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日本の心  「和」の精神

 

題 目

目 次

01「和」の精神は、宇宙法則の現われだ

02 日本の自然の中で「和」の精神は発達した

03 米が育んだ「和」の精神

04 「和」の精神を神話に見る

05 神話と歴史を貫く「和」の精神

06 聖徳太子の「和」の精神

07 人を許し、人を生かす「日本の心」

08 生物の世界は共存共栄〜今西錦司

 

和の精神

国柄

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自然

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■「和」の精神は、宇宙法則の現われだ

 

 日本人の精神は、しばしば「和」の精神といわれます。「和」というと、妥協やなれあいをイメージする人もいるでしょう。しかし、真の「和」の精神には、生命と宇宙の法則が現われているのです。

 聖徳太子は、十七条憲法の第1条で「和を以て貴しとなす」という趣旨を説きました。太子のいう「和」とは、単に仲間うちで仲良くやっていく事ではありません。太子の憲法の第1条は「上和らぎ、下睦び事を論(あげつら)ふに諧(かな)ぬるときは、則ち事理自ら通。何事か成らざらむ」という言葉で結ばれます。すなわち、「和」の心をもって、お互いに話し合えば、そこに自ずから物事の「理」が通うのだ、できないことなどあろうか、というのです。「人の和」は「宇宙の理法」に通じるという信念を、太子は持っていたと思われます。

 

 「和」ということを、スポーツで考えてみると、グループで行うスポーツでは、チームワークが重要です。つまり、チームの調和です。チームがまとまっていると、メンバー個人個人の能力以上の力が出せます。メンバー各自が優秀でも、チームがばらばらでは、力は出せません。チームの呼吸が合っていると、1+1=2ではなく、3にも5にもなります。呼吸が合っていないと、2どころか、0.5にもなりません。つまり、「和」が大切なのです。チームが「和」をもって団結していると、想像できないほどの潜在能力が発揮されます。奇跡的なほど、絶妙なプレーが出てきます。信じられないほどのグッド・タイミングで、すべてがうまくいきます。言わば、集団による至高体験(peak experience)、高シナジー効果です。ここに、調和という状態が持つ不思議なパワーがあります。(1)

 

 職場においても、「和」が大事です。一つの目的に向かって、職場のみんなが心を合わせて考えると、一人では思いもつかないような発想が、次々に湧き出てくるものです。何かの計画を実行するとき、互いを信じて取り組んでいると、初めは不可能かと思えたような課題でも、信じられないほどうまく解決できてしまうのです。調和は、集団を一体化し、単なる要素の総和を越えた、創造力を生み出すのです。

 

 こうした「和」が見られる見事な実例が、あなたです。自分の身体について考えてみてください。あなたの身体は、約60兆個もの細胞で成り立っています。60兆とは銀河系の星の数にも匹敵するといわれます。

 それらの細胞は、父母の結合による、たった一つの受精卵が分裂・分化したものです。その細胞は、脳・目・胃・腸・手・足など、それぞれの目的・役割に応じて成長します。そして、様々な器官・組織・細胞の働きによって、呼吸や血液循環や消化などの活動が、休むことなく営まれています。なんという、見事な調和でしょう! まるで60兆人ものメンバーによるオーケストラが、壮大なシンフォニーを奏でているようです。その指揮者のはずのあなたは、そんなことを何も意識せず、パソコンを打っています。呼吸もしています。心臓ももちろん、動いています。

 この驚くべき不思議が、あなたなのです。あなたという存在は、60兆個もの細胞の調和によって存在しているわけです。そのことに気づくなら、調和の原理とは、あなたを超えて、あなたをあらしめ、あなたを生かしている根本原理だと理解できるでしょう。

 

 日本人は、こうした生命や社会を貫く「調和」の大切さを、深く感じてきた民族だといえましょう。そして、自然の様々な現象に調和を見出し、自然と調和して生きるように心がけてきたのが、日本人の生き方だといえましょう。日本人が「和」を重んじるのは、生命や宇宙の法則に基づいて生きる、知恵の働きです。そして、「和」の精神には、生命と宇宙の法則が現われているのです。

 生命と宇宙に根ざす「和」の精神、真の日本精神を取り戻しましょう。(2)
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(1)至高体験とは、心理学者A・マズローの用語です。詳しくは、以下をご参照下さい。
人間には自己実現・自己超越の欲求がある
(2)真の日本精神については、「基調」をご参照下さい。
オピニオンの「日本精神」のページもご参考に願います。

 

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日本の自然の中で「和」の精神は発達した

 

 「和」の精神は、日本列島に移住した人々を融合させ、日本民族を形成した原動力でした。この世界にもユニークな精神は、日本の自然の中で発達したものと言えるでしょう。

 

 日本の気候は、温暖・湿潤なモンスーン型です。日本列島は四季の変化に富み、雨量が多く、照葉樹林を中心とする森林に覆われています。海・山の食糧が豊かで、猛獣が少なく、大変生活しやすい自然環境です。こうした風土が長年のうちに人々に影響し、「和」を好む性格が形成されたと考えられます。

 この性格は、人間だけではなく、日本の動物にも見られる特徴です。例えば、日本蜜蜂の群れの中に西欧蜜蜂の一群を放すと、日本蜜蜂は平気で西欧蜜蜂と一緒に同じ蜜を集めて、共存共栄します。しかし、西欧蜜蜂の一群の中に日本蜜蜂の一群を入れると、西欧蜜蜂は襲いかかって日本蜜蜂を全滅させてしまいます。日本の風土は温暖・湿潤で花が多く、蜜を集める対象が豊かです。したがって、蜜蜂は新来者とも共存共栄ができます。ヨーロッパの場合は花が少ないので、共存していたら、蜜が足りなくなって冬が越せなくなってしまいます。同時に、熊蜂など天敵がひじょうに多いので、用心が要り、攻撃的です。日本では天敵が少なく、受容的です。こうした風土の違いが、日本の蜜蜂の性格を温和にしているのでしょう。

 

 日本文化に深い理解を示したアンドレ・マルローは、「日本以外の美術は必ず何らかの形で闘争が表れているが、日本美術だけは闘争を表していない」と指摘しています。マルローの研究家・竹本忠雄氏は、この違いを「大陸的〜コンチネンタル」と「非大陸的〜ノンコンチネンタル」の違いと表現しています。竹本氏は「日本だけがノンコンチネンタルなのです。コンチネンタルなものの考え方の特徴は、ものを対立的にとらえることです。それは西洋に限らず日本以外の国はほとんどそうである。一方、日本人は対立よりは和合をという国民性なのです」と言っています。(1)

 

 「非大陸的〜ノンコンチネンタル」とは、海洋的ということです。日本民族の性格への自然の影響では、海洋の存在が見逃せません。日本は、四方を海に囲まれた島国であり、太平洋、日本海、東シナ海などに全体を包まれています。このことが、日本列島のユーラシア大陸とは異なる自然環境となっています。陸地が固定的であるのに対し、海は、常に躍動して変化に富んでいます。船に乗るとわかるように、海では波が休むことなく上下動し、潮流が刻々と変化して流動しています。また、海は生命発生の場所であり、海には生命のエネルギーがみなぎっているのです。特に日本列島付近では、暖流と寒流がぶつかりあい、豊かな漁場が生み出されています。ユーラシア大陸から日本列島に移住してきた諸民族は、こうした海洋の影響を受け、大陸型の性格から、海洋型の明るく、陽気で、平和的な性格に変化していったと考えられます。

 

 このように、日本の自然は人間の性格に影響を与え、独自の民族性を育んできました。日本精神の特徴は、「和」の精神と言われるように、共存共栄・大調和の精神です。この精神は、今日の地球で求められているものです。地球は、人類にとってかけがえのない星であり、地球という限られた環境で様々な人種・民族・国民が、一緒に暮らしていくためには、戦争や対立ではなく、共存共栄していかなければなりません。私たち日本人は、世界にもユニークな精神的特徴を発揮し、世界の平和と発展に貢献したいものです。ページの頭へ

 

参考資料

(1)『日本の息吹』平成11年2月号(日本会議)

 
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「和」の精神を神話に見る

 

 「和」と言えば、誰でも知っているのは、聖徳太子の「和をもって貴しとなす」。この理念は、日本人のものの考え方をよく表しています。しかし、「和」の精神は聖徳太子の独創ではなく、古くから日本の国に受け継がれてきたものです。

 

 「和」とは、もともと「わ」という音の日本語です。その「わ」にシナの漢字の「和」があてられたわけです。

 作家の井沢元彦さんによると、本来「わ」には「環」や「輪」の意味しかなく、環濠集落(堀をめぐらした集落)を表す言葉でした。それが、集団や仲間の意味を表す言葉となり、シナ人に、自国の意味で「わ」と言ったところ、「倭」(背が小さい、体が曲がっているなどを意味)という文字を当てられました。

 その後、「わ」は、集団的な協調の精神やアイデンティティをも意味するようにもなり、日本側の要望により、国名の文字を「倭」から「和」に代えてもらったのだろう、と井沢さんは考えています。(1)

 

 さて、かつて日本列島に住みついた人々は、「わ」すなわち環濠集落を作って、小集団が分立していました。その小さな集団が段々と国家を形成し、より大きな国家に統合されていきました。

 その過程では、戦争もあったでしょうが、統合の多くは、話し合いで決まっただろうと考えられます。というのは、日本の神話には、諸外国に比べて、戦争の話が非常に少ないからです。それは、日本列島の温和な風土の影響によるところが大きいでしょう。

 そして、人々には、対立・抗争よりも調和・融合をよしとする「和」の精神が育まれ、一つの民族として融合・形成されてきたと考えられます。そのことを、私たちは、日本の神話の中に見出すことができます。

 

 西洋のユダヤ=キリスト教では、男性的な神が万物を創り、神は土の塊から人間の男を創ります。そして、神はアダムを慰めるために、男の肋骨から女を創ったとされます。

 これに対し、日本神話では、イザナギ、イザナミという男女二神が協力して「国生み」をして、国土が誕生します。これらのニ神は、人間と同じ男女の営みをし、人間はその子孫として誕生したとされます。

 このように、日本では、男女・陰陽の「和」によって、国土や人間が誕生したと考えてきたのです。

 

 さてイザナギ、イザナミのニ神から生まれた子供が、天照大神(あまてらすおおみかみ)や須佐之男命(すさのをのみこと)です。

 須佐之男命は高天原を暴れまくりますが、弟の暴虐に対して、天照大神は争ったり、罰を下すのではなく、天岩戸に身を隠すという振る舞いをします。それによって、地上は闇の世界となります。

 この時、八百万の神々は、天の安の河原(あめのやすのかわら)に集まって、話し合いを行います。思金神(おもいかねのかみ)の妙策によって、天照大神を岩戸から引き出すことに成功し、世界は再び光を取り戻します。

 須佐之男命はその振る舞いのために、高天原から追放されます。しかし、天照大神と須佐之男命は後で和解し、大罪を許された須佐之男命は、出雲の地に下り「やまたのおろち」を退治する大活躍をするのです。(2)

 

 日本神話には、争いを避け、話し合いを重んじ、共存共栄を目指す「和」の精神が、さまざまな形で描かれています。そうした日本固有の精神を、「和をもって貴しとなす」と表現したのが、聖徳太子だといえましょう。

 そして「和」は、その後の日本人と日本の精神を考える際のキーワードとなっているのです。

 

 私たちは、こうした「和」の精神を発揮し、今日の世界の諸問題を、調和のある解決に導けるように努めたいものです。ページの頭へ

 

関連掲示

・神話と関係の深い神道については、拙稿「日本精神の宗教的表現としての神道」をご参照下さい。

参考資料

(1)井沢元彦著『逆説の日本史@ 古代黎明篇』(角川文庫)

(2)『古事記』『日本書紀』

 
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神話と歴史を貫く「和」の精神

 

 日本は「大和の国」と言われ、日本人は「和」を重んじる国民です。そのことを、私たちは、日本の神話や歴史の中に見出すことができます。

 日本神話には、天照大神の子孫がこの国を治めるようになる前に、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国を治めていたことが書かれています。大国主命とは、天照大神の弟で出雲に住みついた須佐之男命の子孫であり、「いなばのしろうさぎ」の物語の主人公でもあり。大国主命が治める国は、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれ、豊かで住みよい国でした。天照大神は、この国は自分の子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が治めるべきだと考え、大国主命に国を譲るよう求めます。大国主命はこれに従い、「国譲り」が行われます。この日本の国の起源を伝える話に、日本人の「和」の精神を見ることができるのです。

 

 天照大神は、話し合いによる「国譲り」を試み、建御雷神(たけみかずちのかみ)を使者として送ります。これに対し、大国主命は「私の一存では決められません。子供の事代主命(ことしろぬしのみこと)に聞いてください」と言います。親である大国主命は独断で物事を決めずに、子供の意見を尊重しているわけです。長男である事代主命は、国譲りを承諾します。しかし、弟の建御名方命(たけみなかたのみこと)は反対し、建御雷神に力比べを挑みます。結局、建御名方命は諏訪湖まで逃げたところで敗れ、国譲りに同意します。子供たちが同意したと聞いた大国主命は「私には何の異存もありません。この国を高天原の神にお譲りしましょう」と言い、「国譲り」は行われました。

 

 このように、「国譲り」は、話し合いを主として行われ、部分的に抵抗はありましたが、双方の合意という形で実現したと描かれています。しかも、単なる併合ではなく、譲り受けた側が譲った側に対し、最高の礼を尽くしています。国を譲ったとはいえ、おそらく大国主命には恨みが残ったことでしょう。それに対し、天照大神は、天日隅宮(あめのひすみのみや)という大宮殿をつくり、自分の第二子の天穂日命(あめのほひのみこと)を大国主命の霊に仕えさせます。この宮殿が、出雲大社の起源です。そして天穂日命の子孫は、出雲大社の宮司の職を今日まで継承しています。(1)

 

 神話の話など、空想か、都合よく美化された作り話だろうと考える方もいるでしょう。しかし、興味深いことに、「国譲り」の物語と明治維新とは、よく似ている点があります。幕末の日本で、朝廷と幕府は徹底的な争いを避け、交渉を重ねた末に、徳川慶喜は、天皇に大政を奉還します。慶喜はこのことを独断ではなく、家臣や諸大名の意見を聞いたうえで決定します。また、西郷隆盛と勝海舟が話し合い、江戸城は無血で開城されます。その後、部分的には会津藩や榎本武揚などが抵抗しましたが、全体的に見ると話し合いを主として、日本国の権力の移譲は行われます。

徳川慶喜は、大国主命のように祀られこそしませんでしたが、明治天皇から貴族に叙され、徳川家は名誉ある形で存続しています。初代将軍・徳川家康を祀った日光東照宮は、壊されることもなく、今日も多くの参拝者を集めています。こうした歴史上の出来事と、神話の物語が似ているということは、そこに一つの民族性が現れていると見ることができるでしょう。

 

 日本ではこのように遠い神話の時代から、「和」が重んじられてきました。私たちはこうした世界に希な「和」の精神を発揮し、世界の平和に貢献したいものです。ページの頭へ

 

参考資料

(1)古事記、日本書紀

 
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聖徳太子の「和」の精神

 

 「日本の心」の形成に大きな影響を及ぼした人物の一人が、聖徳太子です。 とりわけ太子が制定した十七条憲法は、日本人の考え方に大きな影響を与えてきました。

 十七条憲法は、憲法といっても今日のような国家の基本法ではありません。むしろ官僚の職務心得であり、同時に人間の踏み行う道徳基準を示すものともなっています。そのキーワードが「和」です。

 

 十七条憲法の第1条は、「和を以て貴しとなし…」という言葉で始まります。「和」を説く条文が、最初に置かれていることは、聖徳太子が、いかに「和」を重視していたかを示すものです。第1条には、次のようなことが記されています。

 「和は貴いものである。むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならない。人々が上も下も調和して、睦まじく議論して合意したならば、おのずから道理にかない、何ごとも成し遂げられないことはない」。

 太子は、「和」という言葉で、単なる妥協や融和を説いているのではありません。「人々が調和すれば、どんなことでも成し遂げられる」という積極的な理念を説いているのです。

 

 また、続く条文において、太子は「和」を実現するための心構えを説いています。すなわち、第10条では人への恨みや怒りを戒め、第14条では人への嫉妬を禁じ、第15条では「私」を超えて「公」に尽くすように説いています。

 そして、最後の第17条には、「独り断ずからず。必ず衆とともに論ずべし」と記されています。つまり、「重大なことは一人で決定してはならない。必ず多くの人々とともに議論すべきである」という意味です。これは第1条に通じるものです。

 

 このように聖徳太子は、十七条憲法で「和」を理念として打ち出しています。これは、古代においては驚くべきことでした。世界的に、強権による専制政治が当然の時代だったからです。そうした時代に、聖徳太子は、私利私情や独断を戒め、話し合いに基づく政治を説きました。これを「民主的」と言うならば、日本では、約1400年も前から「民主的な政治」が理想であったわけです。

 太子は十七条憲法を制定するにあたり、当時、シナから入ってきた儒教・仏教・法家等の思想を深く研究しています。そのうえで、キーワードにしたのが、「和」です。儒教には「和」という徳目はありません。徳目の中心は、孔子では「仁」、後代では「孝」「義」(=日本でいう忠)です。仏教にも「和」という徳目はありません。法家等でも同様です。太子は、外国思想を模倣するのではなく、独自の考えをもって、「和」の重視を打ち出したのです。そして、これは、日本人の行動原理を、見事に表したものと言えましょう。

 

 古来、日本人は、人と人、人と自然の調和を心がけてきました。国名を「わ」と呼んで「和」の字をあて、「やまと」には「大和」という漢字を使用したのは、「和」を重視してきた印でしょう。聖徳太子は、その「和」を憲法に明文化し、理念として確立しました。このことによって、日本人は「和」の精神を一層発展させてきたのです。

 近代日本の出発点となった「五箇条の御誓文」にも、聖徳太子の「和」の精神が生きています。第1条の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」がそれであり、第2条の「上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸(けいりん)を行ふべし」も同様です。聖徳太子の説いた「和」の理念は、千年の時を超えて、近代日本の建設にも生かされたと言えましょう。

 日本精神は、「和」の精神です。共存共栄の大調和の精神です。私たちは、こうした自己本来の精神を大切にしましょう。

 

ところで、日本人は和を重んじる民族性を持っていますが、戦後憲法のもとで「憲法第9条による和の精神」というわが国の歴史上かつてないイビツな状態が、わが国本来の和の精神であると錯覚に陥っている人が多いようです。しかし、実際には、わが国の和の精神は、外敵の侵攻は団結して排除する(元寇等)、独立自尊のためには戦いを辞さない(日清戦争、日露戦争等)、誇りを守るためにはタフな外交をする(幕末雄藩等)というものであって、非武装降参主義や事なかれ主義、事大主義、他者依存とは、異なります。大和の国であるわが国に、武士道という独自の文化が発達したことも、本来の和の精神が「憲法第9条による和の精神」とは異なることを証する事実の一つです。

和とは、単なる調和・均衡の状態ではなく、そのなかに力の躍動、陰陽の運動を包含する調和であり、動的な均衡と考えられます。防衛力を増強し、他国の侵攻を防ぐ抑止力を発揮して、平和を守るという政策は、こうした和を実現する政策です。また外交において、誇りを以て、国益を追求して他国と交渉し、高度な利益の均衡を実現するのも、和の精神による外交です。

この点を誤解すると、本来の和の精神を今日の日本と世界に生かすことはできないので、注意したいものです。ページの頭へ

 

参考資料

聖徳太子について詳しくは、以下の拙稿をご参照下さい。

聖徳太子に学ぶ政治・外交・文化のあり方

・武士道については、「武士道」のページをご参照下さい。

 
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人を許し、人を生かす「日本の心」

2006.10.06一部修正

 

 日本人は今日、一部の人から残虐非道な国民と思われていますが、そこには大きな誤解があります。むしろ日本人は、人を許し、人を生かして、共に調和して生きようとする心を大切にしてきました。日本史においては、政敵や逆賊であっても、外国のように殺されることが少なく、許されている例が多いのです。また、新政権において生かされている例すらあります。そうした例を通じて、日本の国民性を考えてみましょう。

 

 日本の歴史には、権力を極めた者であっても天皇の地位を奪って自ら天皇となろうとはしなかったという不思議な伝統があります。蘇我馬子、藤原不比等、平清盛、源頼朝、北条泰時、足利尊氏、織田信長、徳川家康など、みなそうです。わずかな例外の一つとされるのが、弓削の道鏡です。道鏡は、女帝孝謙天皇の寵愛をもとに、自ら帝位につこうと企んだとみなされ、失脚しました。外国であれば殺されて当然のところです。しかし、道鏡への処罰は、左遷されて、関東の辺地・下野(しもつけ)の寺の別当(寺務統轄官)にするという、ゆるやかなものでした。

 

 こうした「許し」の例は、明治維新の時にも見られます。最後の将軍・徳川慶喜は、朝廷との内戦を避け、政権を天皇に返す道を選びます。世にいう大政奉還です。朝敵であるにもかかわらず、明治新政府に許された慶喜は、その後21人の子供をつくり、長寿をエンジョイしました。これは、フランス革命において、ルイ16世がギロチンで殺されたことに比べると、実に寛大な処置です。

 勝海舟も、維新後の時代を生きた一人です。海舟は、慶喜の下で大政奉還を推進し、幕府に自ら幕を引かせました。しかし主君・慶喜に対し、そのことを非常に申し訳なく思っていました。そして徳川家が名誉を回復できるよう、尽力しました。その効あって、明治31年、ついに慶喜は、明治天皇の拝謁を許され、温かいもてなしを受けました。慶喜は公爵に叙され、養子・家達(いえさと)は貴族院議長、孫・喜久子は高松宮妃となり、徳川家は今日も繁栄しています。このことも、王族・貴族が子供まで惨殺されたフランスやロシアの革命とは、大きな違いです。

 

 勝海舟と意見を異にした榎本武揚は、官軍に最後まで抵抗する道を選びました。本州から北海道に渡った榎本は、蝦夷共和国を作って日本から独立。函館の五稜郭に立てこもって抗戦しました。しかし結局、敗れ、榎本は降伏しました。彼と戦った官軍参謀・黒田清隆は、榎本を「日本の将来に欠くべからざる人物」として、助命に奔走しました。その効あって釈放された榎本は、抜群の能力を生かして、新政府で外務・農商務などの大臣を歴任し、新国家建設に活躍しました。

 維新最高の英雄・西郷隆盛は、一時は新政府の中心となりましたが、その後、政府官僚の腐敗を憤り、郷里の鹿児島に帰って、西南戦争を起こしました。それは明治政府最大の危機となりました。敗れた西郷は、「明治の逆賊」と言われました。しかし西郷は死後、明治天皇の思し召しにより、正三位を追贈され、その功績を称えられました。上野には銅像が建てられ、西郷さんは今日も国民の尊敬を集めています。

 

 日本の歴史にはこのように「人を許し、人を生かす」例が多数見られます。それは日本人が、本来、深い思いやりと優しさを持った国民であることを示すものと言えましょう。

 こうした国民性は、文化や歴史の中に、様々な形で表われてきたものです。

例えば、節分の際に「鬼は外」と豆をまきますが、これは鬼やらいという行事です。たとえば、京都の吉田神社の場合、鬼やらいの行事は、鬼をやっつけるのではなく、鬼を説得して本来の住み家に帰ってもらうためのお祭りだといいます。そこには、シナの道教の「追儺(ついな)」という悪魔を追い払う儀式とも、西洋の悪魔祓いや魔女狩りとも根本的に異なる考え方が見られます。

わが国では、古代より保元の乱に至るまで約三百年の間、死刑が行なわれませんでした。元寇襲来の後、執権北条時宗は、筑前に高麗寺、鎌倉に菩提寺を建て千体の仏像を造って、敵味方の別なく戦死者の冥福を祈りました。島原の乱の後には、薩摩藩主・島津義久は敵味方双方の戦没者を弔うため、高い卒塔婆を建てて盛大な法会を開きました。日露戦争の後には、日本軍兵士の表忠塔よりも2年も前に、ロシア兵の慰霊塔建立がなされています。

わが国では、極悪非道の人間までも、死ねばすべて救われるという寛容と慈悲の思想も生まれました。死者はみな善人も悪人も仏と称して許されるのです。これは仏教というより、日本独自のもので、インド・シナ等の仏教には見られない考え方です。

 

人間の社会には争いはまだまだ無くなりそうもありません。自尊自衛のためには、戦わねばならない時もあります。しかし、世界平和を実現するためには、裁きと殺し合いではなく、寛容と共存が必要です。私たちは、「人を許し、人を生かす」日本の国民性に目を向け、良い伝統を世界のために生かしましょう。ページの頭へ

 
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