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  柴田賢龍密教文庫は真言密教に関わる教理・修行・修法・歴史について従来の定説・考え方に捉
われない自由な視点から論文・読み物を提供、更には法話や活動スケジュールも掲載します。

   
柴田賢龍プロフィール
SHIBATA KENRYU

柴田賢龍(しばた けんりゅう)
密教研究家。真言宗醍醐派僧侶。

昭和23年(1948)7月12日、大阪に生まれる。
東北大学理学部中退。
同59年12月21日、醍醐寺座主岡田宥秀師より伝法潅頂を受ける。その後、本山事務所勤務を経て研究活動に専念する。

著書:『訳注薄草紙口決 全二十巻』二冊、『日本密教人物事典』(副題:醍醐僧伝探訪)上・中・下三巻(下巻は未刊)、その他。
法話
法話第二集
 お知らせ



真言立川流に付いての三部作

立川流については「邪教」或いは「性の宗教」と云った見当はずれな説明が横行し、辞典あるいは諸論文の記述も曖昧(あいまい)で誤解と混乱を招くようなものが多々見られます。その理由の多くは不用意に誤った通説を踏襲して、基礎的史料の検討を怠ってきた事に起因していると考えられるのです。此の問題は最初大正大学の櫛田良洪教授によって採り上げられ、最近では弥永信美氏が通説の非を盛んに訴えておられて、幾分か変化の兆しが生じているようです。 
実には平安時代白河院政期の醍醐寺僧仁寛を祖とする真言立川流すなわち醍醐流仁寛方は他の諸法流と比較して格別に風変わりなものでも無いのですが、結果として鎌倉時代中期に実際に存在した異様な性的儀礼を信奉する「内三部経流」と称すべき一集団と混淆(こんこう)されるに至りました。その理由と経緯は簡単なものでは無く、また十分に解明されたとは言い難いのですが、ここでは基礎的史料に立ち返って此の問題を根本的に解決しようとした論文三篇を収めています。印信・口決類の和訳を多用しているので、此の種のテーマに取り組んだことが無い方には多少読みづらいかも知れません。

(1)

醍醐三宝院流の支流である意教流慈猛方(じみょうがた)の祖として知られる空阿上人慈猛(1212-1277)が審海に授けた醍醐流仁寛方の潅頂印信類を中心に鎌倉の金沢称名寺に蔵される立川流聖教を和訳して簡単なコメントを付しています。審海は真言を兼学する律僧、いわゆる真言律僧で称名寺の開山です。
仁寛方の潅頂印信類を検討した上で、それが邪教とされる「立川流」の教義と無関係である事、「立川流」に関する俗説は「内三部経流」との混同に起因する事などを簡単に解説しています。
追加掲載記事:宝篋上人相伝の「一心潅頂印信」について / 瑜伽瑜祇理潅頂について / 「理智冥合」潅頂印明の事 / 「光明潅頂印信」の事

(2)

空阿上人慈猛の師である意教上人頼賢(1196-1273)は三宝院流意教方の祖として大変有名な人ですが、金沢文庫には頼賢の弟子公然が師より伝受した三宝院流の秘訣を記した『阿闍梨位口伝〔私〕』なる写本が蔵されています。此の中に立川流すなわち醍醐流仁寛方に付いての貴重な証言が含まれています。
先ず最初に上の『口伝』の全篇を和訳して示し、その後で頼賢の立川流相伝のことに付いて解説しています。
追加掲載記事:現代語訳『阿闍利位口伝〔私〕』

(3)

浄月上人は慈猛や頼賢に立川流を伝授した真言僧ですが、従来此の人に付いてはほとんど注意が払われてきませんでした。しかし『箕面市史 史料編一』に収載する勝尾寺文書には浄月上人に直接関係する文書が少なくとも八通あり、上人が摂津国本住吉社(神戸市東灘区住吉宮町)の有力者であり勝尾寺東谷に自らの持仏堂を建立した事などが分かります。残念ながら弟子に授けた潅頂印信は非常に簡単な略本が一通あるだけですが、その標題から上人が慈猛に授けた印信と同じものである事が確認できます。
追加掲載記事:沙門某作の「心定撰『受法用心集』序に付いて」 / 三輪上人慶円の立川流相伝の事(其の一)、(其の二)

愛染明王に付いて

(1)

愛染明王に付いては真言密教の根本典籍とされる大日経・金剛頂経にその記載が無く、金剛頂経より派生したと考えられる瑜祇経にその本説を見出すことが出来ます。瑜祇経自体は早く弘法大師によって中国から本邦に齎(もたら)されましたが、愛染明王を本尊とする供養法(修法/しゅほう)は真言僧の個人的修行を目的に行われ、天皇の御願成就を始めとする国家的目的の為に此の法が修される事はありませんでした。また平安時代中期を通じても同明王像の造立に関する確実な史料は存在しないと思われます。
ところが白河天皇が建立した法勝寺には愛染明王を本尊として祀る(八角)円堂が建てられ、同上皇の院政期にはそれまでと打って変わって同明王の御修法(みしほ)が盛んとなり、多数の彫像・絵像の制作が行われるように成りました。本篇はそうした変化をもたらした特異な政治的事情と愛染明王信仰との関係に付いて述べています。
さて愛染明王は密教の諸仏・諸菩薩を網羅した金剛・胎蔵両部曼荼羅の中にその姿を見出すことが出来ません。それでは同明王は密教の教理体系に於いていかなる位置を占めるのでしょうか。本篇の後半は此の問題について簡単に論じ、幾つかの視点を提供することを目的としています。
追加掲載記事:白河院の御子の僧侶達

(2)

醍醐寺を中心に発達した真言小野流に於いては12世紀の鳥羽院政期の頃に、愛染明王と金剛薩埵とは同一尊であると云う口決が確立していました。是はまた金剛薩埵の法門である『理趣経』と愛染明王の唯一の本経である『瑜祇経』との密接なる関係を示唆しています。普通には此の事は当時真言諸流に於いて成立した夥(おびただ)しい口決類の一つに過ぎないと考えられているようですが、実には唐代後期の中国に於いて既にこうした考え方が存在していた可能性があります。
本篇では此の問題に付いて、平安時代初期に慈覚大師円仁と禅林寺僧正宗叡が請来した『理趣経曼荼羅十八幀(ちょう)』なる曼荼羅集を手懸りとして平安後期の醍醐の口伝類を参照検討しましたが、未だ包括的な見地から十分なる考究をするに至っていません。
又た内容の半ばは『理趣経』の概説に費やされていますが、その理解は主として不空三蔵の『理趣釈』により適宜私見も交えて作成したものです。その際、教理的説明を出来るだけ避けるようにし、一方で余りに通俗的と成らないようにも心懸けました。



中世室町時代に制作された宝珠型の舎利容器を安置する厨子の内側に、左右向き合って不動・愛染二明王が描かれている作例が幾つか知られています。是は両尊を金胎両部の教令輪身(調伏尊)に擬しているのです。又同時代の神祇口決に於いては、両尊を以って両部大日に準じる思想がみられます。この様に愛染と不動の二明王を互いに相補的、或いは一体と考える口伝は、仁和寺に於いて平安時代の末葉には既に成立していましたし、亦醍醐寺に於いてもその事は知られていたようです。
しかしながら、元来この二明王を結び付ける教理的な根拠は存在しないと云えます。両部の教令輪身を不動(胎蔵)と降三世(金剛界)とする事は教理上動かし難い定説であり、そもそも『瑜祇経』所説の愛染明王を両部曼荼羅の諸尊中に見出す事は出来ないのです。それでは、いつ頃、どうして愛染王が降三世明王にとって替り、不動・愛染両尊が一対の尊格であるかの如く考えられるようになったのでしょう。本篇では愛染・不動一体の口決に付いて、その成立から影響に至るまで様々な角度から検討を加えました。
(制作中です)

読み物

昨年(2008)末から何回か「三密ユガ」或いは「ユガ相応法」と称して、一般の人を対象にユガ行の手ほどきをしてきました。ユガとはヨガの事なのですが、古くはサンスクリット語のyogaを漢字に移して「瑜伽(ゆが)」と言っていたのです。本編は短い簡単な読み物ですが、ヨガと云わないでユガと云う理由、その本来の目的や仏教/密教との関わりに付いて自由な視点から書き記したものです。
追加掲載記事:分かりやすい三密ユガ


中世寺院史という学問分野があります。現在のところ史料の関係で京都の真言宗寺院に関する研究が多いのですが、全国的に寺院史料の整理保存が盛んに行われて史料集・文書目録等が相次いで刊行され、今後の大なる研究成果が期待されています。しかし荘園関係の研究などと較べると、此の分野に於いてはまだまだ基本的な問題の検討が不十分であると言えます。本欄では中世寺院史に関わる事柄を中心に密教全般を含めて、従来あまり研究のメスが入っていなかった重要あるいは興味ある事項を取り上げて簡単な読み物としています。
(製作中です)


此の第2集では事相・教相全般に関わる真言教義を中心に幅広いトピックを取り上げて行きます。前集と同様に、従来あまり密教研究者に注目されて来なかった興味ある事柄について、学術的に正確でありながらも理解しやすい内容となるよう心がけています。

連載読み物
(完結)

宝性院宥快法印(1345―1416)は高野山が輩出した数多い学匠の中でも中世の真言教学大成者として、醍醐・根来の頼瑜法印、東寺の杲宝(ごうほう)法印と並んで著名な学僧です。その学系は宝門学派と称され、無量寿院長覚を祖とする寿門学派と共に高野山の教学を二分しました。
『東寺真言宗血脈』は宥快の口説を弟子の宥信律師が記した書で、丹後国(京都府北部)成相寺(なりあいじ)に於いて口述された事に因んで『成相記』とも云います。内容は醍醐寺三宝院流の意教上人頼賢方の相承血脈(けちみゃく)に付いて解説したものです。真言八祖より始めて三宝院流を大成した勝賢・成賢両僧正について記し、数多い成賢の弟子の中でも意教上人頼賢(1196―1273)こそが師伝の精要を相承していると主張しています。意教上人にも多数の弟子がいたけれども正嫡(しょうちゃく)の弟子は願行上人賢静(憲静)であり、その法流は憲淳僧正を介して宝性院玄海(1267―1347)が相承した。その間の経緯を述べるのが本書の眼目であり、読む者をして最も興味をそそられる点でもあります。
手短に言えば三宝院流の肝要は宝性院玄海に伝えられ、それを今は自分宥快が相承していると主張しているのです。我田引水の感が無いとは言えませんが此の種の血脈書にあっては自派自流を最高のものと強調するのは当然とも言えるでしょう。内容には一部明らかに客観性を欠いた記述も見られますが、それらに関しては連載終了後に解説します。

(連載中)
一般の仏教史では「鳥羽僧正」と云えば天台座主にもなった三井寺の覚猷(1053ー1140)を指しますが、真言宗史では覚猷より一世代先輩になる小野曼荼羅寺の範俊僧正(1038ー1112)のことです。範俊は白河上皇(1053ー1129)に見出されてその寵僧となり、鳥羽殿の壇所(修法堂)に於いて日夜上皇の玉体護持に精励しました。その甲斐あってか白河法皇は齢(よわい)七十七の宝算を全うし、範俊自身も晩年には東寺長者に補任(ぶにん)して真言僧としての栄達を極めることが出来ました。範俊は又従来の教説に捉われない斬新な秘密修法を工夫創案して真言宗界に新風を吹き込み、白河・鳥羽院政期の真言御修法(みしほ)に精彩を与えて以後の小野法流の展開に大きな影響を与えました。

研究報告

(「金沢文庫」とあるのは正確には「金沢文庫保管重文称名寺聖教」の事です) 

現在金沢文庫が保管して国の重要文化財に指定されている「称名寺聖教」は鎌倉時代中期から南北朝時代に至る間に書写された貴重な真言密教関係典籍の宝庫であり、その中には高野山や京都の真言宗寺院に於いても類本を見出すのが困難な史料も数多くあります。今から紹介する金沢称名寺第二世剱阿の収集になる一群の理性院流宗命方聖教も現在では目にするのが難しい書物ですが、断片的ながらも初めて内容の一端を紹介したのは『駒沢大学仏教学部研究紀要』50~52に収載する高橋秀栄「平安・鎌倉仏教要文集」です。私自身も此の記事に触発されて調査研究を思い立ったのであり、高橋氏の業績には深く感謝しなければなりません。
さてブログの『柴田賢龍密教文庫「研究報告」に於いて既に金沢文庫の宗命方聖教に関する概要を紹介しましたので、本編に於いては中古の真言宗史から見て興味と話題性のある事柄を中心に現代語訳(一部意訳)して内容を抄出して紹介します。
猶『金沢文庫古文書 識語篇』を見ると他にも宗命方の次第類が相当数あるようですが、それらに付いては後日に上記ブログで報告する予定です。(平成21年3月24日)



金剛王院大僧正と称され東寺長者にもなった醍醐寺座主実賢(1176ー1249)が弘法大師作とされる『御遺告(ごゆいごう)』の説に基づいて自ら能作性(のうさしょう)の如意宝珠を造顕した事を記す貴重な記録です。短篇ですが重要な証言が幾つかあります。「解説」では如意宝珠造立に関する前例に付いても紹介しています。特に実賢が模範とした勝賢僧正(1138ー96)の事例に付いて、当時の史料を使って検討を加えました。
ブログの『柴田賢龍密教文庫「研究報告」』には国訳(和訳)を掲載しています。合わせて御覧下さい。


大日本古文書の家分け19『醍醐寺文書』第二巻には、第410号から第413号まで二条天皇の第三宮空聖(1163頃―86―)の起草になる寿海阿闍利(1164頃―1228)宛ての四通の処分状(譲状)が載せられています。これらは醍醐寺遍智院の伝領をめぐる同寺座主勝賢(113896)と三宮空聖の相論(訴訟)に関する基本史料であり、従来ほとんど指摘される事が無かった様々興味ある問題を含んでいます。


東大寺真言院は弘法大師によって創建されたものの平安時代中葉には荒廃して一時期廃絶に帰した為、その詳しい由緒・歴史は不明の点が多いと云えます。同院は鎌倉時代になって中道上人聖守(1219ー91)により再興されましたが、その頃と相前後して弘法大師が同院に仏舎利或いは如意宝珠を埋納したと云う伝承が流布するようになりました。醍醐寺三宝院流に於いては鎌倉時代初頭に仏舎利と如意宝珠を同体とする口決が成立しましたが、聖守は同流憲深方(報恩院流)の聖守方(真言院流)の開祖とされています。此の小論では東大寺真言院と舎利/宝珠埋納に関する史料を分析検討して此の伝承に付いて考えます。


毎年節分前後に「星祭り」と称して多くの真言宗寺院で行われる厄除け祈願の法会は、正式には「当年星供(とうねんしょうく)」と云い、是はその年一年(当年)の星を本尊として祀り供養する密教修法の一種です。即ち諸個人の一年間の運勢を左右するとされる特定の星(神)を招いて供養接待し、祈願者の無事息災・増長福寿等の意向を伝えて成就を祈るのです。しかし此の当年星供の修法に用いられる真言は専ら師資相承の口伝に依拠し、古来その本説に付いては疑問とされていました。特に諸星の各別真言の本説を尋ねる過程では、一行(683ー727)撰述とされる経軌類、智證大師円珍撰『佛母曼拏羅要集』、作者不明の『梵天火羅九曜』、或いは奝然(938ー1016)請来『胎蔵儀軌』等、普段余り耳にしない典籍に遭遇して興味深いものがあります。


昨年(平成26年)12月に京都に於いて宿曜経研究会の主催で「星供供養法成立の歴史」と題して講演させて頂きましたが、限られた時間で多肢にわたる内容を取り上げた為に、全体としてやや一貫性に乏しい講義になりました。本稿ではその反省の念に立って、標題の視点から新たに原稿を執筆しました。平安時代後期の貴族社会では、世俗の願望を北斗七星に祈る密教修法である「北斗法」が盛行しました。しかし北斗七星は中国の星座であってインドでは知られていませんでしたから、中国や本邦の撰述を別にすれば密教経軌に記載はありません。北極星(北辰/妙見)に対する関心も、中国と較べればインドに於いては希薄であったと言わざるを得ません。従って北極星や北斗七星はどのような経緯をたどって密教の修法大系に組み込まれたのかが問題になります。


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