から食糧をもらっている当時の写真はいっぱいある。それに対して、虐殺の写真は1枚もない。

 

12. スミス博士の被害調査の数とも食い違う

 

国際委員会書記長のスミス博士は、中国人学生の協力を得て、被害調査をした。50戸に1戸の直接尋問をした結果、軍事行動による死者850人、兵士の暴行による死者2,400人、消息不明4,200人。反日的な中国人学生が調査していながら、数はこれだけだった。仮にこれらすべてを合計しても、7,450人である。このうち、民間人が含まれたとしてもその一部にとどまる。10万人単位とはなり得ない。

 

13. 中華民国の将軍からの報告にもなし

 

南京戦を戦った中華民国の何鷹欽将軍が、昭和13年の臨時全国代表者大会(日本の国会に相当)で南京失陥の軍事報告をした。その中で、日本軍による虐殺行為はまったく報告されていない。中国側が大虐殺と言い出したのは、東京裁判以降であり、それまでは中国側にも南京大虐殺はなかった。

 

14. 中国共産党の記録になく、国際連盟にも提訴なし

 

昭和13年6月発行の中国共産党の『軍事雑誌』に、南京の戦闘記録が出ているが、市民の虐殺、捕虜の大量殺戮は出てこない。アメリカの女性ジャーナリスト、スメドレーは当時共産党と同行していたが、女史の日誌の南京陥落の項にも、虐殺は全く触れられていない。(その彼女が5年後に、突然著書に20万人虐殺説を書く。項目17を参照)

中国は、当時国際連盟に日本非難の提訴を繰り返していた。しかし、昭和13年の国際連盟総会では、南京の虐殺について、中国からの非難提訴はなく、それどころか総会の議題にすらあがっていない。

 

15. 米英仏等からも抗議がなかった

 

南京事件の3ヶ月ほど前、昭和12年9月に米英仏は日本の南京空爆に対して無差別爆撃であると抗議した。スミス博士によるとこの空爆による死者は600人。しかし、南京虐殺については何の抗議も受けていない。ソ連からもない。

上記の項目13、14とともにまとめれば、昭和13年当時、日本はいかなる正式の抗議もいかなる政府からも受けていない。つまり、当の蒋介石政権からも、国際連盟からも、反日的なアメリカ、イギリス、ソ連等からも抗議はなかった。

 

16.米英のマスコミがほとんど取り上げていない

 

当時の首都南京は国際都市。多くの欧米人が住んでいた。また、大陸にはロイター、AP、UPIなどの大通信社や新聞社の特派員が多数駐屯していた。当時は、反日的な機運が高まっていたのに、南京事件はほとんど報道されなかった。その中で、『タイム』紙などは、日本が南京の治安をよく守っているという記事を書いている。

 

17. 虐殺記事は、国民党のエージェントが書いた

 

初期の報道としては、南京陥落半年後に、英国の『マンチェスター・ガーディアン』紙の中国特派員ハロルド・ティンバリーが、日本軍の暴行批判記事を書いた。この記事は記者が一度も南京に行かずに書いた伝聞記事だった。それを基にティンパーリは、昭和13年(1938)7月に『戦争とは何かー中国における日本軍の暴虐』を発行した。

ティンパーリは本書に、ベイツ教授の主張を掲載した。ベイツは「非武装の4万人近い人間が殺された。そのうち約3割は非戦闘員だった」と主張した。ここに4万人殺戮説が唱えられた。

ティンパーリは、中国国民党宣伝部に雇われたエージェントだったことがわかっている(立命館大学・北村稔教授)。国民党国際宣伝部は、宣伝目的のために、ティンパーリに『戦争とは何か』の執筆を依頼したのだった。そのうえ、ベイツ自身も、国民党中央情報部顧問だったことがわかっている。

ラーベ国際委員会委員長が書いた日記の「日本の残虐行為」の内容は、ティンパーリの本と内容がほとんど変わらず、まったく一致するところもある。

ティンパーリの著書が出た後、中華民国の公式記録は、どれもベイツの「4万人虐殺説」を削除し、公式に再三、その説を否認していた。ティンパーリが報じた死者約4万人という数字が、その後、数年間、現地の刊行物の再録記事のなかからことごとく削除されていた(亜細亜大学の東中野修道教授)。

 

18.スノーが4万2千人、スメドレーが20万人と喧伝

 

中華民国で否認されていた虐殺説を改めて持ち出した者がいる。アメリカの作家エドガー・スノーだ。スノーは、昭和16年(1941)刊行の『アジアの戦争』に、日本軍は「少なくとも4万2千人を殺害した。その大部分は女子供であった」と書いた。国民党中央情報部顧問であったベイツ教授の説では、4万人のうち1万2千人ほどが市民だったのに、スノーは、4万2千人の大部分は女子供だったと、改ざんを加えた。数字と割合を変え、しかも犠牲者は、単に市民ではなく女子供、と言い換えた。

第2次世界大戦開戦以後、米国は反日的な感情を強めたが、本書は世論に重要な影響を与えた。(1)

スノ―に続いて、もっと数字を誇張したのが、アメリカの女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーだ。スメドレーは、昭和18年(1943)に出した『シナの歌ごえ』で、「日本軍は、20万人を虐殺した」と、拡大誇張して宣伝した。死者の数は、5倍に増やされた。東京裁判で出される数字に、一挙に跳ね上がったわけだ。

スノーは「やせたリンカーン」と呼んで毛沢東に心酔していた。スメドレーは、昭和16年(1941)に帰米したが、ソ連の国際共産主義組織コミンテルンとの関係が疑われ、アメリカ政府からスパイという告発を受けた。(2)

 

(1)スノーについては、以下の拙稿をご参照ください。

スノー〜反日連共のデマゴーグ

(2)スメドレーについては、以下の拙稿をご参照ください。

スメドレー〜女性記者の赤い疑惑

 

19.中国による犠牲者数は、東京裁判向けに膨らんだ

 

昭和20年秋以降に完成した中国映画『中国之怒吼』では、犠牲者は4万人だった。この映画は、米国製の反日宣伝映画『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(1944)と8割方同じ内容だった。英語のナレーション犠牲者4万人だが、中国語の方も同じ数字だった。

ところが、中国から34万人という新記録の数字が出された。東京裁判に証拠として提出する意図のもとに作られたと考えられる南京地方裁判所附検察官が作成した『南京地方法院件検察所敵人罪行調査報告』においてである。その調査は『中国之怒吼』完成前後と思われる昭和20年11月7日に始まり、翌年2月に報告書が作成されている。

わずか3ヶ月ほどの間に、犠牲者が4万人から34万人へと8.5倍にも膨らんだ。このような報告書に信憑性があるといえるか。

 

20.東京裁判において、誇大な数字が乱発された

 

敗戦後、占領軍は、日本弱体化のため、ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争犯罪周知宣伝計画)を実施し、日本人に戦争の罪悪感を受け付け、精神的に骨抜きにしようとした。(1)

昭和20年12月、GHQは『太平洋戦争史――真実のない日本軍国主義の崩壊』と言う記事を提供し、主要新聞に10日間連載させた。その後、1冊の本にまとめ、日本の教育機関に頒布した。その中で、南京における日本軍の残虐行為が強調され、「日本軍は現代史の中で最悪の恐るべき虐殺を行った。証言によると2万人の婦女子・子供を殺した事は確実である」と書いた。

昭和21年(1946)5月3日、東京裁判が始まった。この裁判を報じる「南京大虐殺」の放送は、日本人に深刻な心理的打撃を与えた。占領政策の狙いは当たった。

裁判でベイツ教授は「3万人の兵と1万2千人の民間人を虐殺した」と証言した。以前からの彼の説どおりの証言である。主席検事のキーナンは数万人の捕虜と民間人を殺したと言った。

中国は以下のような報告書を法廷に提出した。その内容は「我々が最初に南京市民に会い調査の目的を話したところ、彼らは唖然としていた。そして冬の蝉のように黙った。虐殺を主張する者は少なく、ある者は虐殺を否定さえした。それで調査担当は数回に渡り1軒1軒訪問して調べた」。ところが、提出された数は以下の通りだった。「確定した虐殺数は32万人、はっきりしないのが20万人である」と。刑の宣告の時の虐殺数もバラバラで、被告によって、数万人、10万人以上、20万人以上、26から30万人と異なっていた。これほどずさんな裁判は他に例がない。

 

(1)占領政策については、以下の拙稿をご参照ください。

日本弱体化政策の検証

 

21. 崇善堂による11万人の埋葬は虚構

 

東京裁判の判決文で、犠牲者20万以上の数字が数度使われた。その数字は、埋葬隊等による埋葬が15万5千あったということを基にしている。しかし、統計表は事件後10年を経て作られた物で信憑性が低く、発見場所からいって虐殺者ではなく戦死者の死体である。特に、事件後4ヶ月で11万余を埋葬したという崇善堂なる団体は、葬儀や埋葬を事業として行っておらず、公文書に名前も出ていない。この団体は、南京事件当時は一時活動を休止しており、活動を再開したのは、昭和13年9月と記録されている。それゆえ、崇善堂の埋葬数をもとにした話は根拠がない。

実はこの埋葬作業は、日本の指導と費用で行われた。中国はこの作業を日本が行ったことを無視している。 

 

22. アメリカが原爆投下への批判をかわすために利用した

 

東京裁判の終結期となる昭和23年、米国で科学者、聖職者、ジャーナリスト等から広島・長崎への原爆投下に対する批判が高まった。原爆による無差別大量殺戮は、史上前例のない非人道的なもので、死亡者は当時20万人以上となっていた(広島で14万人以上、長崎で7万人以上)。良心的なアメリカ人にとっては、自国の戦争犯罪は絶えがたいものだった。民主主義の国、アメリカでは世論による政府批判は、政権をゆるがす。米国政府は原爆投下を正当化し、罪悪感をぬぐうために、原爆に匹敵するような日本による20万人規模の「大虐殺」を必要とした。そこで、「南京大虐殺」が利用され、事件は一層誇大なものに強調されたのではないか。

 

23. 戦死者と不法殺害による死亡者の区別が必要

 

どのような戦争においても、一般市民(非戦闘者)の犠牲者が全くないということは考えられない。しかし、南京事件における犠牲者については、大きな混乱がある。戦闘による戦死者も、掃討作戦による敗残兵や便衣兵の処刑等も区別することなく、すべてを日本軍による被虐殺者とするのは問題がある。戦闘において死亡した兵士は戦死者であって、それを虐殺による犠牲者に含めるのは、誤りである。「虐殺」というならば、不法殺害に該当するものに限定しなければならない。それゆえ検討の対象は、捕虜と一般市民(非戦闘員)である。一般市民についても、戦闘行為に巻き込まれた死亡者か、市民の殺戮自体を目的とする行為による死亡者によって、虐殺か否かが検証されなければならない。

 

24. 国民党の便衣兵は国際法違反であり、捕虜になり得ない

 

中国国民党は便衣隊というゲリラを使った。便衣兵は私服に変装させた兵である。便衣兵は交戦資格を有しない。1907年のハーグ陸戦法規によると、交戦資格を持つには、次の条件が必要である。@部下のために責任を負う統率者(指揮官)があること。A遠方から認識することのできる固有の特殊標章を有すること。B公然と兵器を携行していること。C戦争の法規および慣例に従って行動していることである。便衣兵は、これらの条件を満たしていない。それゆえ、敵に捕らえられた際、捕虜としての待遇は与えられない。「非交戦者の行為としては、その資格なきになおかつ敵対行為を敢てするが如き、いづれも戦時重罪犯の下に、死刑、もしくは死刑に近き重罪に処せらるるのが戦時公法の認むる一般の慣例である」(信夫淳平著『上海戦と国際法』)。それゆえ、つかまった便衣兵を殺すことは、不法殺害ではない。

 

25. 便衣隊作戦が、一般市民の犠牲者を生み出した

 

国民党は便衣兵を安全区の南京市民の中に紛れ込ませた。便衣兵は私服を着ており、一般市民との区別がつかない。それゆえ便衣兵との戦いは、非戦闘員にも被害が及んでしまう。便衣兵狩りのそば杖をくった一般市民は、遺憾ながら当時の戦況上やむを得ない面もあった。これは、一般市民の殺戮自体を目的とする虐殺とは全く違う。むしろ、南京市民に犠牲者が出たとすれば、その責任の多くは、中国国民党にあるとしなければならない。

 

26. 市民には、中国軍の焼き払いと略奪の被害が大きい

 

中国軍は、南京から撤退する際、市内を焼き払う「空室清野作戦」を行った。また、兵士は市民から略奪行為を行っている。これは中国軍の慣習である。『ニューヨーク・タイムズ』のダーディン記者は、「南京攻略に先だって何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害」よりもさらに甚大な破壊と、放火と掠奪が行われたと伝えている。しかし、東京裁判ではこれらの焼き払いと掠奪の狂宴は、すべて日本軍の仕業に置き換えられ、「南京における日本軍の暴虐事件」として告発されている。

 

27. シナ人による虐殺との意図的なオーバーラップか

 

シナの歴史では、シナ人自身による南京虐殺があった。これとオーバーラップするように中国政府が捏造した疑いがある。シナでは、地方から農民や山賊が都市に攻め込んだら、大略奪、大殺戮をするというパターンがあった。南京では、明の朱元璋、台湾の鄭成功、太平天国の洪秀全が虐殺を行った。蒋介石自身も北伐の途中、南京で虐殺・略奪をした。だから、中国の民衆は、政府が発表した数字が誇大であっても信じてしまう。

 

28. ケ小平の出現まで、中国教科書に「大虐殺」なし

 

「南京大虐殺」説が現れるのは、ケ小平の出現からである。それ以前、昭和33年(1958)に上海教育出版会社により出版された『中学歴史教師のための参考書』では、年表の昭和12年(1937)に「南京大虐殺」(中国語では「屠殺」)に当たる言葉はない。ただ「日本軍は上海を占領し、国府軍は政府を重慶に移した」としかない。また、昭和47年(1972)に香港の齢記出版公司から出版された『新編、中国歴史』でも、主文には「南京は12月13日に落ちた。この時同時に北支那は惨虐な敗北にしばしば会った」、年表には「国府軍政府は重慶に移った。南京防衛に失敗した」としかない。中国人が「南京大虐殺」という観念を持っていたならば、当時からそのように書いたのではないか。

 

29. 中国共産党指導部の対日政策とともにエスカレート

 

ケ小平は、昭和52年(1977)に副主席に返り咲き、翌年主席になった。その後、昭和54年(1979)6月の中国の歴史教科書に「南京大虐殺」が現れた。昭和60年(1985)から南京大虐殺記念館が建設され始めた。さらに、平成5年(1993)江沢民が国家主席になってから、中国では愛国主義の政策が推し進められ、反日的な教育が徹底された。「南京大虐殺」説は、このような政治環境でエスカレートしてきた。そこに政治的な意図が伺われる。

 

30.日本政府の姿勢こそが最大の問題である

 

我が国では、昭和50年ころまで、教科書に「南京大虐殺」は掲載されていなかった。しかし、昭和57年に歴史教科書「書き換え」誤報事件が起こった。この事件が検定制度を揺るがし、政府は検定基準に「近隣諸国条項」を追加した。すなわち「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること」という条項である。その結果、小中高の歴史教科書に「侵略」用語が野放し状態になった。「南京大虐殺」説は、昭和59年度使用本より歴史教科書に登場した。「市民7〜8万・軍民あわせて20万人以上」という被虐殺人数が掲載された。以後、平成5年の河野官房長官による「慰安婦強制連行」容認談話、細川首相の「侵略戦争」発言、平成7年の村山首相の「先の大戦について」の謝罪談話等により、中学・高校の歴史教科書は自虐的な内容を強めてきた。こうした日本政府の外交姿勢こそが、南京事件を誇大なものに成長させ、日中関係を難しくしてきている。最も改めるべきことは、日本政府の外交姿勢である。

 

南京事件には多くの疑問点があります。「大虐殺」説を唱える人々の所説では、明確な説明が得られません。彼らは、東京裁判の判決や周辺諸国の主張をよく検証することなく、「大虐殺」を唱えているようです。彼らが行っていることは、歴史の客観的な研究ではなく、主義・主張に基づく政治運動にほかなりません。それにもかかわらず、我が国では、文部科学省の指導の下に、小・中・高の教科書に大虐殺説が掲載され、教室で青少年に教えられています。こうした教育を正すべく、国民的な運動を推進する必要があります。家庭や学校や地域社会で、真剣な取り組みを進めてまいりましょう。ページの頭へ

 

関連掲示

・拙稿「南京事件の真実を伝える写真

 南京での「大虐殺」はあり得ない。では、真実はどうだったのか。それを伝える写真がある。

参考資料

・田中正明著『南京事件の総括』(謙光社)

・富士信夫著『「南京大虐殺」はこうして作られたーー東京裁判の欺瞞』(展転社)

・阿羅健一著『「南京事件」日本人48人の証言』(小学館文庫)

・秦郁彦著『南京事件』(中公新書)

・渡部昇一編著『渡部昇一の人生観、歴史観を高める事典』(PHP)

・ジョン・ラーベ著『南京の真実』(講談社)

・東中野修道著『南京虐殺の徹底検証』(展転社)

・同上『南京事件「証拠写真」を検証する』(草思社)

・北村稔著『「南京事件」の探求――その実像を求めて』(文春新書)

・竹本忠雄・大原康男著『再審「南京大虐殺」――世界に訴える日本の冤罪』(明成社)

 

 

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